明治維新と郷士制度
郷里鹿屋の城下士族没落者転住と郷士社会を考える

武門の倒壊と郷士の帰属
幕府が倒れて明治維新となると共に、郷士制度も廃止されその影を止めない事になったのですが、この廃滅した事情を按ずるに封建制度が崩壊したのは言う迄もなく、武門の実権が退廃してその力を失った結果であったのです。
明治維新と郷士の関係については、先ず彼等が
維新後に於いて社会階級者として、如何なる取扱いを受けたかを観ると共に、維新経済上の変遷に際し、彼等が如何なる措置を以って、これに順応したかを見なければならないでしょう。

維新後、大政奉還がなされ維新政府は取敢えず旧藩の地域を以って地方政治の単位とし、旧藩主を以って藩知事としましたが、これは当面の方策であったので永続きする筈もなく、その頃の急進思想であった「旧を棄て新に就く」の勢いは斯かる過渡的施設を一日も早く放棄させるだけでは止まなかったのです。

即ち明治4年7月14日には廃藩置県令が下されたのですが、これは明治政府が旧来の武門政治に対し最後の薙刀を振りかざして数百年来の根を刈り取ったものであったのです。

既に明治元年、各藩は大政を奉還しましたが、以後旧藩の名称は依然として残り、且つ旧藩主が在来のままに藩知事である間は名は新政府治下の一行政区であり、また身は一地方長官であっても、その藩の組織及びその官吏は全て旧藩時代そのままを踏襲したものでしたので、封建の旧弊は依然として地方社会に残り、為に新制公布に際し妨害するものも少なくなかったと云います。

遂に明治4年中央政府は意を決して、全国の藩知事制度を廃止し、且つその知事たる旧藩主を東京に招致し、その跡に直に県と郡を置き、その長官としては政府より信任された新人物を配し県には県令または権県令、郡には郡長、村には戸長及び副戸長を置き一新されたのです。
こうして
維新前後に於ける地方社会の変革は寧ろ明治元年ではなく、明治4年の廃藩置県の実施された時と見るのが至当であろう。

ここに、明治維新と言う空前の政変に遭って武士を中堅とする封建制度は瓦解し、永年蟄居閉住を余儀なくされていた旧公家諸家である文権の末流と武権の後継者とが同一の社会階級で落合い明治時代にその余光を放つ事になったのです。
そして藩主が東京に招致された後、
各藩の士族もまた、各府県に属され、最初は家禄米を給与してその生活を維持さしめていましたが、後には金録公債証書を交付して家禄米に代えたのです。

斯かる間に在って、郷士たる在郷の武士は如何なる取扱いを受けたかと言うと、彼等が元来その社会上の身分としては武士ではあったのですが、実際は必ずしも武士とは見得ず面もあり、戸籍編成に際し、全国の所謂、郷士を士族とするか、平民とするかに於いて、当時、戸籍に関する事務は大蔵省の所管に属していましたが、その歴史的事務に関する顛末は、従来、由緒あって郷士と称えた者はこれを士族に編入する事とし、遂に明治5年2月14日太政官布告第44号を以って布達して郷士の帰属すべき族籍を定めたのです。 


郷士士族へ入籍の儀、史官へ御回答案(輔より史官宛)
郷士の輩士族へ編入の儀に付見込可申遣旨御書面の趣承知致し勘弁の処、郷士と唱候者の内由緒格別にて夫々取調候半面者一概に士族へ難加とのことに有之候間、御布告案中郷士と称し、旧来家筋由緒有之候など御改相成候方可然存候其外存寄無之如何の回答候哉

従来郷士と称し由緒有之候者は士族入籍可被仰付候条委細取調書を以って大蔵省へ可伺出事
            (大蔵省扶録処分参考法規)


各藩に於ける旧郷士は明治維新の際悉く士族となった訳ではなく、その士籍に列せられた者は一藩の防備制度として特に置かれた郷士か、または各地に散在していた苗字帯刀御免の旧郷士が自ら進んで士族に列せられる事を政府に申請した者等のみに限られ、自ら手続きを為さない者や地方府から意義あった者等は士族に列する機会を失い平民籍に編入させられたのです。


旧郷士と新社会
封建制度の倒壊した後の一般士族の経済生活は実に惨憺たるものであったと云いいます。彼等は既に旧藩時代に藩庫の財政が底を尽き、その生活は頗(すこぶ)る窮迫していたにも拘らず、更に僅かな金禄公債を交付せられて急変した新社会の生活に身を置くしかなかったのです。

新士族中、温順無策の者はその給与せられた公債の利子によって生活を補っていましたが、多少の野心を抱く者は商工業にその手を染めたのですが、何れも所謂
士族の商法で失敗に終わって資本を失うのが大半でした。
斯くして彼等は前年迄は馬に乗り槍を立て、平民に対しては土下座の礼をも為さしめていたのが、今や貧困に迫って街頭に人力車を曳く者もあったと云います。

旧城下士が新社会の経済生活に失敗を重ねて資産を失い、流離惨落
中にある時、明治新政府はこれ等無産士族の救済策を講じ、或いは彼等を新開地に送り授産制度を立てて農業に従事せしめ、または、官吏に登用し、巡査に採り、或いは小学校教員とするなど、種々の方策を立てて、漸(ようや)く彼等の不平を緩和するを得たのです


旧城下士
が維新後七転び八起きの内に時勢の変遷に処せねばならなかった間に在って旧郷士の輩は如何なる境遇に入ったかと云うと、彼等は既に数百数十年来郷村に在住して百姓に似た生活を営み、維新改革の後に在っても、その旧来の持地は全部自己の所有地と認められましたから、この土地を経営しさえすれば別に生活に窮する事はなかったのです。

即ち、地租改正の時に当たり、政府は旧来の郷士の経営してきた
土地に対してはその所有権を認めたのである
旧城下士であった新士族が新社会に於いて悲惨なる生活を営む時に、田舎の旧郷士は引続き農村に留まり、先祖相伝の土地を耕し、自ら給して自ら足りる事を得たのである。

顧みれば彼等は敢えてその生活が庶民である百姓に似ている事で、城下武士から軽視せられ、同じ武人の階級にありながらも一段下位に立つ事を余儀なくせられていたのですが、一朝封建社会が崩れて明治時代になり、その地位が俄然転倒し、旧城下士の多くが経済上の窮乏により四方に離散したのに反し、彼等は却って泰然として自村に踏み止まり、その伝統的家系の高い事を誇りつつ、村人の尊敬を博する事を得たのです。

而して、経済上に於いて比較的優位を占め得た彼等は如何に新社会に活動したかと云うと、
彼等は元来武士として農村に在住して居ましたから、その社会的地位が優越であったのと、読書・学問を楽しむ余裕のあった事、及びその村政を任せられた者にあっては、藩庁その他の上司と常に通信を交え、且つ、互いに来往する機会がありましたので、文学素養自ら備わって、識見一郷に秀づる者が多く、

したがって廃藩置県の後、旧郷士にして村内に留まる者は戸長、副戸長やその他の役人を勤めるに到り、
今日でも鹿児島県下を通じて農村社会を始めとしてその中堅をなし、村落の社会組織は全く旧郷士を以ってその固めとする風のあるは実に数百年来の伝統的遺風が今尚民心を支配していると言っても過言ではないでしょう。

以上の如く、明治維新は封建制度の崩壊に依って生まれたものであって、これを社会的に言えば武門の刈除であり、、経済的に言えば土地生産に従事して居た農民の土地に対する開放であったのです。而して土地に対する開放、言葉を換えて言えば百姓に対する搾取政策の廃絶は、

一面武門武士が生活の根拠とした米給付者たる農民との経済的絶縁を意味するものであれば、
旧城下士の輩が当時仮令政府から若干の公債を発行せられたからと言って、その生活上に非常な窮迫を伴ったのは言うまでもありません。ましてや、彼等は商法に手を出して失敗を重ねて悉く資産を失い、殆どが四方に離散の憂き目にあったのです。

然るに旧郷士等が維新改革に依って失ったものは、単に武士格たる社会的名誉ばかりであって、その地方の地主、自作農としての特権は依然として保つ事になったのである。
詰まる所、明治維新での新たなる支配者は現在の地方の行政組織や地方社会を俯瞰すると郷士と言えなくもありません。



参考文献:国立国会図書館蔵 郷士制度の研究(大正14年)

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