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     ことばの認識は世界を変える シリーズ 8
       「命」についての考察


命に対する考えは様々あり、統一することは困難と思えるが、人間にとって命ということばの意味をより正確に、より深く理解することができれば、人の持つ命に関する間違っているかもしれない認識を変える助けになるのではないか、という思いから以下のように書いてみた。

1. 命について
  ・ 命とは何か、
  ・ 命は誰が作ったのか、
  ・ 人の命は誰のものか、
     自分の命だと思いこんでいる理由
     いつから自分がいるようになるか
  ・ 命の目的は何か、
  ・ 命はどのように扱うべきか。
2. 殺すとはどういう意味か
     死ぬとはどういう意味か
  ・ 人はなぜ 「命は大切だから、殺してはならない」 と思うのか
  ・ 誰もこたえられない?「なぜ人を殺してはいけないのか。」
3. 若者の自殺に対する考えの一面とそれに対する考えについて
   (大人は)言葉では綺麗なことを並べる。
  ・ 「命は大切なものだ」
  ・ 「せっかく生きていたのにもったいない」
  ・ 「生きていればきっといいことがある」
  ・ 「生きたくても生きられなかった人がいる」
  ・ これらは全て詭弁であり建前である。
  ・ 「人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。」
4. 自殺にについて
   結び


1. 命について

・ 命とは何か
最近の思い付きの中の、素朴な質問に、「すべての存在理由は分かっていない」ことについて書いた。現代の科学をもってしても、命とは何かについて確かな答えがあるわけではない。部分的な答えにならざるを得ない。見方も様々あると思う。
  「命の目的は何か、殺すとはどういう意味か」の中に、一つの大切な考えとして、命とは食べ物のことでもある、と書いた。命は生命体を生かすエネルギーのこと、遺伝子でできた食べ物のことである。

個人の命、人が集まってできる社会、人類のように、命とは個々の命の場合だけでなく、集合体としての命として考える場合もあるように思える。
命の見方は個人での視点もあるが、人類という視点でも、宇宙という視点でも考えるべきものなのかもしれない。


・ 命は誰が作ったのか
命がプログラムでできた生命体であることから、設計者、創作者がいることは理解できる。
現人類も遺伝子操作をすることで新たな生命体を創ることができる段階にきている。
しかし、地上の生命体を誰が作ったかはわからない。

人類が新たな生命を作り出した時、その新しい生命体は人類が創ったことになるのか。
遺伝子を操作しプログラムを作り変え、新たな生命体を創ったことは確かでも、新たな生命を創造したという意味とは違う。人類は現代の科学をもってしても一つの細胞さえ創れないという現実がある。
人類が新たな生命体を造ったという場合、それは車の全面改良のようなものではないか。車の歴史は1769年の蒸気自動車にまでさかのぼる。それ以来現代に至るまでたくさんの改良がなされてきた。全面改良して新しい車を作ったとしても、見た目には新しくても、それまでの技術を使っているという意味では、全く新たな創造とは言えない。

同じ質問が地球上の人類を含むあらゆる生命体の存在に対しても言える。
つまり地上の生命体も高度な知能を持つ生命体により、遺伝子の操作によって創られただけなのかもしれない。言い換えるなら、地球上の生命体はオリジナルでない可能性がある。
もしそうなら、地球上にある生命体に類似した生きものが、地球以外にも存在する可能性は大きい。
すると、誰がその元からある遺伝子を創ったのかという質問が生じる。
同じような質問の繰り返しになる可能性がある。答えを得ることはできないのかもしれない。

全宇宙の物質、命を含むすべての創造者として絶対者の存在をあげることはできる。
ただし、その存在は無限であり、有限である人間を含むあらゆる知的生命体もその存在を知ること、認めることはできても、理解することはできない。宇宙等の一部に見られる英知を認め、美しさを感じ、驚くことくらいしかできないように思える。


・ 人の命は誰のものか
命が特定の存在に属するものであるということはできないが、人間の成長過程を考えれば、必然的にある程度の答を得ることはできる。

人間は生れるまで遺伝子により創られ、赤子として生まれ、生まれてからは創られた脳により制御され成長してきた。

赤子として生まれた時、その命の一部を自分で作ったと言える人などどこにもいない。
生れてから一人で生きられない存在が、親の保護の下で、衣食住を与えられ、大切に扱われ、育てられてきた。そして大人へと成長した。

命は自分のものであると考える理由はどこにあるのだろうか。
どこに自分の所有権があると言えるのだろうか。
生命体として自分自身が作ったものなどどこにもないのではないか。
親の持つ遺伝子は親自身が創ったものではない。遺伝子は受け継がれ、そして子に伝えただけである。自分の命という考えは、命に対するはなはだしい認識不足である可能性がある。

しかし、事実はそうであっても、人はみな自分の命だと思いこんでいる。なぜだろうか。


自分の命だと思いこんでいる理由

昔は命の存在の意味を考えても詳細を知ることはできなかった。
誰も知らない、わからないことなので、神様が創ったということで皆納得した。
昔は、遺伝子を受け継いでいるという考えはなく、遺伝子によってすべてが作られているという考えもなかった。針先ほどの受精卵から、プログラムにより、一人の人間が赤子として造られることなど想像できなかった。
今は医学の進歩によりDNAの意味を知り、解読され、ヒトゲノムなどのことばが作られている。
生命に対する理解という意味では、現代は昔とは大きく違う。昔の認識は現代の知識も理解もない時に作られたものである。時代が変わり、科学の進歩と共に知識は増し、理解が変わる。昔の認識がそのままで良いわけはないと考えられる。

人は生れた時にはまだ考えることはできず、創られた脳により制御される。自分という意識、考えはどこにもなかった。自分はいなかった。


ではいつから自分がいるようになったのか。
自分がいるようになるのは、自分の存在に気づき、自分を意識するようになってからのことであるように思える。

生れて1歳、2歳と成長する中で、自分の意思で自分の体をコントロールできるようになる。親に名前を付けてもらい、自分の名前を呼ばれ、全ての物に名前があることを教えられていく。歩けるようになる。食べることができるようになる。話すことも始める。その頃は未だ自分の存在に気づいていない。
そうしている内に、自分の食べたいもの、欲しいもの、やりたいことなどを主張するようになる。自分の存在に気づく時期の始まりであると考えらえる。

この頃から、自分の意思を表すようになる。
それまでは置かれた環境の中で、親が中心になり、ことば、感情、慣習などすべてが入力され、基本的な認識が作られてきた。
自分を意識し始めてから、自分という存在、自分に命があることに気づき始める。それは自然環境、社会環境からの脳による学習、教育によるように思える。
脳自体も人間の体の一部として、人体の成長と管理、維持・制御のためにあらかじめ人間の機能の一部として備えられているものである。

初めは自分という意識はなかったが、自分の存在が大きくなるにつれ、すべてを自分中心に考えるようになる。学習している。わがままを言うようになる。自我を通すようになる。親は未だ人生のほとんど何も知らない子供がかわいいという理由で言いなりになることも起きる。子供の自分中心の考えが助長される。

二歳になった孫を見ていると、自分の物という考えが出てきている。教育され、制御されないと、なんでも自分の物と思い込む。
親は子供がかわいいから、喜んでくれるなら何でもしてあげたいという思いはあっても、親自身が良く考え、自制し、対応しなければならない時期のように思える。
この時期こそ、ことばによる教育を通して、「自分の物、人の物」ということを教える最善の機会に思える。安全のためにも、自分の好きなようにはできないことがあること、自分の物ではないものもあることをきちんと教育する。自制することを教える。人間にとって最も重要な教育の時期とも考えられる。親にとっては大変な仕事である。
この時期を逃し、時間が経てば経つほど、子供の主張は強くなり、親の言うことを聞かなくなり、自分の生き方を変えることに抵抗し、調整が難しくなるとも考えられる。


人の命は白紙に絵を描くことに似ている。子供の脳が未だ白紙に近い状態の頃から、ことばの教育を通して、ことばの意味、意思の疎通、考えること、学習すること、信頼すること、謙虚さ、忍耐、我慢など、人間性を描いていく。それは子供の将来像を描くことでもある。

親の教育と手本により、子供は賢くなることも、人の気持ちがわかる心を持つことも、試練にたいして強く生きていくための勇気を持つこともできる。
しかし、親が自ら学ばず教育を怠れば、命を役立てる人間に育つことは難しくなることも考えられる。

学校の勉強を頑張ったとしても、良い成績をとったとしても、スポーツを頑張ったとしても、仕事を頑張ったとしても、その結果は個人の業績なのだろうか。
受け継いだ能力も人によって違うので、才能に恵まれる場合もあるし、そうでない場合もある。その才能は努力して作り上げたものであれば、個人の貢献は認められる。しかし、与えられた体も能力も自分が作ったわけではない。受け継いだものであり、多くの人の支援があって今があり、頑張ることが可能になったのではないか。

この自分の命と成長に対する認識がないのは、教えられてこなかったことにも原因はあるかもしれない。自分の命について誰にも教えられたことはないのではないか。
親自身も自分の命に対する認識はなく、自分の命が何なのかわかっていないのではないか。人類全体としても命に対する認識が欠けていると言えるかもしれない。

殺人などの重大な罪を自分の子が犯したとき、その親はどう感じるのだろうか。
自分の子が自殺した時、親はどう感じるのだろうか。
結果にはそれに至る過程がある。子供のころからの育て方にも問題があることも考えられる。環境も関係するだろう。その親はしっかりとした考えを持って育てたのだろうか。
考えを持つとは責任を持つ、責任を自覚していることでもある。

初めての子を育てることは、誰にとっても初めての経験で、どう対応したらよいのかわからない。一生懸命学習し対応する親は多いと思うが、子育ては大変な労働であり、忍耐と自己犠牲を強いられる仕事でもある。
親にしっかりとした考えがないと、決意がしっかりとしていないと、成り行きになり、子供は自分勝手に成長していくことになる。子供は自分で学習を通して大切なことを学ぶかもしれないが、たくさんの時間と労力を課すことになる。

人間は子供の時に必要な教育をされないと、自分中心の考えに傾き、自分勝手な生き方をするようになるとも考えられる。

重罪犯の中には、自分は何のために生まれてきたのだろうか?
生れてこなかった方が良かったのではないか? と考える人もいるかもしれない。
「なぜこんなおれを生んだ」と親に文句を言うかもしれない。
親は、「そんな子に育てた覚えはない」と反論するかもしれない。
どちらにも考える習慣がないから、こういう結果になるのではないか。

人間は誰でも一人では生きられず、両親の支えが必要であり、家族、親族、地域の人々、学校での先生、その他多くの人の助けがあって、成長していく。親も子も皆そうやって大きくなった。しかし、いつの間にか、自分一人で大きくなったように錯覚してしまう。
特に親元から離れ、独立し、自立するようになると、自分の命は、自分のものと考えるようになるのではないか。
他の生き物、鳥や動物であれば大人になれば独立して、自分の存在を中心に生きて行く。
人間と動物は同じ存在とは言えない。人間には考える力があり、社会を作り、共同で生活をしている。人間が動物と同じでレベルになり、自分中心に生きて行くわけにはいかない。

人の命は自分だけのものではない。それは時代を超えて人類、社会、皆の共有財産であるという認識を持つことが必要であると考える。


・ 命の目的は何か
明確な答えが現時点ではわかっているわけではないが、こう考えることはできる。
命は存在するだけでは意味はない。命は活かして初めて意味を持つ。命の目的は命を活かすことにある。命を活かすとは他の生命体のために役立てることである。
すべての生命は他の生命を食べて生きている。まさに他の生命のために役立てている。
命の目的は他の生命すべてのために役立てることであると考えることができる。

それ故、人の命も存在だけでは意味はないと考え、命を活用することが重要である。人の命の目的は、他人のために自分の命を役立てることにあると考えられる。
命の目的の中には子孫を残すことも含まれる。


・ 命はどのように扱うべきか。

命は大切なものとして扱う必要がある。
人間の命を大切に扱うとは、人の命が何かを知り、理解し、その目的が他人の役に立つためにあることを認識することであると考える。
人間の子供達は人類の未来を創る大切な子孫である。親は自分の所有物であるかのような考えを避け、人類の未来を担う者であることを念頭に置き、十分な心構えを持って育てる必要がある。
親自身が自らよく考え、模範となり、人類の一員として役立つことが、命を大切に扱う意味であることを認識する。

人の命を大切に扱うことは、全ての人の責任である。自ら謙虚になり、子供達のあるべき模範となり、自らも学び、思いやる心を持ち、他人を大切にし、人を助けることである。


2.殺すとはどういう意味か。
「生命体の持っている未だ生きていられる時間、可能性を無くす、また奪うこと」と定義できるのではないか。

すべての生き物は他の生命を食べて生きている。
言い換えるなら、すべての生き物は生きるために、食べるために他の生命を殺している、またはその恩恵にあずかっている。これが現実である。現実を認識しないことは、命に対する間違った考えを持つことになる。

人間の世界では昔はどこに住んでいても、生活のため、生きるために、魚を取り、鶏を飼い、野生のシカ、ウサギなどを捕って食べていた。動物を殺すことに違和感はなかった。むしろごちそうとして喜んだ。日本では、身近に鶏や動物を殺していることを見る環境が無くなった。以前には、殺して食べるのは日常の生活にあったが、それが見えなくなると、殺して食べていることを知らない大人になる。殺すことが異常に思える、違和感を覚えるようになる。殺すことが何かわからなくなる。

小学校の低学年の頃に、事前に命とは何かの教育をし、団体で屠殺場(トサツじょう)の見学に行けば、動物を殺していることを見、それを食べていることを認識することができるのではないか。人間が昔からそして今も牛や豚や鶏などの生命体を大量に殺して食べているという現実を認識することができるようになる。殺すことはすべての生命体にとって欠かせないことである。そう認識するために、親がまず見学に行ってみたらどうか。

植物でさえ、実際には殺して食べている。植物を殺していないと思うのは、植物を生命体と考えていない、認識できない人間の勝手である。
植物は他の生命体を直接殺してはいないように見えるが、植物の葉、虫、鳥、動物などの死骸が朽ち果て土に栄養となり、それを吸収している。

すべての生命は基本的に他の生命を殺し、食べて生きている。命は他の生命のために役立っている。


死ぬとはどういう意味か。
死ぬとは「生命体としての活動を永久に停止すること」と定義できるように思える。
動物を殺すことの意味を知る時に、人間も死ぬということの意味も理解することができるのではないか。人が人を殺しても平気なのは、命の意味、殺すことの意味、死ぬことの意味が解っていないからではないだろうか。


・ 「命は大切だから、殺してはならない」と人はなぜ思うのか

「命は大切だから、殺してはならない」と思うのであれば、動物の肉、鶏の肉、魚も食べるべきではない。植物も食べるべきではない。これらはみな命である。徹底して食べるのを止めるべきである。すると人は生きてはいられない。人は死ぬことになる。
「命は大切だから、殺してはならない」という考えにはどこかに矛盾があると思わないだろうか。

「命は大切だから、殺してはならない」と思う理由
 ・ 人間には高度に発達したことばがあり、考えることができるため、動物と同じように「自分が食料にされることを考え、殺されて食べられたら困る」と思うことができる。だから、中には、他の生き物も、同様に殺されたら嫌だろうと考える。
思いやる気持ちは大切である。しかし、人間の思いやる気持ちが「他の生き物も人間と同じように考える能力、認識がある」と考えることは基本的に間違いである。
野生の熊、イノシシ、ライオンと一緒にいたら、動物に人間のことを思いやる気持ちがあるかどうかすぐにわかる。

では、なぜ人間だけが他の生命体を殺して食べることを悪いと思うのか。
人間の認識の根底に善悪に基づく価値観があるからであると考えられる。それは思い込みに過ぎないが、数百年にわたり、そう教えられてきたことにより、誰にもそういう認識をどこかに持つようになったのではないか。

命は大切か。食料にできる命は大切である。人間が生きていくために欠かせない。
動物の命を殺すことは悪いことか。悪いわけがない。人が生きるのに役立っている。
では、なぜ悪いと感じるのか。認識の中に善悪という価値観が思い込みとして作られているからであると考えられる。どういうことか。

幼いころから、どこかの時点で、命を殺すことは悪いことだと教えられた可能性がある。
両親からか、祖父母からか、テレビか、学校教育からかは覚えていない。むかし話などの物語にそうした考えが書かれていたかもしれない。

思い出した言葉がある。殺生(せっしょう)である。その意味を調べてみた。
宗教用語ウェブリオ辞典に殺生とは次のように書かれていた。
「仏教語。生きものを殺すことで、その行為を殺業という。仏教では最も重い罪の一つとし 、僧俗の別なく禁じている。五悪・十悪の一つ。とくに大乗仏教ではこれを重視し、殺生 禁断を強調する。だが、実際は殺生なしの生活はありえないので、懺悔(ざんげ)の教えが説かれる」

仏教は日本人の生活に大きな影響を与えてきたが、今も人々の認識の中にこの考えがしみ込んでいるように思える。日本人の認識のどこかに「殺すことが悪い」と感じる理由は、昔からそう教えられてきたからかもしれない。

★ 誰もこたえられない?「なぜ人を殺してはいけないのか。」
     最近の思い付き 


3.若者の自殺に対する考えの一面とそれに対する考えについて

(大人は)言葉では綺麗なことを並べる。
・ 「命は大切なものだ」
・ 「せっかく生きていたのにもったいない」
・ 「生きていればきっといいことがある」
・ 「生きたくても生きられなかった人がいる」
・ これらは全て詭弁であり建前である。
・ 人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。

これらの考えに何と答えることができるだろうか。

・ 「命は大切なもの」
命の意味が解っていないと、なぜ大切なのかがわからない。命は食べ物のことでもある。自分の命を自分だけの命と考える理由はない。
命は大切なものである。しかし、命が大切だと言う人が、「自分は死にたくない。生きていたい。」という意味であるなら、実にばかげたことを言っていることになる。命のことをわかっていないのに、死にたくないだけになり、自分は利己的だと言っていることと同じになる。相手は死にたいと思っているのだ。相手の身になって考えることが必要である。

・ 「せっかく生きていたのにもったいない」
命が粗末に扱われて惜しい。有効に生かされず残念だ、という意味であれば、その通りだろう。しかし、人の高慢さから出てきた言葉であれば、不快に感じる。同情する気持が無いようにもとれる。命に対する認識のない人のことばに思える。命と物を同じに考えているように聞こえる。

・ 「生きていればきっといいことがある」
「きっと」という表現は言った人の無責任さを示している。生きていても、いいこともあれば、わるいこともあるのが現実である。いいことがあるかどうかわからない。ただし、何が起きても、どう捉えるかで、物事は変わってくる。主体性が関係する。単に期待して生きるのではなく、成し遂げる気持ちをもって生きれば、わるいことでもいいことに変えることさえできる。本質的にはいいこと、わるいことはなく、現実があるだけである。

・「生きたくても生きられなかった人がいる」
確かにその通りである。恵まれた人生もあれば、悲惨な人生もある。これが現実である。
生きたくても生きられない人の命がある。それは現実で、その人が立ち向かわなければならないその人の人生である。誰もその人の命と代わることはできない。思いやることはできる。多少でも助けることもできるかもしれない。その人の分まで頑張って生きることもできるだろう。
個人が抱える遺伝や重い病気や死は、人類共通の問題として対処することが必要だ。
自殺する人の命にしても、その人が立ち向かうべき人生である。自分で考え自分で結論を出したのだ。ただし、若いゆえに、人生が何かもわからずに死ぬことに意義があるとは思えない。命の意味さえわからずに、死ぬことに何の意味があるのだろうか。

・ これらは全て詭弁であり建前である。
ウェブリオによると、詭弁とは「間違っていることを、正しいと思わせるようにしむけた議論」、建前とは「表向きの方針」の意味がある。
間違っていると決めつける必要はないように思える。
人は皆、考えにおいても行動においても間違いだらけである。
言おうとしていることは良くわかる気がする。大人の社会が利己的で、利益追求の社会であるということだ。皆自分中心に動いている、と言いたいのではないか。
皆が命の意味を自覚し、謙虚になって、反省していけば、きっと問題を克服していくことができる。

・ 人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。
人が生きているのは、好きなように勝手にできるという意味の自由なのではない。
自分の存在など初めはなかった。体も能力も考える力もなかった。すべてが与えられ、親を初めとするたくさんの人々の支援を受けて一人前になったのである。自分が生きるのは勝手にできるという自由であるはずはない。そう考えるのは命に対する認識不足である。

死ぬのも自由であるべき。
若い人は人生が何かを十分にわかっていないで、死ぬのも自由だと言うには未熟すぎる。
自分で生活し、結婚し、親になり、子どもを一人前に育てるなどの経験を経てからでも、死ぬのも自由だ、と言うには遅くはない。
考える力と経験を通して知恵を得れば、簡単に結論は出さないようになる。人生はそれほど簡単ではない、単純ではない。複雑でもあるという意味である。
感情に動かされ、考えずに行動することは、若い時期の傾向とも考えられるが、命に対する認識の欠如でもある。
死ぬのも自由であるべきではなく、死ぬのはもともと自由である。



誰でも苦しい時に死んだ方が楽なのではないかと思ったことくらいはあるのではないか。
でも、死ぬことを選ばなかった。それは、命が単に自分のものだとは思わず、親を初めたくさんの人のことを思い起こしたからでもあるのではないか。
生まれた時、みんなの祝福の下で出発した人生である。自分一人の思いだけで、人生を簡単にあきらめるわけにはいかないと考えることが必要である。


4. 自殺について
人の命は個人の所有物ではない。人を殺すことは違法であると同じように、自分の命を殺すことも殺人であり、違法であると考えられるが、法律ではそうなっていない。自殺と自殺未遂自体は無罪放免である。当事者が生きていなければ、裁きようがないからという理由があるのかもしれない。
法律は人間が作ったものである。間違いも当然ある。命が自分のものであると考えることは間違いであると考えられる。

与えられた命を自分のものではないと理解しても、命を絶たねばならないと思う場合もあることは考えられる。
肉体的に生きていることの苦痛に耐えられないような場合。精神的に生きているより死ぬ方が楽だと思える場合、精神的な病の場合もあるだろう。
死ぬことにより責任を取るつもりの場合も、責任を回避するためにという場合もあるように思える。人の考えによるのだろうが、様々な思い、理由があるだろう。

自殺は個人だけの問題ではない。家族として、社会として、人類としても考えなければならない問題であるように思える。

自殺に関して、若い人の場合と、大人の場合と、年老いた人の場合では、同じように考えることはふさわしくないように思える。自分で死ぬことに決めるという点では同じだが、置かれている立場や条件が違いすぎる。


若い人は学習、経験という面で、人間について、社会について、十分な教育を受けているとは思えない。命についての学習も不足していて、理解しているとは思えない。 人生の意味が解らないのに、自分の命を殺すことは早すぎると考えられる。

恐らく、いじめ、いやがらせに辛く、苦しく、絶えられないことに原因があるのかもしれないが、それに耐えるだけの力がない。なぜ対処するだけの力がないのか。
親も社会も子供に命とは何か、命に対する責任、人間としての責任を教えていないからではないか。現実を教えていない。結果として忍耐することをしらない。問題の対処の仕方を知らない。簡単にあきらめるようになるのではないか。
子供は親から甘やかされて育てられ、自己中心になることを教えられ、弱い人間が作られていく場合が多いのではないか。親は子供に人生について教えることもなく、命の意味も教えない。にもかかわらず、自分を殺すことを誰かが教えた。誰が子供に自分を殺すことを教えたのか。テレビやゲームで人を簡単に殺すのを見ているからかもしれない。

人の命は自分だけのものではない。生まれた時から多くの人の支えがあって大きくなれたのであって、一人で成長したわけではない。
育てるために、父親は働き、母親も家を守り、想像を超える労力と忍耐、苦しみも悲しみもあった。子供は何にも代えられない大切な命である。親にとっては生きる希望である。
このことをなぜ十分に認識しないのだろうか。

どんな理由があるにせよ、問題と戦うべきであった。人の助けを求めるべきであった。命がなければ未来はない。可能性がなくなる。命があれば、命の目的を果たすことができる。人のために役立つことができる。
人間の世界で生きることは自然界で生きることと同じように厳しい側面もある。大人になれば問題がなくなるわけではない。大人になっても失敗することも、間違いをおかすこともある。責任が問われることもある。誰でも現実と向き合わなければならない。人間が社会を作り、皆で協力して生きているは、人間には誰でも弱い面があり、生きて行くための支えや助け、励ましを必要としているからである。


平成26年度の自殺者の総数は25,427人。性別では、男性が17,386人で全体の約70%を占めている。40歳代〜50歳代の自殺者は全体の33%を占める。

生活費を稼ぐ働き盛りの男性が病気、怪我など健康問題を抱え、職場での問題、人間関係による悩み等で精神的な負担を抱えると、生きて行く気力がなくなることもあるだろう。そこに経済的な不安が生じれば、家庭内でも不和が生じるかもしれない。
個人で抱えるには問題が大きすぎる場合もある。一個人の問題としても、社会の問題としても適切なところ(いきる・ささえる相談窓口など)に相談すること、助けを求めることが必要になるだろう。人間社会、人類はそのために共同体として存在している。


老人の自殺について
老人でも考えはそれぞれ違う。人生を一生懸命生きた人と目的もなくなんとなく年を取った人では、命の意味が違う。 その結果も違うはずである。人生に対する見方も違ってくる。残りの人生に対しても考え方は違ってくる。
生きるとは人のために生きることである。希望を持って、他人の役に立てることを考える事ができれば、命に意味はある。命に意味があれば自殺は考えない。
医療制度では75歳以上は後期高齢者とされる。90歳、100歳であっても頭脳明晰でしっかりとした意思をもって行動できる人はいる。

ここで言う老人とは、自分で他人の役には立っていないと判断することのできる年齢の人のことである。ただ死ぬのを待つだけの人生なら、生きたいとは思わない人もいるだろう。
人は誰でも年老いて死んでいく。いつ死ぬかは誰にもわからないが、自分で決めることができれば別である。
命の意味は、他人のために役立つことである。しかし、他人のために役に立っていない、将来も役に立たないことが自分でわかるのであれば、自分で自分の命の意味はないと判断することはできるのではないか。
死ぬとは「生命体としての活動を永久に停止すること」と書いた。 有史以来、あらゆる生命体、動物も人間も、みな死んで来た。 死は自然のことであり、当然のこととして受け入れる必要がある。

人間だけが何か特別な存在であり、長生きすべきだと考える理由はどこにもないだろう。
人間には自決する権利はあるのかと考える必要はない。
人間は自分が自分を認識できなくなる前、病気で間もなく死ぬことが予想されるなど様々な理由から、自決する選択肢があると思われる。
法律は人間が作ったものである。権利は人間が創り出したことばである。初めから人間には普遍的な規制はないということである。
権利のあるなしにかかわらず、考えなくても、自殺は法律によって罰せられることはない。自殺する人はこれからも止まらない。自決することは自由であるという意味であることと同じなのだ。つまり人が死ぬのは自由なのである。

人間には死ぬ自由はある。自殺と自殺未遂自体は無罪放免である。
ただし、誰にも気兼ねなく自決できるわけではない。それなりの準備は必要だ。
生前葬をやり、皆に感謝して、当たり前のこととして静かに死んでいくことも、一つの人生の在り方だろう。


結び:
人は、自分に与えられた命で、自分の未来を切り開き、自分の人生を作り上げていく。
自由があるのは、自分の意思次第で、未来をどのようにでも作ることができるからである。
老齢となり、死ぬ時が必ずやってくる。人間としてのつとめを終える時期のことである。
自分の人生の最後をどう生きるかを決めるのは、人間としての最後の大切な選択となる。
自分の人生の締めくくりを、最後に自分で決めることこそ人間としてふさわしいのではないか。

マイケルアレフ 2017年11月