「知の巨人」はぞうり履き/本県出身の言語学者・小島剛一/小笠原幹朗

 20年ほど前、1冊の本が著者謹呈の付せんとともに送られてきた。小島剛一著「トルコのもう一つの顔」(中公新書)である。著者が高校の同級生であることに気付くには、少々時間が必要であった。何しろ、フランスに留学した彼から一度絵はがきをもらったきり、連絡を取っていなかったのである。そして今年9月、2度目の著者謹呈。いつも驚かされる。前著の続編「漂流するトルコ」(旅行人)だった。

 小島は1946年、由利本荘市生まれ。秋田市で育った。家が近いこともあって、高校時代は一緒に通学した。3年時は同級、部活動も一時期同じだった。新著の出版に合わせて秋田に来た彼と、久しぶりに会って話し込んだ。さすがに白髪ではあるが、日焼けしてたくましかった。若い日の魂が息づいていることが感じとられた。

 小島は、言語学者である。フランス・ストラスブール大学に講座を持っている。高校のころ、私がうろ覚えのイタリア語でカンツォーネを歌ったら、発音の手直しされたことを思い出す。すでにいくつかの言語に通じていたようであった。

 彼は、1970年からトルコ各地を訪れ、言語の採集をしながら人々と交流してきた。トルコはおそらく世界で最も親日的な国である。それは、1890年、熊野灘で遭難したトルコの軍艦エルトゥールル号の乗組員の救助に、地元の村人が献身的に取り組んだことに由来する。このことはトルコでは教科書でも紹介され、広く国民に知られている。見ず知らずの日本青年に、チャイ(お茶)や食事を振る舞うのは当たり前。1977年、旅先で金を盗まれた際に、「フランスに帰るだけの金はあるのかい。なかったら貸してあげるよ」と本気になって助けようとする人情にふれ、「重症のトルコ病」にかかってしまった。足繁くトルコに通い、「いかなる犠牲を払ってもトルコ民族とトルコ共和国のすべてを知ろうと思ったのである」。

 十数年に及ぶ調査の中で、小島は、この国がトルコ語を母語としない多くの民族を抱えていることを知るに至った。クルド語、ザザ語など、話し手が多いものからラズ語のように少ないものまで、70以上の民族と言語があるという。これらの民族は差別と迫害を受けてきた。1922年のトルコ共和国成立以来、政府はトルコ語以外の言語の存在を公式に認めず、読み書きはもちろん、話すことさえ禁じてきた。

 差別の構造は重層的でもある。例えば、トルコ東部のトゥンジェリ県に住むザザ語を話す人たちは、ほかの地方のザザ人に同胞扱いを受けていない。それはメッカに向かった礼拝もしない、ラマダンの断食もしない、アレウィー教という宗教を信仰しているからである。イスラム世界の中に孤立した人々である。トゥンジェリ県の学校は教員も、教材・教具も極端に不足している。そのため、他県の高校に越境進学する生徒もいたのだが、しばしば陰惨ないじめに遭う。小島は、77年に起こった事件を紹介している。

 「トゥンジェリ県出身の生徒全員が一室に集められ、事務員にまる2時間にわたって殴打されたのち、校庭で他の生徒たちにナイフで襲われ、瀕死の重傷を負ったものが出るという事件が起こった。…生徒たちは教室にも寄宿舎にも帰らず、学用品も身の回りの物も捨てて親元に逃げ帰った。もちろん、越境入学をしようという者はいなくなった」。

 彼の本は、こうした迫害の歴史を歩み、貧しい暮らしを送りながらも、常に笑顔を絶やさず、優しさと心意気を持った人々への共感にあふれている。

 小島は1986年以降、二度、国外退去処分を受けている。少数民族の言語調査そのものが、危険視されたのであろう。しかし、トルコはその後、民主化政策を進めてきた。EU加盟を目指していることもあって、その歩みは加速している。今年9月、エルドアン首相の主導する憲法改正の国民投票が行われ、多くの賛成でさらなる民主化がなされたというニュースが報じられた。再会時には結果待ちであったが、その後のメールでは彼はこれを喜んでいた。またトルコに行くことができるようになるのだろう。

 小島の旅は、6千にものぼるという諸言語を追って、実は、南極を除く全ての大陸に及んでいる。そして、ヒマラヤのトレッキングさえゴムぞうり姿。彼の本は、ぞうり履きの「知の巨人」の旅のレポートなのである。小田実や沢木耕太郎は旅から戻ってきたが、彼の旅は、なかなか終わりそうもない。

【筆者略歴】おがさわら・みきろう 1947年生まれ。「学びの共同体」研究会員。教育コンサルタント。秋田市。

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