算術の基礎

数の概念に対する論理数学的探究




1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50


序文

 「数1は何か」とか「記号1は何を意味するのか」という問いに対して、大抵の場合、人は「一つのものだ」と答える。このとき、よく注意して

「数1は一つのものである(die Zahl Eins is ein Ding)」

という命題が定義ではないこと、なぜなら、片方の側には [dieという] 定冠詞があり、もう片方の側には [einという] 不定冠詞があるのだから、この命題は数1が複数ある物のうちの一つであるということを述べるだけで、それがどのような物であるかは述べていないからだ、ということを理解するなら、おそらく人は、数1と呼びたいものとして何物かを選択するよう迫られるだろう。しかし、この [数1という] 名前の下に何を理解するかを、各人に自由に選ぶ権利があるとすると、数1に関する同じ命題が、人によって異なる意味を持つことになってしまう。それでは、そういう命題は共通の内容を持たないということになるだろう。ひょっとすると、先の問いを拒否して次のように指摘する人もいるかもしれない。「算術におけるaという文字についても、その意味(Bedeutung)を述べることはできないだろう。仮に、aはある数を意味すると言う人がいたら、その人は「数1は一つのものである」という定義における間違いと同じ間違いを犯すことになる。」さて、aについてのこの問いを拒否することは全く正当である。aは何ら特定の確定的な数を意味していない。そうではなく、aは諸命題の一般性を表現することに貢献しているのである。もし a + a - a = a におけるaに、任意の、ただし全てのaに対して同一の数を代入すれば、常に真となる等式が得られる。このような意味において、文字aは使用される。しかし数1の場合は、状況は本質的に異なる。1 + 1 = 2 という等式において、1に二度同じ対象、例えば月を代入できるだろうか?むしろ、最初の1と二番目の1には、何か違うものを代入しなければならないように思われる。1 + 1 = 2 の場合、まさに a + a - a = a の場合のような間違いが生じているに違いないとすれば、それはなぜなのか?算術を行なうには、文字aだけでは不足で、異なる数字の間の関係を一般的に表現するためには、b,cなどの文字も必要になる。従って、もし記号1が文字aと類似の仕方で命題に一般性を与えることに役立つとすれば、記号1もまた十分ではありえないと考えるべきである。しかし、数1は、一定の性質――例えば、2乗しても変わらない――を持った確定的な対象として現れてはいないだろうか。この意味では、aは一つも性質を持っていない。というのも、aについて言われる性質は、諸々の数に共通の性質であるのに対し、12 = 1 は月について何も言明しておらず、また太陽についてもサハラ砂漠についてもテネリファ山についても何も言明していないからだ。それでは、このような言明の意義(Sinn)は何でありうるだろうか[1]?
 このような問いに対して、多分、大抵の数学者は満足の行く答えを用意していないだろう。彼らにとって最も身近で単純な [数1という] 対象が、これほど不明確な状態にあるということは、数学にとって恥ずべきことではないか? [数1でさえこうなのだから、] ましてや数一般が何であるかを述べることなどできないだろう。もし、重要な学問の基礎になっている概念が諸々の困難を提示しているとすれば、その概念をより精確に探究し、諸困難を克服することは避けて通れない課題である。特に、算術という建築全体の基礎への洞察に欠陥がある限りは、負数、分数、複素数などの数を完全に明らかにすることなどおぼつかないであろう。
 もっとも、多くの人は、これが労苦に値する仕事だとは思わないだろう。彼らによれば、この [正の整数のような] 概念は、初等的な教科書で十分扱われており、それで十分片付いている。こんな単純なことについてこれ以上何かが学べるなど、誰が信じるだろう!正の整数という概念は、いかなる困難からも無縁であるため、子供にとっても学問的に十分扱うことが可能なのだから、それ以上熟考したり、他の人がどのように考えてきたかということを知る必要はない、というのが一般的な考えである。だが、こういう考えの持ち主には、そもそも学問をするための第一の前提条件、つまり「無知の知」が欠落している。その結果、すでにヘルバルト1がより正しいことを説いていたにも関わらず、人々は未だにいい加減な見解に満足している。こんなふうに、既に手に入れたはずの認識が何度でも失われる恐れがあり、人々が [自分たちの知識の] 豊かさにうぬぼれて、多くの仕事の成果を習得する必要を感じないために、それらの仕事が無駄になってしまうというのは悲しむべき、また意気消沈することである。私の仕事も例外ではなく、忘れられる危険に曝されていることは、十分承知している。計算が集積的・機械的思考だと言われる場合、私はあの見解のいい加減さに直面する2。そもそも、そのような思考が存在するという想定が疑わしいのだ。集積的な表象という方がまだありえそうだが、しかしそんなものは計算にとっては意味がない。思考は本質的にどこでも同じものである。対象に応じて異なる思考法則の種類は問題にならない。相違があるのはただ、 [思考が] 心理的影響や外的な補助手段(言語や数詞など)からどの程度、独立性と純粋性を保っているか、という点のみに存する。そしてさらに、例えば、概念という建物の精巧さに存する。まさにこの点に関して、数学は全ての学問を凌駕している。哲学でさえ数学にはかなわない。
 この本を読む人は、n から n + 1 への推論など、一見すると数学に特有と思われる推論も、実は一般的な論理法則に基づいていること、 [従って] 集積的思考のための特別な法則など不要であることを知るだろう。確かに、オウムが喋るように、数字を機械的に使うことはできる。しかし、それを思考と呼ぶことはまずできまい。数字を機械的に使えるようになるのは、実際の思考によって数学の記号言語が発達し、いわば人の代わりにその言語が考えるほどになった後のことである。だがこのことは、数が特別な機械的方法によって――砂山が石英から構成されるように――構成されていることの証明にはならない。私の考えでは、学問の主要な研究対象および学問自身を貶めることを助長するような見解に反対することは、数学者の利益になるだろう。ところが、数学者の間にさえこの見解と非常によく似た発言を耳にするのだ。だが反対に、数概念は、最も単純な算術的概念であるにも関わらず、他の学問の大抵の概念よりも精巧な構造を持つことを認めねばならないだろう。
 さて、正の整数に関しては、本質的に何の困難も存在せず、一般的に意見の一致を見ているという例の迷妄を打破するためには、本書で考察する諸問題についての哲学者や数学者の諸見解に論評を加えるのがよい方法ではないかと思う。そうすることで、いかに一致が少なく、逆に、全く対立する発言が現れている実情が分かるだろう。例えば、ある者は「諸単位は互いに等しい」と言い、またある者は違うと言い、どちらの主張にも簡単には斥けられない根拠があるという具合だ。本書において、私は、より厳密な探究への欲求を呼び覚ましたいと思う。同時に、他の人々の見解を前もって吟味しておくことで、私自身の理解への地ならしをしておきたい。それによって、他のやり方では目標に到達できないということ、および、私の意見が、多くの同じぐらい正当化できる意見の1つなどではないことをあらかじめ納得してもらえるだろう。そして私は、この [数とは何かという] 問いに対して、少なくともその核心において最終的な決着を付けたいと願っている。
 確かに、本書における私の論述は、多くの数学者が適当と思う以上に哲学的なものである。しかし、数概念に対する根元的な探究は、常にいくらか哲学的なものにならざるをえない。この課題は、数学と哲学に共通のものだからだ。
 数学と哲学の共同作業が、両方の側からかなり開始されているにも関わらず、未だ望ましい、本来可能なほどには盛んでないとすれば、その理由は、私の見るところ、論理学にまで侵入してしまった心理学的な考察法が、哲学において優勢であることだ。数学はこの傾向と何ら接点を持っていないので、多くの数学者が、この哲学的考察法に反感を抱くのも当然である。例えばシュトリッカー3が「数の表象は筋感覚に依存する運動性のものだ」と言ったとしても、数学者はその表象の中に数を再認することができず、そのような命題からは何も始まらないことを知っている。筋感覚を基礎として作られた算術は確かに多感なものであろうが、その基礎同様、全くぼやけたものになるだろう。そんなものは算術ではない! 算術は感覚とは何の関係もない。同様に、過去の感覚印象の痕跡が合流してできた心像とも、何の関係もない。これら全ての形成物が持つゆらぎや不確定さは、数学的概念と数学的対象の持つ確定性や固定性の対極にある。確かに、数学的思考を行なう際に現れる表象とその変化を観察することは有益かもしれない。だが、心理学が算術の基礎付けに何かしらの貢献をなすことなどありえない。本来の数学者にとっては、こういう心像やその生成変化はどうでもよいのである。シュトリッカー自身も、「百」という語を見ても100という記号以外は思い浮かばないと言っている。他の人は、文字Cや、あるいはもっと別のものを想像するかもしれない。このことから、私たちにとって、心像は物事の本質にとって――ちょうど黒板やチョークがそうであるように――どうでもよい偶然的なものであるということ、つまり、そもそも心像は、百という数の表象と呼ぶに値しないということが判明する。物事の本質をそのような表象に求めてはならないのだ! 表象がどのように生起するかという記述を定義とみなしてはならず、また、ある命題が意識に現れることに対する精神的・身体的条件の言明を証明とみなしてはならない。そして、ある命題が思考されるということをその真理性と取り違えてはならない。私の考えでは、人は、私が目を閉じても太陽がなくならないように、私が考えるのをやめてもある命題が真でなくなることはないという事実を想起せねばならない。さもなければ、ピタゴラスの定理の証明において、私たちの脳に含まれる燐の含有量について考えねばならない破目に陥ったり、天文学者は次のような反論をされることで、自分の推論が忘れ去られた遠い昔まで遡らなくてはならないことを怖れるようになるだろう。「君は今、2 ・ 2 = 4 と計算している。しかし数の表象は進化、つまり歴史を持っている! 昔はそこまで進んでいたかどうか怪しいものだ。いかにして君は、過去においてもこの命題が既に成立していたと知っているのか? 当時の生物は 2 ・ 2 = 5 という命題を持っていたこともありえないか? そしてその命題から、生存競争における自然淘汰によって 2 ・ 2 = 4 という命題が進化してきた。さらに未来では、恐らく同じ道を辿って 2 ・ 2 = 3 という命題へ進化を遂げるよう決められているのではないか?」だが物には尺度が、つまり限度というものがあるのだ!(Est modus in rebus sunt certi denique fines!) 確かに、事物の生成を探索しその生成から事物の本質を認識しようとする歴史的な考察法も大いに正当性を持っている。だが同時に限界もある。もしあらゆる物が絶え間ない流転の中に投げ込まれ、固定的なもの、永遠なものが持続しないとしたら、世界の認識可能性は途絶え、全てが混乱の中へ飲み込まれてしまう。 [心理主義においては] 概念はまるで葉が木に生い茂るように個々人の心の中に発生し、その発生を研究し人間の心の本性から心理学的に説明しようとすることで概念の本質を知ることができると考えられている。しかしこの考えは、全てを主観的なものの中に引き込み、突き詰めれば真理を捨て去ることになる。概念史と呼ばれるものは、私たちの概念認識の歴史か、または語の意味の歴史である。多くの場合、何世紀にもわたって持続しうる巨大な精神的活動を通じて初めて、概念を純粋な形で認識し、概念を隠していた無関係な覆いを私たちの精神の眼から取り去ることができるのである。この活動が未完と思われるのに、それを無用とみなして、子供部屋へ行き、あるいは考えうる人類最古の未開段階へ逆戻りして、J. St ミルのように胡椒入りケーキや小石を使った算術を発見するとしたら、それに対して何と言うべきだろうか! ケーキの美味しさに不足しているのはただ、数概念に対する特別な意味を付け加えることだけである。だがこうしたやり方は理性的なやり方とは正反対であり、少なくともこれ以上考えられないほど非数学的なやり方である。数学者がこうしたことについて何も知りたがらないのは当然のことである! 人々が概念の源泉に近づいていると信じているところで、その実見ているのは、概念の特別な純粋性などではなく、霧がかかったように全てが曖昧で混沌とした状況なのである。それはちょうど、アメリカについて知るために、インドと勘違いしていた海岸を朧げな光の中に見出したときのコロンブスの状況まで逆行しようとするようなものである。もちろん、このような喩えは何も証明しないが、私の考えを明確にしてくれると期待している。確かに、発見の歴史がさらなる研究の準備として役立つ場合は多々ある。しかし歴史が研究そのものを押しのけてその座を奪うことは許されない。
 数学者にとっては、こうした考えと戦う必要はほとんどないであろう。だが私は哲学者に対しても、今問題になっている論点をできる限り解決してやろうと考えたため、数学への心理学の侵入を撃退するためにすぎないとはいえ、私自身心理学と僅かながら関係を持たざるをえなかった。
 それにまた、数学の教科書にまで心理学への傾倒が見られる始末である。 [論理的に] 定義を与えなければならないと感じながらそれができないとき、人は、少なくとも当該の概念や対象に到達する方法ぐらいは記述したいと思うものだ。 [それゆえ、人は数学に心理学的な説明を持ち込んでしまう。] こうしたケースは、その後の展開においてそうした [心理学的な] 説明に二度と立ち戻ることがないということから容易に見分けることができる。教育という目的のためには、ある事柄についての手引きは全く正当なものである。ただ、手引きと定義は常に明確に区別せねばなるまい。本職の数学者でさえ、証明根拠と証明遂行のための内的または外的な諸条件を混同することがあるのだ。これについてはE.シュレーダー4が「ただ一つの公理」という論文の中で面白い例を挙げている。それは次のようなものだ。「ここで考えられている原理は記号の固有性と呼んでよいものである。私たちが [数式を] 展開したり推論を行なう全ての場合において、記号は私たちの記憶中に――紙の上にはより一層はっきりと――残っているということの確かさを、この原理が私たちに与えるのである」などなど。
 数学は心理学からの援助は全て断らなければならないが、論理学とは密接な関係を持つことはほとんど否定できない。それどころか私は、数学と論理学を明確に区別することはできないという見解に賛成なのである。証明遂行の正確さや定義の正当性についてのあらゆる探究は論理的でなくてはならないということまでは、一般にも認められるだろう。一方、数学にとってもこの問題は無視することのできないものである。というのも、この問いに答えることによってのみ、数学に必要な確実性が獲得されるからだ。
 またこの方向においても、確かに私は通常の探究の範囲を踏み越えている。類似の探究をする場合、ほとんどの数学者は当面の必要を満たせば満足する。定義が証明に寄与し、矛盾に陥ることがなく、一見かけ離れた事柄の間の関連性が認識され、それによって高次の秩序と規則性が与えられたならば、その定義には十分な確実性が与えられたとされるのが [数学においては] 常であり、それ以上定義の論理的な正当性が問われることは滅多にない。確かにこの方法には、目的から完全に逸れてしまうことがまずないという長所がある。また私も、定義はその生産性、つまりそれによって証明を遂行する可能性によって実証されねばならないと考えている。ただし注意しなければならないのは、もし定義が矛盾に突き当たらないということによって事後的にだけ正当化される場合は、たとえその推論連鎖に隙間がなかったとしても、その証明遂行の厳密さは見せかけに過ぎないということである。このような仕方で人が今まで得てきたものは常に、せいぜい経験的な確実性でしかないのであり、最終的には、体系全体を崩壊させてしまうような矛盾に突き当たることもあるということを、本来理解しておかなければならない。それゆえ私は、大抵の数学者が必要と考える以上に一般的な論理的基礎にまで遡らねばならないと考える。
 この探究における原理として、私は以下の三つを堅持したいと思う。  第一の原理を守るために、私は「表象(Vorstellung)」という語を心理的な意味で用いる。表象は概念や対象とは異なるものである。第二の原理を無視すると、個々人の心の内的な像や作用を語の意味とみなし、それゆえほとんど必然的に第一原理に抵触することになる[2]。第三の点については、もし概念を、変化させずに、対象に変化させることができると考えるならば、それはまやかしに過ぎない。以上のことから、分数や負数などについて一般に流布している形式的理論を維持することは不可能だということが明らかになる。私の考える改良については、本書では示唆することしかできない。ただ言えることは、これら全ての場合においても、正の整数の場合と同じように、等式の意義を確定することが重要である。
 私の成果は、少なくとも主要な点においては、私の論拠を検討してくれる労を厭わない数学者の賛同を得られると思う。私の成果はまだ未決定であるが、しかし、個別のものについてはおそらく既に、少なくとも近似的には表明されていたかもしれない。しかし本書では、互いに連関した形において表明されたという点において、新しいものである。私は時として、ある点では私の考えに非常に近づいていた叙述が、他の点では大きく隔たっていくことに驚いたものである。
 この本の哲学者による受容は、その立場によって異なるであろう。恐らく最も酷い受容の仕方をするのが、本来の推論方法として帰納法しか認めようとせず、しかも帰納法さえ推論方法としてではなく習慣としてのみ認めようとするあの経験主義者たちであろう。ひょっとするとこの機会に自らの認識論の基礎を考え直そうとする哲学者もいるかもしれない。私の定義が不自然であると反論したい人には、ここでの問題はそれが自然か不自然かということではなく、事柄の核心を突いているかどうか、そして論理的に反論の余地があるかどうか、ということなのだという点に注意を促したい。
 偏見のない吟味を行なうことで、哲学者も本書に幾らかの有用性を見出してくれるよう、切に期待する次第である。



第1節 数学では最近、証明の厳密性と概念の明確な理解を目指す努力が認められる。

 数学はユークリッドの厳密性からしばらく遠ざかった後、今や再びその厳密性に立ち返り、それを完全に越えようと努力している。算術では、その方法と概念の多くがインドに起源を持つというだけで、主にギリシア人が作り上げた幾何学よりもいい加減な思考方法が伝統的であった。こうした思考方法は、高度な解析が考え出されても助長されただけであった。というのも、一方においては、解析の理論の厳密な扱いには、重大な、ほとんど克服しがたい困難が立ちはだかったからであり、また他方では、その克服に払う努力に見合う成果は得られないと思われたからである。だがその後の展開が一層はっきりと示しているように、数学においては、多くの成功した応用例に支えられた、単なる教訓的な確信だけでは不十分なのである。昔は自明だとみなされていた多くのことについて、今では証明が要求されている。妥当性(Giltigkeit)の境界線は、多くの場合、証明を通して確定されたのである。関数、連続性、極限、無限といった概念についての一層明確な規定が必要だということが示された。負数や無理数は数学において昔から受容されていたが、これらの正当性もより厳密な吟味を受けなければならない。
 そのようなわけで、厳密に証明し、妥当性の境界線を正確に引き、それを可能にするために概念を明確に把握しようとする努力が、至る所で見られるのである。



第2節 吟味は最終的には基数概念まで及ばなくてはならない。証明の目的。

 この方向をさらに推し進めると、基数概念および正の整数について成立する最も単純な諸命題へと行き着く。これらの命題は算術全体の基礎を形成するものである。確かに、 5 + 7 = 12 のような数式や加法の結合律 [ x + (y + z) = (x + y) + z ] のような法則は、日々無数の適用を受けることで何度も確証されているのだから、わざわざ証明を要求してその正しさを疑おうとすることは、ほとんど笑うべきことのように思われよう。だが証明が可能な場合はいつでも、帰納による実証よりも証明を優先させるということは、数学の本質に根拠を持つことなのである。ユークリッドが証明した多くの定理は、ことさら証明してみせなくとも誰にでもその正しさが認められるようなものだった。ユークリッドの厳密性にすら満足しなかったことによって、人々は平行線公理に関わる探究へと導かれたのだ。
 そのようにして、最高の厳密性を目指ざすこの運動は、当初感じられた必要性を何度も越えていったのであり、その広がりと規模はますます成長している。
 証明の目的は、命題の真理性を疑いの余地のないところまで高めることだけでなく、真理同士の間の依存性についての洞察をもたらすことにもある。岩塊を動かそうとしても無駄だったことから、それがびくともしないことを確信した後でも、一体何がその岩塊を確固として支えているのかを問うことができる。この探究が進めば進むほど、全てがより少数の原初的真理(Urwahrheit)へと還元されることになる[3]。そしてこの単純化は、それだけでも追求に値する目標なのである。人々が極めて単純な場合に本能的に行なってきたことを意識化し、それから普遍的に妥当するものを切り離すことによって、概念形成や基礎付けの一般的な方法が得られるという期待も、もしかしたら叶えられるかもしれない。



第3節 この探究の哲学的動機:数の法則は分析的真理か綜合的真理か、ア・プリオリかア・ポステリオリかという争点。これらの表現の意味。

 私は、本探究に対する [数学的動機以外に] 哲学的動機も持っている。それは、算術的真理の本性が、ア・プリオリなものかア・ポステリオリなものか、分析的なものか綜合的なものか、という問いに本書で答えねばならないということである。というのも、たとえこの概念自身が哲学に属するものだとしても、数学の助けなしでは上記の問いに判断を下すことはできないと信じるからである。もちろん、この判断は、この問いにどのような意義(Sinn)が与えられるかということに依存する。
 まず命題の内容が獲得され、その後にもっと複雑な別の方法で厳密な証明が導かれ、それによってしばしば妥当性の諸条件もより正確に認識されるということも、決して珍しいことではない。だから、いかにして判断の内容へ到達するか、という問いと、どこから主張の正当化を得るか、という問いは一般に区別されなければならない。
 ア・プリオリとア・ポステリオリ、分析的と綜合的という区別は、私の理解によれば5、判断の内容ではなく、判断を下すことの正当化に関係するものである。正当化を欠く場合には、先の区別の可能性もなくなる。だからア・プリオリな誤謬というのは、青い概念と全く同様に無意味(Unding)である。もし人がある命題を私の言う意味でア・ポステリオリとか分析的と呼ぶ場合、その人は、命題の内容を意識の内に形成することを可能にする心理的、生理的、物理的な状態について判断するわけでも、他の人がいかにして同じ命題を誤まって真とみなすようになったのかということについて判断するわけでもない。そうではなく、真とみなすことの正当化が、最も基礎的な根拠として何に基づいているのか、ということを判断するのである。
 その判断によって、先の問いは心理学の領域から引き離され、数学的真理 [の正当化が何の根拠に基づいているのか] が問題になる場合には、数学にこの仕事が割り当てられることになる。すると重要なことは、証明を見つけ、それを辿って原初的真理にまで遡ることである。もしその過程で一般的な論理法則と定義にしか出会わなかったなら、手にしているのは分析的真理である。ただしその場合、例えば定義の許容可能性(Zulässigkeit)が基づくような命題も考慮に入れることが前提とされる。一方、一般的に論理的ではなく、特定の知識領域に関係する真理を利用しなくては証明を導くことができなければ、手にしている命題は綜合的である。ある真理がア・ポステリオリであるために要求される条件は、その証明が事実――つまり、ある特定の対象についての言明を含む、一般性を欠いた証明不可能な真理――に訴えなくては導けないことである。これに対し、もし証明を、それ自身は証明が可能でも必要でもない一般的法則から完全に導くことが可能なら、その真理はア・プリオリである6



第4節 本書の課題。

 前節のような哲学的問いから出発しようとも、それとは関わりなく数学の領域自体において生じたのと同じ要求に、 [結局は] 到達することになる。その要求とは、少しでも可能な余地があるのなら、算術の基本命題をより強い厳密性をもって証明せよ、というものである。なぜなら、念には念を入れて推論連鎖の隙間を回避することによってのみ、当の証明がいかなる原初的真理に基づいているかを確言できるからであり、また、それらの原初的真理を知ることによってのみ、先の問いに答えることができるからである。
 さて、もしこの要求を満たそうとするならば、たちまち次のような諸命題に突き当たる。それは、その中に現れる諸概念をより単純なものに分解するか、あるいは、より一般的なものに還元することに成功しない限り証明することのできない諸命題である。ところで、こうした概念として何よりまず 名前が挙がるのは基数であり、これは定義されるか、それとも定義不可能なものとして承認されなければならない。それを行なうことが本書の課題である7。 算術法則の本性についての決定は、この解決に依存するであろう。
 この問いそのものに取り組む前に、回答のためのヒントとなりえる幾つかのことを述べておきたい。つまり、別の観点から算術の基本命題が分析的であることを支持する根拠が判明すれば、それらの根拠はまた、算術の基本命題の証明可能性と基数概念の定義可能性をも支持する。一方、これらの [算術的]真理がア・ポステリオリであることを支持する根拠は、これとは逆の効果を及ぼすだろう。それゆえ、まずはこの争点を暫定的にだが解明することに取り組みたいと思う。



I. 算術命題の本性についての何人かの論者の見解

数式は証明可能か?


第5節 カントはこの点を否定するが、ハンケルは正当にもそれは逆説的だと言う。

 2 + 3 = 5 のような特定の数を扱う数式は、全ての整数について当てはまる一般法則から区別しなければならない。
 何人かの哲学者8は、数式を、証明不可能で公理のように直接的に明らかなものだとみなす。カント9は数式を証明不可能で綜合的なものだと説明するが、一般性を欠きその数が無数にあることから公理と呼ぶことは避けている。ハンケル10[4]は正当にも、無限に多くの証明不可能な原初的真理を想定することは不適切であり、逆説的であると言う。実際、この想定は、理性が第一の基礎に基づく見通しの良さを要求するということに反するのである。それにそもそも、

135,664 + 37,863 = 173,527

という数式は直接的に明らかであろうか? そんなことはない! カントが数式の綜合的性質を擁護するために持ち出すのもまさにこの点である。しかしこの点はむしろ、その証明不可能性に対して不利に働くのである。なぜなら、直接的に明らかでないのだから、いったい証明以外のどのような方法によって数式を認識すると言うのか? カントは指や点の直観を援用しようとするが、それによって自らの思惑に反してこれらの命題を経験的命題であると思わせてしまう危険に陥っている。なぜなら、37863本の指はどう考えても純粋直観ではないからである。10本の指でさえ互いの配置次第で様々な直観を惹起しうるのだから、「直観」という言葉も適切ではないと思われる。そもそも私たちは135,664本の指の直観を持っているのか? 135,664本の指の直観と、さらに37,863本の指と173,527本の指の直観を持っていれば、上の等式の正当性は――証明はできなくとも――少なくとも指については明らかでなくてはならない。しかしそんなことはありえないのである。
 カントは明らかに小さい数しか念頭に置いていなかった。すると、数式は大きい数を扱う場合には証明可能で、小さい数を扱う場合には直接的に明らか、ということかもしれない。しかし大きい数と小さい数の間に特に明確な境界を引けそうにない以上、両者の間に根本的な区別を設けることは望ましくない。もし例えば10を扱う等式からは証明可能であったとすれば、次のように問うことは正当であろう。「なぜ5や2や1からではなく、10からなのか?」



第6節 2 + 2 = 4 についてのライプニッツの証明には隙間がある。a + b についてのグラスマンの定義には欠陥がある。

 実際、他の哲学者や数学者は、 [カントと反対に] 数式の証明可能性を主張した。例えばライプニッツは次のように言う11
 「2たす2が4であるということは、たとえ4が3たす1を表すということを前提したとしても、決して直接的な真理ではない。これは証明可能であり、その手順は以下の通りである。

定義: 1) 2は1たす1である。
2) 3は2たす1である。
3) 4は3たす1である。
公理: 等しいものを入れ換えても等式は成立する。
証明: 2 + 2 = 2 + 1 + 1 (定義1)
    = 3 + 1   (定義2)
    = 4      (定義3)
それゆえ公理より: 2 + 2 = 4 」

 この証明は、一見、定義と設定された公理だけから成り立っているように見える。またこの公理も、ライプニッツ自身が他の箇所で12そうしたように、定義に変換することが可能であろう。1,2,3,4については、この定義に含まれている以外のことは何一つ知る必要はないように思われる。しかしより詳細に観察すると、括弧の省略によって隠されている一つの隙間が発見される。すなわち、この証明はより正確には次のように書かなくてはならない。
2 + 2 = 2 + (1 + 1)
(2 + 1) + 1 = 3 + 1 = 4
ここで欠けている命題は
2 + (1 + 1) = (2 + 1) + 1
であり、この命題は
a + (b + c) = (a + b) + c

の特殊例の一つなのである。この法則を前提すれば加法のあらゆる式が証明できることは、誰にでも簡単に分かる。この場合、あらゆる数は直前の数から定義されねばならない。実際のところ、例えば437,986という数をライプニッツの方法を使う以上に適切に与えられるとは、私には思えない。 [ライプニッツの方法なら、] たとえ私たちがその数の表象を持っていなくても、数を手に入れて自由に使うことができる。数の無限集合は、この定義によって、数1と、1だけ増加させる行為へと還元される。そして無限に多い数式はどれも、 [上で行なった証明のように] 少数の一般命題から証明できるのである。
 これはまた、グラスマン[5]とハンケルの意見でもある。前者は、

a + (b + 1) = (a + b) + 1

 という法則をある定義によって得ようとする。そのために彼は次のように言う13
 「もし a と b が基本列の任意の項であるならば、その和である a + b は、

a + (b + e) = (a + b) + e

を満たすような基本列の項として理解される。」
 ここで e は正の単位を意味するとされる。この説明に対しては二通りの反論がありうる。まず第一に、和がそれ自身によって説明されている。a + b が何を意味すべきかを知らない人は、a + (b + e) という表現も当然理解しない。しかしこの反論はもしかしたら――もちろんこれはグラスマンの言うところには反するのだが――説明されるべきなのは和ではなく加法なのだと言うことによって斥けられるかもしれない。しかしそれでもなお、第二の反論が可能である。それは、要求されるような種類の基本列の項が全く存在しないか、あるいは複数存在する場合は、a + b が空記号になってしまう、というものだ。グラスマンは、このような場合が起こらないということを証明せずに、単純に前提しているだけであり、それゆえ、彼の説明の厳密性はみせかけのものに過ぎない。



第7節 個々の数の定義は観察された事実を主張し、その定義から計算が帰結するというミルの見解は無根拠である。

 数式が綜合的か分析的か、ア・ポステリオリかア・プリオリかは、その数式の証明が基礎とする一般的法則に応じて決まると考えるべきであろう。だがジョン・スチュアート・ミルの考えはこれとは逆である。確かに、彼も最初はライプニッツのように学問を定義に基礎づけようとしているように見える14。というのも、彼も個々の数についてライプニッツのように説明するからである。しかし、全ての知識は経験的であるという彼の先入見が、せっかくの正しい考えをすぐに台無しにしてしまう。彼の説くところによれば15、これらの定義は論理的な意味において定義ではないし、これらは表現の意味を定めるだけでなく、それによって観察された事実を主張するという。777,864という数の定義において主張されるという観察された事実、あるいはミルは物理的な事実とも言うが、それは一体何なのか? 私たちの眼前に広がる豊かな物理的事実のうち、数3の定義において主張されるべき事実としてミルはただ一つのものしか選ばない。彼によればそれは、○○○という印象を私たちの感覚に与える一方、○○ ○のように二つの部分に分離することもできるような対象の組み合わせが存在する、ということである。いやいや、世界中の全てのものが鋲と釘で固定されていなかったのは、何と幸運なことだろう。もしそうなっていたら、私たちはこのような分離を行うことができず、従って2 + 1 は3ではなくなってしまうところだった! 数0や1の基礎となっている物理的事実までミルが描写してくれなかったのは、実に残念である!
 ミルはさらに続ける。「この命題が正しいと認められた後では、同様の全ての部分を3と呼ぶ。」この言葉から分かるように、時計が3回鐘を鳴らしたときに「3回鳴った」と言ったり、甘い、酸っぱい、苦いを三つの味覚と呼ぶことは実は正しいことではない。同様に、「方程式の三つの解法」という表現も認められない。なぜなら、解法について人が○○○のような感覚的印象を持つことなどありえないからである。
 さてミルは言う。「計算は定義そのものからは帰結しない。それは観察された事実から帰結する。」 しかし、ライプニッツは先に [第6節で] 述べた2 + 2 = 4 という命題の証明の一体どの個所で、ミルが言及する事実を引き合いに出すべきだったのか? ミルは 5 + 2 = 7 という命題について、ライプニッツの命題と完全に対応する証明を与えるが16、例の隙間を埋めることを怠っている。括弧の省略によって生じる隙間が厳として存在しているにも関わらず、ライプニッツと同様、ミルもそれに気付いていないのだ。
 もし個々の数の定義が本当に特定の物理的事実を主張しているとしたら、9桁の計算を行える人が持つ物理的知識の豊富さに対して、どれだけ感嘆の念を抱いても抱きすぎることはない。しかしもしかすると、ミルの見解は、全ての物理的事実が個々に観察されねばならない、ということではなく、全ての事実を含む一般的法則が一つだけ帰納によって導き出せればそれで十分、ということかもしれない。しかしそのような法則を述べることは、やろうとしても不可能なことである。「分割することのできる物の集まりが存在する」と言うだけでは不十分である。なぜなら、それだけでは例えば数1,000,000の定義に必要な大きさの、そしてそれだけの種類を持った集まりが存在することを述べたことにはならないからである。しかも、分割の仕方も厳密に与えられていない。ミルの見解は必然的に、個々の数に対して特定の事実が観察されねばならないという要求に帰着することになる。なぜなら、一般的法則においては、数1,000,000の固有性――これこそ定義に不可欠なもの――が失われてしまうからである。実際、ミルに従えば、物の集まりを分解するための、他の数の仕方とは異なる固有の仕方こそが観察されなければ、1,000,000 = 999,999 + 1 と定めることは許されないであろう。



第8節 この定義を正当化するためにミルの言うような事実を観察することは不要である。

 ミルは、彼によって選ばれた事実が観察されるまでは、2 = 1 + 1、3 = 2 + 1、4 = 3 + 1などの定義をしてはならない、と考えているようである。確かに、(2 + 1) にいかなる意義も結び付けられていない場合は、3を(2 + 1)の定義とすることは許されない。しかし、この定義のために例の集まりとその分離を観察する必要があるかどうかは疑わしい。このやり方では0の定義をどうするのか不明だからである。なぜなら、未だかつて0個の小石を見たり触ったりしたことのある者はいないのだから。ミルならきっと、0は無意義なもの、ただの慣用句にすぎないと説明するだろう。その場合、0を使った計算は空虚な記号を使った単なるゲームとなり、どうしたらそこから理性的なものが生じるのか、私たちはただ驚くほかないであろう。だがこの計算が真面目な意味を持つのなら、記号0自身もまた、完全に無意義ではありえない。そしてこのことは、たとえミルによって選ばれた事実が観察されなくても、(2 + 1)も0と同様の仕方で意義を持ちうるという可能性を示唆している。実際、18桁の数の定義において、ミルの言う事実が観察されるなどと、誰が主張するだろう? そして、そのような巨大な数記号がそれでも意義を持つということを、誰が否定するだろう?
 あるいは、物理的事実が必要とされるのは10ぐらいまでの小さな数に対してだけで、それよりも大きい数はこれらの数を合成することで得られると考える人がいるかもしれない。だが、もし11を10と1から、11に対応する集まりを見なくても定義だけから作ることができるなら、同じように2を1と1から作ることができないとする理由は何もない。11を使った計算がこの数に特徴的な事実から帰結しないとすれば、どうして、2を使った計算が、ある集まりとそれに特有の分離の観察に基づかねばならないと考えるのか?
 ひょっとすると、次のような疑問を持つ人がいるかもしれない。「仮に、私たちが感覚によって全く物を区別できない、あるいは3つまでしか区別できないとしたら、算術はいかにして成立しうるのか?」 確かに、そのような状態に陥ったら、算術の命題を認識してそれを応用することには支障をきたすだろう。しかし、その真理性までが損なわれるだろうか? [そんなことはない。] もし、ある命題の内容を意識するために観察を必要とするという理由でその命題を経験的命題と呼ぶとき、その場合の「経験的」という語は「ア・プリオリ」と対立する意味で使われているのではない。その場合は命題の内容にしか関係しない心理的意味について語られているのであって、それが真であるか否かは問題になっていない。この意味ではミュンヒハウゼン[6]の法螺話でさえ経験的である――それを創作するためには確かに多くの観察が必要だったのだから。



第9節 ミルの自然法則。ミルは算術的真理を自然法則と呼ぶことで、算術的真理をその適用と混同している。

これまでの考察により、数式は個々の数の定義のみから、若干の一般的法則を用いて導出可能であること、および、数の定義は観察された事実を主張するのでもなければ、その正当化のために前提することもない、ということが確からしくなった。従って問題となるのは、一般的法則の本性を認識することである。
 ミル17は、彼によって選ばれた 5 + 2 = 7 という数式の証明のために、「部分から合成されるものは、当の部分のそのまた部分から合成されるものと等しい」という命題を利用しようとする。ミルはこれを、一般には「相等しいものの和は等しい」という形で知られる命題の、より特徴的な表現であると言う。彼はこれを帰納的真理(inductive Wahrheit)または最高次の自然法則と呼ぶ。彼の叙述のいい加減さは、この命題が必要不可欠と彼自身が言う証明の箇所で、全くこの命題が援用されないところによく表れている。それにも関わらず、彼の帰納的真理はライプニッツの公理「等しいものを互いに置き換えても、等式はなお成立する」の代わりを務めねばならないと思われる。しかし、算術的真理を自然法則と呼ぶことを可能にするために、ミルは、ライプニッツの公理にはない意義を勝手に読み取っている。例えば彼は、1 = 1 という等式は偽である、なぜなら、1ポンドのものが別の1ポンドのものと、常に正確に同じ重さを持つことはないからだ、と言う18。しかし、1 = 1 という命題は、決してそのような事実を主張するものでもない。
 ミルは、+という記号を、物理的な物体や堆積の部分が全体に対して持つ関係を表現する、と理解する。だがそれは誤りだ。 5 + 2 = 7 が意味するのは、5単位の液体に2単位の液体を注げば、7単位の液体を得られる、ということではない。それはこの命題の一つの適用であり、化学反応によって体積の変化が生じない場合にのみ認められる適用に過ぎない。ミルは、算術的命題に対してなされうる適用――それはしばしば物理的で、観察された事実を前提とする――と、純粋な算術的命題そのものを、一貫して混同している。プラス記号は、確かにその適用の多くにおいて、堆積の形成と対応するが、それがプラス記号の意味ではない。なぜなら、別の適用、例えば計算を出来事に関連付ける場合においては、堆積や集合、物理的実体がその部分に対して持つ関係について語ることはできないからである。確かにこの場合でも、部分について語ることはできる。しかしそのとき人は、「部分」という語を物理的あるいは幾何学的な意味ではなく、ちょうど国家元首の殺人は殺人全般の一部であると言うときのように、論理的な意味で使っているのである。この場合は、論理的な従属関係が存在している。だから、加法もまた一般に物理的関係には対応しない。従ってまた、一般的な加法法則も自然法則ではありえないのである。



第10節 加法法則が帰納的真理であることに反対する理由: 1. 数は互いに同質ではない。2. 私たちはまだ、数に共通の諸性質を定義によって得ていない。3. 反対に、恐らく帰納の方が算術に基礎付けられる。

 しかし、もしかしたらそれでもなお、加法法則は帰納的真理かもしれない。どうすればそう考えられるのか? 加法法則を一般化するために、いかなる事実を根底に置くべきなのか? 恐らく、数式以外にはありえまい。すると、数式を根底に置くことで、個々の数の定義から得られた利点は再び失われ、私たちは、数式を基礎付ける別の方法を探さねばならないだろう。これ自体決して些細な懸念ではないが、仮にこの不利を無視するとしても、なお帰納のための基礎には不都合が見出せる。なぜならこの場合、帰納の基礎には、普通なら基礎付けの方法に信頼性を与えてくれる一様性が欠けているからである。既にライプニッツ19が、フィラレート[7]の「数の様々な様態は、多い少ないの違いでしかありえません。ですから、それは延長の様態と同様、単純な様態なのです」という主張に対して、 [テオフィルの口を借りて] 次のように答えている。
 「そのことは時間や直線についてなら妥当します。けれども図形についてはいささかも妥当しないし、数についてはなおさらです。数は大きさにおいて異なるのみならず、似てもいないのです。偶数は二等分可能ですが、奇数はそうはいきません。3と6は三角数、4と9は平方数、8は立法数、等々。そしてこのような事態が生じるのは、図形よりも数の場合の方がいっそう頻繁です。等しくない二つの図形が互いに完全に似ていることは可能でも、二つの数においてはありえないのですから。」
 確かに私たちは慣習的に、異なる数を多くの点で同質なものと見なす。しかしその根拠は、単に、全ての数に適用できる一般命題を幾つか知っているからに過ぎない。ところが今の私たちは、一般命題は未だ一つとして承認されていないという立場に立たねばならないのである。実際のところ、私たちの場合に対応するような帰納的推論のための実例を見つけ出すことは困難であろう。他の場合であれば、「空間内の任意の場所と任意の時点は、それ自身として、他の場所や時点と同じである」という命題が役に立つ。条件さえ同じであれば、場所と時点が異なっても同じ結果が生じなければならない。しかし数の場合はそうではない。なぜなら、数は非空間的・非時間的なものだからだ。数列における位置は、空間における場所と違って、どこでも同等というわけではないのである。
 数はまた、例えば動物種の個体とも異なる振舞いをする。個体は事柄の本性によって一定の序列を持っているが、数は特有の仕方で形成され、その固有性――特に0, 1, 2において顕著に現れる――を持っている。他の場合に、ある種に関する命題を帰納によって基礎付ける場合、普通は、種に共通の性質の多くが種概念の定義のみから既に知られているものである。翻って数の場合、それ自体は最初に証明する必要のない共通の性質を2、3個見つけるだけでも難しい。
 最も簡単なのは、私たちの場合を次の場合と比較することもしれない。鉱山のボーリング孔の中を降っていくと、深さに応じて規則的に温度が上昇することに気付いたとする。そしてこれまでに、非常に様々な岩盤の層が見つかったとする。これらの観察からだけでは、より深い層の状態について何一つ推論できないこと、また、温度上昇の規則性が以後も続くか否かは不明のままであらざるをえないことは明らかである。確かに、「際限のない掘削によって見出されるもの」という概念には、これまで観察されたものだけでなく、より深いところにあるものも属している。しかしこの概念はここではほとんど役に立たない。同様に数の場合でも、「際限なく1づつ加えることによって得られるもの」という概念に全ての数が属するということは、ほとんど役に立たない。この二つの場合の違いを、地層はただ発見されるだけなのに対し、数は際限なく加えることによってまさに創造され、全ての本質が確定される、という点に見出すことができる。これはつまり、ある数――例えば8――が1づつ増加させることで得られる仕方から、その全ての性質が導出可能であるということでしかない。結局のところこれは、数の性質がその定義から導けることを認めるということであり、ここから、数の一般法則を全ての数に共通の成立の仕方から証明するという可能性が開かれ、一方、個々の数に固有の性質は、それが際限なく1づつ加えられることによって形成される特有の仕方から導かれることになるであろう。それゆえまた、地層の場合にも、それが存在する深さだけから確定されること、つまり地層の位置関係は、まさに深さだけから推論できるのであって、帰納を使う必要はないのである。そして深さだけからでは確定されないことは、帰納によっても知ることはできないのである。
 帰納を単なる慣習とみなさないのであれば、おそらく、帰納という方法自身が算術の一般命題によってしか正当化できないだろう。つまり、習慣は真理を保証する力を全く持たない。客観的な基準に従った学問的な方法は、あるときは、唯一の確証に高い蓋然性が基礎付けられると見なし、またあるときは、幾千回もの的中でさえ無価値なものと見なすが、他方、慣習は、印象の数や強化、判断に対して影響を及ぼす権利を全く持たない主観的状態によって確定されるものである。帰納はある命題を蓋然的以上には確証できないのだから、帰納は蓋然性の理論に依拠せねばならない。しかし、どうすれば蓋然性の理論が算術的法則を前提せずに展開可能なのか、予測がつかないのである。



第11節 ライプニッツの「生得的」

これに対し、ライプニッツ20は、算術において見出されるような必然的真理は、その証明が事例に依存しない、従って感覚的な証拠に依存しない諸原理を持たねばならない、と考えている。ただし、感覚がなければそのような原理について考えることなど誰にも思いつかなかっただろう、とも言っているが。「算術全体は私たちに生得的に与えられたものであり、仮想的な仕方で私たちの中にある。」 「生得的」という表現をライプニッツがどように考えているかは、他の箇所21から明らかになる。いわく、「人が学ぶ全てのものが生得的であるわけではない、というのは正しくない。数の真理は [生得的に] 私たちの中にあるが、にもかかわらず人はそれを学ぶ。証明という方法によって学ぶときは真理をその源泉から引き出すことによって学び(これは数の真理が生得的だということを示している)、あるいは・・・」





算術の法則は綜合的ア・プリオリか、それとも分析的か?



第12節 カント。バウマン。リプシッツ。ハンケル。認識根拠としての内的直観

分析的と綜合的の対立を受け入れるなら、四つの組み合わせが生じる。だがこのうちの一つ、つまり

     分析的ア・ポステリオリ

は除外される。よって、ミルとともにア・ポステリオリを支持した場合には一つの選択肢も残されていないので、私たちは次の二つの可能性

     綜合的ア・プリオリ

および

     分析的

だけを引き続き検討すればいい。このうち、前者を支持するのがカントである。この場合、恐らく、最終的な認識根拠として純粋直観を持ち出す以外の道は残されていないだろう。もっともこの場合、それが空間的直観か時間的直観か、あるいはそうでなければどのような種類の直観かを言うことは困難なのだが。バウマン22[8]は、理由は少し異なるが、カントに賛成する。またリプシッツ23によっても[9]、基数が数え方に依存しないことや、加数の交換可能性と結合可能性を主張する命題は内的直観をその根拠とする。ハンケル24は実数論の基礎を、彼が公理(notiones communes)という性格を帰する三つの基本命題に基礎付ける。「これらの基本命題は解明によって完全に明らかになり、量についての純粋直観によってあらゆる量領域について適用される。そしてその性格を損なうことなしに定義に変換することができる。それには、量の加法とは、これらの基本命題を満たす一つの演算である、と言えばよい。」 この最後の主張には不明瞭な点がある。もしかすると定義を行うことは可能かもしれないが、基本命題の代わりにはなりえない。というのも、定義の適用においては常に、基数は量であるのか、普段基数の加法と呼ばれているものがこの定義における加法であるのか、という問題が生じるからである。そしてこれらの問いに答えるためには、基数についての先の命題を既に知っていなくてはなるまい。さらに、「量の純粋直観」という表現が困難を引き起こす。量と呼ばれるもの全てについてよく考えれば、次のようなものが思い浮かぶ。長さ、面積、体積、角度、曲率、質量、速度、力、光度、直流電流の強さ、等々。これらのものをどうすれば量概念の下に従属させられるかは、理解可能である。しかし「量の直観」や、ましてや「量の純粋直観」という表現は、適切なものとは認められない。私は100,000の直観でさえ許容できないし、ましてや数一般とか量一般の直観など到底許せない。他に根拠を挙げられないとき、人はあまりに安易に純粋直観に頼ってしまう。しかしその場合は、「直観」という語の意味を完全に見失ってはならない。
 カントは『論理学』(ハルテンシュタイン編 第8巻 p.88)で「直観」という語を次のように定義する。
 「直観は一つの個別的表象であり、概念は一般的表象または反省的表象である。」
 ここでは感性との関係は全く触れられていないが、しかし「超越論的感性論」では一緒に考えられており、その結びつきがなければ直観はア・プリオリな綜合的判断に対する認識原理として役に立ちえない。『純粋理性批判』(ハルテンシュタイン編 第3巻 p.55)においては次のように述べられている。
 「感性を介して私たちに諸対象が与えられ、感性だけが私たちに直観をもたらす」
 それゆえ、『論理学』において「直観」という語が持つ意味は、「超越論的感性論」におけるそれよりも広いのである。もしかするとこの論理的な意味なら、人は100,000を直観と呼ぶことができるかもしれない。なぜならこれは一般的概念ではないからである。しかし「直観」という語をこの意味で解釈すると、直観が算術法則の基礎づけに役立つことは不可能になってしまうのだ。



第13節 算術と幾何学の違い

 一般に、算術の幾何学に対する親近性を過大評価しない方がいいだろう。私は既に [第10節で] この過大評価に反対するライプニッツの文章を引用しておいた。幾何学における点は、それ単独で考えられた場合、他のいかなる点とも全く区別されえない。直線や平面の場合も同様である。複数の点、直線、平面が一つの直観において同時に把握されて初めて、それらは区別される。もし幾何学において一般命題が直観から獲得されるなら、そのことは、直観された点、直線、平面が、本来全く特殊なものではなく、それゆえその種類全体の代表者とみなされうるということから説明可能である。だが数の場合は事情が異なる。というのも、それぞれの数はその固有性を持っているからである。ある特定の数がどのような点で他の全ての数を代表できるか、また逆に、特殊性がどのような場合に現れるかは、簡単に言えることではない。



第14節 それぞれの支配領域における諸真理の比較

 それぞれの支配領域において諸真理を比較することも、算術法則が経験的かつ綜合的な本性を持つことに反対する議論を与えてくれる。
 経験的命題は、物理的または心理的現実に対して成立し、幾何学的真理は、現実であれ想像力の産物であれ、空間的に直観されるものの領域を支配する。高熱による恐ろしい幻覚や、伝説や詩歌の非常に大胆な虚構――動物が人語を話し、星の動きを止め、石から人間を作り、人間から木に変え、沼から自分の髪を使って脱出する方法を教える――は、それらが直観されるものである限り、幾何学の諸公理から制約を受けている。四次元空間や正の曲率などを想定することで[10]、概念的思考だけが、ある仕方でこの諸公理から離れることができる。こうした考察は決して無駄ではないが、直観という大地からは完全に遊離することになる。こうした考察において直観を援用しようとしても、それは常にユークリッド空間の直観、つまり私たちが有する諸図形の唯一の空間の直観になってしまう。しかもそのときは、あるがままの直観ではなく、他の何かを象徴するものとして受け取られるのである。例えば、真っ直ぐとか平らと呼ばれるものは、曲がったものとして直観される。それでも、この概念的思考に対しては、あれやこれやの幾何学的公理についてその逆を想定しうるのであり、かつ、直観に反するこうした想定から推論を行なっても矛盾に陥ることはない。この可能性が示すのは、幾何学の公理は互いに独立で、また論理の原初的法則からも独立であり、従って綜合的だということである[11]。同じことが数の学問の根本命題にも当てはまるだろうか? 根本命題の一つでも否定しようとしたら混乱に陥るのではないか? それでも思考は可能だろうか? 算術の基礎は、いかなる経験的知識の基礎よりも深いところに――幾何学の基礎さえ凌駕する深みにあるのではないか? 算術的真理は、数えられるものの領域を支配する。これは最も広範な領域である。なぜなら、現実や直観されるものだけでなく、思考可能な全てのものを含む領域だからである。それゆえ、数の法則は思考の法則と最も密接に結びついていなくてはならないのではないか?



第15節 ライプニッツとSt.ジェヴォンズの見解

 ライプニッツの言葉は、数の法則の本性が分析的であることに有利に働くようにしか解釈できない。これは、彼にとってア・プリオリなものと分析的なものは一致することからも予想できたことである。それゆえ彼は25、代数はその長所を、もっと高度な技術、すなわち真の論理から借用していると言う。また別の箇所では26、必然的真理と偶然的真理を通約可能な量と通約不可能な量と比較して、必然的真理の場合は証明や同一性への還元が可能であると述べている。だがこの言葉はその重要性を失っている。というのも、ライプニッツは全ての真理は証明可能だとみなす傾向があったからである27。「あらゆる真理は名辞の概念から導かれるア・プリオリな証明を持つ。私たちの力では、常にその分析に到達できるとは限らないとしても。」もちろんそれでも再び、通約可能性と通約不可能性を比較することによって、偶然的真理と必然的真理の間に、少なくとも私たちにとっては越えることのできない壁が作られるのだが。
 W.スタンレイ・ジェヴォンズ28は[12]、数の法則の本性は分析的であるということを、非常にはっきりとこう述べている。「数とはただ論理的な区別に過ぎず、代数は高度に発展した論理学である」



第16節 こうした見解に反対して、ミルは「言葉の巧妙な操作」とけなす。知覚可能なものを意味しないからといって、記号が空虚なものになるわけではない。

 しかしまた、この見解も幾つかの難点を持つ。空高く屹立し、細かく枝分かれし、そして常に成長を続ける数の科学というこの大樹が、果たして単なる同一性に根ざすものだろうか? そして、いかにすれば論理学の空虚な形式が、そのような [豊かな] 内容を自ずから獲得するだろうか?
 ミルは次のよう考える。「私たちが言語の巧妙な操作によって諸事実を発見し、自然の隠された過程を明るみに出すことができるという教説は、まともな人間には理解しがたいことであり、それを信じるためには既に哲学において進歩していなくてはならない。」
 もし人が巧妙な操作の際に何も考えないのならば、確かにミルの言う通りである。ミルがここで反対しているのは、ほとんど誰も擁護しそうにない形式主義である。語や数学の記号を使う者なら誰でも、それらが何かを意味することを要求するし、空虚な記号から有意義なものが生じることを期待する者などいない。もっとも、記号によって感覚的に知覚可能なものや直観されるものを理解していなくとも、数学者は長い計算を行うことができる。しかし、だからといって、その計算で用いられる記号が無意義なものになるわけではない。記号の内容が記号を介してしか把握可能でないとしても、やはり、記号の内容と記号自身は区別されるのである。人は、同じものに異なる記号が割り当てられることもありえた、ということを自覚している。記号において感覚可能なものとされる内容をいかにして論理的に扱うか、そして物理学への応用をしようとするとき、諸現象への移行がどのようになされねばならないか、この二点を知っていれば十分である。しかし、そうした応用において、命題の本来の意義は見出されない。なぜなら、そういう場合、命題の一般性の大部分が失われ、別の応用の際には別のもので置き換えられる個別的なものが入り込んでいるからである。



第17節 帰納の不十分さ。数の諸法則は分析的判断であるという予想。その有用性はどこにあるのか。分析的判断の尊重。

 演繹に対するミルの悪口雑言にも関わらず、帰納によって基礎付けられる諸法則は不十分であることは否定できない。そうした法則からは、個々の法則の中には含まれていない新しい諸命題が導出されねばならない。新しい諸命題は、法則を全部集めれば、ある仕方で既にその中に隠れているのだが、だからといって、法則から命題を展開し、それ自身として提示する仕事が免除されるわけではない。この点を認めると、次のような可能性が開ける。すなわち、ある推論系列を直接に事実に結びつける代わりに、事実は取りあえず保留しておいて、その事実の内容を条件として携行することが可能になる。思考系列における全ての事実を条件によって置換することで、 [推論の] 成果を [事実と置換して得た] 諸条件の系列に依存する形で得ることになるだろう。こうして得られた真理は、思考だけによって。あるいはミルの言い方によるなら、言葉の巧妙な操作によって基礎付けられるだろう。数の法則がこの種の真理であることも、ありえないことではない。もしそうなら、数の法則は、たとえ思考だけから発見されなくとも、分析的判断である。なぜなら、ここでは発見の方法は問題ではなく、重要なのは証明根拠の種類だからである。あるいはライプニッツが言うように29、「ここで問題なのは、異なる人において互いに異なるような、私たちの発見の叙述ではなく、真理の、常に同一であるような連結と自然的秩序であるからである。」 それから最後に、そのようにして基礎付けられた法則に含まれる諸条件が満たされるかどうかを、観察によって決定しなければなるまい。このような手続きで最終的に到達する結論は、推論系列を観察された事実に直接結びつけることによって到達する結論と同じかもしれない。だが多くの場合、ここで示唆した種類の手続きの方が望ましい。なぜならこの手続きは、まさに当面の事実だけに適用可能というわけではない一般命題へと通じるからである。その場合、算術の諸真理が論理学の諸真理に対して持つ関係は、ちょうど幾何学の定理が公理に対して持つ関係と似たものになるだろう。どの算術的真理も、それ自身のうちに、将来使うための推論系列全体を圧縮して含み、その有用性は 、もはや個々の推論を行う必要がなくなり、全系列の成果を即座に表明できることにある30。算術の理論の目覚しい発展とその多用な応用を見れば、分析的判断について蔓延している過小評価と純粋論理学が不毛であるというでっちあげは維持しえないものである。
 以上のことは、ここで最初に述べられた見解というわけではないが、もしこれを細部にわたって厳密に、僅かの疑念すら残さないよう実行することができたなら、その成果は決して無価値なものではあるまいと、私は考えている。




U. 基数の一般概念に関する何人かの論者の見解



第18節 基数の一般概念を探究することの必要性

 さて、算術の本来の諸対象に向う際、私たちは3, 4といった個々の数を基数の一般概念から区別する。今や私たちは既に、個々の数はライプニッツやミル、グラスマンらの方法で、1とそれに1加算することから導出することが最良であること、および、1と1加算することが未説明のままでは、この説明はまだ不十分であることを確認した。私たちはまた、これらの定義から数式を導出するためには一般命題を必要とすることを見た。そのような法則は、まさにその一般性のゆえに、個々の数の定義からは導出できず、基数の一般概念からしか導き出すことはできない。これから私たちは、この概念について厳密な考察を行なう。その際、おそらく、1とそれに1加算することについても論じる必要があるだろうし、従ってまた、個々の数の定義も完全なものにすることが期待されるべきであろう。



第19節 基数の定義は幾何学的であってはならない。

 ここで私がすぐに反対しておきたいのは、数を長さや面積の比例数として、幾何学的に把握しようとする試みである。人々は明らかに、 [算術と幾何学の] 初期段階から両者を密接に結び付けておけば、幾何学に対して算術を様々に応用することが容易になると考えていた。
 ニュートン31が数ということで考えようとしたのは、諸単位の集合というよりはむしろ、各々の量と、単位とみなされる同種の別の量との間の抽象的な比である。確かに、彼の定義によれば、分数や無理数を含む広義の数を適切に記述することができる。しかしその場合は、量の概念と量の比の概念が前提されることになる。従って、 [この二つの概念を定義する必要があるため] 狭義の数、すなわち基数の説明は不要にはならないであろう。なぜなら、ユークリッドは二つの長さの比の相等性を定義するために同数倍という概念を必要としたが[13]、結局のところ、同数倍は数の同一性に帰着するからである。もっとも、長さの比の相等性を数概念を使わずに [純粋に幾何学的に] 定義することは可能なのかもしれない。だがたとえそれが可能だとしても、その幾何学的に定義された数が日常生活における数といかなる関係にあるのかは不明確なままである。そうすると、日常生活における数は、完全に学問からは対象外とされることになろう。しかし、たとえ応用それ自体が学問の仕事ではないとしても、学問は数の個々の応用についての糸口を与えなければならないと要求することはできる。日常行われる計算もまた、そのやり方の基礎は学問において見出されなければならない。するとここで一つの疑問が生じる。それは、方程式の解の個数、あるいは、ある数に対して素であり、かつ、それよりも小さい数、あるいはそれと同じような幾つもの数を考慮に入れた場合、果たして算術それ自身は幾何学的な数の概念でやっていくことができるだろうか、という疑問である。反対に、「いくつ?」という疑問の答えとなりうる数 [=正の整数] は、ある長さの中にいくつの単位が含まれているかを確定することもできる。負数、分数、無理数を使った計算は、自然数を使った計算に還元可能である。だがニュートンはもしかしたら、数がその間の比として定義されるところの量という概念に、幾何学的な量だけでなく集合も含めて理解しようとしたのかもしれない。だがそうであっても、彼の説明は私たちの目的のためには使うことができない。なぜなら、「ある集合を確定する数」と「ある集合が集合単位に対して持つ比」という表現では、後者が前者よりも重要な情報を与えてくれるわけではないからである。



第20節 数は定義可能か? ハンケル。ライプニッツ。

すると、第一の問いはこうなるだろう。「数は定義可能か?」 ハンケル32はこれを否定して言う。「ある対象を1回、2回、3回・・・と思考したり措定したりすることが意味するものは[14]、この措定という概念が原理的に単純であるため定義不可能である。」 しかしここで重要なのは措定ではなくむしろ1回、2回、3回の方である。もしこれが定義可能だとすれば、措定の定義不可能性についてそれほど悩む必要はないであろう。ライプニッツは、数を十全な観念、つまりその中に現れる全てのものが再び明確に現れるほど明確な観念に、少なくとも近いものとみなす傾向がある[15]。
 もし全体として基数を定義不可能なものとみなす傾向が優勢なら、その理由はきっと、事柄自体から推測された反対理由が存在することよりも、基数を定義する試みが失敗したからであろう。




基数は外的な物の性質であるか?



第21節 M.カントールとE.シュレーダーの見解

 少なくとも私たちは、私たちの諸概念の下に基数の概念を位置付けることを試みよう! 言語において数[詞]は大抵の場合、固い、重い、赤いなど外的な物の性質を述べる語と同様、形容詞の形で付加語的な結合の中に現れる。すると当然、個々の数もこのように [物の性質として] 把握しなければならないのか、それゆえ基数概念は、例えば色概念と同列に [一階の概念として] 扱うことができるのか否か、という疑問が生じてくる[16]。
 M.カントールが[17]、数学は外世界の諸対象の考察から出発する限りにおいて、経験科学であると言うとき33、彼はこの見解を保持していると思われる。それによれば、数は諸対象からの抽象によってのみ生じるとされる。
 シュレーダーは34[18]、諸単位を一で模写して現実から数を引き出すことによって、数を作ろうとする。これを彼は数の抽象と呼ぶ。この模写において諸単位は、色や形など他の全ての物の性質を度外視することによって、頻度という観点からのみ表現される。ここにおいて、頻度は基数の別の表現でしかなくなる。従ってシュレーダーは、頻度あるいは基数を、色や形と同列に位置づけ、これを物の性質であると考えている。



第22節 バウマンはこれに反論して言う:外的な物はいかなる厳密な単位も表さない。見かけ上、基数は私たちの把握に依存する。

バウマン35は、数は外的な物から抽出された概念であるという考えを棄却する。「なぜなら、外的な物は私たちにとっていかなる厳密な単位も表さないからである。つまり、外的な物は私たちにとって境界付けられた集団とか知覚可能な点を表すが、しかしそれら自身を再び多と見なす自由が、私たちにはある。」 実際、単に把握の仕方によるだけでは、私が物の色や堅さを僅かなりとも変えることはできないのに対し、イリアスを一つの詩と見なすか、24巻として、あるいは多数の行としてみなすかは、私の自由である。1000枚の葉について語ることと、木の緑の葉について語ることとは、全く意義が異なるのではないか? 私たちは緑色を一枚一枚の葉の性質として帰属させるが、1000という数についてはそうしない。私たちは、木の全ての葉(Blatt)を、群葉(Laub)という名の下にまとめて把握することができる[19]。群葉もまた緑色であるが、しかし1000ではない。では一体、1000という性質は何に帰属するのか? 個別の葉にも、葉の総体にもほとんど帰属しないように思われる。もしかすると、実は外的世界の物には全く帰属しないのではないか? 私が誰かに一つの小石を与えて、その重さを決めろと言えば、私は彼に探究の対象を完全に与えたことになる。しかし、トランプを一束わたして、その基数を決めろと言った場合、私が知りたいのがトランプの枚数なのか、ゲームの試合数なのか、それとも例えばスカートゲームの得点数なのか、彼にはまだ分からない。トランプの束を渡しただけでは、まだ探究の対象を完全に与えたことにはならないのである。私はさらに、カードなのか、ゲームなのか、得点なのかを付け加えなくてはならない。また、この場合、互いに異なる色が並存するように、異なる数が並存すると言うこともできない。私は一言も発さずに個々の有色の表面を指すことができるが、同じように個々の数を指すことはできない。もし私が、ある対象について緑と言う権利も赤と言う権利も同等に持っているとすれば、それはこの対象が、本当は緑色の担い手ではない証拠である。緑でしかない表面において初めて、緑色の本当の担い手が得られる。これと同様に、私が異なる数を帰属させうる対象もまた、数の本当の担い手ではない。
 色と基数の本質的な相違は、青色は、私たちの意志とは独立に、ある表面に帰属するという点にある。青色とは、ある種の光線を反射し、それ以外の光線は多かれ少なかれ吸収するという能力であり、それが私たちの把握によって少しでも変わることはない。これと反対に、トランプの束に対して基数1、あるいは100、あるいは別の数がそれ自身において帰属するとは言えない。せいぜい言えることは、基数は、私たちの恣意的な把握方法との関連において帰属を持つということであり、その場合でも、トランプの束に基数を単純に述語として帰属できるとは言えないであろう。私たちが何を完全な1ゲームと呼ぶかは、明らかに恣意的な規約であり、トランプの束はそれには何も関係しない。しかしこのような洞察を行うことによって、完全な2ゲームと呼びうるものを発見することもあるかもしれない。 [しかしたとえそうだとしても] 何をもって完全な1ゲームと呼ぶかを知らない人は、恐らくこの2とは別の何らかの基数を、その束に見つけ出してしまうだろう。



第23節 数は物の集積の性質であるというミルの見解は、保持できないものである。

 数が性質として何に帰属するかという問いに対して、ミルは次のように答える36。「数の名前は、我々がその名前で呼ぶ物の集積に帰属する性質を表示する。そしてこの性質は、集積が構成されたり部分へ分解されうる、唯一の特徴的な仕方である。」
 この引用において、まず「唯一の特徴的な仕方(die charakteristische Weise)」という表現におけるdieという定冠詞は誤りである。なぜなら、集積を分解する仕方は複数あり、一つの仕方が特徴的であるとは言えないからである。例えば一つの藁束を分解するには、全ての藁を切断したり、それぞれの藁を解いたり、二つの束に分けたり、色々な仕方がある。そもそも、100粒の砂から成る砂山と100本の藁からなる藁束は、同じように構成されたものだろうか? [そうではない。] しかしそれでも、両者の数は同じである。「一本の藁」という表現の中の「一本の」という数詞は、この藁が細胞や分子からいかに構成されているかを表現してはいない。さらに難しいのは数0の場合である。そもそも、数えられるためには、藁は一つの束を形成せねばならないのか? 「ドイツ帝国における盲人の数」という表現が意義を持つためには、彼らが一つの集会に参加する必要があるのだろうか? 1000粒の小麦は、蒔かれた後ではもう1000粒の小麦の粒ではなくなるのだろうか? 定理の証明や出来事についても、本当はその集積が存在するのか? [しないであろう。] しかしそれでもまた、これらも数えることができる。出来事が同時に起きようとも、数千年の間隔を置いて起きようとも、それは数える際にはどちらでもいいことである。



第24節 数の幅広い適用可能性。ミル。ロック。ライプニッツの非物体的で形而上学的な図形。もし数が感覚的なものであれば、数が非感覚的なものに付与されることはありえないであろう。

 ここにおいて私たちは、数を色や固さと同列に扱えない、もう一つの理由に到達する。それが数の、はるかに大きな適用可能性である。
 ミルの考えによれば37、部分から構成されているものは、当の部分のまた部分から構成されているという真理は、全ての自然現象について妥当する。なぜなら、自然現象は全て数えられるからである。しかし数えられるものなら、もっとたくさんあるのではないか? ロックは言う38。「数は人間にも、天使にも、行為にも、思考にも、およそ実在するか表象可能な全てのものに適用できる。」 ライプニッツは39、数は非物体的なものには適用不可能であるというスコラ学者の見解を棄却し、数は、いわば、何らかの物の統合から生じた非物体的な図形である――例えば、神、天使、人間、運動が統合されたときは4になる――と言う。それゆえ彼によれば、数は完全に一般的なものであり、形而上学に属することになる。また別の箇所ではこう言われている40。「力と能力を持たないものは、重さを量れない。部分を持たないものは、それゆえ計量単位を持たない。しかし、数を許容しないものは存在しない。ゆえに、数はいわば形而上学的図形である。」
 実際、外的な物から抽象された性質が、意義を変えることなく出来事や表象や概念に転用できるとしたら、驚くべきことである。それはまるで、可溶性の出来事や、青い表象、塩辛い概念、頑丈な判断について語ろうとするようなものであろう。
 その本性において感覚的なものが非感覚的なものに現れるというのは、馬鹿げた話である。私たちが青い平面を見るとき、私たちは「青い」という語に対応する固有の印象をもつ。そして別の青い平面を見るときにも、その印象を再認する。同様に、三角形を見たときにも「3」という語に感覚的なものが対応すると仮定するなら、私たちは三つの概念においてその感覚的なものを再び見出さなくてはならない。すると、非感覚的なものが、それ自身において感覚的なものを持つことになる。確かに、「三角形の」という語には一種の感覚的なものが対応する、ということは認められる。しかしその場合は、この語を全体として受け取らなければならない。私たちはその中に3を直接見るわけではない。そうではなく、私たちが見るのは、それに精神的活動が結びつきうる何かであり、この精神的活動が、数3の現れる判断へとつながるのである。そもそも私たちは、例えばアリストテレスの三段論法の格の個数を何によって知覚するというのか? 例えば眼で見てか? 私たちが見るのはせいぜい、格を示すある種の記号であって、格自体ではない。もし格自体が見えないなら、いかにしてその個数を見るのか? しかしあるいは、記号が見えれば十分ではないか、その数は格の数と等しいのだから、と考える人がいるかもしれない。だが、いかにしてそのことを知っているのか? そのためにはやはり、後者の数が別の仕方で前もって規定されている必要がる。あるいは「三段論法の格の数は4である」という命題は、単に「三段論法の格の記号の数は4である」の別表現なのだろうか? そうではない! 記号については何も述べられているはずがない。記号の性質が同時に表示されたものの性質を示すのでなければ、記号について何かを知ろうとする人間などいない。同一のものが異なる記号を持っていたとしても論理的誤りにはならないのだから、記号の数が表示されるものの数と一致する必要すらないのである。



第25節 ミルは2と3を物理的に区別する。バークリーによれば、数は現実に物の中にあるのではなく、心によって創造されるものである。

 ミルにとって数は物理的なものであるが、ロックとライプニッツにとっては、それはただ観念の中に存在するものである。確かに、ミルの言うように42、二つのリンゴは三つのリンゴと物理的に異なるし、二頭の馬は一頭の馬と物理的に異なる。二頭の馬は一頭の馬とは異なる、可視的で可触的な現象である。しかしこのことから、2であることと3であることは物理的に異なると結論できるだろうか? 組の長靴は、二個の長靴と同様、可視的で可触的な現象である。この場合、数の違いは物理的な違いに対応していない。なぜなら、二個と組は、決して [数として] 同じではないからである――おかしなことに、ミルは同じだと信じているようだが。結局のところ、二つの概念を三つの概念から物理的に区別することがいかにして可能なのか?
 そこでバークリーは次のように言う43。「注意しなければならないが、数は物自身の中に実在する固定的なものでははない。数は全く心の産物であり、心が一つの観念かあるいは諸観念の結合を考察して、それに名前を与えようとし、一つの単位として通用させるときに生み出されるものである。心が観念を様々に結合させるのに応じて単位も変化し、単位の変化に応じて数もまた変化する。数とは単位の集まりに過ぎないのである。ある窓=1。多くの窓を持つある家=1。そして多くの家々が一つの都市を形成する。」





数は主観的なものか?




第26節 リプシッツの数形成についての記述は不適切であり、概念規定の代用にはなりえない。数は心理学の対象ではなく、客観的なものである。

 こうした思考過程において、人は簡単に、数を主観的なものだとみなしてしまう。私たちの中に数が現れる仕方が、その本質に解明を与えられると思われるのだ。そのようにして人は心理学的探究へと向かうことになる。恐らくはこの意味で、リプシッツは次のように言う44。  「何らかの物について展望を得ようとする者は、確定的な物から始め、そして常に一つの新しい物を前の物に付け加えていくだろう。」 このやり方は、数形成よりもむしろ、私たちが例えば星座の直観を得る仕方により適切だと思われる。展望を得ようという意図は、数形成にとって本質的ではない。なぜなら、群れは、何頭から成るかが分かった方がより明瞭になるとは、ほとんど言うことはできないであろうから。
 数判断を下すことに先行する内的過程のこのような記述は、たとえそれがより適切なものであろうとも、本来の概念規定の代わりにはなりえない。こうした記述は、算術命題の証明のために引き合いに出すことはできないであろう。私たちはそれを通して数の本性を知るのではない。なぜなら数は、例えば北海と同じく、心理学の対象でもなければ心的過程の産物でもないからである。地球上の海洋のどの部分を境界付けて、そこに「北海」という名前を付与するかは、私たちの恣意に依存するが、しかしそのことは、北海の客観性を損なうものではない。それは、この海を心理学的な方法で探究しようとする理由にはならない。そして数もまた客観的なものである。「北海の面積は10,000平方マイルだ」と言うとき、人は「北海」や「10,000」という語で自分の内的な状態や過程を指示しているのではなく、私たちの表象やその他諸々から独立の、全く客観的なことを主張しているのである。例えば私たちが、北海の境界をもう一度引きなおしたり、「10,000」という語で他のものを理解しようとしたとしても、以前に正しかったのと同一の内容が偽になるわけではない。そうではなく、真な内容の代わりにもしかすると偽な内容が押し込まれるのであって、それによって前者の真理性が破棄されることにはならないであろう。
 植物学者が花の葉の数を述べるときに言おうとすることは、花の色を述べるときと同様、全く事実的な何かである。どちらも同様に私たちの恣意には依存しない。ゆえに、基数と色の間にはある種の類似性がある。しかしそれは、外的な物において感覚的に知覚可能という点にはなく、両者が客観的であるという点にある。
 私は、客観的なものを、手でつかめるもの、空間的なもの、現実的なものから区別する。地軸や太陽系の質量の中心は客観的であるが、地球それ自身のように現実的だとは言いたくない。人はしばしば赤道を思考上の線(gedachte Linie)だと言う。しかしそれを考え出された線(erdachte Linie)と呼ぶことは誤りであろう。赤道は思考によって生み出された心的過程の産物ではなく、ただ思考によって認識され、把握されるというに過ぎない。もし仮に認識されることが生起することであるなら、私たちは、この生起と称されることに時間的に先行する時期においては、赤道について何も肯定的なことを言えなくなるだろう。
 カントによれば、空間は現象に属する。空間が他の理性的存在には私たちとは全く別様に現れるということは、あり得るかもしれない。いやそれ以前に、空間が異なる二人の人間の間で別様に現れているか否かを知ることさえ、私たちにはできない。なぜなら私たちは、ある人間の空間現象を、他の人間のそれと比較するために並置するすることはできないからである。しかしそれでもなお、空間には何か客観的なものが含まれている。全ての人間が、行為を通じてでしかないにせよ、同じ幾何学的公理を認めており、また、世界の中で進むべき道を知るためにはそうせざるを得ないのである。空間において客観的であるものは、法則的なもの、概念的なもの、判断可能なものであり、これらは言葉で表現できるものである。純粋に直感的なものは伝達不可能である。この点を明確にするために、二人の理性存在を仮定しよう[20]。彼らが直観できるのは、ある直線上に三つの点がある、ある平面に四つの点がある、などの射影的性質や関係だけである。一方には点として直観されるものが他方には平面として現れ、その逆も成り立つとしよう。一方にとって点の結合線であるものが、他方にとっては平面の交線である、といった具合に、常に双対的な関係が成立するのである。さて、彼らは全く問題なく互いに意思疎通を行うことができ、自分たちの直観の相違には気付かないだろう。なぜなら射影幾何学においては、どの定理にも別の定理が双対的に対応するからである。直観に現れるものについての評価の食い違いは、確実な目印にはならないであろう。全ての幾何学的命題に関して、二人の真偽判断は完全に一致し、彼らはただ、直観における言葉を異なった仕方で置き換えるだけであろう。例えば「点」という語に一方はこの直観を、他方はあの直観を、というように。それゆえ私たちは少なくとも、彼らにとってこの語は何か客観的なものを意味すると言えるのである。しかし、その意味を彼らの直観の特殊なものと理解してはならない。そしてこの意味において、地軸もまた客観的である。
 人は通常、「白い」という語である種の感覚を考える。それは当然、全く主観的なものである。しかし既に日常の言語使用においても、客観的な意義がたびたび現れているように、私には思われる。「雪が白い」と言うとき、人は、普通の日光の下である種の感覚について認識される客観的性質を表現しようとする。雪に色付きの光線が当てられるときは、人は判断の際にその点を考慮に入れて、次のように言うだろう。「雪は今は赤く見えるが、しかしそれは本当は白いのだ。」 色盲の人間でも、色を感覚的には区別していないにも関わらず、赤や緑について語ることができる。彼はその違いを、他人が区別するという事実、あるいはひょっとしたら物理的実験に基づいて認識するのである。このように色彩語は、私たちが他人のそれと一致することを知りえない主観的な感覚を表示しないこともしばしばである。というのも、呼び名が同じだとしても、主観的感覚の一致は決して保証されないからである。そうではなく、色彩語はしばしば、客観的性質を表示しているのである。このように、客観性ということで私は、感覚、直観、表象、以前の感覚の記憶から内的像を描くこと、こうしたことから独立のものを理解している。だがそれは、理性からは独立でない。なぜなら、理性から独立の場合、物はどのようになるのか、という問いに答えることは、判断せずに判断すること、毛皮を濡らさずに洗うことを意味するからである。



第27節 数は、シュレーミルヒが考えるような、系列における対象の位置の表象ではない。

ゆえに私は、数を系列における対象の位置の表象だと言うシュレーミルヒ45[21]にも賛同できない46。仮に数が表象であるなら、算術は心理学であろう。天文学が心理学でないのと同様、算術も心理学ではない。天文学の対象が惑星の表象ではなく惑星そのものであるように、算術の対象もまた表象ではない。もし2が表象であるなら、それはまずもって私の表象でしかない。他人の表象は、他人が持つという時点で、私のとは別物である。すると、2というのは何百万もあることになりかねない。人は、私の2、君の2、ある2、全ての2、というように、区別して語らねばなるまい。潜在的表象とか無意識的表象というものを認めるなら、無意識的な2もまた認められることになる。このような2は、後に再び意識されることになる。人間が成長するにつれて、常に新しい2が生まれ出る。そしてそれらの2が数千年の間に変化して、2 × 2 = 5 にならないと、誰が言い切れるだろうか。だがそれほど多くの2があったとしても、通常考えられているように、無限に多くの2があるかどうかはなお疑わしい。ひょっとすると1010は空虚な記号に過ぎず、それで名指せるような表象はいかなる存在者の中にも存在しないのかもしれない。
 このように数が表象であるという考えをさらに推し進めてみると、それがいかに奇妙な結論へ向かうかということが分かる。かくして私たちが達する結論は、数はミル流の小石やクッキーの堆積のような空間的で物理的なものではなく、また表象のような主観的なものでもなく、非感覚的で客観的なものだ、というものである。客観性の根拠は、私たちの心の作用である感覚印象の中にはありえない。感覚印象は全く主観的である。そうではなく、私が見る限り、その根拠は、ただ理性においてのみあるのだ。
 最も精密な [数学という] 学問が、あまりに不正確で手探り状態の心理学に依拠すべきだとしたら、それは不思議なことであろう。



第28節 トーメの命名

 若干の論者は、基数を集合、多数性、複数性として説明する。この説明の欠点の一つは、数0と1が基数概念から除外されることである。こうした表現はとても不明確であり、「堆積」、「集団」、「集積」にかなり近い意味になる――その場合は空間的な集まりが考えられている――場合もあれば、単に不明確なだけで、ほとんど「基数」と同義で使われる場合もある。基数概念の分析は、ゆえに、このような説明には見出せない。トーメは[22]、数を形成するために、異なる対象集合には異なる名前を与えることを要請する47。その際考えられていることは、明らかに、対象集合のより明確な規定であり、命名はそのための外的な記号にすぎない。すると、この規定がいかなる種類のものであるか、それが問題である。人が「三つの星」、「三つの指」、「七つの星」に対して、共通の構成要素を認識できない名前を導入しようとしたら、数の観念が生じないことは明白である。そもそも重要なことは、名前が与えられることではなく、数に相当するものをそれ自体として指示することである。そのために必要なことは、それをその特殊性において認識することである。
 また、次の相違にも注意すべきである。若干の論者は、数を物や対象の集合だと呼ぶ。また別の論者は、ユークリッドのように48、数を単位の集合として説明する。この「単位」という表現は、別個に検討が必要である。



第29節 monas」と「単位」という表現の多義性。単位を数えられる対象とするE.シュレーダーの説明は、役に立たないと思われる。「一つの」という形容詞はより詳しい規定を含んでおらず、述語としては寄与しえない。

 ユークリッドが『原論』第7巻の冒頭で与えている定義において、彼は「monas」という語を、あるときは数えられる対象を、あるときはそのような対象の性質を、またあるときは数1を表示していると思われる。私たちはどんな場合でも「単位」という訳語を当てはめているが、しかしそれはただ、この訳語自身が様々な意味に理解されるからに過ぎない。
 シュレーダーは「数えられるあらゆる物は単位と呼ばれる」と言う49。だが、なぜ物を最初に単位という概念の下に持ち込み、単純に「数は物の集合である」と説明しないのかが疑問だ。これによって、私たちは再び、先の論点に立ち戻ることになろう。まず、言語形式に従って「一つ」を性質語とみなし、「一つの都市」を「賢い人間」と同様に把握することで、人は物を単位と呼ぶことにより詳しい規定を見出そうとするかもしれない。こうして単位は「一つの」という性質が帰属する対象となり、単位(Einheit)の「一つの(Ein)」に対する関係は、「賢者(Weiser)」の形容詞「賢い」に対する関係と似たものとなる。数が物の性質であるという主張に対しては、先に幾つかの理由を挙げて反論したが、ここではさらに若干特殊な理由が加わる。まずすぐに目に付く理由は、あらゆる物がこの性質を持っているということであろう。すると、なぜことさらある一つの物にこの性質を付与するのか、その理由は理解できまい。あるものが賢くないという可能性を通してのみ、ソロンは賢いという主張は意味を獲得する。概念の外延が増大すれば、その内包は減少する。もし外延が全てを包括するものであれば、内包は完全になくなるに違いない。ある対象をより詳しく規定することに全く寄与し得ないような性質語を、いかにして言語が作り出すのか、容易には考えつかない。
 仮に「一人の人間」が「賢い人間」と同様に把握されるべきだとしたら、「一人の」という語は述語としても用いることができて、「ソロンは賢かった」と同じように「ソロンは一人であった」とか「ソロンは一者であった」と言うこともできると考えなければなるまい。だが、こうした表現が可能な場合であっても、それ単独では理解不可能である。この表現は、例えば文脈から「賢者」という語が補完される場合は、「ソロンは一人の賢者であった」ということを意味しうる。しかし「一人の」は単独では述語たりえない50。このことは複数形の場合にさらに顕著に示される。「ソロンは賢かった」と「タレスは賢かった」は「ソロンとタレスは賢かった」にまとめることができるが、「ソロンとタレスは一人であった」と言うことはできない。もし「一人の」と「賢い」がともにソロンとタレスの性質であったならば、この不可能性を説明することができない。



第30節 ライプニッツとバウマンの定義の試みによれば、単位という概念は全く曖昧になってしまうと思われる。

 これに関連して言うと、今まで「一つの」という性質の定義を与えることのできた者はいなかった。ライプニッツが「一つのものとは、私たちが知性の一つの働きによって統合するものだ」と言うとき51、彼は「一つの」をそれ自身によって説明している。しかも私たちはまた、多も知性の一つの働きによって統合できるのではないか? ライプニッツもこの点を同じ箇所で認めている。バウマンも同様に「一つのものとは、私たちが一つのものとして把握するものだ」と言い52、さらにこう続ける。「私たちが点として措定しようとするもの、あるいは、これ以上分割しようとは思わないもの、これらを私たちは一つのものと見なす。しかし私たちはまた、外的直観――純粋直観であれ経験直観であれ――のあらゆる一を多と見なすこともできる。表象はいずれも、それが他の表象から境界付けられていれば、一つのものである。しかしそうした表象は、再び分割して多として区別可能である。」 こうして、概念の実質的な境界はいずれも曖昧になってしまい、全ては私たちの把握の仕方次第ということになる。私たちは再び問おう。もし把握の仕方次第で一つのものであったり、なかったりしうるのなら、何らかの対象に「一つの」という性質を付与することはいかなる意義を持ちうるのか? その名誉を最高の確定性と厳密性に求める学問が、どうしてこのような曖昧な概念に基礎を置くことができようか?



第31節 バウマンの未分割性と境界性という徴候。単位の観念はあらゆる対象から与えられるものではない。(ロック)

 さてバウマンは53、一の概念は内観に基づくとしながら、まさに先に引用した箇所で、徴候として未分割性と境界性を挙げている。もしそれが正しいなら、動物もある種の単位の表象を持ちうることが予想されよう。仮に犬が月を見て、極めて不明確であるにせよ単位の表象を持つとしても、それは私たちが「一つの」という語で表示するものと同じだろうか? ありえまい! なるほど確かに犬は、他の犬、主人、遊びに使う小石などの個々の対象を区別するし、それらの対象は犬にとって、私たちと同様に境界付けられ、自存する、未分割なものとして現れている。確かに犬は、自分が多くの犬と対峙しているのか、ただ一匹の犬と対峙しているのか、その違いを感知するだろう。しかしそれはミルが物理的と呼んだ違いである。 [第25節を参照。] 特に問題となるのは、例えば犬が、一匹の自分より大きな犬から噛みつかれたときと、一匹の猫を追いまわすときに、私たちが「一匹の」という語で表現する共通の何かを、どれほど不明瞭であれ、とにかく意識するか否か、という点であろう。私には、これはありそうもないと思われる。そこで私は次のように結論する。単位の観念は、ロックが言うように54あらゆる外的対象と内的観念から知性に与えられるものではなく、高度な精神の力によって認識されるものであり、その力が私たちを動物から区別するのである。それゆえ、私たちも動物も等しく感知する未分割性や境界性といった物の性質は、単位の概念にとって本質的ではありえない。



第32節 それでも言語は未分割性と境界性の関連を示唆する。ただしその場合、意義にずれが生じる。

 それでもやはり、[単位の概念と未分割性および境界性という徴候の] ある種の関連を推測することは可能である。 [ドイツ語では] 「一つの(Ein)」から「一体の(einig)」が派生するため、言語によってそういう関連が示唆されるわけである。内部における相違が周囲との相違に比して目立たなくなればなるほど、また内的な関連が周囲との関連より優勢になればなるほど、個別の対象として認識しやすくなるものが存在する。そのため「一体の」は、あるものを把握する際に、周囲から引き離しそれ単独で考察するよう仕向ける性質を意味する。
 フランス語の「一体の(uni)」が「平らな」や「滑らかな」を意味するとすれば、それはこのように説明できる。また「単位(Einheit)」という語も、国の政治的な統一体(Einheit)や芸術作品の統一性(Einheit)について語る場合は、似たような仕方で使われる55。しかしこの意味では、「Einheit」という語は「一つの」よりは「一体の」とか「統一的な」という語に属する。というのも、「地球は一つの衛星を持つ」と言う場合、周囲から境界付けられ、自存し、分割されていない衛星について説明しようとしているのではなく、金星や火星、木星に現れるものと対比して語ろうとしているからである。境界性と未分割性に関しては、木星の衛星も地球の衛星と十分比べられるだろうし、その意味では、全く同様に統一的なのである。



原註
1 『全集』(ハルテンシュタイン編)第10巻1号「教育大学における講義」第252節 註2:「数2とは二つの物のことではなく、2という性質である」など。

2 K.フィッシャー『論理学体系および形而上学あるいは学問論』第2版 第94節。

3 『表象の結合についての研究』(ウィーン 1883)。

4 『算術および幾何学の教科書』。

5 もちろん「私の理解」といっても、新しい意義を持ち込もうというのではなく、ただ上述の論者、とりわけカントが意味していたことを的確に捉えようとしているだけである。

6 そもそも、一般的真理というものの存在を認めるなら、このような原初的法則が存在することもまた認めねばなるまい。なぜなら、法則に基づくのでなければ、個々の事実からだけでは何も帰結しないからである。帰納そのものでさえ、この帰納という方法が、真理、または少なくともその真理らしさを基礎づける法則であるという一般的命題に基づいている。この点を否定する者にとって、帰納はもはや心理的現象、つまり人々がある命題が真理であると信じ込むための方法でしかなく、そうして出来上がった信念をさらに帰納によって正当化することなど、どうあがいても無理な話であろう。

7 それゆえ、以下で議論の対象とするのは、特に注意しない限り、「いくつ?」という問いの答えとなる正の整数のみである。

8 ホッブス、ロック、ニュートン。バウマンの『時間、空間および数学の理論』第1巻 pp.241-242, p.365, p.475を参照。

9 『純粋理性批判』(ハルテンシュタイン編 第3巻)p.157

10 「複素数とその関数についての講義」p.53

11 『人間知性新論』第4部第7章第10節 p.363を参照。

12 Non inelegans specimen demonstrandi in abstractis. Erdm. S. 94.

13 『高等学校のための数学の教科書』(シュテッティン、1860)第1部「算術」p.4。

14 『演繹と帰納の論理の体系』(J. シーエル訳)第3巻第24章第5節

15 前掲書、第2巻第6節第2節

16 前掲書、第3巻第24節第5節

17 前掲書、第3巻第24節第5節

18 前掲書、第2巻 第6章 第3節

19 バウマン、前掲書、第2巻 p.39。 [ またライプニッツ『人間知性新論』第2部第16章第5節 p.243も参照。 フィラレートの発言はロックに由来する。ロック『人間知性論』第2巻第16章第5節。]

20 バウマン、前掲書、第2巻 pp.13-14。 p.195, pp.208-209も参照。

21 バウマン、前掲書、第2巻 pp.38。 p.212も参照。

21 バウマン、前掲書、第2巻 pp.669。 p.212も参照。

22 『解析学の教科書』第1巻 p.1。

22 『複素数体系の理論』 pp.54-55。

23 『解析学の教科書』第1巻 p.1。

24 『複素数体系の理論』 pp.54-55。

25 バウマン、前掲書、第2巻 p.56。 p.424も参照。

26 バウマン、前掲書、第2巻 p.57。 p.83も参照。

27 バウマン、前掲書、第2巻 p.57。 p.55も参照。

28 『科学の諸原理』ロンドン 1879、p.156

29 『人間知性新論』第4部 第7章 第9節 p.360を参照。

30 注目すべきことに、ミルもまた、前掲書第2巻第4章第4節において、同じ見解を表明しているように思われる。彼の健全な感覚が、時として、経験的なものを優先する先入見を斥けて顔をのぞかせる。しかし、この先入見のために彼は算術の物理的応用を算術そのものと混同し、何度となく全てが誤りに陥ってしまう。彼は、前件が真でない場合でも仮言的判断は真でありうることを知らないように思われる。

31 バウマン、前掲書、第1巻 p.475。

32 『複素数体系の理論』 p.1。

33 『初等算術の基本性質』p.2, 第4節。 [原文では書名が「初等数学(Elementarmathematik)」と誤記されています。正しくは「初等算術(Elementararithmetik)」] 同様にリプシッツの『解析学の教科書』(ボン 1877) p.1。

34 『算術および幾何学の教科書』(ライプツィヒ 1873) p.6, 10, 11

35 前掲書、第11巻 p.669

36 前掲書、第3巻 第24章 第5節

37 前掲書、第3巻 第24章 第5節

38 バウマン、前掲書、第1巻 p.409

39 同書、第11巻 p.56

40 同書、第2巻 p.2

41 前掲書、第3巻 第24章 第5節

42 厳密に言えば、それらがそもそも現象である限りにおいて、と付け加えなければならない。ある人がドイツとアメリカに一頭づつ馬を持っていれば(そしてそれ以外には持っていなければ)、その人は二頭の馬を持っていることになる。しかしこれらの馬は現象を形成しておらず、そう言えるのは、各馬それ自身としてだけである。

43 バウマン、前掲書、第11巻 p.428

44 『解析学の教科書』第1巻 p.1。私は、リプシッツが内的過程を念頭に置いていると理解している。

45 『代数解析学の教科書』p.1

46 これに対し、また、同じ数が生じるときには常に同じ位置の表象が現れなくてはならないが、それは明らかに誤りである、という反論が可能である。彼が表象ということで客観的観念を理解しようとするなら、以下に書くことは正しくないだろう。しかし、その場合、位置の表象と位置それ自身との間にどんな違いがあるというのだろう?
 主観的な意味での表象には、心理学的な結合法則が関係している。その表象は感覚的で画像的な性質を持つ。客観的な意味での表象は、論理学に属し、本質的に非感覚的である。とはいえ、客観的表象を意味する語はしばしば主観的表象も伴っている。だが主観的表象がその意味なのではない。主観的表象は、しばしば人によって明らかに異なっているが、客観的表象は万人にとって同じものである。客観的表象は対象と概念に分類できる。私は、混乱を避けるため、「表象」という語を主観的な意味でのみ用いる。カントはこの語に両方の意味を結びつけたために、自分の学説に極めて主観的・観念論的な色合いを与え、真の見解を分かりづらいものにしてしまった。ここで行った区別は、心理学と論理学の区別と同様、正当なものである。これらの区別は常に十分厳密に行ってもらいたい!

47 『解析関数の基本理論』p.1

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訳註
[1] よく知られているようにフレーゲはSinnとBedeutungを区別しますが、『算術の基礎』の段階では、まだこの区別に至っていません。後にフレーゲはこのように書いています。
『算術の基礎』を書いたとき、私はまだ意義と意味の区別をしていなかった。
  (G.フレーゲ「概念と対象について」[1891]『フレーゲ著作集 第4巻』p.198)
 本訳文では、一応両者を「意義/意味」と区別して訳しますが、あまり違いを気にしなくていいでしょう。(ただし「in einem Sinn」など慣用句にSinnが使われる場合は、「ある意味」のようにSinnも「意味」と訳します。)

[2] ここでフレーゲが言うように、文脈原理を守らないことから即座に心理主義的意味論が帰結するかというと、そういう保証はないでしょう。フレーゲも具体的な論証は示していません。(むしろ意味の物化へ傾く危険の方が大きいのではないかと、個人的には思います。)しかも、第26節の心理主義批判において、文脈原理は全く使用されません。だから、文脈原理を立てなくとも、フレーゲ流の心理主義批判は遂行可能です。
 フレーゲが文脈原理を立てた理由は他にあります。それは、中世以来の「項論理学(term logic)」の単純な意味論を批判し、新たな意味論を構築するためです。 文脈原理については、第62節第73節も参照。

[3] 原初的真理は、現在の数学における公理(axiom)とはかなり性格が異なります。数学の公理系を作る場合、どのような命題を公理として立てるかについて、作成者はある程度の自由裁量を持っています。しかし原初的真理は、そのように人間が勝手に決めてよいものではなく、人間の認識とは独立に客観的に決定されている存在者です。
 また、フレーゲの言う「証明」も、通常の数学の証明とはかなり違います。通常の証明は、既に真理性が確定している命題からまだ真理性の確定していない命題を導出するために行なわれます。つまりその役割は新しい命題の真理性を人間が認めるための手段です。しかし、フレーゲが証明に求めるのは、むしろ定理間の論理的関係を明らかにすることです。

[4] ハンケル(Hermann Hankel, 1839-1873)はドイツの数学者。クロネッカー、ワイエルシュトラウスらに学んだ後、1867年エアランゲン大学正教授。

[5] グラスマン(Hermann Günter Grassmann, 1809-1877)はドイツの数学者。1844年に広延論(Ausdehnungslehre)と呼ばれる新しい代数を展開しましたたが、ハミルトンの四元数と同じく、当時は認められませんでした。しかし彼の考えは現在の線型代数や多様体論の先駆とみなされています。

[6] ミュンヒハウゼン(Karl Friedrich Hieronymus Freiherr von Münchhausen, 1720-1797)はドイツの貴族で、軍人、冒険家。月面旅行など途方もない身の上話を集めて出版されたのが『法螺男爵の冒険』。

[7] フィラレートは、ライプニッツの『人間知性新論』に登場する架空の人物。この『新論』はフィラレートとテオフィルの対話篇として進行します。引用の箇所は、フィラレートがロックの主張を代弁し、それに対してテオフィルがライプニッツの主張(同時にフレーゲの主張でもある)を代弁して反論する、というところです。

[8] バウマン(Johan Julius Baumann, 1837-1916)はドイツの哲学者。H.ロッツェに学びゲッティンゲン大学で教授。観念的実在論を説き、私たちの思惟や直観の問題はア・プリオリだが、現実の中にはそれに対応する何物かがある、としました。フレーゲが過去の哲学者に言及するときは、彼の『空間・時間・数学の理論』(第1巻 1868, 第2巻 1869)に拠るところが多いです。

[9] リプシッツ(Rudolph Otto Sigismund Lipschitz, 1832-1903)はドイツの数学者。ディリクレの教えを受け、クラインを育てました。リプシッツ連続は彼の名前に由来します。

[10] 非ユークリッド幾何学が念頭に置かれています。

[11] この一文からも分かるとおり、フレーゲは幾何学の命題は論理学に還元することのできないア・プリオリな綜合的真理に基づくというカント的な見解を、生涯を通して保持しました。従って、彼の論理主義のプログラムも、幾何学には適用されません。

[12] ジェヴォンズ(William Stanley Jevons, 1835-82)はイギリスの経済学者、論理学者。オーエンズ大学とロンドン大学で教授。経済学者としては、イギリスにおける限界効用説の創唱者であり、数学的手法を経済学に導入しました。論理学においてはG.ブールの記号論理学の思想を継承し、その数学的外観からの解放に努めました。帰納は演繹の単なる反対命題であるという考えを展開しました。

[13] 以下を参照。
第1の量と第3の量の同数倍が第2の量と第4の量の同数倍に対して、何倍されようと、同順にとられたとき、それぞれ共に大きいか、共に等しいか、または共に小さいとき、第1の量は第2の量に対して第3の量が第4の量に対すると同じ比にあるといわれる。
(『ユークリッド原論』(中村幸四郎他訳 共立出版 1975)第5巻定義5、p.91)
[14] 措定はSetzungの訳語で、他に「定立」とも訳されます。語源はギリシア語のテシス(thesis)で、その一般的な意味はほぼ「テーゼ」と同じです。つまり、ある事柄を本当であると主張すること、客観的に存在する事柄であると想定し、承認すること、です。
 この語は、フィヒテやヘーゲルが特有の意味で使って以来大きく意味が変遷したため、理解の難しい語ですが、ここでは上に述べた一般的意味で解して問題ないでしょう。

[15] 例えば以下を参照。
しかし、判明な概念に入っているすべてのものもさらに判明に認識される時、即ち分析が最後まで為された時には、認識は十全である(adaequata)。そういう認識の完全な例を人間が呈示できるかどうか私には分からない。しかし、数の概念はそれにかなり近付いている。
(「認識、真理、観念についての省察」『ライプニッツ著作集』第8巻(下村寅太郎他訳 工作舎 1990)p.28)
[16] 固い、赤い、重いなど、物の性質である概念は一階の概念と呼ばれます。一階の概念を述べる述語は一階の述語です。この節で批判されているカントールとシュレーダーは、数概念を一階の概念と考えます。
 これに対しフレーゲは数概念を二階の概念であると定義します。二階の概念とは、物ではなく、概念の性質である概念のことです(または「集合の集合」と言っても同じです。集合と概念は同じものですから)。なぜフレーゲがそう考えるかは、後の節で詳細に述べられます。

[17] カントール(Moritz Benedikt Cantor, 1829-1920)は、ドイツの数学史家。ハイデルベルク大学教授。集合論の創始者G.カントールとは別人。

[18] シュレーダー(Ernst Schröder, 1841-1902)は、ドイツの数学者、論理学者。ブール、ジェヴォンズらの論理計算の体系を整備し大成しました。これがブール=シュレーダーの体系と呼ばれます。真理表の考案、量化記号の導入による述語論理の創始、関係論理学の創始など、その業績は多岐にわたります。
 シュレーダーは『概念記法』を「記号法が分かりづらい」、「フレーゲの目的は既に達成済みのことであり、無意味な仕事である」など酷評していたため、フレーゲはその後一連の論文で、しばしば、ブールやシュレーダーと自らの立場の相違を強調しようとしています。

[19] 「群葉」というのは、いかにも苦しい造語ですが、他にいい訳語も思いつきません。著作集から訳語を借りました。Blattが一枚の葉を指すときに使われるのに対し、Laubは集合的に多数の葉をまとめて指す語です。従ってBlattには複数形がありますが、Laubにはありません。

[20] 以下が名高い「逆転スペクトル」による心理主義批判です。このフレーゲの議論の不備については、『大全』I巻を参照。幾何学の定理ではなく、色の名前を使った同型の議論については、野矢茂樹『哲学の謎』を、フレーゲの心理主義批判を継承して決定的な批判を与えたウィトゲンシュタインの議論については、「心理主義批判の解説」を参照。

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著:G.フレーゲ
訳:ミック
作成日:2003/08/07
最終更新日:2006/02/13 本翻訳は、この版権表示を残す限り、訳者に対して許可をとったり使用料を支払ったりすることなしに、商業目的を含むあらゆる形で自由に複製・配布することができます。
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