医療消費者ネットワーク MECON

患者・被害者から学ぶ

母の肝臓がんと11年間つき合って

高橋知加子(東京都)

〔I〕母の肝臓がんと11年間つき合って

『メコン・ニュース』No.45より

青天の霹靂−母から「がん」の知らせ

 私の母は去年(2003年)の7月に、76歳で亡くなりました。最初に「がん」とわかったのは65歳のときで、B型肝炎ウイルスによる肝臓がんでした。

 私も母も仕事を持っていて、それぞれ忙しく、年に1〜2回しか会う機会がなかったのですが、11年前の2月、母から突然「肝臓がんの疑いで、もう2か月検査入院している」という電話を受け、「ああ、そう」と軽く言ったのが始まりでした。軽く言ったものの、私にとってはほんとうに青天の霹靂でした。
 当時は、母の病気とのつき合いがこんなに長くなるとは思っていなかったのですが、とにかく入院の記録だけは書いておこうと書き始めた記録がノート2冊分になり、去年で終了したわけです。

 母は11年の間がん患者であったことは確かですが、がんが見つかった後も仕事は1年間続け、去年までは、夏にはいつも北海道旅行に1週間ぐらい出かけるなど、おおむね元気な毎日を送ってきました。

「あと半年の命」との診断で、外科から内科へ

 1回目の入院では内科に入ったのですが、その頃はまだ「肝臓がんは切除が第一」という時代だったので、外科に回されました。ところが外科で検査を受けたら、「がんが全体に広がっていて、末期なので手術が不可能」と言われ、また内科に戻されました。

 その時、家族(父と私)がこっそり呼ばれて言われました。「あと半年でだめでしょう」と。私が呆然としていたものですから、医者は「長くて5年」と言葉をつないでくれました。でも、それは慰めに過ぎず、私は「あと半年だ、半年だ、どうしよう」という思いでいっぱいでした。

 本人にはがんと知らせなかったので、担当医が血管腫という病名を使って、「血をちょっと持っているから治療しましょうね」と言うと、本人は疑いもせず治療を受けるという状況でした。

 ちなみに、母が内科から外科へ移ると、そこはがん病室で、この人は肺がんだな、あの人は食道がんだなとすぐ分かり、病名は知らされていないけど、切られてうめいている人だらけで、ほんとうに大変なところだと思いました。

 結局、母は内科に2か月入院し、2回の「塞栓術と抗がん剤治療」をしてから帰されました。B型肝炎ウイルスによるがんの治療は当時、第一に切除(手術)で、その次が塞栓療法でした。
 肝臓には門脈ともう一つ血管があって、門脈のほうを塞ぐとがん細胞に栄養が行かなくなりがん細胞が死ぬというので、母はその塞栓術と一緒に抗がん剤を流すという治療を受けたのです。

後で気づいたこと−内科へ戻されて「いのち拾い」

 (入院した病院は)三鷹の杏林大学病院です。
 もともと母は、55のときに職場の検診で引っかかって、GOT・GPTの数値が高いから検査を続けたほうがいいと言われたようです。それで年に1回検診を受けていて、「ちょっと危ないものがあるので、大病院を紹介しましょう」と言われたときに、杏林をお願いしたのです。特に杏林がいいとか、肝臓がんの治療のためとかは関係なしに、家の近くの大きい病院というとたまたま日赤か杏林かのどちらかで、「杏林のほうがいいかな」といった感じで行っただけです。

 最初は、普通の人と同じように、本当に特別な意識もなく杏林へ行った形でした。だから、当時もし手術を勧められていたら、手術を受けていたかもしれない。そしたら、母はどうなったか。後で考えると、「手術が不可能」と言われて内科に戻されたことが命拾いにつながったと思うので、まずその点がラッキーだったと思います。

入院記録と保険書類で治療の内容を把握!

 その当時は、何の薬を使ったかを聞く雰囲気はないし、実際、聞けませんでした。
 たまたまアメリカンファミリーの保険に入っていて、そこに出す書類の作成をお願いしたところ、先生はすごく詳しく書いてくれました。アメリカンファミリーは詳しく書かないと保険金が出ないからです。何の薬を何グラム使ったかというのがそのとき初めてわかりました。

 私の書いていた入院記録とアメリカンファミリーに提出した書類から、今回のトークの参考資料を作りましたが、その表にあるように、65歳の最初の入院では、マーカー値が600で、抗がん剤はファルモルビシン60mgが使われ、あとはスポンゼル塞栓という塞栓療法で、リピオドールという造影剤を入れたとのことです。

 日本の生命保険に出す書類とは違って、そこに出す書類は非常に詳しいことがわかっていいなと思い、母が退院したすぐ後に自分もアメリカンファミリーに入りました。
 ここに出す書類を見れば、何を何グラム使ってどういう結果かとか、第何期かといったことが詳しくわかるので、自分がどういう治療を受けたかの証拠になるかなと思ったわけです。

退院後、本人にがん告知をすることに!

 2月8日から丸2か月の入院を経て、ちょうど11年前の今頃の5月の連休に、母は退院しました。
 本人にはまだ病名を知らせていませんでした。このまま本人に病名を知らせないと、命の限界とされた半年後に、私は何とも言えない気持ちになると思って、知らせることに決めました。

 本人に病名を知らせるからには、共にやれることを提案しないとお互いに耐えられないと思い、とにかく連休までの間にいろんな本を読みました。本屋に行って、手当たり次第「がん」と書いてある本を買ってきて、読んだわけです。
 ずいぶん読みましたが、一番参考になったのが、帯津良一医師と近藤誠医師の本でした。

 川越で医院を開いている帯津医師の『がんを治す大事典』(二見書房)という分厚い本は、民間療法を考える上で非常に参考になりました。最近たまたま私の周辺で2人もがんになったのでその本をあげてしまい、今日持ってこられなかったのが残念です。

 その後、治療を受ける上で参考になったのが、後でも述べるように、近藤医師のがんの治療方針に関する本です。母のがんが判明してから2年後に刊行された『ぼくがうけたいがん治療』(さいろ社/95年)、『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋/96年)などが大変役に立ちました。

がん告知と同時に、民間療法を勧める

 帯津医師の本で目にとまったのは「がん細胞は43℃になると、元の細胞に戻る」という箇所でした。アメリカで「温熱療法」が一時盛んになり、血液の中に熱くなる薬を入れ、体中を43度以上にして、1時間、2時間と置いておくとのこと。ただ、それは非常にリスキーで、元気な人でないと全身がやられてしまうので、60歳以上の人には無理だし、日本ではやっていない、とも書いてありました。でも、理屈としては「それがいいかな」と思ったんですね。

 『がんを治す大事典』の中には、気功だとか、ビタミンCだとか、アガリクスだとか、丸山ワクチンだとか、いろいろな民間療法が載っています。その中で「びわの葉療法」は江戸時代からあるし、「がん細胞は43度になると元の細胞に戻る」という理屈にも合っているので、「それが一番いいかな」と思いました。

 こうして、母に「がん」と告げ、「びわの葉療法をやったほうがいいと思う」と強く勧めました。母は、2、3日は呆然としていましたが、3日後ぐらいに俄然元気になって、「このままではいられない、やれることは何でもやろう」という思いになったようです。もともと明るい人ですが、自分でもびわの葉療法をやったり、友達にいろいろ聞いて、クマザサとか、ビタミンCとか、できるものはやってみようという前向きな態度に変わっていきました。

 帯津医師の本にもう一つ、「やはり水が大事だ」と書いてあって、「6か月経てば脳細胞以外の細胞は全部入れ替わるから、半年あれば水で元のきれいな細胞に戻るはずだ」と。これも正しそうな気がすると思って、体にいい水で毎日とにかく老廃物を流し出していくのが一番いいと考え、すぐに始めました。

 それで水道水をやめ、水、しかも生水がいいのではないかと考えました。たとえば煮沸した水に金魚を入れれば死ぬけど、水道水を日向に半日置いて塩素を飛ばしてやれば魚も生き続ける。だからやはり煮沸しない生の水がいい、と。柳原和子さんの『がん患者学』の中にも、人間も動物だから、とにかく生の水のほうがミネラルも何もかもあるからいいんだと書いてありました。
 水道水も、しばらく置いておくと有害物がなくなるという意味ではいいかもしれない。うちの母の場合は、市販されているいろんな水を買っていました。富士山の水だとか決めないで、ペットボトルのミネラル水各種、ほかにフランスのエビアンの水とか、いろんな水を飲みました。薬を飲むときにも、味噌汁にもその水しか使わないようにしていました。

1年後に「がん」が消えていた!?

 退院後、1か月に1回は検査のために通院していました。
 肝臓がんの場合、マーカー値が指標になっているので、外来で2か月に1回ぐらい血液検査をして、そのマーカー値が上がってくると治療方針が提示される、という流れでずっと来ました。

 「半年の命」と言われましたが、無事に1年が過ぎました。そして、丸1年経った94年3月に再入院しました。ちょっと何かありそうだからと、前年の秋から入院を勧められていたのですが、ずっと断りに断って、12月に「入院してください」と言われたときにも、私が断ったというか、私が母に「断ったほうがいいんじゃないかな、びわの葉療法のほうがいいと思うけど」と言ったら、本人も「じゃあ、入院を断っちゃおう」と応じて、断って、断って、とうとう断りきれなくて、ほぼ1年目に検査のために入院したわけです。

 肝臓は完全な全身麻酔ではなくて、部分麻酔をして検査や治療をしますが、このときは塞栓術は行わず、門脈から造影剤と一緒に抗がん剤を流したんですね。
 このとき検査に立ち会った一番偉い先生が、がんの広がり具合を確認しようとしながら、「おかしいな、がんがあるはずなのにない」と言って、がんを探している様子でした。

 家族は検査後にはいつも、写真を見せられて、「黒くなっているこのポツポツは前に塞栓療法を行って固まっているところで、この白くなっているところは今度新しくできたがんで…」というふうに説明を受けていました。ですから、このときは、1年前には白く見えていた部分が消えていたわけです。10年以上前のことなのであまり詳しく覚えていないんですが、レントゲン写真を見せられて喜んだことは確かです。

 これを知って、母は「1年間いろんな民間療法をやったからだ」とうれしく思ったのか、自分でも自信を持って、今後もこの方法で行こうということになりました。

がんは消えても、予防的に抗がん剤を使う?

 このように、肝臓に造影剤を流して検査したら「がん」が見当たらなかったわけです。しかし、検査が終わってから、抗がん剤(マイトマイシン)も入れたということがわかりました。

 私はおかしいと思って、若い女の先生に「何もなくてよかったですね」と言われたときに、「どうして抗がん剤を使ったんですか」と抗議したんです。そうしたら、「1年後でもがんがあるのはわかっているから、本人の体に負担がないように、造影剤と一緒に抗がん剤を流したんですよ」と。多分すごい剣幕で抗議したので、1週間後にほかの先生が「いや、がんはありました」と言いに来たりもしました。「それは変だな」と思ったのですが、とにかく「抗がん剤は同意なく使わないでほしい、体にやさしい療法にしてほしい」と言いました。

 その後、主治医3人対患者側3人で話し合いを持ったときには、私のノートによれば、「がん病変はない、心配された上の方も特に変化は見られない。薬は予定量の3分の2しか使わなかった。抗がん剤は造影剤と一緒に流した」との説明がありました。要するに、抗がん剤は予防的に使ったということのようです。
 10年前は、本人には病名すら言わない時代です。うちはたまたま私が本人に病名を告げましたけど。だから、こんなこともあったわけです。

 このときも消化器内科の6人部屋に入院したので、見ていると、同じ薬を使っている人がいて、みんな肝臓がんなんです。同じ薬を点滴しているときに、一人が「私はがんなのよ」と言うと、ほかの患者にわかってしまうから、「がんの病名を知っているのはおたくだけなので、一切言わないでほしい」と釘を刺されて入院したんです。次の入院からは2人部屋に移されてしまった。私が「あの薬はよくない」とか、いろんなことを母に向かって言うものだから、何かまずいと思ったらしくて。
 とにかく入院している人は誰も自分の病名を知らない時代だった。だから、家族同士はみんな、こっそりと話し合っていたんですね。

 杏林の場合、この時代、入院は必ず1か月ぐらいの単位でした。でも、1か月も入院しているとびわの葉療法ができないし、毎日やらないとがんが広がるかもしれないという恐怖があるので、私のほうもあせって、とにかく「1か月も入院していられないから出してください」と言いました。2人で夫(父)が「高血圧で具合が悪い」とか何だかんだ言って、結局2週間で退院しました。

望まぬ「抗がん剤治療」は続いた

 11年間を通して全部で15回、いつも検査入院という形で入院しました。担当医は毎回のように、抗がん剤治療を勧めました。その度に近藤先生のがんの治療方針の本を読んで、「やはり肝臓がんは固形がんだから、抗がん剤は効かない」と思い、「抗がん剤は使わないでほしい」と言いましたが、入院すれば治療を受けなければならず、毎回のように抗がん剤治療は続きました。
 近藤先生の本に、「エタノールだったらやってもいいのではないか、自分ならエタノールはやります」と書いてあったので、エタノール療法についてお医者さんに聞いてみようかなと思って、実際に聞いたりしました。

 杏林大学病院は大学病院ですから、1年経つと若い医者がどんどん変わっていきます。大体30前後のお医者さんが3人ぐらい(一番下は研修医)つきますが、1年経てばいなくなるので、カルテに赤字で「この患者の家族はうるさい!」とでも書いてもらわない限り、また同じことを繰り返し言わなければならないんですね。だから、家族はうるさいほうがいいのかなと思いました。本人はやはりドキドキしていて、悪い印象をもたれたくないと思って言えないので、私が悪者になって言うしかないと思いました。

昔から伝わる「びわの葉療法」とは?

 (「びわの葉療法と温熱療法とはどういう関係か?」という質問がありましたが)「びわの葉療法」は「温熱療法」の中の1つです。

 どうするかというと、びわの葉の比較的古い黒ずんだ葉を裏返しにして肝臓のあたりに敷いて、その上から太いお灸の棒(もぐさ)を患部に当てます。じっと当てていると、とても熱くなる。私も自分で1回やったことがありますが、43度どころか耐えられないぐらい熱くなります。ただ、熱くなればパッとお灸の棒を移動させるので、やけど跡にはならない。
 基本的にはお灸と同じだと思いますが、びわの葉療法は、びわの葉の「アミグダリン」という成分(青酸の毒)が熱によって化学反応していい効果をもたらすようです。これは江戸時代から血圧やいろんなことに効くということで、広く流布している療法です。ただ、がんに使われるようになったのはおそらく最近だと思います。

 母は毎日びわの葉療法を自分でやっていました。背中は届かないので父が手伝いました。
 入院していたときもやりたかったのですが、匂いがあって病院ではダメだということで、仕方なく代わりにこんにゃくを持って行って、レンジで温めてタオルに包んでお腹に乗せたりしました。こんにゃくで患部を温めるという温熱の方法は、帯津先生の本の巻末に紹介されていた『びわの葉療法』という本に書かれていたものです。

 びわの葉は、ちょうど今頃の時期に伐採するので公園で取ったり、この大事典にはもぐさとびわの葉を送ってくれる所が書いてあるので、そこに注文したりします。
 東京の人は自宅にびわの木を植えるのをすごく嫌いますよね。水を呼ぶとか、病人が出るとか言って。ただ、これは江戸時代の漢方医が情報を独占するため、江戸幕府に各家庭には植えさせないようにお触れを出させたのだという説もあるようです。だから、びわの葉療法が昔からある療法であることは確かでしょう。

 肝臓はかなり大きな臓器で、しかもその一部は肋骨と横隔膜に隠れています。その隠れた部分には熱が行かないんですね。それが致命傷でした。レントゲン写真で見ると、ほかの部分はいつもきれいだったのですが、横隔膜に隠れた部分についてだけは、「(がんの影が)ポツポツと広がっていますね」とずっと言われていました。最後はそれが……。

エタノール療法を受けたかったが…

 母は塞栓術と抗がん剤治療を受けていて、「エタノール療法」は受けていませんでしたが、近藤先生の本で、私は関心を持っていました。

 がんの影が消えたのに抗がん剤治療をされた94年の一件のときに、すごく腹を立てて、「エタノール療法というのがあると聞いたんですけど、それにしてもらえないでしょうか」と強く言ったんです。
 すると、3人の医者がいろいろ答えた後で、もう一人の女の先生が「エタノールはファーストチョイスだと私も思います」と最後にポツッと言われて、「でもここの病院ではそれが選択になっていないんです」と付け加えたので、「ああ、そうか、治療法はこの先生たちが決めるんじゃないんだ」とわかったんです。だから、私は「(その上の)主治医に会わせてほしい、家族はエタノールを希望しています」と言いましたが、結局、その主治医は出てきてくれませんでした。

 ただそのとき、家族が言い続けると、実はこうなんですよと本音でチラッチラッと言ってくれる先生もいるんだ、ということがわかりました。だから、やはり言い続けなければいけないかなと思いました。
 また、「杏林はようやくエタノール療法を取り入れようと思って、今習いに行っています。ただ、技術的レベルがよくならなければ、効果が望めませんから、そういう問題もあるんです」という医者もいて、そうかと思ったりしました。

時代はエタノール療法からラジオ波療法へ

 純度99%のアルコールを患部に注入すると、正常な細胞は被害を受けないけど、がん細胞は壊死してしまうそうです。「エタノール療法」は、母のがんが見つかった93年頃にはあまり知られていなかったのですが、すごく成果があるというので、東大では小俣医師が中心になって、肝臓がんの主な治療法としていました。
 小俣さんといっても私は本でしか知らない先生ですが、小俣さんのところで技術指導をいろいろやっているそうです。ただ、杏林の医師も、技術指導を受けただけでは、頭ではわかっても実際にはできない、ということのようです。

 その後、「マイクロ波療法」、「ラジオ波療法」が開発されて、今は、エタノールからラジオ波にだんだん移りつつあります。
 私が素人ながら考えるには、ラジオ波療法も、「温熱療法」と同様に、患部に熱を加えて細胞を壊死させるという点では、同種のものではないかなと思います。

 ただ、エタノール療法は保険が利くので、今もまだやっていると思います。ラジオ波療法は厚労省が保険適用を認めなかったんですが、この4月から保険が使えるようになったそうです。杏林でも、母が最期の頃「ラジオ波療法は?」と外来の主治医に聞きましたが、「設備が高いのでまだ導入されていない」と言われたと言っていました。が、今さら別の病院には移れないし…。肝臓がんは10年、15年と長いですから。

 あと、慶応では、氷を入れて、冷凍にしてがん細胞を殺すという療法をやっています。わりと原始的なのですが、それも効き目があるらしくて。
 だから、がん細胞というのは、高い熱・低い熱に弱いんじゃないかと思います。通常細胞もそうかもしれませんが。

患者の立場でどんな治療法がいいかを考える

 私も「患者の立場で」肝臓がんの治療法について勉強したいと思って、神田の三省堂本店へ行き、医学書がそろっている上階で、学会の報告集とか肝臓がんの本をときどき買いました。7千円とか1万円とかして結構高いですが。

 エタノール療法についてとても参考になる本は何冊か出ていますが、今日は1冊だけ、小俣先生が95年に出した本『肝癌を読む』(南江堂)を持ってきました。
 小俣先生は症例をたくさん載せて、「エタノール療法は通常2〜3センチまでと言われているが、8〜10センチでもやります」、「エタノールでたくさんの人が治っている、僕のところにはアメリカ人もわざわざ来ている」と述べています。また、「肝臓がんというと、外科医はすぐ切ると言うが、切った後を見てみなさい、必ず再発しているではないか」とか、「B型、C型肝炎は絶対に再発するのに、手術は成功しました、患者は死にましたでいいのか」とも言って、外科とすごいけんかをして、外科を痛烈に批判しています。

 小俣先生は確か『肝癌の治療』という本でも、「外科医は間違っている、肝臓がんを切るのはおかしい、東大では92年より手術例はない」と言い切っているわけです。これを読んで、私もやはり近藤先生が言うように、「手術は最後の手段」と考えて正しかったのだと思いました。

なんとかエタノール療法へたどり着く

 先ほど話しましたが、94年の3月に入院したときに「エタノールはファーストチョイスだと思うが、この病院ではやっていない」と言われたように、杏林大学病院では、94年にはまだエタノール療法は行われていませんでした。
 95年に出版された小俣先生の本の中で、杏林の森先生という人が「エタノール療法の問題は何か」といった質問をしています。だから、その頃には、杏林もエタノールがいいと聞いて、どうやればいいのか、その人が主任になって会得しようとしていたのだと思います。うちの母はその先生に当たっていませんが。

 小俣先生の本を読んでますます、やはりエタノールでいこうと思って、95年ぐらいから、家族としてはエタノール、エタノールとくり返し言いました。その結果、エタノールの1回目は95年8月にやってもらいました。
 抗がん剤がまだ杏林の方針だという時代に、患者側が「エタノールでお願いします」と言い続け、病院側も「まず抗がん剤をやりたい、その後にエタノールをやりましょう」と応じたわけです。
 95年は「マーカー値が上がった(154)」と脅され、入院が4回もあったときで、実際に、母は1月にはMMCとアドリアシン、7月にはMMCとピノルビンの抗がん剤治療を受けています。

 エタノール療法はかなりの痛みを伴います。針を刺したときの部位によりますが、痛いときはすごく痛みます。痛みがあると熱が出て、食べられません。ですから4回やる予定を3回でやめたことがありました。
 でも、エタノールのほうが安全で、痛いのはそのときだけです。抗がん剤のマイトマイシンなんかを入れたときは、そんな程度では済まなくて、丸一日は吐き続けて、起き上がれないし、食べられないし、やせますね。

エタノール療法は効くが、すぐに新しいがんが…

 96年5月にマーカー値が1000にもなったので、入院してエタノール療法をしたら、マーカー値が50になった。このときエタノールはすごく効くと思いました。
 母のがんは広範囲に細かく散らばっているタイプなので、手術で切れなかったのはそのためもあるのですが、エタノールは、がんが3センチぐらいに大きく固まっているところを狙って、注入したようです。
 ただ、エタノール療法でも、横隔膜がいつも邪魔をして、エタノールはその部分にはなかなか完全には入らなかったようです。

 B型肝炎のウイルスは、人の血液に入ればやすやすと肝細胞の核に入り込み、核の遺伝子の助けで新生ウイルスになって増え続けて、さらに別の肝細胞に入り込み、同じように増えていきます。ですからエタノールで潰しても、また新しいがん細胞ができてくるという感じでした。

 こうして、エタノール療法を受けてもがん細胞はいつも残っているので、3年目ぐらいからは、私も母も、がん細胞は撲滅できないのだから体にあってもいい、人は老化すればがん化は免れないのだからただ元気で過ごせればいい、と思うようになりました。

入院中に尿路感染症に

 4年経った97年には1度だけ入院しました。マーカー値(189)が上がったためです。ところが、入院中に尿道の出口からバイ菌が入り、尿路感染症になりました。

 尿路感染症は抗生剤で治ったのですが、病院で悪いバイ菌をもらう怖さが身にしみました。それまでは2、3人部屋か6人部屋だったのですが、次の入院からは個室に変えました。翌年の10月にも腎盂炎になったり、少し免疫力が落ちて弱ってきていましたから。

 この入院でも、エタノールの後に、「抗がん剤をやったほうがいい」としつこく言われたんですが、「帰ります、お正月も近くていろいろ準備もありますので」と言って、抗がん剤をやらないで帰りました。
 心配しながら次の外来に行ったら、マーカー値も30に下がっていたし、やはり抗がん剤を断ってよかったと思いました。
 従って、97年の暮れに退院してからは、母は元気に過ごし、98年中は一度も入院することはありませんでした。

塞栓療法で胃に静脈瘤ができたとき

 肝臓がんの塞栓治療をすると、がんを潰すために門脈を閉鎖するので、血液が門脈から入れずに静脈に門脈血を流すバイパスを作り、結局、それが静脈瘤となる。
 母の場合、99年の初めに胃に静脈瘤ができたことがわかりました。

 たまたま入院初日の夕方に突然、「内視鏡検査で静脈瘤が確認されました。破裂してしまうとおしまいなので、明日、硬化剤を入れます」と言われ、驚いたわけです。

 本屋へ行く間もなく、本人も不安がっているので、夜にインターネットで調べたところ、「静脈瘤ができている胃壁に硬化剤を入れて潰してしまえば大丈夫」と載っていたんです。本人にその説明文を見せると、本人もみんながやっている治療だから受けるしかないと納得しました。これは幸い成功しました。その後、亡くなる前年の1月にも静脈瘤の検査をしましたが、新たな静脈瘤は発見されませんでした。

 この入院中にたまたま「椎肝」というのを飲み始めたら、次の日からおしっこがすごくきれいに、透明になったと本人が言うんです。それでまたすごく調子がよくなりました。
 これは、林紀誉子さんというお医者さんが、自分の母親のがんを何とか治したい一心で開発したそうです。たまたま母がその人の本『もう肝臓病はコワクない』(ぶんぶん書房)を新聞広告で見つけて、「読んでみたい」というので入手して渡したら、「これを買いたい」というので、買って手渡しました。それから亡くなるまでずっと、漢方薬のように袋に入った椎肝を水に溶かして飲んでいました。やはり自分でこれがいいのではと思ったのが効くみたいです。

 97年以後は、入院する度にこちらがエタノールとしか言わないので、抗がん剤はしないで、ずっとエタノールだけできました。
 ところが、99年初めに胃にできた静脈瘤を硬化剤で固める治療を受けた後、マーカー値が600まで上がったので、「1回、抗がん剤を入れませんか」と言われました。これを断りきれず、母は「あんなに言うんだったら1回だけなら」と言い、5月に再入院して、塞栓術と抗がん剤治療を受けたんです。

血小板の値が低下後は、抗がん剤を断固拒否

 話は戻りますが、小俣先生が言うには、肝臓がんはマーカー値と血小板が指標になっているとのこと。普通の人は血小板が18〜20万ぐらいある。それが13万、10万になれば、肝臓がだんだん繊維化していって、10万を切ると肝硬変になっていくという。

 それを知ってからは、血小板の数値にも気を配り、96年ぐらいから血小板にも関心を持つようになりました。ただ、医者に「データ値が欲しい」といくら言っても、最初の5年間は全然もらえなかったので、血小板の数値はわかりませんでした。腫瘍のマーカー値については、医者が外来で「600になったので、入院して治療しましょう」と入院を勧めるときに使うので、記録し続けることができたわけです。

 99年5月には、その血小板が6万台になってしまった。そんなに下がったのは、さっきお話したように、断れなくなって、抗がん剤を入れたからなのです。
 それで、私が「この治療はだめだな」と思っていたら、金剛寺先生が私を呼んで、「閉鎖してある門脈からいくら抗がん剤を入れても、血管が細くなっていて入らないから、がん治療はもうやらないほうがいい」と教えてくれたのです。

 その際、「僕の肝臓がんの患者で、こういう経過でこんなに元気な人は初めて見ました。民間療法とか何かやっていますか」と聞かれて、やはり先生にとっても、患者がバタバタ死んでいくのは悲しいことで、元気で生きてもらいたいんだ、とそのとき初めて思いました。母のように患者が元気でいる場合、どうやっているのかと率直に聞いてくれるお医者さんもいるんですね。

 お医者さんは通常、患者側が民間療法のことを言うとばかにするので、そう聞かれても、私としてはあまり言う気がしなくて、「気功をやったり、いい水を飲んだり、温熱もやっています」と控えめに応えたのですが、今となれば、もう少し詳しくお話しすればよかったと思います。

 その後は、入院と抗がん剤を勧められると、その先生はもういないので名前を出しても構わないかなと思って、「金剛寺先生に抗がん剤はやらないほうがいいと言われています」と言って、母の最期まで、抗がん剤は断りに断ってきました。

次々と変わる若い医者とのつき合い方

 マーカー値を測った後に超音波・CTの検査をやって、それらの結果から治療方針が示されるわけですが、とにかく当時は、少し数値が上がれば、入院して抗がん剤を入れますという流れになります。実は、お医者さんからこうしますと言われると、こちらはそんなものかなと思って、半信半疑でどうしていいかわからないんですよ。

 ただ、とにかく、民間療法を続けるために入院を避けようという感じでやってきました。入院しないで済むように、なるべく腫瘍のマーカー値を抑えていこうというのが当時考えついた方針だったかもしれません。
 最初の1、2年はとにかく無我夢中でしたが、3年目ぐらいから、医者と相対して話し合う日時が設定されると、あらかじめこういうふうに言おうかなと決めておけば、その通り言えるようになったんです。主治医は複数の若い医者で構成されていて、その組み合わせは1年経てばどんどん変わりますが…。

 最初の主治医チームに上野先生という方がいました。まだ35歳ぐらいのこの先生が、母のがんの状態について、図入りで「なぜ半年の命しかないか」ということを詳しく説明してくれたんです。それが後々すごく役に立ちました。それに、本当のことを言ってくれたことで私の覚悟も決まったので、今でも非常に感謝しています。

 だから、2年目以後、ほかの医者が全然説明してくれなくても、前の図を持っていって、「ここのどこの部位にがんができているんですか」と聞くと、「前にそういう説明を受けたんですか」と医者のほうが驚いていました。

「元気な日常生活を希望します」と言い続けて

 がんになる前ならインターフェロンを使うといった治療があるのかもしれないけれど、とにかく、B型肝炎ウイルスからの肝臓がんになってしまうと、完治することはないので、仕様がないから、「とにかく元気な日常生活を希望します」と言い続けました。
 抗がん剤をやめてほしいというのは近藤先生の受け売りで、「固形がんには抗がん剤は効かない」と言いたいが、面と向かってはなかなか言えません。
 それで、たまたま毎日新聞に「抗がん剤が効くがん・効かないがん」の表が掲載されていたので、それをコピーして持っていき、「先生、肝臓がんには抗がん剤は効かない、と新聞に載っていますが、どうでしょうね」と言ったら、「いや、そんなことはありません」と応えて、医者は全然動じませんでした。
 でもそういうのを持って行ったり、それから、「英語から翻訳された『メルクマニュアル』を買って読んで、メルクマニュアルって知っていますか」とチラッと言ってみたりして、患者側も勉強していますよとアピールしなければと思います。ただ、あまり言うと先生もまたなかなか難しいから、気をつけなければいけませんが。

「血液検査の結果をください」と言い続けて

 また、毎回、「血液検査の結果をください」と言い続けて、なかなかくれなかったんですが、この患者はデータ値が欲しい人だということが徐々にわかったのか、6年目から忘れずにくれるようになりました。
 だから、6年目の99年4月からはデータ値がずっとそろって、母の最期まで何がどう変わったかという数値が手元にありました。各データが手元にあったからこそ、入院期間は1か月と言われたら、とにかく最短、最短と言い続けて、毎回2週間ほどで短く済んだのだと思います。
 あとは、若い医者と医学上の治療論争をしたことがあるんですけれど、向こうは私には何かわけのわからない専門の医学英語を使って一気に反論するので、やはり医師の自尊心の問題もあるし、これはなまじ言うとだめだなと思いました。

抗がん剤を拒否するなら、入院お断り

 抗がん剤を断って、その後困ったことは、「抗がん剤をやらないなら、治療の仕様がないですね」と言われ、入院させてくれないことです。本人にとっては、それはとても不安なことだったようです。

 2000年4月から、外来の担当医が非常に思いやりのある岸野先生に変わりました。マーカー値も516に上がっていて、彼はとても心配して入院を勧めてくれたのですが、いくら外来が入院させたいと言っても、抗がん剤を拒否しているので、入院先のほうがいい顔をしないんです。
 杏林というのは、外来と入院の主治医が別立てになっていて、外来の先生は入院した途端に発言権が全然なくなってしまうシステムなのです。

 肝臓が悪くなると糖尿にもなり、どっちが先か後かわからないんですが、結局、血糖値が高いので、「糖尿病治療」という名目で入院させてくれたんです。それが2001年の入院です。一応3週間と言われたのを、「糖尿の治療はわかりましたので帰りたい」と言って、2週間で帰っています。またわがままと思われたようですが…。

 その後もまたマーカー値が上がってくるので、何かしたほうがいいと言われて、2001年の夏の入院では、エタノールを4回やっています。
 マーカー値は元には戻りませんでしたが、びわの葉療法はやり続けて2002年は入院しませんでした。

 その後は、糖尿病の治療で入院というわけにもいかず、「抗がん剤を入れないならもう治療の方法がない」と言われ続けました。それでも母はどこかに拠り所を求めていて、結局、杏林しか頼るところがなかったのです

 いよいよ腹水が溜まってきた2003年の2月には、腹水の治療のために入院させてくれました。つい去年のことです。
 このときは1か月近く入院しました。やがて退院するとき、いつもと違って、主治医も看護婦さんも見送りに来てくれない。これはちょっとひどいと思って、若い看護婦さんに言うと、あわてて婦長さんを呼びに行って、婦長さんが見送ってくれたんですけど、とにかく抗がん剤をやらないと、こういう仕打ちを受けるのかなと思いました。

ホスピス探し・在宅医療の可能性を探る

 この入院の初日に、主治医が私を呼んで、「もう治療法がないから、ホスピスの話を本人にしていいですか」と聞いたので、私も「本人も承知しているからそれは構いません」と答えました。

 そのとき、ホスピスのパンフレットを渡されたので、いずれ紹介状を書いてくれるのかと思ったのですが、それから1週間ぐらいしてから、「連絡はつきましたか」と言われて、自分で電話するのかと初めて気づきました。パンフレットを渡すだけで、杏林自体はホスピスとは何の関係もありませんという感じで、案内の仕方がすごく不親切でした。自分でこうしてくださいと教えてくれればよかったんです。

 荻窪に緩和ケアを実践している救世軍の病院があったのですが、山崎先生の本を読んで感じるところもあったので、やはり実家に一番近い桜町に電話をしたところ、「1回面接して、カルテをつくりましょう」と言われ、杏林に入院中に桜町のホスピス科に面接に行きました。こうして、カルテをつくって、いつでも入院可ということになりました。
 ホスピスは、すごく本人の意思を大事にして、面接のときも、とにかく私ではなくて、本人がどういうふうにしたいのかというのを詳しく時間をかけて聞いてくれます。10分、20分の単位ではなくて、30分ぐらい。

 『在宅ケアをしてくれるお医者さんがわかる本』(同友館)で、三鷹の実家の近くに天文台クリニックの紹介があったので、電話をして事情を話したんですが、「患者が山のようにいて、今からは受けられないから、杏林から紹介してもらいなさい」と断られて、在宅はだめだとわかりました。
 このように、選択肢はいくつかありましたが、1つずつバッテンをしていって、やはりホスピスかなということで、桜町に決めました。

ホスピスで最期の10日間を過ごして

 去年の7月9日から18日の10日間だけ桜町のホスピスにお世話になって、母はそこで最期を迎えました。
 すごくよくしてくれました。抗がん剤とかはやりませんけれど、痛み止めやそのほかの治療はちゃんとしてくれます。外科的な治療も、必要なら外のお医者さんを紹介してくれて、ホスピスのお医者さんが患者に付き添ってくれます。患者がその雰囲気を嫌じゃなければ、静かに逝けるところです。

 うちの場合、たまたま父が、妻の最期を見たくなかったのかなとも思うんですけれど、亡くなる前年の12月ぐらいから痴呆のようになった。脳梗塞状態です。母が亡くなる直前はどうにもならなくて、結局父は日赤に緊急入院しました。さらに、ホスピス通いの間に、父を日赤から次のリハビリ病院へ移すという忙しさでした。
 私は1人っ子なので、あちこち駆けめぐり、最期の母にあまりついていられなかったので、ホスピスの担当者が気の毒に思って、1つベッドが空いたときに、前の方が亡くなったばかりでベッドが間に合うかどうかわからないけれども、お母さんを連れてきてください、と電話をくれたんです。

 ホスピスは、話もよく聞いてくれるし、人手も多いし、すごくいいところです。
 でも、一言で言うと、雰囲気が重たく、お通夜みたい。母も私もそれが耐えがたかった。入ると、蘭の匂いと、お葬式のお花の匂いがパッとくる。「あっ、これは」と思うわけです。そして、バロックの荘重な音楽が流されている。うちの母はそんな音楽を聞きたくないんですね。こっちも手があればCDとか持っていけたんですけれど。まずその雰囲気に圧倒されてしまいます。カソリックの人だったらいいかもしれないけれど。
 また、部屋は、その中で患者がどんなに苦しんでいても廊下には漏れないように、監獄みたいにものすごく重たいドアでバシッと閉まっているんです。私はそれが嫌で、行くたびに全部オープンに開けっ放しにしていました。

 結局、家族同士もチラッと会うだけで、交流はむずかしい。うちは10日間と短かったせいもありますが、長く入院している患者や地方から入院している患者の家族は2階に泊まってそこから会社へ行っていたので、親しくなれていたかもしれないのに。ただ、ラウンジがあって、月に何回か交流があるようです。だから、長くいればもっと違った印象になったかもしれない。

「母のこの道は私の道かな……」

 母のB型肝炎はおそらく母子垂直感染です。母と私の子どもにB型肝炎ウィルスがあるので、私も検査を受けたら、やはり私にもある。母の兄も肝臓がんで亡くなっているから、多分母や母の兄の母親から伝わってきたものじゃないかなと思います。
 ただし、子どもは抗体ができているから問題がないと言われています。私の場合は抗体ができていないので、母のこの道は私の道かな、と思っています。

 B型肝炎は国の難病に指定されていて、当初は入院費がただでしたが、石原さんが東京都知事になってからは難病指定を外されたので、医療費は取られています。C型はまだ難病に指定されていると思います。
 今は、B型肝炎に生まれた子どもにはすぐにワクチンをするので、新しい世代はB型肝炎がほとんどなくて、私の世代、50代ぐらいの世代でB型肝炎ウイルスを持っている人は終わりです。だから、国も熱心になってくれないのかもしれない。

 「入院をできるだけ短期にしてもらうなど、医療を最小限にしか利用しなかったことが長期生存につながった鍵だと思う。手術をしていたら、1、2年の命しかなかったのではないですか?」という意見がありましたが、確かに、手術をしていたら、半年の命でしたね、やはり。

(2004.5.高橋知加子談)

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