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倫理学講話




 私のテーマについてお話しする前に、二、三の導入を述べさせてください。私の思想を皆さんに伝えることに、私は大きな困難を感じていますが、それを前もって皆さんに述べておくことで、いくらか困難を軽減できると思うからです。困難の第一は、言うまでもないことですが、英語は私の母国語ではありません。従って、難しいテーマについて語るときに望まれる正確さと微妙なニュアンスが、私の表現には欠ける場合が多いのです。私としては、私が英語の文法について犯す多くの間違いにめげず、私が意味するところを努めて理解するよう、皆さんにお願いするほかありません。そうしていただければ、私もやりやすくなると思います。第二の困難は、おそらく多くの方が、幾分間違った期待を抱いてこの講話に参加されていることです。この点に関する皆さんの思い違いを訂正するために、私がテーマを選んだ理由を少し話しましょう。本協会の前任の主事の方から、光栄にも講演の依頼を受けたとき、私が最初に考えたことは、是非引き受けたいということでした。しかしその後で、講演の機会をいただけるのならば、皆さんにこれだけは伝えたいということを話すべきだし、この機会を間違った使い方(例えば論理について話すなどして)をしてはならないと思いました。今私は、論理についてはなすことは講演の間違った使い方だ、と言いました。その理由は、科学的な物事を説明するためには、一時間の論文ではなく、一連の講演が必要になるからです。また別の間違いとしては、いわゆる通俗科学についての講演を行なうことを挙げられます。これは、皆さんが本当は理解していないことを理解したと信じ込ませ、現代人の欲求を満足させることを意図した講演です。それは、私の信じるところ、現代人の最も低劣な欲求の一つ、すなわち最新の科学的発見に対する表面的な好奇心を満たそうとするものです。私は、そのような [誤った] 選択肢は採りません。だから、私は皆さんに、普遍的に重要であると思われるテーマをお話しようと決心しました。この講演が、そのテーマについての皆さんの考えを明確にする助けになればと願います(たとえ皆さんが、私が今から話す内容に全く同意できなくても、です)。さて、私の三つめの、そして最後の困難ですが、実はこれは大抵の長い哲学的講演には付きものでして、つまり聞き手には、自分が導かれようとしている道も、その道の先にある目標も見当がつかないということです。言ってみればこういうことです。「彼の言うことは全て分かる。しかし一体全体何を言おうとしているのだろう?」と。あるいはまた「彼の言わんとするところは分かる。しかし一体どうやってその結論に達するつもりだろうか?」。私にできることは、繰り返しになりますが、皆さんに辛抱強くつきあっていただくようお願いすること、そしてこの講演が終わったときには、皆さんが、講演の道筋と辿り着く結論の両方を理解していただけるよう期待することだけです。

 では始めます。私のテーマは、ご存知のように、倫理学です。まず、ムーア教授が著書『倫理学原理』において述べている倫理学についての説明をとりあげてみます[1]。彼によればこうです。「倫理学は善なるものへの普遍的探究である」。ここで私は、倫理学という用語をもう少し広い意味で用いようと思います。「広い」とはつまり、一般に美学と呼ばれるものの、私には最も本質的と思われる部分を含むという意味において、です。そして、私が倫理学のテーマであると考えるものを、できる限り皆さんに分かっていただくため、先に挙げた倫理学の定義と置き換えられる表現を皆さんの前に並べて見せましょう。そのどれもが、程度に差はあれ、同じ内容を持っています。それらを列挙することで、どの定義も共通に持っている典型的な特徴を明らかにしたいと思います。これはちょうど、ゴールトンが[2]、違った顔のすべてに共通する特徴を明らかにするために、同じ感光板の上でそれらの顔の写真を数多く撮ったときと同じ効果を狙うものです。写真の集合を見ることで、例えば中国人の顔の典型というのがどんな特徴を持っているかを理解できるわけです。だから、私が挙げる一連の似たような定義を見れば、きっと、それらの全てに共通する特徴を理解し、それがまた倫理学の特徴でもあることを理解していただけるでしょう。ではやってみます。先ほどの「倫理学は善なるものへの探究である」という定義の代わりに、「価値あるものへの探究」「本当に重要なものへの探究」と言うこともできるでしょうし、あるいは「人生に意味についての探究」「人生に価値を与えるものの探究」、さらには「正しく生きる方法の探究」と言ってもよいでしょう。これらの句を見れば、倫理学が関心を向けるもについて、おおまかな理解を得られます。これらの表現を見渡してまず最初に気付くのは、どの表現も二つの異なった意味で用いられているということです。そのうちの一つを瑣末な、あるいは相対的な意味、もう片方を倫理的または絶対的な意味と呼びましょう。例えば、私が「これはよい椅子だ」言えば、これは椅子が既定の目的の役に立つという意味であり、この場合のよいという語は、この目的があらかじめ決定されている限りにおいてのみ意味を持ちます。実際、相対的な意味でのよいという語は、あらかじめ決定された特定の基準に達しているということを意味するだけです。従って私たちが「この男はよいピアニストだ」と言うとき、その意味するところは、ある程度の難しさの曲をある程度の上手さで弾くことができる、ということです。同様に、「風邪をひかないことは私にとって重要である」と言うとき、それは、風邪をひくと私の生活に特定の描写可能な支障を来たすという意味であり、「これは正しい道だ」と言うとき、私が意味するのは、ある目的地との関係で正しいということです。こうした使われ方をするときは、これらの表現は何も難しい問題も深い問題も提起しません。しかしこれは、倫理学における [「よい」という] 表現の使い方ではありません。私がテニスをできて、皆さんの一人が私のプレイするところ見て「うーん、君はかなりテニスが下手だね」と言ったとします。そして私が「分かってるさ。私は下手だよ。でもこれ以上うまくなりたいとも思わないね」と答えたとします。すると質問者が言えることはせいぜい「そうかい。まあそれでもいいんだけどさ」という程度のことでしょう。しかし [こういうケースならどうでしょう。] 私が皆さんの一人に途方もない大嘘をついて、その人が私のところへやってきて「君の行いは犬畜生も同然だ」と言ったとします。そして私が「分かってるさ。私の行いは悪いものだ。でもこれ以上よい行いをしたいとも思わないね」と言ったとします。さて質問者は「そうかい。まあそれでもいいんだけどさ」と言うことができるでしょうか?絶対にそんなことはありえないでしょう。「いや、君はもっとよい行為をしようと思うべきだ」と言うでしょう。つまり、前者の例が相対的な価値判断だったのに対し、これは絶対的な価値判断というわけです。両者の違いは明白です。それは次のようなものです。全ての相対的な価値判断は、事実(facts)の単なる叙述に過ぎず、従ってそういう形に文を書き換えてしまえば、価値判断をしていたような見かけは一切なくなるのです[3]。だから、「この道はグランチェスターへの正しい道だ」という代わりに「もしあなたがグランチェスターに最短の時間で行かねばならないなら、この道が正しい」と言っても全く同じ意味です。同様に、「この男はよいランナーだ」という文は「この男は何マイルを何分で走る」という意味に過ぎません。他の例も同様です。さて私が強く主張したいのは、相対的な価値判断は単なる事実の叙述として表せるが、いかなる事実の叙述も絶対的な価値判断ではないし、またそれを暗示することもできないということです。この点を説明させてください。皆さんの一人が、全知の人間であり、それゆえこの世界の生物および無生物の動き、また今までに存在した全ての人間の心理状態を知っているとしましょう。そしてこの人物が彼の知っている全てを巨大な本に書き出したとします。当然、この本は世界についての完全な記述を含むでしょう。私がここで言いたいことは、私たちが倫理的判断と呼ぶもの、あるいはこのような判断を論理的に含むと思われるものは、この本には一切含まれないということです。この本は、もちろん、全ての相対的な価値判断と全ての科学的命題、要するに、作られうる全ての真な命題を含むでしょう。しかし、全ての記述された事実は、いわば同じレベルにありますし、また同様に全ての命題も同じレベルにあるのです。絶対的な意味において崇高な命題、あるいは重要な命題やくだらない命題などというものは存在しません。おそらく、皆さんのうちの幾人かは、この意見に賛同し、ハムレットの「何物も善でも悪でもない。善悪は思考が決定する」という言葉を思い出されることでしょう。しかしこのハムレットの言葉はミスリーディングです。彼の言おうとしていることは、「善悪は私たちの外にある世界の性質ではないとしても、それは私たちの心の状態である」ということであると思われます。ですが私が言いたいのは、心の状態は、それによって私たちが記述可能な事実を意味している限りにおいて、決して倫理的な意味での善悪ではない、ということです。例えば、さきほどの『世界の書』の中には、殺人の様子が物理的・心理的に精緻を極める詳細さで書かれているとしても、そうした単なる事実に関する記述には、私たちが倫理的命題と呼ぶ命題は一切含まれていません。殺人も、他の全ての事実、例えば落石と全く同じレベルにあるのです。確かに、殺人についての記述を読むと、私たちは苦痛や怒りやその他の感情を持ちます。あるいは、他の人が殺人のことを聞いたとき、彼らの心のうちに起こった苦痛や怒りなどの感情について読んだりします。しかし、存在するのは倫理ではなく、ただ事実、事実、事実のみなのです。すると、倫理学という科学がもしあるとすれば、それが何であるべきかをよく考えれば、答えは明らかであると言わねばなりません。つまり、私たちが考えたり喋ったりすることは何であれ、それは倫理学ではないし、他のテーマよりも重要で、本質的に崇高であるようなテーマについての科学の本は書くことができない、ということは、明らかだと思われます。 [これに関して] 私は自分の感情を次のようなメタファーによってしか表現できません。それは、もし誰かが本当に倫理学についての本と言えるような本を書いたとすれば、その本は爆発してこの世界の全ての書物を破壊してしまうだろう、という喩えです。科学において使われるような言葉は、単に乗り物にすぎません。それは、意味(meaning)と意義(sense)、自然的な意味と意義を載せて運ぶだけの乗り物です。 [一方] 倫理学は、それが何物かであるとすれば、ですが、超自然的であり、私たちの言葉は事実を表現するだけなのです。私がティーカップに1ガロンの水を注いだとしても、ティーカップはその容量までしか水を保持できません。 [それと同じことです。] 事実と命題に関する限り、あるのはただ相対的な価値、相対的な善、相対的な正義などでしかない、と私は言いました。先に進む前に、このことをもっと明白な例を使って説明させてください。正しい道とは、任意の前もって定められた目標に通じている道のことであり、そうした目標がないのに、正しい道について話すのは明らかに無意味です。では「絶対的に正しい道」という表現が何を意味しうるのかを考えてみましょう。私が思うにその道は、それを見ると誰も論理的必然性を伴って歩まなくてはならない道、歩まなければそれを恥ずかしく思うような道のことでしょう。同様に絶対的な善とは、自分の趣味や性向とは無関係に、誰もがそれを必然的に行なうこと、行なわなければ罪の意識を感じることでありましょう(もし絶対的善が記述可能な物事の状態であればの話ですが)。しかし、私はそのような物事の状態は幻想であると言いたいのです。いかなる状態も、それ自体の中に絶対的判断を強制する力など持っていません。では、それでも「絶対的な善」とか「絶対的な価値」といった表現を使いたい誘惑に駆られる人間は、私も含めて、何を心に抱き何を表現しようとしているのでしょうか?この点を理解しようとするときはいつも、自分がこれらの表現を用いる場合を想い起こすことが自然であり、その場合私は、例えば私が皆さんに快楽の心理学について講義したときに皆さんが置かれるであろう状況にあるのです。そのとき皆さんがなさることは、自分が決まって快楽を感じる典型的な状況を想い起こすことでしょう。というのも、その状況を心の中に思い浮かべていれば、私が皆さんにお話するべきことは全て、具体的で、いわば扱いうるものになるからです。おそらくある人は、快楽を感じる状況の例として、気持ちのいい夏の日に散歩しているときを選ぶでしょう。さて、絶対的な価値、あるいは倫理的な価値というものに心を集中しようとすると、私が置かれる状況は、まさに上記の例の状況なのです。私の場合、この状況に置かれると、必ずある一つの特別な経験の観念が私の前に現れます。従ってそれは、ある意味で、私の経験の中で飛びぬけて素晴らしい経験であり、そのため、私は皆さんにお話する中で、この経験を真っ先に、最も重要な経験として扱っているのです(ただし、先述のようにこれは完全に個人的なものなので、あるいはもっと印象的な例を見つける方々もおられるでしょう)。私がこの経験を描写するのは、もし可能であれば、皆さんに同じかあるいは似通った経験を想い起こしてもらって、私たちの探究のための共通の基盤を作るためです。私が信じるところ、この経験を描写する最もよい方法は、この経験を持ったとき、私は世界の存在に驚くことを述べることです。世界の存在に驚異を感じるとき、私は「何であれ、ものが存在するとは何と異常なことだろう」とか「世界が存在するとは何と異常なことだろう」というフレーズを使いたくなります。また早速ですが別の例を挙げましょう。これも私が知っている経験で、皆さんのうちにも馴染みのある方がいるのではないでしょうか。それはいわば、絶対に安全であると感じる経験です。「何が起ころうとも私を傷つけることはできない」と言いたくなる心の状態のことです。さて、これらの経験について考えてみましょう。とういのは、こうした経験は、私たちが解明しようと努めているまさにその特徴を表していると、私は信じているからです。そしてこの場合、真っ先に言わねばならないことは、これらの言語的表現は無意味(nonsense)だ、ということです!「私は世界の存在に驚く」と言うとき、私は言語の使い方を間違えているのです。ちょっと、この主張について説明させてください。まず、現実であることに対して驚くことは、全く問題のない明快な意味を持っています。私たちは誰でも、今までに見たことのあるどんな犬よりも大きな犬や、普通の意味で何か異常なものを見て「驚く」ということの意味を理解できます。そのどの場合でも、私は、自分がそうではないと考えることのできる何かが、そうであるということ [つまり、事実として成立しているということ] に対して驚いているのです。私は巨大な犬に対して驚きます。なぜなら、そうではない犬、つまり、驚くには当たらない普通のサイズの犬を考えることができるからです。「これこれのものが事実であることに驚く」と言うことが意味を持つのは、それが事実でない状況を考えられる場合に限ります。ある人が家を見て、長い間そこを訪れず、その間に家が取り壊されてしまったとその人が思い込んでいるとします。ところが、家が [まだ] 存在しているのをその人が見て先述の意味で驚く、ということはあります。しかし、「私は世界が存在していることに驚く」と言うのは無意味です。なぜなら、世界が存在していないことは想像できないからです。私を取り巻く世界が、現にある状態で存在することを見て、私が驚くということは、無論ありうるでしょう。例えば私は、青空に見入っている間に、空が曇っているという場合に対して、空が青いことに驚いた経験があります。しかしそれは私の言いたいことではありません。私は、どんな状態でもありうる、そういう空に驚いているのです。人は、私がトートロジー(恒真式)に対して驚いている、と言いたくなるかもしれません。つまり、「空は青いか、それとも青くない」ということに驚いている、というのです。ですがトートロジーに対して驚くなどというのは単に無意味でしかありません。さて、同じことが、私の挙げた他の経験、つまり絶対的に安全であるという経験にも当てはまります。私たちは皆、日常の生活において、安全であるというのがどういうことかを知っています。部屋に居て、バスに轢き殺されることがありえない場合、私は安全です。以前に百日咳にかかったことがあり、それゆえもう二度とかかることがないとすれば、私は安全です。安全であるということの本質的な意味は、ある特定の物事が私に大して物理的に起こりえないということです。従って何が起ころうとも安全である、というのは無意味なわけです。先の例が「存在」あるいは「驚くこと」という言葉の誤用だったのと同様に、この場合もまた「安全である」という言葉の誤用です。さてここで、全ての倫理的・宗教的表現にはある特徴的な言語の誤用がついて回っているということを、皆さんに印象づけたいと思います。一見したところ、これらの表現はただの直喩(simile)に過ぎないように見えます。倫理的な意味で正しいという語を使うとき、私たちが意味しているのは、瑣末な意味で正しいということではありませんが、それに似たことであり、また、「こいつはよい奴だ」と言うときの「よい」という語も、「こいつはよいサッカー選手だ」と言うときの「よい」と同じ意味ではありませんが、しかしある種の類似性があると思われます。また、「この男の一生は価値あるものだった」と言うとき、私たちは、値打ちのある宝石について話すときと同じ意味で「価値ある」という語を用いるわけではありませんが、やはり両者にはある種の類比(analogy)があると思われます。さて、全ての宗教的な言葉は、この意味において直喩か類比として使われていると思われます。なぜなら、私たちが神について語り、「神は全知である」と言い、神に跪き祈りを捧げるとき、その言葉と行為は全て、私たちがその恩寵や色々なものを得ようとする強大な力を持った生身の人間として神を描き出す、壮大で凝った寓意(allegory)の一部であると思われるからです。ですがこの寓意はまた、先ほど述べた諸経験も描写しています。なぜなら、そのうちの第一の経験 [世界の存在に驚く経験] はまさに、私の信じるところ、「神が世界を作った」と言うことで人々が指していたものに他なりません。また第二に、絶対的に安全という経験は、「神の手の中にあるとき、私たちは絶対に安全だと感じる」と言うことによって描写されてきたものなのです。さらに第三の経験は、罪を感じる経験であり、それは「神は私たちの行為を認めない」と言うことによって表現されてきました。従って、倫理的・宗教的な言葉において、私たちは常に直喩を使っていると思われます。しかし、直喩は必ず何かの直喩でなくてはなりません。だから、直喩によってある事実を描写できるなら、直喩に頼らずにその事実を描写することもできなくてはなりません。ですが私たちのケースでは、直喩を使わずに事実を単純に述べようとした途端、実はそんな事実はなかったことに気付くのです。そのため、当初は直喩に見えたものが、今ではただの無意味に見えます。さて、私が列挙してみせた三つの経験(もっと挙げることもできますが)は、私のようにそれを経験した人間にとっては、ある意味で内在的で絶対的な価値を持つと思われます。しかし、「それらは経験である」と私が言ってしまうと、それは事実となります。それらの経験は、いつかどこかで起こり、ある特定の時間持続し、その結果として記述可能 [な事実] になったのです。そこで数分前に私が述べたことから、「それらの経験が絶対的価値を持つ」と言うことは無意味であると認めねばなりません。私の意見をさらにはっきり言うと「ある経験、それは一つの事実だが、それが超自然的な価値を持つように思われるのは、パラドクスである」ということです。ここで、このパラドクスに対処するために、私が採りたくなる一つの道があります。その説明として、まず最初に「世界の存在に驚く」という経験についてもう一度考えさせてください。そしてそれを少し違う仕方で述べさせてください。――私たちは皆、日常生活において奇跡と呼べるものを知っています。それは明らかに、まだそれと似た出来事を見たことがない出来事に過ぎません。今、そういう出来事が起きたと想定します。例えば、皆さんのうちの一人に突然ライオンの頭が生じ、吠え出したとしましょう。これは確かに、私に想像できる限りでは実に異常な事件です。さて、驚きから醒めたとき、私たちが間違いなく取る行動は、医者を呼び、この事件を科学的に調査し、もし彼に害を与えさえしなければ、彼を解剖することでしょう。それで、奇跡はどこへ行ったのでしょう?というのも、この事件をこういう風に [科学的に] 眺めれば、奇跡的なものは全て消えうせてしまっているではありませんか。――少なくとも、もし奇跡という言葉で意味されることが単純に、ある事実がまだ科学によって説明されていない、さらに言えば、他の事実と併せた一つのグループとして、一つの科学的体系の中に収められないということではないとすれば [上記のように考えざるをえません]。以上のことは、「科学は奇跡など存在しないことを証明した」と言うことのバカらしさを示しています。正しくは、事実の科学的な見方は、事実を奇跡として見る見方ではない、ということです。なぜなら、どんな事実を想像してみても、それは、それ自体では奇跡という言葉の絶対的意味において奇跡的ではないからです。というのも今なら、私たちは「奇跡」という語を相対的な意味と絶対的な意味の両方で使っていたということが分かるからです。そこで私は、世界の存在に驚くという経験を「世界を奇跡として見る経験」と言い表しましょう。今や私は、世界の存在という奇跡の正しい言語表現は、それが言語の中のいかなる命題でもないとしても、言語自体の存在である、と言いたい誘惑に駆られます。しかしそうだとすれば、ある時には奇跡に気付き、ある時には気付かないということは何を意味するのでしょうか。というのも、言語による奇跡的なことの表現を、言語の存在による表現に置き換えたことで私が言ったことは、せいぜい、私たちは、自分の表現したいことを表現できないし、私たちが絶対的な奇跡について述べることは全て、相変わらず無意味なままである、ということに過ぎないからです。さて、これらのことに対する答えは、皆さんの大半にも明らかなものです。皆さんはきっとこう言われることでしょう。「よろしい。もし私たちが、特定の経験に、絶対的または倫理的価値と重要さと呼ばれる性質を帰属させたい誘惑に常に駆られるとすれば、そのことが示すのは、そういう言葉で私たちが無意味なことを言おうとしているということではない。そうではなく、結局のところ、『ある経験は絶対的な価値を持つ』と言うことで私たちが意味することの全ては、 [その経験が] 他の事実と同じようにまさに事実であるということ、そしてそれが帰着するところは、倫理的・宗教的表現で言おうとすることについての正しい論理的分析を見つけることに、私たちは未だ成功していないということである」と。このように言われると、いわば閃光に照らし出されたかのように、私は以下のことが分かるのです。それは、絶対的な価値という言葉によって言おうとすることを、私が考えうるいかなる記述も記述できないし、仮に誰かが提案できるような有意義な記述があるとしても、私はまさにその有意義さの故に、最初からそうした記述を拒否するだろう、ということです。つまり、 [その理由は] 今や私は、それらの無意味な表現が無意味である理由は、私がまだ正しい表現を発見していないことではなく、無意味さこそがその本質であることにあると見てとれるからです。というのも、それらの表現によって私が成したいことは、世界を越えて行くこと、すなわち有意義な言語を超えて行くことだからです。私の全傾向、そして私の信じるところ、今まで倫理や宗教について書いてきた全ての人間の傾向は、言語の限界へ向かって走っていこうとすることです。私たちの牢獄の壁へ向かって走ることは、完全に、絶対に成功する望みがありません。倫理学が、人生に対する究極的な意味、絶対的な善、絶対的な価値について何かを言おうとする欲求から生じたものである限り、それは科学ではありえません。倫理学が語ることは、いかなる意味においても私たちの知識を増やしません。しかし、それは人間の心の中の傾向を記した文書であり、私は個人的にこの傾向に敬意を払わないわけにはいきません。そして、私がそれを嘲ることは、生涯にわたってないでしょう。


訳註

[1] G.E.ムーア(1873-1953)は20世紀前半を代表する倫理学者。ケンブリッジで教授を務め、ウィトゲンシュタインやラッセルと交流を持ちました。主著『倫理学原理』は邦訳があります。

[2] ゴールトン(Francis Galton,1822-1911)はダーウィンの従兄弟で、優性学の創始者として知られ、1904年には優生学研究所を設立し、人間の改良運動を展開しました。また統計学における回帰分析の考案者でもあります。
 ここでウィトゲンシュタインが言及しているのは「合成写真」の技術です。ゴールトンは、同じ種類の人格や民族の人々の顔写真を重ね合わせていけば人格や民族性の“観相学”的な本質が、写真上にはっきりと顕現するに違いないと信じ、重ね焼きによる合成写真を発明しました。例えば、犯罪者の顔を次々と重ね焼きして“理想的な犯罪者”を作り出したり、日本人の典型的な顔写真を作り出したりしました。
 また、この写真の喩えは、後期の重要な概念である「家族的類似性」の萌芽とみなすことができるでしょう。

[3] 「事実(fact)」は、もちろん『論考』における「事実」と同じ意味で用いられています。従ってこの講話における「事実の叙述」は『論考』における「有意味な命題」に相当します。


著:L. Wittgenstein 1929
訳:ミック
作成日:2003/10/30
最終更新日:2006/07/17

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