ヘヴンズガーデン 〜天の庭〜

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池田 美保子

序章〜天流〜

 

 

大学病院十二階。西側病棟の最も端に位置している病室で、若い女がベッドの上から、茫洋と窓の外を見つめていた。

クリスマスだが雪が降る気配もない。窓の外には、今にも吸い込まれそうな漆黒の闇が広がっているだけだ。まるですべての生き物が息を殺して、これからやってくるとてつもない恐怖から逃れようと、隠れ潜んでいるようだった。

 麻生各務は、絶望と孤独を凝縮したような重い闇に押しつぶされそうであった。

一時も治まることのない目眩と吐き気、鉛のように重い体。いったい誰にこの苦しみがわかるというのか。苦痛に抗う気力もすでになかった。

ただできることと言えば、毎日心の中で繰り返し願いを叫ぶのみであった。

―誰か、私を殺して…

自分で自分を殺すことも出来ない。

窪んだ眼窩の中のぎょろりとした瞳で、各務は点滴の管が巻きつく自らの姿を見た。

なんと惨めな姿だろう。これほど哀れな女はいない。そう思うと、濁った瞳の上にうっすらと涙が溜まり、目じりからつっと流れ落ちた。

両親も各務の看病で疲れ果ててしまい、すでに各務を見放していた。

血を分けた家族であっても、心底疲れればお互いを捨てる。誰が悪いわけでもない、それは自然の摂理であり、しょうがないことなのだ。

家族に見捨てられ、未来のない自分が、この苦しみ耐えながら、さらに生きる意味があるのか。すでに各務は体も心も疲弊しつくしていた。

―誰か、早く私を殺して

何度心中で叫んでも、それが叶うはずがない。毎回徒労に終わることを、各務は十分に知っていた。それでも叫ばずにいられないのだ。

そのとき、突然ひどい目眩が各務を襲った。

天と地がひっくり返ったような気がして、各務は思わずベッドの手すりにしがみつく。腹の底から何かを吐き出してしまいたい衝動に駆られ、嘔吐しそうになった。こみ上がってくるものを無理やり飲み込む。

いつもの抗癌剤治療による吐き気だろうと思ったが、何かがおかしい。

〈ビャッカイヘテンルセヨ〉

―え?

 〈ビャッカイヘテンルセヨ〉

男とも女とも区別できない声がわあんとどこからか響く。あらゆる方向から聞こえるので、声の主を見つけようにも、どこを見ればよいのか分からない。

幻聴が聞こえてるんだ、と思った瞬間、各務の横の窓がぐにゃりと曲がった。窓はさらにぐるぐると渦を巻いていき、そしてついにはそこにぽっかりと空いた穴が出来た。

穴の先には真っ暗な空洞が見える。いや、空洞ではない。

各務は、すでに視力が落ちた目を、できるだけ凝らして空洞の中を覗き込んだ。すると、そこからは、遠くに小さな光を点した家々がぽつんぽつんと見える。さらには、風が呻る音までびゅうびゅうと聞こえてくるではないか。

窓に穴が空いたのだと理解した瞬間、各務の体はベッドからふわりと持ち上がった。すると、各務の体はそのままその穴から病室の窓をすっとすり抜けて、漆黒の闇の中へ放り出されてしまった。

そして驚く間もなく、落ちるはずであった体は、そのままぐんぐん空に向かって飛翔し始めた。それはまるで誰かに足を思い切り押し上げられているような感覚だった。いったい何が自分に起きているのか、各務にこの非科学的な状況を把握できるような教育を受けたことがあるはずがなかった。

この上もなく澄んだ冬空を飛び続けているのに、不思議と寒さは感じない。

十五分程飛び続けたであろうか、いつまで飛び続けるのだろうと思った瞬間、各務の体に異変が起きた。体がゆっくり糸のように細くなっていくのだ。一本の金糸のように細くなったきらきらと光る各務の体は、煌く星星の間をすり抜けながら、まだまだ飛翔し続ける。

強い抵抗と圧迫感は感じるが、どういう訳か痛みは感じない。

それよりもさらに不思議なことは、なぜ自分がこれほどまで度胸が据わっているのかということだった。いや度胸があるか否かということではなく、喜怒哀楽を感じ取る心がもう枯れ果てているのかもしれない。ただ、各務はこの状況を自然と受け入れていた。

突然全身の抵抗が消えた。糸になっていた体がゆっくりと元の大きさに戻り始めたのだ。完全に元の姿に戻ったかと思うと、とてつもない強い重力が全身にかかり、各務はものすごいスピードで降下し始めた。

「うわあああああ――――――――」

あまりに強い重力に引き寄せられ、各務は失神したまま、下へ下へと落ちていった。

 

 

さわさわと青い香りがする清清しい風が各務の頬を撫でた。

ザザ、ザアアアアアアア    

葉擦れの音だろうか。各務はうっすらに目を開けた。その途端、右足に激しい痛みを覚えた。あまりの激痛で呼吸ができないほどだ。

「大丈夫ですか?」

各務が思わず声がした方を振り向くと、その視線の先には、ほっそりとした青年が静かに座っていた。

まだ少年の面影が残っているこの青年の姿は、各務にとってこの上もなく見慣れぬものだった。背中まで伸ばした青みかがった銀色の髪は風にきらきらとなびいていており、肌はまるで白磁のように白く、透き通るようだ。

青年は各務より多少若そうであったが、ゆったりと座った姿が彼を大人びて見せていた。奇妙なことに、青年の顔は各務の方を向いているのに、瞼は伏せたまま開けようとしない。

彼は、もう一度静かに問いかけた。

「足の痛みは大丈夫ですか?」

呆然としていた各務は、とり合えず、歯を食いしばったまま大きく首を横に振って、痛みがひどいことを訴えた。

「ちゃんと止血は出来ていますが、痛みがひどそうですね。ちょっと待っていて下さい」

そう答えると、青年はすっと立ち上がり、まるですべての景色が見えているかように、自然とどこかへ走り去ってしまった。

各務の上からは、ざあざあと葉擦れの音が聞こえる。

どうやら各務は大木の上に落ち、そのまま枝を折りながら地上に辿り着いたらしい。周りには折れた小枝がちらほらと散乱している。

各務の右足は麻布のようなものできつく巻かれており、確かに止血はできているようだったが、いかんせんこうも痛みがひどいと今にも気を失いそうだ。

どうにかしてくれと周りを見回していると、先ほどの青年が戻って来た。

青年は各務の前に座ると、薬包紙の上に乗った何ともいえない芳香のある粉末と、湯飲みに入った水を各務の口元へ持ってくる。

「これを飲んでください」

 何とも胡散臭そうな物を見せられ、各務は多少大袈裟に嫌な顔をしてみせた。が、青年はそれを無視して、各務の口元へさあと持ってくる。

「これは痛み止めなんです」

各務は気が進まなかったが、藁にも縋りたい気持ちだったので、しょうがなく言われるままに飲んだ。それは甘いような苦いような奇妙な味の薬だった。

「半コクぐらいで効きますよ」

各務は妙な言葉を使うなと思ったが、痛みがひどいのでこれ以上聞き返す気にもなれなかった。

 

「リョエン!どうしたの?」

リョエンと呼ばれた青年は、齢は十歳くらいだろうか、走り寄って来た活き活きとした健康美を輝かせた少女に向かって、微笑んで答えた。

「天者が落ちて来たようだ」

「えっっ、ほんと?」

少女は好奇心を露にしたきらきらと光る黒い瞳で、各務の顔をまじまじと覗き込んだ。

「ここは仙庭だから、落ちてきても不思議はないだろ?」

「うわあ…」

どうも二人のやり取りを見ていると、明らかに自分の置かれた状況は尋常ではない。

ここはどこなのか。この人たちはどこの国の人達なのか。

リョエンと呼ばれた細い青年も、生命力溢れる活き活きとした少女も、美しい青みがかった銀髪をしており、それは日の光を受けてきらきらと輝いていた。

彼らは膝までの長けのタートルネックの衣服を着流しており、その下には動きやすいような足首までのパンツを履いている。生地は一見して特に上質であるようには見えなかったが、清潔にしていることは分かった。

困惑している各務に気付いたらしく、リョエンは改めて各務に尋ねた。

「痛みはどうですか?」

各務は問いかけられて初めて、痛みが和らいでいることに気付いた。

「…大分治まってる」

リョエンはそれは良かったと頷くと、ではと立ち上がった。

「バカラ邸へ行きましょう。さあ、背中におぶってあげますから」

各務に返事をする間も与えず、リョエンは各務を背負うとゆっくりと歩き出した。

リョエンの背中はほっそりとしていたがほんのりと温かく、各務は緊張が解けたのかそのまま意識がなくなってしまった。

「リョエン、天者さん眠っちゃったよ」

そう言うと、少女はリョエンの袖をくいくいと引っ張った。

「そうだな、安堵したのだろう。カランとシオンはしばらくこの人の世話をしてあげねばならないな」

「もちろんよ。あああ、わくわくしてきちゃったっ」

そう言うと、カランと呼ばれた少女は、頬をうっすらと赤く染めて誇らしそうな表情をした。そして、リョエンの背中にくったりと収まっている各務の手を、そっと握ってみたのだった。