医療消費者ネットワーク MECON

医学鑑定と判決の研究

乳房切除術後に
乳がんでなかったと告げられたケース

1.事案の概要

 1995年、石田智子さんは左乳房のしこりに気づき、病院で受診。諸検査の結果、乳がんの疑いがあると告げられ、東大病院第2外科であらためて触診、マンモグラフィ、超音波検査、および2度の穿刺吸引細胞診をうけました。2度目の細胞診で、病理部は細胞の異型度をクラス4(がんの疑い)と判定し、がんかどうか確かめるため「要組織診」としました。担当医である小池道子医師は、これまでの検査結果を総合すると乳がんであるとし、手術前に組織診をすることなく乳房切除術を施行しました。しかし術後の病理検査で、乳がん細胞は発見されなかったのです。原告は深い精神的打撃をうけ、真実を明らかにするために提訴しました。

2.争点

・触診、マンモグラフィ、超音波検査、および穿刺吸引細胞診(クラス4)の所見で乳がんと診断したことの適否
・「要組織診」とあるのに、組織診をせずに乳房を切除したことの適否
・術後の組織検査で「壊死性乳管炎」の診断だが、乳がんであった可能性
・乳房温存療法の説明が十分であったかどうか

3.鑑定の経過

 2001年1月30日、東京地裁で判決があり、原告の請求棄却、つまり原告が敗訴しました(判決の全文は後掲、7-1項)。原告が控訴し、東京高裁で審理中です。

4.本件診療行為と判決に対する専門家たちの評価

 判決の具体的問題点の分析は、以下の6項で近藤ドクターにお願いいたしました。ここでは、専門家たちが本件診療内容と判決をどうみているかを紹介します。

 以下にあげるコメントは、油井香代子さんが取材して書いた「東大病院 乳がん誤診訴訟の意外な展開」(文藝春秋2001年9月号)から引用しました。油井さんは、医療過誤事件をよく取材しているジャーナリストで、『医療事故 医者の奢り患者の怒り』(双葉社)などの著書があります。その記事では、東大第2外科出身の外科医(複数)のコメントまで集めているのが貴重です。なお肩書きは記事のとおりです。

「一般的には、細胞診で4ならば、必ず組織診を行います。少なくとも、病理部がある大学病院では行っているはずです。乳がんの場合、特に非浸潤がんは良性の乳頭腫や乳腺症との鑑別診断が難しく、ベテランの病理医でも間違えることがあります。誤診のリスクを限りなくゼロにするために、外科医と病理医の連携プレーが重要なのです」

堤寛・藤田保健衛生大学病理学教授

「クラス4で、他の検査でもがんの疑いが濃厚であっても、がんでないこともあります。クラス5が出てもがんでないこともあるわけで、組織診をしないでいきなり手術というのは乱暴ではないでしょうか」

東大第2外科で研修をうけた外科医

「私なら生検をします。するのが常識でしょう」

東大第2外科出身の外科医たちのほぼ一致した答え

「K医師は医局のカンファレンスを経ないで、独断専行してしまったのです。それを止められなかった医局にも責任の一端はあるものの、彼女には医師としての慎重さに欠ける所があったように思います」

同じ医局に勤務経験のある医師

「この誤診の背景には、一人の医師が検査をすべてやり、チェックが働かないというシステム上の問題があります。一人の目だけだと、どうしても思い込みが強くなり、客観的にデータを読めなくなる。私の場合、別の医師に超音波をやってもらうようにして、ダブルチェック機能を働かせるようにしています。
 さらに、病理医の『要組織診』という意見を無視してしまう外科医の独断的態度も原因のひとつでしょう。普通、外科医は『要組織診』と出たら、自分ではいくらがんを疑っていても、生検を行うものです。同じ乳がんの臨床医として、僕は生検をしなかった医師に問題があると思います」

近藤誠・慶応義塾大学放射線科講師

「確定診断をするためのルールを逸脱したことで、この誤診は起こっています。一人の臨床医が個人的判断で診断をして、それを質的に評価するシステムがないため、科学的根拠が曖昧なまま診断して手術をしても許されていた。特に女性の子宮や乳房は根拠なく摘出されることがまかり通ってきました。米国なら間違いなく、過失が認められ、医師はペナルティを負うことになるでしょう」

森功・医真会八尾総合病院院長

「裁判の結果を聞いて、あまりにも意外な判決なので驚いています。当然、東大病院側(国)が負けると思っていましたから。これでは患者さんがあまりに気の毒です。クラス4なのに生検をしないで誤診をしても過失がないというなら、医師は好き放題できるということになりますから」

東大第2外科出身のある外科医

「医学、医療がわかっていない裁判官により、『疑わしきは罰せず』という司法の論理が優先され、医学的に非常識な判決を出してしまうからだ」

森功院長

5.現在の状況

 東京高裁で審理中です。裁判所は鑑定人を選任し、下記の鑑定事項を決め、鑑定事項1と2については、外科医である小林俊三・名古屋市立東市民病院副院長に、3については、病理医である土屋眞一・長野県がん検診・救急センター検査部部長に鑑定を依頼しています。

鑑定事項1
 本件において、小池医師が、控訴人の病変部につき、組織診を行うことなく、乳頭腺管癌等の乳管内進展を特徴とする組織型(面疱型)の乳癌と診断したことは、平成7年当時の医療水準を逸脱したものということができるか。

鑑定事項2
 小池医師が、上記判断の下に、組織診(術前の生検、術中迅速診断を含む。)を経ることなく、乳房切除手術を行ったことは、平成7年当時の医療水準を逸脱したものということができるか。

鑑定事項3
 手術で摘出した控訴人の乳腺組織につき、
(1)生きた癌細胞は認められるか。
(2)乳管内に壊死組織が認められる場合、これが癌細胞であった可能性はあるか。あるとすれば、どの程度か。
(3)エストロゲンリセプター測定用に摘出した乳腺組織内に癌細胞が存在した可能性はあるか。あるとすれば、どの程度か。

 なお、上記の鑑定書は、裁判所に提出され次第、本欄に掲載する予定です。

 次項6.では、近藤誠ドクターに分析と考察をしていただきます。 7.参考資料では、原告の請求棄却を言い渡した1審判決と近藤医師が書かれた鑑定意見書を掲載しています。

6.分析と考察

(イ)判決の具体的問題点

(i)一般論の間違い(医療水準の誤認)

 判決は、本件手術が行われた当時には、「臨床上、触診、画像(超音波診断およびマンモグラフィー)、細胞診の三者がいずれも矛盾なく悪性の所見を示す場合には、その病変部を癌として根治手術を行うという治療方針が一般的に採用されている」との一般論を示しました。そしてこの一般論に原告の検査所見を当てはめ、請求棄却の結論を導いています。
 この一般論は一見、専門家が読んでも正当そうにみえます。しかしよく読むと、問題点が少なくとも2箇所あります。

 第1は、「画像(超音波診断およびマンモグラフィー)」という文言です。このように二つの検査法を括弧でくくってしまったことにより、超音波診断かマンモグラフィのどちらかが悪性の所見を示せば足りる、という流れになります。しかし本件手術当時すでに、がんと確診するためには、超音波診断とマンモグラフィのそれぞれが悪性所見を示さねばならないとされていたのです(後掲の鑑定意見書9項参照)。

 第2の問題点は、「矛盾なく」という文言を使ったことです。この言葉を使った効果は次のようになります。たとえば二つの検査法をうけて、片方は「悪性」、他方は「良性」の結果がでると、両者は矛盾しているので、悪性と診断してはならないことになる。
 しかし別の場合として、片方は「悪性」、他方は「悪性か良性か不明」だったとすると、最終診断を「悪性」としても、各検査所見には矛盾がないことになります。そして、本件手術当時の医療水準である「がんと確診するためには各検査のそれぞれが悪性所見を示す必要がある」という要件が没却されてしまうわけです。
 実際、本件のマンモグラフィの読影結果は、悪性かどうかはっきりしなかったのです。しかし、超音波検査では悪性だったので、矛盾はないとして、敗訴の結論に結びつきました。

 ではどのような一般論が妥当だったのか。本件手術当時の医療水準は、「触診、超音波検査、マンモグラフィーの三者それぞれが癌であるとの確実な所見を示し、かつ、細胞診でクラス5もしくはdefinite(生検なしで手術可)と診断された場合には、細胞診を組織診のかわりにできる」(本件控訴理由書)というものだったのです。したがって判決もそのような一般論を採用すべきでした。そうすれば本件では、被告病院の過失を認定できることになります。

(ii)証明不可能なことがらを原告に立証せよという理不尽(可能性は否定できない、という論理)

 民事裁判において、立証責任は原告に負わされています。医療訴訟の場合には、1)病院や医師に過失があり、2)過失と結果のあいだに因果関係があること、を原告が証明しなければならないのです。カルテや検査データなど医学的証拠のすべてが被告病院の手にあり、原告や弁護士は医学的知識も乏しいことを考えると、立証責任は原告にとって大変な重荷です。
 そのうえ4項で森さんが述べているように、「疑わしきは罰せず」という原則も立ちはだかります。この原則を本件に適用すると、乳がんでないことが100%確実でないかぎり、「乳がんでなかったとは言い切れない」ことになり、原告が立証に失敗したことになってしまいます。
 なぜ乳がんでなかったとは言い切れないのか。じつは本件では、乳がん手術直後、エストロゲンリセプターという物質を測定するため組織の一部が摘出されており、その部分は顕微鏡による組織検査がされていないのです。そこで被告は、この摘出した組織のなかに乳がん細胞が含まれていた可能性があると主張しました。また切除された乳房を組織検査した最終報告は、「壊死性乳管炎」(つまり乳がん細胞はなかった)との診断だったのですが、裁判になると被告は、生きたがん細胞はなかったが、壊死細胞があったのだから、細胞の生前はがん細胞だった可能性もある、と主張したのです。
 そして判決は、被告の主張を採用しました。つまり、1)病理部での検査はすべての細胞を調査するものではないこと、2)エストロゲンリセプターの調査のために切り出された組織が存在すること、3)壊死細胞が生前に良性であったか悪性であったかを判定することはできないこと、を理由として「原告の病変部が癌でなかったと断定することはできない」と断言し、請求棄却の結論を導いています。

 しかし、一見論理的にみえるこれらの理由は、いずれも証明不可能なことがらの立証を原告に強いるものです。たとえば、1)すべての細胞を調査していないという点に関しては、たった1gの組織に10億個もの細胞が含まれていることを考えてみても、数百gはあるであろう切除乳房の全細胞を調べることは不可能です。本件では、乳房切除後に東大病院の病理部が(乳がん細胞が見当たらないので焦ったのでしょう)、それ以上はできないくらい綿密に乳房全体を病理検査しています。それでもがん細胞を発見できなかったのに、「病理部での検査はすべての細胞を調査するものではない」ことを理由付けに使うのでは、原告は(がんでないことを)どう証明したらよいのでしょうか、まことに理不尽です。
 また判決が、2)エストロゲンリセプターの調査のために切り出された組織が存在することを理由とした点については、3つの問題があります。第1は、エストロゲンリセプター測定用に摘出された組織のなかに乳がん細胞のすべてが含まれていた可能性は通常考えにくく(後掲の鑑定意見書)、もしあったとしてもごくごくわずかの可能性です。それなのに「癌でなかったと断定することはできない」と判決することは、正義や公平という裁判の理念にもとるのではないか。

 第2には、エストロゲンリセプター測定用に切りだされた組織はすでに費消されてしまい、これから顕微鏡検査して(がんでないことを)証明するのは不可能、ということがあります。法は不可能を要求するものでないといいますが、これはまさに不可能なことを実行しろと(原告に)要求するものです。

 第3に、もし万一エストロゲンリセプター測定用の組織にがん細胞のすべてが含まれていたとすると、がん細胞のすべてを切りだしてしまい(がんとの)組織診断を不可能にしたのは被告病院の過失にあたります。それゆえ判決がこのことを理由付けに使うのは、「被告が過失をおかしたから原告はがんと証明できなくなったのだけれども、被告が自分の過失行為を盾にとることを認める」と言っているのと同義です。

 判決は第3の理由として、B壊死細胞が生前に良性であったか悪性であったかの判定することはできないことをあげています。しかしこれは強弁です。かつて、乳がん細胞が一斉に死んで壊死細胞だけ残ることがあるなどと、誰も証明していないのです。また顕微鏡検査でみつかる壊死細胞は、あくまで死んだ細胞ですから、いくら調べてもそれが生前に悪性(つまり、がん)であったか否か証明のしようがありません。つまりこの理由付けを判決が採用したのは、ふたたび原告に不可能なことがらの立証責任を負わせたことになります。
 いずれにしても医療現場では、病理医が生きているがん細胞を発見できなければ、がんとは診断しないし、がんだった可能性を考えることもない。本件では前述のように、被告病院の病理部が切除された乳房を一生懸命調べて、それでもがん細胞を発見できずに「壊死性乳管炎」としたのですから、判決も「がんではなかった」と結論すべきだったのです。

(ロ)判決というもの

(i)裁判官の問題点

 こういう判決をみると、医療事故のケースを裁判官が裁くこと自体が間違いかもしれないと思ってしまいます。そもそも乳房切除をしたら乳がんではなかったというケースは、かつて山ほどありました。ただ、闇から闇に葬られてきたので、世間に知られていなかっただけです(後掲意見書)。そういう歴史をふまえて医者たちは反省し、少しでも疑いがあれば組織診をするという乳がん診療手順の原則を決めてきました。したがって乳がん診療にたずさわる者が本件のことを聞けば、「あっ、まだそんなことやってたの」と誰しもが思います。もし専門家からなる会議体がこのケースを裁けば、「クラス4なのにいきなり手術したんですか」「病理医がわざわざ『要組織診』と書いているのに、無視したのですか」「それで乳房切除してしまい、乳がんと証明できないなら、過失も責任もありますね」と、数分で結論がでるでしょう。
 ところが裁判官は、そういう医療水準の実際を知らない。そのうえ、「医師は一生懸命に診療しているのだろう。これはたまたま生じたやむをえない結果ではないか」という先入観があるのでしょう、ものの見方がどうしても被告病院よりになるようです。
 これは、本判決だけにみられることではありません。わたしはいくつもの医療裁判の判決をみてきましたが、理不尽な判決にはたいてい、裁判官が医療水準を知らないという問題点がありました。
 そのほか本件と共通するのは、一般論の立て方が間違っている判決が多いことです。これは医療水準を見誤った結果ともいえますが、本件での上述した一般論の立て方をみると、本件手術当時の医療水準とあまりにかけ離れているので、わざとそのような一般論を立てた可能性に思いいたります。

 換言すれば、一般論の立て方次第で原告の勝訴・敗訴が決まるので、医療水準とかけ離れた一般論を故意に立てたのではないか、ということです。裁判官がなぜそのようなことをするのか。広い意味では裁判官も、国に雇われている使用人です。憲法上は裁判官の独立が保障されているとはいえ、使用人がご主人様を負けさせるような判決を書くことが心理的、職場環境的に困難であることは想像にかたくありません。
 裁判官の心理と関連しますが、現在日本には「判検交流」という制度があります。裁判官が法務省に一時的に出向して、「訟務検事」という訴訟専門の検事役をつとめる制度です。したがって国を被告とする裁判では、その事件を裁く裁判官たちの同僚が被告の代理人をつとめることになります。とすればこの面からも、裁判官は被告(国)がわに肩入れする心理になりはしないか。本件判決の冒頭に「被告指定代理人」として名前が挙がっているなかでは、幕内雅敏氏が東大第2外科教授であることを除き、大部分は訟務検事であり、またそれら訟務検事の多くは裁判所から一時的に出向している裁判官であるはずです。それら裁判官と、判決を書いた3裁判官(柳田幸三、中川正充、大門香織の各氏)がどういう関係にあるのか(裁判所での上下関係等)、情報公開が望まれます。(確実な資料をお持ちの方はお知らせください。)

(ii)証明不可能なことをどう証明するか

 医学上の問題については、おおくの場合、なんらかの例外的事象が生じる可能性を全否定することは難しい。それで、裁判官が論理的に厳密であろうとすると、「可能性は否定できない」という言い方になってしまいます。そして前述のように、原告に立証責任があるうえ、疑わしきは罰せずという原則があるものだから、勢い敗訴の結論になりがちであるわけです。しかしそれは本件判決にみるように、証明不可能なことがらを原告に立証しろというのと同義です。
 ではどうするか。疑わしきは罰せずというのは、本来、刑事裁判の場で形成された法理です。犯人でない合理的な疑いが残るのに、死刑や懲役刑の有罪判決がなされてはたまりませんから、当然、自然の法理です。
 しかし、この法理を民事裁判の場に持ちこむことは疑問です。ことに医療訴訟のように、証拠はすべて被告(病院や医師)の手元にあり、被告のほうが専門的知識にすぐれている(したがって反証もしやすい)場合には、証明の程度を多少緩和しても不公平だとか正義に反するとはいえないと思います。

 具体的には、原告が過失の存在と、過失と結果との因果関係を一定程度証明したら(これをかりに「一応の証明」と呼びます)、被告にそれらを否定する反証責任を負わせるのです。そして被告が反証に失敗すれば、原告が立証責任をはたしたことになり、請求が認められる、とします。
 この考え方を本件に適用してみると、原告は乳がんでないことを一応証明しました(被告病院の病理部が「壊死性乳管炎」と診断しており、その報告書は訴訟の場に提出されている)。それゆえ、被告が「乳がんであった」ことを証明しなければ、反証は成功したことにならず、被告敗訴になるわけです。

(ハ)本件訴訟の展望

 鑑定書が提出された段階で、本欄に掲載して解説を加える予定ですが、この鑑定がおそらく訴訟の行方を決めると思います。それで問題点を指摘すると、鑑定事項3は、顕微鏡をのぞきながら鑑定するのですが、鑑定人以外の者は顕微鏡をのぞけないので、鑑定過程と結果の合理性をどう立証するかという問題があります。これがもし、カルテ記載にもとづいて鑑定する場合には、記載の内容自体は万人が知ることができるので、不合理な鑑定かどうかは論理的に判定できます。しかし顕微鏡検査を用いた鑑定の場合には、がんか良性かの診断が合理的かつ公正に行われたかどうか、他人には判定できません。

 鑑定過程と結果の合理性をあとで検証できるようにするためには、鑑定人に命じて、顕微鏡でみた組織像を写真にとって残させるのが一法です。しかしそれでも、組織標本中のどこを検査するかによって診断が異なる可能性があり、写真が適切な部位からとられているか否かをどう検証するかの問題が残ります。
 顕微鏡検査に用いる組織標本は、被告病院にあります。それゆえ、被告に不利な鑑定がでた場合には、被告は自分たちで再び顕微鏡検査をして、反論することが可能です。しかし原告の場合には、組織標本を信頼する病理医に検査してもらう機会がなく、鑑定人が合理的で公正な鑑定をしたかどうか検証するすべがありません。これでは不公平ですから、原告にも組織標本を検査する機会を与えるべきです。

(本項は近藤誠ドクターによる)

7.参考資料

I 判決

平成10年(ワ)第11321号損害賠償請求事件

判決

原告 石田智子
同訴訟代理人弁護士 三村伸之
同 松島宇乃
東京都千代田区霞ヶ関一丁目1番1号
被告 国
同代表者法務大臣 高村正彦
同訴訟代理人弁護士 田中 豊
同指定代理人 栗原壮太
同 平賀勇吉
同 幕内雅敏
同 真船健一
同 山口 信
同 向山敏明
同 與那原 進
同 三枝広人
同 柳沢久男

主文

1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第1 請求
被告は、原告に対し、金2194万3515円及びこれに対する平成7年11月27日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 本件は、左乳房のしこりを訴えて被告の開設する東京大学医学部付属病院を受診して被告と診療契約を締結し、同病院において乳癌の診断を受けて左乳房の全切除手術を受けた原告が、同病院には、原告の右症状が実際には乳癌ではなかったにもかかわらず、誤って乳癌であると診断した上、左乳房の温存療法を希望していた原告に対し、必要な説明を尽くさないまま全切除手術を勧めたものであり、原告の診断を担当した医師である小池道子には、原告が乳癌ではなかったにもかかわらず、誤って乳癌と診断した上で、左乳房の全切除手術を行ったものであると主張して、被告に対し、債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づき、原告の逸失利益、慰謝料及び弁護士費用として合計2194万3515円の損害賠償を求めるとともに、同手術の日である平成7年11月27日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

1 争いのない事実等

 次の事実は、当事者間に争いがないか、または証拠上容易に認めることができる(証拠により認定した事実については、その末尾の括弧内に認定に用いた証拠を掲げた。)。

(1) 被告は、東京都文京区本郷七丁目3番1号において、東京大学医学部付属病院(以下「東大病院」という。)を開設しており、原告は、平成7年10月23日から平成10年1月27日までの間、東大病院で診察を受けた者である。

(2) 原告は、平成7年9月末ころ、左乳房にしこりがあることに気付き、同年10月5日、川口市民病院に受診して、触診、超音波検査及びマンモグラフィーを受け、同月19日、これらの検査の結果によると乳癌の疑いがあると告げられた。

(3) 原告は、平成7年10月23日、知人の紹介により東大病院第2外科の内分泌外科を受診し、東大病院に勤務し、東大病院第2外科に所属する小池道子医師(以下「小池医師」という。)の診察を受けた。小池医師は、左乳房のしこりを訴えた原告に対して、触診、マンモグラフィー、超音波検査を行い、さらに触診下の穿刺吸引細胞診を実施した(この細胞診を以下「第1回細胞診」という。)。

(4) 原告は、同月27日、再び東大病院を受診して小池医師の診察を受けた。小池医師は、第1回細胞診においては、原告の左乳房から採取された細胞に悪性の所見はなかったが、触診、超音波検査、マンモグラフィーの結果を考慮して、再び超音波検査下の穿刺吸引細胞診を実施し(この細胞診を以下「第2回細胞診」という。)、被告の左乳房から採取した細胞を東大病院病理部の検査に付した。

(5) 被告は、同年11月1日、3度目に東大病院を受診して小池医師の診療を受けた。小池医師は、第2回細胞診の結果、悪性とされるクラス4の判定が出ており、これまでの検査結果を総合すると、原告の病変部は乳癌であると診断されると告げた。小池医師は、その治療法として乳房切除術と乳房温存療法の2つの治療法について説明し、原告がいずれかを選択するように伝えた。

(6) 原告は、同月8日、夫を伴って東大病院を受診して小池医師の診察を受け、夫とともに再び乳癌及び2つの治療法についての説明を受けた後、小池医師に対して乳房切除術を選択すると伝えた。

(7) 原告は、同月24日、東大病院第2外科に入院し、翌25日に2回目の超音波検査を受けた後、同月27日、菅野隆行医師を術者、小池医師を第1助手(指導医師)として左乳房の非定型的乳房切除術の手術(以下「本件手術」という。)を受け、同年12月7日、東大病院を退院した。

(8) 原告は、退院後も東大病院に通院して小池医師の診察を受け、同年12月27日、小池医師に対し、簡易保険入院証明書(診断書)及びアメリカンファミリー生命保険会社の入院証明書(診断書)の用紙を交付し、記入を依頼した。

(9) 本件手術により切除された乳腺組織は、その一部が手術後直ちに切り取られてエストロゲンレセプターを測定するための検査に提出された後、病理組織検査のために東大病院病理部に提出されたが、病理部における病理組織検査の結果、提出された乳腺組織を切片にして作った顕微鏡標本(プレパラート)上では生きた癌細胞が発見されず、乳管内に壊死組織が詰まって壊死性乳管炎を呈しているものと、乳腺症(乳腺組織が、増殖、化生、退縮をきたす生理的な各変化の総称。)が発見されたにとどまった(甲6)。

(10) 小池医師は、平成8年1月24日の診察の際、原告に対し、東大病院病理部の病理組織検査の結果によれば、上記のとおり、原告の病変部から生きた癌細胞が発見されなかったことを伝え、簡易保険入院証明書(診断書)を原告に渡すに当たり、病理部の検査結果に基づいて、「入院の原因となった傷病名」の欄に「左乳壊死性乳管炎」と記入した。また、アメリカンファミリー生命保険会社の入院証明書(診断書)については、同証明書が癌保険に係るものであることから、本件のような事例に保険金が支払われるかどうかを同社に問い合わせる必要があるため、原告に交付しなかった。
 同社は、後日、小池医師の問い合わせを受けて、小池医師及び原告に対し、本件のように病理学的に癌を認めることができない事例に対しては保険金を支払うことはできないとの回答をした。

2 争点及びこれに対する当事者の主張

 本件の争点は、被告が原告の左乳房の病変につき、乳癌であると診断して乳房切除術による治療を行ったことについて、債務不履行又は不法行為が存在するかであり、これに対する当事者の主張は、以下のとおりである。

(原告の主張)
(1) 債務不履行
 ア 被告は、平成7年10月23日、原告との間で、原告の左乳房のしこりについて最善の治療をなすことを内容とする診療契約(以下「本件契約」という。)を締結しており、右診療契約の締結により、被告及び東大病院に勤務する小池医師らには、1)原告の病名、その原因、内容、再発可能性等を患者の問診や各種検査等により調査、解明する義務、2)それを原告に十分に説明し、さらに、原告が理解した上で、自己の治療方法について自主的な決定又は同意ができるように説明する義務、3)その上で、原告の同意をもとに、原告の病気に最も適切な治療を行う義務がそれぞれ生じたものである。
 イ しかしながら、被告は、原告の病変部が実際には癌ではなかったにもかかわらず、第2回細胞診において、悪性の所見であるクラス4と判断した上、第2回細胞診の病理部のコメントには「要組織診」との記載があったにもかかわらず、2回にわたって実施された細胞診のうち、最後の1回である第2回細胞診の結果のみに依拠して、更に組織診を行うことなく、原告の病変部を乳癌であると判断して、左乳房の全摘出手術に踏み切ったものであり、これらは、上記アの1)及び3)記載の義務に違反している。
 また、被告は、原告が病変部の治療について乳房温存療法を希望したにもかかわらず、乳房切除術をすすめ、乳房温存療法のメリットやデメリット、ケア方法等についても必ずしも正確でない情報を伝えて、原告の判断に必要な説明を尽くさなかったものであり、この事実は、上記アの2)の義務に違反している。
 以上により、被告は、本件契約について債務不履行責任を負うものである。
(2) 不法行為責任
 小池医師は、業務として医療行為に従事する医師として、業務上高度の注意義務が課されているにもかかわらず、前記(1)イ記載の医療行為により、その必要がないにもかかわらず、乳癌の治療として乳房切除術を行い、原告の左乳房を全摘出したのであるから、不法行為責任を負うべきである。
 被告は、小池医師の使用者として損害を賠償する義務を負う。
(3)損害
 原告は、被告及び小池医師の債務不履行又は不法行為により、次のような損害を受けた。
 ア 逸失利益 1566万3515円
 原告は、本件手術時には48歳であり、満67歳までの19年間就労することが可能であったが、被告及び小池医師の債務不履行又は不法行為により、その労働能力を20パーセント(後遺障害第11級の場合の労働能力喪失率)喪失する後遺障害を受けた。
 イ 慰謝料 331万円
 ウ 弁護士費用 297万円
 原告は、被告が自らの非を認めようとしない誠意のない態度を取ったために、弁護士を依頼して訴訟を提起せざるを得ない立場に追いやられた。原告は、本件訴訟を原告訴訟代理人らに依頼し、着手金として99万円を支払済みであり、成功報酬については、日弁連報酬基準規定に従った額である198万円を支払う旨の合意をした。

(被告の主張)

(1) 被告が第2回細胞診において、原告の病変部を「クラス4」と判断したことに過失はなく、また、次のような事実関係に照らせば、平成7年11月1日当時、小池医師が原告の病変を癌であると診断したことに過失はない。
 ア 小池医師は、まず、触診により、左乳房の内上領域(乳頭から3.5cmの位置)に、1.5cmの大きさの表面顆粒状の硬結を触知するなどし、その触診結果から、原告の病変について、乳腺症又は乳腺症に癌が混在するものであると考え、乳腺症と癌との鑑別を要するものとして、さらに他の検査を実施することとした。
 イ 超音波検査によって得られたエコー像によると、原告の病変部は、触診により考えられた可能性のうち、長径1.5cmの乳頭腺管癌であると考えるのが最も合理的であった上、マンモグラフィーによると、触診により硬結を認めた部位に癌の特徴を有する腫瘤の陰影が確認された。
 そして、第2回細胞診の結果によれば、原告の病変から採取された細胞中には、「クラス4」の悪性の異型細胞が存在すると分類されたのであるから、原告の病変部は、病理組織型としては面疱型の癌であると考えるのが合理的であった。
 ウ 乳頭腺管癌は、乳癌のうちの約20パーセントを占め、その亜型分類の一つである面疱型は、乳癌のうちの約8パーセントを占めるところ、原告の病変については、以上のような所見がすべて面疱型の癌の診断を支持するものであった。
 なお、第2回細胞診においては、東大病院病理部によって「要組織診」とのコメントが付けられているが、右コメントは、細胞診のみによって当該症例を癌であると確定することはできなかったので、細胞診の判定と他の補助検査の結果とが矛盾しないかどうかを十分に確認するようにという趣旨のものであり、また、組織診は、病変部を切開してその組織を取った上で行う検査と診断をいい、侵襲の程度の高いものであるから、当該症例について組織診を実施するかどうかの判断は、そもそも他の検査所見等を総合勘案して担当臨床医に委ねられるべきものである。
 そして、小池医師は、第2回細胞診の結果のみならず、それ以外の検査結果が全て癌の診断を支持するものであったことや、組織診については、癌に切り込んだ場合等に癌の再発率を増加させる恐れがある上、特に、乳管内に進展している乳癌(そのうちでも面疱型)の場合には、癌に切り込みやすいと報告されていること等を総合的に考慮して、癌の再発率を増加させるおそれのある組織診を実施しないこととしたものであり、このような判断及び措置は、癌診断に関する当時の医療水準に合致するものであり、被告及び小池医師に落ち度はない。

(2) さらに、原告は、原告の病変が実際には癌ではなかったと主張するが、本件手術前の諸検査及び本件手術後の東大病院病理部による検査結果を総合して、医学的な観点から見ると、本件手術後の検査結果を考慮しても、原告の病変が癌ではなかったと診断することはできない。
 すなわち、本件手術前の諸検査の所見が原告の病変を細胞の壊死を起こしやすい面疱型の癌としていたことからすると、乳管内に詰まっていた壊死組織の主体は癌であったと考えるのが合理的であり、また、本件手術により切除された標本中の腫瘍部の約2分の1が切り取られて、エストロゲンリセプターを測定するための組織として提出されており、病理部の検査には回されなかったことや、東大病院病理部による病理標本の検査は、技術的な限界により、病理標本のすべての細胞をしらみつぶしに検査するという訳にはいかないこと等からすると、手術後の病理標本の検査において生きた癌細胞が発見されなかったことから、癌ではなかったと診断することはできず、医学的に見れば、原告の病変が癌であった可能性を否定することはできないのである。

(3) また、小池医師は、原告及びその夫に対し、癌の性状について詳細に説明した上、その治療法として乳房切除術と乳房温存療法の2つの方法があること及びそれぞれの方法の内容と利害得失について説明しており、原告は、上のような説明を受けた上で乳房切除術を選択する態度に傾いたので、小池医師は、さらに「乳房切除術と乳房温存療法の健康結果に対する効用値」の測定をし、原告にとっては乳房切除術によると健康状態の価値がほとんど損なわれないと判定した。原告は、これらの説明を十分理解した上で、自らの諸条件を総合的に勘案して、理性的に乳房切除術を選択したものであり、小池医師は、原告の右選択によって、乳房切除術が適切であると判断したのである。
 このように、小池医師は、原告に対し、原告が合理的に治療法を選択するのに必要な情報を十分に提供したものであって、温存療法に否定的な情報ばかりを与え、原告の合理的な選択を妨害したということはない。

第3 争点に対する判断

1 証拠(甲2、7、13、16、17、乙1ないし10、12の1、2、14、17、18、22、24、25の1、2、30ないし33、証人小池道子、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(1) 第1回診察
 小池医師は、平成7年10月23日の原告の第1回診察の際、触診、マンモグラフィー、超音波検査、第1回細胞診を実施した。

ア 触診
 小池医師は、触診によって、原告の左乳房の内上領域(体の中心寄りで、乳頭より上側の領域)に、乳頭から3.5cm離れて、1.5cm×1.5cmの硬いしこりを触知し、そのしこりは中心部が特に硬く、しこりの上の皮膚につまむとえくぼ状のひきつれが生じることが観察された。また、しこりから索状の硬い部分が乳頭の方へ向かって伸びていた。また、しこりには自発痛、圧痛などは見られなかった。
 小池医師は、右の触診の結果によって、原告の病変部は、1)乳腺症に乳管内進展を伴う癌(癌の中心部は腫瘤を形成しているものであり、組織型としては乳頭腺管癌に相当する。)が混在するもの、2)乳腺症に脂肪織湿潤(ママ)を伴う小さい硬癌が混在するもの、3)乳腺症で硬化の強い部分が存在するものうち(ママ)のいずれかであると判断した。

イ 超音波検査
 (ア)小池医師は、自ら超音波検査を行ったところ、原告の病変部について0.8cm×1.4cm×0.7cmの不整形の黒いしこりがとらえられ、そのしこりの辺縁はぎざぎざしており、境界エコーが認められ、腫瘤には不均一な内部エコーが認められたが、後方エコーはそれほど減衰していなかった。
 上のような所見は、形状不整、辺縁粗雑、境界エコー不規則、内部エコー粗雑不均一という悪性腫瘍の所見を充たすほか、後方エコーの強さの点においていわゆる中間型の特徴を示していたため、病変部が乳頭腺管癌であることを推測させるものであった。
 また、前記の超音波検査の結果によれば、しこりから細長い索状の黒い像が乳頭に向かって1.9cm伸びているのが認められたが、これは拡張乳管像に該当するものであり、拡張した乳管の壁は不整で、乳管内腔に広基性の腫瘤像を伴っており、悪性に分類されるものであった。
 (イ)以上のような超音波検査の結果は、前記アに記載した病変部が、3)の単なる乳腺症であることと矛盾するものであり、また、2)の乳腺症に小さい硬癌が混在したものである可能性を減殺するものであった。

ウ マンモグラフィー
 (ア)マンモグラフィーでは、右内上に比べて左内上の乳腺に不正な陰影増強が認められ、さらに、左乳房を縦にはさみ、腫瘤部にスポットを当てて撮影したフィルムには、陰影がよりはっきり描出されており、触診よりも小さな腫瘤陰影が認められ、周囲の線維性結合組織に肥厚が認められた。 (イ)東大病院の放射線科医師は、原告のマンモグラフィーのX線写真の読影結果として、「左側面、スポット側面で、乳頭より3cm上方に、1.5cmほどの腫瘤影が疑われるがはっきりしない。境界不明瞭で、等濃度である。正常乳腺もしくは腫瘤(腫瘤だとすると癌)。超音波検査を。」との所見を報告書に記載した。
 (ウ)乳癌のマンモグラフィーの特徴としては、一般に、1)腫瘤陰影像が周囲の乳腺組織や良性腫瘍よりも濃厚、不均一、不整形である上、辺縁が不規則であり、2)X線上の大きさが触診により感知された大きさよりも小さく、3)皮膚変化が肥厚していること等が挙げられるところ、上記(ア)の所見はこのような特徴に合致するものであり、上記(イ)の読影所見は、X線写真に写った腫瘤影が単なる陰影の重なりではなく真に腫瘤であるとすれば、同腫瘤は悪性のものであることを意味するものであった。
 なお、マンモグラフィーの画像は、腫瘤がない場合にも陰影の重なりによって高濃度の陰影が生じることがあるが、腫瘤が発見された場合、マンモグラフィーによる乳癌の偽陽性率(良性であるのに、誤って悪性であると判断する確率。)は、平成4年の乳癌研究会のアンケート結果(乙12の1)によれば、2.67パーセントであった。

エ 第1回細胞診
 小池医師は、前記の初診時に触診下で第1回細胞診を実施し、原告の病変部から採取した細胞を東大病院の病理部の細胞診検査に付したが、同病理部は、後日、小池医師に対して、細胞の採取が十分でなかったために判定において陰性であるクラス1とした上、指示事項として要再検査とした検査報告書を提出した。

(2) 第2回細胞診

 小池医師は、平成7年10月27日の第2回診察の際、原告に対して、細胞診の結果は陰性と出たが、他の諸検査の結果を踏まえて、もう一度細胞診を行いたい旨を告げて、原告に対し、超音波下で第2回の細胞診を実施した。
 小池医師は、超音波下で穿刺して採取した病変部の細胞を第1回細胞診と同様に東大病院病理部の細胞診検査に付したが、同病理部は、後日、細胞の異型度をクラス4と判定した上で、「腺癌(面疱型?)が疑われる、要組織診でお願いします。」とのコメントを付し、指示事項として「要組織診」の箇所に丸を打った検査結果報告書を提出した。

(3) 原告の病変部の診断

 ア 乳癌の組織型は、癌細胞が乳管から間質に浸潤している浸潤癌(invasive carcinoma)と、湿潤(ママ)していない非浸潤癌に大きく分けられ、浸潤癌は、さらに浸潤性乳管癌と特殊型に分けられる。そのうち浸潤性乳管癌は、さらに乳頭腺管癌(papillotubular carcinoma)、充実腺管癌、硬癌の3組織型に分類される。
 また、乳癌は、主たる癌胞巣の形態の違いから、面疱型(comedo type)、乳頭型、乳頭管状型、小充実腺管胞巣等の合計8種類の組織形態に分類することもできるところ(組織亜型分類)、前記組織型が乳頭腺管癌であるものは、組織形態において面疱型、乳頭型、乳頭管状型のいずれかを取ることが多いとされている。
 そして、乳頭腺管癌は、浸潤癌であるために必ず癌が乳管外に浸潤している部分が見受けられ、癌の進展形式としては乳管内進展を主としており、そのうち組織形態において面疱型を取るものは、乳管内に癌細胞が増殖し、管内進展性の癌胞巣の中心部に壊死物質がつまっており、割面の肉眼像でも黄灰色の面疱状小壊死巣を確認することができるとされている。

 イ 乳癌診断のための検査には、視診、触診、マンモグラフィー、超音波検査、生検等がある。生検(生体の組織や臓器から材料を採取し、これを病理組織学的に検索して病気の診断ないし経過予後の判定に資する検査方法)は、さらに細胞診と組織診に大きく分けられ、そのうち細胞診には、分泌物細胞診と穿刺細胞診があり、組織診には、穿刺組織診、外科的生検がある。外科的生検には、切開生検(癌に切り込んで行われる外科的生検のこと。)と摘出生検(癌に切り込まないようにして行われる外科的生検のこと。)とがある。

 ウ 小池医師は、前記(1)及び(2)のような検査結果を総合して、組織診を行うことなく、原告の病変部を乳頭腺管癌等の乳管内進展を特徴とする組織型の乳癌であると診断し、その組織形態については、面疱型であると推定した。

 エ 原告が東大病院の診察を受けた当時、乳癌の検診においては、触診、画像(超音波検査、マンモグラフィー)及び細胞診の三者がともに悪性を示しているならば、その病変は癌であると考えられるのが一般的であり、触診、マンモグラフィー、細胞診を併用した検査を行った場合の誤信率(ママ)は約1パーセントであるとの報告がなされていた。
 また、診断のための具体的な検査手順としては、視触診、マンモグラフィー、超音波検査で癌又は癌の疑いとされた場合には、穿刺細胞診を行い、その結果がクラス4又はクラス5である場合には根治手術を施行するが、クラス4又はクラス5である場合でも、三者のうち一者でも癌と診断するのに矛盾がある検査結果が出されている時には、手術直前に外科的生検を行うという取扱いがされていた。
 なお、乳管内の病変については、病理学上、術中迅速診(根治手術の施行直前に行う外科的生検に基づく病理上の診断。)によってその良悪性を判断することが難しく、術中迅速診の信頼性はそれほど高くないとされていた。

 オ 信州大学第2外科の医師等による乳癌における生検の予後に及ぼす影響についての研究(乙14)によれば、生検として細胞診を行った場合の癌の再発率は23.1パーセント、癌に切り込む切開生検を行った場合の再発率は66.6パーセント、癌に切り込まないように行う摘出生検を行った事例のうち、実際に切り込まなかった場合の再発率は10.5パーセント、同様に摘出生検を行った場合のうち、癌に切り込んだつもりがなくても実際には切り込み、癌が残存した場合の再発率は30.8パーセントとされている。

 カ そして、財団法人癌研究会付属病院外科の医師らによる症例の分析結果(乙16)によれば、術前には癌を取り切れると診断したが癌を取り残した事例は、癌が乳管内に伸びている場合に最も多く、さらに、川崎医科大学内分泌外科の医師らによる症例の検討結果(乙17)によれば、面疱型の組織形態を取る乳頭腺管癌は、乳管内の癌の進展する範囲が遠くにまで及び、乳頭腺管癌9例のうち手術後の断端に癌が露出していた3例は、組織形態がすべて典型的な面疱型であったとされていることに照らすと、乳頭腺管癌のうち面疱型の組織形態を取るものは、特に癌に切り込みやすいということができる。

(3) 診断結果の説明
(項目番号は原文のまま。ここが(4)となり、以下の番号は一つづつずれると思われる。メコン注)

 小池医師は、平成7年11月1日の診察の際、原告に対し、第2回細胞診の結果、悪性とされているクラス4の判定が出ており、これまでの検査結果を総合すると、原告の症状は癌であると診断でき、組織型としては乳管内進展を伴う面疱型の癌であることが推定される旨を告げた。
 小池医師は、原告の病変部が進行状況に照らして早期癌であると判断し、一般的に早期癌に対しては、乳房切除術と乳房温存療法の2つの治療法のいずれも取ることができるとされていることから、原告に対し、上記2つの治療法を取りうることを伝えた上で、乳房切除術を施行した後の外観及び乳房温存療法を施行した後の外観の写真をそれぞれ示し、乳房温存療法を施行した場合には、切断面に定期的に放射線照射を行う必要があること、原告の癌は乳頭部に近い位置にあるため、示した写真ほどきれいに温存されることは望めないこと、癌の取り残しがあった場合等には再発する可能性があり、再発した場合には再手術が必要となること等の説明をし、原告自らが治療法を選択するように伝え、できるだけ早い手術日を確保するために、上記いずれの手術方法を採るかは未定のままで、原告の入院の予約をした。

(4) 原告は、同月8日、夫を伴って小池医師の診察を受け、小池医師は、原告及び原告の夫に対して、再び乳癌という病気の内容や、前記(3)のような2つの治療法の説明をした。原告は、小池医師に対し、幼少時から皮膚が過敏であって、乳房温存療法を選択した場合に受けることとなる放射線照射によって副作用が出ることや、癌の再発が心配である旨を告げ、乳房切除術を選択する旨を伝えた。
 小池医師は、手術方法の選択について原告にまだ迷いがあると感じたため、原告における乳房切除術の効用(ある医療行為の結果として現れる健康状態を、個人的、社会的な好みや価値観に基づいて、主観的、総合的に評価した指標)を明らかにするために、原告に対して、右効用の測定のために「時間得失法」と「基準的賭け法」を実施した。その結果、原告における乳房切除術の効用値は、「時間得失法」によれば0.85、「基準的賭け法」によれば0.99以上と極めて高い値が測定されたので、小池医師は、原告の前記の選択が原告の合理的な判断に基づいてなされたものと判断し、原告の希望に従って乳房切除術を実施することとした。

(5) 原告は、同月24日、東大病院第2外科に入院し、翌25日に2回目の超音波検査を受けたが、右検査によっても、腫瘤陰影とそれに続く乳管拡張像が認められた。また、原告とその夫は、右同日、手術の担当医である菅野隆行医師から、実施する手術の説明として、原告の病変部が左乳癌であり、その部位が乳頭に近く、乳管内進展が疑われ、術後の放射線治療に原告が不安を抱いていることを考慮して、非定型的乳房切除術を実施することとしたこと、術後に出血、リンパ漏、上肢浮腫、知覚障害、運動障害が合併症として起こり得ること等の説明を受け、以上の説明を聞いた上で、手術同意書に署名した。

(6) 原告は、同月27日に本件手術を受け、本件手術においては、原告の病変部が乳管内進展を伴う腺癌と診断されており、術式としては全摘とされていたため、手術中に癌細胞を散らすことを防ぐ目的で癌を露出させることなく切除が行われた。本件手術により切除された標本は、腫瘍として触れる部分の約半分が切り取られて、エストロゲンレセプターを測定するための検査に提出され、その残りが東大病院の病理組織検査に付された。
 原告は、本件手術後順調に回復して、同年12月7日、東大病院を退院し、以後は通院して治療を続けることとなった。

(7) 小池医師は、平成8年1月22日ころ、東大病院病理部において、松谷医師、岡医師、森医師から、上(8)(ママ)の病理組織検査の結果、原告の病理標本については、切除した乳腺の病変部の背景には乳腺症があり、提出された乳腺組織を切片にして作った顕微鏡標本(プレパラート)上は、生きた癌細胞が認められず、上記標本中の乳管内には壊死組織が詰まっており、その周囲にリンパ球の湿潤(ママ)が認められ、壊死性乳管炎の症状を呈している等の説明を受けた。

(8) 原告は、本件手術を受けた後、同月13日、同月20日、同月27日、平成8年1月24日と東大病院に通院して小池医師の診察を受けたが、同日の診察時において、小池医師は、原告に対し、東大病院の病理組織検査の結果によれば、病変部には壊死細胞しか認められず、生きた癌細胞は認められなかったこと、術前に癌と診断した病変部は、乳管内に壊死組織細胞が詰まってしこりを作っている部分に相当すること、そのために原告についての病理部の診断は癌とはされないこと等を説明した。

2 以上において認定した事実によれば、本件手術が実施された当時の乳癌の診断については、臨床上、触診、画像(超音波検査及びマンモグラフィー)、細胞診の三者がいずれも矛盾なく悪性の所見を示す場合には、その病変部を癌と診断して根治手術を行うという診療方針が一般的に採用されており、この考え方は、前記認定の各種の検査方法の精度、信頼性、これまでの臨床実績等に照らして相当であると認められる。これを本件に適用すると、触診において約1.5cmのしこりを触れ、マンモグラフィーにおいては腫瘤があるとすれば癌であることを示す所見が得られ、超音波検査においても、腫瘤影が得られた上に、右腫瘤が悪性であることを示す所見が得られており、さらに、病理学的検査である細胞診が悪性であることを示すクラス4を示しており、クラス4の診断は、壊死細胞だけではなく生きた異型細胞が存在することをも示すものであり、このような本件の諸検査の結果を総合すれば、原告の病変部について悪性のものと診断するのにいずれも矛盾がない所見が得られているものであり、前記の乳癌の診断についての臨床上の診療方針によれば、第2回細胞診の検査結果が出された時点で、既に根治手術を行うことが相当であるとの所見が得られているということができる。
 加えて、乳管内に癌が進展している場合には、前記のとおり、癌を取り残す事例が多いために癌に切り込む確率もまた高いものと考えられ、とりわけ面疱型の癌については癌に切り込む確率が高いとされており、癌に切り込んだ場合にはその再発率が高くなるとされているから、乳管内に進展した面疱型の乳頭腺管癌であると合理的に診断される原告の病変部について、更に外科的生検を行うことは癌の再発の危険性を高めるものであり、以上に加えて、既に根治手術を行うことが相当であるとの所見が得られていること、術中迅速診は、乳管内病変の良悪性についてはそれほど信頼性が高くないとされていることを考え合わせると、外科的生検を行わないこととした小池医師の判断もまた合理的なものということができる。
 さらに、本件手術後の病理組織検査によって生きた癌細胞が発見されなかった点については、病理部での検査は全ての細胞を調査するものではないことや、エストロゲンリセプターの調査のために切り出された組織が存在すること、臨床段階での診断が細胞の壊死を伴う面疱型の癌とされており、切除された組織から発見された壊死細胞が、生前に良性であったか悪性であったかを判定することはできず、これらが癌細胞であった可能性を否定できないことに照らすと、本件手術後の東大病院病理部の病理組織検査の結果から、原告の病変部が癌でなかったと断定することはできない。
 以上によれば、小池医師が触診、画像、細胞診を実施した結果により、外科的生検を行うことなく原告の病変部を臨床段階での確定診断として乳癌とした点に過失はなく、前記認定事実によれば、小池医師は、乳癌と診断した後も自己の診断を前提とした適切な処置を執っているものと認められるから、小池医師が原告の病変部について調査及び解明を怠った事実や、適切な処置を取らなかったとの事実を認めることができない。したがって、原告の前記主張は、採用することができない。

3 なお、近藤誠医師(以下「近藤医師」という。)は、その意見書(甲15)において、本件における東大病院の放射線科医師によるマンモグラフィーの読影所見は癌という診断に達していないものとして読むべきであり、また、細胞診の結果がクラス5でなくクラス4に留まっていることを理由に、それぞれの検査結果が補強しあって、誤切除の可能性がなくなる場合には該当しないと述べるが、前記のとおり、マンモグラフィーが腫瘤がない場合にも陰影の重なりによって高濃度の陰影が生じることがあるものであることを考え合わせると、放射線科医師の前記読影は、その記載内容からして、前提である腫瘤の有無については確定判断ができないが、腫瘤があるとすれば癌であるとして、腫瘤の良性悪性については確定判断をしているものというべきであり、また、細胞診の判定であるクラス4も、細胞の異型度等に差はあるが、クラス5と同様に悪性に分類されるものであるから、触診及び超音波検査を含む本件の検査結果を総合すると、触診、画像、細胞診の三者が一致して悪性を示す事例に該当するものとして、原告の左乳房に腫瘤が存在し、同腫瘤が悪性である旨の診断をすることができるというべきであるから、近藤医師の前記見解は、これを採用することができない。また、このほか、近藤医師の意見書中の前記認定判断に反する部分は、採用することができない。

4 さらに、原告は、小池医師が乳房温存療法について必ずしも正確な情報を提供せず、乳房切除術を勧めたと主張するが、小池医師は、原告に対し乳房切除術によった場合と乳房温存療法によった場合の手術結果の写真を示した上、乳房温存療法を行った場合には、切除した部位に放射線照射を施すことが必要であり、原告の癌の部位が乳頭部に近いために示した写真ほどきれいな形で温存されないかもしれないこと、原告の癌が乳管内に進展しているために再発の可能性もあり、再発した場合には再手術を行うことが必要であること等を説明しているところ、前記認定事実に照らせば、以上のような小池医師の説明は、客観的事実に反するものではなく、むしろ臨床段階での診断を前提として、医師としての所見及び手術方法の選択のために必要な情報を的確に原告に伝えているものであり、自らの所見を伝えた上で、原告の選択が合理的なものであるかどうかを確認するための処置も構(ママ)じているものであって、以上のような事実関係に照らすと、小池医師は、原告に対して治療方法についての自主的な決定又は同意ができるように説明する義務を果たしているものというべきであり、ことさらに乳房切除術を勧め、原告の合理的な判断を防げたとの事実は、これを認めることができない。したがって、原告の前記主張も、採用することができない。

5 以上によれば、原告の請求は理由がないから、これを棄却することとする。
(口頭弁論終結日 平成12年10月3日)
東京地方裁判所民事第23部
裁判長裁判官 柳田幸三
裁判官 中川正充
裁判官 大門香織

II  鑑定意見書(同上裁判所同上部・同上裁判官宛)

 石田智子さんの訴訟に関し、原告代理人から医療事故調査会に鑑定依頼があり、調査会事務局がわたし(近藤誠・メコン注)を指名しましたので、鑑定いたします。
 乳がんを疑った場合に医師がどう対処すべきか、その方法や水準を客観的に示すため、日本の乳がん関係の代表的な医学雑誌である『乳癌の臨床』のなかの「特集」記事を適宜参照いたします。「特集」を選んだのは、そこに登場するのが乳がん診療の指導的地位にある人たちだからです。また、本件が発生した1995年の直近のものである1990年から1994年までの「特集」に限りました。

【参照資料】

鑑定用の資料として原告代理人から送られてきたものは以下の通りです。
・東京大学医学部付属病院外来診療録
・東京大学第二外科教室入院診療録
・原告側の書類
訴訟委任状
訴状
平成10年9月30日付準備書面
平成11年1月18日付準備書面
平成11年3月22日付準備書面
平成11年3月23日付準備書面
平成11年7月27日付準備書面
平成11年3月22日付証拠の申出書
平成11年11月5日付準備書面
・被告側の書類
答弁書
平成10年11月16日付準備書面
平成11年1月25日付準備書面
平成11年2月3日付準備書面
平成11年7月27日付証拠の申出書
平成11年9月28日付準備書面
平成12年2月1日付証人調書訂正の上申書

 これら裁判資料を見ると、どうやら原告や小池道子医師の尋問が行われているようですが、調査会を通じて届けられた資料のなかには調書がありません。そのことから、診療録および準備書面にのみ基づいて鑑定をしてほしいとの意図が推察できますので、そのようにいたします。なお参照文献は末尾に記しました。

【鑑定事項】

 細胞診の結果報告書はグレードWの評価とともに、コメントとして「要組織診」と記載されていたにもかかわらず、組織診をしないで乳房の全摘出手術をし、結果的に乳腺症であった点に、医師の過失があるのではないか。

【鑑定意見】

1.一番簡単に答えると、おっしゃる通りです、医師に過失がありました、となります。
 しかしそれでは、東大病院という権威ある医療機関で何故このようなことが生じたのか、どこに過失があるのか、裁判官を含め当事者はよく理解できないはずです。それゆえ、もっと詳しく見ていくことにします。なお「グレードIV」とあるのは、「classIV(クラスIV)」とするのが正確です。
 ただ詳しく説明する場合、本件では論じなければならないことが多いので、めりはりをつけないと理解を防げる可能性があります。それゆえ論じるべきポイントを整理して、まず設問のかたちで示そうと思います。そしてそれらに対し答えていく形をとることにします。

2.一般論として、がんではないのに乳房切除術を施行してしまうことはあるのか。あるとして、どのくらいあるのか。
 誤って乳房を切除しまうことを、ここでは「誤切除」と呼ぶことにします。誤切除は確実に存在します。しかし普通、当事者である医師たちが口をつぐむので、頻度はわかりません。
 誤切除があることの根拠として、座談会記事をあげておきます(文献1)。そこでは「over surgery(過手術)」という用語が頻繁に登場しますが、誤切除のことです。この座談会の前半では、どうしたら誤切除をなくすことができるかが主要なテーマになっています。そして291頁で国立がんセンターの廣田医師が、「over surgeryはほとんどなくなりました」と語っているのは、彼の施設においても少数ながら誤切除がいまだに発生していると読めます。

3.なぜ誤切除が生じるのか。

 外科医が何らかの理由で、「がん」との確信に至るからです。
 かりに検査の結果、少しでも良性疾患を疑っていれば、どんな外科医も、いきなり乳房切除に踏み切ることはありません。

4.確信をもって手術したのであれば、誤切除の結果になっても許されるのではないか。

 誤切除を確実に避けることができる方法が存在します。前述の座談会でも、それが述べられています。それゆえ誤切除の結果が生じることは許されません。
 癌研究会病院乳腺外科の霞医師はこう語ります。
「このようなこと(誤切除のこと)は決してあってはならないのであるが、もしこのようなことが起こってしまった場合、いくら医療側が熱心で誠実であっても誤診の事実は紛れもないことで弁解のしようがない」(文献2)。
 弁解のしようがないと述べるのは、人や法は不可能を要求しないはずですから、誤切除が防止可能であることを前提にしています。ただ同じ論文で霞医師も述べているように、すべてに組織診を要求するのも行き過ぎですから、誤切除をゼロにすることを前提にして細胞診を活用すべきであるといえます。
 以上を要するに、本件発生当時には、誤切除はあってはならなかったし、もし生じた場合には、医師の不注意ないし過失が存在するはずです。
 あるいは、確信を抱いた理由が客観的な医療水準からみて妥当かどうかが問題である、という言い方もできるでしょう。前述のように、誤切除を確実に防止できる方法が存在している以上、誤切除が生じた場合それだけで、診療行為が客観的に妥当とされる水準に達してなかったと推定できます。

5.本件で、がんが存在していた可能性はないか。

 幾つかの小問をたてて考えてみましょう。
(イ)顕微鏡によっても発見できない大きさのがん病巣が存在した可能性。
 この可能性は否定できません。しかしそういう言い方をすると、すべての成人女性において、顕微鏡によっても発見できない大きさのがん病巣が存在する可能性を否定できない、と言わねばなりません。したがって、この可能性を論じることは無意味です。

(ロ)面疱がんであるので、がん細胞が壊死に陥り、がん細胞が発見できなかった可能性。
 面疱がんと診断するためには、がん細胞が発見されなければなりません。これまで面疱がんと診断されてきたものは、壊死部分の周囲に少しでもがん細胞を発見できたからこそ、そう診断されたわけです。
 面疱がんは、がん細胞の増殖と壊死とを繰り返しますが、すべてが壊死に陥らないからこそ、全体的にみるとがん病巣が増大していきます。面疱がんだがすべてが壊死に陥ったと主張するのであれば、それは無理を含みますし、また証明不能な命題を主張していることにもなります。また仮に、がん細胞が以前存在していたと出発しても、すべてが壊死に陥っているのであれば、がんとしての危険性が存在しないわけで、良性のものを手術した結果に変わりないわけです。

(ハ)がん細胞が存在する部分はエストロゲン受容体の検査のため切り出して提出してしまったので、病理検査できなかった可能性。
 エストロゲン受容体の検査のために組織を切り出すときは、がんの部分をそっくり切り出してしまわないよう、医師は細心の注意を払います。理論的にいっても、エストロゲン受容体に関する情報より、がんか否かの診断のほうが重要です。それゆえ、がんが一番疑われる部分を病理検査のため残しておくのが普通です。
 したがって一般に医師は、病理検査に残した部分と性状が同一であるか、がんの可能性が少し劣る部分を切り出してエストロゲン受容体の検査に提出すると考えられます。それなのに病理検査を施行した部分にがん細胞を発見することができなかったとすれば、かりにエストロゲン受容体検査に提出された部分を病理検査しても、がん細胞は発見できなかったはずです。

(二)本件に当てはめるとどうなるか。
 上述の一般論の当てはめは容易でしょう。付言しておくと、本件では切除した乳腺組織を病理医が詳細に検索しており、もし真実がんが存在していた場合に見落とすとは思えません。
 ただ本件で特に触れておかねばならないのは、切除された乳房を病理に提出する前に調べた担当医たちの反応です。
 前述したように担当医たちは、「がん」との確信をいだいたからこそ、乳房切除に踏み切ったのでした。ところが手術時の「病理組織検査申込書(控)」では、「Caでしょうか」というコメントになっています。このことから、切除した組織を目で見て触ってみて、がんとの診断に疑念が生じたことが推察できます。
 もう少し詳しく言うと、超音波検査では「がん」と診断したのは、直径8ミリほどの陰影を認めたことが大きな理由で、担当医たちはその陰影部分が「がん」の本体と考えたはずです。がんであれば、陰影部分を肉眼でみると普通「腫瘍塊」とでもいうべき性状を呈します。ところが手術で切除した乳房に割を入れてみると、腫瘍塊らしきものはなく、かわりに壊死物質がつまっていました。「病理組織検査用箋」には、「green〜yellowish brown necrosis+」とありますが、訳すと「緑色もしくは黄色がかった茶色の壊死物質がある」です。このときおそらく担当医たちは当惑したはずです。その記載に続けて「?」とあるのは、腫瘍塊ではなく壊死物質が現れて面食らったことの証拠でしょう。
「病理組織検査用箋」には、「cystic(シスト状、もしくは嚢胞状と訳す)」との記載もあります。壊死物質を除いたあとの形状が中空のシスト状になっていたわけです。通常シストには液体がつまっているので、超音波検査でわかりやすいのですが、この場合にはどろりとした物質がつまっていたので、超音波検査ではシストと診断できなかったのだと思います。
 乳房に割を入れた際に、小池医師を含め担当医たちには、上述の理由から当惑ないし疑念が生じたはずです。それゆえエストロゲン受容体の検査のために組織を切り出すとき、がんらしい組織の全てをエストロゲン受容体の検査に提出してしまわないよう、普段より一層の注意を払ったことと思います。

6.細胞診の報告書には「要組織診」とのコメントがあるが、それを見落としていたのか。

 入院診療録のなかの「現病歴」の欄と「術前要約」の欄とに、「FNA: adenocarcinoma (comedo type)s/o」とあります。訳すと、「吸引細胞診:腺がん(面疱がんタイプ)疑い」で、これは外来診療録中にある、細胞診報告書(1995年11月1日付)のコメント欄の記載と(後者には「?」がついている点を除き)同じです。よって、小池医師を含めた担当医たちは報告書を読んおり(ママ)、細胞診診断医が組織診を要求しているのを知っていたことになります。

7.なぜ「要組織診」とのコメントを無視したのか。

 上記「術前要約」の頁には、「MMG、USにてCaのDx」とあります。訳すと、「マンモグラフィ(乳房エックス線撮影)、超音波検査にて、がんの診断」です。この断定的な記載から、マンモグラフィと超音波検査で「がん」と診断したと推察できます。
 なお、初診時の外来診療録には、皮膚に「dimpling(+)(えくぼ症状プラス)」があるとの記載があります。しかし、1)その記載に続けて「ただしABC(吸引細胞診)後にて決め手にはならない」との記載者自身が意義を打ち消していること、2)入院診療録には「dimpling」の記載が見あたらないことから、担当医たちは「がん」とする診断する根拠には用いなかったと判断できます。

8.本件では、マンモグラフィと超音波検査によって「がん」と診断することは妥当か。

(イ)結論を先にいえば、「がん」の診断は一応可能ですが、確実な診断ではありません。

 まずマンモグラフィについてみると、偽陽性(良性なのに「がん」と診断すること)の率は2%以上あります(平成10年11月16日付被告側準備書面)。つまりマンモグラフィの所見を信じて乳房切除に踏み切ると、誤切除の率が2%以上にもなりますから、マンモグラフィだけで「がん」と決めてつけて手術するわけにはいきません。
 これを本件についてみると、1995年10月23日付のマンモグラフィ報告書にある読影所見は、「1.5センチほどの腫瘤影が疑われるが、はっきりしない。境界不明瞭で等濃度である。正常乳腺 or r/o tumor(tumorだとするとCa)」とあります。訳すと、「正常乳腺。もしくは腫瘍を除外せよ(腫瘍だとすると、がん)」となります。つまり、正常乳腺が一番考えられる、しかし腫瘍の場合もありうるから、腫瘍でないことを確かめよ、という意味です。そして続けて「USを(超音波検査を)」とあり、超音波検査にげたを預けてしまっています。
 つまり本件ではマンモグラフィは、「がん」という診断にも達していなかったわけで、偽陽性率を論じる前提に欠けます。

(ロ)次に超音波検査についてみると、やはり、「がん」と診断されても実際には良性であることが少なくありません。前述の被告側準備書面によれば、偽陽性率は11%以上あります。したがって、超音波検査で「がん」と診断されても、「がんの可能性が高い」という程度のことになります。
 これを本件についてみると、1995年10月23日に行われた超音波検査で、「乳ca(invasive)(訳は、乳がん(浸潤型))と断定しています。しかし上述のところから、「乳がんの可能性が高い」という程度にとらえるべきです。

(ハ)マンモグラフィの報告書には、「腫瘍だとすると、がん」との文言がありました。超音波診断で腫瘍との診断に達したら、その文言が働きだして、マンモグラフィで「がん」と診断できることになるのか、という疑問があるかもしれません。
 この点、超音波検査で、腫瘍の典型である「がん」と診断した場合でも、実際には腫瘍ではなく、乳腺症のことが少なくありません(文献3、表3)。そのように誤りの可能性をはらむ超音波検査結果にもとづいて「腫瘍」と断定することは許されません。したがって、マンモグラフィの所見を補強することもない、と考えるべきです。その文言は、組織診などで腫瘍ということが確実になれば、腫瘍のうちの一つである乳がんであろう、と読むべきです。

9.細胞診で「クラスIV」の診断を得たことで、マンモグラフィや超音波検査の所見が補強され、「がん」との診断が確実になるのではないか。

 専門家たちがどのように考えているか、いくつか文章を引用してみましょう。
「症例によっては各画像診断とも間違いなく癌の診断で、穿刺吸引細胞診でも良性であることが看破されなければ根治手術になってしまう」(前出、霞医師。文献2)。
 これは、マンモグラフィや超音波検査などの画像診断のそれぞれが「間違いなくがん」と診断しても、実際には間違っていることがあるので、細胞診で疑いを抱かないと、誤切除をしてしまう可能性がある、と語っているわけです。
「乳癌の穿刺吸引細胞診の偽陽性率は、0〜5%前後にある。不用意な細胞診の信頼は、不必要な乳房切断術を招くことより、他の診断法に少しでも疑問があるときは、組織診断を含めた慎重な対応が必要とされる」(聖マリアンナ医大外科、渡辺医師。文献4)。
 この場合の偽陽性率の計算には、クラスVとクラスIVとを含んでいると思います。クラスVよりクラスIVのほうが偽陽性率は高くなります。
「今まで幸いなことにABC(細胞診のこと)でClassVと出ても、ほかの診断法でどうもおかしいという結果でbiopsy(生検)に回ってことなきを得たという症例が何例かあります」(聖マリアンナ医大外科、福田医師。文献1、287頁)。
 この文章から、クラスXであり、かつ他の画像検査が一致して「がん」とするのであれば、誤切除にはならないらしいことがわかります。
 以上を要するに、各画像検査が一致して「がん」との診断であり、かつ細胞診が「クラスV」であれば、それぞれが補強しあって「がん」の確実性を高め、誤切除は生じないと考えてよいのでしょう。しかし、画像診断の一つ、もしくは細胞診に少しでも疑いがあれば、誤切除が生じることがあるようです。
 これを本件についてみると、マンモグラフィは「がん」との診断に達していません。また細胞診はクラスVではなく「クラスIV」でした。したがって、それぞれが補強しあって誤切除の可能性がなくなる場合には当たりません。

10.重ねて問うが、担当医は何故、細胞診断医の「要組織診」という意見を無視したのか。

 前述したように、「がん」であることが確実だと思っていたからです。しかしそれでは、質問に答えたことにはならないでしょう。内心の問題なので断定することは困難ですが、もう少し立ち入って考えてみます。
(イ)一般論を述べると、誤切除を防ぐうえで大事なことに、検査の多くを一人の医師がやってはいけない、というものがあります。乳がんの診断のためには、乳房の理学的検査(視診、触診)、マンモグラフィ、超音波検査、細胞診、組織診、という5つの方法が基本になりますが、そのうち複数を一人の医師が行う場合に、誤診とそれに引き続く誤切除が生じやすくなるのだと思います。ある検査をしたことにより先入観を得てしまい、別の検査にたずさわったときに客観的な判断が防げられやすくなってしまうからです。
 本件では、初診医である小池医師が、「がんらしい」という紹介状を読み、理学的検査を行い、超音波検査と細胞の採取をしています。そして超音波検査で「がん」と診断していますから、相当の先入観が形成されたのではないでしょうか。しかし細胞診の結果は「クラスII」でした。
 そこで小池医師が再び細胞診を施行したところ、今度は「クラスIV」との結果を得ました。前回がん細胞が認められなかったのは超音波検査結果とあわないと考えていた小池医師は、クラスIVという事実を、(クラスVではないため「がん」という診断に若干でも疑念を生じさせるファクターとしてではなく)すでに達していた「がん」の診断を補強するファクターと捉えてしまったのではないか。「ほらやっぱり、細胞診でもがんだ」と思ってしまい、「要組織診」というコメントを無視してしまったのではないか、と推理します。

(ロ)別の可能性としては、これまで似たようなケースがあったけれども、切除結果はすべて「がん」であり、誤切除は一件もなかったので、少し楽観していたという可能性も挙げられます。

(ハ)誤切除を防ぐうえでは、上述したところと関係しますが、各検査を総合判断する作業を一人で、あるいは一つの診療科の内部だけで行ってはならない、ということが大切です。複数の医師たち、それも複数の診療科にまたがる医師たちが議論し、相互にチェックする体制がないと、特定の意見にとらわれやすくなり、ひいて誤切除につながるのだと思います。
 本件では複数の外科医が関与していましたから、その間で議論はあったことでしょう。しかし結果からみて、議論の実質は不十分でした。仮定の話になりますが、もし議論の場に細胞診断医や病理医が加わっていれば、乳房切除の前に組織診をしてみようという結論になったことと思います。
 また超音波検査を担当医が行なわないで、別の診療科の医師が検査し診断していれば、「要組織診」の結果を得たときに、担当医は素直にその指示に従ったのではないかと思います。

11.組織診は具体的にどう実行すればよかったか。

 複数の方法がありえます。一つは、外来手術室で生検する方法です。メスを入れて病変部から採取した組織を病理に提出し、いわゆる「永久標本」を作成し、それを病理医がみて診断します。病理医が乳がんと判断すれば、入院させて目指す手術を行うことになります。
 二つ目には、入院させて手術室で手術を開始し、メスを入れて病変部の一部を採取し、「凍結迅速標本」を作成する方法があります。それを病理医が診断して、乳がんと判断すれば、手術を再開し、目指す手術をすることになります。

12.病変部にメスを入れると、がんが飛び散る可能性はないのか。

 その可能性が絶対ないとはいえません。ただその可能性を強調して、乳房切除前に組織診を一切しないとすれば、誤切除が増えることになります。それゆえ、がんであった場合に飛び散る可能性は、必要な組織診を拒む理由になりません。
 乳がんを専門とする医師たちも一般に、乳がんかどうか疑いが残るケースでは乳房切除に踏み切る前に、永久標本もしくは迅速標本を作って組織診をするようにしています。文献1を読むと、座談会に出席した全員の施設において、問題がある場合には手術前に組織診を得るようにしていることがわかります。つまり彼らは、がんが飛ぶ可能性を認めていたとしても、組織診をして「がん」と確認する必要性が優先すると考えているわけです。

13.他に誤切除を防ぐ方法はなかったか。

 乳房切除術にかえて乳房温存療法を行えば、誤切除の可能性を確実に排除できます。文献1を読むと、温存のための手術の場合にも迅速診断を活用していることがわかります。

【文献】

1. 座談会「乳癌の外科病理の実際」:乳癌の臨床6巻、283〜300頁、1991年
2. 悪性類似良性疾患:序文:乳癌の臨床8巻、1〜2頁、1993年
3. 悪性類似良性疾患:超音波:乳癌の臨床8巻、19〜28頁、1993年
4. 針生検:序文:乳癌の臨床5巻、1〜2頁、1990年
以上です。

2000年7月3日

慶應義塾大学医学部放射線科講師
医療事故調査会世話人
近藤 誠

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