スサノオの父フツ

 列島統一の始祖スサノオは朝鮮半島から逃れてきたフツを父に持つ。

第一項       フツの出自

第二項    スサノオ誕生
第三項      
フツの御陵

 

第2節                    スサノオの父フツ

第一項 フツの出自

スサノオが,国家統一事業を行ったと推定されるが、これは相当に難題で,これを実現するためには,相当の知識と知恵と行動力がなければできないことである。スサノオは,これらの能力を,どこで養ったのであろうか。

スサノオは,島根県平田市の宇美神社の地でフツを父として生まれている。フツという名は日本人らしくない名前である。「古代日本正史」によると,スサノオの本名はフツシで,ニギハヤヒの本名はフルである。どうも,同系統の名前のようである。

これについて,百済本紀を見てみると,紀元前一世紀頃の記録に,権力争いに敗れた「布流」という人物が出てくる。要約すると次のようになる。

 「紀元前一世紀頃,高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて,その弟の方の温祚王というのが王位につき,その子孫が百済王朝を築いた。この兄の方は名前を布流といい,海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが,布流の国は土地が悪くて住み難く,布流はそれを恥じて死んでしまった。」

ここに登場する布流は,スサノオ一族と同系統の名で,ニギハヤヒの本名と同じである。布流はスサノオ一族と関係があるのではなかろうか。

また、ほぼ同じ頃、高句麗の始祖伝承によると、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国したことになっている。BC37年のことである。

この伝承の真実性は定かでないが、この頃「フル」という系統の地名なり、人名なりが、朝鮮半島北部にあったのは確かであろう。スサノオ一族の祖(フツ)はこのあたりに住んでいたのではないだろうか。あるいは、布流国王家の一族かもしれない。偶然かもしれないが、スサノオが誕生したと推定される時期(BC40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37)がほとんど重なるのである。

朝鮮半島の権力争いに敗れたフツ一族は,紀元前40年頃,朝鮮半島南端部から船出をしたということが考えられる。実験によると朝鮮半島南端部から漂流した場合,対馬海流に流されて,島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高いことがわかっている。スサノオの生まれたといわれている平田市の宇美神社は,河下湾のすぐ近くである。そして,河下湾周辺には,朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡が,伝承と共に存在している。この一族の一人にフツがいたのではあるまいか。

 韓国側にもこれに相当する神話が伝えられている。ヨノランとセオニョの物語である。三国遺事に記録されている。
「今から1850年以上の昔、新羅という国があり、その国の海岸の村、今の浦項市の迎日湾あたりに、ヨノランとセオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。ある日ヨノランが浜辺で海草を採っていると、急に1つの岩があらわれ、彼を乗せ日本の「出雲」と呼ばれる国へ運んでいきました。セオニョは夫が帰ってこないので浜辺に探しに行ったところ、夫の履物が岩の上にありました。それをとろうとして岩にあがると、またその岩も動き出し、日本へ向かい、その国の人たちは2人を丁重に迎え、夫婦はそこで再会することができたのです。ヨノランはその土地の人たちに、製鉄の技術と米を作る技術を教え、セオニョは桑を植え、蚕を育て、絹を造る技術を教えた。」
この話をもとに、渡来人がどのようなルートで、どんな方法でわたってきたのか、実証しようというプロジェクト「日韓 古代の道をたどる会(からむし会)」が立ち上がっている。
 この物語が真実を伝えているとすれば、後世の別の人物である可能性もあるが、神話上の人物と重なるなら、ヨノランはフツに相当することになる。関連論文ではスサノオとのかかわりを説いているが、スサノオは日本で生まれており、伝承上対馬経由のルートを通って何回も往復している。浦項-出雲間は直線300km程で、対馬経由に比べると危険性がはるかに高く、この経路を通るのは緊急避難的要素が強いと思われる。実際伝承でも計画的に移動したのではなく、流されて移動したことになっている。

河下湾最奥部(フツ上陸地点?) 河下湾より朝鮮半島方面を望む

第二項 出雲王朝

 

古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。古代出雲において出雲王朝は影が薄いのではあるが、要所要所に出てくるのではっきりとさせなければならない。

 

出雲王朝系図

  スサノオ─@ヤシマジヌミ─Aフハノモジクヌスヌ─Bフカブチミズヤレハナ─Cオミズヌ─Dアメノフニギヌ─┐
  ┌────────────────────────────────────────────┘
  └Eオオクニヌシ─Fトリナルミ─Gクニオシドミ─Hハヤミカノタケサハヤジヌミ─Iミカヌシ─┐
  ┌──────────────────────────────────────┘
  └Jタヒリキシマルミ─Kミロナミ─Lヌノシトリナルミ─Mアメノヒベラオオシナドミ─Nトオツヤマザキタラシ

代数 王名 王妃名 王妃の父 王妃の祖父 よみ 推定没年
八島士奴美 木花知流比賣 大山津見 ヤシマジヌミ
布波能母遅久奴須奴 日河比賣 淤迦美 フハノモジクヌスヌ BC80
深淵之水夜禮花 天之都度閇知泥神 布怒豆怒 フカブチミズヤレハナ BC50
淤美豆神 布帝耳神 刺国大 オミズヌ BC20
天之冬衣神 刺国若比賣 アメノフニギヌ AD10
大国主 鳥耳 八島牟遅 オオクニヌシ AD40
鳥鳴海 日名照額田毘道男伊許知邇 トリナルミ AD70
国忍富 葦那陀迦 クニオシドミ AD100
佐波夜遅奴美 前玉比賣 天之甕主 ハヤミカノタケサハヤジヌミ AD130
10 甕主日子 比那良志毘賣 淤加美 ミカヌシ AD160
11 多比理岐志麻流美 活玉前玉比賣 比比良木之其花麻豆美 タヒリキシマルミ AD190
12 美呂浪 青沼馬沼押比賣 敷山主 ミロナミ AD220
13 布忍富鳥鳴海 若尽女 ヌノシトリナルミ AD250
14 天日腹大科度美 遠津待根 天狭霧 大山津見神 アメノヒベラオオシナドミ AD280
15 遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ AD310

出雲王朝系図(古事記)

大山津見──木花知流比賣
          ├───布波能母遅久奴須奴
素盞嗚尊──八島士奴美     ├───深淵之水夜禮花  
          淤迦美──日河比賣      ├─────淤美豆神
               布怒豆怒──天之都度閇知泥神    ├─────天之冬衣神
                               刺国大──布帝耳神      ├─────大国主
                                                 刺国若比賣    ├─────鳥鳴海
                                                   八島牟遅──鳥耳        ├─────国忍富
                                                         日名照額田毘道男伊許知邇
  国忍富
   ├────佐波夜遅奴美
  葦那陀迦    ├────甕主日子
  天之甕主──前玉比賣    ├────多比理岐志麻流美
         淤加美──比那良志毘賣    ├────美呂浪
         比比良木之其花麻豆美──活玉前玉比賣   ├────布忍富鳥鳴海
                           敷山主──青沼馬沼押比賣   ├────天日腹大科度美
                                               若尽女      ├────遠津山岬多良斯
                                      大山津見神──天狭霧──遠津待根

@のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 Cオミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。さらに、 オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。またD天之冬衣神は天葺根ともいい スサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから@からEまでは同世代とも考えることができるが、 古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか?

出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。 出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としては よそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。 また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。 出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか? 古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。

それでは出雲王朝初代は誰なのであろうか?それを明確に表現することが難しいが、出雲朝第二代布波能母遅久奴須奴が古事記編纂時記憶にあった最初の出雲国王だったのでは ないだろうか?直系であるとすればBC100年ごろの人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、布波能母遅久奴須奴は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。 これを元にオロチ退治以前の出雲の状態を推定してみよう。

 第三項 国引き神話

 出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 出雲風土記の国引きとは一体何であろうか。これについて検討してみよう。 

 国引き神話あらすじ

 『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと・淤美豆神)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。
そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。
国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。
そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。

神話伝承
長浜神社主祭神 八束水臣津野命
国富の要石国引きで引き寄せた土地が地滑りするのを防ぐために立てた石・出雲市国富町旧木佐家敷地内
帆筵石(ほむしろいし)旅伏山の山頂、都武自神社の境内にある。八束水臣津野命が韓国へ航海した時の帆が石になったもの
岩船石出雲市唐川町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の船が石になったもの
帆柱石 出雲市別所町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の帆が石になったもの
 国引きとは一体何なのであろう。実際に土地を引き寄せたとは当然ながら考えられない。八束水臣津野命が韓国に航海したということが地域伝承に言い伝えられていることから、ほかの土地との交流を意味していると思われるが、これを技術者の輸入と仮説を立ててみた。
 天之冬衣神はスサノオが八岐大蛇退治をするときに協力した神であり、スサノオと同世代と考えられる。オオクニヌシはスサノオより1世代後と考えられるので、天之冬衣神の父である八束水臣津野命はフツと同世代となる。出雲王朝はこの当時杵築(出雲大社周辺)に本拠地を置いていた一豪族と考えている。出雲本来の豪族であり、クナト大神、オオクニヌシと共通名で呼ばれることもあるようである。以下は推測である。

 フツが河下湾に上陸し平田市近辺に住みついたとき、その世話をしたのが八束水臣津野命ではないだろうか、フツとしては見知らぬ土地で困っているところをいろいろと助けてくれたのである。フツのほうも八束水臣津野命に朝鮮半島の新技術を伝授した。八束水臣津野命は遠くの国には我々の知らない技術があることに驚いたであろう。知識欲が旺盛だった八束水臣津野命はフツにもっと技術はないものかと相談した。フツは韓国にはもっとすごい技術があると伝えたことであろう。
 フツから韓国には素晴らしい技術があることを聞いて八束水臣津野命は韓国からその技術を取り入れようと決心し、船を造ってその技術を輸入しようとした。すぐには学べない技術もあったので、韓国の技術者を出雲に呼び寄せた。先ほどのヨノランとセオニョもその技術者に含まれるかもしれない。韓国から戻ってくるときの目標が三瓶山だったのではあるまいか。そして、その上陸地が長浜と考えられる。これが国引き神話の実相ではないだろうか。
 韓国から技術導入の後、八束水臣津野命はほかの土地からの技術導入を思いつき、次は北陸地方能登半島の珠洲地方から技術者を呼び寄せた。能登半島は東の縄文文化と西の弥生文化の接点であり、出雲にはなかった技術があったのであろう。その帰り道、大山を目標とし、上陸地が弓ヶ浜だったと思われる。後に隠岐の島の島前・道後を訪問しここからも技術者を呼び寄せた。土地が違えば人々の生活形態も異なるものであり、出雲の人が知らない何かがあるのが当然であろう。フツは八束水臣津野命の支援のもと、平田近辺の一豪族として勢力を拡大していった。そして、この事業が後にスサノオが統一事業を始める試金石となったものであろう。

第四項  スサノオの誕生

 スサノオ誕生伝説地と思われる場所が島根県下に存在している。当初平田市の宇美神社ではないかと推定していたがその後の調査によりもっと可能性の高い場所が見つかった。
 平田市塩津町の石上神社である。この神社は風土記に宇美社と記載されており、誰か重要人物が誕生した地であるように思われる。祭神は布都魂命である。古代の神名帳には「宇美神社塩津村海童」と記されており、海童とは海神(スサノオ)を意味している。この地は平田市の北側の日本海岸にあたり絶壁のような狭いところに人家が集まっている。今は道路が開通しているが古代においては海からではないとこの地にたどり着くのは難しかったのではあるまいか。古代において人々が常時住むところとはとても思えない。BC37年布流国滅亡に際して朝鮮半島を船出した布流国王の血筋のフツが臨月の妻とともに日本海を漂流しているとき、命からがらこの海岸にたどり着き、そこで出産した。そのような物語がぴったりと来るような土地である。
 スサノオはフツが日本海から上陸した直後に誕生したのではないかと思える。フツ夫妻はしばらく後産まれたばかりのスサノオを抱きかかえて、この地の少し西にある河下湾に上陸し、住みやすい地を探しながら沼田郷のほうへ移動したものと考えられる。

平田市塩津町 石上神社(スサノオ生誕地?)

フツがわざわざ日本列島まで来るのは緊急避難的要素が強く、その必要性がある人々というのは、滅亡した国の王の系統であると思われる。また,スサノオは,ヤマタノオロチを退治するときに使った布都御魂剣(鉄剣で石上神宮に現存)という,当時としては,大変珍しい鉄剣を持っていた。この剣は父フツのものであり、当時の日本列島では大変珍しいものである。こういう物を持っているというのもフツが王家の系統である証である。

フツは朝鮮半島の王家の系統であるため、日本列島や,朝鮮半島の地理・情勢・人心のつかみ方・政治のあり方などをよく知っていたと考えられ,スサノオは父からそれを学び,それを実行に移したと考えることができる。また,父から,朝鮮半島での権力抗争の話も聞いていたであろうから,人々が権力抗争することの愚かさや,それによって起こる不幸な出来事を知っていて,権力抗争を憎む気持ちがあっても不思議ではない。

また,スサノオが統一事業開始前に朝鮮半島に渡って,色々な技術を採り入れていることも,フツからその知識を得ていたからと解釈する。
 このようにスサノオが日本列島統一事業を始めることができたのは、朝鮮半島からやってきた人物を父に持ったからできたことであり、日本列島生まれの列島育ちでは統一事業はできなかったことであろう。

 斐川町出西に久武神社がある。この東方300mの地にヤマタノオロチ退治の後稲田姫を娶り、ともに住んだ住居跡の伝承地がある。稲田姫との新婚生活をした場所は松江市の八重垣神社及び大東町の須我神社にある。周辺伝承とのつながりは松江市の方が強いため、久武神社のほうはヤマタノオロチ退治する前にスサノオが住んでいた地ではないかと推定している。ここは沼田郷に近いところであり、17歳ほどに成長したスサノオが生活するには良い土地であろう。この地に一目ぼれした稲田姫を呼び寄せたこともあったと思われる。そのような時、木次の豪族ヤマタノオロチの横恋慕が入り、稲田姫を奪われた。スサノオはオロチを退治して稲田姫を奪い、オロチ一族の追撃を恐れていたわけであるから、スサノオも自分の家に戻るとは考えにくい。オロチ退治後は知り合いの青幡佐草彦を頼って松江市の八重垣神社の地に隠れ住んだとするほうが自然である。

久武神社 稲城の森(オロチ以前のスサノオ住居跡)
 
宇美神社(平田市平田) 宇美神社拝殿

第三項 フツの御陵

 島根県の日御崎神社の裏山に御陵がある。神社の記録によると,安寧天皇の時代に御陵の上にあった社を現在の位置に動かしたとあるので,この御陵は一世紀には存在していたようである。日御碕周辺にはその他にいくつかの朝鮮半島系のものと考えられる墳墓が見つかっている。スサノオは父のフツを尊敬しているはずであるから,その御陵は意味のあるところに存在するはずである。日御崎は朝鮮半島を向いた位置である上に,日御崎神社上の宮(祭神スサノオ)も朝鮮半島を向いている。フツが,彼の故郷である朝鮮半島を思う気持ちから,この地に作られたのではあるまいか。この御陵はスサノオのものと伝えられているが,スサノオの御陵は別に存在するので,この御陵をフツのものと推定するのである。そうなれば上之宮の真の祭神はフツである可能性も出てくる。

日御崎神社隠ヶ丘(フツ御陵?) 日御崎神社裏山