松前邪馬臺国論
(単なる思い付き)



                         関門海峡             魏
            国東半島                      日本海
       別府湾                    山口周南
    佐田岬
                              大島
                                     中島

                     松前町
                             道後
中央の平野が松前町、左は大分の国東半島、右山口周南。
その向こうに見える日本海を越えれば魏の都も近い!

おことわり
   間違っている個所がたくさんあると思いますので訂正お願いします。

むかしばなし
   むかしむかし天皇様のご先祖であり兄妹であり夫婦であられた方が、
 天の上から混沌とした地 上を見て、「このあたりに子孫が住める陸地を作ろう」
 ということになり、二人のどちらかの胸の肉か太股の肉を放り投げたところ、
 そこが陸地になり、名前を「二名島命」(ふたな…)と名付けた。これが四国だ。
  その後しばらくして、二人がセックスに耽ったり、夫婦喧嘩して色々な物を投げ
 飛ばした結果対馬・本州ができ、九州の素を投げ飛ばした位置に琵琶湖ができ、
 跳ね飛んでできたのが淡路島だ。その全てを「豊葦原の中つ邦」と名付けた。
 (北海道と佐渡の記述があったかどうかは忘れた。
豊葦原中国とも表記

            
            獅子舞の合幕に催される子供の狂言踊り

おもいこみ
  弥生時代の後期、松前の地にゾロアスター教徒で、サンスクリット語を話す
 海洋交易民族の大王が漂着し、本州中国地方にまでいたの古代アイヌ民族と
 戦争したり和平したりして、海岸沿いに対馬から江津を経て出雲まで交易圏を
 拡大した。
  次に東は瀬戸内海・淀川経由で琵琶湖あたりまで領土を拡大したとき、九州の
 熊襲民族の反乱にあったという知らせを聞いて、淡路島経由で逃げ帰った。
  その後日照りと水害のため、敵地の高千穂で雨乞いダンスをして帰ってみると、
 国は滅亡していたので、大和に移り住んだ。


いよ
  邪馬台国は中国の魏志倭人伝にしか存在せず、中華思想から考えれば
 「邪馬」は蔑称でしかない。
  では「台国」はというと魏志倭人伝で「台」は「臺」で、「壹」に似た字で表記され
 ており、「壹」であれば「田舎者のイーという国」つまり「伊の国」ということになる。
  次の「ふたな」で書いてある恵依弥二名神社では、「弥」を「め」と読んおり、
 「卑弥呼」は「ひめこ」または「ひめ」と呼ぶと読める。
  また卑弥呼の娘の名前は「与」で「とよ」とされているが、「壹与」であれば
 「いよ」となり、「与の国」は「いよのくに」、「伊予の国」となる。

  この時代に「伊」は役職を表す表現で、伊の与国と呼ばれた可能性がある。
  これが「ヨノクニ」から「四の国」と表現され、後世になって「四国」となったとは。


   つまり、「(え)ひめ」の娘が「いよ」であり、その地が「四国」ということになる。

ふたな
  むかしばなしに出るの「二名」は2文字の名前の意であり、「イヨ」があてはまる。
  (伊予以外にも伊勢・宇佐・妻・黄泉もあるといえばあるが、四国ではない。)
  当地には「恵依弥二名(えひめ・ふたな)神社」があり、
 その周囲は古代遺跡群である。
  地名も「カンザキ」、「イヨノホングウ」、「ホウケンデン」「ヤシキマエ」外多数ある。
  私が工事関与していた20年前に現場から多数の土器片や鉄錆の塊が出たが、
 工事がストップしないように全て埋め戻しておいた。(ごめんなさい)

            
                  中流部湧水地域の有明公園

とち
  古代地図や河川旧跡図では、現在の海岸線より10km程度山側に寄っており、
 ちょうどこの遺跡あたりに来る。
  また、額田大王が「にぎたつ」と詠んだ港は特定できておらず、また歌の内容も
 親しみを持った歌であり、辺鄙な田舎に来たとは思っていないで「さあ、出発だ」と
 言っている。

         
あしはら
  また、奈良・平安時代の近辺の荘園記録に拠ると、「葦原を切り開いて開田した」
 記述が多く、松前城記録や金蓮寺記録にも葦原の中にあって、妖怪や追いはぎが
 出没した記述を記憶している。
  現代でも、空き地を5年ほど放置しておけば、葦原になってしまう。

きろく
 神代の昔から江戸時代程度までに松前町を通り過ぎた人々のリスト

挑戦1
  額田王が詠ったとされる熱田津は、三津が定説ではない。(熱は熟表記も
  最も多く語られているのが和気辺りであるが、その時代の海岸線は、権現温泉
 から山越を経て、松山城西南を通り、椿神社から二名神社・伊予神社とつながり、
 南は今の新川から伊予港である。
  つまり、三津も和気も現在の似た地形で言えば、興居島の鷲が巣海岸と同様な
 位置になり、海賊でない限り利用しない。
  また、松山市の繁華街である銀天街は地名が湊町であるが、今の姿から想像
 すらできない松山城外堀の南西にあたる。
  松山市を含む道後平野の中で古くから4本の川が流れ、その内最も大きくかつ
 西日本最高峰の石鎚山を唯一源流としていた伊予川は瀬戸内海の渇水時期にも
 枯れることがなかった。(現在の松前港を河口とする国近川)
  この時代の大量輸送方法は小船であり、いつでも利用できる伊予川を遡ったと
 考えることは当然で、湧水が豊富で、なおかつ自然堤防もなく河岸両側から
 人力小船牽引が容易な二名神社付近まで到着すると南部扇状地が隣接する
 ため流水は伏流し、流路が大きな代用道路となる。
  そのためここで船を降り、歩いて北の3本の川を渡り道後へ到着したと考える。
  熱田津という字が温泉を表示していると見ている方は和気説をとっているが、
 他の地名と同様に音のみが継承し当て字を使用していると考える方が妥当。
  この場合、熱田津は禰宜田津か葱田津であり、禰宜田津は二名神社を示し、
 葱田津はその海岸寄りであり海岸段丘上の土地を示し、和気・三津説を否定し、
 松前説を補強する。
  なお葱とは松前地方では「あさつき」のことである。

        
        遠浅の瀬戸内海で地引網から岸まで魚を運んだ「はんぎり」
        関が原の合戦時代は、魚行商の女性「おたたさん」が
        松前城郭石垣を松山城まで頭上で運び「御用弼」(ごろびつ)と呼ばれ、
        現代では、「はんぎり競争」がなつまつりの伝統行事となった。

挑戦2(水行10日陸行1月)
  魏志倭人伝等の到達表現を分析してみると、
 「渡」、「行」、「至」、「到」、「有」、「在」がある。
  水行10日陸行1月の説は、間違っていると考えていたが、上記の到着表現を
 駆使しており、「水行10日と陸行1月」か「水行10日または陸行1月」の問題が
 残ることになる。
  全体的に「水行」の行程が多く、朝鮮半島の海岸水行南下は「陸行」の「到」を
 使用している。
  九州の熊襲と本州のアイヌを避けながら瀬戸内海を眺めれば、この地方で
 1点だけ頂上に雪を頂いた石鎚山を目指した航路が見える。

 (釜山〜対馬〜壱岐〜沖ノ島〜彦島〜姫島〜長島〜沖家室島〜中島〜興居島〜熱田津)
  また、松前城主であった加藤嘉明が朝鮮に攻め入ったが、秀吉の死去のため
 2,400名の兵士が約2ヶ月で退却している史実が裏付けする。

  倭人国相対図(北周り適用)において詳細検討中
  北周り (博多〜門司〜防府〜忽那諸島〜松前)この場合は、ほとんど水行
  南周り (博多〜宇佐〜佐賀関〜佐田岬〜松前)この場合は、ほとんど陸行

挑戦3
  
魏志倭人伝解釈  (未完成)倭人国相対図(考察中)

おしかり
  私の松前町邪馬台国説どう思いますか。
  批判書き込み

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