
『乳と蜜の流れる地から 非日常の国イスラエルの日常生活』
山森みか 新教出版社 2002年 本体1900円
ISBN4−400−42734−X
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「あとがき」
本書は、月刊誌『福音と世界』二〇〇〇年一月号から二〇〇二年二月号に連載したエッセイに加筆、訂正したものである。
イスラエルのユダヤ人がどのような日常生活を送っているのかについて、日本ではあまり知られていない。メディアによく登場するのは、きわめて厳格にユダヤ教の規定を守るユダヤ教正統派や、狂信的に占領地に固執するユダヤ人入植者たちの主張であり、イスラエル社会のマジョリティを占める一般の伝統派、世俗派のユダヤ人の考え方や彼らが直面するジレンマに関しては、ほとんど取り上げられて来なかったと言っていいだろう。私は、自分自身もその中で生活しているこれらの人々の日常についての記述を通して、古代からのユダヤ的伝統と現代のユダヤ人の考え方との関連を少しでも明確にしたいという大それた意図のもとに、連載を開始した。それが成功しているか否かは心もとない次第だが、読者の批判を待ちたい。家族を含む私生活をこのような形で公にすることに対するためらいが、私になかったわけではない。だが綿密な学問的手続きを踏んではいても究極的には個人の感覚や資質に基盤を置く人文学に多少なりとも関わる者として、自らの関心の出所をある程度明らかにするのは無意味ではないと考えるに至った。といっても私は、「自分はこの地に暮らしているからこそ問題の本質が分かる」とか「日本に住んでいる人間にはこの問題は分からない」などと言う気はない。物理的な近さが理解を保証するわけではないこと、問題が微妙かつ複雑になればなるほど体験や実感がかえって目を曇らせる場合があることは十分承知しているつもりだ。
連載開始当初、イスラエル社会はオスロ合意に基づいた和平プロセスを進めている最中にあった。人々はみな、近い将来この地に安定した境界をもつイスラエルとパレスチナの二つの独立国家が存在するようになり、それは両者のみならず中東全体の政治的安定及び経済的発展に貢献するのだという希望と確信に満ちていた。私もその前提に立って書き始めたのだが、二〇〇〇年の秋に突然状況が悪化し、今日に至っては和平交渉の進展を信じて疑わなかった時代が夢の彼方と思われるようになってしまった。政治状況の変転に伴い、いくつかの箇所において連載当時の記述と現実が整合しなくなったが、訂正は最小限にとどめ、なるべく執筆当時の雰囲気を保つようにした。
どの国にも民族にも固有の問題がある。日本とイスラエル双方が抱える諸問題に関わらざるを得ない私は、判断のつかない事態に遭遇するたびに、日本人にとって近くて遠い韓半島に存在基盤を置く民族を理解しようとする試みを執拗と形容し得るまでに継続して行なっている作家、関川夏央の著作を繰り返し読み、次のような言葉に勇気づけられた。「知ること、理解することと好きになることは同義ではないし、同義であってはならない」(『東京から来たナグネ』ちくま文庫、一九八八年、七○ページ)。「文化衝突とは友好ののちに始まり、やがて熾烈さを帯びる。知ることが嫌悪をもたらすこともあり得ると覚悟するべきである」(同書六九ページ)。私はこれらの言葉によって、文化衝突や異文化に属する他者に対する自分の思い入れが裏切られることを恐れる必要はなく、それは他者を知り理解しようとする試みの妨げにはならないことを学んだ。
執筆に当たっては、過度のセンチメンタリズムとも私怨とも極力距離を置くように努めたつもりだが、それは私がいわゆる「中立的」視点に立とうとしているという意味ではない。私は、一人の人間は確かに様々な立場を理解し得るが、やはりいずれかの立場にコミットせざるを得ないのだと思っている。いったん選んだ立場に永久に固執する必要はもとよりないが、自らの立場を引き受ける用意のない人間は、「中立的」であれなんであれ、どのような視点も持ち得ないのではないかと思うのである。そもそも私たちが生きているこの世界において、そのような各自の立場の相違を豊かさと呼ばずして、いったい何を豊かさと呼べるのだろうか。
とにかく様々な偶然が重なって私はここにこうしているわけだが、今日に至るまで私を支えてくださった多くの方々には心から感謝している。とりわけ『福音と世界』での連載中、微妙な事柄に関しても自由に執筆する機会を私に与え、原稿を丁寧に読んでは励ましつづけてくださった新教出版社の小林望氏の尽力には謝意を表したい。また、学部学生時代に初級聖書ヘブライ語のクラスで共にアレフ、ベートの歌をうたって以来の友人である国際基督教大学キリスト教と文化研究所助手の高木久夫氏は、ここ数年私が書き送る愚痴まじりの近況報告や相談の冷静かつ優れた読み手として、常に的確なコメントと助言を返してくださった。次第に複雑さを増す困難な状況において、氏とのやりとりに私は大いに支えられたことを記して感謝の言葉としたい。最後に、私的な事柄を明らかにすることに同意してくれた家族や友人、そして挿画を描いてくれた夫の労に感謝する。
本書のタイトルにある<乳と蜜の流れる地>という語は、エジプトを脱出して荒野を放浪するイスラエルの民がこれから入ろうとする「約束の地」を形容するものとして、旧約聖書に登場する。エジプトの圧迫を逃れたイスラエルの民は、神から約束されたその肥沃な地において数を増し、幸福に暮らすはずであった。だが、結局イスラエルの民は約束の地を追われて離散し、今日ではこの地をめぐる紛争が多くの人々に不幸をもたらしている。<乳と蜜の流れる地>という語が示す理想と現実の乖離は、この民族が直面してき
多くくの問題を今なお象徴しているのである。
まったく出口の見えない現在の困難な政治状況において、アラブ人の友人は次のように言う。「ものごとは流れるままにまかせよう。どれほど思い煩っても、我々のような個人ができることはかぎられている。しかし何が起きようとも、我々は我々だ」。そして私たちはアラブの村の家の屋上でバーベキューをし、一緒に遊ぶ子どもたちを見ながら、彼らが成長したときには、たとえどのような状況においてもかつて親しんだ異民族の友人がいたことを想起してほしいと願う。外的状況の変化にかかわらず、諸個人がそのような日常性の基盤を培うことの意義は不変であることを、この地において私たちは確信している。
二〇〇二年四月十二日
ビニヤミナの自宅にて