安芸国の謎

 安芸国の謎

  安芸国(広島県西部地方)は古代史上の謎が多い。以下のようなものである。

① 安芸国一宮の謎
 厳島神社と速谷神社があるが、市杵島姫の滞在伝承を持つ厳島神社よりも、伝承のはっきりしない速谷神社の格式の方が高い。さらに速谷神社は中四国・九州地方唯一の官幣大社である。なぜこんなに格式が高いのか。

② 神武天皇東遷時の謎
 神武天皇東遷時、安芸国埃宮に長期滞在している。これはなぜか?

③ 市杵島姫の終焉地の謎
 市杵島姫が九州からこの地に移動して終焉地となっているが、なぜ、わざわざ安芸国に移動したのか?

 安芸国にはこのように謎が多いのであるが、伝承ですら、何も伝わっていない。これはどうしたことか?安芸国に関して重要な何かが隠されているように思われるので、伝わっている伝承をもとに推定してみた。

 素戔嗚尊統一時の謎

 BC18年ごろ出雲で八岐大蛇を退治し出雲国を建国した素戔嗚尊は、日本列島統一を目的として中国山地を超えて山陽地方に乗り込んできた。BC10年ごろ、斐伊川を遡り三井野原を超えて、三次地方に進出した。三次地方を統一後、可愛川を遡り、吉田地方まで進出しているが、素戔嗚関連伝承はここで止まっている。それより南部地方には、素戔嗚統一伝承は存在しないのである。 その境界地に清神社(吉田町)が存在し、出雲と同じような八岐大蛇伝承があり、素戔嗚尊がこの地で八岐大蛇を退治したと伝えられている。

 素戔嗚尊は、その後、統一方向を変えて、芦田川を下り福山地方を統一し、鞆の浦に出ている。以降、鞆の浦が山陽地方統一の拠点となっているのである。鞆の浦を拠点として東側及び芸予諸島は統一していると思われるが、やはり、安芸国には素戔嗚尊による統一伝承が存在しないのである。また、備後地方にみられるこの頃の出雲系土器が安芸地方には見られないのである。このことは、安芸地方は出雲勢力によって統一されていないことを意味している。

 この原因と思われる伝承が、存在している。

 廿日市市の極楽寺山蛇の池大蛇伝説。
 頭が8つ、尾が3つの大蛇(八岐大蛇)で春は出雲の方へ行き秋には娘をさらって戻ってくるという噂があった。出雲で素戔嗚に退治されてからは見なくなったという。

 この伝承は吉田町の清神社の伝承とつながるのではあるまいか。素戔嗚尊が出雲から侵入したとき、それを阻止しようとこの地から出撃していった八岐大蛇と清神社の地で戦い、八岐大蛇 は退治されたが、素戔嗚尊の侵入は清神社の地で食い止めることには成功した。というように考えることができる。 そのために清神社より南部に素戔嗚統一伝承地が存在しないのではないか?

 のうが高原の謎

 廿日市市の蛇の池から、八岐大蛇が素戔嗚尊に対して出撃していったということは、この地域が素戔嗚尊に対抗できる別勢力によって支配されていたことを意味している。その中心地と思われるのが「のうが高原」である。

① のうが高原 は、速谷神社の奥の院である。

② のうが高原祭祀遺構(のうがピラミッド)と厳島の巨石遺構(弥山ピラミッド)はペアで縄文系祭祀と思われる。

③ 速谷神社の本殿から見た鳥居の方向は冬至の日の日の出の方向と一致している。

④ 速谷神社は西日本地域で最も格式の高い官幣大社で、厳島神社より格式が高い。

 のうが高原は縄文系祭祀遺構と思われ、庄原市の葦嶽山、厳島の巨石遺構と併せて、安芸国南部地方に飛騨国の縄文連絡網の拠点があったのではないかと思われる。廿日市市周辺は縄文遺跡の多いところでもあり、これを裏付けているといえる。

 この縄文連絡網の拠点地が速谷神社の地ではないだろうか。そうであれば、速谷神社の格式が高いのが説明できる。

 素戔嗚尊の安芸国への侵入を察知した人々は、素戔嗚尊の侵入を防ぐために八岐大蛇を吉田方面に送り込み、清神社の地で素戔嗚尊と戦ったが、素戔嗚尊の先進技術によって敗れたと思われる。しかし、素戔嗚尊は安芸国はそのままにしておいたほうがよいと判断し、安芸国を統一するのをあきらめ、福山方面に向かったと思われる。素戔嗚尊としては平和統一が目的のために、戦いで制圧するのは好まなかったのであろう。そのために、安芸国からはこの時期の出雲系土器の出土がないのである。

 しかし、いずれは安芸国を統一しなければならないのであるが、安芸国はどのようにして倭国に統一されたのであろうか。

 厳島神社の謎

⑤ 厳島神社の本来の祭神は伊都岐島神とされているが、正体が不明のため、名のよく似ている市杵島姫が祭神になったとされている。

⑥ 厳島の大元神社は祭神が国常立尊、大山祇神で、本社よりも古くから鎮座する地主神と伝えられる。

⑦ 市杵島媛命が宮島に鎮座された時、神烏が上平良村に光臨し、村の主であった岩木翁に神懸かりした、岩木翁は10歩の土地を寄進して神鳥を祀る祠を建てた。岩木翁は磐木権現として近くの権現山に鎮座されるが、分祀して速谷神社 にも祀っている。この岩木翁は安芸の宮島の「三翁神社(厳島)」にも祭られている。

⑧ 「安芸国神名帳考」速谷神社の神体は自然の大石で、多支津比咩命をまつり、俚言に厳島の伯母神という。

 厳島には本来伊都岐島神が祀られていたとされている。市杵島姫とは別人のようである。素戔嗚尊の娘である市杵島姫は本来は別の名であったと思われるが、神武天皇東遷時に安芸国にやってきて、各地を巡り最終的に厳島に滞在し、厳島で終焉を迎えたと思われる。厳島に滞在したために市杵島姫と呼ばれるようになったと考えている。

 では、伊都岐島神とは何者であろうか。これを解くヒントが厳島神社よりも古いといわれている大元神社の伝承であろう。それが、国常立尊と大山祇命である。国常立尊は飛騨国の最高神であるが、饒速日尊として扱われていることが多いので、ここでは饒速日尊と思われる。そして、大山祇命は飛騨国女王ヒルメムチの嫡子であるウガヤ朝68代宗像彦と考えている。つまり、大元神社は飛騨縄文系の祭神となっている。そのため、伊都岐島神は飛騨系の人物と考えられる。

 このメンバーから考えられるのが、饒速日尊がAD20年ごろ丹波国を統一し、そこから、飛騨国に渡り、飛騨国後継者の大山祇命の娘である天知迦流美豆比売(もうひとりの市杵島姫)と結婚した後、高皇産霊神に紹介するのを兼ねて天孫降臨のマレビト探しに倭国に戻っているが、この途中に厳島に立ち寄ったということである。

 饒速日尊はAD20年ごろ、大山祇命・天知迦流美豆比売を伴って丹波国から、北九州に戻っているが、この時に厳島に立ち寄っていると考えれば、最もスムーズに説明できるのである。天知迦流美豆比売は市杵島姫の別名を持っているので、伊都岐島神=天知迦流美豆比売と考えられる。

 饒速日尊が厳島に立ち寄った目的は、この時まで倭国に加盟していなかった安芸国を加盟させるためであろう。

厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」
 福岡県玄海町鎮座宗像大社の御祭神は厳島神社と同様で、宗像大社の伝説に「湍津姫命」は豊前の宇佐に、「市杵島姫命」は安芸に御遷座のなったとあります。
 厳島神社の伝説では、最初の御鎮座地が豊田郡瀬戸田島の志加田原であり、更にここから豊田郡大崎島に御遷りなり奈加の村、加牟の峯に御遷座があり同(大崎)島の七浦を御巡幸され、その所々に御宮を造営されたこれを「七浦行者(のかりのみや)」といいました。
 しかし、ここも御神慮に適わなかったから、更に安芸の島々を御巡行になり、最後に大竹市大竹浦に到り給いそこから厳島を御覧になって「あそここそ吉い所だ。永久に鎮まろう」と仰せになり、はじめて御鎮座地が定まったと伝えられています。

市杵島姫が厳島に鎮座する前の伝承を集めたサイト 厳島伝説

 このサイトによると、市杵島姫が移動した順番は佐木島→生口島→大崎上島→蒲刈島→厳島である。明らかに東から西への移動である。市杵島姫は東から来たことになる。また、市杵島姫には当時2歳になる子がいたそうである。九州から来た素戔嗚尊の娘としての市杵島姫はかなり年を取ってからの移動なので、2歳の子がいるはずはなく、饒速日尊と結婚した直後の天知迦流美豆比売であれば、2歳の子がいても不思議はない。これらの伝承も、厳島に最初に上陸した市杵島姫は素戔嗚尊の娘の市杵島姫ではなく、饒速日の妻となった天知迦流美豆比売(市杵島姫)ということになる。 

⑦の岩木翁はこの地方を治めていた縄文連絡網の拠点の管理者であろう。この人物は飛騨系の縄文人と思われ、安芸国が倭国に加盟するには、この人物が承諾しなければならないが、そのためには飛騨王家の直系の人物の協力が必要なのは言うまでもない。饒速日尊は飛騨王家の嫡子大山祇命及びその娘市杵島姫を連れてきたのである。大山祇命の協力により岩木翁も安芸国を倭国連合に加盟させるのを承諾したのであろう。

 ⑦で神懸かりした「神烏」とな何者であろうか。烏(カラス)は本来素戔嗚尊の使いとされているが、素戔嗚尊では安芸国を倭国連合に加盟させることはとてもできないと思われ、ここでいう烏は八咫烏ではないかと思われる。八咫烏は賀茂建角身命の化身とされているが、この時、大山祇命の嫡子である賀茂建角身命は天知迦流美豆比売の兄と思われ、この時の饒速日尊に同行していたと思われる。この時岩木翁にあったと思われる饒速日尊一行の中で最も影響力のあったのが大山祇命と思われるのでここでいう神烏は大山祇命ではないかと思われる。

⑧について、厳島=市杵島姫とすればその伯母に当たるのは、父が素戔嗚尊なのでその姉とくれば、飛騨女王ヒルメムチ(義姉)がそれに該当する。あるいは兄(饒速日尊)の妻天知迦流美豆比売を指しているのかもしれない。市杵島姫と天知迦流美豆比売はともに市杵島姫と呼ばれているがその年齢差は15歳ほどあると思われ、義姉であっても伯母と表現される可能性が考えられる。あ るいは飛騨における宗像三女神の多支津比咩命は天道日女(饒速日尊第二の妻)を意味している。

 のうが高原古代参道入り口に大歳神社(祭神大歳命=饒速日尊)がある。また、旧安芸国内に新宮神社が21社存在する。祭神のほとんどは伊邪那岐・伊邪那美命であるが本来の祭神は速玉男命である。新宮神社の由来は和歌山県新宮市の 熊野速玉神社で、これは、山上の神倉神社を麓に下した新しい宮という意味である。本来は同じ祭神のはずである。神倉神社の祭神は天照大神と高倉下命で高倉下命は天照大神の子孫とされているが、高倉下命は饒速日尊の孫なので、この天照大神は饒速日尊を指していると思われる。よって、新宮神社の本来の祭神は饒速日尊と推定される。

 このことは、安芸国を倭国連合に加盟させたのは饒速日尊であることを意味しており、まさにAD20年ごろの饒速日尊が大山祇命の助けを借りて安芸国を加盟させたとすればうまく説明できる。

 速谷神社の創始

⑨ 速谷神社の本殿から見た鳥居の方向は冬至の日の日の出の方向と一致している。

⑩ 饒速日尊の天孫降臨時に安芸国に派遣さ れた天湯津彦の系統が伝わっていない。

⑪ 速谷神社祭神で天湯津彦5世孫の飽速玉男命は孝安天皇の時代と思われる。

 冬至の日を一年の最重要祭祀日としていたのは3世紀初頭までで、それ以降は春分の日が一年の起点となっている。よって、速谷神社での祭祀が始まったのは2世紀以前と思われる。飽速玉男命の活躍時代は2世紀と思われるが、自分自身を祭神として創始するのはおかしなことで、それ以降だと3世紀になってしまうので、速谷神社の本来の祭神は飽速玉男命ではないことになる。

 速谷神社の地は縄文祭祀の拠点だったところと解釈しているので、安芸国が倭国連合に加盟してまもなく創始したと考えるのが最も自然である。安芸国が倭国連合に加盟したのはAD20年ごろですが、その直後のAD25年ごろ、饒速日尊の天孫降臨団の一行に天湯津彦という人物が含まれており、この人物が安芸国に赴任している。

 伝承ではどう調べても天湯津彦の出自は不明である。しかし,次のような観点から,飛騨系の縄文人と判断する。

 1 出自不明の人物は飛騨系の人物が多い。
 2 頭に「天」がつけられている。「天」がつく人物は飛騨系の人物が多い。
 3 天孫降臨団に防衛者として同行している人物の中に天湯津彦が存在しているが,同じ防衛者には飛騨系と思われる人物が多数存在している。
 4 天湯津彦の子孫が第13代成務天皇の時代に東北仙台地方に国造りとして複数派遣されている。東北仙台地方はこのころ縄文系の人物が主流なので,縄文の血筋の人物のほうが統治しやすかったと思われる。

 天湯津彦はおそらく大山祇命が飛騨国から倭国に降臨するときの一団に同行していた人物ではないだろうか。AD25年ごろには天湯津彦は成人しているはずなのでその生誕はAD5~AD10年ごろではないかと思われる。加盟したばかりの縄文系の安芸国の統治者となれば、縄文の血と饒速日尊の血を受けている人物に限られる。古代史の復元では速玉男は饒速日尊と解釈している。飽速玉男は同じ名が含まれているので、饒速日尊の子孫ではないかと想像される。合わせて考えると、安芸国に降臨した天湯津彦の父は時期から判断して饒速日尊であろうということになる。また、推定生誕時期からその母は天道日女と考えられる。饒速日尊の母が飛騨王ヒルメムチの妹と思われる神大市姫であり、饒速日尊の第二の妻天道日女の父は神皇産霊神(飛騨王ヒルメ ムチの母)の子の天御鳥命の娘である。そうすれば、天湯津彦は安芸国を収めることのできる条件を持った人物となる。

 速谷神社が創始されたのは、天湯津彦の降臨時ではないかと推定する。AD20年ごろの伊都岐島姫・大山祇命の降臨によって安芸国が倭国に加盟することを承諾した。倭国に加盟するとなれば、その統治者を派遣する必要が出てくる。安芸国が縄文祭祀の拠点となっていたわけであるから、その祭祀を継承しなければならない。祭祀を継承するには、当然ながら飛騨国王の血が入っている人物が必要である。天湯津彦はこの条件を満たしてはいるが、それでも、安芸国の統治者となるために速谷神社の御神体の磐のところで伊都岐島姫自身が縄文系の神事を行ったものであろう。これが、速谷神社の祭祀の始まりと考える。それ以降天湯津彦が神事を継承していったものであろう。大和朝廷成立後飛騨国の抹殺の流れの中でこの神事は消滅していったのではないだろうか。

 饒速日尊の妻である天知迦流美豆比売(伊都岐島姫)は、AD20年ごろから、饒速日尊が再び大和に呼び出すAD35年ごろまで、伝承上所在不明になっている。饒速日尊が天孫降臨する目的はマレビトとして近畿地方に入り込むことなので妻がいると都合が悪いので、天孫降臨に天知迦流美豆比売を連れて行くわけにはいかない。AD35年以降に事代主命の母として再登場するので離別したわけではなく、天知迦流美豆比売はどこかにいたはずである。

 天知迦流美豆比売の立場は相当重いものなので、意味のないことはしていなかったはずである。古代史の復元では、この期間、天知迦流美豆比売は厳島に滞在し、天湯津彦が安芸国を安定統治するための補助をしていたのではないかと推定する。安芸国は倭国に加盟したといえども、反対勢力は存在したと思われ、それらの人々を納得させるためにも、厳島に滞在する必要があったものと考える。その結果、厳島が神聖な島として認識されることになったといえる。

 速谷神社祭神が飽速玉男命となった理由

 天湯津彦は天孫降臨メンバーなのでAD25年ごろ安芸国に降臨しており、その5世孫とすれば1世28年と考えてそれより140年後で、AD160年ごろの活躍人物となる。第6代孝安天皇の時代で倭の大乱直前である。伝承では第13代成務天皇の時代となっているが、成務朝に安芸国国造に任じられた人物が飽速玉男命を祭ったものと考えられる。

 速谷神社は西日本地域で最も格式の高い官幣大社で、厳島神社より格式が高い。飽速玉男命が祭神の神社が格式が高いということは、この人物が大和朝廷にとって重要な存在だったことを意味する。速谷神社の地が倭の大乱時の大和朝廷側の重要拠点だったのではないか?

神皇紀孝安80年=AD168年の記事
 孝安天皇の時代、九州西北諸島の国賊残党が強い集団となり侵攻、暴挙を繰り返した。九州は全く乱れ事態が最悪となった。天皇は元帥となり、弟の武彦太命と吉 備蘇彦命を副将軍として中国・九州の兵を招集し三年七月でやっと悉く制定し凱旋した。

古代史の復元ではこの事件が倭の大乱の発端と考えている。この大乱において孝安天皇自身が直接赴いているので、その拠点が速谷神社の地にあっても不思議はない。また、孝安天皇の宮は「室秋津島宮」となっており「秋」がついている。これは「安芸」につながらないだろうか。

 日清・日露戦争で広島に大本営が置かれてる。いわばその時、広島が日本の首都であったわけである。この例と同じように速谷神社の地が孝安天皇の滞在地になっていた可能性が考えられる。それを取り仕切っていたのが飽速玉男命ではなかったのか。その後継者が飽速玉男命を祀ったのではあるまいか。

 時代が下がるにつれて飛騨関連伝承が抹殺されていく中で、速谷神社の本来の祭神も抹殺され、飽速玉男命のみが残ったのではないかと考える。

 国譲り事件

 AD45年ごろ、第二代倭国王大己貴命が、鹿児島で急死した。その結果、倭国は出雲を中心とする東倭と、日向を中心とする西倭に分裂した。安芸国は東倭・西倭のどちらに所属したのであろうか。

 安芸国は地域的には出雲の東倭に所属している。このことは、神武天皇が安芸埃宮に滞在中出雲の事代主命に安芸国を譲るように交渉していることからわかる。

 安芸津彦の正体

  「ふるさと やまもと」/H13,12,1 山本史を作る会
 『むかし、むかし、まだ日本の国が、きちんと治まっていないころ、第一代の天皇である神武天皇は、九州におられました。天皇はなんとかして、日本を平和な国にしたいと考えておられました。 「日本の国を治めるには、九州ではあまりに西にかたよりすぎている。国の中心である大和へ行き、そこでよい政治を行いたい」と考えられました。
  そこで、部下をつれて九州の高千穂を出発されました。船出された港は日向といわれています。船は東へ東へと進み、瀬戸内海へ乗り入れ、広島に入られました。
 そのころの山本には、安芸津彦命という、安芸の国の首長がいました。 安芸津彦命が「神武天皇の軍が来られた」という知らせを受けると、急いで五日市の倉重までお迎えに行きました。
 神武天皇は「ああ、安芸津彦命が来た」と喜ばれて、地御前にお着き になりました。
 そして、安芸津彦命の案内で、火山の頂上に登られ、大きな石を四方から集め、その中へたくさんの木を積んで火をたかれました。その煙はもうもうと立ちのぼりました。これは、四方の人たちに、「天皇は、元気でここに 登っているぞ」と、知らせるノロシだったのです。
  これが終わると、天皇は山を下って「休山」で休まれて、山を下りられました。 そして、山本の「出口」から船に乗られ、祇園の「帆立」に出ると、帆をは って進まれ、対岸の戸坂に上陸されました。そこから中山峠をこえて、今の 安芸郡府中町の埃宮(えのみや)に入られたと、いわれています。
 山頂には、これを記念する「神武天皇烽火伝説地」の石碑があります。 「休山」「出口」「帆立」は、今も地名として残っています。』
   

 安芸津彦神社由緒
 当社は、安芸津彦命並びに安芸津姫命を祀り、当初は青原に鎮座していたという。こちらの主祭神は安芸国の前身となる阿岐国の初代国造である飽速玉命(あきはやたまのみこと)の祖先とされ、厳島神社の兼帯七社の一つとされる。明治5年(1772年)に、社号を安芸津彦神社と改名するまでは官幣社といって、当国の厳島神社の2月11日の初申の神事の祭祀において紙布等を当社において清祓してから厳島神社へ仕出し、旧幣を当社に納める慣例があったという。これにより、「官幣社と称す」と古書に記されていたという。それだけ、当社は厳島神社と非常に深い関係にあったとも言える。

 ここでいう安芸津彦とは何者であろうか。AD25年ごろ天湯津彦が安芸国統治を始めて60年ほどたっている。1世30年として天湯津彦の子(あるいは孫)である可能性が高い。

神武天皇東遷 

 AD80年ごろの神武天皇東遷時、安芸国を含む瀬戸内海沿岸地方はすべて出雲国を盟主とする東倭に所属していた。大和朝廷成立後に東倭領域は大和朝廷の支配下に入らないことになっていた。このことは、大和と九州や海外との重要な交易路である瀬戸内海沿岸地方がすべて朝廷の支配が及ばない地域となるので極めて不都合である。そこで、佐野命(後の神武天皇)は、もともと、出雲との関係の薄い安芸国を東倭から譲り受け、交易の拠点を作ることを考えた。出雲との交渉と、大和朝廷と安芸国の仲立ちをするために、生存していた唯一の素戔嗚尊の娘である市杵島姫(この時はおそらく別の名を持っていたと思われる)を東遷団に同行させ、出雲と交渉させた。出雲の統治者事代主命は、素戔嗚尊の娘の要求に逆らうことができず、安芸国を大和朝廷の支配下にすることを承諾した。

 市杵島姫の安芸国への移動経路

① 宗像大社 宗像か ら湍津姫命が宇佐へ、市杵島姫命が厳島に遷座したと伝える。
② 厳島神社 防府市三田尻1103 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
 「この松原は磯の神厳島明神此処に天降りまして、今の厳島に迂らせ給ひければ・・・」と伝えている。
③ 国津姫神社 防府市富海 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
 三女神宇佐島よりの御船着地の地と伝える。
④ 野島神社 熊毛郡平生町平生131 祭神 市杵島姫命 多伎理姫命 多岐都姫命
 市杵島姫命厳島に降臨の時、この島に暫時御休止あり。
⑤ 装束神社 岩国市装束232 祭神 市杵島姫命
⑥ 旧山陽道の苦ノ坂
「市杵島姫が九州筑紫の国から安芸国へ移動の途中、木野坂へさしかかったところ長旅の疲れも出て苦 しかったので、手に持っていた「ちきり」(機織具)を傍の池に投げてしまわれた。村人は哀れんで池の畔に小さな祠を建ててお祀りしたと伝えられている。それ以来、木野坂を「苦の坂」、池を「ちきり池」と呼ぶようになった。」時、神衣を改められた。

 栗原基氏著「新説日本の始まり」によると広島県高田郡向原町の大土山に住んでいた市杵島姫の子供が行方不明になったのをきっかけとして,向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→生口島→大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→江田島町伊関廿日市市宮内→大竹市→宮島町と転々と移動している。この滞在の地にはいずれも厳島神社が存在している。そして,この転々としている領域と同時期の大分系土器の出土する領域が一致している。市杵島姫がその一族と共に大分から広島へ移住してきたものと考えられる。大分県地方から瀬戸内海を渡って,広島県地方に上陸するコースを考えてみると,崖が迫っているところは上陸しにくいので,広島湾に入り込み,そこから三篠川に沿って上流に移動することが考えられる。川をさかのぼっていくと,その先に大土山がある。大土山のある向原町には,水田の跡と考えられる伝承地が点在している。この伝承地は神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、神武天皇の行動と内容がよく似ている伝承もある。また、厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われえるが、市杵島姫を祀っているのも事実である。この二人に深い関連性を見ることができ、市杵島姫と神武天皇は同時に広島へやってきたのではないかと考えている。

 市杵島姫の出発点は宗像神社と宇佐神宮が考えられる。伝承では宗像大社ですが、広島県下にこの時期のみ大分系土器が出土する。この土器の出土は継続することなく一時期のみなので、交流ではなく集団移動と考えられる。このことから、市杵島姫の出発点は宇佐と考えている。神武天皇の訪問を宇佐で迎えた市杵島姫は、神武天皇が宇佐を出港したとき、神武天皇は北九州地方の巡回をしているが、これとは別行動をして、直接宗像に赴いて宗像から神武天皇に同行したのではないかと考えている。

 市杵島姫の活躍

 安芸国を東倭から譲り受けた後、佐野命(後の神武天皇)は、安芸国を出港した。残された市杵島姫は瀬戸内海航路の拠点づくりをしたと思われる。

⑫ 広島県南西部にのみ大分系土器が弥生時代後期中頃(1世紀後半から2世紀初頭)に出土する。

⑬ 大分系土器出土地域に厳島神社があり、この地域には素戔嗚尊統一伝承がない。

 この時期のみ大分県地方からの人々の流入があったことを意味する。一方的で一時期のみであるから計画的な移動と思われる。移動の目的は市杵島姫に協力して拠点づくりをするためであろう。大分系土器が出土する地域は素戔嗚統一伝承のない地域で、且つ、出雲系土器の出土しない地域の海岸線である。

 市杵島姫は最初大土山に滞在し、その後、大分系土器が出土する地域を回ったのち、厳島に滞在することになった。AD90年ごろまで活躍し、厳島で亡くなったと考えている。

 市杵島姫の御陵は以前から探してはいるが不明である。神社の聖域は本殿の真後ろにあることが多く、厳島神社の真後ろに四宮神社がありこの周辺に御陵橋と呼ばれる橋がある。この四宮神社周辺かな?と思ったが、そのような伝承はない。また、弥山山頂付近にある御山神社は宮島奥の院で、三女神はこの地に降臨されたともいわれており、宮島最大の聖地のようである。ここも市杵島姫の御陵があると考えられないこともないが、具体的な御陵らしきものは見当たらない。もう一つの候補地として、宮島内ではなく、対岸の野貝原山(のうが高原)山頂付近も候補地として考えている。のうが高原はピラミッド伝承があり、巨石遺構が散在しており「高貴夫人の墓」と言い伝えられているものもある。古代参道が存在し、古代からの聖地であったようである。のうが高原から宮島がよく見える。何回か登山したことがあるが、今は廃墟のようになっている。

 

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