
ユダヤ人と原理主義 山森みか
『アレテイア 36号』(日本基督教団出版局) 2002年所収
元来アメリカのプロテスタントの一派に用いられたファンダメンタリズム/原理主義という語を、イスラームやユダヤなどの他宗教、他文化に適用することの妥当性、適用するとすれば定義をどうするのか、またユダヤ教にその語を適用する際には具体的にどのグループを対象とするのかという点に関しては、様々な議論がある。自ら原理主義者を名乗るグループはユダヤ人の間に存在せず、また今日ジャーナリズムにおいて原理主義という語が蔑称として用いられる傾向がある以上、その語の使用が何らかの政治的影響を引き起こす可能性には留意すべきである。
一般にユダヤ人における原理主義を考察する際に名を挙げられるのは、まずハレディーム(ユダヤ教超正統派)とグーシュ・エムニームのような過激な宗教的シオニスト、そしてアメリカでカハネ・メイールが創設した戦闘的組織カハ(カハネは一九九〇年にアメリカで暗殺された)やイツハク・ラビンを暗殺したイーガル・アミールなどである。またハレディームを支持母体とするシャスやトーラーユダヤ教連合、主として宗教的シオニストが支持する国家宗教党や二〇〇一年秋エルサレムで暗殺された観光相ゼエビが創設した極右モレデトのような具体的政党名が挙げられることもあるだろう。私は一九九四年以来イスラエルに住んでいるが原理主義を研究対象としているわけではなく、厳密に定義してこの語を使用する立場にはない。よって本稿では、イスラエルにおけるユダヤ人の間で原理主義的もしくは過激と考えられている上記のようないくつかのグループを取り上げ、彼らに対する一般のユダヤ人の考え方を述べてみたい。イスラエルにおいていわゆる原理主義的な組織と右派の政治家が協力し合ってきたのは事実だが、今日多くのイスラエル人が和平に対して悲観的な見方をするに至った思考プロセスはそれと区別して理解する必要がある。日本ではあまり知られていないその流れを、特にラビン暗殺から現在に至る政治的転換を視野にいれつつ、合わせて紹介したい。
***
イスラエルのユダヤ人の中で、宗教派は約二〇%、伝統派は約五〇%、世俗派は約三〇%だと言われている。宗教派に属するのは、ハレディームと呼ばれるユダヤ教の超正統派(黒い帽子と服で見分けられる)と普通の服装だが編んだキッパを頭に載せた人々である。ハレディームはまた、東欧出身のアシュケナジ系(主にトーラー・ユダヤ教連合を支持)と北アフリカ、中東出身のセファルディ系(主にシャス党を支持)に大きく分けられる。これらの人々は、それぞれのグループの宗教的指導者の発言を最も重視すると言ってよい。近年イスラエルの世俗社会では、アシュケナジ系とセファルディ系のユダヤ人の対立は以前ほど激しくはなくなってきているが、この二つはシナゴーグとラビを異にするため宗教派の間では依然として画然と区別されている。
伝統派と世俗派の間に明確な線を引くのは難しいが、伝統派はラビの発言をある程度尊重して安息日や食物規定等は部分的に遵守するが、世俗派は自らがユダヤ人であるというアイデンティティは持っているものの伝統的な諸規定の遵守には重きを置かない人々だと言えるだろう。世俗派の中でも急進的な人々は、非ユダヤ人や性的マイノリティの社会的権利を積極的に擁護する政党メレツを支持している(例えばイスラエルのクネセト〔国会に当たる〕に初めてムスリム女性を議員として送り込んだのは、アラブ政党ではなくユダヤ政党のメレツであった)。そして現在イスラエルの二大政党であるリクード(右派)と労働党(左派)は、イスラエル社会におけるマジョリティである伝統派と世俗派の人々の多くに支持されているのである。
世俗派が宗教派に対して抱く感覚の一つは、不公平感である。兵役に就かずにトーラーの学習に献身し、自らは税金を払わずに寄付金を集め、子沢山なハレディームが、兵役後に大学を出て世俗の職業に従事しつつ高額の納税に耐えている人々の生活の細部に干渉するのである。例えば、左右の勢力が拮抗しているためにイスラエルの政権は宗教政党と連立を組むことが多いが、宗教政党は常に公教育における聖書や口伝律法の授業時間を増やそうとする。また宗教派は、食物規定を守っていない商店を焼いたり、安息日やヨム・キプールに走行する車に投石したりといった実力行使に出ることもある。世俗派にとって不愉快でないわけがない。しかしまた、世俗派の人がハレディームの世界に入ることもある。これを「信仰に立ち帰る」と言うが、その理由は様々である。私が実際に知っている例としては、子どもの時に過って兄を死に至らしめた人と、長年日本で鍼灸師の学校に通って資格を取ってからイスラエルに帰国してクリニックを開いた人が、世俗派から「信仰に立ち帰った」。だが独身者ならまだしも、家族の一人が急に全ての生活規定を守り始めると大変な混乱が生じるわけで、実際テレビドラマのテーマとしてそれが取り上げられたこともある。ドラマでは、突然信仰に立ち帰った父親が(宗教的に禁じられている)子どもの持ち物を処分し始め、それを止める妻と激しく諍うが、それでも夫妻は愛し合っていて別れられないという事態が描写されていた。
***
さて上記のような宗教と世俗の二極の他に、ユダヤ人の間にはシオニズムを軸とした考え方の相違がある。まず、宗教的に敬虔であることが世俗的なイスラエル国家への支持と重なるわけではないという点が決定的に重要である。伝統的な規定に基づいた生活の遵守に最高の価値を置くハレディームは、シオニズムの勃興期から反シオニスト運動を展開してきた。イスラエル国家成立後も、彼らは世俗的、近代的なイスラエル国を受容していない。国旗や国歌、兵役等は拒否すべきものと考えるハレディームは、国会議員ですら国歌を歌わない。確かに政治的に右か左かと問われた場合、大きく言ってハレディームは右派に分類されるのだが、それは彼らが「イスラエルは聖書に書いてあるとおりの領土を持つべきだ」と信じたり「エルサレムに第三神殿を建設すべきだ」と考えたりする過激な宗教的シオニストと見解を同じくしていることを意味しないのである。
例えばエルサレムの神殿の丘についてのユダヤ教正統派チーフラビの決定は次のとおりである。破壊されても神殿のあった場所は決してその神聖さを失わず、神聖な神殿跡に入るためには身を清めなければならない。その清めの儀式に必要なのは民数記一九章で定められる赤い雌牛を焼いた灰で作る清めの水である。だが神殿の破壊後はそれを準備すべき場所がなくなったため新しい灰は作られず、やがて灰は底をついた。清めの儀式が行われ得ないという点において現在ユダヤ人は全員清くなく、よって神殿の丘に足を踏み入れることは厳禁される。こうして敬虔な多くのユダヤ教徒は、神殿の外部であることが明らかで、かつ神殿に最も近い西の壁で祈りをささげているのである。この宗教的決定を受け入れずに神殿の丘に入るユダヤ人が宗教的に敬虔とは見なされ得ないことは明らかであろう。
一方で宗教シオニストは、ユダヤ民族がイスラエルに入植して土地を回復することこそがメシア到来によるユダヤ民族の贖罪の達成を早める過程だと考える。この点において彼らは、世俗的なナショナリズムに基づくシオニストたちと協力できる。イスラエル建国、入植地の拡大等は、彼らにとって人間の努力によってメシア到来を早めることなのだ。このような人々は、メシアの到来は神の領域に属することだと考えるハレディームが尊重するユダヤ教規定の徹底的遵守よりも、領土の拡大といった世俗的、政治的な事柄をしばしば優先させる。とりわけエルサレムの西の壁をユダヤ人が手に入れたことと西岸を占領したことは、メシア到来の明確な予兆だと捉えられた。グーシュ・エムニームはこのような考えに基づいて一九七四年に結成された組織であり、「神から与えられた」西岸占領地域への入植活動を過激に展開しているだけでなく、例えばパレスチナ人指導者へのテロ活動に参与したため一九八四年に摘発された人々の多くもこの組織のメンバーであった。
ではグーシュ・エムニームのような運動に対する世俗派ユダヤ人からの反論は、どのように述べられるのか。作家のアモス・オズは、一九八二年に占領地への入植者を前にした集会で次のように語っている。「あなたがたはユダヤ、サマリヤ(西岸占領地域)を棄てればイスラエルの国の存立が危うくなると確信しているが、私はこの地域を併合すればイスラエルの国の存立が危うくなると考えている。私自身は民族国家というのは非ユダヤ人の楽しみであり、道具、手段にすぎないと思う。国家それ自体を目的とするのは偶像崇拝であり、非ユダヤ的である。しかし国家の枠組を持たないが故にヒトラーの虐殺を経験せざるを得なかったユダヤ人が生存していくために必要なのであれば、国旗やパスポートや軍隊や戦争までをも駆使して民族国家間のゲームに加わらざるを得ないのは認める。だが自らが占領軍となった六日戦争後の自画自賛の馬鹿騒ぎにおいて、宗教的国家主義者たちはイスラエルの勝利を『メシア時代の始まり』の徴候と捉え、自らの道義的問題には無感覚であった。それはユダヤ主義を宗教のレベルに矮小化し、一つのモチーフに押し込んでしまうことである。ユダヤ主義は一つの文明であり、その中で宗教は主要な要素ではあってもその全体ではない。ユダヤ主義の過去の遺産から何を選び取るかを決めるのはユダヤ主義を相続する一人一人の権利であり、それが多様性なのである。そこにおいてユダヤ主義が博物館然とした儀式として生き延びるのか、創造的ドラマとして存続するのかという問いが提出される。私の内部では、既にヨーロッパ的ヒューマニズム、即ち個人の生命と自由は絶対に神聖だとする考え方とユダヤ主義の双方が結び付いている。ヨーロッパ的ヒューマニズムはユダヤ的遺伝子をもっているのである。シオニズムというものは、非ユダヤ的世界に背を向けるものではなく、現世における国家集団に回帰を願うところから生まれたものであり、その国家間ゲームに対する強い現実的配慮があるからこそ有効であった。神秘的衝動や使命感による傲慢さのために現実感覚を弱めた占領地への移住の推進によって、シオニズムの正統性は崩壊した。それはユダヤ人によるアラブ人への圧迫と、外の世界に対する二つの姿勢、即ち自分たちは圧迫されてきたのだから特別扱いしてほしいという要求する一方で外の国家集団に属するみんなと同じように自分たちも抑圧や残虐行為をしてもよいと認めてほしいと要求するという道徳的自閉症の結果でもあった。信仰の厚い人が神意を信ずるところには、傲慢の罪は生まれない。傲慢の罪が芽ばえるのは、その信心深い人が他に抜きん出て神意を理解していると思いこみ、お墨つきの神意伝達者になりすまし、この世の代表者づらをしだすときである。予兆、預言、暗示、救済のひらめき、啓示などすべて責任は受け取る側にある。私はメシア思想を頭から否定するものではないが、現在形で語られるあらゆるメシア思想は間違った預言だと言えそうな気がする。メシア思想が成り立ちうるのは文法的(かつ心理的)未来形の世界だけである。またパレスチナ問題に関して言えば、他人の独自性を否定するものは、結局わが身の独自性を否定するのである。ユダヤ人とはだれかに関して例えばアラブ側が下す判決を私たちが受け入れられないのと同様に、私たちはパレスチナ人の独自の民族的主体性に関して口を出すことはできない。」(『イスラエルに生きる人々』、千本健一郎訳、晶文社、一九八五年、一四一‐一六七頁を筆者が要約)。
ここにはイスラエルのユダヤ人が直面する多くのジレンマが、端的に示されている。ユダヤ人が「忠誠」を誓うのはイスラエルという「民族国家」ではなく、オズの言葉でいえばユダヤ主義である。その一方で実際にこの世界で生き延びるためには民族国家という形式を採択してそのルールに沿った行動を取らざるを得ない。即ち「皆と同じように」ならなければならない。またオズのように、自らの「ユダヤ人性」と相反するものではなくそれと結合したものとして、ヨーロッパ的な価値観をもはや捨て去ることのできないものと感じているユダヤ人が多数いる一方で、エチオピアや北アフリカ、アラブ諸国出身のユダヤ人にはまた別の価値観があるはずである。即ちユダヤ人は、長年に亘る離散の経験において必然的に多様性をその特質の一つとしてもっているのであり、それを認めずにある一つの主張を掲げて「これこそが真のユダヤ主義だ」と言うこと自体が非ユダヤ的だと考えられる。それは、コツクのメナヘム・メンデルの言葉をダヴィッド・グッドマン(日本語で執筆活動を続けるアメリカのユダヤ人)が、「あなたがあなたである故にぼくは初めてぼくであり得るし、ぼくがぼくである故にあなたは初めてあなたであり得る」と言い直しているのと同じ考え方である(『走る』、岩波書店、一九八九年、三二頁)。このように考えるならばユダヤ人は、外側から「ユダヤ人という民族は実態として存在しない」とレッテルを貼られるのを受け入れるわけにもいかないし、また自分たちが「パレスチナ人という民族は実態として存在しないから、彼らは他のアラブ諸国に吸収されればよい」と他者にレッテルを貼るわけにもいかない。またシオニズムという語をユダヤ人の生存を最優先させるという意味で捉えるのであれば、非現実的な領土拡大の理念ではなく現実的な国家存続の方策を模索すべきなのである。
***
一九九五年のラビン暗殺は、イスラエルの人々に深い衝撃を与えた。暗殺前、ラビンの柩に擬した箱を掲げたり「裏切り者に死を」と叫んだりする過激なデモを、当時野党であったリクード党首のネタニヤフは徹底的に利用した。だが多くの人は、それは政治的な利用にすぎず実際の暗殺につながるものではないと漠然と思っていたのだ。だが実際に暗殺は起きた。犯人のイーガル・アミールは、ハレディーム系の教育を受け、兵役後ユダヤ教正統派のバルイラン大学に入学し、占領地への入植を推進する政治活動に献身していた。グーシュ・エムニームやカハ党系の組織との接触はあったが、特定の組織には属していなかったようだ。その彼が、ラビンは宗教法に照らして「裏切り者」、「迫害者」と裁定されたのでその殺害はミツヴァ(ユダヤ教の掟)であると確信をもって語ったとき、人々は過激なアピールは実際の行動につながるし、ユダヤ人がユダヤ人を暗殺する事態が起こり得るという事実に直面した。それは、外側からの迫害が過酷である故にユダヤ人内部では民族の生存が最優先されるはずだという暗黙の了解が砕かれたときでもあった。当時あちこちに貼られた哀悼のステッカーの中には、「黙ってしまってごめんなさい」というものがあったが、それは過激なスローガンを低レベルで取るに足りないものと片付けて真剣な反対運動を展開しなかったことへの後悔を表していた。だがその後の一九九六年の選挙前には、パレスチナ過激派のテロが相次いだため人々は恐怖に駆られ、結局リクードのネタニヤフが僅差でペレスを破って当選した。実際に和平プロセスが具体的に進展し始めると、イスラエルとパレスチナ双方の過激派がどのような手段を用いてでもそれを阻止しようとし、その点においてまさに両者の利害が一致することがこうしてますます明確になったのである。しかしネタニヤフ政権はさしたる成果を挙げられず、追い詰められた一九九九年の選挙でネタニヤフは選挙戦終盤においてラビンに対して用いられたのと同種の過激な煽動手段を取ってほぼ自滅するように敗北し、労働党のバラク政権が誕生した。そしてバラク政権は、様々な内外の困難を抱えながらも実際に和平交渉を進め、占領地からだけでなくレバノンからの撤退も実行してきたのである。
しかし二〇〇〇年秋に始まったアル・アクサ・インティファーダ以来、イスラエルの一般の人々の考え方は大きく変化した。確かにそれまでは、和平プロセスの進展に伴いエスカレートするイスラエルとパレスチナ双方の「譲歩を認めない徹底抗戦派」による実力行使は、自制によって克服できる問題だと考えられていた。だがパレスチナ自治政府の代表者で和平交渉のパートナーであるアラファトがアル・アクサ・インティファーダを本気で阻止するつもりがないという確信がイスラエル人の間に広まったとき、穏健派に属する大多数の人が「世界が変わった」と実感した。「イスラエルがどれだけ譲歩しても、たとえ占領地をすべて返還しても、パレスチナ人及びイスラエル国内のアラブ人はこの地(占領地ではないイスラエル固有の国土)にユダヤ人が生存している限り和平には応じないのではないか」という疑念が、ラビン、ペレス、バラクを支持して和平プロセスの進展を願った多くの人々の心をも捉えたのが、二〇〇〇年の秋だったのだ。
私は、イスラエルの譲歩が不足していたとか、神殿の丘に足を踏み入れたリクードのアリエル・シャロンの示威行動が原因だったとか、アラファトは十分に努力しているとか、エルサレムをパレスチナの管轄に移すべきだとかといった論点の是非もしくは真偽に関する議論を展開する立場にはない。私が言いたいのは、そのような個々の具体的事柄を越えて、事態を悪化させた一連の出来事の結果、アラファトをパートナーとした具体的な和平プロセスが進展すればするほど安全は遠ざかったという生活実感に加え、「譲歩や自制は暴力の停止につながらない」ことを多くの穏健な人々が確信してしまったことこそが、現在イスラエルを覆っている「出口のない無力感」の内実だということなのである。それは、世俗派もしくは左派を自認してきた人々にとって、自分の拠って立つ精神的基盤が崩壊するような衝撃であった。その後二〇〇一年の選挙でリクードのアリエル・シャロンが首相に選ばれたのは(それでもバラクはネタニヤフが政界復帰しないように故意に選挙の時期を早める策を取ったのである)、多くの人が占領地に固執する「原理主義的」大イスラエル主義に鞍替えしたからではなく、「安全は領土の返還と引き換えに得られる」というそれまでの和平に対する確信が無力となったからであった。実際、今まで一度も右派に投票したことがなかったが今回ばかりは右派に投票したという人が、私の周囲にも何人かいた。イスラエルのユダヤ人がこのようなプロセスを経験してきたという事実を考慮せずに、民族国家の枠組に十分守られた立場にある外部の人々が、旧来の「国連決議の尊重」や「和平尊重、武力行使の自制」といった用語のみでイスラエルのユダヤ人に働きかけようとしても殆ど説得力がなく、従って議論は平行線を辿るだけである。「原理主義的」考え方がどこに行き着くのか、その危険性を身をもって体験した多くの穏健なイスラエル人はよく知っており、それに対する反論は提出できる。だが現在の和平への失望を打開する論拠はまだ見出されておらず、それが私たちの直面している大きな課題なのである。