ホームオットー・ノイラート


科学的世界把握 ―― ウィーン学団



I . 科学的世界把握のウィーン学団  
II. 科学的世界把握  
III. 問題領域  
IV. 回顧と展望



序文

 1929年の初頭、モーリッツ・シュリックは、ボン大学から非常に魅力的な招聘を受けた。少し迷った後、彼はウィーンに留まることを決めた。彼も、そして私たちも、このとき初めて、科学的世界把握の方法を共同研究によって発展させる、「ウィーン学団」とも言うべきものの存在をはっきりと意識したのである。このサークルは確固たる組織を持たず、同じ科学的な基本的態度を持つ人々から構成されている。個々のメンバーは自発的に参加し、全員がこの結びつきを重視しており、誰も突飛なことをして協力関係を壊そうとはしない。多くの点で、一人のメンバーは誰でも他のメンバーの意見を代表できるし、一人のメンバーの仕事を、他のメンバーがさらに発展させることもできる。

 ウィーン学団は、同じ方向性を持つ人々と連絡を取るよう努め、学団の外にいる人々にも働きかけるよう努力している。エルンスト・マッハ協会との共同研究は、この努力の現れである。この協会の会長がシュリックで、幹部の多くがシュリック・サークルに所属している。

 エルンスト・マッハ協会は、経験哲学協会(ベルリン)と共同で、1929年9月の15日と16日にプラハで、同時期に開かれるドイツ物理学協会とドイツ数学協会者連盟の会議に並行して、精密科学の認識論のための会議を開く。その会議では、個別の専門的問題のほかに基礎的な問題も議論されるはずである。この会議の日程にあわせて、科学的世界把握のウィーン学団についてのこの冊子も刊行されることになっている。モーリッツ・シュリックは、1929年10月にカリフォルニアのスタンフォード大学の客員教授から戻ってくるが、この冊子は、彼がウィーンに留まってくれることに対する感謝と喜びのしるしとして献呈するものである。この冊子の第二部には参考文献表が含まれているが、これは学団のメンバーたちの協力によって編集された。この文献表によって、ウィーン学団の参加者や、あるいはそれに近い立場の者の従事する問題領域が概観できるはずである。

ウィーン 1929年8月
エルンスト・マッハ協会を代表して
ハンス・ハーン
オットー・ノイラート
ルドルフ・カルナップ




I. 科学的世界把握のウィーン学団

1. 前史

 形而上学的 ・神学的思考が、生活においてのみならず、学問においても再び盛んになってきていると、多くの人が主張している[1]。ここで問題なのは、それが一般的現象なのか、それとも単に特定の限られた領域における変化なのか、という点である。この主張自体が正しいことは、大学の講義のテーマや公刊されている哲学書のタイトルを一瞥すれば容易に確認できる。しかしまた、啓蒙と反形而上学的な事実研究という反対の精神が、自らの存在と使命を自覚することによって、勢いを増してきている。幾つかの領域においては、思弁を排した経験に基づく思考方法が有力になってきている。この傾向は、最近高まりを見せている [形而上学への] 反対によって一層強められている。

 経験科学の全ての部門における研究活動には、この科学的世界把握の精神が息づいている。しかし、この精神を体系的に考え抜き、根本的に主張したのは、ごく少数の指導的な思想家だけであり、そのうち、同じ考えを持つ協力者を自分の周りに集められる立場にいる人間は、ごく僅かである。とりわけ形而上学に反対する努力が見出せるのは、いまだ偉大なる経験主義の伝統が健在なイギリスである。ラッセルとホワイトヘッドによる論理学および実在分析についての研究は、国際的な意義を持つ。アメリカでは、この努力は異なった形をとって現れている。ある意味では、ジェームズもこの中に含めれられよう。新生ロシアでも、部分的には古い唯物論的思潮に依拠しているとはいえ、科学的世界把握が強く求められている。ヨーロッパ大陸では、科学的世界把握の方向における生産的な仕事が、特にベルリン(ライヘンバッハ、ペッツォルト、グレリンク、ドゥビスラフなど)とウィーンに集中的に見出せる。

 特にウィーンがこのような発展に適した土壌であった理由は、歴史的に理解できる。19世紀後半のウィーンでは、長らく自由主義が政治において支配的であった。自由主義の思想世界は、啓蒙主義、経験主義、功利主義、およびイギリスの自由貿易運動から生じたものである。ウィーンの自由主義運動においては、世界的名声を持った学者が指導的な地位にあった。そこで反形而上学的精神が涵養されたのである。ミルの著作を翻訳したテオドール・ゴンペルツ(1869-80年)、ズュース、ヨードルらの名前が思い起こされる[2]

 ウィーンが科学的な方針による成人教育において指導的たりえたのは、この啓蒙精神のおかげだった。当時、ヴィクトール・アドラーとフリードリッヒ・ヨードルの協力の下に成人教育協会が創設され、発展していった[3]。「市民大学講座」と「市民大学」が、ルード・ホフマンによって設置された。彼は著名な歴史家で、その反形而上学的な見解と唯物史観は、彼の全ての活動から明らかである。この同じ精神から、「自由学校」運動が生じたのであり、この運動が今日の学校改革の先駆となった。

 エルンスト・マッハ(1838年生まれ)は、このような自由な雰囲気の中を生きた。彼はウィーン大学の学生および私講師(1861-64)であった。年を取ってから、彼のために帰納科学の哲学の教授職が作られたとき(1895年)になって、ようやく彼はウィーンへ戻ってきた。マッハは、経験科学、何よりもまず物理学を形而上学的思考から解放することに特別の努力を払った。絶対空間に対する彼の批判 ―― これによって彼はアインシュタインの先駆となった ―― 、物自体および実体概念の形而上学に対する闘い、感覚与件という究極要素から科学的概念を構築することについての探究などが思い出される。若干の点においては、科学的発展を彼に帰すことは正しくない。例えば、彼の原子論に対する態度や、感覚性理学によって物理学が促進されることを期待したことなどである。しかし、彼の見解の本質的な部分は以後の発展に積極的に利用された。後に、マッハの講座はルートヴィヒ・ボルツマンが引き継いだが(1902-06)、彼ははっきりと経験主義の考えを主張した。

 物理学者マッハとボルツマンが哲学の講座に影響を及ぼしたことによって、物理学の基礎と結びついた認識論と論理学の問題に強い関心が寄せられたことは、当然の成り行きだった。人々はまた、これら基礎論の問題を通じて、論理学を革新する努力へと導かれた。これらの努力は、ウィーン大学においても全く別の方面から、ブランツ・ブレンターノが土壌を整地することによって、なされていた(彼は1874年から80年まで神学部の哲学教授、後に哲学部の講師を務めた)。ブレンターノはカトリックの聖職者としてスコラ哲学を理解してた。彼はスコラ論理学を直接ライプニッツの論理学改革と結びつける一方、カントと観念論の体系的哲学者たちを無視した。ブレンターノと彼の学派が、論理学を厳密に新しく基礎付けようと努力したボルツァーノ(『知識学』、1857年)その他の人々に理解を示していたことは、よく語られることである。あるとき、科学的世界把握の支持者はマッハとボルツマンの影響下にあると強力な主張の行なわれた集会があったが、その集会において、特にアロイス・ヘフラー(1853-1922)は[4]、ブレンターノ哲学のこの側面を前面に押し出す発言をした。ウィーン大学の哲学会では、ヘフラーの司会によって、物理学の基礎論の問題とそれに関連する認識論と論理学の問題をテーマとする多くの討議が催された。哲学会の編纂によって『力学の古典への序論』(1899)およびボルツァーノの幾つかの論文(ヘフラーとハーンによる編集、1914年、1921年)が出版された。ウィーンのブレンターノ・サークルには、若きマイノング(後にグラーツ大学教授)がいた。彼の『対象論』(1907)は、確かに現代の概念論にある種の親近性があり、彼の弟子エルンスト・マリ(グラーツ大学)もまた論理計算の領域で仕事をした。ハンス・ピヒラーの初期の著作も、この思想サークルから生まれたものだ。

 マッハとほぼ同時期のウィーンでは、彼と同世代の友人ヨーゼフ・ポパー=リュンコイスが活動していた。彼には、物理的・科学技術的業績のほかに、体系的とは言えないが壮大な哲学的な考察(1899)と合理的な経済計画(『国民生産隊』、1878)の仕事がある。彼は、ヴォルテールについての本で表明しているように、意識的に啓蒙の精神に貢献した。彼は、他の多くのウィーンの社会学者、例えばルドルフ・ゴールドシャイトらとともに形而上学を排斥した。注目すべきことに、ウィーンにおける国民経済学の領域においても、限界効用学派が厳密な科学的方法を発達させた(カール・メンガー、1871)[5]。この方法はイギリス、フランス、スカンディナビア半島には根付いたが、ドイツは例外だった。ウィーンでは特にマルクス主義の理論が重点的に育成され、拡張されていった(オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファディング、マックス・アドラーなど)。

 こうした様々な分野からの影響を受けて、ウィーンでは特に世紀転換期から、より多くの人々が一般的問題を経験科学に緊密に結びつけて、熱心に議論する機会が増えた。とりわけ、物理学の認識論的・方法論的問題、例えばポアンカレの規約主義やデュエムの『物理理論の目的と構造』(彼の翻訳者は、マッハの支持者で当時チューリッヒ大学で物理の私講師をしていたフリードリッヒ・アドラーである)が問題となった。さらに、数学基礎論の問題、公理論、論理計算その他の問題も重要と見なされた。科学史と哲学史の観点から見ると、特に次にまとめたものが重要である。これらの特徴は、主にその著作が読まれ、議論の対象となった代表的な論者から知ることができる。

 
  1. 実証主義と経験主義 :ヒューム、啓蒙主義、コント、ミル、リヒャルト・アヴェナリウス、マッハ。
  2. 経験科学の基礎、目的、方法 (物理学や幾何学などにおける仮説):ヘルムホルツ、リーマン、マッハ、ポアンカレ、エンリケス、デュエム、ボルツマン、アインシュタイン。
  3. 論理計算とその実在への応用 :ライプニッツ、ペアノ、フレーゲ、シュレーダー、ラッセル、ホワイトヘッド、ウィトゲンシュタイン。
  4. 公理論 :パッシュ、ペアノ、ヴァイラーティ、ピエリ、ヒルベルト。
  5. 幸福論と実証的社会主義 :エピクロス、ヒューム、ベンサム、ミル、コント、フォイエルバッハ、マルクス、スペンサー、ミュラー=リール、ポパー=リュンコイス、カール・メンガー(父)。


2. シュリックを中心としたサークル

 1922年に、モーリッツ・シュリックがキール大学からウィーン大学へ招聘された。彼の活躍は、ウィーンの科学的雰囲気の歴史的発展の時宜を得たものだった。彼は、もともと物理学者として出発したが、マッハとボルツマンが創始し、ある意味では反形而上学的傾向を持ったアドルフ・シュテールが発展させた伝統に新しい命を吹き込んだ。(ウィーンには相次いで次のような人々が現れた。マッハ、ボルツマン、シュテール、シュリック。プラハには、マッハ、アインシュタイン、Ph.フランク。)

 シュリックの周りには、次第に、様々な科学的世界把握の試みを一つの方向に統一しようとするサークルが形成された。人々はこうして集結することによって、互いに刺激しあい、実り多い成果を挙げた。サークルのメンバーは、著作が存在する限り、文献表に名前が載っている [編注:文献表は省略] 。みな、いわゆる「純粋」な哲学者ではなく、個々の科学分野で活動している。しかもその出自も多様な分野に及び、もともと保持していた哲学的見解も様々であった。しかし、次第に統一感が醸成された。これには、「およそ語りうるものは明晰に語らなくてはならない」(ウィトゲンシュタイン)という特殊な科学的態度の影響もあった。意見が分かれていても、最終的には一致させることが可能であり、それゆえまた、一致は要求もされるのである。こうして、単に非形而上学的なだけでなく、反形而上学的な態度が全員の共通の目的を意味することが、ますます明確になってきたのである。

 人生についての問題は、このサークルで議論されたテーマの中で重要なものではなかったが、これについてもまた、注目すべき意見の一致を見た。その意見は、純理論的観点からそう見える以上に科学的世界把握と強い親近性を持っている。例えば、経済学と社会学を改革する努力や、社会的関係を改善し、人類の統一を求める試みや、学校と教育を改革しようという企ては、科学的世界把握との内的な関連を示している。サークルのメンバーはこうした努力に賛同し、共感をもって考察した。そして幾人かの者は、これを強力に支援したことも知られている。

 ウィーン学団は、閉鎖的なサークルとして共同研究をするだけでは満足しない。学団はまた、現在行なわれている諸活動が科学的世界観に好意的で、形而上学と神学に敵対するものである限り、それらと接触を持とうと努力している。今日、エルンスト・マッハ協会は、学団がより広い世間に語りかける場となっている。協会の目的は、その綱領に述べられているとおり、「科学的世界把握を育成し、広めること。協会は科学的世界把握の目下の状況について講演を行ない出版物を公表する。それによって、社会科学および自然科学の厳密な研究の意味を示すこと。こうして現代的な経験主義の思考の道具が形成されることになるが、これはまた、公的および私的な生活形成のためにも必要となるのである。」 エルンスト・マッハ協会という名前を選んだのは、形而上学にとらわれないという基本的方針を表そうと意図してのことである。しかしこれは、マッハの個々の学説に賛成して綱領として受け入れた、ということではない。ウィーン学団は、エルンスト・マッハ協会との共同作業によって、時代の要請に応えられるものと信じている。すなわち重要なことは、研究者の日々の活動のための思考の道具を作り出すとともに、何とかして意識的に生活を形成しようとしている全ての人のための思考の道具を作り出すことである。社会と経済の秩序の合理的改革を推進しようとする努力の中に見られる活力は、また科学的世界把握の運動をも貫くものでもある。1928年11月のエルンスト・マッハ協会の設立において、シュリックが議長に選ばれ、彼を中心として科学的世界把握の分野における共同研究が極めて集中的に行なわれたことは、ウィーンの現状に呼応しているのである。

 シュリックとPh.フランク共編の『科学的世界把握のための論文集』には、これまでのウィーン学団の主なメンバーの主張が収められている。



II. 科学的世界把握

 科学的世界把握を特徴づけるのは、固有のテーゼというよりも、むしろ基本的な考え方、論点、研究の方向性などである。目的としては統一科学が考えられている。様々な研究領域の成果を統合し、一つにまとめあげるための努力がなされており、この目的を設定したことで、共同研究に重点が置かれている。このことから、間主観的に把握可能なものが重要になる。ここから、中立的な形式的体系、つまり、歴史的言語の曖昧さから自由な記号体系の探究が始まり、また、概念の全体的体系も求められている。精密性と明晰性が求められ、不明瞭な遥遠や不可解な深遠は否定される。科学に「深遠(Tiefen)」は存在しない。あるのはただ表面(Oberfläche)だけである[6]。複雑で、常に見通せるわけではなく、しばしば部分的にしか把握できない網を構成しているのも、全て体験されるものである。人間は全てのものに到達しうる。人間が全てのものの尺度である。ここには、プラトニストよりはソフィストとの、ピタゴラス学派よりはエピクロス学派との、この世の事物と現世を支持するすべての人々との親近性が現れている。科学的世界把握に解けない謎はない。伝統的な哲学の問題を明晰化することで、それらの一部は疑似問題であることが暴露され、一部は経験的問題へ変換されて経験科学の判断を仰ぐことになるだろう。哲学の仕事は、この問題と言明の明晰化にあるのであって、独自の「哲学的」言明を立てることにあるのではない。この明晰化の方法が、論理的分析である。ラッセルはこれについて次のように述べている。論理的分析は「数学者の批判的探究に依拠することで、徐々に成立してきた。私見によれば、ここにはガリレイが物理学に持ち込んだ進歩との類似性がある。証明可能な個々の結論が、証明不可能で、想像力に訴えるしかない包括的な主張に取って代わる。」[7]

 この論理的分析の方法は、新しい経験主義と実証主義を、多分に生物学的-心理学的志向を有する旧来の経験主義と実証主義から、本質的に区別するものである。誰かが「神は存在する」とか「世界の根源は無意識である」とか「生物には基本原理としてエンテレヒーがある[8]」などと言うとき、私たちは「君の言うことは間違っている」とは言わない。代わりに「君はその言明で何を意味しているのか?」と訊ねる。そうすることで、次の二種類の言明の間に厳密な境界を引けることが明らかになる。第一の種類には、経験科学の中でなされる言明が属する。その意味は、論理的分析によって経験的所与についての最も単純な言明へ還元することによって、より厳密に確定される。すぐ上で述べたような言明が属する第二の種類の言明は、それを形而上学者が考えているような言明として考えるなら、全く無意味であることが明らかになる。もちろん、この種の言明は、しばしば経験的言明として再解釈することができるが、そのときには、形而上学者がまさに本質的と考える感情的内容は失われる。形而上学者と神学者は、こうした命題で何かを述べている、つまり、ある事態を記述していると勘違いしている。だが分析を行なうことで、これらの命題は何も語らず、ただ生活感情のようなものを表現しているに過ぎないことが明らかになる。そのような感情を表現することが、人生において重要な活動であることは確かである。しかし、そのための適切な表現手段は、叙情詩や音楽といった芸術である。芸術の代わりに理論という言語的衣装が選ばれると、本当は理論的内容などないのに、あたかもあるのかのように見せかけられる危険が生じる。形而上学者と神学者が言語に普通の衣装を被せておきたいのなら、彼らは、自分たちが記述ではなく表現を与えているのであり、理論という認識手段ではなく、詩や神話を与えているのだということを明らかにし、これを自覚せねばならない。もし神秘主義者が、私は全ての概念を超越したところにある体験をした、と主張するならば、その真偽について当人と争うことはできない。しかし神秘主義者は、その体験について語ることはできない。なぜなら、語るということは、概念において把握し、科学的に分析可能な事実状態へと還元することを意味するからである。

 科学的世界把握は、形而上学的哲学を否定する。では、どうすれば形而上学の間違い方を明らかにできるだろう? この問いは、心理学、社会学、論理学など、様々な観点から述べることができる。心理学的な方向の研究は、まだ始まったばかりである。より深い解明への手がかりは、恐らくフロイトの精神分析の中にあるだろう。同様に、社会学的研究も始まったばかりである。こちらでは「イデオロギー的上部構造」の理論が挙げられよう[9]。ここには、研究する価値のある未開の分野が広がっている。

 これよりさらに盛んに行なわれているのが、形而上学の間違い方の論理的根源を解明する作業である。これは特に、ラッセルとウィトゲンシュタインの仕事によるところが大きい。形而上学の理論においては、既に問題設定に二つの論理的な根本的誤謬がある。一つは、伝統的言語の形式の非常に強い束縛に囚われていることであり、もう一つは、思考が論理的に成し遂げたことについての不明瞭さである。例えば日常言語は、物(「リンゴ」)も性質(「固さ」)も関係(「友情」)も過程(「睡眠」)も、全て同様に、主語として扱う言語形式を持っている。これに惑わされて、日常言語では、関数概念を事物として把握する間違い(実体化、物象化)を犯してしまうのである。言語に眩惑された似たような事例は、多く挙げることができる。そしてそれは不幸にも、哲学にも当てはまる。

 形而上学の第二の根本的な誤謬は、思考がいかなる経験的材料も使用せずに、自ら認識へ到達することができるか、あるいは少なくとも、所与の事態から推論によって新しい内容に到達することができるという考え方にある。だが、論理学の研究の結果、全ての思考、全ての推論は、ある命題から、その命題の中に既に含まれているものしか含まない別の命題へ移行すること以外の何物でもない(トートロジー的変形)ことが明らかになった。従って、「純粋思惟」から形而上学を発展させることは不可能である。

 このような論理的分析によって、本来の古典的な意味での形而上学、とりわけスコラ形而上学とドイツ観念論の体系的形而上学、それに加えて、カントと現代のア・プリオリズムの隠れ形而上学も克服された。科学的世界把握は、カントの認識論やカント以前および以後の存在論と形而上学が基礎を置くような、純粋理性によって無条件に正当とされる認識や「ア・プリオリな総合的判断」を認めない。カントがア・プリオリな認識の例と見なした算術と幾何学の判断、それに物理学のある種の基本命題については、後で論じる。現代的経験主義の基本テーゼは、まさに「ア・プリオリな総合的認識」の可能性を否定することにある。科学的世界把握によって知られるのは、あらゆる種類の対象についての経験的命題、および論理学と数学の分析的命題のみである。

 科学的世界把握の支持者は、あからさまな形而上学とア・プリオリズムという隠れ形而上学を否定するという点で一致する。だがウィーン学団は、さらに、外界と他人の心的なものについて実在するとか実在しないと述べる(批判的)実在論観念論の言明にも、形而上学的な性格があると主張する。なぜなら、それらは、古い形而上学を論駁したの同じ批判を受けるからである。そのような言明は、検証不可能なゆえに、つまり、事実内容を含まないがゆえに、無意味である。事物は、経験の全体構造の中に組み入れられることによって、「現実的」になるのである。

 形而上学者が認識の源泉とみなして重視した直観は、科学的世界把握によって全く否定されるわけではない。しかし、直観によって得られえた認識一つ一つを、後から合理的に正当化することが求められるし、また必要でもある。認識を求める者には全ての手段が許されるが、それで得られた結果は、追試験に堪えるものでなくてはならない、ということである。直観の中に、感覚的経験内容を超えることができ、かつ、概念的思考の狭い拘束に縛られる必要のない、高貴で深遠な認識方法が見つかるという見解は、否定される。

 科学的世界把握を本質的に特徴づける二つの規定がある。一つは、経験主義的実証主義的であるということである。つまり、直接的所与に基づく経験的認識しか存在しない、ということである。これによって、適切な科学の内容についての境界が引かれる。科学的世界把握を特徴づける第二の規定は、論理的分析の方法を用いることである。科学的研究は、統一科学へ到達するという目的を目指して努力しているが、それは経験的材料にこの論理的分析を適用することで実現される。個々の科学的言明の意味は、所与についての言明へ還元することによって与えられなければならない。そのため、どの科学分野に属していようとも、個々の概念の意味もまた、所与そのものと関係する最も低位の概念へ、段階的に還元することによって与えられなければならない。全ての概念にこの分析を適用すれば、諸概念は一つの還元体系、すなわち「構成体系(Konstitutionssystem)」に組み入れられることになるだろう。このような構成体系の構築を目的とした研究、いわば「構成理論」は、科学的世界把握が論理的分析を適用するための枠組みを形成する。この研究を推進しようとするとすぐに、伝統的なアリストテレス-スコラ的論理学では、この目的のためには全く不十分であることが判明する。日常的に考える際の直観的な推論プロセスを定式化するためには、すなわち、記号メカニズムによって自動的に制御される厳密な形式を作るためには、概念の定義と言明を明晰にする必要がある。これは現代の記号論理学(「論理計算」)において初めて可能になった[10]。構成理論の研究が明らかにするように、理論体系の最下位の層には、自己の心に関する(eigenpsychisch)体験と性質の概念が属しており、その上に物理的対象が位置する。それらから他人の心に関する(fremdpsychisch)対象が構成され、一番最後に社会科学の対象が構成される。様々な科学分野の概念をこの構成体系に組み入れるには、その厳密な実行のために、多くの分野でまだなすべき課題が山積み状態である。概念の全体的体系の可能性を証明し、その形式を提示することで、同時に、全ての言明の所与に対する関連と、統一科学の構造形式が認識可能になる。科学的記述に含まれうるのは、事物の構造(秩序形式)だけであって、その「本質」は含まれない。人間を言語において結び付けているものは、その構造形式である。人間の共通認識の内容は構造形式の中に表現される。主観的に体験する性質 ―― 赤さ、快楽 ―― は、それ自身はただの体験であって、認識ではない。物理的光学においても、基本的には、盲人にも理解できることだけが含まれるのである。



III. 問題領域

1. 算術の基礎

 ウィーン学団の研究と議論においては、多様な科学分野から生じた多様な問題が扱われた。現在、問題の状況を解明するために、様々な問題の方向を体系的に統一する努力が行なわれている。算術の基礎に関する問題は科学的世界把握の発展にとって重要な意義を持っているが、それは、この問題が新しい論理学を発展させる契機になったという特別な歴史的重要性による。18〜19世紀にかけて、数学が極めて実り豊かな発展を遂げたとき、人々は複雑な概念的基礎についての検討よりも、新しい結果の豊穣さに目を奪われた。だが結局その後、数学が、常に賞賛されてきた構造の確実性を失わないためには、基礎の検討が必要不可欠であることが判明した。この検討は「集合論のパラドクス」[11]と呼ばれるある種の矛盾よりも、ずっと緊急の課題になった。それから間もなく、単に数学の一分野における難問に取り組むだけでなく、伝統的論理学の基礎に根本的な欠陥があることを示す普遍的な論理的矛盾、すなわち「アンチノミー」を問題とせねばならないことが明らかになった。これらの矛盾を除去するという課題は、論理学のさらなる発展に大きな刺激を与えた。ここにおいて、数概念を解明する努力と、論理学内部の改革とが、目的の一致を見たのである。ライプニッツとランベルト以来、現実をより明晰な概念と推論過程によって自在に操り、その明晰さを数学に倣って構築した記号体系によって達成しようとするアイデアは、何度となく試みられた。ブール、ヴェンらの後、特にフレーゲ(1884)、シュレーダー(1890)、ペアノ(1895)、がこの課題に取り組んだ。これら先駆的な仕事の上に、ホワイトヘッドとラッセル(1910)は、論理学の整合的体系を記号体系(「記号計算」)の形で構築することに成功した。この体系は、古い論理学の矛盾を回避しただけでなく、その豊穣さと実用的な応用可能性においても、古い論理学をはるかに凌駕している。二人は、この論理体系から算術と解析学の概念を導出することで、数学に確実な論理的基礎を与えたのである。

 このように、算術(および集合論)の基礎の危機を克服しようとする試みが行なわれながらも、今日なお、決定的な解決を見ていないある種の難問が存在する。現在、この領域では三つの異なる立場が相互に対立している。すなわち、ラッセルとホワイトヘッドの「論理主義」、算術を一定の規則に従った形式的ゲームと見なすヒルベルトの「形式主義」、そして、算術的認識をそれ以上還元不可能な二にして一なる(Zwei-Einheit)直観に基礎づけるブラウワーの「直観主義」である。この三つの立場の間の議論は、ウィーン学団の極めて大きな関心事である。それがどのような決着を迎えるかは、まだ予測することができない。だがいずれにせよ、その決着の仕方によって、同時に論理学をどう構築するかの判断も決まることになる。この問題が科学的世界把握にとって重要なのはそのためである。なかには、これら三つの立場はその見かけほどかけ離れているわけではないと考える人々もいる。彼らは、三つの立場の本質的な特徴は、今後の発展の中で互いに接近し、恐らくはウィトゲンシュタインの射程の長い思想を利用することによって、一つの最終的解決へ統合されるだろうと予想している。

 数学をトートロジーとみなす見解は、ラッセルとウィトゲンシュタインの研究に基づいているが、ウィーン学団もまた同じ見解を主張している。注目すべきことに、この見解は、アプリオリズムと直観主義に対立するだけではなく、数学と論理学をある程度まで実験的-帰納的に導出しようとする旧来の経験主義(例えばミル)とも対立する[12]

 また、算術と論理の問題に関連して言うと、公理的方法一般の本質(完全性、独立性、無矛盾性、範疇性)や、特定の数学分野のための公理系を作ることについての研究もある。


2. 物理学の基礎

 当初、ウィーン学団が最も強い関心を寄せたのは、現実科学の方法についての諸問題であった。マッハ、ポアンカレ、デュエムらの思想に刺激を受けて、科学的体系、特に仮説的公理系を用いて現実を処理することの問題が議論された。公理系は、経験的応用から全く離れた、陰伏的定義(implizite Definition)の体系として考えられる[13]。これは、公理系に現れる概念をその内容ではなく、公理を通した相互関係によってのみ確定し、定義する方法である。そのような公理系の現実に対する意味は、別の定義を付け加えることによって与えられる。それが、現実のどの対象が公理系の要素と見なされるべきかを示す「帰属定義(Zuordnungsdefinition)」である。歴史が示すように、現実を可能な限り統一的で単純な概念と判断の網で再現しようとする経験科学は、二通りの仕方で発展させることができる。新たな経験によって修正が必要な場合は、公理を優先させることもできるし、帰属定義を優先させることもできる。それゆえ、ここでは特にポアンカレが論じた規約の問題が関係してくる。

 公理系を現実に適用する方法論についての問題は、基本的には個々の科学分野ごとに考察されることである。しかしこの研究が今までに成果を挙げた分野は、ほとんど物理学だけである。この理由は、科学の歴史的発展の現状から理解できる。つまり、物理学は、概念形成の明確さと精密さにおいて、他の科学分野よりもはるかに抜きん出ていることが、成功の理由である。

 自然科学の主要概念を認識論的に分析することによって、大昔からまとわりついていた形而上学の不純物の除去がますます進んだ。特に、ヘルムホルツ、マッハ、アインシュタイン、その他の人々によって、空間、時間、実体、因果性、確率といった概念が純化された。絶対空間と絶対時間の理論は相対性理論によって乗り越えられ、空間と時間は、もはや絶対的な容れ物ではなく、単なる要素的出来事の秩序構造(Ordnungsgefüge)でしかなくなった。物質的実体は、原子論と場の理論によって分解された。因果性は、「影響」とか「必然的結合」といった擬人的性格を剥ぎ取られ、条件関係、つまり関数的帰属へと還元された。さらに、それだけに止まらず、より厳密と考えられていた自然法則の位置を統計的法則が占めるようになり、量子論と関連して、厳密な因果的法則性の概念を微小な空間にまで適用できるかどうかに疑いが生じた。確率の概念も、経験的に把握可能な相対頻度の概念に還元される。

 上述の諸問題に公理的方法を応用することで、科学の経験的な要素が規約的な要素、すなわち定義の言明内容から区別される。そこにはもはや、ア・プリオリな総合的判断の入る余地はない。世界を認識することが可能なのは、人間の理性が物質にその形式を押し付けることに基づいているのではない。物質が特定の仕方で秩序づけられることに基づいているのである。その秩序の種類と程度については、あらかじめ知ることはできない。世界は、現にそうである以上に強力に秩序づけることができるかもしれないし、もしかしたら、認識不可能とまではいかないまでも、ずっと弱い秩序づけしかできないかもしれない。世界がどの程度法則的であるかは、経験科学の研究を一歩一歩推し進めることによってのみ知りうることである。帰納という方法は、昨日から明日への、ここからあそこへの推論である。当然ながら、この推論が妥当なのは法則性が成立する場合に限られる。しかしこの方法は、法則性についてのア・プリオリな前提に基づいているのではない。帰納は、その基礎づけが十分であろうと不十分であろうと、豊かな帰結が導ける場合はいつでも使うことが許される[14]。帰納は決して確実性を保証しない。しかし、認識論的に考えるなら、経験的に追試可能なかぎりにおいて、帰納推論は無意味ではない。科学的世界把握は、研究活動が、論理的に十分明確でなかったり、経験的に十分に基礎づけられていない手段を用いていたとしても、それだけで研究成果を否定したりはしない。ただし、科学的世界把握は常に、完全に明確な補助手段を用いた追試 ―― すなわちそれが体験への間接的または直接的な還元であるが ―― を求め、また要求する。


3. 幾何学の基礎

 物理学の基礎において、物理的空間の問題がここ数世紀の間に特別な重要性を持つようになった。ガウス(1816)、ボヤイ(1823)、ロバチェフスキー(1855)その他の人々によって、非ユークリッド幾何学への道が開かれた。つまり、これまで専制的な支配者として君臨していたユークリッドの古典的な幾何学体系が、実は、同程度に論理的に妥当な体系の無限集合の一成員に過ぎないことが認識されたのである。そこで生じた問題が、どの幾何学が現実空間の幾何学なのか、というものであった。早くもガウスは、三角形の角の総和を測ることでこの問題を解決しようと考えていた。こうして物理的幾何学は物理学という経験科学の一部になった。その後も、この問題は特に、リーマン(1868)、ヘルムホルツ(1868)、ポアンカレ(1904)によって研究された。とりわけ、ポアンカレは、現実空間の本性についての問いは、物理学の全体的体系との関連においてのみ答えられると言って、物理的幾何学と他の物理学の分野との結合を強調した。そしてアインシュタインがその体系を発見し、この問題に答えた。しかも、その体系はある種の非ユークリッド幾何学だったのである。

 いま述べたような展開を通じて、物理的幾何学は、ますます純粋な数学的幾何学から明確に区別されるようになった。後者は、論理的分析の発展によって、徐々に形式化が進んだ。まず最初に算術化が行なわれ、一つの数論体系の理論として解釈された。次に公理化されて、公理系によって記述された。その公理系においては、幾何学の要素(点など)は不確定の対象と見なされ、その相互関係だけが規定される。そして最後に、幾何学の論理化が行なわれた。これによって、幾何学は特定の関係構造の理論として記述されることになった。こうして幾何学は、公理的方法と一般関係理論の最重要の応用領域になった。かくして、幾何学はこの二つの方法の発展に極めて大きな刺激を与え、それによって今度はこの二つの方法が、論理学自身と、科学的世界把握一般にとって非常に重要なものになったのである。

 当然ながら、数学的幾何学と物理的幾何学の関係は、公理系を現実に適用する問題へと通じていた。そしてその問題がまた、今述べたように、物理学の基礎についての一般的研究において重要な役割を果たしているのである。


4. 生物学と心理学の基礎

 生物学は、形而上学者から常に特別な領域として偏愛されてきた。その愛は、特殊な生命力の理論、すなわち生気論の形をとって現れた。現代におけるこの理論の支持者は、不明確で曖昧な過去の形式から脱して、概念的に明確な表現をしようと努力している。生気の代わりに「優勢」(ラインケ、1899)や「エンテレヒー」(ドリューシュ、1905)などの概念が使われている。これらの概念は、所与への還元可能性の要求を満たさないので、科学的世界把握からは形而上学として拒否される。同様のことが、いわゆる「心理的生気論」にも該当する。これは、霊魂の介入、つまり「精神が物質を主導する役割」を説く立場である。しかし、形而上学的な生気論から経験的に把握可能な核を取り出してしまえば、後に残るのは、有機的自然の中では、物理法則に還元できない法則に従う出来事が進行しているという、余計なテーゼだけである。もっと厳密に分析するなら、このテーゼは、現実のある部分の領域は、統一的で一貫した法則性によっては理解されないという主張と同義であることが分かる。

 当然のことであるが、科学的世界把握は、すでに概念が明確になっている領域の方が、その基本的な見解をより明確に確認できる。だから、心理学よりは物理学の方が明確に確認できるのである。今日、私たちが心理的ななものの領域で話している言語形式は、古代において、霊魂についてのある種の形而上学的な表象を基礎としてその上に形成されたものである。心理学の領域における概念形成は、特に形而上学的重荷と論理的矛盾という、この領域の言語の欠陥によって阻害されている。さらにその困難に加えて、ある種の実務的な困難まで加わっている。結論としては、これまで心理学で用いられてきた概念の定義は、全く欠陥だらけということである。そのうちの幾つかについては、それが有意味なのか、それとも言語使用によって有意味に見せかけられているだけなのか、一度も確認されたことがない。従って、心理学の領域には、認識論的分析がなすべきことがほとんど手つかずのまま残されている有様だ。もちろんん、この分析は物理的なものの領域における分析よりも難しい。全ての心的なものを体の行動、つまり知覚で到達できる層において把握しようとする行動主義的心理学の試みは、その基本的見解において科学的世界把握に近い。


5. 社会科学の基礎

 科学の各分野は、その発展段階の早期か後期かはともかく、どこかの段階でその基礎について認識論的な再検討、つまり概念の論理的分析を受ける必要が生じる。これは、特に物理学と数学について見てきたとおりである。社会科学の領域でも同じことであり、まず第一に歴史学と国民経済学がその対象となる。すでにここ100年ほどの間、どちらの領域でも形而上学的な不純物を除去する作業が進行してきた。しかし、まだ物理学ほどにはその純化は進んでいない。もっとも、この純化の課題は、物理学の場合ほど喫緊のものではないかもしれない。つまり、見たところこれらの分野では、形而上学と神学がその隆盛を極めていた時代であっても、それほど形而上学の混入を受けなかったようだからである。恐らくこれは、戦争と平和、輸入と輸出といった概念が、原子やエーテルのような概念に比べれば直接知覚しやすいという事情によるのだろう。「民族精神(Volksgeist)」のごとき概念を除去し、その代わりに個人の集団のような確定的な対象を扱うようにすることは、それほど難しくない。様々な方向の研究者として、ケネー、アダム・スミス、リカード、コント、マルクス、メンガー、ワルラス、ミュラー・リヤーらの名前を挙げると、彼らがある意味で経験的で反形而上学的な態度をもって活躍していることが分かる。歴史学と国民経済学の対象は、人間、物、およびその配置である。



IV. 回顧と展望

 上に述べてきた諸問題に取り組むことによって、現代の科学的世界把握は発展してきた。私たちは物理学を例にとって、当面は不満足で不十分にしか解明されていない科学的道具で明白な成果を得ようと努力することで、より一層、方法論上の研究へと突き動かされていったことを見た。こうして仮説形成の方法が発展し、ついで公理的方法と論理的分析の方法が発展した。これによって、概念形成はより一層の明晰性と厳密性を獲得した。これまで見てきたように、こうした方法論的問題は、物理的幾何学、数学的幾何学、算術の基礎研究の発展からも導かれたのである。現在、科学的世界把握の支持者が熱心に取り組んでいる諸問題の源泉は、これらの分野である。ウィーン学団の個々のメンバーの出自が様々な問題領域にあることが、今でもはっきりと認められるという事実も、納得のいくことである。この出自の相違から、関心の方向や論点の違いが生じ、見解の相違にまで発展することもしばしばである。しかしウィーン学団に特徴的なのは、厳密に形式化を行ない、正確な論理的言語と記号体系を適用し、テーゼの理論的内容を単なる随伴表象から区別しようとする努力によって、この相違の幅が縮められていることである。少しづつ共通認識の量が増えており、それが科学的世界把握の核となるべき部分を形成している。そしてその周辺に、主観的にはかなり食い違いのある表層が結びついている。

 こうして振り返ると、新しい科学的世界把握の本質が従来の哲学とは対立するものであることは明白である。固有の「哲学的命題」など提起されず、ただ命題が解明されるだけである。しかもその命題は、前出の様々な問題領域について見たように、経験科学の命題である。科学的世界把握の支持者の何人かは、体系的哲学との対立をより強調するために、そもそも自分たちの活動に「哲学」という語を使おうとしない。だが、どういう名前を使うにせよ、次の一事は確実である。すなわち、経験科学の様々な領域と並んであるいはそれを超えて基礎学または普遍学としての哲学は存在しない、ということである。経験をおいてほかに内容のある認識へ到達する道はない。経験を超えたところあるいはその彼岸に存するような観念の王国(Reich der Idee)など存在しない。しかしながら、科学的世界把握の意味における「哲学的」または「基礎的」研究の活動は重要である。なぜなら、科学的な概念、命題、方法の論理的解明は、私たちを妨げている先入見から解放してくれるからである。論理的・認識論的分析が科学的研究に何らかの制限を課すことはない。反対に、そのような分析は科学に形式的に可能なものの領域を可能な限り完全な形で与え、その領域からその都度、経験に合致するものを選び出すのである(非ユークリッド幾何学と相対性理論がその一例である)。

 科学的世界把握の支持者は、断固として、単純で人間的な経験という大地の上に立脚する。彼らは、数千年にわたって積み重なった形而上学と神学の瓦礫を道から除去する仕事を、確信をもって遂行する。このことはあるいは、若干の人々が考えているように、形而上学の回り道の後に、ある意味ではすでに神学から自由であった古代の呪術信仰の根底にあった、統一的な此岸の世界像へ回帰することである。

 今日、多くの団体や党派、書物や雑誌、講演や大学の講義において幅を利かせている形而上学的・神学的傾向の増加は、現代の激しい社会的・経済的闘争に基づいているように思われる。争っている一方の集団は、社会的領域における過去のものを保持しながら、伝統的に受け継がれてはいるが、内容的にははるか昔に乗り越えられた形而上学と神学の考え方を振興しようとしている。これと対立するもう一方の集団は、新時代に入って特に中欧に見られるが、この考え方を否定し、自らを経験科学の基盤の上に位置付けている。この立場の発展は、ますます機械化が進み、ますます形而上学的表象の入る余地が少なくなってきた近代的な生産過程の発展と結びついている。そしてまた、伝統的な形而上学的・神学的学説を布教する者の態度に大衆が失望しているということとも結びついている。そのため、多くの国では、大衆はこれまでにもまして自覚的にこうした学説を拒否し、彼らの社会主義的態度と結びついて、現実的な経験的把握を選ぶ傾向が強まっている。昔は、この見解の表明は唯物論の仕事だった。しかし他方、近代の経験主義は、幾つかの不十分な形式から出発して、科学的世界把握において確固たる形態を獲得したのである。

 こうして、科学的世界把握は現代の生活にとっても近しい存在になった。確かに、これに対して強い敵意を抱き、攻撃をしかける者もある。それでも、これに怯むことなく、現代の社会的状況に直面して、科学的世界把握の一層の発展に希望を託している多くの人々がいる。確かに、科学的世界把握の支持者の全員が戦闘的であるわけではない。孤独を喜ぶ何人かは、論理という冷厳な孤峰の上に隠遁し、また何人かは、大衆との混合を非難し、拡大の際には不可避の「陳腐化」を潔しとしないだろう。だがそうした人々の業績もまた、歴史的発展と結びついているのである。私たちは、科学的世界把握の精神がいかにして私的・公的な現代の生活、裁判、教育、芸術に一層深く浸透し、経済的・社会的生活が合理的基盤に基づいて形成されることを助けているかを体験している。科学的世界把握は生活に寄与する。そして生活もこれを受け入れるのである。


訳註
[1] このテキストで執拗に攻撃される「形而上学」を別の言葉で言い換えると「存在論」です。時間や空間、数や普遍は存在するのか、存在するならなぜそうと言えるのか、などのテーマを扱う分野で、古代ギリシアから続く由緒正しい伝統を持っています。分析哲学の内部に限って見ると、開祖であるラッセルとフレーゲは重視しましたが、論理実証主義は、このテキストに顕著に表れているように、目の敵にしました。そのおかげで存在論は、後にクワインが復権させるまで冷遇されることになります。

[2] ゴンペルツは(Theodor Gomperz, 1832-1912)とヨードル(Friedlich Jodl, 1848-1914)は、オーストリアの哲学者。ズュース(Eduald Sueß, 1831-1914)、はオーストリアの地質学者、政治家。

[3] 学校改革運動は、1919年、文部大臣グレッケル(1874-1935)が開始した非宗教的・社会主義的な教育改革の運動です。ちなみに、ウィトゲンシュタインは、彼の教育観には反対でしたが、山村の小学校教師としてこの運動に参加し、ポパーはグレッケルが創設したウィーン教育研究所に1925年から3年間勤めています。

[4] へフラー(Alois Höfler, 1853-1922)はオーストリアの哲学者。マイノングとの共著『論理学』(1890)で有名となり、ウィーンにおけるグラーツ学派のスポークスマンを務めていました。

[5] 19世紀末に、メンガー、ジェヴォンズ、ワルラスが、ほぼ同時期に限界効用理論による説明を提出しました。その内容は、人間の欲望の強さは、その欲望を満たすために人が持つ財貨の数量の関数であり、その数量が多くなればなるほど、その増加分による満足の程度は低くなり、それゆえ対価を払おうという気持ちも低くなる、というものです。「限界」という概念を使うことで、経済学に数学(微分)が導入され、厳密な数学的分析を重視する近代経済学が創始されました。この現象を「限界革命」と呼びます。
 限界革命の影響について「ドイツは例外だった」と言われているのは、当時のドイツが、メンガーらのオーストリア学派と対立するドイツ歴史学派の牙城だったからです。

[6] 感覚で把握できる対象を重視する「現象主義」のマニュフェストです。深遠の否定とはすなわち、感覚の背後にあり、感覚の存在の根拠とされていた「実在」の否定にほかなりません。従来の哲学では、感覚に現れる色、音、匂いなどは全て本質的ではない「仮象」として軽視され、その背後にある実在(物自体)こそ哲学の探究すべき対象であると考えられてきました。論理実証主義は、この優先順位を逆転させます。そしてこの逆転を最初に実行したのが、彼らが団体の名前に冠したマッハでした。(マッハはこの逆転を「認識論的転回」と呼んでいます。)

[7] ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』

[8] エンテレヒー(Entelechie)は、生命や自然の原理として、物質的原理に還元できない原理として措定されるものです。古くはアリストテレスが使い、近代ではゲーテが「エネルギー」のような意味で使っています。ここで言及されているのは、時代的に見て、後に名前が出るドイツの発生学者ドリューシュ(Hans Driesch, 1867-1941)などの新生気論における用語でしょう。

[9] 現在では、フロイトの精神分析やマルクス主義の社会理論が科学と見なされることは、まずありません。逆に「疑似科学に過ぎない」という批判を受けるでしょう。そのため、これらを「科学」の一部として当然視しているこの箇所を読むと、意外な印象を受けるのではないでしょうか。しかし、「精神分析もマルクス主義も、相対性理論と同様の科学である」という認識は、論理実証主義者だけのものではなく、当時のウィーンでは支配的でした(当時からこの見方をしなかった例外が、ポパーです)。

[10] フレーゲの述語論理による多重量化問題の解決を指しています。また、還元主義(構成主義)のプログラムには、ラッセルの論理的原子論が大きな影響を与えています(というより、ほとんどそのままです)。

[11] 集合論のパラドクスとしては、カントールのパラドクス、ブラリ=フォルティのパラドクス、ラッセルのパラドクスの三つが有名です。

[12] ミルの経験主義に対する批判は、フレーゲの『算術の基礎』第7節から第10節を参照。
 またシュリックも、旧来の経験主義を「哲学が迷い込んだ誤謬」と呼んで攻撃しました。ウィーン学団のもう一つの基本宣言である「哲学の転回点」(1930)を参照。

[13] 陰伏的定義は、ヒルベルトが『幾何学基礎論』で提出した定義の方法です。

[14] 形而上学に対して、その基礎が不確実という理由で批判しながら、自分たちが使う帰納については、「便利なので基礎づけが不十分でも使ってもよい」というのは、ずいぶん身勝手な言い分です。ここには、論理実証主義の苦しんだジレンマが顕著に表れています。
 科学が帰納を使っているということは、彼らの眼には明らかに思えました。そして一方で、帰納の妥当性の論理的基礎が疑わしいことも、ヒューム以来明らかでした。そのため、帰納は、論理実証主義にとって、不可欠な道具であると同時にアキレス腱でもあるという厄介な存在でした。当然、内外からの批判が集中するポイントになり、「ヘンペルのカラス」「グルーのパラドクス」に見られる帰納の問題点が次々と明るみに出ていきます。こうした状況に対し、採りうる道は二つ ―― あくまで帰納を(妥当化はできなくとも)擁護するか、いっそのこと帰納を捨てるか、です。言うまでもなく、前者が実証主義、後者が反証主義の道です。(参考:戸田山和久『科学哲学の冒険』(日本放送出版協会、2005)第3章および第9章。)


著:O.ノイラート 1929
訳:ミック
作成日:2006/01/20
最終更新日:2007/06/16
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