認識の多面性
    人間の考える力が新しい認識を創り出す

 「ことばの認識は世界を変える」で、「ことば」の定義を試み、何が「ことば」を構成するかを書いた。今回は認識がことばに置き換えられる前の過程について考え、認識の違いはなぜ起きるのか、また認識の中の 「私」の存在について、創られた想像物の弊害について説明を試みる。

 内 容 

 . 人はどのようにして認識しているのか 

a. 五感と脳の働き 

b. 生まれた時からの環境などの影響 

c. すでに生来の能力の限界を超えている認識 
 . 認識の中の問題 「私」の存在 
 . 認識が創り出してきた想像物とその弊害、騙されやすい認識 
   a. 想像物: 死後の世界、神、天国、地獄、悪魔、お化け、など・・・・ 
   b. 信じることの問題点・無関心や考えないことによる問題点・騙されやすい認識 
   c. 信仰や信じることによる効果、奇跡について 
 4. 正しい認識を持つことはできるか 


三省堂大辞林によると
認識とは「 物事を見分け,本質を理解し,正しく判断すること。また,そうする心のはたらき」とある。


1. 人はどうやって認識しているのか
a. 五感と脳の働き
認識を初めに形成するのは基本的に人間の持つ五感でありそしてそれを司る脳である。
三省堂 大辞林によると、「五感とは目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚。視覚・聴覚・味覚・嗅覚(きゆうかく)・触覚。また,人間の感覚の総称としても使われる」とある。
五感から入った情報は脳に伝えられ、認識を形成する。

脳は見ることと触ることにより色、形、大きさ等を知り、臭覚でにおいを、味覚で味を、音でも対象となる物の一部を知る。物の全体像に対する認識はこのように作られる。作られた認識はことばとイメージに置き換えられ、ことばによる思考に代わる。

基本的な認識が創られる誕生から幼少の時期に、五感(入力装置そのもの)が重要な役割を果たす。しかし、その五感には人それぞれ違いがあり、限界もある。

一般的には視力一つをとってみても近視、遠視、乱視、老眼等の人がいて、見え方はそれぞれ違う。近視の人でも仮性近視の人から眼鏡やコンタクトを必要とする人まで様々だ。補強することで同じ視力を得ようとしている。目の不自由な人もいる。人によって色の見え方も違う。全く見えない人もいる。

同じものを見ていても、正確には同じに見えていない。正確には「大きさも同じではない、形も輪郭も同じではない、色も同じではない」ものを見ていることになる。脳に残っているイメージも様々だと思われる。ただ、日常生活で大きな問題が生じないことから、人は同じものを見ていると思っていて、そこに疑問を持つ人は少ない。

同様に聴覚・嗅覚・味覚・触覚についても人それぞれ違いがある。
五感による認識の形成には受け継いだ遺伝とその後の病気や事故も関係しているように思う。
これらに加え、入力されたものを認識に変える脳にも個体差があると考えられる。

b. 生まれた時からの環境
生まれた時の環境も認識に大きな違いを生じさせる。男又は女に生まれたか、時代背景、親の持つ教育、考え方、好み、兄弟姉妹がいるか、祖父母がいるか、親戚が多いか、都会か農村か、海・山・川が近くにあるか、裕福か貧しいか、動物を飼っているか等、認識に違いを生じさせる要素はたくさんある。
幼少期以降、友人、先生、教育内容、様々な出会い、感動したこと、人の感情などすべてが五感を通して入力され、イメージを含むことばとして脳に蓄積されていき、様々な認識が作られる。

これらの事実を考えると、それぞれが持つ五感から作られる人の認識は、当然違っていると理解できる。
しかし、五感だけが重要なのではない。ことばの認識で取り上げたように、五感の一部分がなくても、ことばで考えることができれば、広い認識を持つことは可能である。残念なことにこの事実を認識している人は少ないように思える。
見えず、聞こえず、話すことができなかったヘレンケラーはこの点で人間としてのすばらしい模範を残している。

c. 限界を超えて
人間の持つ五感はそのままでは限界がある。視覚を取り上げてみると、かつて宇宙は小さかった。
肉眼で見える範囲が宇宙のすべてだったが、望遠鏡ができることで、遠くの星が見えるようになった。

望遠鏡による天体観測は、地球が太陽を中心に回る惑星の一つであることを発見し、太陽系も銀河系の中の一部に過ぎないことがわかるようになった。現代ではさらに遠くまでそして広がり続ける宇宙の果てまで見えるようになった。無数の銀河の存在、爆発する超新星が観測され、ブラックホール、暗黒エネルギーなどの存在もわかるようになった。我々の見ている空間は3次元で構成されているが、今では多次元の世界の一部かもしれないと研究がさかんだ。

小さいものも昔は見える範囲のものだった。顕微鏡がつくられ、肉眼では見えない細菌のバクテリア、さらに小さいウィルスなどたくさん見えないものが存在することがわかるようになった。
科学の進歩で物質もたくさんの元素からなり、それぞれの原子はさらに細かく分かれて、原子核と電子、原子核は陽子と中性子から成り、最近の研究ではそれはさらにクォークという素粒子等から成り立っているという。何もないと考えられていた空間が実は素粒子を発生させる源であるという研究も進んでいる。

現在は素粒子の世界と宇宙を統一した理論が必要とされている時代になっている。

知り得ないものはたくさん存在する。五感そのものに限界があるからだ。しかし五感を補強することにより、人類はより多くのものを知るようになった。そして新たに知ることは今までの考えに変化をもたらし、認識を変えてきた。自然に対して、人間に対して、動物に対して、昔と今では認識は大きく違っている。

将来新しい存在をどれほどたくさん知るようになるかは、今後の科学それぞれの分野での発展に依存していると言える。そして新しい発見は人々の考えを変え、ことばにも影響を与え、認識に様々な変化をもたらすことは間違いない。

今後重要になっていくと思われるのは、現在の認識そのものから新たに作り出される認識のことである。それは五感を通して外部から入ってくるものによる新しい認識ではなく、脳そのものに今までに蓄積された情報から作り出される新しい認識のことである。考える力により、探求心により創り出されるものである。すでに物理学では歪んだ空間の存在、重力や速度によって時間が変わることを明らかにしている。高次元の世界等も考えられている。人間の考える力が新しい認識を創り出す。



2. 認識の中の問題 「私」の存在

認識が創られる過程について説明したが、認識に関連してわからない重要なことがある。
それは「私」、「自分」という意識がなぜ生まれるのかという点である。
現時点では、生命体でない人工知能に「私」、「自分」という存在が生まれるとは思えない。
なぜ人間には「私」という意識、認識があるのだろうか。

これは将来、明らかにされていくものだと思うが、個人的な意見としてはすでに「脳と遺伝子と私」の中に以下のように書いた。
「私」とは脳によって生み出された、作られた自分である。
脳が存在する間だけ、自分が存在しているように錯覚させられている。
本当の(完全な・絶対の)自分(永遠の自分)など存在しない。
しかし、(生きている間だけ)そう思い込んでいる自分がいる。

「ことばの認識は世界を変える」の中で、なぜことばが重要かを書いたが、その10番目に遺伝子は分子言語でできていることに触れた。遺伝子はことばでできていると。それ故、遺伝子にことばという型があることから、高度な生命体はことばを使うようになるのではないかと。(以下引用)


10. 分子言語(人が使っている言葉ではないが、参考までに)
人間の細胞一つ一つに遺伝子が組み込まれている。遺伝子は分子言語でできている。受精卵の遺伝子はそのプログラムに従って、人間としてのそれぞれの臓器、血管、神経、骨、手も足も指も髪の毛もすべてが創られる。同じ細胞なのに目的に従って様々なものが創られ、そのように変化する。それ故、人間は「ことば」でできているとも言えるかもしれない。生命体はすべて遺伝子で動いているように思える。すべての生き物はその存在の源にことばがある。遺伝子はことばである。プログラムであり、ことばでできているのでそこにはパターンがある。これが理由で、人間にもことばができたのかもしれない。動物も、鳥も、虫も、植物もことばを使っている可能性がある。人間だけが高度に進んだことばを使っていると言えるのではないか。


これと同様に、すべての生き物は「自分」を持っている可能性がある。もちろん人間のような高度に発達した『頭脳』から作られる「私」のレベルには到底及ばないにしても。哺乳動物で賢いと言われるものでは名前を呼ばれ、自分の存在であることはわかるのではないか。もちろんわかると言っても反応するレベルでの話であると思うのだが。

生き物は遺伝子レベルでは身の危険を感じたら、避難・退避行動を取る。身を守るためである。虫でも、魚でも、鳥でも、動物でも同じである。頭脳が高度に発達しことばが生まれ、ことばが高度に発達すれば「私」という存在が生まれるのではないかと推測する。ことばが高度に発達した生命体すべては「自分」という存在を持っている可能性がある。

人間の場合、
生まれた環境が自分の存在を教え続ける。
個人の名前が与えられ、使うことで、一人の個人であることを教え続けられる。
好きなもの、楽しいこと、嫌いなもの、など教育される。
周りの人の考え、感情が刷り込まれる。
そうした中で自分の存在をよりはっきりと認識するようになっていく。
こうした過程を通して「私」という存在、「私」という認識が創られるのではないだろうか。
脳の一部分に「私」を作り出すものが存在するようになるのではないか。


3. 認識が創り出してきた想像物とその弊害、騙されやすい認

一般的に認められているわけではないが、認識は新たなものを作り出してきた。問題提起となるかもしれないが、基本的に証明できないことでありながら、それを願う人間の願いが関係している。
言い換えると、無い物かもしれない存在を願って、それを作りだしてきたことである。以下は断定的に書いてみたが、一つの考え、一つの仮説である。

a. 想像物: 死後の世界、神、天国、地獄、悪魔、お化け、など ・ ・ ・

人は今も未知なる恐怖から逃れられないでいる。将来に対する不安、愛するものを失う恐怖。死はその一つと言える。
人が死ぬとどうなるかに関する知識を持っていなかった頃、人は虫や動物などすべての生き物が死ぬことを見、朽ち果て、存在が無くなるのを見て、人間も同じと想像したと考えられる。すべてが死ぬことから死は特別なものではなかった。死後に魂は残るとか、霊は残るなどの考えはなかったのではないか。ごく自然に、生きているものはやがて死に、朽ち果て、存在が無くなると受け止めていたのではないか。

生きている人の多くは死を恐れ、長生きを願う。愛する人の幸せを願う。長く生きたいから、単純に死ぬだけのことを認めず、魂や霊は生き続けるなどと考える。

現代科学は教える。死んだら何も考えられない。脳がないのにどうやって考えるのか。脳死は死と認められている。死人は何も望まない。しかし、人々の願い、認識による想像は、死んでも魂や霊は生き続け、霊者となり生き続けることなどを考え続ける。

到底理解できなかった大自然に対する畏敬の念、大自然がもたらす恵みに対する感謝の気持ちは神と神々の存在を求めてきた。また未知への不安、死への恐怖の逃れ道として、それに対する癒し、保護への願いからも神の存在を求めてきた。そして新たなる考えを生み出してきた。

「死んだらどうなるのだろうか」という考え、疑問などにより、新しい認識を作り出し、死んだ人を神格化し、神様にし、死後の世界を創り出した。天国を想像し、地獄を想像し、見える神、見えない神を創った。太陽を神と崇め、同様に自然(動物を含む)を対象に、人間が造った物も対象に神々が生まれた。かつて理解を持たない人々は、人間が造った空を飛ぶ飛行機を見て、神と崇めたこともあった。信条も作った。こうして人間の想像による創作は膨大なものになった。恐ろしいイメージを想像すれば、お化けさえ出ることになった。

より正確かつ現実を知らせる情報は人の持つ恐怖が無知と理解不足にあることを示している。 人が考えてきた神は人知を超え、理解できない存在に対応するものであった。
現在は物事に対する理解を得ようとすれば、その情報を容易に得ることができる時代である。

2011年に東北地方で起きた大震災では死者、行方不明者を合わせると1万8千人余りに及んだ。ここに今まで一般的に受け入れられてきた神も仏も無いことはよくわかる。大震災は神も仏の意志も関係なく現実の出来事として起きたのである。昔のままの考え方はすでに受け入れがたい時代遅れなものになってしまっている。
人間の生きる世界は、現実の世界である。そこに一般的な神も仏も介在するとは思えない。
起きた現実のみがあり、そこに現実を受け入れるしかない人間の定めがある。

お金のかかる宗教行事等に見られる慣習に疑問を持ち、これで良いのかと問うのは、人のあるべき姿である。最近それが日本の葬儀に対する人々の認識の変化と行動に表れてきている。


b. 信じることの問題点・無関心や考えないことによる問題点

世界には信じられないほどたくさんの「神さま」が存在している。もちろん使われている「神」という言葉は同じであっても、それぞれ対象は違うし、同じ信仰を持っていても、それぞれの人の持っている神に関する認識もまた違っている。にもかかわらず多くの人はその事実に気づいていないし、気に留めようともしない。
信仰のない人たちも初詣に出かけ、縁結び 、家内安全、商売繁昌、厄除開運などの御利益にあずかろうと神に祈る。年中行事だと思っていて、皆と同じことをやって安心している。そこに疑問を感じる人は少ない。多くの人々には神様に関する真実などどうでもよいのかもしれない。

騙されやすい認識
実際は存在しないものも、存在があるかのように考え、裏付けを与えれば、存在するようになる。

脳による認識は、五感そのものに限界があることから、トリックなどが見えず、真実を把握することができないため、そのまま真実として受け入れてしまう場合が多々あると考えられる。

マジックのトリックがわからなければ、それが本当のことのように思えるのと同様である。洗脳や催眠術なども同様かもしれない。そこに悪意があれば、人を惑わすことも、だますことも可能になる。「たくみな言葉・仕掛けなどを用いて本当だと思わせること」で人を信じこませることができれば悪徳宗教が出来上がる。

人間は人間による支配を正当化するために神による権限の委譲を考え出した。至高の神から委ねられた権限を人がうまく利用した。こうして宗教は人類に膨大な影響力を行使し、支配したと思われる。神の名の下にと言いながら、実は正当化するための人間による口実だったのではないか。

ことばによる想像は創られた認識を信じるという行為に発展した。信じることで価値観を持たせ、神様により善悪を規定し、道徳を作り上げた。神様だけではない特定の思想、イデオロギーも価値観を持たせて凶器に変身させたこともあった。これらはみな人間が創り出したものだ。

では、信じることによりどれほどの認識の差が生じるのであろうか。
・・・イスラム国(IS)を見ればよい。オウム真理教が行ったことを知ればわかる。

認識することの一面に信じることが含まれると考えられる。信じるとは「疑わずに本当だと思い込む」、「間違えの無いものとして受け入れること」であり、「疑うことなく信頼すること」である。
日本国憲法20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と書かれている。

このように信仰を持つことは、人間の権利とされているが、信じることには大きな問題が含まれている。

信じることの問題点
信じるとは「間違えの無い物として受け入れ、疑うことなく信頼すること」であるという意味から、自分の中に完璧な存在(価値)を創ることであると理解できる。しかし、これには大きな問題がある。完璧な価値など存在しないからだ。人間の歴史はそれを示している。人間には間違いがあり、失敗があり、それを反省し、改善し、克服するから進歩がある。完璧な考え、教えなど今だかつて存在したことはない。あると思えるのは特定の時間枠の中、特定の信ずるという枠の中だけのことである。

人は「絶対確かなこと」を信じると、それに操られることになる。安易な方法に進む。つまり確かなことを信じるゆえに他のものを軽んじるようになる。そして排他的になる。「絶対確かなこと」は存在しないのに、そう思い込ませることは容易だ。「たくみな言葉・仕掛けなどを用いて本当だと思わせること」は手品、マジック、催眠術による人の反応に見ることができる。

自分が完璧であることから、他の人の考え、行為は完ぺきではなくなり、それが理由で排他的になる。数千年にわたり、人類は神を信じること、イデオロギーを信じること、教祖を信じること、教理を信じること故に排他的という囚われの身になってきた。そしておびただしい数の戦争が起き、想像を超える数の人が殺された。この囚われから人類は開放される必要があるのではないか。
オウム真理教、イスラム過激派などに見られる問題の本質は認識の一部にある信じることの問題であると考える。

信じる行為(信仰など)は必ずしも正確な情報を必要としない。信じることの本質はむしろ感情にあるように思える。信じ始めるとそれ以外は見えなくなってしまう。そう信じたいからである。それなりの理由はあるだろう。それ故、教祖を信じ、その中に留まろうとする。誠実な若者たちが教祖の言いなりになり、自分たちが重大な犯罪に関わっても気づかない状況が生じる。信じる故にすべてが正当化されてしまうからだ。

信仰には恐怖による脅しもある。信じないからそうなるのだと恐喝されることだ。信じる人が多くいる場合、少数の人はその圧力に屈してしまう恐れがある。神から呪われる、罰せられるなどと脅されたら、信じる人には逃げ道がなくなる。その恐怖故に中に留まろうとする。

想像による創作でも人の励みになるものはたくさんある。科学の世界に限らず、芸術の世界、その他に見られる創作活動も素晴らしいものはたくさんある。ただし信ずることには大きな問題が関係している可能性があることに注意が必要だ。


c. 信仰による効果、マザー・テレサに祈ることによる奇跡について

信仰や信じることによる効果・影響についてはどうなのか。効果はあるのか
間違ったことでも、それを信じることによる効果はあるように思える。つまり、効果は内容ではなく、信じるという行為そのものからくるように思える。対象でも、教えでもなく、信じることからくるのではないか。もちろん信じている当人は信じていることが正しいからと思い込んでいることだろう。スポーツでも学習でも研究でも仕事でも「自分を信じる」「意義、目的を信じる」等の効果は大きいと思える。


2016年9月、マザー・テレサは2回目の奇跡がローマ法王により公認されたのを受け、聖人の仲間入りを果たした。バチカン・教皇庁のニュースによると、

「2008年9月10日、重い脳の病気に犯されたブラジル人技師の男性が絶望的な手術を受けるために手術室に運ばれていった。その時、彼の妻は一人の司祭と何人かの家族たちと共に聖堂で待機していた。 彼女は前晩からマザー・テレサに夫の病気を治してくれるよう熱心に祈っていた。

全ては一瞬にして起こった。担当外科医は手術を少し延期するために手術室を30分ほど後にした。そしてしばらくして手術室に戻った外科医は、そこにベッドの上にきちんと腰掛けている病人の姿を発見した。つい数分前まで意識もなく生死の境をさまよっていた瀕死の患者が完全に意識を取り戻し,医師に何のために自分はここにいるのかと尋ねるのだった。

脳細胞に見られた欠陥が瞬時にして完全に消え去っていたのである。その後、この奇跡的治癒は専門家たちにより,医学的には説明不可能な完全な治癒として確認された。病魔によって破壊臓器が完全な状態に戻されるというこのような奇跡は「第一級の奇跡」として承認される。

この奇跡によって、貧しい人々,疎外された人々の友,天使であったマザー・テレサの列聖への扉は大きく開かれたのである。」

この奇跡を否定する気はない。信じない人によってはトリックやマジックだなどと言うかもしれない。そうかもしれない。はっきりしていることはある。奇跡はこれまでにたくさん起きてきたことである。

すべての絶望的な病人と関係者がマザー・テレサに祈ったら、そのすべての病人が直ったのなら、それは現実として受け止めることができるだろう。しかし、そうはならない。奇跡は稀だから、奇跡なのだ。また、奇跡的に良くなっても人間として死ぬ定めからは逃れられない。つまりその時一時的に助かったとしても、まもなく死ぬことに変わりはない。

昔からたくさんの奇跡があった。奇跡は稀に起こるものなので、神様によるなどと説明されてきたのだと思う。しかし、奇跡があったとしても、起きた本当の理由はわからない。わかったら奇跡ではなくなってしまう。

奇跡を起こすとされる祈りの対象も様々あり、キリストさま、マリア様、12使徒、パウロを含む数千に及ぶ聖人、ユダヤ教の神様、ヒンズー教の神様、イスラム教の神様、仏教の仏さま、ローマ帝国には30万の神様がおり、日本の神道の神様に至っては「八百万の神」(やおよろずのかみ)の神様がいる。
もちろん神様と言っても、それぞれは違う。同じ神様を信じていても、厳密には人それぞれは違う神様を信じている。
たくさんの神様に互いに違いがあり、矛盾があるにも関わらず、それぞれ信じている人にとっては本当の神さまである。しかし、この時代にそんな矛盾をそのまま受け入れ信じることは、何とも時代遅れのことのように思える。しかし、これが今までの人間の歴史が示してきた大衆の真実の姿ではないか。その背後には、人間の無知、無関心、利己心が関係しているのではないか。

それ故、真実を求め続ける誠実な人々の働きに、人類の未来は大きく依存していると言えるかもしれない。
人が反省し改善するためには、まず間違いに気づかなければならない。気づくためには考える能力、気づく能力、知力が必要だ。ことばの意義を深く認識し、考えることを推し進めていくことが必要であるのではないか。


見えない神、または霊などすべては否定されるべきか

いいえ。宇宙にはたくさんの知的生命体がいると考えられるし、すでに地球に生命体がある以上、その生命をもたらした知的生命体がいてもおかしくはない。人間以上に高度な知能を持った生命体がいる可能性は大きい。聖書の創世記に書かれている天地の創造者である神はそのような生命体であったとも考えられる。それ以外にも「人類の意思」みたいなものが影響を与える場合もあるかもしれない。多次元の世界が証明されれば、今まではとは異なる新たな生命体に関する認識が生まれてくる可能性もある。わからないことはたくさんある。

注意しなければならないことがある。
 ・ 将来人類は人間の能力をはるかに超える知的生命体に遭遇する可能性はある。遭遇した時、その生命体は偉大な存在、神のように見えるかもしれない。しかし、それは全能の神、絶対者などでは決してない。
 ・ 人類も弱者の存在からすれば偉大な神のように見えるかもしれない。現人類から見て、弱い知的生命体に遭遇した時、尊大になって自分たちが神として振る舞うことは可能かもしれない。しかし、絶対者の前には、自分たちの存在が無に等しいことを忘れてはならない。


4.正しい認識を持つことはできるか

人間として成長することと比べれば、学習や仕事で成績を上げること、業績を上げることはたいしたことではないと言えるかもしれない。ここ数千年の歴史は学問や科学技術は進歩したが、人間性は進歩しなかったことを示している。今人類が抱えている問題は成績、業績を上げることではなく、人間性を進歩させることである。

しかし、ここで進歩という表現を使ってはいるが、何が進歩なのかもわかっていない。人間性の定義はなく、人間がなぜ、何を目的に生きているのかもわかっていないからである。評価はともかく、これこそが最も重要なことである。

答えを出すことは無理なのかもしれない。しかし、人類を導く、「それなりの答え」があってもいいのではないか。

どうしたら正しい認識を持てるのか ・ ・ ・ これは重要な質問である。
正しいという表現はある特定の枠の中で使うことは可能であるが、すべて、全部、あらゆる枠という意味では使うことはできない。絶対という意味では使えない。

ここで言う「正しい認識」とは、普遍的、間違いのない、完璧な認識という意味であるが、認識そのものが人によって違うものである以上、統一した、間違いのないものなど作ることはできないと考えらえる。
仮に普遍的、間違いのない、完璧な認識を作ることが可能であるとしたら、人間に自由意志はなくなるのではないか。

すでに説明したように善・悪は人間が作ったものであり、「良い、悪い」という表現には問題がある。

「人間」に正確な定義が無い以上、このままでは、この質問に対する答えはない。
信じるが故に、「絶対正しい」等という認識は間違っているし、あってはならない。

しかし、こう考えることは可能かもしれない。すべての認識を統一することはできなくても、認識における部分的なもので、一時的なものであれば、調整は可能かもしれない。
一時的という条件で、認識の一部分だけに限られた枠を設ければ、普遍的に近い、正しい認識は作れるかもしれない。

科学が発展していく中で、新たな発見と共に、また人間の持つ思考力の拡大と共に、人の考えと認識は変わらざるを得ない。それ故、人間の認識も価値観も変わっていくものであると理解する必要がある。人類は変わり続ける定めにあるということだ。

人間の持つ「ことばと知力」は、今後の認識、未来の認識を変えていく。人間の考える力が新しい認識を創り出していく。その力を人類の未来のために役立てることが人間の使命であると考える。

2016年10月 マイケル・アレフ


2017年10月1日付で、最近の思い付き、に次のように書いた。

3代アメリカ合衆国大統領であったトーマス・ジェファーソンは
 「あなたは自分が誰か知りたいですか。では質問をせずに、行動しなさい。行動があなたを描き、定義するのです。」ということばを残している。
 自分は何かという答えは無いが、自分を自分で定義することはできる。自分を決め、描くことができる。
 答えが無いのは、個人も人類としても、自分で自分の歩む道を決めることができるように造られたためかもしれない。

 もし生きるべき道が決まっていたなら、それから制限を受けることになる。
 実は答えがないことが自由を与えているという側面を持たせていると言うことができるかもしれない。
 人間という枠を現時点では超えることはできないが、未来においては、個人として、人類としても、どのような生き方も可能であることを意味しているのかもしれない。