地下読書監獄

地下二階




カルステン・ラクヴァ『ミッキーマウス ディズニーとドイツ』(柴田陽弘他訳、現代思潮新社、1992/2002)

上祐史浩『覚醒新世紀』(白順社、2002)

アラン・ダンデス『鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ』(新井皓士訳、平凡社、1984/1988)

エオン・エキス『強姦の形而上学』(竹内健訳、現代思潮社、1966/1977)

ジョルジュ・バタイユ『眼球譚/マダム・エドワルダ』(生田耕作コレクション1、白水社、1988)より「眼球譚」
或いは『パイディア八号・特集ジョルジュ・バタイユ』よりM・フーコー「侵犯行為への序言」(竹内書店、1970)

川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996)

谷崎潤一郎『お艶殺し』(中公文庫、大正四/1993)




階段を上る

掲示板を訪問する






 カルステン・ラクヴァ『ミッキーマウス ディズニーとドイツ』(現代思潮新社、1992/2002)
 ★★★★

 本書によってわれわれは、自らの歴史理解が依然として抽象的であることに気付かされるであろう。ここに書かれている事柄はどこまでも具体的だ。
 世界大戦。あの現代史を穿つ巨溝に対し、われわれはいかに迫ることができるのか。このたび案内役をつとめるのはあのミッキー・マウスである。それからドナルド・ダックもいささか。
 この本のなかでミッキー・マウスは、ドイツのネコどもと塹壕戦を繰りひろげ、打倒東条内閣のために戦時国債の購入を呼びかける。かと思えば逆に、海を渡ってドイツ軍の戦闘機の腹部を飾りさえするのだ。そしてドナルド・ダックも負けていない。ヒトラーの弾薬工場で働かされているドナルド・ダックは、総統の顔にトマトを投げつけ、自由の女神に熱烈なキスをする。
 また本書には、兵士のロッカーに貼られたウォルト・ディズニーのスタッフによるヌード・ピンナップ(絵柄はまさにディズニーそのもの)や、『三匹の子豚』オリジナル版の「ユダヤ人づらのオオカミ」なども紹介され、今日の無害化されたディズニーばかりを知るわれわれを驚愕させる。

 ひとたび戦争が起これば、あらゆるものが無関係ではあり得なくなる。それは日常生活でもそうだし、文化もまた然りである。「戦力と戦力のぶつかり合いだけが戦争ではない」とはよく言ったものだ。世界中の誰もが知っているディズニーのキャラクターを糸口に読み解く世界大戦。このような卓抜なテーマで一書を物した著者の創造性は賞賛されてしかるべきだろう。

 只、本書にも不満がないわけではない。著者が文筆業と経営の二足のわらじを履いていることが影響したのか、この本は折々のディズニーの経営状態にもかなりの紙幅を割いている。ところがそうした箇所の記述はやや冗長である。ディズニーの大戦前後の経営についての研究もよいが、なにもこの本でそれをやらなくても……という感じがする。それよりも、本書の魅力の中心であるところのイデオロギー闘争的な部分、アメリカとドイツによる「ミッキーマウスのポリティクス」とも云えるような部分に全力を投入してほしかった。
 だが、これはおそらく無いものねだりであろう。

ページ先頭へ





 上祐史浩『覚醒新世紀』(白順社、2002)
 ★★

 初めに褒めることになるのがなんともためらわれるが、読者に向け「あなたも救済活動に参加してほしい」、「絶対幸福」などきわめてインパクトの強いメッセージがしばしば飛び出すところは、この本の、われわれが通常「書物」として了解している数多の本との異質性を認めるべきなのだろう。
 政治の本質が権力であるのに我々は政治=行政と思わされている、というのと同じように、書物の本質が人の世界観を変え、実践に駆り立てることであるにもかかわらず、われわれは日常生活において、書物=机上の言説あるいは娯楽と思い込まされている。そういう意味では、この本は『聖書』や『共産党宣言』の系譜、世界を創りだす書物たちの裔であるだろう。それが他でもないあの「オウム真理教」(現アレフ)の出した本だということが頭を悩ませるのだが。

 しかし幸いにして(?)この悩みはすぐに止む。なぜならこの本の評価できる点はそこだけだからある。というのはつまり、肝心の内容がとてもユルいのである。
 出だしの「シヴァ大神の啓示・二十一世紀の大黒柱」における上裕のシンクロニシティ体験は壮大なるこじつけ、ひとりよがりであり、主に第一章で展開される世界観も、まともに説明しようというよりは「最先端科学にれば」「占星学によれば」などといったひどく抽象的な権威を持ち出してきては自分たちに都合のよい結論を信じ込ませようとするという、完全に読者をナメた書き方をしており、通常の理性的な状態であれば(そしてある程度の読書経験があれば)、この本を読んだからといって真理に目覚めてしまう危険性はあまりない。なにかのっぴきならない苦悩がある人のみこの本を警戒するべきだろう。

 ただ、そのユルさが読んでいるとある種の催眠効果をもたらしているのではないか、という疑念が筆者の脳裏をよぎったことはいちおう記しておこう。だらだらと続く気の抜けた説法、そしてオウム内部でしか通じない「仏教用語」に浸っているうちに、アルタード・ステーツかアンビエントかというようなぼおっとした気分になってくることは、思えば空畏ろしいことではある。

 最後に、ネットで拾った書評でわりと納得したのは、この本はオウム初期の本と同じ構造をしている、という指摘であった。つまり自身の体験談からヨガの行法へ、そしてそれを実践した人たちの体験談に至るという流れが麻原の著書に酷似しているというのだ。
 上祐は麻原を切り捨てることによって、教団を発足当時のような状態に戻したがっている、という解釈にはうなづける。そして最近のオウム分裂を読み解くうえでも、このような見方は一定の有効性を持つであろう。

 関連リンク:「公的自閉の場」より上祐史浩にまつわる複雑さについて

ページ先頭へ





 アラン・ダンデス『鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ』
 (新井皓士訳、平凡社、1984/1988)

 ★★★★

 ヽ( ・∀・)ノ ウンコー!

 アメリカ民俗学会会長(当時)アラン・ダンデスの力作講演。いかにドイツ人は糞まみれ糞尿フォークロアを愛するか、いや大衆文化のみならずゲーテやモーツァルト、マルティン・ルターに及ぶ「高級文化」までどれほど糞尿譚、糞尿レトリックに満ち満ちているかを豊富な事例をもって証し、その原因を独自の清潔感にもとづく乳幼児教育に求める。
 赤子をさながらミイラのごとくぐるぐる巻きにする「巻ぐるみ育児法」、他国の平均よりずっと早い「トイレ訓練」。著者によれば、これらの仕打ちによってドイツ人の精神には糞尿に対する執着と嫌悪のアンビヴァレンスが植え付けられる。惹いてはその脅迫的な清潔感が、アウシュヴィッツに代表されるナチス・ドイツのユダヤ人殲滅に繋がってゆく。ダンデスが引用するところのリチャード・L・ルベンステイン『アウシュヴィッツ以後』によれば、ナチス自身アウシュヴィッツを「世界の肛門」として言及しているのだという(p.194)――このあたりになってくると、講演を聴いていたドイツ人学会員は相当に激昂したらしい。まあ無理からぬことだ。

 彼の論に対する主な批判は、「しかし国民性などというものは存在するや否や」というものであったり、「同じドイツでも例えばプロシア的性格とバイエルン的性格は大きく違うというのに、ドイツ人の国民性などと統一的に論ずることが出来るのか」というものである。
 これらについても著者は丁寧に反論を加えているが、そのあたりのことは各自で判断してもらうとして、それよりも私のような専門的ではない読者にとっては、じっさいにダンデスが次々と披露する個々の糞尿フォークロアのほうがよほど面白く、本書を読むことをして愉快な読書たらしめている眼目はむしとそちらのほうにあると信ずる次第である。
 いくつか例を挙げるなら、なぞなぞ「おたくにできて、私にできないことナーンダ?」(答えは「俺のケツを舐めること」)(p.72)だの、「糞スッキリ出たけん、アレ半分した位ええ気分じゃ」という南独のジョークに出てくる百姓の言いっぷり(p.81)、はたまたラブレーのサン・ヴィクトール図書館さながらの『胡散臭く、そして余りに人間的なるもの。ペッペッという一章の考察』、『臭いものには蓋、あるいは厠の世界に関するコロフィーノの愉快な卓上談義』などという実在する糞尿研究文献の羅列(p.116-)。

 ところで、ドイツの書籍業者のあいだでは、糞尿関係本のことを「カ・ピ・フ」というらしい。これはそれぞれカッケ(糞)、ピッセ(尿)、フルツ(尻)の頭文字を取った造語なのだそうだが、かかる用語をはじめて聞き及んだ私は、書籍業界の端に身を置く者として不勉強を恥じるべきなのだろうか。

 関連書: ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』(草思社)

ページ先頭へ





 エオン・エキス『強姦の形而上学』(竹内健訳、現代思潮社、1966/1977)
 ★★★

 強姦は正統な性行為である、いや強姦こそが正統な性行為なのである……と説く本書は確かにセンセーショナルである。だが、今日に生きる我々の刺激に対する感覚は徹底的に麻痺しているので、このような主題にすら、読書は次第に慣れてしまうであろう。そうして、慣れてしまえば緊張感の持続はひとえに著者の力量にかかってくるのだが、聊かこじつけめいた論理と、衒学としての効果は発揮しているものの主題にとってどうしても必要とは思えぬ諸々の引用によって、本書はいくぶん緊張感を欠いていると云わざるを得ない。
 かくして、著者の論理性はいまひとつだとしても、また敢えて粗雑な云い方をするなら「男の鬱憤晴らし」を目的として書かれ、読まれる類いの書という以上のものではないにしても、強姦を頂点に据えた場合に、我々が了解しているところ性関係のパースペクティヴはいかなる変容を蒙るのか、という思考実験にはそれなりの興味深い点もある。
 思うに、著者は大局的な議論よりも細かい部分で切れ味を発揮するタイプのようで、強姦こそが至上の性的関係だからといって男尊女卑を主張するのではなく、逆に男女はまったく平等であると主張してみせたり(p.35)、創世神話から強姦の正当性を説き起こしたりするくだり(p.125-)こそが真骨頂なのではあるまいか。
 立証し得ない、「言えてる感」で成り立っている本というのがこの世にはしばしばあるが(たとえば『話を聞けない男、地図が読めない女』などがそうだ)、本書はそういった類いの書物のなかでは最もエキセントリックなものの一つとして記憶に留められるべきだろう。

 追記:なお、本書の後半部分は拷問についての議論にそれなりの紙幅が割かれている。著者の基本的な主張が、ここでは拷問をモチーヴにして繰り返される。関心のある向きには一読をお薦めする。

ページ先頭へ





 ジョルジュ・バタイユ『眼球譚/マダム・エドワルダ』(生田耕作コレクション1、白水社、1988)より「眼球譚」
 或いは『パイディア八号・特集ジョルジュ・バタイユ』よりM・フーコー「侵犯行為への序言」(竹内書店、1970)

 ★★★★★

 すると突然、信じられないような出来事が起こった。奇妙な水の音につづいて一筋の細流が、ついで小川のような流れが家具の扉の下から現れた。哀れなマルセルはタンスのなかで自慰にふけりながら小便を漏らしてしまったのだ。
 (中略)
 ところが、間もなく、哀れなマルセルがただ独り次第に激しくすすり泣く声が聞こえた……いまや彼女にとって牢獄と化してしまった俄づくりの便所のなかで。
 (バタイユ『眼球譚』)


 『眼球譚』の前半部分において、シモーヌおよび「私」の執拗な侵犯行為の対象とされるのは、マルセルという「内気で、うぶで、信心深い」少女であった。侵犯者たち(シモーヌと「私」)の彼女にたいする執着は、彼女が生きていたときも、あまりにも早く世界を退いてしまったあとも、また凄絶な縊死体となって二人の前に差し出されたさいにも、決して弛むことがなかった。物語の後半部分は、喪われたマルセルをめぐるあてどのない彷徨である。首を絞められ殺害されたあの哀れな神父は、おそらくマルセルのぎこちない転身であろう。

 『眼球譚』が世に出たのは一九二八年。ニーチェの死からはや四半世紀が過ぎ、一次大戦の終戦からも十年の隔たりがある。侵犯者たちが《涜神》活動を繰り広げるにあたって、神がすでに存在しない、あるいは存在するにしてもほとんど死に態であることは承知の上であった。そもそも神は、彼が古代オリエント世界に一つの覇権を成し遂げたその時から、死に向かって――それは人間には計り知れないほどの緩やかさではあったが――着実に衰弱を始めたのだから。
 その意味において、「バタイユはキリスト教文化の影響力が衰えた今日においてはアクチュアリティを失っている」あるいは「元々キリスト教文化圏にない国にとって、バタイユの《侵犯行為》概念は無効である」とするのは誤りである。フーコーはこう述べている。

 たぶんこんなふうに言うことができよう。セクシュアリテは、もはや涜すべき物も人間も空間もない世界において、いまだ可能な唯一の分割を再建しているのである、と。なにもそれが、数千年を験した仕種の数々に新たな内容を与えるというのではなしに、それが対象なき涜聖行為(プロファナシオン)を許可するからなのだ、これは空虚な、かつ自己に回帰する涜聖行為であって、そのために用いられる諸手段はそれ自身以外の何ものにも向けられていないのである。ところで、聖なるもの(ル・サクレ)にもはや積極的な意味を認めていない世界における涜神行為――それこそは、およそのところ侵犯行為(トランスグレシオン)と呼び得るものではないだろうか? この侵犯行為なるものは、われわれの文化がわれわれの仕種や言語に賦与している空間内で、聖なるものをその直接的な内容において見出す唯一の仕方をではなしに、聖なるものをその空虚な形のうちに、不在であるということ自体によって微光を煌かせるものになっている不在のうちに、再構成する仕方を規定しているのである。
 (M・フーコー「侵犯行為への序言」)


 つまり、事は正反対に捉えられるべきなのだ。《侵犯行為》とは、神なき世のために準備された、逆説的な「神的なものの追求」であり、侵犯者たち(が介するバタイユ)は、神に対する叛逆のパフォーマンスを演じたのではなしに、神による生命の祝福を強引に人間の手に引き継ごうとしたのである。
 侵犯者たちは、マルセルがその信心深さによって、また彼女自身の清廉さにおいて、作品世界における唯一の神の代理であったからこそ、かくも彼女に執着したのである。それは叛逆というよりもむしろ愛であり、哀惜である。

 『眼球譚』にかぎらず、バタイユを読んでいるとこう思えてくる。われわれの内にあって神よりなお深いもの、それは性にまつわる罪悪感なのではないだろうか。それは神よりも旧く我々とともにあり、神の喪われたこの先においても、人間が生き永らえるかぎり、つねに傍らに寄り添っているだろう。
 『眼球譚』は、旧き神の死を受け、人間がもつ根源的な後ろめたさを拠り所にあらたな神を創出せんとする試みであった。シモーヌは畏れ知らずだったのではない。誰よりも切実に、畏れることを欲していたのだ。
 確かに《侵犯行為》は、バタイユが目論んでいたほどには我々を根底から脅かしはしなかった。あるいは我々が慣れてしまった、とも云えるかもしれない。我々はなんにでも慣れてしまう不幸な怪物なのだ。
 あるいはそれゆえにこそ、神の死後いまだに――我々の生命を祝福する何者をも我々は見出していない。そうであるかぎり、バタイユ思想は繰り返し繙かれ、問われ続けるであろう。

 M・フーコー「侵犯行為への序言」は、同著者による『外の思考』(エピステーメー叢書、豊崎光一訳、朝日出版社、1978)にも収録されています。

ページ先頭へ





 川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996)
 ★★★★

 著者も述べているとおり、戦時下ないしは戦前の「大東亜共栄圏」における民俗学を、柳田國男の発案した「大東亜民俗学」といったパースペクティヴ……はもとより、地域俯瞰的な観点から述べているものはこれまでにほとんどなく、つとめて本書は啓蒙的にならざるを得なかった。したがい、よく出来た入門書という態で収まっているのは、著者の意欲がそれを上回っていることが端々に窺われるだけに残念である。
 それでもなお本書は読み応えのある良書というに足るもので、とりわけ壇氏伝説をめぐる日朝の学者間での抗争(第一章)や、柳田國男が比較民俗学的な手法を自他ともに戒めるに至った過程の分析(第二章)などは、「なぜこれほど重要なことが義務教育には組み込まれていないのか?」と疑問を呈したくなるほどであった。
 書き下ろしである第三章以降は、前半に比べるとややモチベーションが下がるが、それでも柳田國男と実弟である松岡静雄とを比較した第四章などは含蓄に富んでいる。
 全体的にバランスの取れた、「よい仕事をしている」本だと云える。

ページ先頭へ





 谷崎潤一郎『お艶殺し』(中公文庫、大正四/1993)
 ★★★★

 惚れた女が他所の男に股を開くこと。これは男にとって絶対的な苦しみであって、どういうわけか女はその重さ深さを十分の一も理解できない。だがいっぽうで、男は身勝手にもその「他所の男」になりたがる。かくて世間では清次的・徳兵衛的男性、あるいはお艶的女性が今日も乳繰り合い唾交わすばかりで、新助的男(女)は夜な夜な苦しみ悶える破目に陥る。純愛路線はいつの時代も損ばかりしてきたのだ。
 それでも、谷崎の時代の感覚で云えば逸脱しているのはお艶や悪人たちのほうであり、それゆえに『お艶殺し』は「毒婦物」、いわば悲劇のエンターテイメントとして通じたのかも知れないが、今日の感覚でいえば逸脱しているのはむしろ新助のほうであって、全体が「純愛困った君」物として悲喜劇的に読めてしまう感じが空畏ろしい。
 一夫一妻制、近代家族というのがきわめて制度的なつくりものであることはさんざん暴露されてきたわけだが、だからといって今日のようなアンモラルな社会を目の当たりにすると、もしかしたら「一夫一妻、生涯伴侶、結婚するまで処女」のほうがよっぽどマシだったかも知れないと思えてくるではないか。人口減少や経済の停滞といった問題も、結婚しても「銃後」が不安だということと決して無関係ではないはずだ。それに完全にアンモラルな社会になってしまえば、もはや『お艶殺し』のような物語は生まれる余地もなくなってしまう。
 エロス? そりゃお艶ちゃんで軽くご飯三杯は……ってそういう話じゃないか。

 関連リンク:「公的自閉の場」よりつまるところ、人生は女なのか

ページ先頭へ