「ねえ、あなた。ちょっとこれ」

 土曜の昼下がり、居間でテレビを観ていると妻がキッチンから呼ぶ声がする。行ってみるとテーブルの上に置かれた土鍋を前に腕組みをしている。

「どうしたんだ。それ俺が実家から持ってきた奴じゃないか」

「ほら、ここ見てよ」

 彼女の指差した部分をよく見ると、内側に細い線。引っ越して棚にしまったときにはなかったと思うのだが。

「寒いし、今夜お鍋にしようと早速使おうと思ったらこれよ。やっぱり、新しいやつ買えばよかったわ」

「そう言うなよ。なんでもウチの親が新婚時代から使ってきたやつらしくてさ」

「でもヒビはいっちゃったら怖いわよ。お鍋の途中で割れちゃったら危ないし」

「確かになあ。でも今夜鍋ってのは捨てがたいな。よし、新しいの買いに行くか」

「そうね、どうせ材料も今からだし、一緒に買っちゃいましょう」

 平日は近所のスーパーで済ませていることが多いが、休日はこうして郊外の大型ショッピングモールにドライブがてら来ることもある。

「へえ、なんか渋いね」

 食材の買出しは終わり、せっかくだから安物ではなくいいものを買おう、と本格的な店に足を踏み入れたものの、いささか高級すぎだったようだ。提示されている価格は一番安いものでも五桁を下らない。その辺のスーパーなら五百円でも買えるものがあるだろうに。
  しかし、感心したように店内を眺めている彼女には、その値札が映っていないのか。このまま放っておくと価格を気にせず感性だけで選んでしまいそうだ。私は椅子に腰掛けている店主らしき老人に声をかけた。

「陶器とか素人なんで詳しくないんですが、なかなか見事なものですね」

「すぐ近くに工房がありましての。ここにあるのは全部ワシと弟子で作っております」

「ええとですね、土鍋を買いたいのですが、もう少し、お手頃なのはないですかね」

 駄目元で言ってみる。違う店に行けと言われればそれまでだ。しかし、彼は意外にもにこやかに笑うと、いったん店の奥に姿を消し、箱を手にして戻ってきた。

「貫入(かんにゅう)の入りが気に食わなかったので出していなかったものです。鍋としての使い勝手は、そこに並んでいるものと変わらないのですが」

「貫入?」

「ほら、表面の細かいひびのような模様があるでしょう。これが貫入です」

「ああ、そういう呼び方だったんですか、これ」

「焼いた後、釉薬(ゆうやく)が冷えて固まるときにできるものです。その後も、使ってるうちに変化をみせたりするんですよ」

「へえ……」

「ねえ、何話してるの?」

 私たちの会話に気づいた彼女が、後ろから声をかけてくる。どうやら値段の高さにやっと気づいたらしい。

「ああ、もう少し安いのはないかと聞いてみたんだ」

「そういうところ、わたしよりしっかりしてるよね。それが安いのなの?」

 さすがに老店主の顔は苦笑いのようになったが、我々の手にしているいかにも鍋をしますといった食材の入った袋を見て、さらに顔をほころばせた。

「そうですな、早速有効活用して頂けそうですし、三千円でお譲りしましょう」

「え、あっちにあったのは、同じ形で三万はしたのに」

「ワシの見立ててでは、これはいわばまだ『成長中』でしてね。お客さんのところで育てて頂く必要があるモノです。大切に使って下さるという条件ですが」

「もちろんです。ありがとうございます!」

 帰宅すると、妻は台所に入ってなにか始めた。鍋なら下ごしらえを始めるにもまだ早いと思うのだが。ヒビが入ってしまった鍋を捨てる前に、親に一言ぐらいは言っておくべきだろう、と思い立ち、結婚後初めて実家に電話をかける。ほどなくして、母親が出た。

『どうしたの。結婚前だって滅多に電話してこなかったのに。ケンカでもしたかい』

「そんなんじゃないよ。それより、貰った土鍋、あったろ?あれ、使う前に割れちゃったんだ。ゴメン、思い入れのあるやつだったのに」

『完全に、パカっと割れちゃったのかい』

「いや、今のところヒビが入ってるだけだけど。危ないだろ?」

『バカだね。いい土鍋は、ヒビぐらいじゃビクともしないよ。もし心配だったら、それでご飯炊いてみなさい』

「ご飯?土鍋で?」

『お米の糊がヒビに染みこんで、ちゃんと塞いでくれるから。それに、使い込んだ土鍋はすごいのよ?騙されたと思って味もなにもつけずに水とお米だけで炊いてみなさい』

 土鍋で米を炊く方法を細かく教わり、その後近況報告のようなことをさせられ、電話を終えた。キッチンに入ると、ちょうど買ってきた新しいほうの土鍋がガスコンロにかけられているところだった。中を覗くと、真っ白い液体で満たされている。

「なんだこれ?ん、もしかして米の研ぎ汁か?」

「うん、さっきのお店のお爺ちゃんが、教えてくれたの。新しい土鍋は使う前に、こうするといいんだって」

 米の研ぎ汁かおかゆなどを暫く煮込んで、冷ましてから使う必要があるらしい。鍋の内側の細かい穴がふさがって長持ちするようになるのだそうだ。先ほどの電話との共通点に気づき、それを彼女に話す。

「え、お義母さんと電話してたの?もう、そういうときは呼んでよね」

「いや、ヒビが入ったから捨てていいか聞くだけだったんだけどさ、どうやらまだ使えるらしいって」

「えー、じゃあ新しく買ったの無駄になっちゃうの?」

「そっちで今夜の鍋は作ろう。それで、古いほうでご飯炊いてみようぜ」

 そう言って、古いほうの土鍋を軽く洗って、彼女が研いだ後ザルで水を切っていた米を入れ、水を注ぐ。

「よし、こっちは俺がやるから。さっき電話で炊き方聞いたし」

「じゃあお鍋のほうはわたしね。今のうちに、材料切っちゃうわ」

 そろそろ空腹が限界だ、と感じる頃に準備が終わった。二口のガスコンロに新旧二つの土鍋が並んでいるというのも奇妙な光景だ。ある程度材料が煮えてきたので、テーブルの上のカセットコンロに移す。ご飯のほうは、火を止めたあともう少し蒸らさなければならない。

「ごくろうさま」

「おつかれさま」

 冷えたビールをグラスに注ぎ、乾杯。早速煮えている鍋に箸をつけていく。ビールを三本ほど(そのうち二本ぶんは彼女が飲んだ)飲んだ後、ご飯を土鍋から茶碗によそう。

「……ちょっと水が多かったかな。柔らかい」

「大丈夫よ。それよりなんかこれ、不思議!お米と水だけなんでしょ?入れたの」

「ああ。でもなんだか、すごく複雑な味がするよな。うまい」

「やっぱり、これのせいなのかな」

 古ぼけた土鍋が、今はあたたかい、落ち着いた存在感をもって目の前にあった。

「あなたのお義父さんとお義母さんが今まで食べた、お鍋の味なのかな」

「そうか、そういうことか」

 翌朝用に残しておくことを考えて多めに炊いたのだが、思わず二人で全て食べてしまっていた。空になった鍋の内側には、うっすらとヒビの跡が残っているが、ほとんど目立たなくなっている。

「明日はさ、朝昼兼用でこっちのお鍋に残ったお出汁で、うどん作ればいいのよ」

「いいね。日曜だし、のんびり寝よう」

 食後、二つの土鍋が並んだ食卓を挟み、お茶を飲みながら呑気にそんな話をする。まったく平和な夜に、ほっと一息ついた。その時。

―ピキンー

 何か澄んだ、ガラスを叩くような音がかすかに聞こえた。私以上に耳のいい彼女も、虚を衝かれたような顔をしている。

「今の音、なに?」

「しーっ、ちょっと静かに」

―ピン― ―チリン―

 甲高い音で、発生源がすぐには分からなかったが、どうやら目の前の二つの土鍋から鳴っているらしい。不思議ではあったが、何故か不安な気持ちは起きず、むしろ普通のことのように感じた。

「……きっとさ、挨拶してるんだよ」

「挨拶?」

「新人が、大先輩にさ。『よろしくご指導お願いします』ってな具合に」

「フフ、面白いこと言うわね。でも、確かにそんな気がするわ」

 残ったお茶を飲み干す。

「ねえ、わたしたちのこっちのお鍋も、あんな美味しいご飯が炊けるようになるかな」

「ああ、時間はかかるだろうけどね」

「そっか、じゃあお鍋の回数増やそうよ」

「準備楽だから言ってるんじゃないのか」

「そんなことないわよー」

 他愛のないやり取りで夜は更けていく。昼間、陶器店で老店主が言った、鍋を育てるという言葉の意味が分かった気がしたのだ。

(おわり)