Out of this long political darkness
a brighter day will come.

 
30 Jul 2004.             29 Jul 2004.
Barack Obama バラク・オバマ
今年の上院議員選挙にイリノイ州から上院議員に立候補したバラク・オバマ。大統領選挙と同時進行で行われた上院議員選挙で民主党は惨敗。その中にあって、バラク・オバマは圧勝。見事に上院議員初当選を果たした。





今年、民主党はジョン・ケリーを候補に大統領選に臨んだが勝敗はご存知の通り。選挙が終了した今もって、投票に関する疑問の声をあげる人が後を断たないのが現状だが、これはゴアが辛酸を舐めた4年前となんら変わらないこと。あの国も4年経ってもこのままで良いと決断するのだから、例え他国民であってもまたかと、どっと疲れ果てそうになったものだ。さらに今回の大統領選挙と同時に上院議員選挙も行われ、ここでも民主党は惨敗を記した。そういった報道を目にしながらも、この時期、当方は萎えるどころか、大きな希望を見出すことができそうな人物を知ることで、未来への期待を新たに持ったものだった。

Barack Obama=バラク・オバマ。彼はアフリカ系アメリカ人の父と、カンサス州出身の白人の母の間に生まれたアメリカ人だ。幼い頃から常に人種についての様々な質問をされ続け、自らのアイデンティティに対する自問自答を重ねてきた。彼自身は白か黒か、というポジショニングの選択について「アフリカン・アメリカン」と答えている。アフリカ系アメリカ人の方にスタンスを置いて活動中だ。アメリカの最も端的な人種の中間に位置する彼自身はその問題について、こう答えている。

「アフリカン・アメリカン。この答え方は、自分が母の存在、母のバックグラウンドを否定しているという事ではないと常に感じてきた。しかし、“アフリカン・アメリカン”という言葉を少し深く考えてみれれば、アフリカとアメリカを合わせミックスした言葉だと思っている。さらに言えば、アフリカン・アメリカンは、アフリカ文化、アメリカ・インディアン(ネイティブアメリカン:原住民)文化、そしてヨーロッパ文化の混じり合った文化であるとも言えるわけだ。
もしも、仮に私が強盗で捕まって指名手配写真がTVに映ったら、どうだろう。“アイツは刑務所行きの黒人男だ”と思うだけだろう。その時に、私がアフリカン・アメリカンか、どうかなんて誰も気にもとめないだろう。悪い事が起こっている時に黒人であるなら、よい事が起こっている時にも同じく黒人であり、それを誇りに思うべきだと考えている。」

Barack Obama=バラク・オバマ。ケニアからの移民でアメリカに渡ってきた父を誇りに感じている。多民族国家の中にあって、2人種であることの意味を問いながら、彼は歩んできた。それは彼自身のサイトや著書、そして彼の足跡を振り返ることで見えてくる。

彼は、幼い頃から人種の同一性への孤独な航海を経験してきた。幼い頃、学校時代に体験し続けた緊張感は今も記憶されているのだろう。彼は10歳の頃に父親に会う。常に彼の中には父親の存在が強く深く、父親の生まれ育った国をも意識させることになったのだと推測する。彼のプロフィールを更に理解する為には、その著書を読まれることをお薦めする。仮に彼自身が私達の前でその過去を語る事があるとすれば、それは彼自身の最も暗い瞬間でさえも私達と共有し、その先に新たな希望を見出すために他ならないと思えるものだ。

彼は父親が他界した後に、自らの一方のルーツであるアフリカ、ケニアに向い、父親の家族の元を訪れた。その時、彼はケニアにおいて、およそ400の異なる種族を持った国家を発見する。彼の父親、そして祖父の墓の前に立ちながら彼は何を思ったか。私は彼の生い立ちを辿る旅の様子を紐解きながら、改めてアレックス・ヘイリーの「ルーツ」を思い返した。同時に「ルーツ」が映画化された際にレッタ・ムブールがアフリカの原語で歌った「オルーワ/昔々」という主題歌が蘇えり、このページをアップする間、それは離れることがなかった。

父親のルーツはケニアのルオ族へと遡り、彼は現地の人々の大きく厚い種族の存在を背中に感じながらアフリカの地を歩き、そしてアメリカに再び戻り、ハーバード・ロー・スクールに向かう。

彼は、自分の白い部分を述べることは皆無に近いようだ。しかし、彼は白い母親と祖父母によって、とても愛情を込めて育てられたと述べている。ホワイト・アメリカの中で育ちながらも、2人種というアイデンティティを確立させていくには、どれほどの葛藤があったのか。


   


だからこそ、彼が演説で語る率直な言葉の中に私達は人種を超えて共感を覚えるわけがあるのだ。
演説の内容も時に、早とちりなオーディエンスによりブーイングが起きたりするほどの率直さ。無論、すぐに後のスピーチの内容で、新たな納得と共感を呼ぶ事になり、会場は更なる拍手で沸く。これは今回の7月の基調演説の際にも見られた光景だ。
議論を交わす時は駆け引きなし。非常に正直な論法が彼の個性であり、持ち味のようだ。写真の中にはファースト・フードのカウンターに上がってスピーチしている姿もあるが、少数であっても大勢の前であっても、語るべき場所を見つけ、常に真剣に話始める人物、というバラク・オバマだという。

     

今回、アメリカの記事などを見て直訳すれば、ストレートに白社会、白い母親と黒い父親、白黒混血児、といった表現が目につく。
オバマは、今のポジションに立つより以前、10年程前に著書を出版しているが、その中で若い頃の薬物使用に関する経験を告白している。10代の頃、マリワナだけでなくコカインも試したという告白。彼は語る。「それは、世の中のすべてに反発していた10代の頃の事ですが、私はその時間をうまく通過することができました。私はアフリカ系アメリカ人であることが意味するオーバーな要素を自分の中に持っていると思います。しかし、当時、幸運にも私には導いてくれる素晴らしい教師やメンターがいたのです。それに私の中には母親への愛情がありました。そういったことが私自身を安定させていたのだと思います。この本に当時の私の生活を書いた理由のひとつには、若いアフリカ系アメリカ人には様々なタイプがいるということ。子供達が、中でも特にアフリカ系アメリカ人の若者が、どのように、何故自ら危険で自己破壊的な道に走るのか、という事をこの本の中では正直書いておきたかったのです。間違いに気づく者もいるし、間違うことなく才能のある若者もいるし、悩み混乱する若者もいる、そういうアフリカ系アメリカ人の若者の姿を自分の過去を通して明確にしたかったためです。」
同時に、貧困層やマイノリティー社会における人々が単純に社会が悪い、と批判するのは間違いだとも語っている。
「貧困層やマイノリティーのコミュニティー内における人々の生活向上、生き方の再生には、あくまでも個人の責任と、社会の責任、両方の要素がある」とNBCのインタビューで答えている。

 
 


彼の一家の生活は苦しいものであった、と振り返るバラク。しかし、彼はハワイ屈指の私立予備高校に入学し、後にはコロンビア大学とハーバード大学のロー・スクールに在籍。
ロー・スクールとは、法律の専門職養成に特化された大学院。 進学するには、在学中、例えばコロンビア大学からの推薦状があり、さらにエルサットLSAT(Law School Admission Test=法学大学院進学適正試験)を受験し、合格して修学できるシステム。彼はハーバードのロー・スクールで3年間学ぶ。ロー・スクールの法学専門職課程を終えると、J.D.(Juris Doctor=法学博士)の称号が与えられる。ハーバードのロー・スクールは、アメリカのみならず、数あるロー・スクールの中で最も歴史が古く、難易度が高いことでも有名だ。

Barack Obama=バラク・オバマは、ハーバード・ロー・スクール在籍中、既にニューヨークとシカゴにおける低所得者層の中に新たなサポートを行うコミュニティーを組織するプロジェクトを作る。ロー・スクールで弁護士資格を取得した後に、ロー・スクール・レヴューのアフリカ系アメリカ人としては初代の代表者も務めている。しかし、卒業と同時に、エリート弁護会社を蹴り、シカゴの貧困地域でコミュニティー・オーガナイザーとして働き始める。

     


バラク・オバマは、シカゴの都心部から隔絶されたような地域に出向き、数多くの複雑な問題に対処していたと、当時を知る人々は答えている。彼同様のカラードの人々が抱えている諸問題の中に活動場所を見出し、じっくりと取り組み、着実な行動を起していったようだ。貧困層の黒人が公共住宅に住む権利や、雇用がなくなり、生活できない状態に陥る事がないように指導し、策を見出し、そして子どもたちが正当な教育を得るためにと、市民弁護士としての働きも同様に行い、彼らを支援し、日々闘っていたという記述もある。

  更に、イリノイ州では法に携わりながら、死刑の見直しとレイシャル・プロファイル(Racial Profiling=人種による先入観に基づいた捜査・取り調べ)の廃止を主張。また、彼は全国児童のための健康保険の擁護者でもあり、1992年には、イリノイ州全体の投票人登記と共に、子供達の教育を一新させるキャンペーン、イリノイ・プロジェクトを選挙により定めるように起案し、実行に導いたという。

1996年、バラク・オバマは、第13のエリアを代表するイリノイ州の議会議員に選任。彼はそれまで、公衆衛生、福祉委員会両院協議会の共同議長を務め、さらに司法部と収入委員会の委員としても活動。中西部のあらゆるコミュニティーの開発事業へのアドバイスと指導、提案を行ない、市民の安全で平和な生活に関わる相当数の委員会に関わっていたようだ。




   

     

 

さて、当方は、こうした地道な地元における活動など、これまでネットに触れていながら全く知らないままで、なんとも不甲斐ないのだが、今回の大統領選挙のおかげで彼の演説を聞き、その存在を改めて知ることが出来たわけです。自国同様に大国アメリカの選挙結果のやりきれなさはつきまとうものの、こうした人物がそこに存在し、意思表示をする瞬間がある、という部分では、あの国の深さに脱帽、これは否めない事実。

こーいう人物、つまり、人々に何某かの希望をもたらすビジョンを提示し、それを伝えるべく分かりやすく分かち合える言葉を持ち、失望の中にも光明を見出せるような具体的な成果を背景に、そして疑惑などを感じさせない真摯な態度で自らの考えを訴える姿の人物にこそ、人々は今日から明日へ、幸福な未来に向うための挑戦を再度試みる事ができるのだと思う。

彼の詳細は、今後も刻々と更新されていくであろうBarack Obama=バラク・オバマの公式サイトで確認していただけるだろう。記念すべき2004年のバラク・オバマ。その姿を記憶するための第1歩として、このギャラリーをアップした。これはあくまで、稚拙な私的サイトであり、表記の間違いや理解度の未熟さ勘違いも多々あるかもしれない。さらに、私の焦点がずれることもあるかもしれないわけだが、今現在、彼がどのような方向を見定めているのか、その行方を確認するような気分で追うことは既に始まったわけだ。彼に光が当れば当るほど不安な要素も浮上していくのだと思う。そういった状況を誰よりも知っているのが今の彼だと私は思っている。次期大統領候補と声高に煽るのは簡単だが、彼の周囲を彼自身がどういった人物を配していくのか、手を繋いでいくのにも大きな期待を寄せている。ロバート・ケネディ・Jrはスポットライトから身を引いた場所で現在は主に環境問題に取り組んでいるようだ。パウエルはほぼ自由の身となった。党派を超えて、と説くバラク・オバマを生かすのはこれからのアメリカである。セール・アウトなどという声も反対者の中から聞えてくるというバラク・オバマ。彼の表情、足跡、そして次ページにリンクした演説、各種メディア向けの映像、声などをチェックしていただければ、当方はこれ以上多くを語る必要もないか、と思うのだが。バラク・オバマ、間違いのない人物であって欲しいと願いながら、そして何よりも彼の身の安全を祈りながら、です。どうぞ、よろしく。

    



 

Democratic candidate for U.S. Senate from Illinois Barack Obama speaks with reporters following a debate with Republican rival Alan Keyes October 21, 2004 in Chicago, Illinois. The debate is the second of three scheduled debates for the candidates before the November 2 election. (Photo by Scott Olson

  


Democratic candidate for U.S. Senate from Illinois Barack Obama (L) and his Republican rival Alan Keyes prepare to debate October 26, 2004 in Chicago, Illinois. The debate is the final of three scheduled debates for the candidates before Tuesday's election. (Photo by Scott

        

Senate Candidate Barack Obama gives a speech at a Democratic Senate fundraising concert featuring The Red Hot Chili Peppers on October 15, 2004 at Bergamot Station in Santa Monica, California. (Photo by Amanda Edwards)
There's not a black America and white America and Latino America and Asian America; there's the United States of America.



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