第36講  鎌倉時代(8):皇統分裂 
 



               鎌倉時代(8): 皇統の分裂

  [1]皇統分裂
   1)後嵯峨天皇の即位(1242):
    第3代執権北条泰時は1238年将軍頼経に随行して上洛し皇位の継承問題に介入、後嵯
    峨天皇を即位させた。すなわち幕府は承久の乱(1221)後、後鳥羽上皇ら三上皇を配
    流とし仲恭天皇(在位:1221.4〜7)を廃して,それと別系統から守貞親王の子の後堀
    河天皇(在位:1221〜32)を擁立するとともに、天皇即位歴のない守貞親王が後高倉
    院として院政を開始(1221〜23)。しかし後堀河の子の四条天皇(在位:1232〜42)
    が後嗣なく1242年に没したため後継問題が浮上。当時候補者としては土御門天皇の皇
    子の邦仁親王と順徳天皇の子の忠成親王の二人であった。忠成親王は西園寺公経と九
    条通家を外戚としておりはるかに有力であったが、父順徳天皇が当時佐渡で存命中で
    あり忠成親王の即位が上皇の帰京・院政につながる可能性もあったため泰時は邦仁親
    王を選択して後嵯峨天皇として即位した。土御門天皇は承久の乱には関与していなか
    ったことから当然の選択ではあった。 │
   ※後嵯峨天皇(1220〜72:在位1242〜46):
    父は土御門天皇。名は邦仁。四条天皇(位1232〜42)の急死により当時執権であっ
     た義時が擁立。後深草天皇に譲位後、亀山天皇の在位中も1272年まで院政を行い政
     務を掌握、院評定衆が導入され、朝廷側の訴訟制度が充実された。
   2)持明院統と大覚寺統:
    後嵯峨天皇は長子久仁親王(後深草天皇:在位1246〜59)に譲位して後嵯峨院政が開
    始された(1272年に没するまで)。後嵯峨院は次子恒仁親王(亀山天皇)を寵愛し皇
    位につけようとした。そこで皇室領荘園群などの分割を条件に後深草天皇を1259年に
    退位させ、亀山天皇(在位1259〜74)を皇位につけた。さらに後深草の皇子の熙仁親
    王(伏見天皇)をさしおいて、亀山の皇子で生後1年の世仁(後宇多)を皇太子に立
    てた。そのため後深草天皇と亀山天皇の対立が深まり、皇統の分裂の端を開いた。 │
    <論述>皇室の荘園について
     後深草天皇の持明院統(後深草天皇の居所に由来)は長講堂領(180ヶ所の荘園)を
     継承。一方亀山天皇の大覚寺統(子の後宇多天皇の居所に由来)は八条女院領(
     220ヶ所の荘園)を継承。
     ※長講堂領:
      後白河法皇の長講堂(法皇の六条御所の持仏堂であった法華長講堂阿弥陀三昧堂
      )に寄進しておいた荘園群が1192年の法皇の崩御後、(法皇が寵姫丹後局に生ま
      せた)宣陽門院が法皇の処分状によって譲り受けた。彼女は1252年に没するまで
      この荘園群を守り通した。この荘園群は結局は宣陽門院没後はその猶子(名義上
      の養子)となった後深草天皇に伝えられることとなった。
     ※八条女院領:
      鳥羽法皇によって集積された荘園群が法皇の寵妃美福門院が生んだ皇女八条院に
      伝えられたもの。美福門院の所領や八条女院が直接寄進を受けたものなども加わ
      り厖大なものとなる。八条女院の没後は、春華門院昇子、続いて順徳天皇と伝え
      られたが、承久の乱により後鳥羽院系のあまたの荘園とともに幕府に没収された。
      そして幕府はこの八条院領を乱後、後高倉院につけ、1223年にはその皇女である
      安嘉門院邦子へと伝えられた。この安嘉門院は1283年まで荘園の名義人として生
      きた。
     ※結局後嵯峨院が崩じた1272年の時点では長講堂領は後深草天皇の手中にあったが
      八条院領は依然安嘉門院の手中にあったから両派の対立の懸案の一つとなった。
   3)両統迭立:
    a)後嵯峨没後に亀山・後宇多と大覚寺統の天皇が二代続く:
     後嵯峨法皇は院政の後継を定めることなく、すなわち「治天下」については幕府決
     定に委ねる形のまま1272年に死去。幕府は使者を上洛さっせて故後嵯峨法皇の内意
     について、後嵯峨法皇の中宮であった大宮院に証言をもとめてこれによって、(後
     深草天皇の院政は開始されず)亀山天皇の親政となった。そして亀山天皇は1274年
     に幕府の口入によって長子の世仁親王に譲位して世仁親王は後宇多天皇(在位1274
     〜87)として即位、亀山上皇は院政を(1274〜87)を開始。
    b)幕府の仲介により後深草(持明院統)の子熙仁親王(伏見)が立太子:
     亀山・後宇多と大覚寺統の天皇が二代続いたため後深草天皇の持明院統が強い不満
     を示した。そのため一半の責任を感じた執権時宗が後深草・亀山両天皇に了解をと
     りつけた上でて妥協策を出し、後深草の皇子の熙仁が亀山天皇の猶子ということに
     して皇太子の位についた。これが両統迭立の端緒となった。
     ※八条女院領の大覚寺統への継承(1283):
      後深草の持明院統にはすでに長講堂領が伝えられていたが、八条女院領は名義人
      の安嘉門院が存命中であったため、その伝領が懸案となっていた。1283年に安嘉
      門院が明確な相続人もないままになくなると亀山院はこれを手中に収めようとし
      て鎌倉に使者を送り、概して両系統の対立に中立的であった幕府は亀山院の意向
      を受けて八条院領は亀山院の手に帰した(1283)。
    c)伏見天皇即位と後深草院政・伏見院政へ:
     立太子した熙仁親王は1287年に伏見天皇として即位(在位1287〜98)し、念願の後
     深草院政(1287〜1290)が実現。翌1288年に生まれた皇子胤仁親王が1289年に立太
     子。1298年に胤仁親王が即位して後伏見天皇(在位1298〜1301)となり伏見院政(
     1298〜1301)が開始された。
     ※伏見天皇即位の経緯:
      一方亀山院と折りがあわず後深草院に接近していた西園寺実兼の働きかけもあっ
      て幕府(当時は平頼綱の専制時代)は後深草上皇の要求を受けて、後深草上皇の
      院政たるべき由の幕府の意向を示し、これにより後宇多天皇が後伏見天皇の子の
      熙仁親王に譲位して伏見天皇が誕生。
    d)大覚寺統の不満:
     伏見・後伏見と二代にわたって持明院統からの即位となったため、今度は大覚寺統
     の不満が強まった。また久明親王が1289年に皇族将軍となった。
     ※久明親王の皇族将軍就任(1289):
      第7代将軍惟康親王(宗尊親王の子)が執権の北条貞時により廃されて、後深草
      天皇の皇子で伏見天皇の弟の久明親王が第8代将軍として迎えられることとなる。
     ※伏見天皇暗殺未遂事件(1290):
      亀山院が関与したとされるが疑惑を残したまま事件はおさまった。同年後深草院
      は院政を停止して伏見天皇の親政が1298年まで続くこととなる。1298年に伏見天
      皇は子の胤仁親王に譲位して後伏見天皇が即位。
    e)両統迭立の開始:
      この1298年には両派の幕府に対する裏工作は熾烈を極めたが、ここで大覚寺統に
      も同情すべき点があると考えた幕府は、後宇多天皇の皇子である邦治親王を皇太
      子とする方針としてそれが実現。そして皇太子邦治は3年後の1301年に践祚して
      後二条天皇(大覚寺統:在位1301〜08)が誕生。皇太子には持明院統の富仁親王
      が立つが、後二条天皇が若年で崩御したため1308年に富仁親王が践祚して花園天
      皇(在位:1308〜18)となる。次は大覚寺統の順番であったが、当時天皇家の惣
      領であった後宇多法皇は後二条天皇の遺児邦良親王が病弱であったこともあり、
      後二条天皇の弟の尊治親王(後醍醐)を皇太子とした。 │
    f)文保の和談(1317):
      花園天皇在位中の1317年、幕府は次のような妥協案を出した
      イ)花園天皇が譲位して皇太子尊治親王が践祚すること。
      ロ)今後在位年数を十年として両統交替すること。
      ハ)次の皇太子は邦良親王とし、次を後伏見上皇の第一子の量仁親王とすること。
     このハ)の点で両統とも納得しなかったため幕府は「幕府は今後皇位継承に介入し
     ない代りに皇位は両統の和談で決すること」とする案を申し入れたが両統はこれ
     を受け入れなかった。
    g)後醍醐天皇の誕生(1318):
     1318年花園天皇が譲位して後醍醐天皇誕生した。当初は後宇多天皇の院政であっ
     たが1321年から親政。
     ※後醍醐天皇は後宇多天皇の第2子であったが、祖父亀山天皇のもとで育った。
      当時としては即位時に異例の壮年(31歳)であった。 │

     <論述>皇統分裂の要因:
     イ)後嵯峨天皇が院政のあとを誰にするかを定めずに(幕府に預けて)死去したこ
       と。
     ロ)天皇家の惣領たる者に政治的・軍事的権力がなかったこと。
     ハ)皇室領の相続問題や近臣間の権力争いが重なって両統対立が激化したこと。
     ニ)承久の乱以降、当時幕府が皇位の継承に大きな発言力をもっていたこと。

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 後白河─┬二条─六条
        ├以仁王─北陸宮
        │     ┌安徳
        └高倉─┴守貞親王(後高倉院)─後堀河─四条
          ‖          ┌土御門─後嵯峨(邦仁)┬宗尊親王
           ‖――後鳥羽 ─┼順徳┬仲恭         ├久仁(後深草)
        七条院         |    └忠成親王      └恒仁(亀山)
                   └六条宮
-----------------------------------------------------------------------
   ---------------------------------------------------------------------------
       ┌宗尊親王─惟康親王
       │         ┌後伏見┬(1)光厳┬(3)崇光
       │    ┌伏見┼花園  └(2)光明└(4)後光厳─(5)後円融─(6)後小松─称光
   後嵯峨┼後深草┤    └尊円法親王
       │    └久明親王─守邦親王   ┌護良親王
       │                     ├宗良親王
       └亀山─┬後宇多─┬─後二条   ├恒良親王
             └恒明親王└─後醍醐─┼成良親王        ┌─長慶
                             └後村上(義良親王)─┴─後亀山 
   ---------------------------------------------------------------------------
      ※鎌倉将軍即位順→(6代)宗尊親王(7代)惟康親王(8代)久明親王(9代)守邦親王
      ※天皇即位順:( は持明院統=北朝)
       88後嵯峨→89後深草→90亀山→91後宇多→92伏見→93後伏見→94後二条
       →95花園→96後醍醐→97後村上→98長慶応→99後亀山→100後小松→101称光
      ※(1)〜(6)は北朝即位順
      ※南朝即位順→(1)後醍醐(2)後村上(3)長慶(4)後亀山
      ※後小松天皇、後亀山天皇の間で南北朝合一(1391)

    ※後深草天皇(持明院統:1243〜1304:在位1246〜59):
     名は久仁。父は後嵯峨天皇。母は西園寺実氏の娘。在位中は後嵯峨上皇が院政を
     とり1259年に弟の亀山天皇に譲位。1287年子の伏見天皇の践祚とともに院政(1290
     年まで)。
    ※亀山天皇(大覚寺統:1249〜1305:在位1259〜74):
     名は恒仁。父は後嵯峨天皇。1272年の後嵯峨法皇の没後親政を行い、1274年に後宇
     多天皇に譲位後も13年間にわたり院政を行い、院評定制の改革などを行った。1283
     年八条院領を継承し自統(大覚寺統)の基礎を固めた。1287年皇統が持明院統に移
     ると1289年出家。1290年の伏見天皇暗殺未遂事件に関与したとされる。
    ※後宇多天皇(大覚寺統:1267〜1324:在位1274〜87):
     名は世仁。父は亀山天皇。後宇多天皇のあと、伏見・後伏見と持明院統が相次いで
     即位したことから幕府に要求して自分の血統に皇位を取り戻し、後二条の治世(1301
     〜08)と後醍醐天皇の治世(1318〜21)に院政を行ったが、1321年院政をやめて後
     醍醐天皇の親政とした。1307年出家しのち大覚寺に住した。
    ※伏見天皇(持明院統:1265〜1317:在位1287〜98):
     名は熙仁。父は後深草天皇。即位後1290年までは父の院政であったが、その後譲位
     までは親政(1290〜98)。子の後伏見天皇に譲位後は院政を行った(1298〜1301、
     1308〜13)。
    ※後伏見天皇(持明院統:1288〜1336:在位1298〜1301):
     名は胤仁。父は伏見天皇。花園天皇の在位中の1313年伏見上皇より政務を譲られて
     1318年まで院政を行う。1331年元弘の乱により光厳天皇の践そとともに再び院政を
     行うが、1333年幕府滅亡に際しその地位を奪われた。
    ※後二条天皇(大覚寺統:1285〜1308:在位1301〜08):
     名は邦治。父は後宇多天皇。父宇多天皇のあと伏見・後伏見と二代続けて持明院統
     の天皇が続いたため後宇多天皇の要求を受けて幕府の調停で後伏見天皇の東宮にた
     ち1301年践祚。後宇多天皇が院政を開始(1301〜08)。
    ※花園天皇(持明院統:1297〜1348:在位1308〜18):
     名は富仁。父は伏見天皇。在位中は両統迭立の時期で持明院統に属した。在位中の
     1308〜13年には父伏見上皇が再び院政を行い、1313〜18年には兄後伏見天皇が伏
     見上皇から政務を譲られて院政を行った。
    ※後醍醐天皇(大覚寺統:1288〜1339:在位1318〜32、1333〜39):
     名は尊治。父は後宇多天皇。1318年花園天皇の譲位により践祚。当時としては異例
     の壮年天皇であった。1318年から父後宇多上皇が再び院政を行うが1321年に院政を
     やめて後醍醐天皇の親政となる。


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