倭国大乱(1)

 大和朝廷は宗教上の対立により、東倭(出雲倭国)と対立し、これを併合した。

第一項 倭の大乱とは
後漢書東夷伝古事記の記事
古事記と日本書紀の食い違い戦闘遺跡
第二項 中国地方の孝霊天皇関連伝承
日野郡誌孝霊山の伝承鬼住山の伝承
楽楽福神社の伝承吉備津彦の伝承
遠征時期横田町の伝承吉備津彦の侵入経路
出雲振根の活躍時期吉備津彦は誰か
大乱の時期
第三項 黄泉国神話
出雲対大和の戦い三貴子古事記日本書紀の沈黙
出雲王朝の謎
第四項 大乱の発生原因
第五項 考古学的変化
第六項 大乱発生前夜
第七項 大乱の概要

18節 倭国大乱

第一項 倭の大乱とは

 後漢書東夷伝

後漢書「東夷伝」に

「後漢の桓帝・霊帝時代(147〜189)に倭国は大いに乱れ,互いに戦い,何年もの間,主となる王を立てられないほどだった。」とある。 この争いは,卑弥呼を共立する事により収まったようである。この時期は,東アジア全体が寒冷期に入ったようで,中国でも,黄巾の乱が起こり,後漢が倒れ, 三国時代を迎えている。不作続きだったことが予想され,人々の生活が苦しくなり,反乱が起こりやすかったと考えられる。この大乱は一般に倭の大乱と呼んでいるがどのような争いだったのだろうか。

古事記の記事

 年代推定によるとこの時代は,第六代孝安天皇から第八代孝元天皇の頃と考えられる。そこで,古事記の孝霊天皇の条を見ると,

「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは,二柱共々に,播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。」

と書かれている。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇の間は,古事記・日本書紀ともに,出来事について,全く記されていないのであるが,唯一,この記事のみがある。 よほど,大きな事件だったのではないだろうか。

 古事記と日本書紀の食い違い

 ここに登場する吉備津日子命は,日本書紀では,第10代崇神天皇の条に登場する。古事記と日本書紀とで,時代が合わないのである。 吉備地方や山陰地方の神社には,吉備津日子命は孝霊天皇と共に祭られている例が多いことから古事記の方が正しいと考えられる。どうやら, 日本書紀は,孝霊天皇の頃からの記事を,すべて,崇神天皇の所に集めて記録しているようである。 この大乱をそのまま記述するには,朝廷にとって不都合だったものと推察される。

 戦闘遺跡

 遺跡に関して調べてみると,弥生時代における本格的戦闘があったと考えられる遺跡というのはほとんどないのであるが,大阪湾岸地方から瀬戸内海沿岸地方にかけて,二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。また,この頃のものと考えられる高地性集落が瀬戸内海沿岸地方に多数みつかり,また鉄鏃の出土数を調べてみると,他の地方の鉄鏃出土数に大きな変化はないのであるが,中国地方は後期中葉から後葉にかけて急激に増大している。しかも,実践的な小型の鉄鏃が多いのである。これらから,後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)の大阪湾岸から瀬戸内海沿岸地方が,軍事的緊張状態にあったことは間違いなさそうである。これらの遺跡は,吉備津彦命の進軍コースと一致している上に,年代もほぼ一致するので,この大乱に関連していると考えられる。どうやら,二世紀後半に,出雲・吉備・讃岐連合軍対大和朝廷の大乱があったようである。

第二項 中国地方の孝霊天皇関連伝承


                  (1) 日野郡誌

『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)の「第四章 神社」の部分に,『伯州日野郡染々福大明神記録事』

「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也

一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」

これによると,孝霊天皇は孝霊45(171)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが,古事記・日本書紀は黙して語らない。

「日本上代の実年代」の年代基準としている開化天皇の没年(245)より,半年一年の計算で孝霊45年と孝霊71年を日本書紀の年数によって計算すると,孝霊45年は171,孝霊71年は184年となり,梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178183)とまさにぴったりと一致している。同時に開化天皇と孝元天皇の日本書紀の紀年は即位からの紀年となっていることになる。
 この伝承をはじめ中国地方(東倭・吉備国・出雲国・伯耆国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在している。年代計算により、この伝承が倭の大乱に関連していると思われる。まず、伝承面から何が起こったのか考えてみよう。

(2) 孝霊山の伝承

鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。

孝霊山の伝承
第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
 天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
 天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
 伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。

               溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より

このときの孝霊天皇の巡幸コースは、大和から北上し近江国から若狭湾に出て、日本海経由で山陰に行き,隠岐国で黄魃鬼退治をした後,日本海から日吉津村に上陸し孝霊山に居を移したとある。

また、鳥取県鳥取市の南はずれの河原町に霊石山がある。ここに伝わる伝承では,「天照大神が西征の途中,ここに居を移し・・・」とある。西征とは東から来たことを意味し,大和からと考えられる。霊石山がその途中であるということは,最終目的地が出雲周辺であることが想像される。大和と出雲の騒乱は倭の大乱以外にはなくこれは倭の大乱を表しているのであろう。天照大神は孝霊天皇と思われ,この伝承は孝霊天皇のこの巡幸のことを伝えていると思われる。

霊石山より少し西にある青谷上寺地遺跡では,この頃の戦闘の後と思われる銅鏃が突き刺さったままの人骨が4点ほど見つかっている。このときの戦闘かもしれないし、この時期地方に鬼が出没していたので鬼との戦いかもしれない。孝霊天皇は若狭から鬼を退治しながら、因幡国の霊石山に一時留まり、隠岐国経由で日吉津村に到達したと考えられる。

伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。高

高杉神社

杉神社はその昔宮内古墳群の位置にあったそうである。伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋してこの地に来たとあるが,実際はこの地に来てから朝妻姫を皇后にしたのであろう。また、老いた母のことが気になって天皇からお暇をいただいたとあるが、これは天皇が大和に帰還するとき連れて帰ろうとしたが、老いた母のために大和へはついていかなかったと解釈できる。実際に大和での記録(古事記・日本書紀)に朝妻姫は存在しない。妻木晩田遺跡は丘陵地に築かれた高地性集落である。水の便も悪く、水田耕作にはまったく適さない地である。しかし、日本海や

妻木晩田遺跡から見た米子市

米子市内を見渡す視界は実によい地である。孝霊天皇の訪れた2世紀後半は倭の大乱の直前で緊張状態にあったと推定される。警戒のために発達したと推定される。孝霊天皇がこの地を訪れたとき、この遺跡に住んでいた人々は、四隅突出型墳丘墓を作っていることもあり、スサノオ信仰が強い出雲系の人々である。当然ながら大和から来た孝霊天皇にはかなりの警戒心を持っていたと思われる。孝霊天皇は出雲と対決に着たのではなく話し合いに来たのである。そのため、この地の人々の警戒心を解くために朝妻姫を娶ったとも考えられる。日野郡誌と照合すると、孝霊天皇がこの地に来たのは孝霊45年(171年)ということになる。



(3) 孝霊天皇は伯耆国を二回訪れた(鬼住山の伝承)

鳥取県溝口町鬼住山に鬼退治伝承がある。

鬼住山伝説

その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
 先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
 されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
 或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
 うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
 麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、
「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。
                                       楽楽福神社古文書より

このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。

鬼住山伝承別伝

 伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
 これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
 大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
 また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。

                                     溝口町発行「鬼住山ものがたり」より


この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
 鬼を退治した人物
    ・ 四道将軍の大吉備津彦説
    ・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説

   ・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝えられている。
    ・ 楽楽森彦命説
    ・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
 鬼住山に来た方向
    ・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
    ・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
    ・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
 楽楽福の社名の由来
    ・ 笹で葺いたためという説。
    ・ 大吉備津彦か稚武彦の別名が楽楽葺という説。
    ・ 金屋子神のササ(砂鉄)をフク(吹く)という説

その他の日野川流域の伝承

 
この伝承も時期及び登場人物からして倭の大乱を反映していると思われる。

鬼住山(左端)と笹苞山(右端)

孝霊天皇は孝霊山の後、北側から鬼住山来たことになっているが,別伝に吉備国から来たというのもある。どちらから来たのか検討してみよう。伝承の順序からすると,北から鬼住山を目指してやってきたと考えられるが,孝霊天皇が陣を張ったと伝えられている笹苞山は鬼住山の南側に位置している。南のほうにも鬼退治伝承があることから南はまだ敵地と考えられ北から来た軍が南に陣を張ると,敵に囲まれたようになり,下手をすると壊滅である。そのようなところに陣を張るとは考えられない。そのため、孝霊天皇は南から来たとするほうが自然ではないだろうか。また、孝霊山で誕生した鶯王が総大将としてこの地に派遣され、この地で戦死したと伝えられている。生まれたばかりの子供が総大将になるということは考えにくいため,孝霊天皇が孝霊山に住まいしてから鬼住山での戦いまで少なくとも十数年経過していることになる。

楽楽福神社(宮原)

 孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが,孝霊天皇はこの後も活躍しており,亡くなったのは鶯王であろう。また,孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)であり,笹に覆われたということは孝霊天皇に攻められたことを意味しているようである。

この戦いを推定すると次のようになる。孝霊山に居を移し、十数年後,孝霊天皇は今度は南の吉備国から伯耆国にやってきて菅福に拠点を置いて,鬼住山には鶯王を総大将として派遣したが,激戦のため,その鶯王が戦死し,そのあと,孝霊天皇が援軍に駆けつけたものと思われる。このことは,孝霊山にいた孝霊天皇は大きく迂回しない限り,一度大和に帰り,再び瀬戸内側からやってきたことを意味している。




(4) 楽楽福神社の伝承(日南町)
孝霊天皇の伯耆国における経路

伝承によると,その後,日南町上菅の菅福神社の地に行宮しているときに皇后の細姫が産気づき生山で福姫を出産した。福姫は15歳で亡くなりそれを祭ったのが印賀の楽楽福神社であるという。その後日南町の宮内に居を移したとなっている。日南町の楽楽福神社では孝霊71年まで長期間にわたって滞在し,ここで,皇后の細姫が崩御し西宮の裏山である崩御山(山頂に御陵あり)に葬られたとある。(現文

この伝承によると,楽楽福の名は孝霊天皇の幼名となっている。それが,砂鉄採取や笹を葺いたからということになったと思われる。宮内の楽楽福神社の伝承によると、孝霊天皇は備中国の石蟹魁師荒仁を退治し同時に出雲振根も退治したとなっている。これは孝霊天皇が一度大和に帰ったこととあわせ,2度目の巡幸での出来事と思われる。ここまでの孝霊天皇の行動をまとめてみると、171年から数年間は第一回目の伯耆遠征は若狭から日本海経由で行われ孝霊山に住まいしていた。その後一度大和に帰り第二回目の伯耆遠征はその十数年後で吉備国経由で行われ、鬼住山の戦い、石蟹魁師荒仁との戦い、出雲振根との戦いがあったと推定される。
 第一回目の遠征は戦闘的要素が少なく平和的で、交渉事項が目的であったようである。第二回目の遠征は戦闘的要素が強く、戦闘が目的に感じられる。

 石蟹魁師荒仁について
  石蟹魁師荒仁との戦いをまとめてみると次のようになる。
日野郡史
  「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。
     そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」


となっている。これは、いろいろと矛盾する伝承である。どれが正しいのであろうか。

 石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。
 これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、この戦いは179年ごろとなる。孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。


楽楽福神社由緒

「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。

孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。

その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。

これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌

  むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。

それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。

即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」

東楽楽福神社(宮内) 楽楽福神社(印賀)
菅福神社(上菅) 西楽楽福神社(宮内)

各伝承の年代設定

 ここで、伯耆国における孝霊天皇関係の伝承の年代を推定してみようと思う。各伝承を古い順に並べてみると、

隠岐の黄魃鬼退治

孝霊山高杉神社伝承   孝霊45

鶯王の誕生       孝霊46年ごろ

孝安天皇崩御

孝霊天皇即位

石蟹魁師荒仁との戦い

鬼住山戦いの始まり

大倉山の戦いの始まり

菅福神社に仮宮を造る

福姫誕生

大倉山の戦いの終わり

鶯王の死        

鬼住山の戦いの終わり

印賀に仮宮を造る    福姫13

福姫の死        福姫15

宮内に仮宮を造る

細姫の死        孝霊71

鬼林山の戦い

御墓山参拝

出雲振根との戦い    孝霊73

孝霊天皇退位      孝霊76

 

これをもとに各出来事の年代を推定してみよう。年代推定のために必要な伝承を整理すると、

A 孝霊天皇が伯耆国に最初に来たのが孝霊45

B 鶯王の誕生はその直後

C 孝安天皇崩御は177年(孝霊56年)ごろ

D 鶯王は鬼住山攻撃軍の総大将であるから少なくとも現年齢で10数歳、古代の年齢で20数歳でなければならない、よって、鶯王戦死は孝霊70年ごろ

E 福姫が印賀で亡くなったとき細姫は生きていたので、福姫誕生は孝霊56年以前、福姫誕生は菅福神社に仮宮を造った直後なので、菅福に仮宮を造ったのも孝霊56年以前となる。

F 孝霊天皇が北から来たとすると、菅福に仮宮を造ったのは鶯王が戦死した後になるため年代が合わない。よって、孝霊天皇は南から来なければならない。その場合孝安天皇崩御は孝霊56年より前でなければならない。孝昭天皇の誕生年から推察すると、孝安天皇の没年は最大でも現年齢で2年ぐらいしかさかのぼらせることができない。よって、孝安天皇の崩御は孝霊52年ぐらいと思われる。

G 孝霊天皇が菅福に仮宮を造ったのは鬼住山の鬼に進路を妨害されたためと思われる。そして、印賀に仮宮を移したのは鬼住山の戦いが終わったためと考えられる。よって、孝霊天皇が菅福に住んでいたのは鬼住山での戦いがあった期間とほぼ重なる。

H 伝承から、大倉山の戦いは鬼住山の戦いが始まったすぐあとで、鬼住山の戦いが終わるすぐ前に終わったと考えられる。

I 鬼林山の戦いが終わったのは吉備津彦が参加していることから、吉備津彦が吉備国を平定完了したあとで孝霊72年のことと思われる。

 これらのことを総合して考えると、ほぼ次のように各事項の年代が固まる。

隠岐の黄魃鬼退治    孝霊45

孝霊山高杉神社伝承   孝霊45

鶯王の誕生       孝霊46

孝安天皇崩御      孝霊52

孝霊天皇即位      孝霊53

石蟹魁師荒仁との戦い  孝霊56

鬼住山戦いの始まり   孝霊56

大倉山の戦いの始まり  孝霊56

菅福神社に仮宮を造る  孝霊56

福姫誕生        孝霊56

大倉山の戦いの終わり  孝霊68

鶯王の死        孝霊68

鬼住山の戦いの終わり  孝霊68

印賀に仮宮を造る    孝霊68

福姫の死        孝霊70

宮内に仮宮を造る    孝霊70

細姫の死        孝霊71

鬼林山の戦い      孝霊72

御墓山参拝       孝霊72

出雲振根との戦い    孝霊73

孝霊天皇退位      孝霊76

これにより孝安天皇の崩御はAD175年ごろとなる。






(5) 吉備津彦の伝承

また,片山神社(岡山県赤坂町)社記には,「若建吉備津彦命は播磨国の諸賊を征した」,孝霊天皇御宇七十二年秋,若建吉備津彦命は吉備平定を完了」と記録されている。孝霊天皇72年は184である。若建吉備津彦命が吉備地方に派遣され,吉備を平定したようである。また,同じく「若建吉備津彦命(吉備若日子建王子)が吉備平定に行く時に,小さな社壇か嗣を造ってアジスキタカヒコネをお禮りし,吉備平定が完了した孝霊天皇御宇七十二年に,再びこの地を訪れ,新しく社殿を造りなおした」とある。これによると,若健吉備津彦が孝霊72年に吉備国に来たのは2回目ということになる。平定開始時に建てた祠を立て直すわけであるから直前ではなく数年前と考えられる。つまり,吉備津彦が吉備を平定するのに少なくとも数年を必要としたということである。古事記の記録によると,吉備津彦は播磨から吉備国へ入っているので,大和から進攻したことになる。孝霊天皇が一時大和に帰ったときのことと思われる。また,孝霊71年まで孝霊天皇が伯耆国にいたとあるが,平定完了が孝霊72年であり,吉備津彦は吉備平定後高橋川をさかのぼって伯耆国に来て孝霊天皇と行動を共にしている。だとすれば、孝霊天皇が2度目の巡幸で伯耆国から大和に戻ったのは孝霊71年より後でなければならないことになる。記録をよく読むと,孝霊71年は皇后の細姫が亡くなったときで、その後大和に帰還したとなっているので,大和に帰還したのが孝霊71年とは限らない。よって,孝霊天皇が大和に帰還したのは孝霊72年よりも後と判断できる。

(6) 二回の各遠征の時期

孝霊天皇の第一回目の遠征は171年からいつまで続き、第二回目の遠征はいつからいつまでだったのだろうか。それを検討してみたいと思う。
 孝霊天皇が
171年から184年(実際は187年までと思われる)までに13年間大和に不在であった。このときの大和の状態はどうであったのであろうか。天皇自身が政治を放棄して長期間大和を離れるというのはいろいろと不安な点が多い。孝安天皇の没年が177年と推定しているので,大和で孝安天皇が在位していたと思われる。とすると,孝霊天皇はこの当時まだ皇太子だったのであろう。しかし,177年から184年までの間は,大和は天皇不在状態だったといえる。この辺りが空位伝承として残ったのではあるまいか。このことが,後漢書「東夷伝」の「主たる王を何年も立てられない状態だった。」という記事につながっているのではなかろうか。
 また
,東日流外三郡誌に,孝安天皇は天皇61年に没し以後41年間は,天皇空位状態であったと記されており,さらに,富士古文書でも孝安天皇80年に大乱が起こったと記されている。「三郡誌」や「富士古文書」が孝霊天皇の西海親政以前の大乱を伝えている。伝承では后の問題で西海親政をしたとなっているが,西海親政の前に出雲周辺で不穏な動きがあり,それを静めるために西海親政をしたと考える。年代推定によると,孝安天皇61年は157年にあたり,80年は166年となる。

孝霊天皇元年は149年である。孝霊天皇の紀年も誕生時からのものと思われるので,天皇が即位したのはいつか分からないが,孝安天皇の没年だとすると,孝霊天皇の即位は177年となる。しかし,天皇に即位するには神聖な儀式が必要と考えられ大和に戻らないとこれは無理であろう。 このとき伯耆国から孝霊天皇は一度大和に戻ったと考えられる。大和に戻った孝霊天皇は即位の儀式を済ませ正式の天皇になった。 その後しばらくして吉備国を中心として不穏な動きが活発化したため,再び吉備国目指して巡幸したと考えられる。
 再び伯耆遠征をしたのはいつのことであろうか、福姫が生山で誕生し15歳(8歳)でこの地で亡くなっているが、これはいずれも第2回目の遠征時と思われ、少なくとも第2回目の遠征は妻の細姫を伴い、最低8年間は行われていたことになる。孝霊天皇は孝霊76年(187年)に退位しているので、179年あたりが第2回目の遠征開始になる。出雲の日御崎神社の伝承によると、「孝霊61年(179年)、朝鮮半島の月支國の王が出雲に大船団で攻め寄ったが、嵐により退散した。」というものがある。これは後の元寇そのままである。ほんとにそんなことがあったとは思えないが、第2回目遠征の推定年代と重なるのである。この伝承は、少なくとも、この年に出雲で戦乱があったことを意味しているのではないかと思う。このことより、第二回目の伯耆遠征を孝霊61年(179年)から孝霊76年(187年)までと推定する。

(7) 横田町の伝承
大菅峠

若建吉備津彦命の伝承を伝える神社が山陽地方に点在している。その神社をたどっていくと最西端は広島県尾道市である。そのあたりまで進攻したようである。また,孝霊天皇も同時に祀られている神社もあり,孝霊天皇も行動を共にしていたようである。このとき,日南町に居を移してしばらく滞在し,その間に,溝口町の鬼住山に鶯王を総大将として派遣し,鬼林山に歯黒皇子を派遣した。鬼林山は平定したが,鬼住山は鶯王が戦死するほどの戦いで,後に孝霊天皇が直接赴いた。これにつながるのが,島根県横田町の伝説で、横田町ふるさと町民会議発行の「タイムトラベル横田」によると、

吉備津彦は、吉備国を平定後,大和朝廷の密命を受けて,大軍を率いて備中を進発し、阿毘縁の関を打ち破り,鳥上・横田に侵入、軍を二手にわけ一軍を飯梨川沿い、一軍を斐伊川沿いに展開して一気になだれ込んだ。
 時の首長出雲振根は討ち取られ、ここに出雲王国は滅びた。
大和朝廷は出雲国の統治を振根の一族宇迦都久怒(うかつくぬ)に託し、出雲の豪族たちを抑えようとした。宇迦都久怒は出雲臣と称し大和朝廷から任命された国造として根をはっていくのである。」

 というものである。

万才峠

 阿毘縁の関は日南町宮内からすぐ北にあり,宮内を拠点として攻め込むにはちょうど良い位置にある。日南から横田町に入る阿毘縁の関と思われる峠は北側の大菅峠と南の万才峠の二つある。大菅峠は狭く、横田町側に入って少し険しいが、すぐに安来方面と横田方面に分岐している。峠を越えてから鳥髪までは少し距離がある。南側の万才峠は船通山の麓を抜け降りたところに鳥髪と呼ばれるところがある。また、船通山にはスサノオが天降したとの伝承が伝わっている。大軍が通過するには万才峠の方が良いようである。
 二手に分かれた各軍の大将は誰だったのであろうか、後で述べる粟谷神社の記録より、斐伊川を下ったのは吉備津彦らしい。もうひとつのコースの将軍は兄の稚武彦と思われるが後ほど検討をすることにする。
 万才峠のコースの場合吉備津彦軍はそのまま川を下ればよいが、稚武彦軍は鳥髪から大菅峠の麓までさかのぼり、そこの市原峠を越えて飯梨川沿いに出ることになる。この場合むしろ大菅峠を破った方が自然であろう。阿毘縁の関を破る前に2手に分かれていたと考えるのである。

また、飯梨川沿いの広瀬町石原に孝霊天皇を祭っている佐々布久神社がある。佐々布久神社のある位置は、飯梨川が平野部に出る境目にあたりで、ここから、当時の出雲軍の安来支庁のあったと思われる能義神社の位置まで直線で約3kmである。布陣するのには良い位置である。孝霊天皇はこの位置で布陣してここを拠点にして出雲の安来支庁を攻めたものと思われる。このときの安来支庁の出雲軍は伯耆国方面に出向いていたため、留守部隊程度しか残っていないと思われ、簡単に占拠できたのではあるまいか。

この頃(弥生後期後葉)の四隅突出型墳丘墓は出雲市の斐伊川沿い,松江市南部,安来市の飯梨川沿いの3箇所に集中分布している。おそらくこの当時はこの3箇所が出雲国の拠点であったと思われる。横田町の伝承はこの3箇所のうち東西の2箇所をたたくというもので,戦略上大変合理的である。


  阿毘縁の孝霊天皇伝承
 大菅峠に至る直前の阿毘縁に砥波というところが

楽楽福神足洗池伝承
 孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが足洗池である。

        「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」 より

あるが、ここの熊野神社に孝霊天皇がやってきたという伝承がある。そして、イザナミ陵に孝霊天皇が参拝したとの伝承もあり、孝霊天皇は出雲総攻撃の前にここにやってきたようである。そして、ここから吉備津彦兄弟が出雲に侵入したのである。








           (8) 吉備津彦軍の進入経路

粟谷神社石碑

  粟谷神社(島根県三刀屋町)の社記には「當社は出雲風土記所載の社にて,孝霊天皇の皇子吉備津彦命に坐まし,此神は崇神天皇の御宇六十年に東海の将軍武浮河別命と共に出雲振根懲罰の大命を奉じて出雲に降り給へりし神にして,往時當地は吉備より出雲の杵築に達すべき要路なれば,則ち将軍の滞陣し給へし所なり。…」とある。ここで言う崇神天皇60年とは日本書紀の編集方針に沿ったものである。
この年がもし同じ干支であるなら
,それは孝霊73(185)となる。まさにこの頃と思われる。この時の吉備津彦は備後から仁多郡を経て三刀屋の地に来たとなっている。
 今の地図でこの経路を確認すれば、広島県の三次市から高宮町を経て仁多町の上阿井を経由しそこから三刀屋に至ったと推定できるが、岡山県の高橋川をさかのぼったとの言い伝えもある。宮内の楽楽福神社の伝承では吉備津彦はここを通って出雲振根を退治したと伝えている。鳥取県の日南町での吉備津彦の活躍伝承があることから、高梁川経由が正しいと判断する。実際の吉備津彦の経路は備後→備中→日南→仁多→粟谷と推定され、備中から来たという伝承はこの途中が抜け落ちたものと推定される。

吉備津彦の予想進路


 若建吉備津彦命は斐伊川沿いに下る軍を指揮して現在の三刀屋町まで下り出雲振根を懲罰したのである。飯石神社の境内社である託和神社には往古吉備津彦を祭っていたのは中野・六重・神代・深野・上山・曾木・川手の七か村であると記されており、この地名を現在の地図でたどってみると、仁多町三成から山越えで斐伊川を下り、三刀屋町神代より粟谷神社への一本のルートが浮かび上がってくる。斐伊川沿いの険しいと思われるところが山越えになっており、このコースに旧道があったのではないかと思われる。実際にこのコースをたどってみると、なだらかな丘陵地が続き古代に大軍が移動するのに適したルートであることがわかった。このルートこそ吉備津彦が通ったルートであろう。湯村から神代に抜けたと思われるが川手はそこから少しずれている。湯村から川手に行く間にヤマタノオロチ伝承地である天が淵が存在する。天が淵には戦闘にて傷ついたヤマタノオロチが逃げ込んだところという伝承がある。吉備津彦軍が出雲軍に見つからないように隠密裏に出雲軍本拠地である神庭の里を目指して斐伊川を下っている最中に、この天が淵で出雲軍の小隊と出くわした。小戦闘があったが出雲軍小隊長は早速本拠地に朝廷軍が侵入していることを伝えようと伝令を走らせたのではあるまいか。吉備津彦はこのまま川を下れば出雲軍本隊と正面衝突になると予想し、裏をかくように湯村まで引き返しそこから小道を三刀屋町神代へコースを変更したと推定する。
 吉備津彦の経路を推定すると次のようなものである。阿毘縁の関(万才峠)を超え、横田町鳥髪に降りた吉備津彦は斐伊川に沿って下り、仁多町三成から山に入り、木次町湯村に出る。ここから再び山を越え三刀屋町神代の地より、飯石川流域に入り、その川を下り三刀屋川との合流点である粟谷神社の位置に出た。粟谷神社の西約100mのところに天辺という小山がある。往古の神社はこの小山の上にあったそうで、ここに吉備津彦は布陣していたのではあるまいか。粟谷のすぐ近くに三刀屋町の三屋神社がある。ここはかつてオオクニヌシが中心としていた地であり、木次を中心とした盆地である。当時の出雲国の拠点のひとつであったと思われる。粟谷はこの盆地への入口に当たる位置にある。戦略上陣を張るには良い位置だと思われる。ここを拠点として出雲振根軍の動きを探ったと思われる。そして、この周辺で出雲振根軍と衝突したのではあるまいか。
出雲振根は斐伊川沿いで戦死したと伝えられている。おそらくこの周辺であろう。
 出雲振根の陣のあった位置を探ってみた。出雲国風土記によると、城名樋山の項に「天の下をお造りになった大神大穴持命が、八十神を討とうとして砦を作った。だから、城名樋という。」となる。この城名樋山は木次町里方にある城名樋山といわれている。この山が出雲振根が陣を張った山ではないだろうか。出雲・伯耆に残る出雲系神話に登場する人物を、出雲国王=大穴持、八十神=大和朝廷とすると、大変よく倭の大乱に照合するのである。このように考えると、この山こそ出雲振根が吉備津彦に対抗するために陣を張った山に該当する。吉備津彦の天辺とは斐伊川を挟んで向かい合う位置であり、互いに様子を伺うには良い位置関係にある。



  (9) 吉備津彦とは誰か

  この事件は,吉備国(岡山県)では,桃太郎として有名で,岡山県内の各神社に,その戦いを伝える伝承が残っている。若建吉備津彦命とは桃太郎のことである。
吉備津彦命は吉備を平定後,吉備国を治め,吉備中山に葬られたとある。しかし吉備中山にある御陵は前方後円墳で時期的には 3世紀後半のものと推定されており時代は合わない。

一般に,吉備津彦といわれている人物は二人存在し,兄の大吉備津彦と弟の若建吉備津彦であり,共に,第七代孝霊天皇の皇子である。 兄の大吉備津彦は斉主として戦いに参加し、実際の戦闘をしたのは弟の若健吉備津彦のようである。神社伝承によると,弟の若建吉備津彦は, 吉備国に入る前に,讃岐を平定している。また吉備国平定後出雲を平定し,伊予国,土佐国と巡回し吉備国へ戻り, 岡山県北房町小殿で崩御したと伝えられている。その地に御陵も存在している。形の崩れた前方後円墳のようである。 弟のほうは方々で活躍した武勇優れた人物だったようである。また兄の大吉備津彦については神社伝承にほとんど見られない。
 大吉備津彦は播磨国の道の口で戦勝祈願の祭礼をしており、神社伝承のほうでも斉主としての性格が強いようである。年代的にも孝霊天皇の時代に活躍し たという伝承もあれば崇神天皇の時代に活躍したという伝承もある。どちらが正しいのであろうか。 大吉備津日子は五十狭芹彦ともいい,崇神天皇の時代に武埴安彦の乱(250年)の平定に活躍しその後,吉備国に派遣されて, 崇神60年(275年)に崩御し吉備中山に葬られたと伝えられている。もし,大吉備津日子が真実若健吉備津彦の兄であれば, その生誕は165年前後と考えられ,110年から生きたことになる。しかも80歳を過ぎてから武埴安彦の乱で活躍したことになる。 これはどう考えても無理である。二人の吉備津日子は共に孝霊天皇の皇子であるが母は異なる。大吉備津日子は百襲姫と同じ孝霊天皇の 3人目の皇后である蠅伊呂泥で若健吉備津日子は蠅伊呂泥の妹で4人目の皇后の蠅伊呂杼の子である。若健吉備津日子は孝霊天皇と共に活躍している 伝承が多く,年代を調べると孝霊天皇がかなり若いときに生まれていると思われる。孝霊天皇は孝元天皇に譲位した後 220年ごろまで生存した節があり、五十狭芹彦はその晩年に誕生したと考えられる。

大吉備津彦は吉備上道臣の祖になったと記録されている。吉備上道とは備前国南部を指し、今の岡山市東部から備前市にかけての領域と考えられる。 大吉備津彦は崇神10年(250年)に吉備上道に派遣され、吉備上道を治めたと考えられる。このときの吉備上道の考古学的変化を追ってみると、 浦間茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳、備前車塚古墳などの巨大な前期古墳が築造されている。特に浦間茶臼山古墳はこの当時としては畿内以外で最大で、 畿内を含めても箸墓に次ぐ規模のものである。その形も浦間茶臼山古墳が箸墓の二分の一サイズで網浜茶臼山古墳が三分の一サイズで相似形をしている。 おそらく畿内で、箸墓が築造された直後に作られたものであろう。まさに大吉備津彦が吉備に派遣された直後から急激に畿内以外には存在しないような 巨大古墳築造が始まるのである。時期といい場所といい大吉備津彦の伝承と完全に符合している。また、大吉備津彦が葬られた中山茶臼山古墳は崇神天皇陵 の二分の一サイズの相似形で崇神天皇陵を築造する頃のものと考えられる。これまた、大吉備津彦が亡くなったと伝えられる275 年ごろとほぼ完全(崇神天皇崩御は279年)に一致する。これらのことから推察するのに、大吉備津彦が吉備に派遣されたのは崇神天皇 10年と考えてほぼ間違いがなく、日本書紀の記述は正しいことになる。

それでは孝霊天皇の時代に若健吉備津日子と共に斉主として吉備平定に参加した兄とされている大吉備津日子は何者であろうか。 吉備下道(備中南部)は倭の大乱の直後から巨大墳墓の築造が始まっている。祭祀系の人物が吉備に派遣されていると思われるが、 その人物は大吉備津彦では無いことになる。姓氏録によれば若健吉備津彦はさらに二人いて兄の稚武彦と弟の弟稚武彦で孝霊天皇の子 ではなく孝霊天皇の兄である大吉備諸進命の子になっている。大吉備諸進命は吉備という名がついているために吉備にかかわりを持った人物と思われる。 しかし、椿井春日神社の記録によれば、孝霊54年この神社の地でなくなりその地で葬られたと記録されており、その御陵もある。 孝霊54年は176年で第1回目の西海親政の最中でまだ大和に孝安天皇が在位中のことである。吉備が大和にとって重要な存在になるのは、 第2回目の西海親政からで、このときまで吉備とかかわりがあるとも思えない。そのため、大吉備諸進命の子供が吉備で活躍したため、 吉備という名がついたと考えられる。古代において,兄弟は兄が斉主として活躍し,弟が皇位を継ぐというケースが多いようであるが, この兄弟もその様なものであったのではないだろうか。つまり、古事記における大吉備津彦は兄の稚武彦で、若健吉備津彦は弟の弟稚武彦ということになる。 稚武彦が吉備を治めるようになってから吉備津彦と呼ばれるようになったために若健吉備津彦となったのであろう。
 また、第二回目の遠征開始年と推定している179年当時、孝霊天皇は30歳である。二人の稚武彦は吉備国で活躍しているために少なくとも20歳前後に はなっているのではないだろうか、そうすると、孝霊天皇の子であるのはすこし苦しくなる。やはり兄の大吉備諸進命の子であると考えるほうが自然である。 (推定系図

皇室系図(推定)
     神武天皇┬神八井耳──雀部臣──雀部臣──孝元天皇───開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇
         ├綏靖天皇──孝昭天皇─孝安天皇┬大吉備諸進命┬稚武彦(吉備津彦)
         ├安寧天皇           │      └弟稚武彦(吉備武彦)  
         └懿徳天皇           └孝霊天皇┬──倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)
                              └──────彦五十狭芹命(男弟)─豊受姫(台与)


若健吉備津彦は吉備下道の祖になったと記録されている。吉備下道は備中国南部を指し、岡山市西部から倉敷市、総社市及びその周辺であると考えられる。この地域の考古学上の変化と照合してみたい。吉備下道と推定されている地域は、倭の大乱が終結したと思われている180年頃の直後より、まず、楯築双方中円墳、宮山墳丘墓、矢藤治山弥生墳丘墓、黒宮大塚など、古墳時代には入らないが、その直前の巨大弥生墳丘墓が登場してくる。その核になっている地域は吉備中山・楯築・総社市三輪で、数キロ以内に集中している。まさに若健吉備津彦がいたと思われる時期と重なるのである。この祭祀を広めたのは兄の稚武彦であろう。若健吉備津彦の吉備派遣は孝霊天皇時代のものと判断して間違いはないようである。

このことより、倭の大乱で活躍した吉備津彦は二人いることになり、これが、古事記に書かれている大吉備津彦と若健吉備津彦ということになる。日本書紀に描かれている吉備津彦は五十狭芹彦で孝霊天皇の晩年の子と思われる。日本書紀ではこの人物を大吉備津彦としている。古事記に書かれている吉備津彦の兄のほうは祭祀を中心としており、弟のほうは戦闘が得意だったようである。以後兄を稚武彦、弟を弟稚武彦と呼ぶことにする。

 これを元に阿毘縁の関を破った吉備津彦について検討してみよう。まず、阿毘縁を破ったあと、斐伊川を下って粟谷に陣を構え、出雲軍の大将である出雲振根を破ったのは戦闘がかなり得意だったと思われ、弟稚武彦ではあるまいか。それに対し、阿毘縁を通過後飯梨川沿いに川を下り佐々布久神社に陣を構えたのは兄の稚武彦と思われる。飯梨川を下ったのは当初孝霊天皇ではないかと考えていたが、孝霊天皇の行動を調べていくうちに孝霊天皇は伯耆国(米子市近辺)から出雲国に入ったと思われる伝承が見つかったので、孝霊天皇ではないことになる。事実、阿毘縁の関を破ったあと、飯梨川流域に入ったところにある西比田の比太神社には孝霊天皇ではなく吉備津彦が祭られている。この比太神社は背後に御墓山があることから、イザナミ命の祭祀跡と思われる。その祭祀を行ったのが吉備津彦ではあるまいか。祭祀を行うのは稚武彦である。稚武彦が軍を率いて飯梨川沿いに下ったものと考える。そして、佐々布久神社の地で米子方面から侵入してきた孝霊天皇軍と合流したのではあるまいか。孝霊天皇軍の侵入経路に関しては黄泉国神話の項で詳述


(10) 大乱の時期

 山陰地方に伝わる孝霊天皇の伝承を探ることにより、大乱の時期・概要がかなり詳しく分かってきた。孝霊天皇が最初伯耆国に遠征したのが孝霊45年(171年)で、これは戦闘というよりも交渉であった。孝霊57年(177年)、孝安天皇崩御により一度大和に帰還したが、孝霊61年(179年)、中国地方が騒乱状態になったために今度は戦闘を目的として第2回目の遠征が始まった。この遠征は孝霊天皇が退位した孝霊76年(187年)まで続いたが、実際の戦闘は孝霊73年(185年)で終了しているようである。このことより、この大乱の本当の戦乱期間は179年から185年となり、梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178183)とほぼ完全に重なるのである。

 また、後漢書によると後漢の桓帝と霊帝の間に起こったと記録されており、こちらの方はその帝位継承の年(167年)以前に起こったと解釈され、出雲で不穏な動きが始まった時期も含んでいるのかもしれない。

           (11) 出雲振根の活躍時期

出雲国造家の系図@

     1世   2世   3世  4世   5世   6世   7世   8世  9世
天穂日命──武夷鳥命──櫛瓊命──津狭命──櫛甕前命──櫛月命──櫛甕鳥海命─櫛田命──知理命──毛呂須命─

    10世    11世    12世    13世   14世      15世      16世    17世
   ─阿多命─┬出雲振根
        ├飯入根命──鵜濡渟命──襲髄命──来目田維穂命──三島足奴命──意宇足奴命──宮向宿禰
        └甘美狭命──野見宿禰 

出雲国造家の系図A(出雲国造世系譜)
 
1天穂日命-2-3-4-5-6-7-8-9-10-┬11阿多命(又の名出雲振根)
                   |
                   ├11伊幣根命-12氏祖命-13┬14来日田維命-15-16-17出雲国造宮向臣-
                   |           |
                   └甘美韓日狭      └ 野見宿禰


 出雲振根の活躍時期は日本書紀では崇神天皇の時期となっている。しかし、記録によってさまざまなブレが見られる。上の系図@は一般に知られている系図で、Aは出雲国造世系譜の系図で出雲振根周辺に若干の違いがある。系図に違いがあるため、まずどちらの系図が正しいかを判断してみたいと思う。出雲振根の弟の飯入根の子である鵜濡渟命が初代の出雲国造に朝廷から任命されている。この命は天穂日命11世の孫と記録されている。また、その系統である野見宿禰は姓氏録や神社伝承によると14世孫で垂仁天皇のとき(280年頃)活躍した記録が残っている。系図@では野見宿禰は12世であるために、方々の神社に伝えられている14世という伝承との間に食い違いがある。系図Aでは正しく14世になっている。このことから、一般的な@の系図よりAの系図のほうが正しいといえる。おそらく、出雲が朝廷に服属したとき、朝廷の気に入るように系図を操作したのが系図@ではないだろうか。次に、天皇系図との照合を図ることにする。
 櫛瓊命が神武天皇と同世代で17世宮向宿禰が第18代反正天皇の時代に出雲の姓を賜っている。これより、櫛瓊命はAD80年ごろの人物で宮向宿禰はAD435年ごろの人物ということになる。では、問題となっている出雲振根の活躍時期はいつごろなのであろうか。
 系図Aで3世が神武天皇と同世代でAD80年ごろ、17世が反正天皇と同世代で435年ごろと推定される。この間15世で1世平均24年前後となる。少し短めであるがまず妥当といえる。しかし、この平均で野見宿禰の活躍時期を推定すると、340年ごろで神功皇后の時代、出雲振根は290年ごろで垂仁天皇の時代となり、古事記・日本書紀・神社伝承いずれの記録とも会わない。
 しかし、野見宿禰が日本書紀のとおり垂仁天皇の時代に活躍したとすれば一世約30年として計算すると、鵜濡渟命の活躍時期はその2世(約60年)前となり、210年ごろで倭の大乱直後となる。そうすると、出雲振根の活躍時期は180年から210年頃となる。まさに倭の大乱の時期と重なるのである。楽楽福神社の記録にも出雲振根は孝霊天皇が退治したという別伝があり、出雲振根は倭の大乱の頃に生きていたといえよう。
 野見宿禰が日本書紀のとおり垂仁天皇の時代に活躍したという仮定の下であれば出雲振根が倭の大乱の時期に重なり、さまざまな神社伝承とも一致するのであるが、その前後の代数におかしなところが表れる。
 それは、この場合、櫛瓊命(80年頃)から出雲振根(180年頃)の間の年代は100年程度と考えられ、これが9世(1世平均11年)とは短すぎる。また、野見宿禰(280年頃)から宮向宿禰(435年ごろ)まで4世が155年程度(1世平均39年)は少し長いように思える。この謎を解くための記録が見つかった。反正天皇4年に17世宮向宿禰が朝廷より出雲の姓を賜ったとき、「これより代々祭祀を世襲する」と記録されている。ということはこれ以前は世襲ではなかったということを意味している。天穂日命の系統の人物のうち何かの条件を満たしたものが出雲の祭祀権を相続していたのであろう。出雲振根より前と後で1世あたりの平均が大きく違うのであるが、前半では出雲独自で祭祀者を決められたため、安易に交代が可能だったのに対して、後半では朝廷から任命されることになったため、安易な交代ができず1世あたりの平均年数が延びたものと考えられる。
 出雲国造家は出雲自治政府の指導的役割と、旧倭国地域のスサノオ信仰の束ねであり、その権威は相当なものであったに違いない。3世の櫛甕前命までは順調に親子で引き継がれていたが、2世紀なかば(140年ごろ)、寒冷期に突入し、人心が不安定になり、その結果不規則な相続が行われたのではあるまいか、その中で、スサノオ信仰の強化を打ち出した出雲振根が人々の信頼を得て第10代のスサノオ祭祀者となったと思える。
 古事記や日本書紀のとおり出雲振根が崇神天皇時代の人物だと仮定すると、系図@で出雲国造家と皇室系図の照合は完全に説明できる。しかし、出雲振根を倒した人物(吉備津彦)に該当者がいなくなる。崇神天皇時代の吉備津彦といえば五十狭芹彦(大吉備津彦)である。彼は吉備国で祭祀者として神社に記録されており、戦闘を行った記録はない。戦闘を行ったのは若健吉備津彦(弟稚武彦)であり、彼は吉備国で鬼退治したという伝承とともに祭られており、また、孝霊天皇と同時に祭られている。孝霊天皇の時代の人物と考えられる。それに出雲の首長が倒されると、出雲国内に大規模な考古学的変化が起こると予想されるのであるが、出雲地方での大きな考古学的変化は方形周溝墓が出現したり畿内系土器の出土が始まるなど倭の大乱の直後に起こっている。崇神天皇の時代(古墳時代初期)には大きな変動は起こっていない。やはり出雲国に大きな歴史的事件が起こったのは倭の大乱と考えられるのである。そうなれば、孝霊天皇の時代となり、系図Aが正しいことになるのである。
 熊野大社の伝承によると、出雲国造になるためには熊野大社で火継ぎの儀式(現在まで受け継がれている)を受けねばならない。振根は早速熊野大社でこの儀式を受け、熊野大社の神官(言代主)によるスサノオの言葉に基づいて出雲国の祭祀を神都といわれていた神魂神社で司っていたと考えられる。出雲振根は出雲の神宝を管理していたようで、この当時は荒神谷遺跡のすぐ近くの神庭の地に本拠を置いていたと思われる。度重なる大和との交渉も振根が言代主の言葉を基にして一手に引き受けていたのであろう。朝廷が伯耆国まで来ている情報を得て鬼住山をはじめ各地の出雲軍に防衛体制の指示を出していたと思われる。
 


天皇系図
      1世   2世    3世   4世    5世     6世   7世    8世    9世   10世
   神武天皇┬神八井耳──雀部臣─雀部臣──孝元天皇──開化天皇──崇神天皇─垂仁天皇─景行天皇─成務天皇
       ├綏靖天皇──孝昭天皇─孝安天皇─孝霊天皇
       ├安寧天皇
       └懿徳天皇


 

西角井従五位物部忠正家系
天穂日命─天夷鳥命┬伊佐我命(櫛瓊命)
         |  1世              2世   3世    4世    5世
         └出雲建子命(櫛玉命、伊勢都彦命)─神狭命─身狭耳命─五十根彦命─天速古命─┐
           (神武天皇のとき伊勢へ)                        │
┌──────────────────────────────────────────────┘
│  6世          7世      8世       9世
└─天日古曽乃巳呂命─忍兄多毛比命─若伊志治命┬兄多毛比命(武蔵国造)
                       |(成務天皇のとき国造に任ぜらる)
                       └乙多毛比命(相武国造)

   出雲振根と飯入根との関係

 大和朝廷からの使者が来たとき、出雲振根が筑紫に出張していて留守だったので飯入根が祭器を渡した。 出雲振根はその数年後飯入根を殺害したと日本書紀に記録されている。この場所は出雲市の阿須利神社の地であるといわれている。 この神社は『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社で、『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、 とあり、また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話がある。 この神社は本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していたそうで、この周辺で出雲振根は飯入根を殺害したと判断される。 ここは斐伊川河口周辺で荒神谷遺跡から数kmほどしか離れていない。
また、次のような伝承もある。

 飯入根が朝廷に神宝を渡した翌年の真夏の日、振根は弟飯入根を前の川(赤川)に遊泳に誘った。二人はしばらく遊泳をした後、兄は弟より先に堤に上がり 弟の剣を自分の竹の剣と取替え、弟の上がるのを待ち構えて斬りつけた。弟は遂に切り殺された。飯入根の墓は赤川沿いのすくも塚である。

このように飯入根の殺害された場所が2箇所ある。出雲振根・飯入根ともに出雲の神宝の管理をしていたようで、神宝を安置していたところは神原の代寶垣と 呼ばれるところであると伝えられており、出雲振根・飯入根の本拠地は神原の地であったと考えられる。このことから、飯入根終焉の地はすくも塚の近くといえよう。  振根が数年後に飯入根を殺害したということは殺害理由が祭器を朝廷に渡したからだけではなく、別の理由があるのではないだろうか。大乱後飯入根の子である 鵜濡渟命が朝廷から初代の出雲国造に任命されており、これは、飯入根が朝廷に対して好意的だったことを意味している。 飯入根は振根と違い出雲が朝廷の支配下になることに賛成していたのではあるまいか。そのために、振根に殺害されたと思えるのである。

 出雲振根終焉の地

 斐伊川と赤川が合流する下神原の地に兄塚(草枕山麓)がある。出雲振根の墓と伝えられている。近くに草枕山がある。この山にヤマタノオロチの伝承が伝わっている。
 「神代の昔、簸の川上で毒酒を飲んだ大蛇が、素盞嗚尊に追い立てられ、転々苦悶して川を下り、この地まで流れ来て、草を枕に伸き居る所を、尊は遂に其の八頭 を斬り給うた所である。」
  一説には出雲振根はここに追い詰められ、自害したと伝えられている。 出雲振根の終焉の地とヤマタノオロチの終焉の地の二つの伝承が非常に似通った位置にある。出雲振根がヤマタノオロチとして言い伝えられていると判断される。
  実際のところを推定すると、
 「天辺に陣を構えた弟稚武彦(スサノオ)軍と、城樋名山に陣を構えた出雲振根(ヤマタノオロチ)軍が、斐伊川沿いの木次町里方で衝突した。激戦の末、 形勢不利となった出雲振根軍は斐伊川沿いに下流に退却した。御代神社周辺で振根軍は追撃してきた吉備津彦軍に大敗し壊滅した。傷ついた振根は、さらに下り草枕山の麓で傷ついた体を 休めて居る所を弟稚武彦軍に見つかり囲まれた。出雲振根は、自害をして果てた。 出雲振根の遺骸は兄塚に葬られた。」

吉備津彦軍の初敗北

 吉備津彦(吉備武彦・弟稚武彦)は戦闘に対して大変強く、ここまですべての戦いに無敗であった。無敗のままであった場合、 出雲攻略に成功しているはずなのであるが、倭の大乱は引き分けに終わっている。吉備津彦軍はどこかで出雲軍に敗北しているはずである。その場所を探ってみた。

大原郡大東町幡屋(現雲南市)に石井谷がある。この地はその昔大国主命が八十神を討伐したところと言い伝えられている。大国主は八十神に対して敗北した伝承 あるいは陣地を作ったという伝承があるが八十神を討伐したというのは知る限りここのみである。おそらく、この地が出雲軍が吉備津彦軍を撃破した地であろう。
 この地には「吉備津彦が意宇の方面よりやってきて天場(幡屋内の字)の地で神事を行なった。」という伝承もある。吉備津彦が意宇方面からやってきた場合、 出雲の聖地を通過していることになり、出雲国は朝廷に対して完敗しているはずである。吉備津彦は斐伊川沿いに下っている伝承の方がはるかに 具体的であるので、吉備津彦は斐伊川を下って幡屋の地にやってきていると考えたほうがよさそうである。意宇方面からやってきたのは出雲軍ではないだろうか。
 吉備津彦軍は天辺を出撃し、城樋名山から出撃してきた出雲振根軍と戦った。形勢不利となった振根軍は下流方面に退却をした。振根軍は御代神社周辺で追い詰められ 壊滅した。振根自身は傷を負いながらも草枕山の麓まで逃避行したが、遂に吉備津彦軍に囲まれた。振根は「もはやこれまで」と自害して果てた。振根は近くの兄塚に 葬られた。戦勝に勢いづいた吉備津彦軍は赤川を遡り出雲国聖地である意宇方面を目指して進撃していった。そこへ意宇方面からやってきた出雲軍本隊と衝突し、吉備津彦軍は 初敗北を喫した。吉備津彦軍は天辺まで退却した。


         スサノオ祭祀の中断

 日本書紀では朝廷により振根が殺害された後、出雲大神を祭るのをしばらくやめており、朝廷の働きによりしばらく後鏡を用いた祭礼を再開したことが記録されている。これは、どういうことであろうか。
 振根はスサノオ祭祀者であったために、振根亡き後は戦乱の混乱のため祭礼ができない状態にあったのではあるまいか。 倭の大乱後の和平交渉の結果、朝廷の指示の元での初代出雲国造鵜濡渟命による、新形式のスサノオ祭祀が始まったのであろう。 その間に断絶があるのではあるまいか。それまでのスサノオ祭祀は言代主が出雲町の能利刀社の地で熊野山を仰ぎながら、スサノオの言葉を聞き、その言葉をスサノオ祭祀者に伝えスサノオ祭祀者は神魂神社の地で各地の代表者を集めて、その言葉を伝えて政治を行うというものであった。言代主はいつの間にか姿が消えており、スサノオ祭祀者(出雲国造)による単独祭祀に移行しているのである。言代主が廃止されたのもこの倭の大乱によるものではあるまいか。
 倭の大乱後吉備国を中心として稚武彦主導による新祭礼の方法が研究されたが、出雲のスサノオ祭祀もその影響を受けて変化したのであろう。そうすれば、新しい祭祀形態が確立していった200年ごろまでの10年から20年ぐらいの間スサノオ祭祀が中断していたことが考えられる。その試行錯誤の一環が西谷四隅突出型墳丘墓による祭礼であろう。

          大乱後の出雲の統治圏

出雲国風土記に次のような記事がある。意宇郡母里郷の項「天の下をお造りになった大神大穴持命が、越の八口を平定なさって、 お帰りになるときに、長江山においでになっておっしゃったことには、「私がお造りになって治めていらっしゃる国は、天津神の御子孫である天皇が、 平安に世をお治めになるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青々とした山を垣としてめぐらしになさり、玉をお置きになってお守りになる」 とおっしゃった。だからこの地を母里という。

 この記事は出雲の国を残してそれ以外の地は天皇(大和朝廷)に譲るというもので、 出雲の国譲りに該当すると考えがちであるが、国譲りの時点では天皇はまだ存在してはいない。譲る対象は天照大神であるはずである。 このことから、この記事は倭の大乱の講和条件をあらわしていると考える。実際に倭の大乱以前、出雲統治圏(東倭)の領域は山陰地方・安芸国(神武天皇時代に朝廷に譲る。) を除く瀬戸内海沿岸地方・紀伊国であった。しかし、倭の大乱後は出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっている。 この状況がこの記事と一致しているのである。そうであるとすれば、出雲神話によく登場するオオクニヌシとは出雲側の歴代国王を表わしていることになる。

     

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