訳註
[1]
後半の章で明確に述べられますが、この「命題を現実に適用する」ことが「検証」という行為です。他にも「命題と現実を比較する」、「命題を現実にあてがう」などの表現も全て同じことを表しています。
ところで、ここでシュリックが「現実に適用する」というように括弧つきでこの表現を使っているのはなぜでしょう。それは、このアイデアが他の人物から借用したものだからです。その人物こそ、当時シュリックが頻繁に接触を持ち、深く傾倒していたウィトゲンシュタインです。検証主義者としてのウィトゲンシュタインの思想は、主に『考察』や『学団』から知ることができますが、既に『論考』においてもその萌芽はあります。以下を参照。
像は物差のように現実に対してあてがわれる。
(『論考』2・1512)
像の真偽を認識するためには、我々は像を現実と比較せねばならない。
(『論考』2・223)
論理の適用がいかなる要素命題が存在するかを決定する。
(『論考』5・557)
適用ということで私が理解しているのは、音の結合や種々の線を言語とするもののことである。即ち、適用が線の刻まれている棒を物差しとする、と言われる意味で、言語を現実にあてがうこと。
そしてこの言語をあてがうことが命題の検証である。
(『考察』第54節)
[2]
これが「意味の検証理論」のテーゼです。細かい話をすると、「検証」の概念は論理実証主義者の間で二通りの使われ方をします。一つが、「命題の意味はその検証方法である」という強いテーゼ(S)としての使われ方。(シュリックが触れているのがこれです。) もう一つが「命題が有意味であるためには、検証可能でなくてはならない」という弱いテーゼ(W)としての使われ方です。前者は一般に「検証原理」または「意味の検証理論」、後者は「検証可能性のテーゼ」と呼ばれます。(もっとも、シュリックも断るように、前者を「理論」と呼ぶことは厳密にはふさわしくありません。)
前者が強く後者が弱い、というのは、前者は後者の十分条件であるのに対し、後者は前者の必要条件に過ぎないので、前者から後者は帰結しますが、後者から前者は導けないという意味です。命題の意味が検証方法なら、命題が有意味であることの必要十分条件は、命題を認識する人がその検証方法を知っていることです。ということは、有意味性の必要条件として、そもそも検証可能であることが要請されます。(検証可能でない命題について検証方法も何もあったものではありません。) ゆえに(S) → (W)が成立します。これに対し、(W) → (S) は必ずしも成り立ちません。命題が有意味であるためには検証可能でなければならないとしても、命題の意味そのものは検証方法である必要はないからです。
[3]
「直示的定義はいかなる前提知識も必要としない」という見解には多くの批判が存在します。皮肉にも、ウィトゲンシュタインからも厳しい批判が寄せられました。この論文の2年前から前年にかけて口述された
『青色本』や、『探究』
第28節にその批判を見出すことができます。
実際、ウィトゲンシュタインが言うように、「直示的定義は一意的に語の意味を定義する」とか「直示的定義を理解する上で前提知識は必要ない」という考えは誤りです。鉛筆を見せて「これはタブ」だと言うとき、説明された側が「これは赤い」とか「これは丸い」のように様々に解釈することはありえます。定義が一義的に伝わるためには、問題となっている性質が形なのか色なのか、それとも別の性質なのか、事前に相手が了解している必要が ―― つまり前提知識を持っている必要が ―― あります。
従って、シュリックの「ウィトゲンシュタインも主要な論点については賛同してくれるだろう」という希望的観測は、裏切られてしまうでしょう。
[4]
ブリッジマン(Percy Williams Bridgman, 1882-1961)はアメリカの物理学者。高圧物理学の実験研究を専門とし、1946年にノーベル賞を受賞しました。哲学においてはしばしば、初期の反実在論の一分岐である「操作主義(operationism)」の提唱者とみなされます。主著『現代物理学の論理』は、科学上の全ての概念を、対応する操作によって定義しようとする構想に基づいています。
[5]
この場合のトートロジーは、今の命題論理でいうトートロジー(恒真関数を表現する論理式)と同義ではなく、同語反復的な論理的真理を漠然と意味する言葉です。そのため、「同語反復」という古めかしい訳語が、この場合は適切です。
[6]
この一文には、論理の基礎を規約に求めようとする規約主義が現れています。論理実証主義は、『論考』のプラトニズム批判を継承して、論理的真理の必然性を保証する方法に規約主義を採用します。この立場は、1920年代を通して大きな勢力を持ちましたが、後にクワインの「規約による真理」(1936)において、こうした「純粋な規約主義」は原理的に保持できないものであることが示されます。(クワイン自身も、一時は規約主義を支持した一人でしたが。)
しかし、これで規約主義というアイデアが完全に破綻したわけではありません。ウィトゲンシュタインの「根元的規約主義」はともかくとして、まだ「純粋ではない」規約主義に存続の可能性は閉ざされていません。
[7]
Ignorabimus は人間の認識の限界性を表現するスローガンで、1872年ライプツィヒで開催されたドイツ自然研究者医学者大会(GDNÄ)において、デュ・ポワ=レーモンが講演「自然認識の限界について」を締めくくる言葉として述べた言葉「Ignoramus, Ignorabimus(我々は無知である、我々は無知のままであろう)」に由来します。有名な「ラプラスの魔」の喩えを用いて機械論的還元論の原理が批判されたのもこの講演で、この後、賛否両論が飛び交う「イグノラビムス論争」が展開されました。
科学に対して楽観的な期待を寄せるシュリック(およびウィーン学団の面々)は、否定派です。またヒルベルトも「我々は知るであろう」と述べて否定派にまわりました。
[8]
カルナップの「方法論的独我論(methodological solipsism)」は、全ての概念を自己の体験的所与によって基礎付けられるという還元主義的な現象主義を表すもので、ラッセルの論理的原子論の展開と呼べます。
この用語は、1980年にアメリカの哲学者J.A.フォーダーが提唱した、認知科学の方法論上の立場を指すものとしても使われるので、(共通点はあるものの)カルナップのものと混同しないよう注意が必要です。フォーダーの立場は、心を外界から切り離して単独で研究対象とすることが可能であるというもので、心の計算主義と結びついて認知科学では主流をなす考えです。
[9]
ファイヒンガー(Hans Vaihinger, 1852-1933)はドイツの哲学者。ストラスブール大学とハレ大学で教授。雑誌『カント研究』およびカント協会を設立したカント学者として知られます。新カント学派隆盛期に、独自の「虚構主義」を提唱し、科学や哲学の真理は全て真理そのものではなく、真理である「かのような」虚構であり、生きる上での有用性によってその存在が要請されていると主張しました。シュリックが批判するのがこの虚構主義です。その思想は、そのものずばりのタイトルを持つ『かのようにの哲学』(1911)に収められています。
[10]
アヴェナリウス(Richard Avenarius, 1843-96)はドイツの哲学者。チューリヒ大学教授。マッハとともに経験論批判を主張し、哲学とは所与に含まれていない全ての観念を知識から取り除く科学的努力であるという考えを展開しました。
[11]
シュリックの情報源とは違うでしょうが、
『青色本』で、「他人の痛みを私が感じられることは論理的に不可能ではない」という例を使った議論が述べられています。
[12]
『論考』の以下の節も参照。
トートロジーと矛盾は、それが何も語らない、ということを示す。トートロジーと矛盾は真理条件を何一つ持たない、それは無条件に真であるからである。そして矛盾はいかなる条件の下でも真でない。トートロジーと矛盾は意義を欠いている。
(『論考』4・461)
シュリックはトートロジーについて「ナンセンスの否定」と述べていますが、実際は『論考』では、トートロジーは矛盾の否定です。そしてトートロジーと矛盾は「意義を欠く」(4・461)が、「ナンセンスではない」(4・4611)とされています。これだけなら、シュリックがナンセンスと矛盾を混同する誤りを犯した、というだけで済むのですが、『論考』における「トートロジー・矛盾・ナンセンス」の三者には少し複雑な関係があります。
まず、4・461で述べられているように、トートロジーと矛盾は意義を持ちません。このことから、両者がナンセンスであるとシュリックが推論したのも無理からぬことです。しかし他方、トートロジーも矛盾も要素命題の真理関数として得られるものですから、それらも命題です。そして命題は真偽両方の可能性を持つことが要請されています。ところが、トートロジーは絶対に偽にならないし、矛盾は絶対に真になりません。すると両者とも『論考』が認める命題の資格を持たないナンセンスになってしまいます。このジレンマから逃れるために、ウィトゲンシュタインは「トートロジーと矛盾は意義を欠くが、ナンセンスではない」という苦しい説明をせざるを得なかったのでしょう。