漢委奴国王
金印の委奴国は倭国最南端の日向国であり、委奴国王はムカツヒメである。その墓は王の山と思われる。
| 第一項 | 委奴国は日向国 |
| 第二項 | 金印の使用目的 |
| 第三項 | 日向国王の政策 |
| 糸島地方の伝承、交易ルートの確保 伊都国王との関係 |
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| 第四項 | 金印の埋納 |
| 第五項 | 南九州の統一 |
| ホヒ、オシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ ウガヤフキアエズ、サヌ、熊襲 |
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| 第六項 | 日向国王の墓 |
| 都の移動、王の山 |
第11節 漢委奴国王
後漢書「東夷伝」に,
「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ,朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った。」
とある。この時の印綬が,志賀島より見つかった「漢委奴国王」の金印であることは,ほぼ間違いないといわれている。定説では,委奴国は奴国や伊都国を指すといわれているが,後漢の光武帝が金印を授けるという国は,相当大規模な国に限られている。北九州の小国であると考えられている奴国や伊都国では該当しないのではないか。この委奴国はどこを指すのであろうか。後漢書「東夷伝」では,「倭奴国」となっているが,金印が「委奴国」となっているため,より原典である「委奴国」が正しいと判断する。そのまま読むと「イナコク」である。委奴国とはどこにあった国であろうか。
中国書物の倭奴国記事をまとめてみると,
@倭国は古の倭奴国である。「旧唐書」
A倭の最南端である。「東夷伝」
そのまま直接解釈をすると,倭奴国は大和朝廷の前身で,日本最南端にある国ということになる。さらに金印を賜っていることから,当時の日本列島の大半を治めている強大な国ということである。1世紀中頃と推定される国内伝承と照合すると,委奴国は日向国としか考えられない。委奴国が日向国である可能性について考えてみよう。
まず、「日向」は古代なんと呼んでいたのであろうか。推古天皇の頃の記事に「ヒムカ」と呼んでいる部分があり、この頃は「ヒムカ」だったようである。景行天皇が九州征伐に赴いたとき(日本古代の実年代によると312年〜315年)にこの地方に日向という地名をつけたことになっている。このときから呼び名が「ヒムカ」となったものと考えられる。それ以前はどうだったのであろうか。それがもし広く使われていたものであればその呼び名は現在まで何らかの形で残っていると思われる。全国に「日向」という地名が散見するが、その多くは「ヒナ」あるいは「ヒナタ」と呼んでいて「ヒムカ」や「ヒュウガ」と読む例は数少ない。そして、日向から出雲に来たイザナミの陵があると推定した奥出雲地方には「日向」と付く地名が4個所あり、「日向(ヒナ)」、「日向原(ヒナノハラ)」、「日向山(ヒナヤマ)」、「日向側(ヒナタガワ)」といずれも「ヒナ」と読んでいる。このように日向と書いてヒナと読ます例が多いこととから「日向」は,当時,「ヒナ」と呼んでいた可能性は高い。
h音は落ちやすいことからイナ国の前にhが付いていて中国人が聞き間違えたとすると,日向国・委奴国は共にヒナ国となる。霧島連山の中に夷守岳というのがあり、その北麓の小林市は昔夷守(ヒナモリ)と呼ばれていたと言われている。ここは大和朝廷の日向出張所のあったところではないかと思われ、日向守の意味と推定している。大和朝廷成立後,ヒナ(雛)は都から遠く離れた国という意味で田舎を指す言葉となったものか?,魏志倭人伝の卑奴母離は,この頃設置されたと思われ,日向守の意味か?
日向国は現在の宮崎県であり最南端ではないという指摘もあるが、律令時代の極初期は現在の宮崎県と鹿児島県とを合わせて日向国といっており。古代の日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた領域であった。その後713年大隅国と薩摩国を分離し日向国は現在の宮崎県の領域になった。昔は宮崎・鹿児島合わせて日向と呼んでいた事から考えて、古代において、この領域は一つの文化圏にあったといえよう。まさに倭国最南端の国「日向国」である。
伝承面を見ても、子のニニギを今の鹿児島県川内市に配置し、神武天皇の兄に当たる「ミケイリヌ」を高千穂峡の地に配置しているが、これらはいずれも日向国の境界で球磨国(熊本県)との交通の要所に当たり、球磨国との争いを感じさせる。
また、大隈半島の付け根に当たる鹿屋や串良周辺は北九州の主要部に次いで弥生時代の遺跡密度の高い地域である。この地はシラス台地の端に当たり、稲作には向かない事を考えると政治的中心地があったため遺跡密度が高くなったと考えてもよいのではあるまいか。後に述べるように「王の山」で国宝になっている璧の出土した王墓らしきものも見つかっており、委奴国は日向国と考えられる。
紀元50年頃,九州倭国王となったムカツヒメは,政権を安定維持するために,紀元57年,中国に朝賀したものと考える。委奴国王というのはムカツヒメのことであろう。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより,倭から中国に朝貢する国が出てきたと,中国史書に書かれているが,具体的な内容が出ているのはこれが始めてである。それまで、中国との交流を主に行っていたのは北九州の豪族達であった。倭国の朝鮮半島との交流はスサノオ以来続いていたが、新しい技術が少なくなってきたので、さらに強力な新技術を導入するために中国との交流を考えたものと考えられる。おそらく,今までの小国とは違い,倭国を代表する大国が朝貢に来たため,中国側も大変慶び、金印を与えるなどして破格の扱いをし、記録されたものではあるまいか。
次に,日向国王の持ち物であるはずの金印が、なぜ志賀島から見つかったのか考えてみよう。まず、この金印の使用目的から考えてみることにする。当時,北九州は外国との交易をする玄関口で,人の交流の盛んなところである。政権を安定維持することを考えている日向国王は,当然,この地に役人を配置して交易の実権を握ろうとするであろう。この役人に金印を渡して,身分証明の代わりに用いたのではないかと考える。金印は印として何かに押しつけた跡はほとんどなく,印を押すための紙があったとも思われない。やってきた外国人に示して,「私は,こういうものです。信用してください。」とでも言ったのではなかろうか。あるいは北九州主要部にはまだ倭国に加入しないで頑張っている有力豪族が残っており、それらを倭国に加入させるためにも金印という外国の権威を利用したとも考えられる。
交易の玄関口となっているのは,魏志倭人伝や遺跡分布から,福岡県の糸島地方(伊都国)と考えられる。そこで、糸島周辺の神社の記録を調べてみると,次のようなものが出てくる。
・高祖神社(祭神彦火々出見命他)
高祖山周辺に日向と共通する地名が多い。
・志登神社(祭神豊玉姫・彦火々出見命他)
「彦火々出見命が海人の国(対馬)から先に上陸してきたので,豊玉姫が後を追ってこの地に上陸した」との伝承あり。
・細石神社(祭神木花開耶姫・磐長姫)
近くに井原鑓溝遺跡。三雲南小路遺跡あり。天孫降臨関連伝承・彦火々出見命生誕地の伝承あり。神殿は高祖神社の方向を向く。
これを見ると,糸島周辺に日向地方の伝承が多いことがわかる。これは,日向地方から,この地方に多くの人が来ていたことを意味している。その中心人物は,伝承の内容から判断して,おそらくヒコホホデミ(ムカツヒメの四男)であろう。
ムカツヒメはスサノオと同様に外国の先進技術を取り入れることを重要視した。対馬にヒコホホデミを派遣して対馬経由の交易ルートを確保することにした。対馬はスサノオが国を作り拠点を三根湾周辺においていた。その中心となる祭祀施設は海神神社(対馬一ノ宮)であろう。三根湾周辺の王墓は弥生中期末のもので、弥生後期になるとその中心地が浅茅湾北岸の二位周辺に移動している。遺跡からは突出した統率者集団は認められず、佐保浦を中心とする地域で青銅製品の集中が見られる。スサノオ祭祀の祭祀具である中広・広形銅矛の130本を越える異常なほどの多量出土地域である。後期初頭になって対馬の中心地が三根湾沿岸から朝茅湾北岸に移動してきたためであろう。この時期がヒコホホデミが対馬に派遣された時期と重なるのである。また、この地域にヒコホホデミがやってきたという伝承を持つ和多津美神社が存在している。
ムカツヒメより対馬で交易ルートの安定確保を指示されたヒコホホデミは対馬の人々に対馬の開祖であるスサノオに対する信仰が強いのに目をつけ、浅茅湾北岸に拠点を構え大々的にスサノオ祭祀(銅矛祭祀)を始めた。ヒコホホデミは人々の心をつかみ、対馬で外国交易の実権を握ることに成功した。
ヒコホホデミに関連して豊玉彦及び豊玉姫伝承地が対馬と薩摩に存在しているが、この伝承の真実性はどうなのであろうか?薩摩半島に存在している豊玉姫伝承地は周辺に複数の関連伝承地が存在し伝承どおしにつながりが感じられる。しかし、対馬の和多津美神社に伝わる豊玉姫伝承はこの神社のみであり、周辺に関連伝承地は調査した範囲では存在しない。さらに豊玉姫と出合ったと言われている玉ノ井は海辺から10mほどのところに存在しており、井戸として意味をなさないと思われるなど、対馬のほうは後で作られた伝承地のように見受けられる。しかし和多津美神社の地は祭祀の聖地であることには変わりなく、位置的にも対馬にやってきた彦火火出見尊と関連は深いものと考えられる。おそらく、ヒコホホデミが活躍したとの元伝承が存在し後の時代になって薩摩の豊玉姫伝承とつながったのではあるまいか?
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| 和多津美神社鳥居 | 和多津美神社全景 |
ムカツヒメは今までのような外国の先進技術を取り入れるのみではなく、外国人を積極的に倭国に招いて本格的交流をする決意をした。その使者に立てられたのが、おそらくヒコホホデミであろう。
ヒコホホデミは対馬の交易拠点を安定化させると共に、57年当時の後漢に朝貢し外国人を招いたと考えられる。
ヒコホホデミは対馬を安定化させた後、日向国王ムカツヒメの命により,まだ統一されていない北九州中心域の統一のために糸島の地に派遣されてきた。その役所があったのが,高祖神社の地ではあるまいか。
さらに重要なことは,伊都国最後の王墓といわれている井原鑓溝遺跡が,細石神社のすぐ近くにあるということである。そして,この王墓の造られた時期(出土した流雲文縁方格規矩鏡は紀元50年頃のもの)と,日向が実権を持っていた時期(紀元50から80年)とが,ほぼ一致していることである。井原鑓溝遺跡の被葬者は墓制などから,日向出身とは考えられない。また,高祖神社の細石神社に対する優位性から判断して見ると次のようになる。
スサノオの倭国に参加しなかったと考えられる井原鑓溝遺跡の被葬者は,それまでは倭国とは別の交易ルートによって,宝物を手に入れ,かろうじて独立を保っていた。ところが,対馬からやってきたヒコホホデミが,日向国王の金印を携えて外国人と交渉をするようになった。その結果,外国人がヒコホホデミを信用し,被葬者の方は外国人に全く見向きもされなくなり,独自の交易ルートも絶たれてしまった。ヒコホホデミの働きかけもあり,ついに倭国に加入したのではないだろうか。これにより北九州での権力型の王墓は消滅するのである。
北九州の中心域は,銅剣・銅矛祭祀が盛んでないが、これは、この地域の豪族が元々の裕福さからスサノオの倭国に参加せず,その後は,このように北九州以外の勢力により直接支配されたためではないかと判断する。
この北九州最後の王の倭国に加入の状況が伝えられたのが海幸・山幸神話ではないだろうか。つまり、海幸彦は井原鑓溝遺跡の被葬者で、山幸彦はヒコホホデミである。海神の宮は対馬である。ヒコホホデミはスサノオとムカツヒメの間に紀元25年ごろ誕生し、日向が実権を握った50年ごろ(25歳)から、ムカツヒメに外国との交易ルートを確保するように任じられた。まず、対馬に行き、当時出雲と関係の深かった豊玉彦に取り入って、婿入りした。そして、豊玉彦の信頼を得て日向と外国との交易ルートを確かなものにした。次に外国人の倭国訪問の玄関口である伊都国を倭国の直轄にするため、井原鑓溝遺跡の被葬者(海幸彦)に倭国に加入するように交渉に行った。しかし海幸彦は倭国に入る気がなく、ヒコホホデミにいろいろ難題を吹きかけて困らせていた。57年になり、ムカツヒメの命により、後漢に朝貢した。後漢の皇帝は今までの倭の小国ではなく、倭国の大半を統一した日向国が朝貢に来たので大変喜び、金印や玉壁を与え、その返礼として、後漢の使者を倭国に派遣した。ヒコホホデミはこの使者と共に倭国に戻り、金印を初めとする最新の物品によって、海幸彦を降参させ、伊都国を倭国に加入させることに成功した。ヒコホホデミは伊都国の「一大卒」として、高祖神社の地に宮を造り、外国交易の柱として活躍した。
この金印は,身分証明に使っていたため、日向国がなくなってしまえば無用のものとなる。つまり、神武天皇が即位して大和朝廷が成立すると必要なくなるのである。大和朝廷が成立したとき、日向国王から派遣されていた伊都国の「一大卒」(ヒコホホデミの後継者)は、大和朝廷により派遣された「一大卒」に政権を移譲し、海路日向に帰ることになったであろう。この金印を持っていると、それを理由に大和朝廷から難癖をつけられたり、せっかくまとまった国が分裂するもととなりかねないので、帰る途中にあたる志賀島に埋めてしまったものと考える。