神武天皇大和進入

 第1項 東遷時の大和国内の情勢

 佐野命東遷の頃(AD80年頃)の大和の状態はどうなっていたのであろうか。ニギハヤヒ命がAD30年ごろ一団を率いて近畿地方にマレビトとして進入し、それから50年ほどたっている。進入したマレビトの孫が活躍する時代である。AD45年ごろからの10年間にニギハヤヒ命はマレビトの子孫を率いて東日本一帯を統一し、大和は日本国の中心として栄えていた。ニギハヤヒ命がAD60年ごろ亡くなった後は、後継者争いが起こっていたようである。

 ニギハヤヒの正妻と思われる人物は大和進入で最初に結婚したナガスネヒコの妹であるミカシヤヒメである。彼女との間にはウマシマジが生まれており、実質日本国は彼が統治していた。

<推定系図>
           三島溝咋耳命───三島溝杙姫 ─┐  ┌─奇日方天日方命・・・三輪氏
                                  │  │
                                  ├─┤
                                  │  │
素盞嗚尊───饒速日尊─┐  ┌──事代主神─┘  └─姫鞴五十鈴姫─┐
          (大国主)  │  │  (玉櫛彦命)                  ├─綏靖天皇
          (大物主)  ├─┤                 神武天皇───┘
                  │  │
高天彦────高照姫──┘  └──下照姫─┐
                         (御年神) ├天八現津彦命-観松彦伊呂止命・・・賀茂氏
           大国主────味鋤高彦根神─┘
                         (賀茂大御神)

 他に葛城一族、三輪一族との間にも婚姻関係があった。ニギハヤヒ命はマレビトということで方々に子孫を作っていたのである。これらの子孫の中で佐野命の妻となる候補に挙げられたのが、三輪一族の娘イスケヨリヒメ(姫鞴五十鈴姫)であった。イスケヨリヒメはニギハヤヒ命が葛城一族の娘高照姫との間にできた子であるコトシロヌシ(玉櫛彦命)が、三輪一族の娘と結ばれてできた子である。当然ながら三輪一族はサヌ命(佐野命)との婚姻を積極的に推進しようとしたが、ナガスネヒコ一族や葛城一族は反対派であった。このように大和国内には反対派と推進派が入り乱れている状態であった。地理的分布を調べると、ニギハヤヒが晩年大和盆地の東側に住んでいた関係上、大和盆地の西側は反対派で占められており、賛成派は東側に多かった。

 第2項 紀伊半島の情勢 

 紀伊半島は、スサノオがAD20年ごろ、日向のイザナギ、イザナミの協力を得て倭国に加盟させた。その後、五十猛命、大屋津姫、爪津姫を派遣し紀ノ川流域地方を中心に開拓した。その後ニギハヤヒの子である高倉下命がニギハヤヒの大和進入の後、紀伊半島南部(新宮市、熊野市、熊野川流域)に派遣され開拓していた。

 ヤタガラス(鴨建角身命)とは誰であろう。一般には三島溝咋耳命といわれているが、明らかに年代が合わない。日本書紀にある陶津耳の異伝名が奇日方天日方武茅渟祇である。奇日方天日方を鴨と解釈すると、「かもたけちぬつみ」となり、鴨建角身命と推定できる。鴨建角身命が奇日方天日方であるならば、年代もちょうど適合する。

 賀茂氏系図

①高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命
      (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        
                    (三島溝杭耳命)
                                 ┌鴨建玉依彦命
②神皇産霊尊-天神玉命-天櫛玉命-鴨建角身命┤
                          (八咫烏) |
                                 └玉依姫命-賀茂別雷命

 推定系図とミックスして考えると、次のような仮説となる。三島溝杭耳命=鴨建角身命と設定したために狂いが生じているようである。鴨建角身命が三島溝杭耳命の孫だとすると、鴨建角身命=奇日方天日方命=賀茂別雷命なり、すべての系図がほぼ一致するという結論に達する。鴨建角身命は佐野命の妻になる人物の兄となる。

③ 賀茂氏推定系図

                                   ┌鴨建玉依彦命
 高魂命-伊久魂命-天押立命----陶津耳命--┤
              (神櫛玉命)   (三島溝杭耳命)└玉依姫命-賀茂別雷命
                                             (建角身命)

 鴨建角身命は佐野命とは新宮市で出会ったと伝えられている。大和に生まれたはずの鴨建角身命は新宮市近辺に住んでいたことになる。日本国は東日本を統一した後、紀伊半島一帯を開拓するために有力者を派遣していたのであろう。鴨建角身命は熊野山中を佐野命の道案内しているが、それができるということ自体が彼が、大和と紀伊半島を何回も往復する立場にあったということを意味している。鴨建角身命は高倉下命や五十猛命との連絡を取りながら紀伊半島と大和を往復していたのである。そして、佐野命東遷時には現在の新宮市近辺に住んでいたことになる。

 天神玉命、天櫛玉命はニギハヤヒ命と共に大和に下ったメンバーの中に存在する名である。鴨建角身命はマレビトとして近畿地方にやってきた人物と現地の女性との子孫ということになる。櫛玉はニギハヤヒ命の本名内に存在している名称なので、天櫛玉命はニギハヤヒ本人とも思われる。溝咋神社では三島溝杭耳命は日向からやって来た神と伝えられており、彼もマレビトであると思われる。天神玉命、天櫛玉命、三島溝杭耳命はいずれもマレビトのようである。このことはこの3人は同世代であることを意味しており、賀茂氏系図はニギハヤヒ命と共に一斉にやって来たマレビトが系図の中で直系につながっているようである。おそらく、この3名の子孫が賀茂氏を名乗っており、その祖先伝承が互いに重なり合ったためにこのような系図になったのではあるまいか。

神武天皇熊野迂回関連伝承地の地図

 第3項 佐野命生駒山直越

 日本書紀
 「戊午春2月11日、吉備高島宮を出発した一行は、3月10日川をさかのぼって河内国草香邑の青雲の白肩津についた。」

 戊午2月はAD81年夏ごろであろう。当時の1ヶ月は今の半月に相当すると考えられるので、約半月で草香邑についたことになる。岡山大阪間170kmほどを当時の水行では一日20kmほどといわれており、単純計算で10日ほど(邪馬台国への行程参照)で到達することになる。間の5日ぐらいが家島に滞在していた日数であろう。

 この当時の大阪平野は大きな湖(河内湖)があり、その湖に北から淀川、南から大和川が流れ込んでいたようである。大和川は現在は南を流れているがこの当時は河内湖に流れ込んでいた。河内湖と海をつなぐ水路は大和川であった。日本書紀に「川をさかのぼって」とあるのは、大和川のことであろう。

 「河内国草香邑の青雲の白肩津」というのは現在の善根寺の周辺といわれている。当時はこのあたりまで湖が広がっていたのである。善根寺には現在春日神社があり、この神社から生駒山越えの道が通じており、その入り口に佐野命の孔舎坂(くえさか)古戦場石碑が建っている。

 日本書紀によると、3月10日に白肩津に着いた一行は、4月9日に龍田を越えて大和に入ろうとしたが、道が険しく断念して、生駒山直越えの道を選んだとある。この点に関して疑問点がいくつか存在している。それを挙げると
① 大和川をさかのぼって大和にたどり着くのが、この当時のもっとも標準的な大和進入方法だと推定されるが、 なぜ陸路を選択したのか。
② 龍田越えは大和川にほぼ準じた山越えの道であり、古代から開かれていたようであるが、白肩津からはかなり南回りの道である。なぜ、そんなに遠回りの道を選んだのか。
③ 白肩津から少し北へ回れば、ニギハヤヒ命が大和進入に使った天の川に沿った道が存在する。この道をなぜ選ばず、わざわざ、生駒山直越えの道を選んだのか。
 陸路の選択はこのように不可思議なことばかりである。伝承だからと片付けてしまえばそれまでであるが、真実であったと仮定して、その理由を次のように考えてみたいと思う。

 第一に考えられるのは、大和国内の合併反対派の動きであろう。合併反対派は大和国内の西側に多く、生駒山や葛城山周辺がその拠点であったと思われる。反対派も佐野命一行の動きは察知しており、大和川をさかのぼる水行経路は封鎖されていたと考えるべきである。佐野命一行は戦闘を目的としているわけではなく、婿入りが目的であるので、無用の戦闘は極力避けようとするであろう。そのために、大和川をさかのぼる経路は選ばなかったと考えられる。

 白肩津に到着してから龍田越えを実行するまでに日本書紀で1ヶ月(実質半月)かかっている。この期間は大和やその周辺の情報集めに費やしたのではないかと推定する。使者を周辺に派遣して、賛成派、反対派の状況や、地理を把握し、それらの情報を元に大和への進入経路を検討したものであろう。生駒周辺にはナガスネヒコを筆頭とする反対派の地域に含まれており、目的地の三輪山周辺にたどり着くには龍田越えが最もよいように思われたので、それを実行しようとした。道の様子は現地の人からの情報で把握していたはずであり、険しいから引き返すと言うことはまずありえない。龍田越えを断念したのは、安全を確認してから龍田越えをしようとしたが、反対派がそれを察知して、龍田周辺に軍を派遣して封鎖していたからではあるまいか。

饒速日山(正面に生駒直越道がある) 生駒直越入口の古戦場石碑

 大和に河内から進入する経路のすべてが反対派によって封鎖されていた。強行突破できるほどの戦力はなく、残る手段として反対派のナガスネヒコに賛成派に転じてもらおうとすることが推定される。生駒山直越えコースの山頂部は饒速日山と呼ばれており、饒速日尊が大和にマレビトをつれてきて近畿地方一体を統治していた頃、河内と大和の両方に見晴らしが利くこの山に拠点を置いていた。この当時はその祭祀施設が残っており、饒速日尊の聖地(饒速日尊の御殿址の伝承地あり)となっていた。ナガスネヒコは饒速日神を崇敬しており、佐野命一行が饒速日神に奉仕する態度を見せればナガスネヒコの考え方が変わるかもしれないと判断し、生駒山直越えコースを選んだのではあるまいか。饒速日山で饒速日神に参拝した後、ナガスネヒコ本拠地を訪ねて話し合いにより目的を達しようとしたと考えられる。ナガスネヒコ側はその動きを察知して、饒速日山に軍を配置して佐野命一行がやってくるのを待ち構えて矢を放って追い返したのである。このとき兄五瀬命の肘脛(ひじはぎ)にあたった。そこで、この山を「厄山」と呼ぶようになった。

佐野命東遷経路

 第4項 五瀬命落命

 大和国に西側から侵入することをあきらめ、葛城山の南から侵入するコースを選択した。以下に大阪府下の佐野命関連伝承地を北から順に示す。

 盾津 
 神武天皇は草香津に引き返し盾を並べて盾津と呼び、雄たけびを挙げて士気を鼓舞した。幸い敵が深追いして来なかったので武器、兵糧、兵員の撤収を完了し、四月二十三日に盾津から出発して再び大阪湾に船団を浮かべた。

盾津顕彰碑 盾津から見た生駒山

 梶無神社 祭神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめ)
        東大阪市六万寺町3丁目
   神武天皇東征の時、孔舎衛坂戦に利無く紀州に廻幸の途、波高く風強く船梶が折れた所、この地に無事に船を着けることができた、これは祖神のご守護として二神を祀った、この地を梶無と命名された。神武天皇上陸地は現在の下六万寺町3丁目付近の梶無の小字名の残る地であるという。

梶無神社

 日部神社 祭神 佐野命、彦坐命、道臣命  大阪府堺市草部262
 当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地な りと古事記伝に記されている。
 「輪の内」の旧社地(現在地の南方約三百米)の近くに「御山古墳」という道臣命の墳墓 と称する古墳がある。

 大阪府泉北郡忠岡町・大津町の口碑
  五瀬命の矢傷を洗ったところと伝える。

 男乃宇刀神社 祭神 彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命 大阪府和泉市仏並町1740
神武が大和めざして進軍中、兄五瀬命が矢傷を負ったとき、地元の豪族「横山彦命」が二人をこの地に迎え仮宮を造ったのが起源とある。

 蟹井神社 
 神武天皇東征の折、紀の川を上り、紀見峠にて賊慮の状況を視察した時、今の神社の北に天見川の石を集め、磐境として神籬を建て、天津神を祀って戦勝祈願をしたのが創始。

 神引分神社 祭神 佐野命
         泉佐野市字東千振引分森
 神武天皇御東遷の際、皇軍、賊慮の襲うところとなり、奮戦ついに撃退したところ。

 日根神社 祭神:鵜葺草葺不合尊、玉依比売命
      泉佐野市日根野631-1
 神武天皇が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまり

 男神社 祭神 彦五瀬命 神日本磐余彦尊命 天児屋根命 熊野速玉命
       大阪府泉南市男里3丁目16-1
由緒
 元府社・男(おの)神社は大阪府泉南市男里、即ち古への呼唹郷(おのさと)の地である延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命、神日本磐余彦尊命を祀り、相殿には、天児屋根命、熊野速玉命を祀る。境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹鬱蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。その北方一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で境内九千平方メートル松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門(おのみなと)は、即ち此の地である。
 神武天皇御東遷のみぎり、孔舎衛坂で長髄彦と激戦した。 此時、皇兄・彦五瀬命が賊の流矢に中って、肱脛に瘡を負はせあれ、『吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故れ賊奴が痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ』と仰せられた。よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し、紀伊に向わせられよとして紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重あせられた命は、剣の柄を堅く握られ『酒哉大丈夫にして披傷於虜手、報いずして死なむや』と雄詰(おたけび)給ふた。よって、此の地を雄水門といふ。
 即ち、彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが当社で、社伝によれば、貞観元年三月、今の地に御遷座し奉ったという。毎年十月十一日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地に神輿渡御の儀が行われる。 明治七年七月畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。

男神社

 男神社浜宮
 男神社の元宮である。
神武の兄五瀬命が生駒日下坂の戦いで矢傷を負い、その傷が悪化この地で”雄たけび”して亡くなったとある。この雄たけびが雄水門(男水門)の名の由来となっている。

神武天皇雄水門顕彰碑 浜宮

五瀬命が亡くなるまでの行程推理

 大和へ入るには大和川を遡るのが定石である。その経路をとらなかったのは、その周辺を反対派が占拠していたためと考える。記紀に書かれているような東征であれば、戦闘で打ち破れば済むことである。相手の戦力がはるかに上回っていたのであるなら、熊野経由であっても佐野命は大和には入れなかったはずである。戦闘目的ではなく東遷であり、戦闘を避けるため熊野迂回をしたものと判断する。大和川以外にも西側から大和に入る経路はいくつもあるが、その入り口がいずれも反対派に占拠されていたため、熊野迂回をすることになったのであろう。
 蟹井神社の伝承に紀ノ川を遡って紀見峠にて賊慮を視察したとあるが、紀ノ川を遡って紀見峠に来る必要は地理的に見てありえない。そのまま遡って御所あたりの様子を見るはずである。天皇は天見川を遡って紀見峠から紀ノ川流域の様子を探ったのではないだろうか。その結果、ここから大和に入れないということがわかり、和歌山に立ち寄ったとき、紀ノ川を遡らなかった理由が説明できる。蟹井神社の伝承は方向が逆であると推定する。

 佐野命一行は饒速日山でナガスネヒコの弓矢を受けて五瀬命が傷つき、命からがら草香津まで戻ってきた。追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。ナガスネヒコにとっても天皇一行を追い返せばよいのであって殺害する必要はなく、その気もなかったのであろう。
 会議を開いて、大和に西側から侵入するのは不可能であることを悟り、南からの進入を考えた。早速船に乗り、草香津を出航した。

 出航直後、嵐がやってきて船の梶が折れたので、梶無の地に上陸し船を修繕した。途中(日部神社)で休息をとり、大津町あたりに上陸して五瀬命の傷を洗っていたところ土地の豪族横山彦命が現れた。彼は仮宮(男乃宇刀神社)を作ってくれ、佐野命一行はこの地でしばらく休息した。

 横山彦命から周辺の地理を聞くうち、この地から西へ向かえば、葛城山の南端から大和へ入れることがわかり、症状が悪化している五瀬命をこの地に残して、奥地に入っていった。現在の河内長野市の蟹井神社の地まで到達して、行程の無事を祈願して紀見峠から大和に入ろうとしたが、南からの進入口にも反対派の軍が配置されていることがわかり、南からの進入も断念して仮宮の地に戻った。

 南からの進入も不可能であることがわかった。どうすれば大和に入れるか会議を開いたところ、紀伊半島には饒速日尊の九州で誕生した子である高倉下やマレビトの天道根命がいて、彼らの協力が得られそうであり、また、賛成派が大和国内の東側に多いことから、紀伊半島を迂回して東側(伊勢湾)より大和に侵入することに決定した。早速、仮宮を出航して南下した。現在の泉佐野あたりに上陸したところ、土地の豪族の反対派に急襲されたが、何とか撃退することができた。しかし、前途多難であるため、近くの日根神社の地で神を祭り無事大和に入れるように祈願した。その後さらに南下したが、男里近くを南下中五瀬命の様態が悪化したので、男神社摂社浜宮の地に上陸して五瀬命を介抱した。しかし、その甲斐もなく5月8日、彼はこの地で亡くなった。盾津を出発してから半月ほどであった。AD81年の9月初旬ごろであろう。

大阪湾岸の神武東遷経路

 第5項 名草戸畔との戦い

 五瀬命は男里の地で亡くなったが、埋葬地は和歌山市の竈山神社の地である。和歌山市周辺の伝承地を探ってみることにする。

射矢止神社 祭神 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命
        和歌山市六十谷381 
 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある

水門吹上神社 祭神 御子蛭児神、大己貴神
        和歌山市小野町2-1
 神武東征時、兄五瀬命の崩御された場所と伝えられている。「男水門」である。境内に神武天皇聖蹟男水門顕彰碑がたっている。鉄筋コンクリート製の本殿である。

男水門顕彰碑

竈山神社 祭神 五瀬命
       和歌山市和田438 
 五瀬命の墓所である。神社の北側に五瀬命御陵が存在している。

竈山御陵

矢宮神社  祭神 賀茂建角身之命
      和歌山市関戸1-2
 五瀬命を竈山に埋葬後、この地に陣を構えて名草戸畔を誅したところと伝える。

矢宮神社

名草山
 6月23日に佐野命に誅された、名草戸畔の本拠地であったところと推定されている。東征軍は矢宮神社の地を出て和歌の浦から出航し毛見ノ浜(浜ノ宮海岸)に上陸してナグサトベの守備隊と戦ったので、この入り江をコトの起こりの浦、琴の浦と呼ぶようになったとのこと。さらに、東征軍は隣接する海南市船尾に回航し、船を前進さすかに見せかけながら、船尾から接岸し上陸した。これが 船尾の地名の由来ともいわれている。

遠くの山が名草山・手前が琴の浦・船尾 毛見浜(遠方が和歌の浦)

クモ池
 この周辺が神武軍と名草戸畔(なくさとべ)の戦いの場と言われ、ここで女賊名草戸畔が神武軍によって滅ぼされた。頭を宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴を杉尾神社(別名おはらさん)、足を千種神社(別名あしがみさん)に葬ったと伝える。

クモ池

中言神社
 名草彦、名草姫が祭られており、名草一族の本拠地と言われている。

中言神社奉納額

 

宇賀部神社、杉尾神社、千種神社
 神武天皇一行は名草戸畔を誅し、頭、胴、足に切断して、これら神社の地に埋めた。

宇賀部神社 杉尾神社
高倉山 千種神社

日前宮・国懸宮
 神武東遷時、日像鏡、日矛鏡を、紀伊國造家肇祖の天道根命が賜り、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡の両御神体として祭られた。
 摂社 天道根神社には天道根命が祭られ、佐野命二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命された。紀氏は天道根命の末裔にあたる。天道根命は饒速日尊の伴ったマレビトである。 

浜の宮
 日前国懸神社の遷宮前の場所とされており、天道根命は神武東征時、神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太、木本、琴の浦の岩上へと遷ったと言い伝えられている。 

浜の宮

伊太祁曽神社
 この地には元々伊太祁曽神が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れた。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。

刺田比古神社
 刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味している。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。

 これらの伝承をすべてつなぐと次のようになる。

 佐野命がこの地にやってくる前の和歌山市周辺はどのような状況にあったのだろうか。射矢止神社、伊太祁曽神社の伝承より、スサノオが倭国統一を行った後、五十猛命、大屋津姫、爪津姫が紀伊国に派遣され彼らが、この周辺地を開拓していることがわかる。AD20年ごろのことであろう。この頃は倭国に所属していたものと考えられる。AD30年ごろ饒速日尊が近畿地方にマレビトを送り込んだとき、和歌山には天道根命が派遣されてきた。そのしばらく後に饒速日尊の長男である高倉下(天香山)命が次々と派遣されてきている。饒速日尊(一言主)自身も立ち寄っているようである。天道根命によりそれまで東倭(出雲)に所属していた紀伊国は、饒速日尊の建国した日本国に所属するようになったものと考えられる。これが、伊太祁曽神社にいうところの紀伊の国譲りであろう。紀伊国を開拓した五十猛命は年老いて、マレビトとして後からやってきた天道根命に統治権を譲り、伊太祁曽の地に退いた。紀伊国が日本国に所属するようになってから、大和本国と、紀伊国の連絡役が必要になり、八咫烏命(賀茂建角身之命)が活躍した。彼はこの関係で熊野山中の地理に詳しかったのである。
 佐野命がこの地にやってくる頃は、天道根命(子孫と思われる)がこの周辺を統治していたと思われる。これが名草一族である。倭国と日本国の合併の話は紀伊国にも伝わってきており、賛成派、反対派それぞれに分かれて対立していたのであろう。
 名草一族は、佐野命一行と戦闘をしており、反対派であったと考えられるが、名草の名は後の紀伊氏の系図にも残っており大和朝廷の協力者となっている。系図によると名草一族と天道根命は同族であり、浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。反対派と戦う神武軍一行の案内に天道根命が加わっていたように思える。また、名草一族の本拠地と考えられる場所は名草山の北東に位置する中言神社の地である。この地は五瀬命の御陵の目と鼻の先である。このことは、五瀬命の葬儀を見守っていたか協力していたことを意味し、佐野命一行と対立していたとは考えにくい。そこから、賛成派と反対派が対立していたと推定するのである。賛成派の本拠地が中言神社の地であり、この名草一族は佐野命が五瀬命の葬儀を行うのに協力をしていたと考えられる。
 伝承をつなぐと、佐野命軍は矢宮神社の陣地を出発し和歌の浦を出航、琴の浦に上陸し船尾から汐見峠を越え、クモ池周辺に攻め込んでいる。この経路から判断すると、反対派の本拠地は高倉山周辺ということになる。賛成派と反対派は同族と考えられるが、この時、佐野命は矢宮神社の地に滞在しており、反対派の本拠地高倉山との中間地が賛成派の本拠地である中言神社であり、反対派が佐野命一行を急襲するとは考えにくい。反対派は賛成派を襲撃したのではあるまいか。反対派は佐野命の倭国と日本国との合併に関して意見が分かれ、賛成派が佐野命一行に協力しているのを苦々しく思っていたのであろう。佐野命一行は賛成派を援護するため琴の浦から上陸して反対派の背後に回ろうとしてそれを察知した反対派とクモ池周辺で激突したものと考えられる。このように考えると、判明しているすべての伝承がつながる。

 男里で五瀬命が亡くなったが、なぜ、男里に五瀬命を埋葬しなかったのだろうか。わざわざ、紀伊国で埋葬しているのである。男里から和歌山まで当時の水行で2日ほど要すると考えられる。推定するに、墓守を任せられる人物が周辺にいなかったためではないだろうか。和歌山まで行けば信頼できる天道根命などマレビトが入り込んでおり、彼に墓守を任せることができたのではないだろうか。以下はこれを元に推定した出来事のあらすじである。

 道臣命について

 神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。と記録されている。高皇産霊神の子の天忍日尊が饒速日尊の天孫降臨に伴って大阪湾岸に上陸。マレビトとして活躍していた。その孫が道臣命である。佐野命が紀伊国にやってきたころ道臣命は和歌山市片岡町の刺田比古神社の地を本拠地としていた。その子孫である大伴氏は軍事で持って大和朝廷に仕えており、神武東遷に於いても軍事面で佐野命に協力したことがうかがえる。記紀では日向出発時から東遷団に加わっていたように書かれているが、この和歌山で東遷団に合流したと思われる。おそらく名草一族との戦いでも活躍したことであろう。

 名草一族との戦い

 佐野命一行は、信頼できる天道根命に墓守を頼める和歌山で埋葬するために、男里で亡くなった五瀬命の遺骸を船に乗せて、紀淡海峡を越えて南下し、紀ノ川河口の水門吹上神社の地に5月10日ごろ上陸した。この地を拠点とし、名草の中言神社の地にいた天道根命(高齢と思われる)に葬儀を願い出た。天道根命は「一行を追い返せ」という合併反対派の意向を無視して葬儀を承知し竈山の地で葬儀を行い、奥地の竈山神社の地に埋葬した。合併反対派は、高倉山に拠点を作り同調者を集めた。反対派の動きを察知した天道根命は佐野命一行を矢宮神社の地に避難させた。まもなく、反対派は中言神社の地に戦いを仕掛けてきた。名草彦が応戦する中、佐野命一行は矢宮神社の地に陣を構えて様子を見た。

 戦いは反対派の優勢の中で行われており、佐野命一行は天道根命の要請に応じて戦闘に協力することにした。反対派の背後から回り込む作戦をたてた。天道根命の案内で矢宮神社の近くの和歌の浦を出航し海岸沿いに南下し毛見浜に上陸した。浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。佐野命一行は汐見峠を越えて中言神社を攻めている反対派の背後に回ろうとしたが、それを察知した反対派は佐野命一行を迎え撃った。両軍はクモ池周辺で激突した。挟み撃ちの形になった反対派は形勢不利となり高倉山に退却した。連合軍は退却した反対派を追って、東へと追撃し、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の地に追い詰めて誅した。この3神社は反対派の3首領の本拠地だったのではあるまいか。

 天皇一行は戦闘目的ではなく、婿入りが目的であり、遠征しているわけであるから、戦う戦力は整っているとは思えない。その中で地の利に明るいその土地の軍隊と戦えば敗北は確実である。倭国と日本国の合併は自分たちの先祖が開拓した土地を奪われることにもつながるので、反対意見を唱えるものも多かったのであろう。饒速日尊は多くのマレビトを送り込んでおり、そのマレビトたちの間にも意見の対立があったのであろう。そこへ、傷ついた佐野命一行がやってきたのであるから、この一行を追い返してしまえば、世紀の大合併はお流れになると思って、反対派は行動を起こしたものと推定する。
 弥生時代後期初頭から中葉にかけて戦闘遺跡は少なく鉄製武器の出土も少ない。平和な時代だったのである。何かあるとすぐに戦争を考える人が多いが、古代人も平和を愛し、戦争は極力避けようとしていたはずである。佐野命一行もそうであろう。そういった人々が戦うのは襲撃されたときか、別の戦いに巻き込まれる場合が考えられる。名草の戦いは後者であると判断する。このように考えると名草一族が天皇一行に滅ぼされたのに、その後活躍していること、名草一族の本拠地のすぐ近くに五瀬命の御陵があること、その子孫の紀氏が名草一族が記紀で賊扱いされているのに反対した形跡がないことなどが説明できる。

 この戦いは戊午6月23日と思われる。日本書紀の日付の記録がほとんど各月15日以内になっており、15日以降の日付になっている記事はきわめて少ない。このことは、古代の1ヶ月は15日までであったことを意味しているが、この記事は23日となっている。日付が誤挿入されたか、何らかのミスがあったものと考えられる。実際は6月初旬頃(AD81年9月半ば過ぎ)ではあるまいか。

 戦いに勝利した天皇一行は八咫烏命と分かれて、紀伊半島を南下していった。

和歌山市周辺の神武東遷経路

 第6項 紀伊半島迂回

 紀伊半島を迂回した佐野命一行は熊野灘で嵐に見舞われることになる。それまでの行程を伝承から追ってみよう。

拝の峠
 拝の峠は神武天皇ご東征の折り、八咫烏に先導されたのでこの名がついたといわれる。

しとどの藪<和歌山県聖蹟>
 日高郡岩代村大字西岩代字赤坂にある。神武天皇名草より熊野に廻幸せしめ給ふ御途、御船を岩代の地に寄せ給ひ「この藪にて竹の矢を御造り遊ばされ給うた」とも「矢の竹をこの藪に御求め遊ばされた。」とも言い継がれている。

しとどの藪

立ヶ谷<和歌山県聖蹟>
 南紀白浜の入り口にあたる。神武天皇熊野御廻航の御途、この地に上陸し給ひ、太刀を御埋めになり戦勝を御祈願されたと伝えている。現在この地には太刀が谷神社が存在している。この神社にはこの太刀が存在したらしいがいつの頃か行方不明になったとの事である。

太刀ヶ谷神社 立ヶ谷周辺

畠島<和歌山県聖蹟>
 立ヶ谷の沖に浮かぶ島で旗上ヶ島の訛ったものと伝えられる。神武天皇熊野御廻航の御途、御上陸遊ばされ、旗を御挙げ遊ばされた島と、ここにも神武天皇関連伝承が伝えられている。

畠島

小泊<周参見村郷土誌>
 神武天皇御船を寄せ給ひし御所と伝えられている。即ち天皇熊野へ軍を進めらるる御途、兵糧を当地に徴せられ給ひ、その御折御船を泊めさせ給うたのが即ち小泊であって、小泊は元来は「御泊」と書すべきが転訛して小泊となったのであると称せられている。
 紀伊半島の田辺市以南は波が荒く、船を安心してつなぎとめられる良港は深く湾曲した湾以外にはない。周参見は「紀伊続風土記」によれば、波の「すさぶ」からつけられた地名である。周参見河口は外海からの荒波が直接打ち寄せるところであるが、小泊はその中でさらに湾曲しているところであり、この周辺では唯一安定して船をつなぎ泊められるところである。

稲積島<和歌山県聖蹟>
 周参見湾の沖にある小さな島である。この島にも神武天皇関連伝承がある。
「神武天皇熊野御廻航の御途、船を周参見湾に寄せられ、土民に兵糧として稲を献すべきを御下命あらせられた。かくて土民の献上せる稲を先ずこの島に積み重ねたので島の名を稲積島と称するに至った。」

小泊 稲積島

串本町二色
 神武天皇が海岸に上陸したとの伝承あり。御場の鼻(神武軍の上陸の地)の東は袋湾と称している。ここに二色坂と呼ばれている坂道があり、そこに戸畔の森という60mほどの山がある。ここに丹敷戸畔がいたのであろう。この東の潮岬は古来から海の難所であり、天候の穏やかなときでないと危険で通れない。そのため、ここを通る船は西から東に行くときは袋湾に数日間停泊し天候が穏やかになる日に潮岬を越えたと云われている。東から西に行く船は橋杭岩の袂に停泊したそうである。佐野命一行もこの袋湾に停泊したものであろう。

上陸推定地点 戸畔の森

串本町橋杭岩
 この岩の袂のところに神武天皇が上陸したとの伝承がある。丹敷戸畔の森と拝ケ浜が近くにある。潮岬を越えた佐野命一行はここで一休みをしたのであろう。

橋杭岩

八尺鏡野
 本来の地名は八咫鏡野である。
「天照大神がイシコリドメノ命に鏡を作るようにと下界に赴かせ、着いたのが八咫鏡野であった。命は懸命に鏡を打ち、完成したが、かすかな傷のために作り直しを命じられ、新しく完璧な鏡を作り、天照大神に献上した。その鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡となった。傷のある鏡は、八咫鏡野の八咫烏神社に残されたが、あるときに盗まれて行方不明になった」
 八咫鏡野に八咫烏神社が存在している。「神武天皇を導くとき、此処にて暫く休息す。」と言い伝えられている。

勝浦港
 神武天皇が上陸したという伝承あり。逢初め橋(丹敷戸畔軍と神武軍が遭遇したという地)あり。昔丹敷浦と云っていたが、神武天皇一行が丹敷戸畔軍に勝ったことから勝浦とも言うようになったと伝えられている。

熊野那智大社
 神武天皇が熊野灘から那智の海岸(浜の宮)に上陸したさいに、一条の光が軍勢を那智山に導いたという。その光の出所を探ると、 瀑布の瀧壺深くに沈んでいったために、天皇は奇瑞に感じ入って当地に大己貴命を鎮座させ、瀧を御神体として祀ったことに始まるという

那智の滝 熊野那智大社

熊野三所大神社(浜の宮)   祭神 夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神
    和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜の宮353
 往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なりと言う。神社の背後の丘陵地が丹敷戸畔の屋敷址と伝えられている。本殿に向かって右側に丹敷戸畔墓と刻まれた墓碑がある。また、境内に「神武天皇頓宮跡」の碑がある。前方の海岸は昔から赤色の浜、または丹敷浦と称せられている。
<熊野巡覧記>
「浜の宮に錦の古名有、今赤色の浜の本名千尋の浜也。神武帝丹敷戸畔と戦い給ひし海辺血に浸しければ血色の浜とも名づく。」
<熊野歩行記>
「丹敷浦 渚の浜の海辺を云うなり。赤色 那智の社渚宮東6丁にあり千尋浜とも云う」

神武天皇頓宮址 狭野顕彰碑

狗子ノ川
 浜の宮より国道沿いに1kmほど東に行くと狗子ノ川がある。この川を渡ると、川の谷と呼ばれている所に付く。道路のすぐ右側に細長い岩がある。この周辺で丹敷戸畔が誅せられたと伝えられている。
 川の谷には丹敷戸畔が潜んでいたという隠家ヶ谷の舊蹟を伝え、その裏の「王領」と呼ぶ地が即ち神武天皇御駐輩の行在所と云われている。この付近で丹敷戸畔が誅せられ一味郎党の血潮が流れてこの周辺の海水が赤く染まったので、この海辺を赤色の浜と名づけた。

神武天皇腰掛岩(狗子川沿い)

佐野
 佐野の岡は神武天皇駐蹕の聖蹟と口碑されている。三輪崎駅近くの岡神社の地が神武天皇滞在地ではないかと推定。神武天皇聖蹟狭野顕彰碑が存在している。

神武天皇聖蹟狭野顕彰碑

三輪崎
 神武天皇上陸伝承地である。三輪崎から新宮へ抜ける熊野古道高野坂周辺には荒坂山、荒津山と称する山があって、古来御東征時の荒坂津であると伝承している。近くの「おな神の森」と称するところは丹敷戸畔の塚であるといい、「神武天皇佐野より熊野神邑へ御越し遊ばされ給ふ御途、御足を留められ、四方の景色を御眺められ給ひし御所」と伝承している。その所以でこの地を「おながめの森」=「おな神の森」となったのであろう。現在この地には金光稲荷神社が存在している。

三輪崎 おな神の森

御手洗の浜
 神武天皇荒坂津に至り、御手づから丹敷戸畔を誅せられて後、磯に出て御手の血を洗ひしたまひし故、御手洗の磯と名づく。

浜王子神社
 神社の東南すぐそばに神武天皇頓宮の址と伝えられている地がある。祭神は稲飯命と三毛入野命である。神武東征のみぎり、海神の怒りをしずめるため、この二人の命が海中に身を投じた神話によるといわれる。

渡御前神社
 新宮市千穂ヶ峰の麓にあり「神武天皇佐野より熊野神邑に到りませる御折、頓宮を設けさせ給うた御所である。」と言い伝えられている。 

渡御前神社

神倉神社
 神倉神社は熊野速玉大社の摂社で、元々は熊野速玉大社に祀られている神々はここに祀られていた。 神倉山山頂に鎮座する。ゴトビキ岩という巨岩を神体石として祀る磐座信仰の社である。 神武天皇が熊野神邑の天磐盾に登ったと比定される神体石がある。神武天皇東方征伐の折り、人々が松明を手に手に「神倉山」 に登り松明の火で出迎えたとも言われている。神社に伝わる伝承では佐野命がここに到達したのは6月とのことである。

神倉神社コトビキ岩 神社入口

阿須賀神社
 徐福が求めたといわれる天台烏薬は日本では、日向の高千穂と熊野以外には自生しないため、神武天皇が東征の途上、この地に植えたのだとする説もある。佐野命の新宮への上陸伝承地

新宮市内(小山の右側が阿須賀神社) 新宮市内(浜の宮王子方面)

室古神社
 皇兄・イナヒノミコト(稲飯命)は、神武の船団が伊勢ノ海から吹く暴風で二木島湾の沖に押し戻された際に、 牟婁崎の端で海に入って歿したので、二木島の土人が屍を収め、この地に奉葬したと伝えられている。
 昔、二木島湾を境にして、熊野(牟婁)の国と伊勢(英虞)の国に分かれていた。この地は、熊野の国であったため室古、向かいの神社は阿古師の名が付いたという。祭神は、豊玉彦命・熊野大神・稲飯命の諸説がある。「社記」には「神武天皇御東遷の時、風浪の難に遭い皇兄稲飯命、三毛入野命(阿古師神社の祭神)共に海に入りて歿す。土人皇兄の屍をおさめて帰り、之を奉葬す。」と稲飯命に関する記述がある。また、縄文時代からの複合遺跡で、千古の社でもある。

室古神社鳥居 室古神社

 

二木島祭
  二木島祭は、二木島沖で嵐に遭遇した佐野命を助けるため、村人が競って船で駆けつけたという伝説を再現して、毎年行われている。
上半身裸の男たちが30人ずつ乗り込んだ全長約16メートルの2隻の関船が、二木島港の岸壁を出発し、二木島湾の南北にある二木島町の室古神社と甫母町の阿古師神社間の海上で、呼び物の漕ぎ合いを展開する。
このあと、阿古師神社から甫母港まで競漕があり、さらに二木島港まで3回目の漕ぎ合いが行われ、競漕を終えて二木島港に近づくと、5色の幕を下ろし、着物姿の子どもが船主で踊りを披露する。岸壁では、多くの人が大きな拍手で出迎えるという。

二木島湾

阿古師神社
 この神社の鳥居は海に向かって立っている。この神社へ参るのは海からである。二木島沖で遭難した三毛入野命は遺骸が見つからなかったがこの神社に祭っている。
 「紀伊続風土記」に「村より卯辰(東南東)の方、出崎を阿古崎といふ。海上渡り二十余町阿古崎の艮、阿古師明神あり。二木島の辰の方の出崎に在する室古明神と入海を隔て東西相対す。阿古師は英虞の神なるべし。」と両神社の関係が記されている。祭神は、豊玉姫命、伊勢大神、三毛入野命の諸説がある。

阿古師神社(遠景) 阿古師神社

盾ヶ崎
 神武天皇が東征のとき上陸したという千畳敷の岩場、海から通常上陸するような場所ではない。千畳敷の岩場で遭難している所を地元の人々に救助されたと伝える。

盾ヶ崎
(下の平坦地に上陸したのでは?)
千畳敷
(灯台の手前の台が神武天皇遭難地の碑跡)

逢川
 二木島港の北方山間より流出し、港に注入する一渓流なり、地方の古伝に上古 帝上陸のとき、土人等皆この渓流頭に出て帝に謁見奉迎したり、或いは言ふ、高倉下命この渓頭に出て、帝を奉迎したり、故に逢川又は逢初川とも言ふ。この渓流を遡ること約6丁の山上に高倉下鎮座の旧跡あり、天倉山と言う。

元宮
 救助された佐野命が暫く仮宮を立てて滞在した所と伝える。

元宮 元宮周辺(写真中央下民家の屋根のすぐ上)

逢神坂峠
 熊野市と二木島をつなぐ熊野古道の峠で神武天皇が通ったという言い伝えがある。 

錦浦上陸関連伝承
 「我が川俣谷には、この谷筋を神武天皇がお通りになったという伝承が古くから語り伝えられている。」『飯高町郷土誌』。
「神武さまが湯谷峠をお越えになった時この地で3年頓宮され、村民はこれを喜び心から歓迎した。」宮本村伝承
「神武天皇さまの軍隊が進軍なさる時、あまりの初秋の山の月が美しかった。月の出のあまりな美しさを賞で給うた神武さまはこの里こそ月出と名付けよとおっしゃったのだという。」(『飯高町郷土誌』)
佐野命は錦浦に上陸され、大内山(度会郡大紀町)から三瀬谷の佐原(多気郡大台町)へ進軍した。ここから2隊にわかれて、1隊は宮川をさかのぼり、天ヶ瀬を経由し、その支流栗谷川を遡り、湯谷峠を越えた。もう1隊は佐原から相津峠を越えて櫛田川に出た。ここは谷筋としてはやや開けた所である。ここで、美濃、尾張、伊勢北部からの援軍を集め、栃川(松阪市飯高町宮本)で2隊が合流し、高見峠を越えて宇陀に進軍した。
 

丹敷戸畔について
 「神武天皇熊野巡幸叢説・紀伊続風土記濱宮之条摘要」に古伝が書かれている。それによると、神武天皇東征の折丹敷戸畔は皇師に降る、以後この地を開拓して、村居の始祖となれり、中古より性は松井と改める。伝来の書は寛永4年に流失した。祖先の墓と伝える小丘有、往時は「とべの峰」と称せしが、今は「誰との峰」という。
 また、同書には地方の古伝として、「丹敷戸畔は兄弟3人あり、長は今の濱宮の地に往し、弟二人は分かれて、他の地に割拠す、帝東征のとき、二弟は降り、長は濱宮の地にて帝の為に誅せらる」とある。 

 丹敷戸畔の墓は勝浦浜宮の神武天皇頓宮址の熊野三所神社境内に丹敷戸畔命と書かれた石碑(墓石)がある。また、三輪崎のおな神の森にも存在している。熊野三所神社裏山が戸畔の屋敷址と伝えており、そこに頓宮址があることから、この戸畔は佐野命を迎え入れていることになる。佐野命一行はここを拠点として、那智の滝方面を訪問している。これは、戸畔が案内したものであろう。さらに、この後戸畔はこの地を開拓しており、佐野命と戦って誅されたとは考えにくい。浜宮の戸畔と佐野命との関係は極めて良好なのである。この戸畔を浜宮丹敷戸畔ということにする。

 狗子ノ川河口の丹敷戸畔は佐野命に戦いを仕掛けた形跡がある。丹敷戸畔はここで誅されたと伝承されており、その戦いは激しかったようで、その地で染まった海岸を赤色の浜というようになったそうである。「王領」に神武天皇行在所址も伝承されており、佐野命が休息している所を「隠家ヶ谷」に潜んでいた丹敷戸畔が襲撃したものであろう。この丹敷戸畔は浜宮の戸畔とは別人でこちらが弟ではないかと考えられる。この丹敷戸畔は墓が伝承されていない。誅されたためであろう。佐野命一行だけが現地の武装集団と戦って勝てるとも思えないので、浜宮の丹敷戸畔が案内していたのではないかと考えられる。この戸畔を狗子丹敷戸畔ということにする。

 三輪崎にも神武天皇上陸伝承地があり、丹敷戸畔と戦ったという伝承がある。しかし、上陸伝承地より西側(佐野)に神武天皇滞在伝承地があることから、ここに上陸したとは考えにくい。佐野命は浜宮の丹敷戸畔の案内で、陸路を新宮へ向けて進んだものと考えられる。三輪崎の丹敷戸畔との交渉のため佐野に滞在したものであろう。三輪崎の丹敷戸畔も佐野命に協力を申し出ることになったと推定する。三輪崎の丹敷戸畔も「おな神の森」で、金光稲荷神社として祀られている。やはり、佐野命に協力を申し出たためであろう。この戸畔を三輪崎丹敷戸畔ということにする。

 高倉下と布都御魂剣

「古事記」
さて、カムヤマトイハレビコノ命は、熊野村に到着されたとき、大熊が現れ、やがて姿を消した。するとカムヤマトイワレビコノ命は、にわかに正気を失われ、また兵士たちもみな気を失って倒れた。このとき、熊野のタカクラジという者が、一振りの大刀を持って、天つ神の御子(神武天皇)の臥しておられる所にやって来て、その大刀を献ると、天つ神の御子は、即座に正気をとりもどして起き上り、その大刀をお受け取りなさると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然にみな切り倒されてしまった。気を失って倒れていた兵士たちも、みな正気をとりもどして起き上がった。
 そこで天つ神の御子が、その大刀を手に入れたわけをお尋ねになると、タカクラジが答えて申すに、「私が夢に見ましたことは、天照大御神と高木神の二柱の神の御命令で、タケミカヅチノ神を呼び寄せて仰せられるには、『葦原中国はひどく騒然としているようだ。わが御子たちは病み悩んでいるらしい。その葦原中国は、あなたが服従させた国であるので降って行きなさい』と仰せになりました。これに答えてタケミカヅチノ神が申すには、『私が降らなくても、その国を平定した大刀がありますから、この大刀を降しましょう』と申しあげました(この大刀の名はサジフツノ神といい、またの名はミカフツノ 神といい、またの名はフツノミタマという。そしてタケミカヅチノ神は、『この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の棟を穿つて、その穴から落とし入れることにしよう。だから、おまえは朝目覚めて、縁起のよい大刀を見つけて、それを天つ神の御子(神武天皇)に献上しなさい』と仰せになりました。そこで、夢のお告げのとおりに、翌朝私の倉の中を見ると、はたして大刀がありました。それでこの大刀を献上するしだいです」と申しあげた。

「日本書紀」
 天皇はひとり、皇子手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。そこで丹敷戸畔という女賊を誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎なえさせた。このため皇軍はまた振わなかった。するとそこに、熊野の高倉下という人がいた。この人のその夢の夜に、天照大神が武甕雷神に語っていわれるのに、「葦原の中つ国は、まだ乱れ騒がしい。お前が往って平げなさい」と。武甕雷神は答えて「私が行かなくても、私が国を平げた剣を差向けたら、国は自ら平らぎましょう」といわれた。天照大神も「もっともだ」と。そこで武甕雷神は、高倉下に語って、「私の剣は名をふつのみたまという。今あなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」と。高倉下は「承知しました」と答えると目が覚めた。翌朝、夢のおつげに従って、庫を開いてみると、果して落ちている剣があり、庫の底板に逆さにささっていた。それを取って天皇に差上げた。そのときに天皇はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれるのに、「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」と。ついで毒気に当っていた兵卒どもも、みな目覚めて起き上った。

 日程について

 日本書紀の日程を確認しておくことにする。五瀬命が亡くなったのは5月8日、名草一族を誅したのが6月23日、熊野越えの後宇陀に着いたのが8月2日である。この頃は半年1年だったので各月は15日までと推定している。実際日本書紀の日付はそのほとんどが15日以内に日付である。そこで、6月23日の日付が問題となる。新月から新月までの日数が一年の整数倍とならないので、閏月を入れる風習があった。閏月はこの頃中国ですでに使われていたようなので、神武天皇の時代にもすでに入っていたとみてもよいのではないかと思われる。すなわち15日より大きい日付は閏月と解釈できるのである。現在と当時の閏月が入る位置は同じとは限らないが現在の通りならば5月である。6月23日が日本書紀のままであった場合、五瀬命が亡くなってから名草一族を誅するまで、約30日、名草一族を誅してから熊野越えを完了するまで24日程である。前者の期間はほぼ同じ場所に対して、後者は紀伊半島を迂回して、戸畔を打ち、遭難に会い、熊野越えとさまざまな出来事にあっている。どう考えても後者の方が多くの日数が必要であろう。名草一族を滅ぼしてから熊野越えまでの日数を最短で推定してみると、名草から新宮まで海岸に沿って約180km。一日20kmとして9日。熊野越えは15日程で移動のみに費やしたとしても24日はかかるのである。また、新宮の伝承では神武天皇が新宮に到着したのは6月で新宮を出発したのが7月であると伝わっている。おそらく新宮着が6月末で、新宮出発が7月初旬だったのであろう。名草を誅したのが6月23日ではあり得ないこととなる。6月23日が5月23日であるとすれば、名草一族を誅するのに15日。名草一族を誅してから新宮まで22日。新宮から熊野越えまで17日でこちらの方がはるかに自然となる。以降名草一族を誅したのが5月23日として計算する。

 佐野命の紀伊半島迂回コースの行程推理

和歌山出港
 和歌山からの出航地は海南市の船尾と考えられるが、拝の峠が八咫烏に先導されて通ったところと伝えられており、この伝承が真実であれば有田市あたりからの出航となる。船を有田に迂回させ、天皇本人は陸路を有田までいったのかもしれないが、船尾出航が自然である。
 名草戸畔を誅した後、船尾で八咫烏と分かれて海路南下した。水行一日20km程度であることから寄港地は大体特定される。船尾を出た一行は広川町あたりで1泊(5/24)、次の日が御坊市周辺であろう。その次の日(5/26)が南部町岩代で「しとどの藪」の神武天皇立寄り伝承地が存在する。その次の日(5/27)が田辺市近辺となり、「立ヶ谷」、「畠島」の伝承地が存在している。その次の日(5/28)が周参見の小泊であろう。ここも「稲積島」「小泊」の伝承地が存在している。次の日(5/29)に立ち寄ったのが串本町の二色で最南端の少し手前である。ここの御場の鼻に神武天皇上陸伝承地がある。潮岬の難所を越えるためここで休息したのであろう。
 海が穏やかな日に、ここを出航、潮岬を通過後、橋杭岩という景勝地に立ち寄っている。巨岩が海に一直線に並んでおり、他ではほとんど見られない景色である。この橋杭岩の根元にあたるところに佐野命上陸伝承地がある。現在の暦(太陰暦)でAD81年9月中旬と思われる。

勝浦上陸
 八尺鏡野に神武天皇休息伝承がある。勝浦から先で戸畔との戦いが予想されるために、ここで休息をしたものであろう(6/1)。東遷団に女・子供が加わっていたかどうかわからないが、加わっていたとすれば、ここで下したと思われる。前の出港地からの距離が近いのでこのように考えるのである。佐野命一行の前に先遣隊が行っていると思われるので、行く先々の情報は佐野命の耳に入っていたと思われる。ここから先戦いが起こっているので、大合併に反対する勢力が住んでいる地域と、味方になってくれる勢力が住んでいる地域が混在していたのであろう。東遷団だけではその一団と戦えるはずもなく、地元に味方を確保する必要があったのである。その敵味方の判別のためにも先遣隊は必要だったのである。那智勝浦の浜宮には味方の戸畔が、その先の狗子には敵の戸畔がいることも分かっていたと思われる。先遣隊からの情報で浜宮の戸畔が味方についてくれて、狗子の戸畔に勝てる見込みが立ったので、八尺鏡野に婦女子を退避させて勝浦に上陸したものと考える。(6/1)
 上陸して休息している所にこの地方を治めていた豪族浜宮丹敷戸畔がやってきた。浜宮丹敷戸畔はこの集団が国の合併にかかわっている佐野命一行であることを知って、協力を申し出ることにした。戸畔は自分の屋敷である熊野三所神社の地に一行を案内し、仮宮を立てて歓迎した。現在の神武天皇頓宮址である。佐野命がここに滞在中戸畔は那智の滝やその周辺を案内した。

狗子戸畔との戦い
 狗子戸畔は大合併に反対する勢力であった。浜宮から2kmほど東の狗子川河口付近を拠点としていた。狗子戸畔を誅するために、佐野命自身は、「隠家ヶ谷」に隠れて,影武者が「王領」という所に仮宮を立て休息し、宴会をして相手を油断させた。狗子戸畔は佐野命の様子を伺い、隙を見て佐野命を急襲した。浜宮戸畔と東遷団は狗子丹敷戸畔と戦った。この戦いで多くの人々が戦死し、狗子川周辺の海岸が赤く染まった。その後この海岸を赤色浜というようになった。
 戦いの後、浜宮戸畔は佐野命を案内して佐野に達した。佐野の三輪崎戸畔を味方につけるためであった。この戸畔は協力を申し出たので、屋敷の近くの佐野ノ岡(三輪崎駅近くの岡神社の地)に滞在し、今後の作戦について会議を開いた。

新宮素通り
 遭難伝承地は勝浦・三輪崎・二木島・錦浦と4か所あるが遭難伝承は圧倒的に二木島が詳しい。そのために、遭難したのは二木島であると判断する。ここで不思議なことがある。新宮の入口にあたる浜王子神社には遭難した神武天皇の兄が祭られている。佐野命は遭難後にここに上陸しているようである。新宮の先に二木島があり、新宮通過後に二木島に達するはずであるが、熊野越えは新宮発であり、二木島→新宮の順番になっているのである。一度新宮に着いて二木島で遭難した後再び新宮に戻って熊野越えをしたのかと最初思ったのであるが、浜王子神社の位置が新宮よりも西側にあり、二木島から新宮に戻ったのではこの神社の位置がおかしいのである。また、新宮で大熊と出くわしており、高倉下の救援があったのである。高倉下の救援が来るまでは新宮は合併反対派が住んでいる敵地との認識があったはずである。日本書紀の戦いの様子からしてこの敵はかなりの強敵だったはずで、大合併という目標のある佐野命にとって勝ち目のない戦いに挑むとも思えない。そこで、新宮を素通りして伊勢に向かったのではないかと考えてみた。この場合三輪崎を出港して新宮を素通りして、二木島で遭難し、三輪崎に引き返し、新宮に赴いたとすれば浜神社の位置がちょうどよい位置となる。頓宮伝承地が浜王子神社の近くにあることも納得できる。

二木島での遭難
 佐野の岡で会議を開いた結果、強敵のいる新宮を素通りして伊勢方面に向かうことにした。三輪崎を出港して次の日は熊野市あたりであろう。近くの花の磐屋にも参拝したと思われる。次の日出港すると間もなく、暴風雨に見舞われた。佐野命一行は避難するまもなく二木島沖で遭難した。天皇は二木島の盾ヶ崎に打ち上げられており、他の人々も散り散りばらばらになっていた。二木島の人々が駆けつけてくれて佐野命は助かったが、稲飯命は遺骸となって打ち上げられていた。遺骸を葬って室古神社を建てた。三毛入野命の遺骸は見つからなかったので、阿古師神社に祭った。二木島の人々は佐野命にエゴマもちを献上したといわれている。このときの様子が二木島祭りとして現在まで伝えられている。佐野命一行の船は壊滅し、助かった人は少数に過ぎなかった。佐野命は二木島の元宮の地に仮宮を造って滞在していた。ここから先は難所が続くことを知り、同行者の大半を失った佐野命は残った人数で船で東へ行くことは無理であると判断して断念して新宮に引き返すことにした。新宮の高倉下命が味方に着いてくれれば大和にたどり着けるかもしれなかったからである。
 逢神坂峠に神武天皇通過伝承があるが、その反対側の賀田湾にも逢神橋があるこれも神武天皇に関連があると思われ、佐野命はこの周辺を歩いている様子がうかがわれる。遭難者を探していたのであろう。その間に船の修理がおこなわれた。

 神武天皇上陸伝承地はもう一つある。三重県大紀町錦浦である。神武天皇はここに上陸し、高見峠を越えて宇陀に進軍したと云うものであるが、これは他の伝承とのつながりが薄くなる。この伝承は何なのであろうか?兵庫県竜野市の室津湾の伝承より、神武天皇東遷時に、神武天皇の行程よりも数日先に進む先遣隊がいたことを推定しているが、錦浦に上陸したのはこの先遣隊ではあるまいか?先遣隊はこの錦浦に上陸し、後から来る佐野命の仮宮を作って待っている状況だったのではないだろうか?佐野命一行が遭難した二木島沖より直線で35km先である。海上2日程度の行程であろう。新宮を出港した佐野命は熊野をこの日出港し順調にいけば尾鷲湾辺りに滞在する予定だったと思われる。この時、先遣隊は錦浦に上陸していたのであろう。先遣隊は2日先に行っていたことになる。

 先遣隊が錦浦に上陸して仮宮の手配をしている時に暴風雨になったため、佐野命一行を心配し、情報収集をしたところ、佐野命は無事だったが一行のダメージは相当大きく、陸路を大和に向かうと云う決定がなされたことを知った。先遣隊は錦浦から大和に向かうことにしたのであろう。その経路が伝承として残ったものであろう。

新宮上陸
 二木島を出港した佐野命一行は再び新宮を素通りして三輪崎の佐野の岡に戻った。そこから高野坂(熊野古道)を通って御手洗海岸に到着した。これが6月末であろう。新宮に着いた佐野一行は浜王子神社近くの海岸に仮宮を立てて、新宮の様子をうかがった。この時失った二人の兄を偲んだのが浜王子神社の始まりではないだろうか。この地方を開拓していた高倉下に協力を申し出た。高倉下は饒速日尊が九州にいる時に誕生した尊の子である。マレビトの一人としてこの新宮に饒速日尊の大和降臨より少し遅れて派遣されていたのである。高倉下は60歳ほどで、合併推進派であった。高倉下の招きにより新宮の千穂の峰の麓にある渡御前神社の地に宮を造りここに滞在することになった。九州から乗ってきた佐野一行の船は熊野川河口の阿須賀神社近くに回航され、ここで修理した。佐野命はここに滞在中ゴトビキ岩に登った。戌午年6月(AD81年9月下旬)であろう。

大熊の登場
 記紀によると、新宮上陸後、東遷団一行の前に大熊が出て毒気に当たって、一行は気を失ったとある。これはいったい何を意味するのであろうか。この後高倉下命が登場してその危機を救っている。大熊と高倉下命が戦っているというわけではなさそうである。高倉下命が布都御魂剣を奏上したとたん、敵は一挙に降伏したようである。大熊が高倉下命の配下の人物だと考えるのが自然である。
 新宮に住んでいた勢力は、饒速日尊の長子である高倉下命の支配下にある人々であった。熊野地方の最大勢力であった。周辺の一団が大合併賛成派、反対派が混在している状況からして、中立派だったのではないかと思える。高倉下命自身は大合併そのものには賛成であったが、佐野命が新しい大和朝廷の王(天皇)を任せることのできる人物かどうか判断しかねていたのであろう。佐野命がそれにふさわしい人物でなければ東遷団もろとも滅ぼしてしまおうと思っていたのではないか。父饒速日尊が苦労して作った日本国の統治権を譲るわけであるから、高倉下命としてはつまらぬ人物に譲るわけにはいかなかったのである。高倉下命が態度をはっきりさせていなかったために周辺の人々が賛成派と反対派に分かれて対立していたのであろう。
 「毒気に当たって気を失った」というのは大熊(高倉下命配下)の一団によって生け捕りにされてしまったことを意味しているのではないかと思う。東遷団の人数は二木島の遭難で40人前後まで減っていたと思われ、しかも病人・けが人も多く含まれ、無事な人数はさらに少なく、100人以上で取り囲んでしまえば簡単に捕虜にできるであろう。或いは策略で虜にしたのかもしれない。

布都御魂剣の登場
 高倉下命自身は佐野命をどうするか態度を明確にしていなかったようであるが、記紀神話によると夢の中の建御雷命(饒速日尊)の命によって布都御魂剣を奏上したことになっている。このとき、朝起きたら夢の通り倉の中にこの剣が置いてあったそうである。これはいったい何を意味しているのであろうか。佐野命は神話の中ではこの剣を受けてから天津御子となっている。明らかに立場が変わっているのである。記紀神話上の表現ではこの剣を受けるまではただの族長であり、剣を受けた後は日本国の日継ぎの御子(皇太子)となっているのである。これは大変大きな意味を持っているはずなのであるが、記紀では簡単に表現されているのにすぎない。一体何があったのであろうか。剣を受けたということが日本国の皇位継承の御印を受けたことになっている。この剣は皇位継承の御印として認知されていたことになる。
 布都御魂剣は素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った刀で、父布都によって朝鮮半島からもたらされた剣である。日本国の創始者饒速日尊が天孫降臨の時、素盞嗚尊より授かったものである。この剣を持っている人物が日継ぎの御子となるのであるが、高倉下命に渡る前は誰が持っていたのであろうか。高倉下命が以前から持っていたはずはない(持っていたら高倉下命が日継ぎ御子となる)。
 日本国初代国王は誰が何と言っても饒速日尊であることは間違いがない。第二代国王は事代主命であるが、事代主命はこの時、出雲国王になっており、事代主命の娘イスケヨリヒメが持っていたと思われる。大和国内には反対派が跋扈しており、イスケヨリヒメは佐野命が長髄彦に追い返されたという情報を聞き、大和に入れないことを気にしていた。イスケヨリヒメのもとには佐野命が熊野を迂回するという情報が入っていたことであろう。皇位継承の御印である布都御魂剣を佐野命に渡せば迷っている豪族は味方に着くであろうと考え、この剣を佐野命に何とか渡せないかと考えていた。熊野地方で最も信頼のおける人物が高倉下命なので、熊野新宮にいる高倉下命にこの剣を渡そうとしたのであろう。その使者はおそらく八咫烏と思われる。八咫烏は使者として高倉下命のもとにこの剣および十種神宝を運び、イスケヨリヒメの伝言を伝えたのであろう。高倉下命は捕虜になっている佐野命の人柄を見るにつけこの人物こそ大和朝廷の初代天皇となるのにふさわしい人物であることが分かり、八咫烏から預かっていた布都御魂剣を佐野命に奏上したのであろう。周辺の豪族たちはこの剣を見て一斉に佐野命に下ったのである。

布都御魂剣の正体
 当時の人々はこの剣を見ただけで恐れ入るのだろうか。どうしてこの剣にそれだけの威力があったのかというのが大きな疑問として残る。この剣は鉄製の長剣と思われる。この当時の鉄製の長剣の出土例はほとんどなく、大変珍しいものであったことは確かである。九州方面の人々は見たことがあると思われるが、鉄製の長剣は弥生後期初頭までは近畿以東に於いて出土例が皆無である。日本国の人々としては見たこともない剣だったのであろう。だからこそ、それを持っていること自体が特別な人物となるのである。
 布都御魂剣は饒速日尊が岡山県赤磐市の石上布都魂神社の地に安置しており崇神天皇の時代まで置いてあったが、この時、大和の石上神社に移され、その後背後の禁足地に埋納された。明治7年伝承どおりの地で発掘されたが、この剣は内反りのある素環頭太刀で古墳時代のものである。茨城県の鹿島神宮にも布都御魂剣と称する剣が伝承しているが、刀長2.71mで、これも奈良時代末から平安時代初頭に製造されたもののようである。ところが、本物の布都御魂剣は朝鮮半島経由で入ってきているはずで、朝鮮半島の素環頭太刀は反りのない直刀である。布都御魂剣が本物であれば反りがないはずである。石上神社にしても鹿島神宮にしても共に本物ではないと考えている。実際、佐野命が高倉下命から布都御魂剣を受け取った時、同時にこの剣は石上布都魂神社にあったことになる。石上神社で発掘された布都御魂剣は崇神天皇のころ石上布都魂神社より移された剣であり、神武天皇が持っていた布都御魂剣ではない。石上布都魂神社周辺には製鉄の技術者集団がいたようである。神武天皇即位後ウマシマジ命が預かって祭祀していたようであるが、紛失したため、石上布都魂神社周辺の製鉄技術者に造らせたものと考える。石上神社に布都御魂剣が移されたのが崇神天皇の時代であることから本物の布都御魂剣は武埴安彦が持ちだしてそのまま紛失したのではないかと思っている。朝廷側としては神剣紛失などとは許されないことなので、石上布都魂神社の工人に造らせたのであろう。そのために古墳時代の反りのある刀が発掘されたと考える。

熊野灘佐野命東遷経路

 第7項 熊野越え

 拝の峠に八咫烏が佐野命を案内して峠越えをしたと言い伝えられているが、他の伝承と会わないのでこれは採用しない。八咫烏は伝承によると新宮から佐野命を案内している。新宮出発の時は7月初頭である。6月末に高倉下命が布都御魂剣を奏上して、新宮一帯の豪族たちが一斉に佐野命に下った。佐野命は高倉下命に案内されて千穂の峰麓の渡御前神社の地に宮を作り滞在した。そして素盞嗚尊の聖地であった天磐盾(神倉神社)に登った。高倉下命は熊野越えのための協力者を募り、船を用意した。先ずは船で熊野川を遡るのである。

 神武天皇熊野越え推定コース(表示に少し時間がかかります。)

新宮御船祭
 10月16日に行われる熊野速玉大社の例大祭。 熊野の神々が神倉より速玉の地に来臨した様子を再現した古儀であり、紀南地方随一の船祭として名高い。県の無形民俗文化財に指定されている。
 まず、第一殿にて祭典が執り行われ、宮司が神霊を神輿に移す。御旗に続いて、神馬に載せる人形で、金襴の狩衣をまとい熊野権現の神霊の憑坐と解されるヒトツモノが祭の行列を先導し、熊野川の河原へ出る。宮司が神霊を神輿から神幸船に移し、宮司ら神職と楽人が斎主船に乗り込む。神幸船と斎主船をさらに諸手船が曳航し、これらをさらに9艘の早船が先導する。諸手船の舵をとるのは、熊野川河口の鵜殿の住人である。また、諸手船には、ハリワイセと呼ばれる、赤衣をまとった女装の男性が櫂をもって舷に立っている。御舟島の下流1キロメートルにある牛の鼻という急流を過ぎたところで、早船の競漕が始まる。早船は御舟島を右回りに3周して勝敗を競い、乙基河原に着岸する。その後、諸手船以下の3艘が御舟島を2回ゆっくりと回る。このとき、ハリワイセは、「ハリハリセー」と数回唱えながら、片手をかざして遠望する姿をとる「ハリハリ踊り」を演じる。次いで、御舟島から使者が扇子で3回招くと、9艘の早船が再び競漕を始める。今度は、御舟島を左から2周回って、大社裏手の川岸に向かう。他方で神幸船と斎主船は乙基河原に上陸する。神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、前夜と同様の祭儀を執行した後、やはり夜闇の中、神霊を奉じて大社に戻り、神霊を第二殿におさめて、祭りは終了する。

熊野本宮大社
 神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと「神社縁起」 「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されている。熊野大神を斎きまつったのは熊野連、尾張連であるが、 この氏族は饒速日命の子、高倉下の子孫である。 その四世の熊野連大阿斗足尼は、成務天皇の御代に熊野国造に任ぜられ、 代々大神に奉仕し、江戸時代末までに及んだ。本宮大社は熊野三山の首座として熊野信仰の総本山として仰がれている。
  主祭神は家津美御子大神(スサノオ命)で、古史によれば、はじめ海原を治めていたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、 八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得て天照大神に献上し、遠く大陸をも治めたとある。
 紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の生まれる山を熊野とも木野とも言えるより、 熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬ=家津美御子大神と同意)と称え奉るべし。」とある。  植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はここよりおこった。  特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので古代に海外へという思想があった。舟玉大神と仰がれる。

熊野本宮大社旧社地

折立
 熊野本宮大社から熊野川に沿って北上すると12kmほどで折立に着く。神武天皇が滞在したという伝承をもつ。折立から玉置山への登山道があり、5kmほどで山頂である。玉置山への最短の登山道である。

玉置神社
 玉置神社は近年まで陸の孤島と呼ばれていた大峰山系の南端、奈良県吉野郡十津川村の霊峰玉置山(標高1076.4m)の山頂直下に鎮座。 この地は古来より,熊野の地であって、佐野命が熊野に上陸した後、八咫烏に先導され大和に入る際、この霊峰玉置山で兵を休め神宝を鎮めて勝利を祈ったと言い伝えられており, 熊野信仰の奥之宮として皇族の行幸や宗教指導者、修験者、霊能者が数多く参籠修行した重要な神体山でもある。
 神武天皇東遷以前から磐座信仰の地として崇められていたと思われ、日本最古の神社説もある。 近くの杉の木の根元には白い玉砂利が敷きつめられ、そのなかにわずかばかり地表に顔を出した丸い石がある。 この石がご神体で、この石は地中にどれだけ埋もれているのかわからないほど大きいといわれている。この石が玉置神社の始まりである。
 神武東征の折、玉置山で兵を休めた佐野命は、この石の上に神宝を置いて勝利を祈った。その後、 第十代崇神天皇が紀元前37年に玉置山に行幸し、その4年後に玉置神社が造営されたと伝えられている。
  祭神
  国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、神日本磐余彦尊

玉置神社 玉置神社の玉石

上桑原
 上桑原の西村山に神武天皇が滞在したという伝承地がある。川沿いの丘陵上に石碑が建っている。ここは最短コースから少しずれた位置である。わざわざ遠回りしたことになる。

薬師湯
 北山川沿い上北山村河合に薬師湯(上北山温泉)がある。近くに大きな塚があり「天皇塚」と称えている。神武天皇が荒坂津から大和へお越しの途中、この温泉を御発見になって、傷病兵の湯治をなされた湯が、この薬師湯であり、また、戦病死者をお葬りになったのが、この塚で、明治維新の頃、何者かがこの塚を発掘しようとした時、稲光と雷鳴が、にわかに激しくなり、その上忽ち豪雨が沛然ときて、その者は狂死したと伝えている。(少年・神武天皇より)

大台ケ原
 魔物を封じ込めたと云う牛が寝ている様な大きな牛石があるので「牛石ヶ原」と云われているところに、 神武天皇の銅像が建っている。当地は神武天皇東征の砌、八咫烏の先導で熊野から北上して来て、国見をされた所と云われている。
 北山川の支流に小橡川がある。その流域に木和田と呼ばれる地が在り、ここは、古来より林業関係者の大台ケ原への入口であった。現在も登山道が存在している。

牛石ヶ原神武天皇像 大台ケ原から見た経ヶ峰方面

阿陀
 佐野命が吉野川流域で最初の人・苞苴擔(にへもつ)の子に出会った(古事記)と伝える。現在の和田の地と思われる。

井光神社
 伯母が峰から吉野川を下る途中、対岸の「井光川」に沿って上がると、井氷鹿(いひか)の里へ着く。 そこから500m上がった集落の中に鎮座している。祭神は、国津神の井氷鹿(古事記では井光)で、 彼は佐野命が八咫烏の案内で熊野から大台山を通って、この辺りへ来た時、「古皇(ふるつこ)」「血ノ池」「布穴(ぬのあな)」等と呼ばれる光り輝く奧ノ宮の井戸の様な大きな窪みから出現した尾のある神である。
 「井光川」沿いの道から北側へ150m上がると、神武天皇巡幸の聖蹟「井氷鹿の井戸」がある。ここが、井光神社に祀られている井氷鹿が姿を現した所といわれており、窪地の前に石碑が建っている。
 井氷鹿は、佐野命を案内して、土地神谷(とちかみだに)を過ぎて休石(やすみいし)に腰をかけた後、御船山(みふねやま)の尾根にある拝殿で波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占い、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽矢(天から授かった矢)を納め、進軍の勝利を祈願したといわれている。今でも8月24日天の羽羽矢納めの儀式がある。 

井光に伝わる神武天皇の東遷経路
 伊波礼毘古命が海を渡って熊野に着きました、そこで健角身命(たけつぬみこと)と云う神様と出会いました。真っ黒な衣を着て木から木へ鳥のように飛び移っていくので、八咫烏の神様と呼ばれています。
 その神様は伊波礼毘古命を案内して大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。
鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかると、その井の中より尾のある人が姿を現したものだから伊波礼毘古は驚いてそなたは何者かと聞きました。
 すると、私は国津神で、名前は井氷鹿(古事記では井光)ですと云いました。それからの山道を案内して土地神谷をすぎて休み石に腰をかけた後、御船山の尾根にある拝殿にて波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占った上、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽屋を納め進み行く旅の勝利を祈願した後、宇陀を通って橿原へ行かれた 

奥の院に伝わる伝承
  字御舟山邊り御舟が滝巖上に小祠一社あり、里人呼で大塔と言傳ふ。祭神は井氷鹿の守護神なり。
 大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところなり。
 
応神天皇以降の諸帝典之乃離宮に御幸毎に皇祖天神を祝祭ありて御狩毎に御舟が巖上の大塔の社へ弓矢を納め賜う祭典あり。今に旧八月朔祭日に當り氏子者竹にて弓矢を携へ参拝するの古例存せり。
 
此弓矢を拝受し戦に望む事あらば勝利を齎し、猪鹿の耕作物を食ひ荒す處へ建置けば猪鹿荒れずと云ひ傳ふ。

井光神社 井氷鹿の井戸(石碑背後の窪地)
皇搭奥の院
御船の滝巖上の宮
御船の滝

大蔵神社
 祭  神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命
大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。
東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。吉野国栖の祖神を祭る。「神武天皇遥拝所」が近くにある。この遥拝所は「石穂押分命の子が佐野命に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。

宮滝
 神武天皇東遷の際、一時本営を置かれた秋津宮址と言われている。宮滝遺跡が存在しており、弥生後期の土器も多数発見されている。

熊野川流域の伝承(神武天皇熊野巡幸叢説より)
 <前略> 於是川船より。御軍八咫烏の後より。成川を指登。是熊野の諸手船の事本也。故前に神剣献れりし高倉下。実は既に大和国に天降ましし饒速日尊の御子。天之香具山命にませば父命に御心置して。寓名以て神剣を献り。卿導をも仕へ奉らず。退帰りて慎籠りましましければ。其地を後に音無里といふ縁也。然れども天神御子。御軍を帥て。舟より成川を登出御と聞て。得背き奉るまじき事を知食て。岩噛網代(いわかみあじろ)を遺して。斥候せしめ給ふ。此網代伊。君の命を狂て。ひそかに己が親族を帥て行て。川岸の高巖に上り立て。御さきの舟を進めるを見て。遠矢射たりければ。皇船よりも射立てられて。其巖より落て流る。此巖を今網代の見上岩(みあげいわ)となむいふ。また、其矢のしくしく落たりし所を。及矢里(しきやのさと)といふ。天之香具山命。今は得面勝たじと思して。受川に出迎奉りて。
<中略>
 此川を受比川と云いしを。今受川と云は訛れる也。於是香具山命は。御先仕へ奉りて。成川と音無河の河合の大斎原(おおゆのはら)に立てる梛(なぎ)の大木の本に座奉りて。大御饗献りき。此時天神御子。御心奈支ぬと宣ひしより。此木を梛木といふ。干玆行宮仕へ奉りて遷し坐せ奉る。天神御子は。軍人を労ひ給ひ。あからさまに霊祷を設て。天祖皇神を祀給ひ。更に御軍整て。再び成川より御船たたして。玉置川を上り給ひ。
<後略>
 この記録は明治三年秋八月、紀州藩の命によって、熊野三山を巡覧実検し社傳及古老の口伝をまとめたものという。

 熊野越えコースの推定

・ 伝承をたどって

 新宮から川船で本宮にたどり着き、折立から玉置山に登った。ここまでは細かく伝承がつながっている。次が上桑原、薬師湯、大台ケ原、井光、五社峠、白倉山、宮滝と伝承地が連なっている。このコースに沿って熊野越えをしたのであるが、最短コースからずれているところが2か所ほど存在している。第一が上桑原、第二が大台ヶ原である。上桑原は伝承が残っていることから人が住んでいたのであろう。小集落があり、休息のために寄ったとも考えられるが、大台ヶ原はかなりの遠回りである。これについては後で検証する。

・ 尾根道と川道

 古代に人が内陸部を移動するとき、今のように道案内もないのであるから、川に沿って移動するか、尾根に沿って移動するかどちらかであったと思われる。
 川に沿って移動する場合は水・食料などは楽に手に入るが、大型動物・蛇などに遭遇する危険性が高く、また、峡谷等通行不能な場所も点在している。そのような時は急斜面を移動することになり、滑落の危険が伴う。上流から下流に向かうときは間違えないが、下流から上流に向かうときは合流点で進路を誤る危険性が高い。また、峠越えのところで、斜面が急傾斜になっていることが多い。
 これに対して尾根道は、水・食べ物が少ない、などの短所はあるが、見晴らしがよい、一般になだらかで危険箇所が少ない、危険動物に出会う危険性も少ない、などの長所が見られる。実際に熊野と吉野をつなぐ熊野古道は大峰道と言われる尾根を通る道である。昔は大峰道を10日ばかりかけて食料ほとんどなしで移動したため、修験者の修行には向いていたようである。
 佐野命が熊野越えをしたのは10月上旬と考えられ、木の実などが豊富にあった時期で、尾根を主とした経路を通り安かったと推察される。しかし、佐野命一行が玉置山に登った登り口は折立で、ここは現在でも玉置山への最短登山道である。本宮から尾根沿いに玉置山へ登る道が現在でも存在しているが、その道のりは10kmほどで、当時で丸一日かかったであろう。佐野命はこの道を避けて折立から登っているのである。このことから尾根道は少しでも避けようという意図が感じられる。

 日本書紀では熊野山中を抜けるコースは古事記とは異なっており、宇陀の穿村に到着し、エウカシを誅した後、吉野川沿いで、井氷鹿、石穂押分命の子、苞苴擔(にへもつ)の子と出会ったと記録されている。その出会ったといわれている場所は、井氷鹿が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
 この経路は北から南への流れとなっており、実際の佐野命の南から北への流れとは逆になっている。また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。また、蟹井神社に佐野命が来たとき、五条市近辺にいた反対派の行動をつかんでいるはずであり五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。このように、順路、伝承の点から推察して明らかに古事記の方が正しいと思われる。
 佐野命は十津川沿いに大和に侵入したという説も存在するが、この経路上に佐野命通過伝承地は存在せず、また、吉野川沿いに比べてかなり危険なコースである。このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。

 では日本書紀のコースは一体何なのであろう。でたらめを書くとも思えず、その元となる伝承があったはずである。それを解明するのが、井光神社の伝承である。井光神社の伝承では
「大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。」
 とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。その次の具体的な経路を示す伝承は
「鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかる」
 全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。前者が古事記で、後者が日本書紀に沿っているのである。これより、佐野命は井光に二度来たと解釈される。それを裏付けるのが、奥の院の伝承である。
 
「大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し、遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところ」
 井光の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。おそらく神武天皇4年の鳥見山霊峙の時期に近いのであろう。
この時神武天皇は吉野に宮を構え、大和進入時に協力してくれた豪族たちを訪問して労を労ったものであろう。この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。
 神武天皇の大和侵入経路で古来より問題になっているのが、古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点である。川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年(AD84年)のことであろう。

 佐野命が熊野山中をさまよっている時に出会った人物の石穂押分命の子、苞苴擔の子はいずれもある人物の子であるという表現がなされている。これは出会った人物よりもその父の方が有名で近郷に知れ渡っていたことを意味している。これらの人物はどのような人物なのであろうか。吉野川上流域の遺跡は弥生後期の時代以降のものに限られそれ以前のものは見つかっていない。このことは、吉野川流域に人々が入り込んできたのは弥生後期の時代になってからということを意味しており、饒速日尊が大和進入後ということになる。饒速日尊が大和進入したのはAD30年ごろで、佐野命が大和進入したのは80年ごろである。その間50年ほど経過している。饒速日尊一行が近畿地方一体にマレビトを送り込んでそのマレビトが各地で子孫を作っている。その子孫が吉野川流域に入り込んでいるとすれば、50歳頃と思われる。その子は30歳前後と推定され、父が近郷に知られていたということも説明できる。
 石穂押分命や苞苴擔がマレビトの子であるとすれば、佐野命東遷時の様子を色々と都合よく説明できるのである。八咫烏にしても倭国・日本国大合併反対派が占拠している地を案内するはずもなく、これらの人物は大合併に協力的な人々であったと考えられる。
 新宮出発を7月1日と仮定し、熊野越えの宿泊地は川沿いとなるように伝承地をつないで、日程・経路を推定してみた。以下はその結果である。

・ 新宮から本宮まで

 新宮から本宮までは船で移動していると思われる。距離から考えて3日程度であろう。新宮には御船祭が伝わっている。御船祭は10月16日に行われるが、この当時の暦では8月1日に当たる。しかし、5月が閏月であったと思われるので、7月1日に当たり、伝承上の神武天皇出港の日と思われる。御船祭は神武天皇出港の様子を祭りにしたものではないのだろうか。高倉下命が最も警戒しなければならないのが大和の反対派に佐野命の行動が知られることである。間者が新宮に入り込む可能性があったのである。新宮の住人は高倉下命を信頼しているので裏切ることはないであろうが、住民の興奮状態は隠し通せるものではない。そこで、祭りとしてごまかすことを考えたとしても不思議はないのである。そう考えると御船祭から東遷団の陣容を探ることができる。
 参加するのは神幸船と斎主船及びその諸手船、そして9艘の船である。漕ぎ手が8人で他に3~4人で総勢100人程度となる。熊野川を遡るわけであるから、多くの漕ぎ手がなければ流されてしまう。そのためにも、これは、理想的な陣容と言えよう。東遷団の陣容は100人程度と推定できる。しかし、全員が熊野越えをするわけでなく途中までの応援も加わっているであろうから、実際熊野越えしたのは70~80人程度だったのではあるまいか。
 本宮が最高の聖地である。東遷団は、おそらく、本宮で神に武運長久を願う儀式を行ったと思われる。総勢100人程度、漕ぎ手8人ほどの船10艘で、7月1日早朝新宮の阿須賀神社の前を出港した。船には佐野命をはじめとする日向からの人々40人ほど、新宮からの応援、熊野越えのためのボッカ、食糧、本宮での儀式用品などをを乗せた。7月3日の午後には本宮に着き、本宮で儀式を行った。このとき、布都御魂剣以外の宝物(十種神宝)の伝達も行われたのであろう。

・ 熊野本宮大社から玉置山まで

 玉置山の玉置神社は熊野大社の奥宮といわれており、神武天皇東遷の時にはすでに信仰の対象になっていた。神武天皇が玉置神社の玉石の上で祭祀したと伝えられている。また、熊野川(十津川)を20km程遡った折立には神武天皇が滞在したという伝承がある。この地から玉置山は最短距離となり、現在も登山道(車道ではない)があり、5kmほどで山頂に着く。熊野本宮から折立まで、川沿いを1日。折立から玉置神社の地まで半日であろう。折立は川から玉置神社まで最短の位置にある。折立で降りたのは合理的である。
 7月4日早朝本宮を出発した天皇一行は夕方には折立に着き、ここで船を下りた。次の日高倉下命に別れを告げ玉置山登山をして昼頃には着いたと思われる。その日午後、玉置山で祭祀を行った後、次の日に出発したと考えられる。
 ここで、熊野越えの陣容を考えてみよう。食糧は干し肉、干し魚、干し貝、干し飯などであると思われる。途中での食料調達はこれほどの人数になると難しいので、ボッカによって運んだのであろう。1人の食糧15日分、1人1日1kgとして1人15kg。一行80人として1200kgの食糧となる。1人60kgを運ぶとしてボッカが20人ほど必要と思われる。高倉下命の派遣した協力者が20人ほどであろう。
 7月5日、昼ごろ玉置神社の地に到着。ここで、玉石の上に十種神宝を置き、武運長久を願って祈願した。玉置神社から先は現在熊野古道の大峰奥駈道がある。佐野命が通った経路は、饒速日尊が熊野を開拓してから熊野と大和との間の人々の交流が盛んになっており、その経路上にある玉置神社はこの時すでに聖地となっていた。玉置山は熊野灘からも見えるようで、熊野越えの目標とされる山だったようで、玉置神社から大和までの道は既に開かれており、八咫烏は何回も通っていたのであろう。道が開かれているということは逆に大和の反対派からの使者と出会う可能性もあったわけで、極秘裏に行動を起こさなければならない佐野命一行としては警戒しなければならないことだったはずである。そこで、先遣隊数人を1日程前を歩かせて前方の確認をしながら進むことになる。玉置山に着いた直後先遣隊は出発したと思われる。

・ 玉置山から上桑原まで、

 玉置山から玉置川を下って北山川に出ることは可能であるが、そこから暫くは北山峡と呼ばれている峡谷地帯であり、川沿いに遡るのは不可能と考えられる。玉置山から次の伝承地大台ケ原へ向かうには熊野古道の大峰奥駈道に沿った道しか考えられない。大峰奥駈道の修験者の話によるとあまり知られていないそうであるが、途中で上葛川に降りるそうである。食糧が乾物ばかりなので、水だけは現地確保する必要があり、峰に沿って歩くのは難しいと考える。佐野命一行も上葛川に降りたと考える。玉置山から上葛川までは直線で5kmなので、1日で行ける距離である。上葛川到着は7月6日夕方と推定。7月7日早朝上葛川を出発。葛川に沿って遡り、笠捨山に着く。直線で3km程。午前中には着くであろう。笠捨越を抜けて山を下り浦向に着く。最短距離はここから西ノ川を遡り池原に向かうのであるが、神武天皇滞在伝承地は川を3km程下った上桑原にある。上桑原は神武伝承が残っていることから考えて人が住んでいたらしい。休息もあったのであろうが、先遣隊からの情報で大和からの使者と出会うのを避けた可能性もある。この日の行程は20km程に達し1日の行程としては長いのであるが、この道は最近まで物資の輸送に使われていた古代からのメインルートだそうで、この当時道もしっかりしていたのではないかと思えるので一日に20km歩くのは可能であると思われる。

・ 上桑原から河合まで 

 7月8日。上桑原から西ノ川を遡り浦向を再び経由して寺垣内、池峰、峠を越えて池原に着く。今の池原貯水池の辺りで1泊していると思われる。全行程10km程である。池原から北山川に沿って13kmほど遡った河合というところに小橡川との合流点があり、この近くに薬師湯がある。狭野命一行の傷病兵を湯治した所と伝えられている。その時死者があって、近くの天皇塚に葬られたと伝えられている。荒坂津の遭難或いは行軍中に体調を崩し亡くなった人物がいたのであろう。この温泉地に暫く滞在したようである。7月9日に河合に着いたところ体調を崩し亡くなった人がいたので、天皇塚に葬った。ここも伝承が残っていることから人が住んでおり、傷病兵をここに残して次の日出発したものと思われる。

・ 河合から大台ケ原まで

 河合から伯母峰峠を越えて吉野川沿いに出るのが最短距離であると思われるが、神武天皇関連伝承は大台ヶ原経由となっている。神武天皇は大台ヶ原で国見をしたという伝承があり、井光神社の伝承でも大台山を越えたとあるので、大台ヶ原を経由したのは確かであろう。なぜ、最短距離の伯母峰峠を越えなかったのだろうか。考えられる理由としては、大和反対派の使者と出会うのを恐れたということではないかとも思えるが、大台ヶ原の西側に大杉谷があり、神武天皇がここを通過したと伝承されている。この伝承は明らかに間違いではあるが、錦浦に上陸した先遣隊が大杉谷下流にいたことと考え合わせると、この先遣隊と連絡を取るために使者に大杉谷を下らせたと考えるのが妥当なようである。この先遣隊とは宮滝で合流したと思われる。
 ここから、大台ケ原までの経路が不明であったが、大台ケ原ビジターセンターで、他の経路を調べた所、昔から木材の切り出しに使っていたルートがあるということであった。河合から小橡川に沿って遡る。7kmほど進むと木和田という所が在る。そこから、尾根伝いに登山道が存在し、緩やかに登っていくと5kmほどで逆峠1411mに達する。逆峠から3kmほどで大台ヶ原ビジターセンターに通ずる登山道が現在でも存在している。この途中に逆川と交差するところがあるので、このあたりで1泊と思われる。是が7月10日の行程である。
 7月11日。現在の大台ヶ原ビジターセンターの位置を通過し、最高峰日出ヶ岳に登頂し、そこから周辺の地形をみて国見をしたと思われる。台高山脈の峰に沿って下る登山道が現在でも存在している。おそらくこの道に沿って下ったものと考えられる。4km程下ると大台辻がある。ここを右に曲がると吉野川流域にでて、左に曲がると大杉谷である。おそらく、ここで、使者に大杉谷を下らせたのであろう。ここから右に2km程下ると吉野川支流の本沢川に出る。このあたりで1泊できる。

・ 大台ケ原から井光まで

 7月12日。ここから、本沢川に沿って下ると大迫ダムに出る。吉野川に沿って下り和田に着く。ここまで約10km。ここで、苞苴擔(にへもつ)の子に出会ったと古事記は伝える。苞苴擔(にへもつ)の子に出会った場所は古事記によると吉野川の川尻(川下)とある。吉野川の下流であれば位置が大きくずれるが、これは前述のとおり神武天皇即位後の経路と思われる。7月13日。吉野川の上流からから川沿いに下り、約3kmで井光川にとの合流点に着く。ここで、井氷鹿に出会ったのであろう。

・ 井光から南国栖まで 

 7月14日。井光からは川に沿って下り、大滝から五社峠を越えて降りたところが南国栖である。行程12kmでここまで1日であろう。ここで、石穂押分命の子に出会った。彼は、衣笠山の頂上より遥かに高見山を指してその付近の情勢を佐野命に奏上したと伝えられている。佐野命はここから、大和への侵入経路を確認したことであろう。ここで、1日は費やしているであろう。

・ 南国栖から宮滝まで

 8月1日。南国栖から川沿いに約7km下ると宮滝に着く。佐野命が大和に侵入するには反対派も多く、日向から連れてきた人々の多くは二木島の遭難で失われており、高倉下が人数を多く派遣してくれはしたものの反対派を押し切るほどの戦力には程遠い。幸いにもこの段階で大和反対派にとって佐野命は消息不明になっており、警戒を解いていたと思われる。反対派に所在を知られるのは時間の問題であるが、それまでに、周辺の豪族を倭国・日本国大合併の協力者にする必要があった。その本拠地として選んだのが宮滝の地である。ここに宮を作ることにより、熊野越えは終わる。15日前後を要したと思われる。佐野命は次の戊午8月2日には兄猾、弟猾を呼んでいる。戊午8月2日は現在の10月下旬である。
 宮滝を拠点として天皇は周辺豪族を協力させ、大和進入の準備をするのである。

佐野命東遷熊野越行程
 
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