年代推定

  古代は半年を一年として年齢を計算していた。
  大和朝廷の成立はAD83年である。

平均在世年数

「古代日本正史」では,天皇一代平均在位年数を約10年として計算したために,神武天皇の即位年代が241年頃になるというものである。ところが天皇に即位するのは親から子へ相続すること もあれば,兄弟相続のこともあるし,従兄弟相続もあり得るのである。そのため,どの相続をするかによって平均年代が違ってくる。一代平均の誤差は代を重ねるごとに累積するのである。なる べく誤差の少ない推定法を採らなければならない。

 そこで,天皇に即位するかしないかに関係なしに,系図から年代を推定してみようと思う。まず,父の没年から本人の没年までを在世年数と呼ぶことにし,この在世年数がどれぐらいである かを検討してみよう。父と子の年齢差が嫡子誕生時の年齢であるから,系図上の各人物の平均在世年数は,嫡子誕生時の平均年齢と等しくなる。嫡子誕生時の年齢は,医学的にある範囲に限られ ており,父が没する年齢が上がれば,子の在世年数は短くなり,下がれば長くなるため,何世かの合計として考えれば,そのばらつきは小さくなるものと考えられる。そして,実際に系図から 年代を推定する場合は,何代かの合計年数を使うのである。はっきりしている範囲での天皇系図から,平均在世年数を求めると一世平均28年ほどになる。

一世あたりを計算すると,標準偏差約21年,平均に対する標準偏差の割合は74%で,平均に比べばらつきが大きいのであるが,七世程の合計で考えると195年程となり,その標準偏差は 26年程で,平均に対する標準偏差の割合は14%となり,ばらつきは小さくなる。世数に比例して合計年数が増えるが,何世間の年数をとろうとも,標準偏差は大きくは変わらないのである。 これにより,系図を用いて実年代を推定するには,何世かの合計を使うと,ばらつきが少なく,より正確な推定ができることが分かる。 上の表は天皇系図における1世~10世までの各世間の年数を計算し、その年数ごとの場合の数を示したものである。これをもとに古代の年代推定をしてみよう。

 正確な年代推定をするには天皇系図が正しいものでなければならないが,古事記・日本書紀の系図は,大和朝廷初期ですべて直系になっており不自然である。そこで,まず, 系図の確認をする。

 天皇系図の修正

皇統譜の人物の没年から直系の各世代間の年数を調べて、古代の年代を推定しようと思う。

 「日本上代の実年代」により崇神天皇の没年が279年になっており,神武天皇から崇神天皇までの世数がわかれば,神武天皇の即位年つまり,大和朝廷の成立時期が推定できる。 「上代日本正史」によると,崇神天皇は神武天皇七世にあたり,古事記・日本書紀とは異なる系図を示している。第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇が兄弟であるということと, 第八代孝元天皇は神武天皇の次男の彦八井耳命の曾孫に当たり,第七代孝霊天皇とは別系統同世代になっている。

 著者の原田氏が,旧家に伝わる孝元天皇の系図を手に入れられたそうであるが,綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であることの裏付けに乏しい。そこで,別資料から確認してみることにする。 丹後の篭神社に保存されている国宝の海部氏系図によると,第五代孝昭天皇の皇后(世襲足姫)は,神武天皇と同世代の天村雲命の孫となっており,神武天皇と孝昭天皇も祖父と孫の関係ぐらい でなければならない。つまり,「上代日本正史」にあるとおり、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟と考えなければ説明が難しい。

 また,阿蘇神社を創建した人物は,神武天皇の孫にあたる武磐竜命の子であるから,神武天皇四世である。これが孝霊天皇の時代であると記録されていることから,この人物は孝霊天皇と 同世代と考えられ,孝霊天皇は神武天皇四世あたりと判断される。綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であれば,孝霊天皇は神武天皇五世となる。 このようにして、いろいろな豪族の系図と比較したのが豪族系図である。これを見ると、ほぼ完全に皇室の推定系図と世数が一致していることがわかる。

 これらより,「上代日本正史」の系図は大体正しいと判断してよい。

推定皇室系図

   1    2       3       4   5   6   7   8   9   10  11  12   13  14
  素盞嗚━━饒速日━━┳━宇麻志麻治
            ┃
            ┗━伊須気依姫━┓ ┏━八井耳━━雀部━━雀部━━孝元━━開化━━崇神━━垂仁━━景行━━日本武━━仲哀━━応神
                    ┣━┫
  天照大神━━鵜茅草葺不合尊━━神武━┛ ┗━綏靖━━━孝昭━━孝安━━孝霊                     

一年2歳論

魏志倭人伝には「倭人は春耕秋収を数えて年数としている。」、「人の寿命は倭人の計算で百年あるいは八, 九十年という。」とある。当時の平均寿命は発掘した人骨から30年を少し超えるぐらい、日本書紀の年代のはっきりした頃の天皇の平均寿命は 54歳である、このことから考えると、当時の一年は今の半年に相当するようである。日本書紀の日付を調べてみると、綏靖天皇から開化天皇までは孝安天皇の即位期日を除いてすべて各月 15日未満である。それ以外の天皇についても15日未満が圧倒的に多い。このことは、当時の1ヶ月が15日までであったことを想像させる。

「日本上代の実年代」による年代推定

 栗原薫氏は、5世紀を中心とする上代は半年で1年とした紀年があったという仮定の元で朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などとの照合を図ることにより、その年代を復元された。 この復元年代では朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文及び日本書紀・古事記の年代のずれがきれいに説明できる。要点をまとめると次のようなものである。

 ① 允恭天皇の没年までに通常紀年と半年一年紀年が国内に存在し、それぞれ干支で持って記載された資料があった。
 ② 日本書紀はそれぞれの干支から推定される年代を矛盾があるまま記載した。
 ③ 通常紀年による年代と半年一年紀年による干支を区別せずそのまま記載した。
 ④ 通常紀年と半年一年紀年の間に16年のずれがあり、半年一年紀年は通常紀年より16年さかのぼっている。
 ⑤ 崇神天皇から仲哀天皇までは古事記または日本書紀の寿命から百を引いた数字を在位年数とすると、古事記の崩年干支及び、住吉大社神代記に伝えられている垂仁天皇の没年干支(辛未)と一致する。
 ⑥ 通常紀年と半年一年紀年の双方を使うことにより古事記と日本書紀の宝算のずれが説明できる。

 これによると、開化天皇以降の各天皇の没年は次のようになる。

崩年 修正
干支
書紀
干支

干支
9 開化天皇 245 庚午 癸未
10 崇神天皇 279 戊寅 辛卯 戊寅
11 垂仁天皇 307 辛未 庚午
12 景行天皇 325 戊申 庚午
13 成務天皇 328 乙卯 庚午 乙卯
14 仲哀天皇 331 壬戌 庚辰 壬戌
15 応神天皇 394 甲午 庚午 甲午
16 仁徳天皇 427 丁卯 己亥 丁卯
17 履中天皇 432 壬申 乙巳 壬申
18 反正天皇 437 丁丑 庚戌 丁丑
19 允恭天皇 459 己亥 癸巳 甲午

 これによると倭の五王は讃(仁徳天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)となる。
この年代は朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などと合理的に一致しているため、この古代史の復元にこの説を用いることにする。この説を用いると、卑弥呼の邪馬台国時代は崇神天皇の時代 となる。栗原氏は卑弥呼を開化天皇の皇后に比定しているが、倭迹迹日百襲姫にすると、卑弥呼の没年が249(崇神10)年となり、前後の日本書紀の記事と魏志倭人伝の記事がほぼ完全に 一致していることが分かった。また、天文ソフトで計算された日食の日時(248年9月)と天岩戸神話のときに作られたという八咫の鏡の製作年(崇神6年=248年後半)と見事な一致が見られる。

         

 大和朝廷の成立年

この系図を使うと崇神天皇は神武天皇七世となり,神武天皇即位から崇神天皇の没年までの年数は上の表より七世193年程となるので,神武天皇の即位年は,「日本上代の実年代」による 崇神天皇没年の279年から逆算して86±27年となる。よって,大和朝廷成立は紀元80年頃と推定され,弥生時代後期前葉の終わり頃と考えられる。弥生時代後期前葉から中葉への変化は, 大和朝廷成立によってもたらされたものと推定され,後でその変化を確認してみたいと思う。

 栗原説によると神武天皇即位年は紀元前98年となっている。これは、開化天皇以前もそのまま半年一年紀年でつながっているとした仮定で計算されたものであるが、この復元古代史とは 一致しない。栗原説を利用した神武天皇の即位年を推定してみると、神武天皇は辛酉年に即位したと記録されている。この辛酉が正しいかどうかの議論もあるが正しいとすれば、 半年一年紀年で紀元91年となる。しかし、「日本上代の実年代」によると半年一年紀年は16年さかのぼっている。そのため通常紀年に直した8年をさかのぼらせて紀元83年となる。 これは先に推定した即位年に極めて近い数値である。

初期天皇の在位年数

古事記と日本書紀の年数の違い

崇神天皇以降の各天皇の在位時期は「日本上代の実年代」でほぼ間違いないと推定するが、それ以前の天皇については「日本上代の実年代」ではなかなか一致しない。 そこで初代から第10代までの天皇の在位時期を推定してみる事にする。

表は古事記と日本書紀の年齢と在位年数を比較したものである。アンダーラインが入っているのは古事記の年齢と関連が深いと考えられる在位年数または年齢を示している。 これによると、古事記の年齢に関連が深いのは、崇神天皇以前は日本書紀の年齢よりも在位年数である。表のa-cは古事記の年齢と日本書紀の在位年数との差を取ったものであるが、 1の位が0~3にかぎられ、きわめて作為的である。この二つのデータは関連が深いと考えてよいようである。また、各天皇の即位時の年齢は表のb-cであるが、崇神天皇まではこれも極めて 作為的である。よって、崇神天皇以前の日本書紀の年齢はほとんど無意味であり、在位年数に意味があると考えられる。

孝霊天皇の没年

崇神天皇の即位を246年とすると、卑弥呼と考えられる百襲姫の没年は崇神10年(250年)となる。その前後の訪問記事が年表にあるとおり日本書紀と魏志倭人伝で一致していることから 開化天皇の没年も「日本上代の実年代」が正しいと考えられる。

また、「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。 日本書紀のとおりに半年一年暦で年代を計算すると孝霊45年が170年、71年が184年となり梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178 ~183)とぴったりと一致し、孝霊天皇の没年までは日本書紀の年代はそのままでよいことがわかる。

 孝元天皇の在位年数は日本書紀で57年である。これは古事記の宝算の57年に等しい。日本上代の実年代でも古事記の宝算は寿命というよりは在位年数と関連が深いことが指摘されている。 孝元天皇の場合はそのものずばりである。問題は開化天皇にある。開化天皇は日本書紀における在位年数は60年で、古事記の宝算は63年である。「日本上代の実年代」によると、開化・景行・ 成務の三天皇の在位年数は不明であったがために平均の60年(通常紀年の30年)にしたとされている。それであるならば開化天皇の在位年数60年は怪しいことになる。ここでは倭の大乱が あった頃と孝霊天皇の在位時期が一致するためにそのまま開化天皇の60年を採用しているが、あるいは古事記の63年が正しいかもしれない。しかし、その差は半年一年暦で3年であるから、 63年を採用しても孝霊天皇時代に合致し矛盾は生じない。どちらが正しいかを判断する方法が今のところ存在しないので日本書紀の年代をそのまま使うことにする。

開化天皇の没年から推定される孝霊天皇の没年は1世代前であるから前表より245年-28年±21年である。つまり、196 年~238年となり、孝霊76年=187年より少しずれるようである。吉備津彦の謎の項で詳しく述べるが、吉備津彦の年代から推定して孝霊天皇の没年は200 年頃以降と考えられる。

日本書紀の紀年は天皇誕生年からの年数

神武天皇の即位が80年頃ということから、孝昭天皇の在位83年や孝安天皇の在位102年は半年一年暦としても42年と51年となり長すぎる。日本書紀の年代はそのままでは正しくないようである。

上の表は孝昭天皇と孝安天皇の日本書紀の記述を年代ごとにまとめたものである。これを見ると、孝安38年に孝昭天皇を葬ったとある。死後38年(実は19年)もたってからの埋葬とは異常である。 孝霊天皇や孝元天皇が死後5・6年(実は2.3年)たってから埋葬されているが、ほかの天皇はその年か次の年には埋葬されている。孝安天皇は孝昭天皇の死後即位したのではなく、生前に譲位され たものと考えれば、この矛盾が説明可能である。ということは、日本書紀の紀年は在位中の紀年ではないことになる。

また孝昭天皇も孝安天皇も皇后を決めたのが即位後29年と26年でいずれもかなり経ってからとなっている。古代は平均寿命も短く、流行り病などでいつ死ぬかわからない状態であり、後継者を 早めに育てるのは大変重要なことと思われる。そのため皇后の決定は早くなければならない。このことは、この2天皇がかなりの若年で即位したか、紀年が即位からのものでないということを 示している。前天皇が死亡したのならともかく、生前譲位で若年即位というのは考えにくい。その結果、日本書紀のこの2天皇に関する紀年は、即位年を基準としているのではないと考えられ る。それでは何が基準になっているのであろうか。

孝昭天皇が没したのは孝安38年の少し前と仮定してみる。孝安天皇が誕生したのは孝昭48年であるが、その35年後に孝昭天皇が没している。この仮定によると日本書紀の孝安天皇元年は、孝安 天皇誕生年とほぼ一致することになるのである。孝安天皇の紀年を誕生年を基準とするものとすれば、孝安35年(実は18年)に孝昭天皇が没し孝安38年(実は19年)に葬ったことになり、自然 につながる。崇神天皇以前は古事記の年齢と日本書紀の在位年数の関連が深いのもこのことを裏付けている。日本書紀の初期天皇の紀年は天皇誕生年からのものと 考えられるのである。これ によると孝昭天皇誕生から孝安天皇没までの年数は149年(実は75年)となる。

神武天皇即位が辛酉年であることはよく知られているが、これが正しいかどうかは定かでない、しかし、半年一年暦であることから計算した辛酉年は83年であり、推定した神武天皇即位年に極め て近く、誤差の範囲内で一致している。これが偶然である可能性は低く、神武天皇の即位年は83年が正しいと考えられる。神武天皇の在位年数の76年(実は38年)は初代天皇であるため、即位後 のものと考えられる。これにより、神武天皇の没年は121年となる。孝霊天皇の倭の大乱までの年数が50年ほどとなり、「上代日本正史」にあるように神武天皇も生前譲位していたものと考えら れる。

懿徳天皇の誕生は安寧天皇の即位5年前となるが、それは安寧天皇14歳(実は7歳)で、しかも懿徳天皇は第2子である。これは医学的にありえないことである。綏靖天皇(33年)、安寧天皇(38年) 、懿徳天皇(34年)の在位年数を実年齢に直すと17年、19年、17年となる。他の天皇に比べて在位が非常に短いことと合わせて、この3天皇が兄弟相続であることの裏付けの一つである。しかし、 兄弟相続なのに3人合わせて53年とは長すぎる。この3天皇の紀年も年齢と判断する。その結果、いずれも早く没したことになる。

神武天皇即位後朝廷の体制が固まるまで譲位はありえないし、3 天皇の死後即位ということも考えられないため、神武天皇の即位後15年前後してから譲位したものと考える。綏靖天皇の在位は100~102程度、安寧天皇は103~106程度、懿徳天皇が107~110程 度と考えられる。いずれも3~4年在位である。後の時代の兄弟相続にしてもそのようなものであるから妥当といえよう。3天皇とも若すぎる死であるため、嫡子の誕生は難しかったと考えられ るが、いずれも皇后がいたようである。奈良時代の貴族の平均結婚年齢は15歳であるという報告もある。当時は15歳あたりで一人前といった考え方があったのではないだろうか。この3天皇はい ずれも短命であったために、兄弟相続となったと考えられる。

次の第5代孝昭天皇はある程度の年齢であることが必要とされ、懿徳天皇の子であるとすれば誕生直後の即位となり、「上代日本正史」にあるとおり、おそらく綏靖天皇の子であろう。孝昭天皇は 綏靖天皇の死と入れ替わる様にして誕生したものと考えられる。よって孝昭天皇の誕生は102年頃となり、孝昭天皇の没年は144年頃、孝安天皇の没年は177年頃となる。

孝霊天皇と孝元天皇の関係

「上代日本正史」によると、孝霊天皇と孝元天皇はいずれも神武天皇5世であるが、別系統であるとなっている。後でも述べるが、このことのはっきりとした裏付けは取れていない。しかし、 年代を調べていくとこの2天皇が父子相続とは思えない面が出てくるのである。

「魏志倭人伝」によると250年頃卑弥呼が没しているがそれは「年長大」と記録されている。80~90歳であったと仮定すると、卑弥呼の誕生は160~170年となる。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫と 推定しており、孝霊天皇の長女である。また、弟の若建吉備津彦命も180年頃吉備国や出雲国との戦乱で活躍している。この兄弟はいずれも160~170年頃誕生していると思われる。孝霊天皇は この年代論で計算していくと149年誕生となる。孝霊天皇が20歳前後のときこの姉弟が誕生していることになる。後で述べるとおり、孝霊天皇は210年頃まで生存していたふしがあり、215年没 の孝元天皇の生存期間とほとんど重なるのである。孝元天皇、開化天皇の紀年は誕生年からではなく、即位年からと思われ、在位年から推定すると平均的寿命であったと思われる。孝霊天皇 と孝元天皇が親子であると考えられなくもないが、同世代である可能性が高い。

各天皇の没年と年代推定

第一代神武天皇の即位年を83年として開化天皇の没年(245年)までの各天皇の没年を「上代日本正史」をもとにしてまとめると次のようになる。

これを見るとほとんどの天皇が推定範囲に入っている。崇神天皇以降で範囲から外れているのは、短命であったと推定されている天皇のみである。崇神天皇以前では綏靖天皇から懿徳天皇までと 孝霊天皇の没年が推定領域から外れている。綏靖天皇から懿徳天皇までは早世と考えられる。孝霊天皇については同世代への生前譲位であるためと思われる。また、孝安天皇と孝霊天皇が同世代 という可能性もあるが、孝霊天皇が210年頃まで生存した可能性を考えると、やはり、孝元天皇と同世代と考える方が良いようである。

神武天皇以前の年代設定

 神武天皇即位はAD83年頃となったが、それ以前の人物の年代を推定してみよう。  神武天皇の父である鵜茅草葺不合尊は1世前でAD50~AD80ごろ、その母である天照大神(ムカツヒメ)はAD20~AD50ごろで、イザナギはさらにその1世前でBC10からAD20頃となる。スサノオは イザナギと同世代と考えられBC10からAD20頃が活躍時期となる。ここにあげた年代はその人物の活躍時期であり生誕はその20~30年前となる。

「上代日本正史」「古代日本正史」の年代を160年ほど溯らせて、「日本上代の実年代」に接続すると以後に述べるとおり、中国史書、考古学的事実、神社伝承が驚異的に照合するのである。

各種資料との照合

 ここで導かれた推定年代が考古学的事実及び中国文献と一致しなければ、この年代推定は間違いということになる。以下の年表が考古学的事実と推定年代を照合したものである。これを見 ると、伝承における人々の動きと外来系土器の出土状況、倭国、ヒノモト、大和朝廷の各時期における伝承上の勢力範囲と各種青銅器、外来系土器、墳墓、鉄器などいずれもきれいに一致して いることが分かる。ここで確認しておきたいことは、考古学的事実に照合するように伝承を組み合わせたのではなく、この年代推定の元で伝承を一本の線につないだら考古学的事実とこれだけ 一致したということである。

      伝承・中国文献・考古学的事実の対照年表

下の表は各豪族の世数と天皇系図の世数の対照表である。水色がついているセルの人物はその世数の天皇とほぼ同世代と確認できるものである。
この表より海部氏、大伴氏、吉備氏はすべての世代において天皇家と世代が一致している。これに対して物部氏、出雲氏、三輪氏は応神、仁徳朝における対応人物が見当たらない。大伴氏も一般には大伴武持の子が大伴室屋といわれているが、和泉国神別によるとここに佐彦、山前が存在し、きれいにその前後がつながる。また、景行・成務朝も該当する人物がいない豪族もあるが、この期間は短期間(20年ほど)であるためにありうることと判断する。
履中・反正・允恭朝以降はどの豪族も不自然な箇所なく継続している。
 応神・仁徳朝で何系統かの豪族に空白(赤色)が見られるのは神功皇后・応神天皇が大和を制圧したとき、旧大和朝廷側についた豪族が処罰を受け、履中朝までの間中央から遠ざけられていたためではないかと想像する。

 おもな豪族の系図

     

年代推定