23年前にパリへ単身で渡り、一貫してフランス人社会の中で生き続けてきたマダム・イナバ。長年の実績をひき下げて今年3月のプレタポルテでは初日にショウを開催。独創的に満ち溢れた服のウラ側には大和撫子の努力の気概が見え隠れする。
          
E 無事、プレタのショーが終わりましたが。

S やっと終わったわ。スポンサーがいないから大変だったわ。今年は、去年初めてやったショーの時からのエコロジーというテーマで、麻やコットン、シルクなどの天然素材を使って、自然らしさ、自然のよさを生かすようにしてみたの。エコロジーには2つの意味があると思うのね。そうやって自然のよさを生かした服づくりと、もうひとつは毛皮なんかの場合は本物は使わずにイミテーションを使う。自然のものをできるだけ破壊しないように、というのもエコロジーの考え方でしょう。色づかいも、今年はエコロジーカラーっていうのかな、自然素材のものが多かったようよ。

E 反響の方は?.

S クレアチブだって言って下さるわ、みなさん。他にない楽しさがあるって。そう言ってもらえるのが一番嬉しい。私の服づくりのコンセプトに「いかにお金をかけずに他の人とは違ったものができるか」っていうのがあるのね。公園を散歩している時に見つけたマ目玉の木の葉や木の幹の皮とか、松ぼっくりとかね。あるいはノミの市で見つけた安くてかわいらしいような小物を使ってアクセサリーを作ってみたり。今してるアクセサリーもゴムを使ったもので、ホント安くてきちゃうの。これをしてシャンゼリゼのアクセサリーショップに入ると、お店の人にジーッと見られちゃったりして、コピーされるんじゃないかと心配だわ。だいたいパリの人はいかにお金をかけずに自分に似合ったファッションを楽しむかっていう考え方をしているでしょう。そのへんが日本人と違いますよね、よく言われるんです。

『日本の人ってどんな生活をしているんですか?」「アルマーニとかシャネルとかばかり着ているけど、そんなにお金を持っているの?.」ってね。
ヴィトンのバックなんかにしてもそうでしょう。他人が持っているから自分も持つっていう発想。私は性格があまのじゃくだからも他人が持ってないものをやってみたいって考えてしまいます。

E そのあたりがパリヘ来た理由?・

S う−ん、私がパリへ来た頃は、今とは時代が全く違いましたからね。ドレメを卒業してもなかなか女性の就職口はなくて、私も自動車の女性セールスなんかも経験しているんですよ。日本で最初のセールスレディだった。それから新宿にある洋装店でオーダー服の仕事をしばらくやっていました。自分でデザインして裁断して1日に10着くらいのペースで仮縫いして。それはもう夜も渡る時間がないくらいでしたよ。自宅にアトリエを持っていたから、毎晩家に帰ってから朝まで。お正月の三ヶ日を休んで伊豆へ旅行しただけであとは休みなし。でもなかなか給料を上げてもらえなくてね。そんな時友だちから一緒にパリへ行こうって誘われて、それで一緒に来ちゃったんです。1967年のことだったわ。最初に働いたのはルイ・フェローというデザイナーのところ。フランス語もしゃべれないから一生けんめい仕事ばかりしていたせいかチーフのプルミエールマンという人に認められて、彼にいろいろと教えてもらったんです。東京にいた頃オーダーの仕事をあれだけやっていたから、仕事には自信があったわ。

E ゴルチエのところへ移ったのは?

S 1982年のこと。新聞広告で募集しているのを見て、履歴書持って行ったんです。あんまりコネみたいなの好きじゃないから。何人も来てたけど認めてもらえました。それから6年間、ゴルチエの持つエスプリやアバンギャルドさみたいなのは、私が一番吸収したと思います。60〜70年代のクラシックさをいかに新しく近代化するかという感覚は、さすがゴルチエですよ。

E ゴルチエの右腕だったと聞いてますが。

S あの人はアイデアはスゴイけど技術がない人として有名なんですよ。だから彼のアイデアを絵にして、デザインして、裁断して。とにかく服のでき上がる程のすべてを、チーフモデリストとして私がやっていたんです。サンローランやケンゾー、ヨージ・ヤマモトといった人たちは自分でほとんどできるんですが、アイデアだけで技術のない人が多いんですね。でも、最近のモード界を見ていると、やはり本当の服づくりのできる人が求められているようです。

E 独創的なアイデアはどのへんから?.

S 育った家庭環境や父親の考え方のせいな昔から私はあまのじゃくなんです。小さい頃から自分でワンピースをつくって学校へ着て行ったり、重ね着をしたりしてました。兄弟みんな作ることが好きで兄は家具なんか作らせたらプロみたいでしたよ。私も才能があるとは思わないけど、努力することだけですね、自慢できるのは・ゴルチエ時代も6年間休んだことはなかったし、ここへ来てからも休んでないですよ。身体が丈夫なのには自信があります。毎週日曜日の午前中にサンクルーノ公園に仲間が集まってジョギングや体操をするのが、一番の楽しみです。最近は忙しくて2週間くらいさぼってますけど・そんな時にアイデアが浮かんだりするんですよ。

E 90年代のモードは?

S 5年くらい前ですかね、身体に巻きつけたりしてちょっと乱れていた時代がありましたよね。今からは、もっと基本的なというか本当の服に戻っていくんじゃないかと思いますよ。そういう意味でも、自分でしっかりした服のできるデザイナーが求められているんです。だから、オートクチュールは本当に素晴らしいですよね。

E パリには当分いらっしゃる。

S デザインを続けていくんであれば、東京はダメだと思うわ。どこへ行っても大企業の影響があるみたいで、私なんかどうにかなってしまいそう。その点・ハリだと、誰にも何にも言われないから、私の好きなようにできるからいいの。

E 東京への逆輸出は?・

S 今年中には日本の方にもご紹介できるようになると思います。


COVER SESSION「MY DYNAMISM」
SUMMER/1990 Vol1

■ COVER SESSION「MY DYNAMISM」 SUMMER/1990 Vol1
稲葉 重子 イナバ・シゲコ
ファッションデザイナー

●shigekoの絵画
1935年2月4日、福岡県久留米市生まれ
杉野ドレスメーカー女学院デザインアート科卒業。1967年にパリへ渡り、ルイフェローのアトリエに勤めながらパリオートクチュール学院を卒業。1982年から6年間、JPゴルチェのチーフモデリストとして活躍。


COVER SESSION「MY DYNAMISM」
SUMMER/1990 Vol1

インタビュー:櫛山 論
文:宮本 洋子
写真:若杉 憲司


●Jean Paul Gaultier 英・仏語

稲葉實のホームページ

ジャン ポール・ゴルチエ
1952年4月24日、フランス・パリに生まれる。若い頃からデザイナーを目指し、多くのデザイナーに自分のスケッチを送りつづけ、1970年18歳の時に、ピエール・カルダンに採用される。1年間、アシスタントとして勤めたあと、ジャン・パトゥなどを経て、フリーに。1976年、初めてアクセサリーコレクションを発表するとともに、ジャン ポール・ゴルティエの名でコレクションを発表。1977年には、ジャンポール・ゴルチエ設立。1978年、樫山フランスと提携して、本格的な活動を開始。1981年、オンワード樫山とライセンス契約を結ぶ。1984年より、ミラノ・パリ・日本・香港にオンリーショップをオープンし、メンズラインスタート。1987年には、オスカー・ドゥ・ラ・モード受賞。1988年「Junior Gaultier」スタート。1992年「Gaultier Jeans」、1993年には香水、1997年にはオートクチュールを開始。2003年より浴衣およびリョーカから水着も発売。

アバンギャルドとクラシズムが融合したスタイルで、パリコレクションにおいて多くのジャーナリズムの人気を集める。

映画の衣装も数多く手がけ。89年「コックと泥棒、その妻と愛人」、94年「キカ」、94年「ロストチルドレン」、97年「フィフス・エレメント」の衣装を担当。とくにSFが舞台となっている「フィフス・エレメント」の未来衣装は鮮烈なイメージを残した。さらに90年のマドンナ、ワールドツアーの衣装も担当した。

現在のブランド展開は「ジュニア・ゴルチエ」、「ゴルチエ・ジーンズ」、「ジャンポール・ゴルチエ パルファム」、「JPG」、「ジャンポール・ゴルチエ・クラシック」。

オートクチュールも開始し、プレスの評価も高く、パリで最も期待されているデザイナーです。