神武天皇東遷経路 安芸埃宮 

 いよいよ狭野命は安芸埃宮に到着した。安芸国を東倭から譲り受けることと、瀬戸内海航路の拠点作りを目的としてさまざまな活動をしている。ここでは、安芸国における狭野命一行の活動を探ることにする。広島県内には神武天皇関連伝承地が非常に多い。長期間滞在し、様々な活動をされたためと思われる。これらを整理しながら、狭野命の行動を探る事にする。参考文献は昭和16年広島県発行「神武天皇聖蹟誌」、昭和15年多家神社記念事業奉賛会発行「聖蹟安芸埃宮」、「広島古代史の謎」である。

安芸国神武天皇関連伝承地の地図

1.安芸国埃宮到着以前の伝承

1-1.厳島

 厳島鎮座紀
「御当社御鎮座は推古天皇御宇御鎮座といえども、神代の御鎮座なり、田心姫は胸肩に祭る、端津姫は宇佐に祭る、市杵島姫は厳島に祭る、三女神は日本大小神祇本体神籬の道この神にあり、又この大宮御鎮座は盤余記に十有二月丙辰壬午二十六日安芸国埃宮至る、この島を見回る時、仮宮を造り暫らく住み給う、御神市杵島姫一座なり。」

 神武天皇は広島県沖に達したとき、まず、宮島の南端の須屋浦に上陸し現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。 渡辺綱吉氏「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、厳島神社の本当の祭神は神武天皇ではないかと書かれている。 それは昭和15年の「厳島神社御由緒等調査記」に神武天皇の時代に御鎮座とあり、最初に神武天皇がこの島を訪れているからである。 また、島内の山中には巨石を用いた祭祀の痕跡が残っている。これも神武天皇が祭祀したものと思われる。

1-2.地御前神社 廿日市市地御前

 神武天皇は神社西側の有府水門という入り江に着岸されたと伝える。

1-3.廿日市市串戸

口碑 地御前有府之水門に着船せられて更に皇舟を進め給ひ、宮内村に入らせられ、長尾山の東端戸柿山麓に着かせられた。此の地が往古の天王社の地である。それより、更に奥に進まれ、現在の八坂神社鎮座地に至りて御駐蹕された。
福佐売神社 海岸に「エノクボ」と称する地名あり、此の地古神武天皇の御船を留められたる所、又川を可愛と称する。
御衣尾山 御駐蹕地に向かう途中、御衣を召替えられた処
御手洗川 御駐蹕地に向かう途中、御手を洗われた所
たけんち 神武天皇駐蹕地。田圃の中に巨石を築いた一領域がある。祠が洪水で失われ今は八坂神社の末社である。
舊森さん 天王社及びその西、西南部一帯を総称するが、往古は大森林であった。神武天皇この森を目指して進みし給ひしにより大幸(だいこう)の字が生じ、又、宮居経営の的をここに置かれたから的場の字ができたと伝える。
天王址 神武天皇最初に皇舟を寄させ給ふた所
高旌山 衣越(地御前より宮内村へ通じる細路)の西にある小高き山。天皇御着の折、旗を高く掲げてお迎えしたと伝える。
埃の浦
(榎の浦)
地御前・平良・宮内3村の沖一帯を言う。埃宮の所在によって名づけられたという。
槙の前 御舟を古槙に繋ぎ給ひしによる
舟山 舟楫を作らせ給ふたという。
可愛川 埃宮の所在からつけられた。
串戸 天王社の御戸を開き玉串を奉典し奉ったことによる
宮内村 神武天皇埃宮有しにより起こると伝える。
速谷神社 創建は不詳であるが、市杵島姫が厳島に来られた時、速谷の神が烏に化して案内したと伝える。安芸津彦と異名同神と思われる。

1-4.広島市古江

國郡志下調差出帳 上古神武天皇当国に御移り給ひ、則当所入江の岸へ御着船在して当所樽ヶ崎へ御揚り此処力箭山今の行者山へ御陣を造った。
八幡神社由緒 上古神武天皇筑紫より当国へ御巡幸あらせられ候時、多紀理宮地(八幡神社所在地)迄潮水来たりし故此処迄御着船在て御行在被為在候時、多紀理宮の前川の水を以て饗膳奉仕せられし故、上古より是を名付けて御幸川と申す云々
 神武天皇東征に際し此のところに泊し給ふや食の豊かなるを以って飽きの国なりと宣はせ給ひ
入江の漕出
(古田小学校付近)
聖蹟に因める名称は多紀理宮の外に、御幸川・入江の漕出がある。
八幡神社記録
「それより御発軍の御順路は多紀理宮より西北の間に当り道の里二十町程参り鳥音峠と申処より古江村中郷に入江の漕出と申処より御船漕ぎ出されし由」
樽ヶ崎 古田村古江に在り、俗に樽ヶ鼻といえども本名は樽ヶ崎と称へしものなり、その名の由来は神武天皇筑紫を平治し給ひ夫より当国へ御遷りあり、即ち此処に御船在して御陣営在らせられし所にて、本朝に於ける陣地の初ともいふべし
新宮神社 古田村にあり、伊弉諸・伊弉冉・事解男三神を祭る。古老の伝説に神武天皇東征の時此処へ御着船あり
神武天皇仮宮跡 草津八幡宮丘陵の西側麓が仮宮址と伝える。ここを多紀理宮という
井口大歳神社 この神社の前に神武天皇が船を繋ぎとめたと伝える。この神社はこれを記念して建てられたという。
口和田 五日市の八幡川河口の穴ヶ迫山は、神武天皇着船時、御手づから榊を折り地に立て給ひ、礼拝あらせられし処と伝える。

1-5. 旧橿原神社(広島市三篠町三篠神社合祀)

 三篠町大字新庄小字天王山に在った橿原神社は往古神武天皇御東征の際御行在あらせられし古跡である。
天皇は天王山に御行在あらせられ安芸津彦神に兇賊退治の事を御祈願あらせられ塩口より御船に召し府中埃宮に移り給ふ

1-6. 安芸津彦神社 広島市祇園

 官幣社由来記
 神武天皇此のあたりを通り給ひしに山の尾崎に一つの宮あり。安芸津彦神にておわします。<中略>天皇此御神に向かはせ給ひ、朝敵退治の事を祈り給ひ、上なる山に火を与え給えば官軍日に満し夜に増来りあつまり味方あまたに成玉ひぬかくて塩の口てふ所より御船を出し帆を上げ給ひ埃宮に至り給ふ。されば、今も同郡新庄村に天皇と云う社あり。是神武天皇を祭り其のあたりの地名天皇山・天皇田などいふもありかの山の尾崎といへるは則官幣社旧跡にして其の後いつのとしか今の地に移りたまふかの旧跡を南の御所ともいひ山のうへ平らき故にか茶臼山ともいへり是も天皇ましましけるによりて御所とはいふなるべし又此の御所といふところ正徳頃の記録に見ゆれど今は其の地詳らかならず御門といふところは今も在火を挙げ給ふところを火山といひ火をあげ給ふところを塩の口帆立といひ掘立ともかけり

1-7.火山 

 神武天皇が東征の際、この火山山頂からノロシをあげて兵をつのり、船で府中の埃宮 ( えのみや ) に渡ったというものである。山本や祇園には今でも「出口」「帆立」という地名が残っている。

2.安芸国埃宮滞在中の伝承

2-1.多家神社周辺伝承

誰曾廼森 神武天皇が初めて御上陸になった地。天皇は湊の榎木に御船を繋がれ御上陸遊ばされ、水を求められしに、森の中に土人と思しき者あるを見給ひ、天皇「汝は誰ぞ」とおとがめあらせられ、此の土人の導きにより水を得させられると共に四望の絶景を御嘉賞あらせられ、前途永き御東遷の途次此の一帯の地に御駐蹕の上舟師を整えさせらるると同時に、此の地方の賊徒を平定さるる事となって、行宮を設けられた。以来此の上陸地を「誰曾廼森」と呼ぶと伝えている。
多家神社 神武天皇府中御留蹕の際地方人民の幸福を念じ給ひ此の地方の人民出雲族に属するを以って家内安全五穀豊穣の神々にまします大穴持命即大巳貴命を祭らせ給いしが天皇崩御後天皇の御霊を是に合祀し奉ったのが多家神社の始まりである。
御腰岩 誰曾廼森の南方、丘続き数町の処、元松崎八幡別宮の境内にある。神武天皇此処に御船を繋がせ給ひ、山に登りて此の岩に御腰を掛けさせられ、四方の勝景をめでさせられたと言い伝へる。
茶臼山 神武天皇の御軍安芸国に近海に進まれる給ふや、茶臼山に火上がりしかば神武天皇宣はく、遥山頂に火あるは安芸津彦神の神霊なり、何ぞ就いて拝せざらんやとて、現仁保町向洋付近の戸の口あたりにて帆を挙げさせられ、舳艫相接して本町に到り給ひしを、住民は山上に奉迎したと。茶臼山では今も旱天には町民挙って山頂にて雨乞いの祈願を行ふことが存続している。
水分神社 本町榎川上流柚原山にある。祭神は雨の神で、神武天皇御駐蹕の砌、此の辺より御用水を求められし古跡として伝へる。
御衣尾 本町一部落の名である。往古より此の名此の文字を使用し、里人は昔神武天皇御駐蹕の際、着物を織りて献ぜしに始まると伝える。
岩谷山 昔神武天皇此の山に登り給ひ皇師を屯し給ふた。里人は其の旧跡を呼んで磐余山と言ったが、後世転訛して岩谷山と呼ぶに至った。そして其の山麓には神武天皇を祭る磐余の宮があったと云う。
船越 船越は太古海浜の一寒村であって、現在の山麓まで海水に洗われ、風光明媚なれども平地少なく、住民の多くは魚貝を漁どりして生活して居た。神武天皇埃宮に御駐蹕あらせられし際、近臣の演場となっており、時折天皇も御清遊を試みさせ給ひしといふ。船越の地名はこれより起こったもので、「天皇の御船が、御越しになった」との意である。
鷹宮 矢野町大坊の多家神社は鷹宮ともいい、その昔神武天皇の埃宮址と伝える。瓊瓊杵命の古跡であるということから神武天皇が訪問したと伝える。

2-2. 瀬野川の伝承

 神武天皇御東遷の際、御自らは府中町の海岸に船を繋ぎ給ひて賊どもを攻めさせられ、瀬野村へは五瀬命を差し向けられて陣所(現生石子神社所在地)を置かれた。それ故此の地を五瀬命に因み五瀬野と付けられたといふ

2-3. 呉市天応の伝承

 天応駅の近くに天応山あり、口碑によると、神武天皇御東遷の際、此処に御行幸あらせられたと伝え、天応山の伝承は「天皇の御幸」より起こり、「天皇様がおいでになった山」との意味である。山頂に小祠あり、神武天皇の分霊を奉祀す。

2-4. 呉市の八咫神社の伝承

 上代神武天皇吾妻方八十梟師等を治め給ふ折、この里にもいとも怪しき夷等の騒ぎありと聞食し、天照大神を祭り鎮め給へと祈り給へばあやしくも八咫烏の翔り降り大勅のまま告げしより夷等も戦き慴れて悉く平ぎ国土平穏になる。これを以てこの上の頂に祠を建てて産神として尊祭しけり

2-5.安芸郡江田島町切串

 昔神武天皇が御東遷の際、安芸国に到らせ給ひ、埃宮に行宮を造らせ給ひしはこの地であって、地方人は其の神徳を欽仰して、お宮を造営したのであったが、太古この地に洪水があり、其の為に埃宮は流されて遂に府中町のほうにいかれて終まった。

 宮跡は長谷川口の丘陵に在ったと伝える。

2-6.可部に伝わる伝承

舟山 神武天皇上陸地と伝える。
帆待川 今は舟山付近を水源とする川である。神武天皇は海よりこの川を遡って舟山に達したと伝える
恵坂(遠坂峠) 神武天皇は此の地まで、進出したと伝える。
螺山 神武天皇が登ったと伝える。
惣社(徳行事境内) 神武天皇行宮址と伝える。
天王社 埃宮址と伝える

2-7.高田郡吉田町宮之城

 山手村可愛宮の儀は人皇第一代神武天皇三年御在城、御軍勝利の地なり。是によって神武天皇を祭る。  
「可愛宮の記」より

2-8.賀茂郡西条町寺家

 『芸藩通志』には新宮神社と賀茂神社とは、もとは二社であっ たが、賀茂社が焼失したため、新宮神社と同殿としたと記され ている。 賀茂神社については、神武天皇が日向の国より軍を起こし東征 されたとき、中国地方最高の穀物倉である西条盆地に逗留され、 その逗留地である寺家字六日市に神社を造営し御神徳偲び奉っ た。(社殿に西暦3世紀~4世紀頃と云い伝う) 古文書に神の逗留地、即ち神の地より賀茂郡と号したといい、 賀茂の「モ」は「ミ」に通じ神という意味であるという。 また、神山、二神山、橿原などの名称はその旧跡であり、 古くは郡内一の大社であったが、旅人の火の不始末によって 焼失したため、その時より相殿と伝え現在に至る。相殿の年代 については不明である。 現在ある手水石は、賀茂神社合祀の際に神武天皇御腰掛石と 伝わる石を移したものである。       新宮神社由緒より

2-9.賀茂郡福富町竹仁

橿原神社(現在は森政神社に合祀)由緒
 往古神武天皇埃宮に御座すの際、本村に御遊歩被為在御少休の地として現今迄此地名を皇子原と称す

2-10.葦嶽山 

 往古神武天皇が大和地方を御東征の際、府中埃宮に宿せられ、出雲国、事代主命に其の協力方を使者を使わして申し出られた。然るに命は此の申し出を斥け使者を斬らんとして却て使者の為に敗られ、以後絶対に皇軍に背かぬ約束の為に比婆山に宝剣を埋められたといふ。此の時使者は埃宮より本村に出で本村川を遡りて帝釈を通り戸宇、八幡の地を経て出雲に入られたが、神武天皇は本村の吉備の中山の葦嶽まで行幸されたといふ。
 神武天皇はこの山で天皇の曾祖母であるイザナミ命の御陵に向かって祭祀したと伝えられている。。

2-11.熊野神社 三次市畠敷町 

 口碑伝承
幡次郷元は三次郡一帯なり、神倭伊波礼毘古大洲国の伏め者等を平らげ給ふとして日向高千穂宮より御東征の途に上り給ふ。安芸国に五ヵ年、吉備国に七ヵ年御足を止め給ふ其の間出雲伯伎(北備地方)を御巡視ありて幡次郷に錦旗を止め給ひ兵備の拡充に努め給ふ。之れ幡次の名ある所以にして幡は旗に通じはたしきは後世畠敷と書き現在に及ぶ。
 此の地に王の壇と云える方六反ばかりの小丘あり、今は開墾して畑地となり居り、其の上平坦にして屋敷跡の如し。伝え云う此の地に御旗を樹て給へりと、是に依りて後世此の地に神武天皇を奉祀せる者の如し。

2-12.比婆郡西条町高

今宮神社伝承
神武天皇広島に御滞在中屡時当地方迄御巡遊ある中に出雲方面との関係を生じ当地にその間数度足を止められ御巡察あり。物資を出雲方面より御取り寄せ遊ばさる。為御滞在ありし由。

埃宮に滞在中出雲との関係を生じこの地を数度訪問した。物資を出雲より取り寄せた。と言い伝えられている。

2-13.比婆郡高野町南

八幡神社 男鹿見山の麓にあり、大昔より鉾を神宝として伝えている。剛風彦といふ人物の案内で、神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの鉾と伝える。
男鹿見山 神武天皇鬼城山の鬼神を退治し賜ひし後、此の山に祭畤を設け祖神を祭り賜えりと伝える
玉来山 此の山の麓に高?宮ありて此処を高島といふ。神武天皇此処に行幸ありて御船を造り賜えりという。
船入置谷 高島の南に男滝・女滝がある。此の滝の間の谷をいう。神武帝ここに御船を入れ置き賜えりと伝ふ。此の周辺一帯を五来谷といふは、神武帝此の地に御来幸ましませしに由る。
鬼城山 此の山に埴土丸といふ鬼神住み、大盤石を積み重ねたる築地がある。上に大澤在り、鬼ヶ池と呼ぶ。沢の中に島あり、其の島に居を構えて数多の賊を養ひ、郷民に害を為すこと頻りなりしかば、神武天皇、剛風彦と云う者を案内人として此の鬼神を退治し給ひ、多くの矢箭剣鉾を獲得し給ひしと伝ふ
氷室山 氷室山の麓を氷家御所といふ。毎年6月まで氷を有する冷山である。往古神武天皇御来幸の砌、6月朔日、氷を捧げ奉ったと伝えている。

この周辺も高嶋という。

2-14.島根県邑智郡郷の内 

 神武天皇はこの山に登り周辺を見渡し、石が多いので、この国を石見国と名づけた。

3.安芸国埃宮出航後の伝承

3-1.蒲刈島の伝説

 太古、神武天皇が舟師をお率い遊ばされ、当地方を御通過あらせられんとする際、三ノ瀬南方梶ヶ浜の沖合にて伊予方面より吹き来る強風のために梶を折られ給ひたるが、時恰も満ち潮なりし為、お舟は矢の如くに三ノ瀬の瀬戸方面へ進んだ。
 そして、潮流の関係で、お舟は三ノ瀬対岸向浦の梳山(くしやま)に流れ着かせ給ふたので、早速其の山峯に登りて四方を御展望あらせられんとし給ふに、蒲よく生ひ茂りてこれを妨げ奉りしに依って、其の蒲を刈り取らしめられて御眺めになったものであるから、これより蒲刈と呼ぶに至った。
 然る後、この梳山と相対する天頭山との間は昔は海であったので、天皇は天頭山麓の岸辺にてお舟を御修繕の上、三ノ瀬の瀬戸を御通過あらせられて、内海に御出でになって東上せられた。

 舟を修繕された地は現在の蒲刈町向の春日神社の地である。

3-2.豊田郡大崎町大長

 伊予漫遊記
 越智郡上島の西部に属す御手洗島(大崎下島)と号す地は、野間郡の沖の島を言うなり。此の島は西国より京都へ往来の海路潮待能き船着場なり。往古神武帝皇兄五瀬命を始め、諸皇兄と共に謀って、日向国高千穂の宮を発し、御東征の時伊予の西南部沖の布理島にて宇和の県主宇和彦の子宇和彦命の御迎え奉る船、兵食を調進して海路先導の師を率い、速吸大門を貫き、始めて御船の着せし地を御津(愛媛県松山市三津浜)と号し、その次を風伯の大津と号し、今呼ぶ風早の浦(松山市北条)也。
 是より沖の島へ着き給ふ。海路風波烈しき所を今に波妻と呼ばるるは、帝の御言の葉の末なりと言ひ、即ち沖の島に風波を除け給ふ時、王公百官御手を洗ひて大山祇入山祇入野祇、海津見祇を始め総ての天神地祇を幣饌、供日を備へ遥拝し奉る為に、御手を洗ひ給ふ古跡を慕ひ此の沖の島の名に呼ぶ也。皇軍の御船の支船を此沖島へ遣はし置所を指て沖友、王濱(大浜)、帝(三角島)、供日(久比)、王朝(大長)などと呼名今に残れり。

 伊予伝説
神武天皇が御東遷の御時、一支隊は四国に向かわれ、温泉郡與居島村泊に御一泊、翌日未明の頃同島の南端、御手洗の海面にて西方高千穂の峰を伏拝み、其れより本土浜の瀬、今の大可賀にお船を着けられたるに、土民はイヨの名に背かず従順なりしかば、直に温泉郡三津浜町大字三津字段の地に於いて平和の御祈念を行われた。

3-3.豊田郡瀬戸田町名荷

行在所の御址 嶽山の麓に高宮の高地あり。此処の森を「江の森」と称し、神倭伊波礼毘古命を祭る「江ノ神社」があった。ここが神武天皇が暫らく滞在したという行在所の址と伝える。
舟師錨泊の御地 本村の前面に「皇舟島」がある。神武天皇、此の島に舟師を錨泊せしめられたといふ
生石神社 嶽山の別名は五十櫛山(いくし)、江の水門に在り、神武天皇の時、斎串を立てて祭る、因て生石神と名くといふ。今生口島と称するは蓋し訛りなり。
御斎田の跡 幡山の麓に御斎田といふ地あり、古老は神武天皇御斎田の跡なりといふ
大蔵 幡山の麓、御斎田の近傍に大蔵といふ地あり、古老は神武天皇大蔵の跡なりと伝ふ
御井 大蔵の南方の清水という地に古井あり、神武天皇此の地にあらせられたる際の御用水なりと伝ふ
麻原 地名。神武天皇が麻を植えられたところ
土器陶 神武天皇の陶窯の跡

 狭野命安芸国内における行程推理

 岩国を出航した狭野命一行は厳島の南端須屋浦に着いた。着岸できるところではないので、島沿いに北上し現在の厳島神社の地に上陸した。此処に暫らく滞在し、安芸国を出雲国(東倭)から譲り受けるための作戦を考えた。

当時の東倭の状態

 此の頃の出雲国の政治体制は、重要事項は言代主命がスサノオ神の言葉を聞き、猿田彦が其の言葉を元にスサノオ祭祀を行い、政治は出雲国王が行うと云うものであったと推定している。此の当時の出雲国王は出雲朝廷第8代国忍富神(出雲国王は代々大国主命と名乗っていたと推定)と推定されるが、スサノオ祭祀(出雲国造家が代々行う)は猿田彦の娘とタケヒナドリ命の長男・櫛瓊命(出雲建子命・伊佐我命とも云う)が結婚することにより、櫛瓊命が行っていたものと推定する。
 東倭は山陰地方・瀬戸内海沿岸地方を領域とする出雲国を中心とした連合国家であり、それぞれの国は出雲国の言代主の言葉によって緩やかにつながっていたと考えられる。各地域の豪族は出雲の神(スサノオ)を崇拝していた。しかしながらどこの世界にも心がけのよろしくない人々もいるように、この頃の安芸国にも人々から食糧を奪取することで生計を立てている人々もいたようである。
 また、安芸国はこの当時より30年ほど前、北九州を統治していた瓊瓊杵命が訪問していたようである。このことは速谷神社の速谷神が瓊瓊杵命天孫降臨時の随神の一人の子孫であること、矢野の多家神社に神武天皇が瓊瓊杵命旧跡をたどって来たことなどから推定される。

出雲国から譲り受ける方法

 この当時の政治体制は力によって人々を押さえつけていたのではなく、信仰によるつながりであった。そのために、その土地に住んでいる人々に大和朝廷に帰属する気持ちがなければ、出雲国が承諾したとしても譲り受けるのは無理なことであった。譲り受けるために大切なことは、まず、現地の人々の心をつかむことであった。安芸国各地を訪問し、そこに住んでいる人々に協力を要請し、スサノオの国家統一に習って先進技術指導を行う必要があった。
 ここまで来る間に、狭野命は各地で信仰している神を祭ってきた。安芸国ではスサノオ命、大国主命である。これらの神を各地で祭りながら、スサノオの娘である市杵島姫の協力を得て、先進技術指導をし、人々の心をつかみ、其の後で、出雲国の言代主に安芸国譲受を願い出る事にした。其の時、人々を苦しめている略奪集団に出くわしたなら、これらを退治する事にした。

安芸国滞在地の変遷の推理

 狭野命が安芸国で最初に滞在したのが、厳島神社所在地である。当然其の近くから訪問するはずで、厳島の対岸・地御前に神武天皇着岸伝説地がある。暫らく廿日市市宮内に滞在したようで、其の後、そこから北東方面に海岸線に沿って滞在伝承地が連なっている。其の最北端が広島市祇園の安芸津彦神社の地である。安芸津彦神社にはここから府中埃宮に移ったと伝えられているので、祇園まで海岸線に沿って各里を訪問し人々の心をつかみ、祇園から府中埃宮に滞在地を遷したと思われる。ここが安芸国滞在中の主たる宮地である。
 ここから北(芸備線沿線・三次・庄原・出雲国等)、東(瀬野川・西条等)、南(江田島・呉等)に神武天皇訪問伝承地が連なっている。北方面への広がりは出雲までつながっているので、最後と思われる。当時は陸行より水行の方が容易だったので最初は南と思われる。江田島の切串に宮跡伝承があるが、ここでは、宮が洪水に流されたので、府中埃宮に移ったと伝えられている。他の伝承と照合する事により、府中埃宮からここに移り、洪水によって埃宮に戻ったと判断する。
 これらの考察により、埃宮後の狭野命安芸国巡幸順は南→東→北であろう。最後の北方面は伝承が大変多く、また、何回も訪問したと伝えられているところも多く、かなり長期間、しかも複数回訪問しているようである。
 埃宮の西・東・南方面は市杵島姫も訪問したようで市杵島姫の伝承を伴っている地域が多い。また、大分系土器の出土を伴っているので、宇佐から市杵島姫が伴ってきた人々が先進技術をこの地域に伝えたものであろう。
 安芸国にやってきた市杵島姫は狭野命とは行動を別にしていたと思われる。というのは、「新説日本の始まり」によると、市杵島姫の最初は大土山でそこから色々と変遷し最後が宮島となっているからである。狭野命が埃宮を建てたとき、市杵島姫は其のまま三篠川を遡り、大土山に達しここを拠点として活躍したのではないだろうか。
 安芸国を出雲国から譲り受けるのに成功した後も、狭野命は安芸国内の巡幸を繰り返し人々の生活の安寧を祈った。安芸国内が大和朝廷の管轄としてほぼまとまったので、近臣を役人として配置し安芸国の運営を任せ、埃宮を出発する事にした。この役人は大和朝廷成立後も暫らく滞在して、古事記に神武天皇安芸国滞在7年とあるのは、この役人のいた期間ではないかと考えている。
 以後伝承其のままに、狭野命の安芸国における行動をまとめてみることにする。

宮島から宮内へ

 安芸国内における行動の計画が固まったので、狭野命は宮島を出航することになった。対岸に渡り地御前の有府水門に舟を付けた。狭野命自身はここから衣越をした。この時、土地の人々が高旗山で旗を立てて歓迎してくれた。其のまま陸路を宮内村に入り、戸柿山の麓に着いた。ここに舟を繋ぎとめ、御手洗川に沿って遡り、宮内の大幸の地に宮を造った。此の地にスサノオ命を祭り、ここを基点として周辺の人々に協力を願い出た。このあたりで安芸津彦と出会ったものと考える。

宮内から埃宮へ

 周辺の人々の協力を得られたので、次の地へ移動することになった。海岸に沿って東北に移動し、八幡川河口の口和田で祭祀を行い、今の井口大歳神社の下に着岸した。ここから陸行し、草津八幡神社の麓まで着き、此処に宮を建てた。この宮を多紀理宮という。暫らくして周辺豪族の協力を得られ、陸路東北方面に移動し、新宮神社の地で祭祀し、更に海岸線を東北に進んだ、今の西区新庄町あたりの天王山に宮を造り周辺の豪族に協力を求めた。
 更に東北に進み、今の広島市祇園あたりに着いた時、安芸津彦の勧めで近くの火山でのろしを上げることにより、協力者を募った。多くの人々の協力を得られた。
 多くの人々の協力が得られたので、安芸国滞在中の拠点となるべき宮を造るために、府中町の多家神社の地に向かった。
 狭野命は港の榎木に御船を繋ぎ上陸し、住民の案内で水源を確保した。此処に大国主命を祭ることにより人々の心をつかみ配下の者どもを周辺に住まわせ、此の地に本格的な宮を建てた。埃宮という。此処を拠点として安芸国巡幸することになった。

呉方面巡幸

 江田島の切串の住民が狭野命のために仮宮を造って訪問を要請してきたので、是を機に広島湾内の島嶼部の巡幸をすることとなった。まず、江田島周辺を巡幸、次に海を渡り天応に着いた。天応にも仮宮を造って滞在しているとき、呉に賊が出ると聞いたので、呉を回り賊退治を行った。巡幸が終わり切串に戻って暫らくした頃、洪水に襲われ、宮が流されてしまった。其の後狭野命は埃宮に戻った。

賀茂台地巡幸

 瀬野川の川上に賊がいるという話を聞いたので、五瀬命はまず、瀬野川沿いに遡った。瀬野の生石子神社の地に陣を張って、賊退治をした。狭野命はそこからさらに遡って賀茂台地に進出した。この当時、賀茂台地には、多くの集落があり、かなり長期間に渡って方々を訪問していると思われるが、新宮神社の地と橿原神社の地ぐらいしか伝承が残っていない。

可部方面巡幸

 太田川支流の帆待川を遡り、可部の舟山に着岸した。天王社の地に仮宮を造り、暫らく滞在した。周辺の豪族を訪問し協力を要請し、恵坂まで行き、近くの螺山に登り周辺の地理を知った。周辺の豪族の協力が得られたので、埃宮まで戻ってきた。

北部地方巡幸

 広島県北部地方は芸備線に沿って神武天皇を祭った神社が分布している。この経路に沿って狭野命の巡幸があったものと考えられる。

 埃宮周辺の巡幸が終わり、一帯の豪族たちの協力が得られたので、いよいよ北部地方を目指して巡幸をすることになった。太田川を可部まで進み、壁から現在の国道54号線に沿って梶の谷川を遡り、江の川水系に入った。川を下り宮之城に宮を造った。埃宮神社の地が宮跡である。伝承では三年ここに滞在したことになっている。この周辺はその昔スサノオ命が滞在した処で、スサノオ信仰が特に強い。狭野命も特に時間をかけて周辺の豪族の協力を得たものと思われる。
 大土山に市杵島姫が宮を造ったのはこの頃ではないかと思われる。

 狭野命は続けて三次まで進出し熊野神社の地を拠点として周辺の豪族を訪問した。この時、江の川を下り、邑智郡郷の内を訪問した。その後庄原の本村に拠点を移し葦嶽山で比婆山の曾祖母であるイザナミ御陵を崇拝した。山頂から神武岩を見た時、その方向は御墓山の方を向いており、ここでいう比婆山は御墓山のことであろうと思われる。

 県北全体の豪族の協力が得られたので、いよいよ出雲国の言代主に使者を送る事にした。使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く。おそらくこのコースで言代主の元にたどりついたものと考えられる。コース上に御墓山があることから、この使者は御墓山に参拝していると予想される。

 狭野命の使者を迎えた言代主は、「安芸国を譲れ」という言葉に激怒した。西倭と日本国の合併には東倭は参加しないが大和朝廷の運営に東倭は協力をするという話しはできていたが、安芸国を譲るというのは寝耳に水である。言代主が怒るのも無理はない。言代主は激怒して使者を追い返したのであった。

 今度は狭野命自身が言代主を訪問して安芸国譲渡を願い出た。最初は拒否していた言代主も狭野命の説得により安芸国を譲渡する事にした。その証として、宝剣を渡し、比婆山に奉納した。出雲国が安芸国を朝廷側に譲渡したという証となる物(銅剣?)を狭野命に渡した。狭野命はそれを安芸国内の豪族に配ることにより、安芸国内の人々に朝廷側に譲渡が為されたことを承知徹底したのであった。このために出雲との間で物資交流が必要となり、出雲を何回も往復する必要が出てきた。そのなかで、比婆郡西城町高から高野町南を経由して島根県の仁多へ出る経路が開かれ、この経路を使って往復することとなった。

 その経路上の高野町南に賊が出るというので、狭野命自身族退治をすることとなった。鬼城山の鬼は狭野命によって退治され、出雲との交流路は安定的に確保された。

埃宮出航

 安芸国の譲渡も無事に成功し、国内もほぼ安定したので、役人を残し、出航する事にした。この役人はその後7年間安芸国に滞在していたと思われる。呉から早瀬の瀬戸を抜け倉橋島の南を周るのに3日ほどを要した。倉橋島の南岸で一支隊を大崎下島の大浜で合流することにして、四国方面に向かわせた。四国にも航路の拠点作りが必要だったためである。狭野命一行が4日目蒲刈島の南を航行している時天候が悪化し海が荒れて、舟の舵が折れてしまった。舟は南西からの風にあおられて三ノ瀬方面に流され蒲刈の梳山に漂着した。早速山に登り四方を眺めようと下が蒲が邪魔だったので、刈り払うと見晴らしが良くなったのでこの島を蒲刈と呼ぶことになったそうである。梶の折れた舟は向の春日神社の地で修繕した。蒲刈を出航した舟は大崎下島の大浜に着岸した。島沿いに東に進み大長に宮を構えた。
 倉橋で四国へ回った一団は與居島の泊に停泊し、次の日早朝南端の御手洗から高千穂を遥拝した。そして、松山市の三津浜に上陸し、北条、今治と経由した。
 大長を出航した一団は大三島に着岸していると思われるが伝承は残っていない。大三島の北岸を通過し次の日生口島の名荷に着岸した。この島の嶽山の麓に宮を造り長期間に渡って滞在することになった。島嶼部の集落を訪問し、瀬戸内海航路の拠点作りのためであると思われる。この島では麻を植えたり、陶窯を作ったりしているので、先進技術供与とともに、長期滞在したことが伺われる。
 四国方面を巡幸した一団との合流を考える時、何日で合流できるか当時においては予測しにくい事もあるので、合流地点では長期間滞在する必要がある。合流地点は大長ではないかと当初考えていたが、大長は神武天皇滞在伝承に乏しく長期間滞在したとは思えないので、滞在場所は名荷ではないかと考えるのである。

 名荷では、周辺の拠点作りと共に、四国に行った一団との合流を待つために、長期滞在したものと考えられる。30日前後の滞在ではあるまいか。四国を訪問した一団は今治から大島、伯方島、大三島をを経由して生口島の名荷で狭野命一団と合流した。

 狭野命東遷団は四国からの一団と合流し、名荷を出航後いよいよ吉備国に入った。

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