音楽の歌詞に対する関係について




 音楽が語ることを純粋に音楽的に理解できる人は、比較的少ない。音楽作品はある種のイメージを喚起するもので、もしそれが起こらなければ、作品は理解されないか、あるいは何の役にも立たないというような、誤った陳腐な見解が蔓延している。
 他の芸術に対しては、誰もそんなことを要求せず、その素材のもたらす効果に満足している。もっとも、他の芸術では、素材のテーマ、つまり表現されたテーマが、平均的な人間の理解力にも自ずと明らかになるものであるが。
 だが、音楽にはそのような素材のテーマが欠けているので、人々は素材の効果の背後に純形式的な美しさや詩の言葉の運びを探そうとする。
 かつてショーペンハウエルは、その驚くべき思索によって音楽の本質を言い当てた。「作曲家は、世界の内的な本質を明らかにし、その最も深遠な英知を、理性では理解できない言語で紡ぎ出す。それはちょうど、催眠術にかかった人が、目覚めているときには覚えていないことについて口にすることに似ている[1]。」しかしそのショーペンハウエルでさえ、後になって、理性では理解できない言語の詳細を、私たちの概念に翻訳しようと試みた。
 もちろん、抽象化つまり認識可能なものへの還元をその機能とする人間の言語の概念へ翻訳すれば、理解不可能でただ感得のみ可能な世界の言語が消滅してしまうことぐらい、彼は承知していたはずである。だがそれでも、彼の哲学者としての目的――世界の本質、すなわち量ることのできない豊かさを概念によって表現すること――を考えれば、彼の行ないは正当なものである。たとえ概念の貧困があまりに明白だったとしても、である。ワーグナーも、音楽家として直接的に見たものを普通の人々に伝えようとしたとき、ベートーヴェンの交響曲に標題を付けた。これも正しい行ないである。
 こういうことが一般的に行なわれるようになると、深刻な弊害が現れてくる。つまり、彼らの行ないの意味が逆転し、人々は音楽の中に詩の言葉の運びや [作者の] 感情を当然のように探そうとするのだ。実際には、ワーグナーの場合、音楽を通じて受け取った「世界の本質」についての印象が彼の中で創造的になり、他の芸術の素材に姿を変えて詩の形で現れるのだ。しかし、その詩に現れる言葉の運びと作者の感情は、もともと音楽の中に含まれていたものではなく、ただ詩においては容認されない素材であるに過ぎないのである。なぜなら、このように直接的で汚れのない純粋な表出は、主題と分かちがたく結びついた詩という芸術を拒絶するからである。
 この純粋直観の能力は極めて稀であり、高度な能力を持った人間のみに備わっているものである。専門の作曲家がある種の困難に直面して困惑してしまう理由はここにある。というのも、最近では楽譜はますます読みづらくなり、それほど素早く演奏できる人は少ない。また極めて鋭敏で純粋な感覚の持ち主でも過ぎ去っていく印象しか捉えることができない場合が多い。こうしたことから、報告と評価を生業としながら、大抵の場合楽譜を生き生きと想像することのできない批評家は、自らの評価を傷つけない限りで、少なくとも自分の職務を全うしようとするが、しかしその程度の誠実さをもって仕事に取り組むことさえ不可能になっているのだ。批評家は、純粋に音楽的な作用と対峙するとき、全くの無力感に包まれる。それゆえ、標題音楽やリート、オペラなど歌詞と関連づけられた音楽について好んで書きたがる。 [しかし] 舞台指揮者から新しいオペラの音楽について聞きたいのに、歌詞集や舞台効果や演奏者のことばかり聞かされることを考えると、批評家ばかりを責めることもできないかもしれない。確かに、音楽家が教養を身につけ、専門的なことを語るのではなく、教養を持っていることを示さねばならないと考えるようになって以来、音楽について語ることのできる音楽家はほとんどいなくなってしまった! だが人が好んで引き合いに出すワーグナーは、純粋に音楽的なものについて膨大な量を書き残しているのだ。彼は、このような現状が自分の努力が誤解された結果であるということを、是が非でも否定したかったに違いない。
 従って、音楽批評家がある作曲家を評して「その作品は詩を正当に扱っていない」と言うのは、このジレンマから逃れるためのこれ以上はない安易な逃げ道である。「新聞の紙面」は、必要な証拠を提出しようとするまさにその時に必ず尽きるので、論者の見識不足をいつでも補ってくれる。そのため、実際のところ、芸術家の方が「証拠不十分」の咎で有罪宣告を受ける破目になる。ところが一度証拠が提出されると、それはむしろ反対側の証拠になる。なぜならそれが示すのは、音楽を作ることのできない人間がいかにして音楽を作るか、すなわち、芸術家が作曲するとき音楽がどのように見えてはならないか、ということだけだからである。このことは、作曲家が批評を書く場合にも――たとえ彼自身が素晴らしい作曲家だったとしても――当てはまる。なぜなら、批評を書くときには、彼は作曲家でもないし、音楽的にインスピレーションを得ているわけでもないからである。彼がインスピレーションを得ていれば、いかにして作曲するかを書く代わりに、実際に作曲するだろう。作曲できる人間にとっては、その方が手っ取り早く簡単だし、説得力も増す。
 事実、そのような判断は、もっともくだらない観念、すなわち因襲的な構成法というものから生まれ出る。その判断によれば、詩における特定の過程は、音楽におけるある種の音の強弱や速度と完全に呼応して進行せねばならないことになる。 [しかし] この呼応関係そのもの、あるいはもっと深い呼応関係でさえ、見かけでは反対のことが表現されている場合でも起こりうる。それゆえ、例えば繊細な情念が速く情熱的なテーマによって表現されることもある。なぜなら、その激しさから更に強い激しさへと有機的に発展するからである。しかし、こうした諸々のことを度外視して考えると、こうした構成法は即座に却下される。なぜならそれが因襲的であり、全ての人にとって、音楽を「詩作し、思考する」一つの言語へと作り変えようとするものだからである。そして批評家がこの構成法を使うと、以前どこかで読んだのだが、「ワーグナーにおけるデクラメーションの欠点」などという論文が出来上がってしまう。これを書いた愚か者は、「もしワーグナーに先を越されていなければ、こんな風にあの楽節を書いたのに」と言っていた。数年前、私は自分がよく知っているシューベルトの歌曲の原詩について全く知らなくて、大層恥ずかしい思いをした経験がある。しかしいざその原詩を読んでみて分かったのだが、詩を読むことはその歌曲の理解に何ら寄与しなかったのである。というのも、詩を読んだ後も、その音楽についての見解を変える必要を全く見出さなかったからである。むしろ反対に、歌詞を知らないときの方が、言語的思考の表層に固執していたときよりも、その音楽の内容――本当の内容――を、恐らくより深く把握していたことが明らかになったぐらいだ。そしてこの体験よりもっと決定的だったのは、私が自分の歌曲を作曲する際、詩の最初の語句の響きに陶酔し、後に続く詩の筋は全く気にもかけず、それを理解することさえせず、恍惚状態の中で最後まで書き上げ、後日初めて自分の作った歌曲の本当の詩的内容を確かめる、という場合が多かったことである。そのとき非常に驚いたことに、開始の一音の直接的な触れあいに導かれて、その音に必然的に続かねばならない全ての音を明らかに見抜いたときほど、その詩人を正当に評価したことはなかったのである。
 この体験から、芸術作品はあらゆる完全な有機体と同じように振舞うということが、私には明らかになった。芸術作品の構造は非常に有機的なため、いかなる小さな部分においてもその最も真なる最も内的な本質を顕現させる。人体のどこを刺しても、常に同じ血が流れ出る。ある詩の一行を読み、ある楽曲の一小節を聞いたなら、全体を理解することができる。全く同様に、一つの言葉や目つき、身振り、歩き方、さらには髪の色でさえ、そこからある人間の本質を知るには十分である。そのようわけで、私は、詩を含めたシューベルトの歌曲を音楽だけから、シュテファン・ゲオルゲの詩を音の響きだけから、完全に把握したのだった。それも分析と綜合によってはまず到達しえないような完璧さで。もっとも、このような印象は大抵、後になってから理性に語りかけ、そして理性に対して、その印象をどのような分野にも適用するよう準備すること、および、人が全体として持っているものを分解分類し、測定し、検証し、個別的に解決することを要求してくる。芸術的創造でさえ、本当の着想に至る前は、しばしばこの迂回路を通る。カール・クラウスが言語を思考の母と呼び、ワシリー・カンディンスキーとオスカー・ココシュカが、それまでは音楽家だけが使っていたのと同じ表現方法によって、色彩と形態において空想し表現するために、題材となる外的対象をほとんど契機としない絵を描くのは、芸術の真の本質についての認識が徐々に広まっている徴候である。私はカンディンスキーの『芸術における精神的なもの』を大きな喜びをもって読んだ。そこでは絵画のこれからの道が示されており、テキストや絵の素材について問う声は間もなく止むだろう、という期待が述べられている。
 そうなった暁には、他の場合には既に明らかとなっていることが、 [芸術においても] 明らかになるだろう。もはや人は、歴史的題材をテーマにする詩人には最大限の自由を持って書くことが許され、画家が今日でもなお歴史的題材の絵画を描きたいときは、歴史家と競争する必要がないことを疑ったりしない。なぜなら、芸術作品がこだわるべきは、その提示しようとするものであって、その外的契機ではないからである。ゆえに、詩に基づいて作曲される全ての音楽作品において、出来事を厳密に再現することは作品と無関係である。肖像画にとって、本人に似ているかどうかが無関係であるのと同じように。数百年後には、肖像画が似ているか否かを調べることはできなくなるが、それでも作品はその力を失わない。その力が残るのは、恐らく印象派の画家たちが考えていたように、本当の人間――すなわち見かけ上は絵に表現されている人間――が語りかけるからではない。絵を描いた芸術家が語りかけるからである。芸術家は、肖像画が似ているはずの人間よりも高度の現実性において、自らを肖像画の中に表現する。この点を理解するなら、デクラメーションやテンポや音の強弱に見られるような音楽と歌詞の外面的な一致は、内的な一致とほとんど関係なく、そんなことは見本の模写と同じ初歩的な段階のことに過ぎないということも、容易に理解できるだろう。そして表層における見た目上の相違は、より高度な次元における呼応のために必要となりえること、ゆえに歌詞に基づいて音楽を評価することは、炭素の特性によって蛋白質を評価するのと同じ程度の信頼性しかないということも、理解されるであろう。


訳註
[1] ここでシェーンベルクが引用しているのは、例えば以下のような箇所だと思われます。
音楽もまたかの問い [「生とは何ぞや」] に答える。ただし他の芸術よりもさらに深刻に。というのは、音楽は、まったく端的に理解できる言葉で、しかし理性の言葉には翻訳できない言葉で、あらゆる生命と生存の奥底にある本質を語るからである。
 (「芸術の内的本質について」『ショーペンハウアー全集6』pp.335-336)

著:A.シェーンベルク
訳:ミック 2005/04/24
最終変更日:2005/08/03
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