松前町立義農神社沿革誌
義農作兵衛・ぎのうじんじゃ・ぎのうさくべえ

「農は国の本で、1日も忽せにできず、
種子は農の基で、自分1個人の生命にかえることはできない」
として
麦種の俵を枕に餓死した作兵衛を顕彰している神社。

風水害年表    一家没年表    行事一覧表   松前町内地図

第二次大戦前の義農の墓

2001・1・16撮影
風  水  害  年  表
年号 西暦年 風 水 害 記 録
宝永4年 1707 8月19日大暴風雨
10月4日地震・富士山大爆発(宝永山)
享保6年 1721 大水のため洪水により重信川堤防決壊
人畜死傷多数
7年 1722 暴風雨・大水損
9年 1724 大旱魃
10年 1725 大旱魃
13年 1728 大風
14年 1729 8月・9月大暴風雨
17年 1732 享保大飢饉
2ヶ月間連続雨(太陽暦6月〜7月25日)
8月上・中旬は雨とウンカ発生
農作物皆無(予定籾13,500石・実収21石)
餓死者785名
義農作兵衛の時代は、有名な徳川吉宗の時代で、
大岡越前忠相や紀伊国屋文左衛門が江戸で活躍し、
江戸火消が創設されたり天一坊を処刑した時代です。

全国人口は約2,700万人(享保の大飢饉後10年で100万人減少)で、
享保の大飢饉で全国で250万人が飢餓状態となり、約12,000人が餓死し、
伊予松山藩では、農民約29,000人の約2割(約5,600人)が餓死しています。
筒井村や黒田村では半数が餓死してしまったので、
隣村の浮穴村・久米村や道前の周布・桑村から農家を入植させました。
農業労働力不足は解消されないので、
代表庄屋が備中倉敷幕府代官所へ駈込越訴し、
福山藩・岡山藩や倉敷天領農家の二男三男招へいに成功しました。
松山藩では大飢饉以後の1733〜1743の約10年間年貢を減免しています。

なお、当時の松山藩久万地方では全農民が隣藩の大洲藩へ逃亡強訴し、
久万代官を追放したらしいです。
作兵衛一家没年一覧表
名前 続柄 年齢 死亡原因 死亡の日
ツル 47 病死 1712.7.7
作平 69 餓死 1732.6.10
作兵衛 本人 44 餓死 1732.9.23
タマ 39 病死 1731.7.10
作市 長男 18 餓死 1732.8.5
カメ 長女 15 餓死 1732.10.2
2女 病死 1734.2.8
   事   一   覧   表
事 業 主催者 参加者 備   考
享保17年
1732
従兄弟三郎衛門
の作兵衛襲名
松山藩 筒井村 12月22日
墓碑作成指示 松山藩 筒井村 12月24日
安永5年
1776
顕彰頌徳碑 松平定静 24村 藩校「明教舘」教授丹波成美銘
教授尾崎訥齋書
寛政9年
1797
66回忌 松山藩 筒井村 百万遍念仏
108燈
文化14年
1817
郡奉行香花料 松山藩 筒井村 以後毎年の行事
文政2年
1819年
88回忌 松山藩 4代目作兵衛 年頭参賀資格
天保2年
1831年
100回忌 松山藩
松平勝茂
6代目作兵衛 2夜3日
文久元年
1861
130回忌 松山藩 庄屋格帯刀
6代目作兵衛
墓地・玉垣・石檀
手水鉢・石灯籠

玉垣・手水鉢ともに完成は、文久3年か?
事 業 主催者 参加者 備   考
明治4年
1871
恩恵愛媛県全廃 野澤肇 筒井村・浜村有氏
建社申請
不許可
明治14年
1881
建社申請
愛媛県許可
赤星伝作 有氏16名 瑞穂建功命社殿築営
三条実美書
明治15年
1882
句会 愛比売新報 正岡子規
武市英俊
松山中学生徒
明治17年
1884
全壊 暴風雨 津波 8月25日
明治18年
1885
参拝視察 品川弥次郎 農商務省 1月17日
明治22年
1889
参拝視察 富岡鉄斎 ハル夫人 3月29日
明治29年
1896
功徳表彰会 教育倶楽部 正岡子規他150名 寄付募集
明治40年
1907
八幡神社合祀 官許 義農会設立趣意書 9月
事 業 主催者 参加者 備   考
大正2年
1913
義農祭行事開始 義農恒産会 特に盛大 80歳以上の老人を表彰
大正4年
1915
義農祭行事 義農恒産会 児童参拝 児童参拝日を4月23日
にする(現在も継続)
大正13年
1924
義農祭行事 義農恒産会 伊予実業学校参加 相撲大会(現在も継続)
事 業 主催者 参加者 備   考
昭和3年
1928
義農祭行事 松前町長 県知事他多数 参拝日を4月23日
にする
昭和6年
1931
200年祭 松前町長 県知事他多数 4月23日・24日
昭和20年
1945
愛媛県護国神社合祀 連合軍司令部
神道指令
他に41柱 5月8日
昭和30年
1955
義農会規約制定 松前町長 県知事他多数 公園整備事業
昭和32年
1957
義農神社上棟式 松前町長 県知事他多数 公園整備事業

作兵衛の墓
この碑の真後ろに仏式の墓(写真下6名分)があり、

この南側には、なかったはずの戦死者忠霊塔があり、
頂上の玉が失われても気に留めない不思議な町である。
(町有地に神社と忠霊塔)
どんな姿形であっても郷土の英雄だから?
マッカーサーの命令だから?
正岡子規が好きだったから?
それとも、学校が休みになるから?
(大昔2日・昔1日・現半日)

注釈1  義農神社の運営に必要な費用の全ては、松前町一般会計予算で賄われており、
      お賽銭は一般会計・諸収入・雑入として処理されている。

注釈2  祭典儀式上は無宗教を標榜し、国家機関・県機関の職員も列席し、各議員も参加する。
注釈3  行政と宗教(無宗教?)の関係(護国神社、八幡神社はどう考える)
最近の参拝者  故坪内寿夫氏の紹介によりジャンボ尾崎、徳州会徳田虎雄、他多数





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