
ジイド 田園交響楽
盲の少女を引き取った牧師の手記。
盲で白痴の少女が牧師の手によって知能を、やがては視力までをも回復する。しかし二人は禁断の愛に手を染めていた。牧師は妻子ある身であり聖職者だ。視力を持たない少女にこの世界の素晴らしさを説いてやる。牧師は少女の純粋さ無邪気さは見ていない(知っていない)事に因るのだと考え、故に少女が視力を回復することに恐怖をも覚える。やがて、視力を回復した少女が恋に落ちたのは牧師ではなく、息子のジャックだった。少女は胸の中でジャックの顔を愛していたのだ。そして結ばれることのない仲と悟り投身自殺を図り、まもなく死ぬ。罪悪感に捕らわれる牧師・・・
と、聖職者の罪と告白がテーマだが、重視すべきは盲の少女である。
生まれつき盲の少女が視力を獲得するまでに牧師はこの世のいろんなことを少女に説くのだが、それがいささか視覚的すぎる。たしかに、人間生きていれば大方は視覚で世界を認識すると言われている。だが、視力を持たない少女は少女なりの世界(視覚以外で認識する世界)というものを持っているはずだし、それは牧師のそれに劣るどころか、同等であると思われる。この小説の始まりは、そして終わりは、牧師のこの優越感に因る。盲の人にとっての「色の言語化」とは極めて難しいし、不可能であるかもしれない。だが律儀にもそれを熱心に続ける牧師。見て(=知って)しまったがために起きた悲劇は、この「色の言語化」の果てである。分かりやすくいえば、全く同じを物語を盲の少女を通じて書かれたならばどうなるか、そちらの方がはるかに興味深いしオモシロイ(これこそ不可能に近いだろうが・・・)。盲の少女は文字を見たこともないだろうし、それはもう音声的な次元である。活字印刷される小説に、盲というテーマは限界がある。ジイドは、牧師の勘違いしている優越性を告発していると思う。だが、それを視覚的なメディアに載せて視覚的な文章として告発している点で、限界なのだ。勿論これは究極の問題だ。
(05年4月3日)