医療消費者ネットワーク MECON

メコンの眼とは?−医療を消費者の視点で見直す

 メコンとは、医療消費者(medical consumer)の簡略化した呼称。メコンの眼とは、医療消費者意識を生かして、医療サービスの良し悪しを見極めたり、薬・検査・手術などの要不要を考えたり、「自分・家族にとって最善の医療とは何か」を判断したりする医療消費者の眼のこと。
 この眼を使うと、患者の視点では見えない、いろいろな問題が見えてきます。いい医療に出合うため、日本の医療の質向上を促すため、私たち一人ひとりが身につけたい視点です。

1.医療には明と暗がある

 医療は国民の命と健康を守る大切な分野です。ある日突然思わぬ病気になっても、患者本位のいい医療に出合えば、医療の恩恵を受ける人々はたくさんいるでしょう。どういう病気であれ、全治したり症状が改善すれば、患者・家族は医療のありがたみを切実に感じます。むずかしい病気であれば、それもひとしおでしょう。一生つき合う病気でも、納得安心のある医療に守られれば心強く、信頼の念も自然に湧くに違いありません。

 誰もがこのように患者満足度の高い医療と出合えればいいのですが、医療機関の質や経営方針もさまざま、医療者の腕や人間性もさまざま、いつでもどこでも、患者本位の、水準に叶った医療に出合えるとは限りません。当然ながら、医療界全体の両極には、いい医療わるい医療も混在していて、どちらに当たるかで運・不運が大きく分かれることがあります。

 医学・医療技術のすばらしい進歩はよく報道されますが、日常医療の実態については、ごく一部の医療事故や感染症などを除いて、伝えられることはありません。しかし、私たちは20年近くの本会の市民活動を通して、全国から寄せられた多くの深刻な苦情、各地の会員の切実な医療体験、あるいは医師の率直なお話といった多角的な情報を得て、「わが国の日常医療は思ったよりずっと貧しい」という現実を知りました。いい医療に出合ってすみやかに病気を克服できる人々がいる一方、実は、思いもよらずひどい医療に遭遇し、医療の怖さを身にしみて感じる人も少なくないのです。

 たとえば、検診で必要のない脳血管造影検査を勧められて命を落としたり、盲腸や骨折のちょっとした手術で命を奪われたら、どうでしょうか?しかも、遺族が必死に知ろうとしても死の真相が闇に葬られてしまうとしたら、どうでしょうか?平和な時代にあって、これは誰にとっても最もショックな人生体験になるでしょう。
 死亡事故の真相解明や問題解決は死者を弔い、遺族が生きる力を取り戻すために欠かせませんが、医療現場では国民の命はこのように易々と闇に葬られてしまうことが多いのです。裁判においても真相は歪められる傾向が顕著です。新しい調査制度ができても、医療界のあり方が変わらない限り、裁判と同様のことが起るに違いありません。これでは、死にゆく人も無念でしょうし、遺された人もこの無念を放置したままでは、前向きに生きることはできません。

 たとえば、治療中に神経を傷つけられ、下半身不随になったり、一生痛みやしびれと闘うようなことになったら、どうでしょうか?しかも、医師から事故の詳しい説明がないばかりか、親身に再治療してもらえなかったら、どうでしょうか?多種多様な傷害事故の被害者はこのように一様に、二重の不幸に襲われがちです。もちろん、誠実に対応する医師や病院がないわけではありません。被害者感情は混乱していて対応しにくいかもしれませんが、被害者がまずもって願うのは、癒しのプロである医師に、詳しい説明・再治療を誠実に行ない、かばい合うことなく、被害者の心身の苦痛の緩和に取り組んでほしいということです。

 全貌を知る公的なデータはありませんが、こうした死亡事故や軽重さまざまな傷害事故は、全国の病医院で、相当数起きていると推定されます。医師自身やその家族が被害者になるケースも表面化しており、医師一族とてもはや例外ではありません。したがって、誰もが突然、医療被害者になるかもしれません。
 医療現場に潜む危険は、医療事故だけに限りません。後の「5.医療の実態を知る」に示唆されているように、過剰な医療、未熟な医療、ずさんな医療などに遭って、つらく理不尽な体験をする人々も絶えません。
 こうした危険は、経営(儲け)主義、医療の高度化・複雑化、医師教育の不徹底、医療の質の総合的な管理システムの不在などにより、増しています。

 加えてここ数年は、医師の偏在、医療の地域格差などの問題が表面化しています。地方では特に、医療供給体制が崩れて、医療の基盤ががたがたと揺らいでいます。そんな中、医療行政がうまく機能せず、医療現場の混乱や医療者の過重労働などがしきりに報じられています。あれほどマスコミを賑わした患者本位の医療改革はどうなったのでしょうか。また、医療事故が社会問題化した後に国は次々と安全対策を取りましたが、それらの実効性は乏しく、効果のほどは見えません。医療事故被害者の救済策の創設は相変わらず置き去りにされています。医療の今後に国民の不安は増すばかりです。

 このような医療事情で、いい医療に出合う近道は簡単には見つかりません。こういう状況でどうしたらいいのか、私たちは本会の市民活動を通して考え続けています。
 最も基本的に大事なことはおそらく、国民の多くが日頃から医療の実態に関心をもって医療消費者(メコン)の眼を育み、自分の医療の質や安全性にもっともっと敏感になることではないかと考えています。

 メコンの眼とは具体的にどういうものなのでしょうか?次に、国際的に認められている消費者の5つの責任のうちの最初の3つをもとに考えてみたいと思います。
 医療消費者意識を高めてメコンの眼を育むには、医療の実態を知ることが欠かせません。そこで、最終的には、本会の市民活動から明らかになった医療現場に潜む問題点を検討してみたいと思います。

2.批判的な意識をもつ責任

 何か買い物をするとき、私たちは通常、質の良し悪し安全性について考えをめぐらします。日本人は、食の質や安全性にはかなり敏感になり、その意識が買い物に反映されるようになりました。また、たとえば車の購入に際しても、命に直結するため品質や安全性を考えない人はいないでしょう。ただし、家の購入では、消費者の眼が行き届かないのか、欠陥住宅がときに問題になります。

 このように、通常の買い物では、一般市民の多くが批判的な意識をもって、品質や安全をできるだけチェックしようとします(消費者の5つの責任の1)。実は、消費者のこの厳しい眼が、結果的に、各業界の品質の管理や向上に大きく貢献しています。このような消費者の確かな眼は質の向上になくてはならない存在なのです。

 他方、医療においてはどうでしょうか?私たちは医療の質安全性に敏感でしょうか?わが国では、国民は、他の消費行動と同様に、医療機関を受診すれば医療費(健康保険料や自己負担分)を支払いますが、医療の実態を知ろうとしたり、医療の質を見極めるのに必要な批判的な意識(消費者意識の根っこ)をもち合わせているでしょうか?
 医療も消費社会の経営原理で動いていて、思わぬ危険が潜んでいるため、自分や家族を守って安寧な日常生活を保持したいと思えば、この意識は患者・患者予備軍に欠かせない自覚ともいうべきものです。これまでにひどい医療体験をした人は批判的な意識をもつ必要性を一番強く感じているはずです。

 批判的な意識といっても、特別なものではありません。対立的にものを考えることでもありません。あら探しをすることでもありません。食料品を買うときと同じく、自分・家族を守るために、健全な市民感覚で医療をチェックしようとする生活の知恵のようなものです。素人である一般市民が社会常識や倫理の範囲内で、自分・家族の受ける医療について感じること・良し悪し・要不要などを考えたり、いい医療を求めて必要な判断を自らに促したりする意識です。

 近年は、セカンドオピニオンの考え方も浸透して、重大な病気が見つかった場合には、複数の医師の意見を聞くなどして、堅実ないい判断を下す人々も増えています。批判的な意識を内にもっていて、わが身を守ることに聡いのでしょう。また、本会のような市民グループや患者会には、批判的な意識をもち合わせている人が多いかもしれません。経験的に危機意識をもって、市民向けの公開講座や医療本に積極的に接したり、市民同士で意見交換・情報交換したりして、医療消費者意識を高める機会をもっているからです。

 一般的に言って、医療に関しては、批判的な意識をもつことは容易ではありません。今はちょっとしたことでも漫然と病院へ行く人が多いと言われていて、実際におまかせタイプの依存的な患者が圧倒的に多いとしたら、そういう意識は総じて低く、まだあまり浸透していないのかもしれません。

 では、患者の多くが批判的な意識をもたず、おまかせ医療に依存していたら、どうなるのでしょうか?患者=医療消費者の厳しい眼が注がれなければ、医療機関は儲け主義に走ったり自らの都合を最優先させるようになり、患者の立場に立って質の良い医療を提供しようと努める必要性も感じないでしょう。多くの犠牲者を出している医療事故などや院内感染の対策も徹底しないでしょう。

 現にそういう状況ではないでしょうか。結局、困った状況に追いこまれるのは患者のほうなのです。もちろん、患者本位のいい医療を提供しようと自ら努める病院はありますし、個人的に懸命に研鑽や努力を重ねる医師はたくさんいるはずですが、誰しもそういう病院・医師と出合うのは容易ではありません。

 安全で良質な医療を期待するなら、私たち一人ひとりが市民感覚で医療の良し悪しを見極めて、いい医療を選ぼうとする意識、自分の受ける医療内容やその要不要を考えようとする意識、医療被害を防ごうとする意識、そうした批判的な意識をもつことが何より必要です。

3.参加して行動する責任

 1990年代は、医療不信が国民の間にじわじわと浸透し、国民の医療満足度が極めて低いと言われる時代でした。医療の高度化・複雑化に伴い、医療事故や過酷ながん治療などでつらい目(医療体験)に遭う人々が増えたのでしょう。そのためか、国民の医療への関心が驚くほど高まり、マスコミもこぞって医療問題を取り上げ、あまたの患者・家族がより良い医療を探し求めて右往左往しました。

 そんな中、自ら熱心に病院選びをする人、危険な手術を前に医師探しに奔走する人、納得するまで複数の医師の意見を聞き回る人、治療の過程でしっかり説明を求め質問を心がける人、カルテをもらって一生の病気とうまくつき合おうとする人、医師の腕をすばやく見極めて身を守るのに聡い人、等々がいました。自分の医療に参加して行動する患者たちです(消費者の5つの責任の2)。慎重な試行錯誤を厭わぬ彼らの行動力には、本当に驚かされました。学ぶことも多々ありました。
 いい医療を探すことは実際には容易ではありません。結果でしか判断できない場合もあります。そこで、彼らは自立した患者として、まずはできることから始めて、いい医療わるい医療を見極めていこうとしたのでしょう。彼らは医療の実態を感知する批判的な意識をもっていたからこそ、納得の医療を受けるために、医療に積極的に参加して行動を工夫できたのだと考えられます。

 他方、1990年代には、医療への関心が高まった割には、おまかせ姿勢の患者が目立ちました。現代人は何かと忙しく、体調が崩れると自分では何も考えないまま、医療機関に飛び込む人が多くなりました。また、巷では、「いい病院を教えて」とか「いい医者を紹介して」といった人頼みの声が飛び交っただけでなく、驚くことに、たいした説明も受けず、病名もきちんと把握しないまま、手術を受けてしまう人さえいました。
 この問題は今も続いていて、がん等の重大な病気でも、案外あいまいな理解で、医師に言われるまま治療を受けてしまう人々が大勢います。
 誰でも病気になれば気弱になりますし、安心して受診できる病院はなかなか見つからず焦りもします。それに、もし受診した医療機関が患者本位でなければ、湧き上がる疑問や不安は抑えておまかせするのが得策と思って、不安も口に出さず、聞きたいことも聞かないまま、ひたすら耐える人=患者(patient)になってしまうのでしょう。その気持ちはわからないではありません。

 しかし、患者が万事おまかせ姿勢で、症状を的確に伝えられず、医師の説明不足にも疑問をもたず、自分の病気や治療法をしっかり理解しようとせず、言葉もほとんど発しない存在になれば、医師は患者を人として尊重することを忘れ、物品のように自分に都合のいい治療のベルトコンベアーに乗せてしまうかもしれません。こうした患者が多ければ多いほど、医療現場の志気も上がらず、医師は患者とのコミュニケーションを省いて、人間軽視に向かいかねません。
 このように、おまかせ姿勢は総じて患者のためになるものではありません。もちろん、結果がよければいいという人もいるかもしれません。しかし、結果が思わしくなければ、万事まかせていたはずの患者が突然、「こんなはずではなかった」と、止めどもなく怒ったり後悔したりします。しかも、もし深刻な問題が起きれば、万事あいまいな理解では問題を解明することさえできません。

 病気も自分の長い人生の一部です。参加して行動するとは、万事おまかせして頼りきるのではなく、病気を自分でも治そうと思うくらい、自分の病気と医療に緊張感をもって積極的にかかわっていく前向きの姿勢のことです。(ただし、急性疾患や重篤な場合は、無理かもしれません。)
 つまり、どういう病気でも、重篤でなければ、自分の病気のことをあれこれ自分の頭で考えられる状態にしていきます。まずは、何事もあいまいにせず、自分で病名や症状、治療方法、治療の経過や結果などをきちんと把握するよう努めます。そのため、自ずと説明をしっかり求めると同時に、わからないことは質問したり自分で調べたりするようになります。

 こうして、医師の言葉を大事に受け止め、かつ自分の言葉を大事に発信することが、参加して行動する患者=医療消費者の出発点となります。そうして初めて、病気や治療方針の理解が深まり、問題が生ずれば医師と話し合い、病気とのつき合い方も徐々にわかってきます。しかも、不安が消え、だらだらと受診して次々と病気を増やしてしまうような事態を防ぎ、自らの受診行動を見直すようになるでしょう。とりわけ長くつき合う病気の場合、患者の参加して行動する姿勢は、人生を左右するくらい重要になることがあるかもしれません。

4.社会へ配慮する責任

 あるイギリス人医師が「患者は、自分の病気については自分が専門家だと自覚してほしい」と語ったそうです。確かに、病気の苦痛と四六時中つき合うのは患者自身ですし、医師の説明をもとに色々な情報を集めて自分の病気を総合的に考える立場にあるのも患者自身です。自分の医療に参加して行動するようになれば、次第に「自分の病気については自分が一番よく知っている」という自覚を持てるようになるということでしょう。
 おまかせ姿勢とは真反対ですが、メコンの眼をもつ患者ならば、この医師のアドバイスに共感できるでしょう。患者が自分の心身の治療や管理に無関心・無責任にならず、このように主体性・自立性を取り戻せば、医療の質や安全性に常時目を注いで市民感覚でチェックすることにもなり、社会へ配慮することになります(消費者の5つの責任の3)。

 医師にすべてを預けて患者は自分では考えないおまかせ医療は日本に多いと言われますが、これは患者のためにならないだけでなく、社会への配慮を著しく欠いています。
 もし国民の大半が医療の質や安全性に無関心で、しかも自分の病気や医療にも真剣に向き合わなければ、医療現場は医療の質や安全性を改善しようという気にならないでしょう。このように思考停止状態の患者が多ければ多いほど、医療に対する自然のチェック機能がうまく作動せず、医療そのものが健全に機能しません。したがって、医療事故は起きやすく、過剰な医療・未熟な医療・ずさんな医療もなくならないでしょう。

 このように、日常医療の質向上には、医療の利用者である患者側の意識向上も必須条件です。「わが国の日常医療の貧しさは、患者の意識(の低さ)の反映でもある」と、患者の立場にも理解のある医師が指摘するのを聞いたことがあります。もっともな見解です。医療の質向上を実現するためには、医療側にその責務があるのはもちろんのこと、患者側にも果たすべき役割(医療消費者の責任)があるということです。

 また、不幸にして医療事故に遭う場合があります。今や泣き寝入りする被害者ばかりではなく、医療機関に詳しい説明を求めたり具体的な要望を提示したりして、真相解明問題解決の行動をとる傾向が全国にかなり広がっています。被害者が泣き寝入りばかりしていたら、同様の事故がくり返し起きて、同じく辛い目に遭う人が絶えません。医療事故の解決をはかろうとする人が多ければ多いほど、医療事故に歯止めをかけ、医療事故の減少や防止に役立つはずです。こうした被害者の行動は、自分のためであると同時に、ほかの人々のためにもなり、社会へ配慮する責任を果たす有意義な行動なのです。

5.医療の実態を知る

 メコンの眼を生かして医療をうまく活用するには、常日頃から医療の実態を知っておく必要があります。病気になると普段の冷静さを失いがちですし、まして突然思わぬ問題が生ずると適切に対処できないからです。

 国民にとって怖いのは、すでに触れた医療事故だけではありません。医療現場にはほかにも危険がいっぱい。ここでは、誰でも出くわしやすい次のような医療の負の諸側面を考えてみます。

① 投薬・検査・手術等において、過剰医療の危険が身近にいっぱいあること
② 医師によって診断や治療法がしばしば違うなど、未熟な医療の危険があること
③ 医療行為が原因で、持病が悪化したり新たな病気が発症してしまうこと(医原病
④ MRSA等院内感染が頻発・常態化していて、重篤な人・高齢者ほど危険なこと
医療事故に遭うと、解決の制度・法律もなく、被害者は社会的に放置されること

①過剰医療の危険

 過剰医療がまかり通っているのは、経営中心主義の病院でしょうか。過剰医療は投薬に限らず、検査・手術などでも起こり得ます。受診してすぐにこういう病院の体質に気づき、「あそこには夫や子どもは一人では行かせられない」と言う人がいます。また、受診後に徐々に疑問に思い始め、「おかしい」とわかると、大憤激する人もいます。いずれにせよ、問題が起きる前に早めに気づくことが大切です。(なお、日本全国に増えた歯科医を受診する際にもおまかせ姿勢は要注意です。歯科医の提案を何でも受け入れてしまうと、過剰医療に気づくのが遅れるためか、深刻な被害が多発しています。再治療が困難で、一生障害を抱えてしまいかねません。)

 一方、乱診乱療ほどでなくても、入院してみると、たとえば、レントゲン検査などが多すぎると思うような立派な大病院もあります。患者を利用してこまめに収入増をねらっているのでしょうか。大病院ゆえのいい面があるとしても、多くの患者は検査を断れないまま、信頼感が薄れていくのを感じるでしょう。

 また、医師個人の思惑が独走することも。たとえば、外科医が必要性の疑わしい手術を誘導・実施することがあります。被害者の話から、手術数の競い合い病院経営のためなどが疑われます。信じがたいことですが、多くの外科医のなかにはそういう人もいて、誰しもそういう外科医にぶつかる危険があるということです。被害を防止するには、事前に患者が充分な説明を求め、納得できるかどうかをしっかり判断する習慣をもつことです。

 医師の指示は守るのが原則です。しかし、一部で不要な投薬・検査・手術が行なわれて、死亡事故が起きているのも事実ですし、多くの苦情を分析すると、そういう場合にいろいろな事故が起きやすいように見えます。過剰かどうかの判断は難しいですが、過剰と思われる医療と出くわした場合は特に、おまかせ姿勢を返上し、「自分にとって要るもの・要らないもの」、「自分にとって何が最善か」をしっかり考え判断することが大切です。

 ただし、患者側に問題がある場合もあります。薬や検査、ときには手術さえも安易に頼み込むような場合があって、医師がそれに応じてしまうと、過剰医療に拍車がかかります。過剰医療に歯止めをかけるには、医師と患者側の双方の良識が問われているといっていいでしょう。
 国民が医療の是非、不要な医療を見極める眼をもっと育てて、過剰医療・いい加減な医療が無くなるくらいのパワーにしていきたいものです。軽重さまざまな医療被害を防ぐために。

②未熟な医療の危険

 どういう医療技術であれ、未熟であれば、患者に危害を与える危険性が常にあります。未熟な医療のわかりやすい実例は手術の失敗でしょうか。手術ミスは死亡事故や傷害事故に直結しています。死者は口無しですが、傷害事故の被害者が苦痛や不自由を必死に訴える声は聞く者の心に響いて消えません。その他、たとえば、特定の放射線照射を高額な治療費を払って受けても、がんがすぐに再発転移してしまうような場合もあります。医師の専門的判断や放射線技師の技術力が未熟なのでしょう。また、注射ひとつでも技術が未熟なら、神経を傷つけられ、痛みやしびれに悩まされる場合があります。

 診断力が未熟な場合はどうでしょうか。なかなか治らない、どうも様子がおかしいなどの理由で転医してみると、別の病気だった、手遅れだった、という苦情がよくあります。誤診により誤った治療が延々と行なわれたり、病気が見落とされて必要な治療が遅れたりして、患者が振り回されてしまいます。
 こうした未熟な診断にぶつかる危険性は誰にもあります。がんなどの重大な病気の診たて違いや見落としに限らず、たとえば、盲腸でさえ、正しい診断が下るのに何年もかかった例があります。複数の医師が種々雑多な診断を下して治療しても、腹痛はくり返し起きたわけです。また、ちょっとした怪我や骨折でも、通院先を変えて救われる人がいる一方、同じ所に通院し続けて手遅れとなり障害が残ってしまう人がいます。

医師間の診断の食い違いは案外よくあることです。症例が少なかったり難しい病気であればなおさらです。的確な診断があって初めて適切な治療に至るわけですから、どう考えてもおかしいと思ったときには、複数の医師の診断を求めて比較考察するなど、患者・家族は機転を利かせて判断・行動する必要があります。

 なお、診断の食い違いは、未熟さとは無関係に、専門家の見解の相違で生ずる場合もあります。医療技術は常に発展途上(不完全)であるため、こういうことが起こります。
 ちなみに、患者が戸惑う最たるものはがんに関すること。たとえば、病理医の間で見解が「がん」と「がんではない」に分かれる場合、あるいは、外科医の判断が「すぐに手術」、内科医の判断が「様子をみましょう(経過観察)」と分かれる場合などがあります。
 こういう場合どうするかは患者の選択次第です。慌てずに1,2週間は考え惑って、がんの有無、手術の要不要などを冷静に判断すればいいのですが、人間は弱いもので、一度がんと言われると、がんのことが頭を離れなくなり、がんではない可能性や経過観察の意味をしっかり考えることなく、藁をもつかむ気持ちで手術を受け入れてしまう傾向があります。後で外科医の誘導だったとわかるような場合、患者はとめどもなく後悔や憤りに襲われます。こうした人々の経験から、治療を受け入れる前に、あいまいな理解に留めず、慎重に理解し判断することの大切さを痛感します。

 なお、治療法が医師によって違うこともあります。未熟さが絡む場合もあるでしょうが、医師が自分の得意な(やり慣れている)治療法をとるような場合もあります。通常、インフォームド・コンセントでは、複数の治療法がある場合、あるいは標準治療がある場合には、その説明をするはずですが、それを省いて強行するのでしょう。結果が思わしくなく、そのことを患者が知って、トラブルになることがあります。

 充分に納得のうえ治療を受ける習慣を身につけることが重要なのは、こうした医療から身を守るためでもあります。まずは担当医に説明を詳しく求め、ときには臨機応変に別の医師からセカンドオピニオンを得て、両者を比較検討し、自分の病気、治療内容や方法などをしっかり把握して、「自分(家族)にとって何が最善か」などを考える習慣をつけておきたいものです。後悔しない医療を受けるため、思わぬ医療被害を防ぐために。

③医原病の危険

 医原病は、投薬、検査、X線、麻酔、手術などの通常の医療行為のほか、医療ミス、過剰医療、未熟な医療などが原因となって起きる疾病です。
 医原病はとても厄介です。元気な人も、一病息災だった人も、もちろん患者も、医療行為を受けたがために、新たな障害や病気をもらってしまうことがあります。医原病に突然襲われると、想定外の長患いや治癒不可能な病気との闘いなどを余儀なくされることがあります。もちろん命の危機が迫ったり、死に至ることもあります。

 たとえば、医薬品の場合、種々の薬害は多くの被害者を出し、何度も社会問題になりました。新たな病気や深刻な病態、時には突然の死をもたらす副作用もしばしば問題になります。また、薬はちょっとした不適切な投与でも、病状が増悪することがあります。たとえば酸素療法でさえ、濃度を間違えれば症状は改善するどころか増悪することがあります。しかも増悪した病状は元には戻らないので、患者・家族は無念の思いを強くします。
 手術時の止血・輸血、あるいは注射器の使い回しによって肝炎感染者がたくさん出て社会問題になっていますが、このように思わぬ病気をもらうこともあります。
 どういう医原病も、医師にとっては仕方ないで済まされることでも、患者にとっては大きな打撃となります。

 医原病とは、病気の治療をめざしながら新たな障害や病気を発症させてしまう、医療に内在する矛盾です。医療技術は、ほかの科学技術と同様に常に発展途上で「中途半端な技術」であり、このように患者を害することもあるわけです。医学の発達に伴って医原病は増えるばかりでしょう。患者も医原病の知識をもつ必要がありそうです。もし医原病を起こさないか最小限に抑える医療技術の開発が可能であれば、それを願うばかりです。

④院内感染の危険

 院内感染も医原病ですが、さらに厄介です。入院患者を不意に襲う手ごわい難敵で、免疫力の低い患者は防ぎようがありません。重篤な患者、高齢者が犠牲になりやすいでしょう。
 2010年9月、首都圏の大学病院などで新型の多剤耐性菌アシネトバクターの院内感染が次々と明らかになり、死者の数もかなりに上っています。11月に、東北でインフルエンザに集団感染した患者8人が死亡、東京の大学病院で多剤耐性緑膿菌に院内感染した患者5人が死亡と続き、12月には、神奈川でVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)の院内感染で3人死亡、などと報じられています。

 以前は、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)の院内感染による死亡者が各地で出て、しばしばニュースになりました。そのすさまじい死亡例が本会へ何例も寄せられています(本会発行の『平成の医療常識』参照)。死者は高齢者とは限りません。ただし、その後医療現場で、MRSAで死ぬ人を減らす努力が重ねられたためでしょうか、死者数の多い集団発生を伝える報道はなくなりました。

 しかし、MRSAは今や、どこの病院にも住み着いていると言われます。重篤な病態の人ほど感染しやすく、肺炎・腸炎・敗血症などであっという間に亡くなることがあります。そうはならなくても、MRSAに感染し、発熱や痰の激増、あるいは傷口の化膿に悩まされる高齢者は多いのではないでしょうか。病気が良くなり退院間近と喜んでも、夜中に痰を詰まらせて死亡したりします。また、骨折手術の最中か前後に院内感染した高齢者が、辛い再手術を何度も重ねても治らず、歩けなくなるなど、この治療の堂々巡りで人生を終えることも稀ではないでしょう。術中・術後に感染し、再手術や後遺症などで苦しむ人の訴えは今なお寄せられます。

 この10数年、医療現場で院内感染の原因となる抗生物質の使い過ぎが是正されたとか、感染者数が減少したという確かな話が聞こえてこないのは、まことに残念です。また、患者が院内感染し次々と死んでいるとき、警察が入って事情を調べるのは当然のことです。医療現場が国民の不審死が一番多い現場であってはなりません。病院で何が起こっているのか警察が調べて、公表してほしい、と国民は願っています。

 国民の8割ほどが病院で死ぬという時代、死にゆく多くの人々が、院内感染をお供にせざるを得ないとしたら、これは国民にとって由々しき問題です。誰しも、苦しみを倍増させる院内感染を供にして、死出の旅に出たくはないはずです。私たちは「病院で死ぬということ」を改めて問い直すときではないでしょうか。

⑤医療事故の危険

 医療事故(医療過誤・医療ミスを含む)は全国各地で、昨日も今日も、いつも突然、誰かに降りかかっているに違いありません。突然の死亡事故、突然の傷害事故、いずれも家族・患者にとっては青天の霹靂です。本会では十数年以上、そうした多種多様な医療事故の相談をたくさん受けてきました。

 たとえば、「歩いて入院したのに、検査を受けたら死亡した」とか「元気に働いていたのに、手術を受けたら車椅子になった」という訴えには、病院での理不尽な出来事に納得できないという患者側の無念の気持ちが込められています。しかも、誠実な詳しい説明がないばかりか、「病院に責任はない」と突っぱねられれば、さらなる大きなショックに襲われます。病院は「逃げる、隠す、ごまかす」のいつもの手法で手早く処理したいのかもしれませんが、患者側は突然降りかかったこの不幸を受け止めなければなりません。真相解明・問題解決に取り組むにせよ、諦めようとするにせよ、強い疑惑と不信感を抱えつつ、長いこと暗闇のなかで葛藤と闘い続けなければなりません。1年、3年、5年、10年、20年…という長い年月をかけて。

 近年、医療事故が起きたとき、誠実な説明・謝罪を実践する心ある病院も出てきましたが、まだ全く広がっていません。たとえば、手術中、あるいは検査中(脳・心臓の血管造影や内視鏡などの)に患者が死亡した場合、その原因は常識的には医療行為にあるにもかかわらず、説明責任をきちんと果たす病院はほとんどないのが現状です。裁判においても真相を明かそうとせず、闇のなかに葬るのが常です。被害者側が最も知りたいのは、「なぜ家族が病院で死んだのか?」ということなのですが…。

 医療を巡るトラブルの解決は、話し合いによる示談にせよ、医療ADR医療裁判にせよ、現状では困難を極めます。交通事故や犯罪の被害者には国の法律行政の支援制度が創られましたが、医療事故被害者を救済する法律や制度は一切なく、社会的に放置されているため、解決率がきわめて低いのが現実です。
 医療事故が多発した10年ほど前に、投薬や手術などの安全対策が講じられるようにはなりましたが、医療全般のごく一部に限られていて、医療事故の防止には限界がありますし、数年前に各都道府県に公的相談の窓口(医療安全支援センター)が設置されましたが、医療事故の解決にはほとんど役に立ちません。何よりも、医療現場が医療事故被害者に真剣に対応するという習慣は一向に形成されていません。したがって医療事故の抑止力は生まれず、現状は医療事故を誘発しやすい状況と考えられます。

 国民の不審な死亡事故や傷害事故が解決されないまま放置されるのは、医療機関において最も多いのかもしれません。「消費者の8つの権利」に照らして考えると、医療という分野は安全が最も保証されていない分野になります。こういうところにも、日本の日常医療の貧しさがうかがえます。
 「人は誰でも間違える(To err is human)」としても、医療事故の事後対応において、遺族に真実の説明をして死者の命を闇に葬らない医療、傷ついた患者=被害者に詳しい説明をして再治療に手を尽くす医療、そうした心ある医療と医療行政を国民は望んでいるはずです。(2011.1.10.)

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