医療消費者ネットワーク MECON

医療被害者のこころの傷

清水とよ子著【別冊宝島452 『病院に殺される!』(宝島社 1999年)のエピローグ】
に基づく2011年改訂版

医療被害に遭ったときに、彼らはどんなショックを受け、
具体的にどう行動し、病院にどうしてほしいのか、
今後どう解決したいのか、
あるいはどんな絶望感や抑鬱状態に落ち込むのか、
そしてこの悪夢の病院体験からどう立ち直るのか?
これまでほとんど論じられることのなかった、
暗闇に突き落とされ、
自力で出口をさがす医療被害者たちの
「こころ」の問題を正面から見すえる。(編集者の言葉)

1999年、全国で相次ぐ医療事故

 1999年は、かつてないほど多くの医療事故のニュースが次々と、平穏な日常生活に飛び込んできた年でした。だれもが「えっ、まさか」と思うような信じられないミスの連続です。横浜市立大学病院の手術患者取り違えという衝撃的な事件に端を発して、まさに北は北海道から南は沖縄まで、日本列島の各地で医療事故が多発している実態が表面化しました。

 この年は、それ以前にもまして、国民が「明日はわが身」と危機感を感じて医療事故への関心を高め、マスコミも積極的に今まで表に出にくかった多種多様な医療事故を取り上げた年でした。ここでもそれらを活用したいと思います。

 一連の医療事故は、患者の取り違え、血液型の取り違え、体内への針やガーゼの置き忘れといった手術に関連したミス、あるいは点滴薬の取り違えなどで、いずれも患者側が気づけば指摘しやすい看護師や医師の「単純ミス」という点に特徴があります。また、単純ミスだからこそ、マスコミも取り上げやすかったのでしょう。

 医師や看護師も、神様でも白衣の天使でもなく、ごくふつうの人間です。人間には勘違いやうっかりミスなどの日常的不注意はつきものなので、こうした医療技術以前の単純ミスは、入念な防止策を導入していない限り、医療現場では日常的に起っているはずですが、これまでは表面化することはきわめてまれでした。都合の悪いことは徹底的に隠すという日本の医療の前近代的な体質のゆえに、こんな「単純ミス」でさえ、自然に露見することはほとんどありません。このときはおそらく、患者側が必死に行動して、その声がマスコミにも届いたために次々と露見して、病院側も否応なしに非を認めざるをえなくなったのでしょう。

目覚めつつある患者の意識〜医療機関と国の無策

 実際、この一連の報道では、患者の家族が異変に気づき、病院側になんどとなく強力に働きかけたと思われるケースが目立ちます。

 たとえば、沼津市立病院(秋山暢夫院長)で患者を取り違え、輸血ミスを起こしたケースでは、「途中で家族が気づく」と報道されています(毎日新聞4月6日付)。

 また、都立広尾病院(岡井清志院長)で、手術後の患者に、誤って消毒剤入りの点滴を打って死亡させたケースについては、遺族側が遺体の異状に気づき、「医療事故の可能性があるから死因を(警察などの)第三者機関に託すべきだ」などと強く求めた、と伝えられています(読売新聞4月22日付)。

 こんなめずらしい実例も露見しています。琉球大学医学部付属病院で、心臓手術の執刀医が手術の際に患者の体内に針を置き忘れ、手術後そのことに気づきながら、3年間も患者や家族に隠しつづけた事実が明るみに出ました(毎日新聞4月2日付)。
 その手術後、患者に予想外の症状が出ても、医師は真実を告げず、あいまいな説明・対応を繰り返していたのでしょう。見かねた家族が必死に動いて、何か決定的な機会をつかまえて病院側に真実の説明を迫ったようです。「病院側は一部報道機関の問い合わせで事実を認め、一日に家族に説明、謝罪していた」とも報道されています。
 針をとり除く手術は危険を伴うため、いまだに行なわれていないとのこと。患者の苦悩はつづきますが、不調の原因がわかったので、医師とまともに話し合いができ、緊急時には適切な対応を求めることもできるでしょう。

 本会にも手術器具やガーゼの置き忘れで苦しんだ方たちの相談が寄せられていますが、傷害事故の被害者はしばしば、肉体的苦痛のほか、この例のように、医師のあいまいな態度・対応にも苦しめられます。ガーゼの置き忘れでも、何十年も原因不明の腹痛などに苦しめられ、人生を棒に振る人がいます。人間、わけのわからない苦痛や不安には耐えられないものです。患者にとっては、真実の説明や再治療が生きるために何よりも大切なのです。

 このように一連の医療事故が露見してマスコミのルートにのったのも、不幸にして医療事故に遭ったら、悲しんだり憤ったりして泣き寝入りするのではなく、医療機関に真相解明と問題解決を求めようという消費者意識が高まってきて、患者側が必死に行動に移した結果でしょう。

 どういう医療事故も、患者にとっては、平穏な暮らしを、ときには人生を一変させる事件です。傷害事故で平穏な暮らしを奪われても、死亡事故で家族の人生=命を奪われても、事故を起こした医療機関が被害者を見放し、国も被害者=国民を救うために何もしないとしたら、当事者が必死に動くしかありません。わが国は、まだまだそういう後進国的な状況なのです。

暗闇に突き落とされ自力で出口をさがす被害者たち

 では、医療被害に遭ったと気づいたときに、家族や患者はどんなショックを受け、具体的にどう行動するのか、病院にどうしてほしいのか、今後どう解決したいのか、あるいはどんな絶望感や抑鬱状態に落ち込むのか、この悪夢の病院体験からどう立ち直るのか、医療被害者のこうしたこころの問題が大いに気になるところです。

 医療事故の報道が相次いでも、被害者のこころの内面までは報道されないため、世間に知られることはほとんどありませんが、被害者側は、医療事故に遭った悲しみと憤りの感情のなかに、交通事故や犯罪の被害者と同じように、自ら苦しみながらも「なぜこうなったのか知りたい」という強い思いを抱えているのがふつうです。

 MECONの長年の苦情相談活動から、被害者のそういう必死の思いが明らかになっています。たとえば、日常生活をごくふつうに営んでいた人が、検査や手術の当日か直後に死亡することがあります。検査死、手術死といいうる「死亡事故」です。家族は当然、「おかしい」と直感するわけです。あるいは、その人なりに元気にしていたのに、検査や手術などの後に予想に反して長期に病人になってしまうことがあります。医療ミスか不手際などで身体を傷つける「傷害事故」が推定される場合です。当人も家族も「これはおかしい」と悩みつづけます。そして、説明がないため、やがて疑問を解き明かしたいという強い思いが生じます。通常、こころがこの思いにとらわれると、真相解明が実現するまで被害者のこころに平穏は戻らないものです。

 ひとたび医療事故被害に遭えば、このように、身体だけでなくこころにも大きな衝撃を受けますので、患者側は医師や病院の誠実な対応を唯一の拠り所とせざるをえません。患者側はまずはなによりも納得のいく説明と謝罪がほしいと思います。傷害事故の場合は、まずは親身の事後治療を期待します。人間の自然の情の流れです。ところが、被害者はまもなく今の日本の医療の悲しい現実にぶつかります。医師側がきちんと事後対応や事後治療を行なわない場合が多く、二重、三重に衝撃を受け、心身の葛藤と苦しみを倍増させていくのです。

 近年、医療事故が起きた場合、病院が「ミスを認め、真実を説明し、謝罪する」という運動もごく一部で実践されるようになりました。しかし、これまで被害者はほとんどの場合、医師の不誠実な事後対応に苦しめられてきました。良心的な医師が個人的に自分のミスを患者側に謝ったとしても、病院側はあいまいな説明や素人を騙すような説明をしたり、説明を二転三転させるなどして、巧みに真相をうやむやにして責任回避を貫くことも珍しくはありません。一部に風穴を開けようという動きもありますが、わが国のこの医療風土はいまだに変わってはいません。

 医療被害者は、遅かれ早かれ、それまで当然のように享受していた平穏な日常性が永続的に奪われてしまったことを痛恨の思いで知ることになります。しかも、経過や真相を「知りたい」と当然の思いをぶつけても医療側に無視されて、トンネルのような暗闇に突き落とされたまま放置される場合が多いので、医師を通して究極の人間不信に陥り、ノイローゼ状態になってしまうのが常です。しかし、救いの手がさしのべられなくても、医療被害者は生きるために自力で、必死に明るい出口を見つけようともがきつづけます。そんな苦衷のなかでも、医療現場で踏みにじられた人間の尊厳を回復しようとして、真相を模索しづけるものです。

社会的道義にはずれる医療機関の強弁

 こういう現状は、被害者にとっても、関係する医療者にとっても、不幸な事態です。国民はおそらく、過誤の有無にかかわらず、被害者が少しでも救われたと思えるような、また、ミスや不手際をした医療者が逃げ回ることなくまともに事故と向かい合えるような、人の命を闇に葬らない医療風土を日本にも築いてほしいと願っています。

 今後、医療機関が国民感情を理解し、「ミスを認め、真実を説明し、謝罪する」という動きに加わり、心ある対応をするようになってほしいものです。ただ、残念ながら、1999年前後も現在も、社会通念上の謝罪を表明する病院はありますが、やはり責任回避を貫いて旧態依然とした態度をとるところが目立ちます。

 その典型的な実例は、今も昔も医療事故報道のたびに繰り返される「ミスと死亡との因果関係はない」といった院長コメントに見られます。だれもが納得できる証拠を添えてあれば問題ないのですが、根拠も示さずにマスコミを利用して一方的に因果関係を否定し、「ミスはあったが、病院に責任はない」と主張して、患者側の機先を制するわけです。

 たとえば、1999年、松江市民病院(今村貞夫院長)では、看護師が点滴薬を取り違え、2人の患者が死亡しているにもかかわらず、病院側は単純ミスを認めても、「ミスと死亡との因果関係はない」と、当然のように否定しています(読売新聞3月20日付、毎日新聞3月24日付)。

 驚いたことに、責任回避にうってつけのこのコメントが、横浜市立大学医学部付属病院(松原升院長代理)の手術患者取り違え事件で、誤った手術をされた患者2人がそれぞれ新たな医原病に襲われ、再手術を受ける羽目になったときにも使われています。
 肺疾患の男性患者には、誤った心臓手術のあとで、それまで異常のなかった心臓に不整脈が発生してしまいました。改善しないために、患者は一か月後にペースメーカーを埋め込む手術を受けています。このときにも、病院側は「不整脈と取り違え手術との因果関係は特定できない」としています(毎日新聞2月26日付ほか)。一方、心疾患の男性患者には、肺の誤手術後2か月以上して胃に大出血が起りました。そのため、患者は胃を半分も切除する緊急手術を受けています。この場合にも、病院は「胃の出血と取り違え手術との直接的な因果関係はない」と言っています(読売新聞3月24日付)。

 人間のいのちを預かる医療現場で、患者を取り違えて誤手術するという大きな「傷害事故」を起こしているのです。しかも、2人の患者にはそれまでは徴候さえなかった新たな病気が出現してしまったのです。患者のこころへの配慮なくして、なぜこんな不公正な言いっ放しの病院談話を堂々と出せるのか、理解できません。

 ペースメーカーを埋め込む必要があるほど深刻な不整脈が突発したり、緊急手術でしか救命できないほど胃に大きな孔があいたりすること自体が、被害者のこころのストレスを推測するに充分な、衝撃的な新しい病気です。このような患者が入院中に新たにこんな病気を併発することは通常ありえないのですから、医療ミスが原因の心身相関の医原病と推定するほうがより常識的でしょう。
 70歳代、80歳代の高齢者にとって、誤手術は余生を病床にしばりつけるに充分な、致命的なミスだったに違いありません。彼らが被った傷害事故と残りの人生の質の低下との因果関係は、わが身に置き換えればだれでも想像できます。因果関係を否定するなら、なぜ単純ミスと再手術との因果関係がないといえるのか、病院はその証拠をだれにもわかるように示して、社会に説明する責任(アカウンタビリティ)があるのではないでしょうか?

 いざ裁判に持ち込まれても、病院側には立証責任がないからといって、なぜその特権をこのように最初から振り回さなければならないのでしょうか?こうした院長談話は、世間の批判を一時的にうまくかわすつもりでしょうが、医療に対する国民の信頼感をどんどん失わせるばかりです。また、医療事故に苦しめられてきた人びとの被害感情を逆なでするだけです。今回の被害者も、おそらくは強い不快感を感じていることでしょう。

真実を知りたい被害者を待つ「カルテ改ざん」

 このように、事件が露見すると、病院側は責任問題を回避するために、いち早くマスコミを通して因果関係の否定を宣言して、巧妙に先手を打ちます。次に、患者側が事故についての説明や謝罪を求めてくると、事件が発覚してもしなくても、病院側は同じような理屈を盾にして、納得のいく説明も謝罪もせずに突っぱねてしまうことが多いのです。

 被害者の最初の痛切な思いは、「なぜ?どうしてそんな事故が起ったのか?真相を知りたい」です。そこで、患者側は、医師や病院が真相を説明してくれなければ、カルテで事実関係を確かめてみたいと思い、必死に「では、カルテのコピーをください」と再三迫ります。

 しかし、医療ミスが絡んでいると考えられるケースでは、真の診療情報の開示はいまだに容易ではありません。2005年に個人情報保護法が施行されて以来、カルテ開示は進んでいると言われ、実際に、一部の病院でカルテ開示が容易になりました。ところが、医療ミス絡みでは、何だかんだと理由をつけられ断られています。たとえあきらめずに病院と交渉してカルテを手にしても、事実と違う記述がたくさんある、肝心の麻酔・手術記録や心電図の記録がない、などと訴える人が絶えません。病院側は、時間をかせいで、カルテを改ざんするのではないかと疑われても仕方ない状況です。カルテ改ざんは医療事故を隠すために案外よく行なわれることだ、と医療関係者から聞いたことがありますが、実際、被害者はしばしばその黒い現実を突きつけられています。

 重要データが切り取られていたり、あちこちの事実が少しずつ書き換えられている診療録を手にした患者・家族は、どんな思いに襲われるでしょうか。驚き、衝撃、憤り、暗たんたる思い、等々。科学を追究しているはずの医師自らが診療上の事実を歪め、医学・医療を貶める!?そんなはずはないと信じてカルテ開示を求めたわけですが、患者・家族は見事に裏切られ、真実に蓋をする医療機関の対応によってさらに苦渋と苦悶に追い込まれて、こころの傷を深めていきます。

医療現場の悲しい現実―「逃げる・隠す・ごまかす」

 都立広尾病院で点滴直後に患者が死亡した事件は、2月に起きたにもかかわらず、いっせいに報道されたのは3月半ばでした。その時点で、「消毒剤?注入死 (警察への)届け出は11日後に」(朝日新聞3月16日付夕刊)と報道されて、病院に事故隠しの疑いがかけられていました。その後もその疑いは強まり、警察への届け出を望んだ遺族の要請を無視した病院に対して、警視庁と渋谷署が「異状死体を警察に届け出ることを義務づけた医師法にも違反する疑いがある」と捜査を進めています。

 事故隠しが報道されるのも珍しいことですが、さらに都立広尾病院は「点滴ミス隠そうとした?」という見出しで追及されています(読売新聞5月8日付)。
 この報道によれば、医師が遺族に死亡を告げたのは「午前10時25分」だったのに、死亡診断書の死亡時間はそれよりも約20分も遅い「午前10時44分」と記されていました。遺族はこれで、病院側に決定的な不審をいだくようになったのです。しかも、遺族の要求で開示されたカルテには、死亡宣告後に到着したはずの主治医が「蘇生措置をした」と記されていました。事実を少しずつ歪めて、死亡診断書やカルテを巧妙に改ざんしている様子が手にとるようにわかります。

 さらに、患者の死亡後、主治医が「死因は不明だが心筋梗塞などが考えられる」と答えた際に、遺族がその説明に納得できずに「薬物ショックでは」とつめ寄ると、「可能性はあるかもしれない」としただけでよく説明をしないまま、遺族に病理解剖への同意を求めています。主治医は病院に着いてすぐに薬物の取り違えの可能性を聞いていましたが、それをなんとか隠して、あいまいな説明で遺族の追及を逃れようとしたのでしょう。
 しかも、異状死体として警察に届ければ「司法解剖」にふされるはずですが、自分の病院の「病理解剖」へ誘導することに成功しています。その病理解剖の結果では消毒薬は遺体から検出されなかったことになっていますが、警察が後に調べた結果では、消毒薬を裏づける物質が検出されたのです(読売新聞6月1日付)。

 こんな矛盾が露呈しては、病理解剖を自分の病院で済ませたのはやはり点滴ミスを隠すためだった、と疑われてもしかたありません。じつのところ、死亡診断書やカルテの死亡時刻が実際とは違う、死亡診断名がおかしい、カルテに事実に反する嘘が書かれている、などという患者側の訴えは苦情相談のなかではよくあることですが、こんなに詳しく新聞に報道されるのはよくよくのことでしょう。

 病院側は、死亡診断書カルテ病理解剖などのあらゆる手段を利用して明らかな医療ミスを隠し、患者側をごまかして責任を逃れようとしましたが、社会的責任を問われることになりました。当時、警察はすみやかに独自の調査を進めて「薬物ショック死」と断定して、業務上過失致死で立件する方針を固めたほか、異状死体の一日以内の届け出を怠った医師法違反の疑いでも立件を検討したのです。

 この経緯を見れば、医療事故を起こした病院側が「逃げる・隠す・ごまかす」という常套手段を使って、いかに巧みに責任を逃れようとするか、また、患者側がそんな無責任を許さないという気迫でいかに必死に真実を知ろうとするか、そんな現状が鮮明に伝わってきます。

 責任回避に成功すれば、国民の医療への信頼感など根こそぎ失ってもかまわないとひたすら保身に走る「変らぬ古い体質の病院」、踏みにじられた人間の尊厳の回復を求めて真実の解明にひた走る「変わりゆく自立した患者」、この両者のギャップは広がるばかりです。

(未完・つづく)

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