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臨時ローマ字調査會議事録(第六囘)



昭和七年四月二十五日午後二時二十五分文部大臣官邸に於て開會

會 長
鳩山一郎君

出席者
島田俊雄君  K田英雄君  石井英橘君  左近司政三君
植村茂夫君  安藤正純君  粟屋 謙君  山下谷二君
藤岡勝二君  長屋順耳君  岡田武松君  久保田敬一君
日淺 寛君  堀切善次郎君 櫻井錠二君  鎌田榮吉君
阪谷芳郎君  田中館愛橘君 嘉納治五郎君 中目 覺君
ii恭助君

臨時委員
二荒芳徳君  ~保 格君  末弘嚴太郎君 櫻根孝之進君
宮崎靜二君  菊澤季生君

幹事長
芝田徹心君  

幹 事
森山鋭一君  菊澤季麿君  山崎犀二君  保科孝一君



○議長(鳩山一郎君) 初めての會議でありますから、一寸御挨拶申上げます。私がはからずも此職に就きましたので、此席を汚します。幹事長から報告があります。

○幹事長(芝田徹心君) 前囘の會議の後に委員の方に異動があり、なほ會長も變りましたので、一寸御報告申し上げます。内閣の更迭其他の關係に依りまし て、本會の會長の田中前文部大臣、其外委員としては、内閣書記官長川崎卓吉氏、法制局長官齋藤隆夫氏、内務次官次田大三郎氏、大藏次官河田烈氏、陸軍次官 杉山元氏、海軍次官小林躋造氏、司法次官小原直氏、文部政務次官横山金太郎氏、文部次官中川健藏氏、文部參與官工藤鐵男氏、文部省普通學務局長篠原英太郎 氏、農林次官松村眞一郎氏、商工次官田島勝太郎氏、鐵道省運輸局長中山隆吉氏、是だけの方が委員の席を退かれまして、其後任として、會長には鳩山文相が御 就任になりました。委員と致しましては、十二月二十四日付で左近司海軍次官、續いて昭和七年二日十日付を以ちまして、森内閣書記官長、島田法制局長官、河 原田内務次官、黒田大藏次官、皆川司法次官、安藤文部政務次官、粟屋文部次官、山下文部參與官、石黒農林次官、吉野商工次官、武部文部省普通學務局長、日 淺鐵道省運輸局長、是だけの方が就任せられました。尚ほ三月十九日付を以ちまし一、小磯陸軍次官が委員に新たに御就任になつたのであります。報告は是だけ でございます。

○議長(鳩山一郎君) それでは是から會議に入ります。前囘の第五囘の議事録を見ますと、宮崎さんから發言があつて、續きが今日あるやうでありますが、只今櫻井博士から發言の通告がありますが、宮崎さんに御異議がなければ櫻井さんに先にやつて戴きますが如何ですか。

○委員(宮崎靜二君) 結構です。

○委員(櫻井錠二君) 只今會長から御話がありました通り、こゝに田中館委員に對しまして、一二の御質問を致したいと思ふのであります。前囘の委員會の席 に於て配られた書類の中に、昨年パリに於ける萬國地理學大會に田中館博士が提出せられた決議案及此決議案を提出するに至つた理由書の寫があつたのでありま す。其中に「日本代表、田中館愛橘」と云ふことがあるのでありますが、今日配付された書類を見ますと、田中館博士から外務大臣に宛て提出せられた所の經過 報告書の中に「日本政府代表として出席すべき命に接し」と云ふことがあります。即ち日本代表と云ふことはつまり日本政府の代表と云ふ意味に諒解して宜いこ とゝ思ふのでありますが、其點を御伺ひしたい。

○委員(田中館愛橘君) こゝに「日本代表として」とありますのは、原文の Délégué Japonais の反譯であります。即ち一般會員表の中、日本から出た代表と云ふ處にあつたのでさう書きました。併ながら、此報告を御讀みになれば分ります通り、私は外務 省から政府代表として出るやうに命ぜられたのであります。それで政府代表になつたのであります。開會以前に議案を出します時は代表でも何でもない、唯の正 會員で會費を納めて出て居りましたが、結局此動議を會議に諮つた時には、日本政府代表になつて居りました。

○委員(櫻井錠二君) つまり日本政府の代表と云ふ資格で出席せられたのでありますから、此決議案もやはり其資格で提出せられたことゝ思ふのであります、 そこで之を見ますると、パリに開かれた萬國地理學會は「日本帝國政府に對して謹んで次の意見を表現す。」と云ふことが書いてあるのであります。しかして次 の意見と云ふのは「日本の地名は日本式に統一されたい。」と云ふ意味なのでありまして、是が即ち田中館博士が昨年の地理學大會の第六部に提出された決議案 であります。一寸私の諒解に苦しむ點は、日本政府の代表であつて、さうして其の提出に係る決議案の中に「日本帝國政府に對し謹んで次の意見を表現す。」と 云ふことのあるのは、果してどう云ふことになるのでありませうか。日本政府代表が或る決議案を提出する、さうすれば其會議がそれを可決するとか否決すると か云ふのですけれども、「日本政府に對して次の意見を表現す。」と云ふことは私には分らないのであります。しかも萬一日本政府が斯う云ふ會議に縋つて、又 其の權威を借りて、日本地名のローマ字綴を日本式に統一したいのではないかと云ふやうな風に誤解されても、辯解の仕樣がないのぢやないか、大變まづいこと ぢやないかと思ふのでありますが、それに付てどう云ふ御意見でございますか。

○委員(田中館愛橘君) 御答へ致します。私は政府代表と云ふ積りで出たのでは初めはなかつたのです。ところが『萬國地理學會は各國の政府に代表を出すや うに招待したが、日本からは來ないが、あなたがなつて呉れないか。』斯う云ふ話を幹事から言はれましたから、『やれんこともないが、それは勝手に出來な い、大使館に手紙でも出して御覽になつたらどうですか。』と斯う言ひました。ところが手紙でもいかぬからと言つて、態々代理大使の所に出掛けて、幸ひ田中 館が居るから、日本政府代表にするやうに計らつて呉れないかと云ふことを、大使館に申込んださうであります。大使館では電報を以て其ことを外務省に照會し ました。さうして、外務省から政府代表となれと云ふことが來たのであります。それで、大會間際になつて政府代表と云ふことになりました。此動議はこゝに書 いてあります通り「日本政府に對し謹んで表現す。」と云ふのは、實は Exprime le voeu と書いたフランス文の飜譯であります。私の提出したのはフランス文で書いてありましたが、私はフランス文が甚だ怪しいので、男性女性など時々間違つたりり しますので、大使館に行つて直して貰ひました、荻原書記官に。さうして、其時には、私の考へでは、實は日本政府に此會から勸告して貰ひたかつた。それでか う書いたのです。「日本政府に勸告する。」之に統一なさることは現今の言語學の發達に顧みて、又世界的の便利に顧み、陸海軍が既に之を採用して萬國地圖に 公表されたことに顧みて、更に萬國船舶信號會議に於ても、日本政府の委員が政府の訓令に從ひ、有力なる主張を唱へて日本式にすることに決議したのでありま す。それで、外の所も之に統一すると云ふことは、最も機會を得たものと思ひまして、それで勸告すると書いたのであります。さうした所が、此地理學會の幹事 は是ではどうも政治問題に觸れて内政干渉と云ふやうな嫌があつて、此前の大會の樣な議論が出るであらう、それであるから、「意見を發表する」 Exprime le voeu 即ち「政府の前に此地理學會は日本式を一般に使ふことを贊成すると云ふ所見を言明する、」と斯う云ふ事にしたのであります。

○委員(櫻井錠二君) 私の御尋ねしたのは、此「日本帝國政府に對し謹んで次の意見を發表す」と云ふことの文字の説明ではなかつたのであります。日本政府 を代表して其會に出席して居る者が此案を提出し、さうして、日本政府に對して其意見を表現すると云ふことが分らないのである。日本政府の代表であるから、 日本政府の意見を發表して、之に贊成して貰ひたいと云ふべき筋のものではないのですか。

○委員(田中館愛橘君) 御答へ致します。學會でありますから、此地名の書き方なども、やはり學會の中の一つの問題であります。だから、此學事上の問題に 對して、會員の一人として提出したのであります。私の出しました動議には、政府代表とは書いてありませぬ。御調べになれば分ります。唯會員田中館愛橘と云 ふことを書いて出しました。學會に於ては、フランスの政府の委員も、民間の委員も、同一國の委員同士で議論を闘はすこともあります。私は此樣な會員の一人 として出したのであります。此動議の説明書に、日本代表と書きましたのは其意味で、日本から出た會員であることを示したものであります。それから外務大臣 宛に出しました報告は、外務省から電報で命令を受けましたから、日本政府代表の報告を外務大臣に差出したのであります。

○委員(櫻井錠二君) 會員であると同時に、日本政府代表と云ふ資格は消えやしない。日本政府代表である所の會員である。どうも此日本政府代表と云ふ資格 を帶びて其會に出ながら、斯の如き案を出されたと云ふことは、實に私は其意味を諒解することが出來ないのであります。それからそれと又同じやうなことであ りますが、此決議が全會一致で以て可決した、但し會議の名に於て日本政府に之を通告することは、内政に干渉することになるから差控へるとありますが、差控 へると云ふのは、あなたが差控へるのか、決議した會が差控へるのか。

○委員(田中館愛橘君) 會が改めて差出しはしない。會が只其意見を言明すると云ふのです。

○委員(櫻井錠二君) はあ、日本政府代表が其提案の通過することに努力し、しかしてそれが通過した。それを日本政府に通牒することは、ちつとも内政干渉にならない。何故に之が内政干渉であるか其意味が私には分らない。

○委員(田中館愛橘君) 御答へ致します。此後に書き加へましたのは、幹事の言葉を書きましたのです。それは會から斯う云ふ決議を改めて政府に言つてやら ない。貴君(本員)が第六部の決議の状況を御報告になればよろしい、と云ふことでありましたから、それをこゝに書いたのであります。第六部文献及ヘ育の會 員の意見は、こゝに決つたと云ふことは確實でありますから、それを私がこゝに付加へた譯でありまして、政府を代表して此動議を出したと云ふ譯ぢやありませ ぬ。政府代表者である資格の爲に、會員たるの資格を以て學問上の外の議論をすることを差止められると云ふことは、毛頭ない筈である。此外にも私は各種の會 議に出まして、自分の意見を腹藏なく述べましたが、政府にも相談をしませぬ。同僚にも圖りませぬ。學會の第一部に於ては、飛行機を使つて寫眞を撮る方法に 對する意見とか、或は高低線の引き方や着色の方法等に就ても、腹藏なく述べましたが、それらに對して、同じく訓令を仰ぎません。

〇委員(櫻井錠二君) 全く單純な學術上の問題は結構であります。併し此問題は單純な學術上の問題ではないのであつて、昭和三年ロンドン、ケンブリッヂに 於ける地理學大會に、山崎博士が日本政府代表として出られた、其時に、日本に於ける「ローマ字」の綴り方が二色に分れて居るが、成るべくヘボン式の一方に 統一して貰ひたいと云ふ向ふの希望であつたのですが、山崎博士は、それは困る、どちらか一方に統一すると云ふことならば、自分は歸つて政府にそれを報告す るから、さう云ふ風にして貰ひたいと云ふ、洵に穩當な態度に出られた。それから三年日に昨冬の會議が開かれた。其間に臨時ローマ字調査會と云ふものが出來 て、其問題を研究することに成つて、まだちつとも解決が出來て居ないのであります。さう云ふ状態にありながら、此委員會の委員の一人である田中館博士が、 日本式に統一して貰ひたいと云ふやうな意味の決議案を提出すると云ふことは、餘程不謹愼なことだと思ふのであります。それで、田中館博士の如き我學界に於 て重きをなす老大家であり、又私の常に敬愛する所の數十年來の親友として、同博士の爲に遺憾に堪へないのであります。それは假令政府の代表であつてもなく てもさう云ふ感じがするのであります。政府の代表と云ふ肩書を付けて考へて見れば、尚更遺憾に堪へぬのであるから、此質問をしたのであります。

○委員(田中館愛橘君) 不謹愼と云ふやうな御注意は、櫻井委員の御解釋に依つて、御注意は有難く御受け致します。併ながら、私から見れば、最も適當なる 時機と考へまして、それを出したのであります。丁度此少し前に地理學會のみならず、言語學會が幸ひにジュネーブに開かれましたから、此言語學會にも會員と して出まして、しかして現今の言語學の最も進んだ所のフォノロジー、譯して音韻學を論議する席に列りまして、ローマ字綴字に關する意見を述べました。是も 或は不謹愼かも知れませぬ。斯う云ふことは默つて喋らないで居なければならぬかも知れませぬが、併ながら斯う世界の碩學の寄つた所で、意見を聽いて來ると 云ふことは、或は此調査會あたりから特に出張を命じても宜いことかと私は考へたのであります。それで、其會に列りまして、諸大家の説を聽きました。私の意 見も述べました。然る處、全く案外にも、フォノロジーの理論上簡單適切なる綴字に依つて、ローマ字を國語に應用することは、現代の言語學の大勢であること を聞かされました。他國語の表音法に從つて國語を書くことは、徒らに文法を複雜にしヘ育・經済上にも甚だ不利益なものであると云ふことを、エスペルゼンヘ 授が述べましたから、私も立つて日本式とへボン式の比較を述べました、是も不謹愼かも知れませぬ。
 此地名書き方の問題は私が言はぬでも出て來る問題である。實は先年英國で開かれた地理學會に於て、日本地名の書き方をヘボン式にされたいと云ふ個人的意 見を發表しましたレイノルズ氏が此度も出席して居りましたならば、親しく膝詰めに話をしようと思ひましたが、不幸にして出られませぬでした。外の委員とは 話をしましたがレイノルズ氏の樣にヘボン式を贊成する人はありませんでした。
 なほ念の爲に申して置きますが、此動議は大使館で荻原書記官に直して貰ひまして、さうしてタイピストに頼んで叩いて貰つて寫しを拵へましたから、栗山代 理大使にそれを差上げて御覽に入れました。若し代理大使がそれは不都合であると思へば、何とか御注意がありさうなものでありましたが、是になれば洵に結構 だと云ふ御意見でありました。私としては甚だしき不謹愼を行つたとは、更に自覺して居りませぬ。しかし櫻井博士の御親切なる御注意は、有難く伺ひます。

○委員(二荒芳徳君) 一寸御伺ひ致したいと思ひますが、只今兩博士の色々御質疑御應答を伺つて見まして、私は實は甚だ新しい委員でありまして、殊に昨年 は内地に居りませぬで、初めて今日出たのであります。只今の田中館博士の政府代表と云ふことに就きましての内容に付て一度伺つて置きたいと思ふのでありま す。政府代表と云ふ意味は、政府が、特に會議に列席して御延べになる内容に就いての訓令と申しますか、指令的のものがあつたかどうかと云ふことが、非常に 重大な問題だと思ふのであります。私共も、會議は違ひますが、例へば議員を代表して商事會議に參列を致しまして、議員であると同時に、其商事會議の會員と して、ブラッセルに本部のある一つのインスチチュートにはいつて居ります。さうして、代表して特別のインストラクションを受けておいでにならなければ、會 員としての所信を御述べになることが適當ではないか、若し指令があつたとすれば、勿論指令の範圍に於て政府の意圖を御主張になるのが必要だと思ふのであり ます。是は外交官や何かの代表と少し意味が違ひます。其指令の有無と云ふことに就で伺ひたいと思ふのであります。尚ほ是は行過ぎますかも知れませぬが、其 會議の希望と云ふものが日本に廻つて來た時に、今度は初めて日本側がそれを如何扱ふかと云ふことを考へれば宜いのぢやないか、それが偶々一つの團體として 決定したことを表明したが故に、直ぐに越權であるとか云ふやうなことは、どう云ふ根據で御主張になるか、是は櫻井博士に伺ひたいのであります。片方田中館 博士には指令の有無を伺ひたい。

○委員(田中館愛橘君) 指令は、たゞ政府代表として會議に列れと云ふことでありました。電報を外務省へ發するのも見ました。これは、フランス學會からの 希望に依つて政府代表を出したい、幸ひ田中館博士が會員として列つて居るから、之に命ぜられたらどうかと云ふ希望であるが、訓令を仰ぐと云ふ意味の電報で した。それから、今日は手紙を持って參りませぬが、大使館からの手紙は、電報の返事を外務省から受取つた。フランス外務省にも學會の方にも屆けてあります から、御出席を願ひたいと云ふ手紙でありまして、一般の政府代表で、簡單に申しますと、外の政府代表も出て居りますが、會を開いたときの儀式的に、そこに 各國政府が代表されて居る程度のものと、私は解釋して居りました。會員としては、政府代表であらうが、學會代表であらうが、学問上の問題に付ては各國の會 員各々意見を述べて主義を主張した次第であります。私のは唯政府代表として出ろ、斯う云ふことだけと御承知を願ひます。

○委員(櫻井錠二君) 私に對しての御質問は何でありましたか。

○委員(二荒芳徳君) 若し田中館委員の仰せになりましたやうに、如何なることを主張せよと云ふ政府の訓令若くは指令がないと致しますれば、會員としての 資格を、其為に牽制されるものではないやうに理窟の上から私は考えるのであります。其故に各々學問上の立場から、一委員として、若くは參列者としての御主 張があつたとすれば、假りにそれが通つたと云ふ今日の場合、其通つた希望を日本政府に向かつて申して來た時に、初めて其可否の論を日本側が決めて宜いのぢ やないか。其前には別に今の大變越權とか云ふやうな意味が、理窟の上から私は十分に立ち得ないやうに思ふのですが、これは純然たる理論の問題であります。 若し他の場合を考へまして、政府から何か一つの主張をすると云ふやうな意味の代表であつたとすれば、それは會員としての學問上の立場を捨てゝも、政府の意 見を遵奉されなければいかぬのだと私は思ふのでありますが、そこが學會の集りでありますが故に、外交官や其外の指令を仰いでやる其外の仕事と違ふのぢやな いか、斯う云ふ意味であります。

○委員(櫻井錠二君) 私は越權と云ふ言葉は使つた覺えがないのであります。越權とは考へないのであります。唯併し、日本政府の代表が自ら出した決議案の 中に、「日本政府に對して謹んで次の意見を表言す」是は全く何だか譯の分らないことになるのであります。私は越權と云ふ言葉は使ひませぬが、不謹愼と云ふ 言葉を使ひました。それは斯う云ふ關係からであります。先にも一寸申しましたが、昨年の會議から三年前のロンドン、ケンブリッヂの會議に於て、此問題が出 た時に、山崎博士は極めて穩當な態度を執られたのであります。それから後日本では此調査會が出來て研究中である。さうしてそれがちつとも纒らぬ中に、調査 會の委員の一人である所の、しかも日本代表である所の田中館博士が、昨年の地理學會に出られて、日本式採用に關する決議案を提出せられた、其點でありま す。山崎博士は非常な謹愼な穩當な穏健な態度でやられた。田中館博士のやり方は大分それとは違ふ。少し極端かも知れませぬが不謹愼と考へられないこともな いと思ふのであります。もう少し鄭重に此問題は取扱つて貰ひたい。斯う云ふことを言つたのであります。

○委員(田中館愛橘君) 此調査會が討議中であると同時に、地圖は、調査會の決定を待たず、日々人が使ふものであります。之には何とか地名を書かなければ ならぬのであります。調査會で決まるまでは、地圖が書かれないと云ふことになつては、今陸軍でも海軍でも御困りだらうと思ひます。船に乗る者に海圖をやら なければならぬ。飛行機に乗る者に地圖をやらなければならぬ。是等は皆今實際使つて居るものでありまして、之に對し書き方を定めることは最も急務と考へま した。昭和三年の萬國地理學會の後にロンドンで開かれました萬國信號書改訂會議に我政府の代表は外務、海軍、逓信の各省より出て居ります。其の復命書を見 ますと、ローマ字に付ての問題があります。是は外務大臣、内務大臣、海軍大臣、逓信大臣、拓務大臣、是だけに宛て、右の日本の委員から復命した書類であり ます。其二十五頁の終の所を讀みますと『帝國地名信號に關聯し、當委員より提出せる地名は、海軍式(所謂日本式に同じ)ローマ字綴方によりたる所、英國水 路部より、英版圖誌は勿論日本出版の海圖の地名にも今尚ヘボン式に據りて記載しあるを以て、新通信書を使用するに當り困惑を生せずや、又帝國委員が斯の如 き新式綴方を使用するに至れる理由如何との質問ありたるを以て、本件に關し本國水路部に照會し、直接英國水路部宛「新通信書實施期日までには、日本海圖は 全部通信書掲載の地名と同一綴方を以て記載することに改版する」旨通牒し、尚當委員に於て、日本各官廳其他に於ける、新式と舊式との綴方の使用状況を詳細 に説明し、漸く納得の上提案通りの綴方を以て掲載することに決定したり。』斯の如く、今まで陸海軍で統一せられた地名の綴方は、日本政府が主張して居りま す。此政府委員に對する訓令は、總理大臣、外務大臣、逓信大臣、内務大臣、海軍大臣から昭和三年八月十日、即ちケンブリッヂ地理學會の後、又ローマ字ひろ め會から熱烈な建議のあつた後に發せられた訓令であります。此訓令の寫しは此會で委員諸君に配付になつて居ります。又此信號書は今出版中であります。之に 鑑みまして地圖に於ける地名書式を日本式にされ度き意見を表明することを、其道の專門家が決議したのであります。どうも私は不謹愼と云ふやうな御叱りを受 ける程のことゝは考へられません。御忠告は洵に有難う存じますが。
 なほ此會議に於て、今日此處に持つて來てありますが、殊に感じましたことは英國の千九百三十一年七月出版の海圖におきましても、舊來の「チ」を chi と書いて居たのを tsi 又は ti と書替へました。ch は懷しい感じがすると云ふやうなことを、此前松村委員が御述べになつたが、先きに異議を唱へた本家でも ch と云ふ書き方はやめました。shi の h も取つて仕舞ひました。それでこゝにそれを寫眞にしまして、皆さんに御覽に入れます。さう云ふ形勢であります。地圖に地名を書くことは、此會啜が決まるま で、地圖を作らないで居ると云ふ譯にはいかないものであります。それで、地名の書き方を統一することを、私は最も適當と考へましたから、各國の人は之をど う考へるか、其意見を聽かう、斯う云ふ考へでありました。若し各國の地理學者が寄つた所で、それはいかぬと云ふやうなことであれば、それは大いに考へなけ ればならぬ。さりながら其處に寄つた各國の委員は議長の「贊成者は手を擧げろ」と云ふ宣告に對して、皆手を擧げました。贊成者の演説もありましたが、ドイ ツでは斯う書く、フランスでは斯う書くと色々な書き方を黒板に並べまして、それで、日本式書き方が宜しい。是は現今のフォノロジーの主義に最もよく適つた 書き方である、所謂其國語に適切する所の簡單なる書き方である、舊式の或る一國の音を以て音を寫す書き方ではいけない、それで全く贊成であると云ふことに なつたのであります。私は不都合なことをした抔とは毛頭考へて居りませぬ。

○議長(鳩山一郎君) 此問題に付て餘りやつて居ますと……宮崎さんに發言を許される順序になつて居りますが、もう一人だけ此問題に付て發言を許されて………。

○委員(ii恭助君) 私は此問題ではないのでございます。宮崎さんの議論にはいる前必要なことで、此前片付いて居らないことでございます。此前懸案になつた儘殘つて居る事柄が一つあるのであります。

○議長(鳩山一郎君) 前の速記録を見ますと、宮崎さんが發言中であつたのであります。ところが宮崎さんの發言に關聯しますから………。

○委員(宮崎靜二君) 私の話は前の會の續きでありますから、何れ話が濟んだ後でゆつくりやつて頂きたいと思ひますが、如何ですか。

○議長(鳩山一郎君) どうかさう願ひたいです。發言中で途中で田中館さんの話がはいつて居る譯でありますから………。

○委員(宮崎靜二君) 只今の御質問に付て、私も櫻井博士の御説と同じやうに、非常に遺憾を感じて居る者でございます。只今御話の通り、是は普通一般の問 題と違ひまして、兎に角態々政府で調査會を作つておいでになつて居る問題であります。それなのに日本式と云ふものは田中館博士が先頭になつておやりになつ て居るものであつて、田中館博士の日本式か日本式の田中館博士かと云ふ位なものでありますが、其田中館博士が、自分の主張する日本式を、萬國のインターナ ショナルの會議に於て自ら提議決定せられると云ふことは、自分の機會を利用して、否寧ろ濫用して折角政府で御作りになつて居る調査會を無視なすつたやうに も、私共には感じられて、非常に遺憾を感ずるのであります。でありますが、只今の御話を伺つて居りますと、何時まで行つても際限がなささうでありますか ら、今は此邊で切り上げを願ひまして私の意見の續を述べさせて頂きたいと思ひます。
 私の話にはいりましてから、委員の方も大分變りましたから、駈足で筋だけを申上げまして、さうして本日私の申上げることの諒解を完全に願ふやうにさせて 頂きたいと思ふのであります。先づ第一囘には委員の方々が御揃ひになつて、「どう云ふ譯で一體今までは標準式に決定して居つたものを日本式にしたか」と云 ふことの質問があつたさうでございます。これは私はまだ其時に居りませぬでしたので、よく分りませぬでしたが、其話であつたさうであります。それから第二 囘には、各々日本式及び標準式の意見を聽きたい、と云ふことでありまして、先づ田中館博士から日本式に付て御述べになり、それから私共の方から、ローマ字 ひろめ會の會頭鎌田委員から、ローマ字ひろめ會の主張なるものが述べられたのであります。是は新しい委員の方には、本日差上げましたが、あの書類の中には いつて居りますから御覽下さいますやうに御願ひ致します。第三囘には、田丸委員から日本式に付て詳細なる意見を發表したいと云ふことで、其時に詳細なる意 見の御發表があつたのであります。其大要は、日本式は日本語の性質に適ふものである、其一例は、(私の方で差上げてございます此謄寫版刷を御覽下さいます と分りますが、)第十頁の第四表を御覽下さると宜しうございます。それを見ますと、五段活用に於て、五段活用は今日日本語の話し言葉の動詞の活用の表でご ざいますが、此五段活用に於ては「アイウエオ」以下を語尾とすれば、ちやんと秩序整然たる動詞變化が出來る、これで以て日本の五段活用の説明が綺麗に出來 るぢやないか、と斯う云ふ説明でございます。これが第一でございます、それにもう一つ申添へて置きますのは、日本語では五段活用が非常に重要である、其重 要なる五段活用がうまく適用出來る、と云ふ説明であります。第二は、音便が規則正しく行く、音便と云ふのは普通申します音便と少し違ふやうに、私は了解致 して居りますが、田丸博士の云ふ音便は、吾々の云ふ連濁現象と云ふのであります。例へば「タマ」と云ふのは、「アカダマ」と云ふときには、「タ」が濁つて 「ダマ」になる、つまり t が d になる。「チャチャワン」と云ふときには、「チャ」が濁つて「チャヂャワン」になる、即ち t が d になる。斯う云ふ規則正しさがあると云ふのであります。それから第三は反切に於て、日本式では、例へば第九表の「不」と云ふ所を御覽になりますと、「韻 會」、「正韻」、浦沒切と云ふのを、「ホ」と云ふときの子音の h をとり、其後の「ホツ」若くは「ボツ」と云ふのを、韻の「オツ」をとつて付ければ「ホツ」と云ふものが出來る。之で行けば今日使つて居る所の日本の漢字に 於ては、それが通俗の音にぴつたりと会ふと云ふのであります。之で以て見ても、日本式が日本語の性質に適ふと云ふことの證據を見ることが出來る。斯う云ふ 御主張であつたのであります。それに尚ほ付け足して、頻りに、標準式は英語式である、言葉は違ふかも知れませぬが、(後で重要なものはクオテーションに致 しまして申上げます。)兎に角、英語本位であり、英語風である。つまり英語の間に育つたのであつて、日本語を書くのには適しないのである。そこまでは御主 張としてまあ宜しいと致しまして、其次に、ヘボン式を――標準式のことであります――小學校に使ふと、之は精~作興の上に非常に影響があると仰しやいまし た。尚ほ音聲學的な立場からも、へボン式は不都合である。故に日本式にしなければならぬ。と斯う云ふ御主張であつたのであります。それで第四囘には、其田 丸博士の御主張に對しての質問がありまして、第五囘に其質問の中の學的部分を菊澤委員から御述べになりました。それは今日皆さんの御手許に御配りになつた ことゝ思ひますが、「日本式ローマ字の立場に就て」と云ふ菊澤委員のパンフレツトで、此間御述べになつたものよりも多く詳しく出來て居るやうに拜見致しま した。それの内容に付ても、皆さんの御覽になつて居る筈であらますから申しませぬ。さう云ふ話がございまして、それから私の標準式として立場を申上げたの であります。其話を私が續けて行くのでありますが、私が先達申上げました話は、大體に於て、話の筋だけを取つて參りますと、(謄寫版刷を御覽を願ひま す、)緒言と致しまして、ローマ字綴り方に付て、私共は日本語を書くのである。何も英語を書くのでも何でもなくて、たゞ日本語を書く爲にやるのであつて、 さうしてその字の表はすものは、やはり日本語の音を表はすのだ。斯う云ふことを申したのであります。それから、尚ほローマ字問題の是非曲直を批判する爲に は、吾々は自然の成行と云ふことを見て行かなければならぬが、ローマ字に二つの派が出來たと云ふことは、日本の現状に於ては、或は自然であつたとも思はれ るのであります。なぜかと云ふと、初めて日本にローマ字がはいつて來ると、其ローマ字は先づ發音本位で書かれた、發音を其儘卒直に寫す。其寫すことたる や、銘々に夫々はいつて來た所の外國人が、各々自分達の使ひ馴れて居る音價で以てローマ字を書き表はしました。さうして、そこに日本語の音をその儘引寫し たものが出來る。それは極めて自然の現象であります。ところが、日本では五十音圖表と云ふものが、千年此の方使はれて居るから、日本人は五十音圖表と云ふ ものに、殆ど日本の音韻意識全體を縛りつけられて居ます。そこで徳川時代の或る學者の如きは、五十音圖は即ち日本語であり、日本精~である、五十音圖表に は日本語の言靈が宿つて居るのであるから、五十音圖表は極めて~聖なものである、斯う云ふことを言つた學者もあるのであつて、日本語五十音圖表に、日本人 が執着を感ずると云ふことは、無理もないことであります。其五十音圖表から言へば、今日の日本式が出來るのは當然の成行であります。是等が維新の後合流し て、ローマ字會と云ふものが出來ました。それが明治十七年であります。今日尚ほ其當時の會員の方で生きて居る方もいらつしやいます。今此處に居られます櫻 井委員も其當時の調査委員の一人であられたさうであります。其時には我々が今使つて居る標準式が、其當時の朝野の名士先輩に依つて採り行はれまして、そこ で一旦決定した譯であります。それが今日私共の標準式であります。
 そこで、本論にはいりまして、標準式は一體どう云ふ理論的の立場に立脚してゐるかと申しますと、私共人類と云ふものは、初め文字を持たなかつた、繩を結 んでやつと用を辨ずると云ふやうなことをやつて居る中に、繪を畫く事を覺え、或る物に対しては常に一定の繪を畫くと云ふことになつて、それが象形文字にな り、象形文字の中から、單に音を表はすだけのものが出來て、そこに音を表はす字が出來た。其音を表はす所の文字は、多くは一音節を表はす。丁度吾々の今日 使つて居る假名と同じ所に來るのであります。ところが段々人間の頭は洗練されゝばされる程、理智が進歩し、音韻意識が非常に明確になりまして、段々研究が 密になり、それが分化する。そこで音の子音・母音と云ふ考へ方が出來て來て、一つの音に對して一つの字を充てると云ふ書き表はし方が出來て來る。日本民族 も現に字形では、一つの音節を表はす字を使つて居るけれども、實際は單音を表はす字を使ひたいと云ふ現象が、ありありと現はれて居ると云ふことを申しまし た。そこで、ローマ字運動と云ふものが日本に起ると云ふことの當然なることを申述べたのであります。さうなると、つまり一つの音に對して一つの字を當 てゝ、さうして極く單純な形にして行きたいと云ふのが自然の要求であると云ふことを述べました。文字言語の關係上それが理論上正しいのであります。併し何 と云つても、音を字形に現はすのであるから、徹底的に正確と云ふことには行き兼ねるのであるから、多少の不滿はあるけれども、我々としては其精~に於て、 大まかな意味に於て、一音一字として行くのであると、斯う云ふことになるのであります。其原則に嵌らないのに、高等學校と云ふやうなときの「nga」[ガ 鼻濁音を表す発音記号]と云ふやうなのがあります。
 それから標準式と正字法、標準式は正字法と音聲符號とに兼ね用ひられる所の良い式であると云ふことを申上げました。
 其次は日本式の批評にはいりまして、田丸博士の五段活用と云ふものは、極めて科學的根據を持たない所の説明である、文法的價値のない説明である、是はま あ何と申しますか、極めて單純な考へ方であつて、假名で書いたときの文法の説明を少しばかりもじつて見た所がよく出來た、固より五十音圖表と云ふものを基 本として行けばさう云ふことになるのだと云ふことを述べました。本當の意味の文法、今日世界の學者の使つて居る文法の意味から言へばさう云ふ説明は成立た ないのであります。動詞に付て考へると文法的に重要な性質が五つある、其五つの性質を無視して居ることは非常に不都合であると云ふことを申上げたのであり ます。それに對して私自身のそれに就ての説明の形式も、ちよつと述べて見たのであります、詳細は第五囘速記録に付て御覽を願つて置きたいと思ふのでありま す。
 それから同義語群と云ふのは、つまり田丸博士の説を活かして考へて行くと云ふ見方もあるから、それに依つて行けば、斯う云ふ風にならねばならぬと云ふことを申しました。
 それから第二の、日本語の性質に適ふと云ふ例、連濁現象と云ふものは、必ずしも日本式の專賣ではなくて、日本式の方が寧ろ不完全である、我々標準式の方 がより多く日本語の性質を十二分に書き表はすことが出來るのであると云ふことを申上げたのであります。つまり其二つの點に於て、日本式の主張は寧ろ完全で なくて、我々の方が日本語の性質を本當に遺憾なく書き表はすものであると云ふことを申したのであります。でありますから、此點日本式よりも標準式の方が宜 しいのであると云ふことを申上げたのであります。
 第三には、反切と云ふ事でありますが、其反切を日本語の性質と云ふのは間違でありまして、日本語其物の性質でも何でもなくて、是は漢字者と五十音圖表と の關係であり、日本語の性質と言ふべきものでない。之を日本語の性質と言ふのは間違であると云ふことを申したのであります。事實さうであります。なぜかと 云ふと、ローマ字運動者は、今日皆漢字を使はないで、ローマ字を以て自由自在に用を辨ずると云ふ樣にするのが目的でありまして、さう云ふ場合には、漢字は 或る特殊の場合に於てのみ使はれるやうになる譯でありますから、日本人の或る特殊の人の專有になることであります。尚ほ詳しく申しますと長くなりますか ら、あつさり申上げて置きます。それでありますから、日本式の日本語の性質に適ふと云ふ三つの理由は、何れも極めて淺薄なものでありまして、學問的の深き 根據を持たないものであると云ふことを私は此間申上げたのであります。それですから、日本語の性質に適ふ日本式、日本語の性質を書き表はすことの出來ない ヘボン式などと云ふことは、是から仰しやらないやうに願ひたいと云ふことまで申上げたのであります。
 それに續いて今日の話を申上げるのであります、それは

英語式の辨

 でございますが、英語式の辨と云ふのは、英語式、英語式と仰しやいますから、どう云ふことであるかと云ふことを申上げたいのであります。先づ第一に

第一 田丸博士論難の語句

 に付て申上げたいと思ひます、田中館博士の第二囘總會に於ける御演説にも一他國の音系による摸音式」と云ふ句が使つてあります。田丸博士の第三囘總會に於ける御演説の中には、斯う云ふことを仰しやつて居る。
 第一に「各々日本音に最も近い英語音をとつて、それに付て子音を取つて來たと云ふのが、是は歴史的の由來から考へて當つて居ると思ひます。是は多分間違 がなからうと思ひます。舊ローマ字會の説明にも、子音は英語の音を取ると云ふやうな事を書いて居るのでも、其點には間違がないと思ひます。云々」是は第六 十頁第三行以下にあり、又第六十三頁の終から第二行目に、
 第二「「チャ」や「チュ」は英語にかう云ふ風な綴り方がある……それゞけのことであると思ひます。云々」つまり「チャ」とか「チュ」とか英語にさう云ふ綴り方があるから、日本式の方々はヘボン式は英語式であると斯う仰しやるのであります。
 第三に、第六十六頁第一行には、「日本語のこと云ふ音は、英語にない、それだけの理由でかうなつて居るのである。云々」斯う云ふことを仰しやつて居ります。
 第四に、第六十六頁第五行には、「さつきと同じ流儀で、是も英語にさう云ふ字がないからと考へられます。」と言はれて居ります。是はつまり、「ヒ」の「h」子音とハ行其他の子音との區別をしないと云ふ非難の文句であります。又同じ所に、
 第五、「英語に於ける似寄りの音の表はし方をとつたから、かう云ふことになつた、其外に何等の意義もないと思ひます。」と仰しやつて居る。
 第六には、第六十六頁第十一行には「こゝにペバーンシステムと云ふものは、今までローマ字を使つて居ない所の未開國の言葉に對する書き方だと云ふて居 る。」とチエンバレン氏の言葉を曲解し――是は田丸博士の引用された文からであらうと存じますから、敢て私は「曲解し」と申しました――更に第六十六頁の 終から次の頁にかけて、
 第七「ですから、つまりヘボン式と云ふものは、むき出しに申しますと、日本國を野蠻國と見て、其音を自分流に書いたさう云ふ書き方である。或はそれと同 じだ。さう云ふことを、チエンバレンが言つて居る、さう云ふ綴り方であると云ふことを認めなければならない」と痛論なすつて居ります。
 第八に第六十七頁終から次の頁にかけてには、「是は全く英語本位、英語に於ける似寄りのものを表はす爲に使はれた綴り方、それ以外の意義は有ち得ないの でありまして、たゞ形式上是は外國人が決めたのではない、日本人が決めたのであると云つても、それは唯形式上のことであつて、内容に於てはやはり英語であ ることは免れないのであります」と確固たる結論を下して御出になつて居ります。
 尚ほ第九として、「兎に角標準式の方は、形式上日本人が四十年昔偉い人達が集つて決めたんだからと、かう仰しやる。是は間違ひはないのですが、實質に於 ては英語式に相違ないのですから、其の實質に於て英語用法であつた所の書き方を、小學校でヘへるローマ字に使ふと云ふことは、國語の爲にも我が國家の爲に も、道理に合はないと考へるのであります」(第七十三頁第十四行以下)と喝破し、更に第七十六頁第十一行には、
 第十、「自分の語を書くのに、他の國語を基にした書き方を使ふと云ふことは精~作興に甚大なる影響がある」と云ふ風に、標準式は英語であり、英語以外の 何者でもない、四十年昔の先輩が英米崇拜熱にとらはれて前後の見境ひもなく決めたものである、先輩がきめたことは認めるが、それは僅かに形式に過ぎない、 形式を整へる爲の手段に過ぎないと論斷し、遂にはチェンバレン氏の
Which practically coincides with that recommened by the Royal Geological Society for the transcription of hitherto unromanized languages.
 とあるのを「未開國の書き方」と言つたり「日本國を野蠻国と見て其の音を自分流に書いた」と言つたりなさいました。
 以上は田丸博士が第三囘の總會に於ての御話の中から引いたのでありまして、速記録にはちやんとさうあるのでございます。今靜かに田丸博士の是等悲憤の御言葉に付て考へて見たいと思ふのであります。


第二 英語式とは何であるか

 と云ふことを申上げます。田丸博士は斯樣に英語式と仰しやつたし、又菊澤委員も英語式と稱することを適當であると御述べになつたのでありますが、成程先輩の方々がヘボン氏の案に依つて影響を受けられたことは是は事實でございませう。そこでローマ字會の綱領の第三には、
「ローマ字を用ふるには其子字はイギリス語に通常用ふる音をとり、其母字はイタリー語の音即ちドイツ語又はラテン語の音を採用すること」
 斯う云ふ條文がございます。是は今日の音聲學的な頭で考へますると、少し言ひ方は足りないのでありますが、其言つてある意味は宜いと私は思ふのでありま す。即ち子音を表はすのには英語式、母音は大陸式と云ふ標語に要約することが出來ると思ふのであります。私は是を以て實に直截簡明なものであると言ひ得る と思ふのであります。若し何等のこだはりがないならば、私も今日でも、大きな聲で、子音は英語式、母音は大陸式と言ひたいやうな氣がするのでありますが、 今日ではさうでなくてすらも、逆宣傅の材料に使用せられる虞が多々ございますので、不便を忍んで色々説明せねばならぬことを非常に遺憾に思ふのでございま す。先輩の方々の英語式と云ふ意味は、田丸博士の仰しやつたやうに、何から何まで英語に心醉し、英語を崇拜すると云ふ意味ではなくて、數千年來我が大和民 族が傅統的とも云ふ程に一貫して使用して居ります所の、簡單にして要を得て居る形式、直截簡明、これは私は日本民族の最も傅統的に持つて居る尊い一つの民 族性ではないかと信じて居るのでございますが、常識的で誰にも分り易い綱要を示されたものと思ふのであります。今若し虚心坦懷、私共標準式の綴り方の子音 を表はす文字で、英語獨特のものを拾ひますならば、ch j sh w y の促音 tch くらゐでございませう。
 (ch) 是はスペインでも使用して居りますから、英語だけとは限らないのであります。ですからそこにも私は今申した直截簡明、簡にして要を得て居ると云ふことが言ひ得るであらうと思ふのであります。
 (j) は多少やかましく言ひますと相違がありますが、フランスでも使ひますし、我々の j は此英佛の兩方を兼用したものであります。
 (sh) 是は詳しくは存じませぬが、英語独特のものかと思ひます。
 (w y) 是は日本式でも御使用になつて居りますから、此點英語式と標準式だけを御責めになる理由はありませぬから、勘定から抜きに致します。
 (tch) 是は英語獨特かどうか存じませぬが、ch と云ふものを認めるから來る自然の結果と思ひます。斯く英語獨特の一二の字を取入れたが爲に、英語式と云ふ言ひ方が用ひられたので、他の大多數の一般的の ものは、ローマ字國の殆ど一般的な使ひ方に從つて居るのでございますから、子音は英語式と云ふことは實に要を得た、如何にも日本民族らしい綴り方原則の立 て方として、私は感心して居るのでございます。先般第五囘の會合に於て、菊澤さんは「兎に角名前を付ける場合には、特徴を能く見極めての上になすべきでは なからうか。云々」と仰しやいました。斯う云ふものがあるからして、標準式は英語式であると云ふ判斷をなさつたかのやうに存じますが、若し私の此考が正し いとするならば、是からどう云ふ結論が出て來るでございませうか。つまりローマ字を使用して居る世界の國々の中で、英語のスペリングが最も複雜して居るこ とは既に定評のあることでございます。ドイツは既に大體規則正しくなりました。それに尚ほ段々整へて行きつゝあるのであります。アメリカでも大童[おおわ らわ]になつてやつて居ります。フランスでもスペリング改良運動が行はれたことは、保科ヘ授の御書きになつた東京文理科大學の學藝第四號に依つて詳しく知 ることが出來ます。但保守思想に依つて強く動かされるイギリスは此點に非常に困難を感じます。學者が世間に提唱しましても一向効きめがない。爲に今日世界 で一番複雜なスペリングを持つて居るのであります。即ち此特徴を以て考へて見ますと、綴方の複雜性を豫定する所の日本式こそは正に英語式でありまして、私 共の先輩の方々の英語式と言はれたのは、事宜に適した賢明な英語式でありますが、日本式の方々の英語式は、英語の弊、短所とも言ふべき所の複雜な所に於て の英語式と云ふことが出來るのではないかと思ふのであります。更に大文字の使ひ方に付て眺めます時に、名詞は大文字で書くと云ふ規定が日本式の記載法にあ りますが、此大文字の形式はドイツの特徴であるやうに思ひますから、此點に於て日本式はドイツ式である。而もドイツ人自身すらも、是はやめようぢやないか と云つて實施した人すらあると云ふことから考へますと、面倒だと思はれる所を悉く日本式の中に御取入れになると云ふ思召なのではないかと云ふことすら、私 は疑ひたくなるのであります。特に日本語の名詞は、私共の子供の時代には體言と云ふ名辭に依つて總括されて居たやうに思ひまして、非常に微妙な關係にあ り、ドイツなどの名詞の考で一般的に律することには非常な困難があると思ふのであります。それを強ひて行ふと云ふことは、日本語の性質をドイツ語化して見 ると云ふことになるのではないかと思ふのであります。菊澤さんは言語學、國語學の御立場からの御研究も深いやうに御伺ひ致しますから、何れ又改めて御指導 を願ひたいと思つて居ります。尚ほ菊澤さんの前囘の御話しの中に、矢田部良吉氏からの引用文に「本邦小學校に於て漸々英語をヘ授する傾向あれば、向後英語 は益々本邦に行はるゝに至るべし、故に羅馬字を以て邦語を綴るには英語の子音用法に據るを便利なりとす。」と云ふ句があるから、是でも英語式であると云ふ ことが分ると云ふ意味のことを仰しやいましたけれども、私の考へる所では、是はローマ字宣傅の爲になさつた文句で、斯う云ふことがあるから是は英語式だ、 外國式だ、植民地式だと云ふ結論は、少し認識不足ぢやなからうかと云ふやうに考へるのであります。私は「子音は英語式」と云ふ意義を次のやうに解釋して居 ります。
是等の文句の表はす子音、即ち「チャ」の中の子音、「シャ」の中の子音、「ワ」の中の子音等一般の子音が、日本語と英語との兩者に於て全然同一ではないとしても、同一種類の音であるから、其縁故で同じ文字をあてる。
 斯う云ふのであります。それが即ち子音は英語式と云ふ語の意義と思ふのであります。何も英語の音を日本にとつて發音しなければならぬと云ふ意味ぢやない のです。最初にも申しました通り、目的は日本語の音を表はすと云ふことにあることは勿論であります。しかして其ことは標準式も日本式も同じことでありま す。尚ほもう一つ御諒解を願ひたいと存じますことは、
同樣に英語のみならず、アルファベットの字の表はす各國語の音は、日本語の音と全然同一ではないが、同じ種類の音であるから其字を採用する。
 斯う云ふことになると云ふことでございます。私共は今日斯樣な意味に解釋して居ります。それで先輩の方々が子音は英語式と御述べになつたとしても、其實 「萬國不偏不黨、長を採り短を捨てる式」即ち、「萬國共通」な式であると共に、一に英語獨特なものを採用すると云ふ意味と解釋して、それに贊成をして繼承 して居るのでございます。其他の十箇條くらゐの英語だとの仰せは皆誤りであると思ふのでありまして、他日自ら明らかになることゝ思ひます。


第三 英語式ならなぜ惡いか

 と云ふことを述べて見たいと思ふのであります。私は田丸博士の論難の語句の一々に付て反駁を試みることをやめますが、只今述べた意味で見ますと、子音は英語式母音は大陸式と云ふ標語から、次のやうなことが言へると思ふのであります。
 (A) 國際性があると云ふことはローマ字使用の根本精~であつて、英語式子音字の大多數は此國際性を持つて居る。
 (B) 假りに前記の sh. ch. j と云ふやうな比較的國際性に乏しいやうなものに付て考へても、英米佛が共通に使用すると云ふことは、現代に於て地球上の重要なる殆ど全部に普遍性をもつて居るのでありまして、ローマ字採用の根本精~に一致するのでございます。
 (C) 現在のヘ育の實状は、中等ヘ育に於て、外國語としては英語をヘへて居るのでございますが、是は四圍の事情から實用價が大きいからだと存じます。 つまり我が大和民族が世界的に發展し飛躍する爲に、英語を知ることが便利であるとするならば、民族發展と云ふ同じ目的の下に採用しようと云ふローマ字の字 群中に、英語獨特の用法があつても一向差支はないと存じます。然るに、田丸博士は、國民の氣分から見てと云ふ項で、(第七十五頁第七・八行)「己の國語を 書くのに、他の國語の音の表はし方に依つて書いて居ると云ふことは、少くとも獨立國である限り、何處にもないと思ひます。」とか又は前記第十の樣に精~作 興に甚大なる影響があるとか御述べになつて居ります。此ことの誤りであることは、只今まで述べたことで明らかであると思ふのであります、sh. ch 等の子音の書き表はしの方法が一二あつたとしましても、しかもそれも日本語の音を英語にしようなどと云ふやうなことではなく、同じ種類の音であるから採用 しょうと云ふのでありますから、少しも獨立國としての日本の體面を傷けるとは思ひませぬ。日本民族は左樣な劣等な民族ではございませぬ。恐らく將來世界第 一の民族として指導的立場に立つであらうと思はれることは、遠くは祖國の歴史に顧み、近くは目の前の此大事に對して、我々の同胞が戰場にあると内地にある とを問はず、如何なる態度を執り、如何なることをして居るかと云ふことを見れば直ちに分ることゝ存じます。若し之に反し、田丸博士の御杞憂が可能性あるも のと假定致しますならば、即ち ch. sh 等を採用する爲に、日本民族が、精~上に卑屈な英米崇拜になつたりなどするやうなことがありましたならば、我が日本は遠い昔、即ち一千何百年昔から支那の 屬國又は領土或は保護國になつて居なければならないのでありますが、事實は全然反對であります。我々の祖先達は、漢字を使用したのみならず、公文書は悉く 支那語で書き、其正しい形が書けない時でも、やはり支那語のやうな恰好に書かなければならなかつたのであります。それ程までに漢字漢文と云ふものが徹底的 にのさばつて居たものでございます。假名が出來た後でも、假名文を書く時には「男もすなる日記と言ふ物を、女もして見んとてするなり」と云ふやうに、女の 眞似をしなければ書けなかつたと云ふ状態でありました。併し開闢以來三千年未だ曾て歴史を汚したと云ふ事はないのでございます。
 尚ほ是は私詳しく存じませぬけれども、日露戰爭の時には、日本は始めは機關銃は澤山持つて居なかつた。それで大に損害を受けたが、敵の戰利品の中にあつ た機關銃を見て、無論其前に研究して於つたかも知れませぬが、それを見て大いに啓發されて、直ちに機關銃を作つて、さうして大いに戰つたと云ふことを世間 では言ひますが、若し此ことを正しいとするならば、敵の武器に學んだものでございます。又今囘上海に於て偉勳を奏したと云ふタンクは英國の發明だと聞いて 居ります。
 尚ほ聞く所に依れば、畏れ多くも宮中の御儀禮の中にも、或るものにはフランス式のものがあると云ふことを承つて居りますが、別にさう云ふことがあつても、私は耻辱とは考へませぬ。世界的に發展するには、國際的風習に於ては、原則として之を尊重するのが適當と信じます。
 又東郷大將は曾て英國の海軍兵學校に學ばれたと云ふことを聞いて居りますが、其爲に東郷大將の御人格に對する尊敬には何等の變りはないのであります。
 日本文化は摸倣文化であると言はれるくらゐに、我々は外國の先進國の影響を應~天皇の御代から今日まで受けて來て居るのであります。しかも其間にあつて 常に向上發展して、日進月歩國際競爭の表面に出て參つたのであります。若し百歩を譲りまして、是等の sh. ch.j 等を使用することは、英米の植民地式であると云ふことを許すならば、前に述べましたやうに、日本式こそは眞に英語式であり、又ドイツ式であると云ふことが 出來るのでありますから、日本式を使用すると云ふことは、英米のみならず、更にドイツの植民地式であると云ふ結論になるのであります。
 田丸博士は「是は餘りに感情挑發的な所もないではないので、餘り方々で申さないことでありますけれども、實際かう云ふものだと私は考へて居ります」と云 ふことを第七十六頁第十二行で仰しやつて居ります。確かに煽動的であるやうに思ふのであります。さうして櫻井博士の仰しやつたやうに、毒殺的だと思つて、 私は伺つたのであります。田丸博士や其門下の方々の日本式宣傅の行はれる處、此煽動的であり、さうして毒殺的である所の言辭が擴められ、且つ濃く彩られて 行くことを期待しなければならぬことを、私は遺憾に存ずるのであります。何に依て然か言ふかと云ふ御叱りを蒙るかも知れませぬから、次に一二の實例を申上 げて置きます。
 第一、ローマ字國字論第三版百九十三頁には「若し特に英語の用法に從ふとすればそれは國民の(よい意味に於ける)自負心を傷けるのみならず日本が英國又 は米國の植民地でない以上、國際的に見ても甚だ面白くないやうだと云はねばならぬ」と論じてあるのであります。つまり標準式を使ふと、まるで英米の植民地 のやうになると云ふことを言つてあるのであります。
 第二、井上鐵道大臣への建白書に於ては「所謂ヘボン式(舊ローマ字會式)は全く英語に於ける用法に從ひ、日本語の語法・文法を度外視した點から見て、英 國植民地式の書き方と云ふべきものであります。是は昔外國人を偏重した時代の遺物で、民族的に自覺した今日の日本人から見ますと、甚だ臆面を傷ふものと云 はねばなりませぬ。云々」と記述してあり、此小冊子は何千部となく印刷され、兩院議員は言ふに及ばず、銀行、會社或は丸ビル等に於ても盛んに配付されたさ うであります。是等の殘部が堆高く積まれてあつたのを、私は十部程貰つて、私の知人に配つてやつたことがあるのでございまず。尚ほ同冊子に書いてあること は、「ローマ字世界」昭和六年の三月號の中に綴り込まれ、何千部或は前後を合せて何萬部となつたかも知れませぬが、日本國中津々浦々まで全部配られたこ とゝ思ふのであります。こゝに御注意を願ひたいことは、「日本語の語法文法云々」と云ふことは、私が前囘申述べましたやうな、極めて權威のない獨斷的なも のを指して言つて居ると云ふことであります。
 第三、第八高等學校ヘ授某氏は「外國式(shi 等とやるヘボン式等)綴り方等を理由なく固執する者は、日本民族の發展を害する國賊である。」と云ふことを御書きになりました。此論文は初め九州帝國大學 新聞、たしか昭和三年八月二十六日かと思ひますが、其中に出たのを、其後八高ローマ字會の小冊子に再録せられ、是又何千部と出て居ることゝ思ひます。「理 由なく」とありますが、或る主張をする時に何人が理由なく主張し固執する者がゐるでありませうか。是は宣傳効果完全を期して、しかも言葉尻を捕へられない 爲の十分なる用意のある宣傳の妙諦を極めた言ひ表はし方と見ることが出來るのであります。
 第四、次は昭和六年の九、十兩月に亘って出た廣告と存じますが、日本のローマ字社から出た所の日本式の機關雜誌に「醜惡なるヘボン式を街頭より葬れ。」と云ふ意味の看板集の廣告が出て居ります。
 第五、尚ほ田中館博士の第二囘の筆記の第十四頁の終には、「併し國語の如き民族意識の表現に關して、其音系組織の上に立つ日本式と、他國の音系による摸 音式とを折衷することは、木に竹を接ぐ樣なもので實際行はれるものでありませぬ。」と述べられ、更に第十五頁第十三行には「中に就て國語の如きは非常に執 着力の強いものでありまして、國語を捨てる、或は國語を組み替へると云ふことは容易ならんものであります。國語を尊重するならば、其國語の語法文法を尊重 して、其音系意識に適つた書方をしなければならないと云ふのが、日本式の眼目であります。」とあるのであります。之を見ますと、暗に私共の頭に直ぐさう考 へられるのでありますが、標準式を使へば、日本國を劣すると云ふことを婉曲に述べられたものと云ふ風に、私共の頭には響くのであります。次に、日露戰爭の 折の對馬海峡の戰が述べられて、第十六頁第二行には「民族の自覺と云ふことは、又自國語の尊重にも大いに關係することを考へねばなりませぬ」と論ぜられて 居ります。是等の言句を綴り合わせると、やはり田丸博士が仰しやつるやうな意味が出て參るやうに思はれるのは、實に遺憾に堪へない次第でございます。田中 館博士の御話は内容は猛烈でございます。論理的に推して行けば「標準式を使へば、民族の自覺が出來ないで、對馬海戰などでも敗れるかもしれない。」と云ふ 意味になり、標準式は國を亡ぼすとなる樣に思はれます。洵に婉曲に御話しになつて居りますが、其外の四例などは何れも随分猛烈な筆で、煽動的な意味で書か れて居ることが分ります。成程是等の事柄が本當でございますならば、敢て日本式の方々でなくとも、誰かヘボン式の徒の肉を喰はずんば飽かずと云ふ程度の公 憤を感じないものがございませうか。ところが事實は前に述べたやうな、他愛もない。權威のない、獨斷的な、學的根據の因つて立つべき何物もない所謂語法文 法なのであります。之を以て國家の官廳に要請し、國民全般を信奉せしめようと爲さることは、少しく面白くないことのやうに存ずるのであります。
 是に於て私共は始めて、日本式の方々が、私共の式をへボン式とか英語式とかの名前で、強ひて御呼びになりたいと云ふやうな考であるのであらうと云ふ理由 が、分るやうな氣がするのであります。即ち何が何でもひろめ會の式は英語の音で日本語を表はすものだ、だから日本語を英語とするものである、日本精~を滅 ぼすものである、英米崇拜をするものである、是は日本語の音系を書くものでなくて、英米の音系を書くものだ、日本語の性質に適ふ書き方は日本式でなくては ならない、へボン式では日本語は書けないと仰しやられると、ちよつとこのデリケートな問題でありますから、恐らく多くの人に分つて貰ひますのには面倒でご ざいませうが、よく研究して居られない方には標準式の考へ方を根柢から破壞することが十分に出來ることであらうと思ふのであります。私共は名前の事は長い 間、間題にしなかつたのでありますが、話が斯う云ふ風に持つて行かれて「日本式とヘボン式」と云ふことが問題になると、どうしても名前の事を考へなければ ならぬと云ふことは、自衞上來る所の必然の勢であります。よく考へて見ますと、私共が自分の會の式に何と名を付けようと、それに付ては、日本式の方々から 干渉を受けると云ふ理由は毛頭ないことのやうに存じます。例へば日本の陸軍の銃は日本の發明ではありませぬ。村田少將が改良なされて村田銃と呼びました。 近來は三八式とか何式とか云ふことを聞きます。然るに、之をそれは怪しからぬ、なぜ洋銃と呼ばないかと云ふ人がありましたら、吾々は其人の精~の確かさを 疑ひたくなると思ひます。各々の人は、自分達に最も都合の好い、縁起の好い名前を付けて、溌剌たる意氣を以て向上しようとするのであります。今標準式を、 へボン式、英語式、或は我々の標準式を國賊呼はりにすることは御宣傅の爲には都合が好いかも知れませぬが私共は實に遺憾に存ずるのであります。此邊に付て はお互に今少し紳士的な行動を執りたいと思ふのであります。私共は互に尊い文化事業、遠く望めば民族の延命をすら左右する大問題に手を染めて居る者であり ます。故に互に理非曲直を論じ、我々の知識學理の限りを盡して、全力を傾けて眞理を追究することは結構であります、併しどこまでも正しく明らかに進んで行 きたいと存ずるのであります。私共は、明治十八年にローマ字會に依つて決定し、四十一年五月十六日には又ローマ字ひろめ會評議員總會に依つて採擇されまし た私共のローマ字綴り方は、立派に標準式と云ふ名に相當するが故に此名に依つて呼ぶことを今日こゝに改めて御承知を願ひたいのであります。内容に付ては學 問的に一點の非難すべき所がないと云ふことは申しませぬ。十分御説明を承つて、眞に考慮に價すべき所は、民族百年の大計の爲でございますから、改良進歩す るに吝かなるものではないのでございます。
 さて斯う云ふ風に煽動的な文句を以て青年を御説きになつたなら、血の氣の多い青年は、まかり間違つたら一大事でも惹起して喜んで死ぬやうな若い學徒は、 十分の研究もせず、曾て中學時代に學んだ所の文法的説明に滿足するが故に、直ちに之に共鳴承認致すかも知れませぬ。殊に今日のやうに國際關係が徽妙に動く 時には若人の血をラるには完全なる效果があると思はれるのであります。併し斯樣な英米の植民地的であるとか、國民の自尊心を傷けると云ふやうな、特に英米 に對する反感を挑發するやうな煽動的な文句を用ひて盛んに宣傅することは、指導的な地位に在る者としては愼しむべきことではないかと思ふのであります。戰 爭と云ふ慘禍は、民族と民族との感情の疎隔が其原因であると云ふことは、群衆心理學者が唱ふる所でありますが、一度矛を取つて起てば、水火の中をも物とも しない我が大和民族は、無用な刺戟に國際的惡感を常にラられる必要はないではなからうかと思ふのであります。尚ほチエンバレン氏の unromanized languages とあるのを、日本を野蠻國と見た、或はチエンバレンがさう言つたと御解釋のやうに存じますが、是も曲解であると存じます。(私がこゝに拜見致しました以外 のものに左樣な文句があれば、是は別問題であります。さう書いたものがありましたら御提示を願ひたいと思ひます。) unromanized languages とは「ローマ字で書いてない國語」とだけのやうに存じます。何も野蠻國と見たと云ふことではないと思ひます。チエンバレン氏は日本文化の恩人であり、英米 は日本に新文明の曙光を送つてくれたり、或は昨日までは互に手を取り合つたりして居た友邦でございます。假に國際間の關係が最惡であつたとしても、良い物 は良いとし、惡い物は惡いとする雅量があつて欲しいものと私は念ずるのであります。私共は世界の到る所に尊敬され、歡迎されるやうな日本人を理想として居 るが故に、ローマ字常用文字を主張して居るのでありまして、偏狭な愛國心の殻をかぶり排外思想に固つたこちこちの誤れる愛國者のみを禮讚する、崇拜すると 云ふことは、是は今日改めなければならぬことではないかと思ふのであります。私共は「明治の帝」の御示しになりました大御心を仰いで生長發達して參つた日 本民族でございます。さうして今後又何處までも成長發達して行きたいものと存じて居るのでございます。「舊来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ。智識ヲ 世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」と宣らせ給うた大御心こそは、我等大和民族が、日新、日々新、又日新ならんが爲に朝夕誦じて忘れざるやうに心掛くべき御 訓と存じて居るのでございます。少しばかり國際的地位が高まつたが故に、直ちに持ち前の偏狹な島國根性を我等民族の間にはびこらせると云ふことは、危險此 上もない事ではないかと存じて居るのでございます。民族の前途は遠いことゝ信じます。正義を愛し、純潔を尊び、邪なるを拂ふと同時に謝恩の心に和む大和民 族でありたいと存じて居るのであります。何でも斯でも一度書出したことは、曲つて居つても、間違つて居つても、民族的影響が如何であつても、外國は嫌ひだ と云ふことは、將來の日本民族からは斷然除かなければならぬことではないかと思ふのであります。私は青年に接する時に、特に此點に就て戒心して居るのでご ざいます。
 それから今一つは先輩の方々の御決定は、全然英米崇拜の爲に、標準式を御採りになつたと云ふやうに仰しやいましたが是も甚だ穩當を欠くものでございま す。聖の帝 明治天皇の御定めになつた五ヶ條の聖訓を國是と仰ぎ、五十音圖表基本の綴を見ましても、之に囚はれずして決定せられたローマ字會の綴り方こそ は、今日依然として學者の承認を受けて居るのでございます。然るに田丸博士は前にも申しましたやうに、先輩の方々がたゞ外囚人崇拜、外國人に迎合する爲 に、所訓異人崇拜の一點張りで御決めになつたやうに考へられることは非常に遺憾な次第であります。歴史上から見て日本の識者は何時の時代でも、自日を忘れ て外國人を崇拜するやうなことは斷じてないやうに私は信ずるのであります。
 以上で以て田丸博士の御説に對する要點は大體申上げたと存じますが、尚ほ私共が未だ承らない深遠な學説があるかどうか存じませぬ。又菊澤さんあたりも御 説を御出しになつて居るやうでありますが、私共の存じます限りでは、日本式の御主張は斯く權威のない、學術的權威のない、獨斷的のもので、其宣傅の結果た るや、徒に若人の血を排外思想へと煽るヘ育上有害なものであるかのやうに存ずるのであります。更に其綴り方其自身が日本式と名乗り、日本語の語法、文法を 書き表はし、其音系組織に適つたものであると云ふ御主張であるに拘らず、實は將來の日本語に對して重大なる禍を胎すものであると考へるのであります。今次 にそれを述べようと存じます。


五十音圖式ローマ字批判

1.五十音圖式ローマ字

 田丸博士は「日本式綴り方が色々な方面において、國語音を規則正しく現して居ると云ふことが云へる譯です。それと同じ規則正しさを示すやうな工 合に音節を並べたものが即ち五十音である、日本式に音節を並べたものが五十音である」と云ふことを(議事録第三囘第六十一頁十三−五行)御述べになりまし た。又「ローマ字國字論」百九頁には
「この綴り方の特徴は
 (一)五十音圖の各行に一定の父字を使ふ。
 (二)「キャ」、「シャ」等の拗音を凡てゝ規則に從つて書く。
 此二つである。但し「ヤ」行の「イ・エ」と「ワ」行の「ウ」とは、假名でも「ア」行の「イ・エ・ウ」と區別なしに書くから yi, ye, wu の綴りを使はない。」
と述べて有るのであります。第三囘の本會の總會では「日本式に並べれば五十音圖になる」とあつて、五十音圖が自然に一致するやうに聞えるに對しまして、 ローマ字國字論の方では五十音の一行に一定の父字を當てると、五十音が本になつて居るやうに存じます。特に『「ャ」行の「イ・エ・」、「ワ」行の「ウ」は 假名でも使はないから、使はない。』とあるのを見ますと、益々五十音圖が本であると云ふことが感ぜられるのであります。併し是は同書の第百二十三頁に『こ れで見ると日本式綴り方は日本で――ローマ字の形にこそ現はれなかつたにしても――昔から認めて居たもの、否實地に使つて居だものである。』とあるので、 日本式は昔からあつて、それをローマ字に書いたもので、それが五十音圖と一致するのだと云ふことがはつきりとなる譯だと云ふのであります。是は反切が旨く 日本式に當嵌ると云ふことを論じて、其項の結論に附加へられた句であるのでございます。「日本式に並べる」と云ふことは、國民的音韻意識と云ふ意味であら うと推察致しますが、此国民的音韻意識と云ふものが、何に依つて出來たかと申しますと、奈良朝以來使用せられた五十音圖表、又は平假名ならば、「いろは」 歌とか、等に依つて馴致せられたものと存じます。從つて國學者達が用言を表はすに使つたり、「いろは」歌と共に寺子屋の手本として片假名の五十音圖表が一 般に使はれれことも自然の成行であります。五十音圖表は斯樣に音韻圖表として音韻意識を統制して來たのでありまして、其事實は今日でも明らかに幾多の實例 を擧げ得るのでございます。
 でありますから、『日本式ローマ字は、五十音の一行に各々一つの父字を當てる。拗音は總て同じ規則で行くのである。併し「ヤ」行の「イ・エ」と「ワ」行 の「ウ」は、「ア」行の「イ・エ・ウ」と同じにする。是は假名でも同じだから、斯うは云ふものゝ併し日本式は五十音に基いて居るのではない、日本式に書き 並べれば五十音圖表と一致するのだ。』とさう仰しやるのは、「私は御母さんから生れたのではない。祖父さんの息子の女房の子供の御母さんが生んだのだ。」 と云ふと同じで、たゞ言葉の上の戯に過ぎないやうに思ふのであります。再び田中館博士の『羅馬字意見及發音考』の文を引用することを御許し願ひたいと在じ ます。同書の百十二頁に
「又古來我國には五十音別々皆、文字ありしと云ふ説も和學者中に行はれ、黒川眞頼氏の著されし詞の栞、話語指掌、物集氏の日本文 典等にも皆々之を區別して書かれたり。そはともあれ、上の如く五十音を定め置けば、甚だ學び易くして覺え易く、又動詞形状言抔のはたらきを覺えるにも至つ て簡單にして、辭の移り易りもはつきりと分る。故に從來の五十音に當る當らぬの論は暫く御預りと致し、音韻を覺える爲の表として置きたし。彼の羅馬字會委 員は東京中等人の發音を元とし伊太利、羅打、獨逸等の母音を用ひ、又子音は英吉利の用法に從ひたれば、五十音縦て横の働き方抔の規則も消え失せ、強て之れ を顯はさんとならば、規則の斷り書き等も多からんことは勿論也。」
とあります。之を讀んでも分ります樣に、其當時田中館博士の表は「ヤ」行も「ワ」行も皆規則整然たるものでありましたし、然も實際は「イ・エ」、「ウ」な どは「ヤ」行、「ワ」行で御使用にならなかつたさうでありますから、五十音圖に合はないではないかと云ふ、批難を御受けになつたやうに思はれます。其爲に 「五十音は皆五十の字があつたと云ふ人もあるぢやないか、字がある方が宜い。」と云ふ御意見のやうに私には存ぜられるのであります。後になつて先達伺つた 時にもさうでありましたが、yi, ye, wu を i, e, u に御改めになつた爲に完全に五十音圖表に一致することになつたものと存ぜられます。即ち以前三綴違つて居つたが、今は完全に五十音圖表に一致したのでござ います。
 若し日本式ローマ字綴りが、五十音圖に關係なく出來たものとすれば、益々其日本式の存在の意義がなくなるのであります。何故かと申しますならば、sa, si, su, se, so. ta, ti, tu, te, to. と書いて「サ、シ、ス、セ、ソ」、「タ、チ、ツ、テ、ト」と讀ませることは、五十音圖表と云ふ古典圖表に典據を持つと云ふこと以外に、一顧の價値もないこ とゝ思ひますから、説明する迄もなく、子音と母音とを認める。(是は田丸博士も仰しやつて居ります。)即ち單音を表はすローマ字に於て、「t」と「i」と を組合はせると、忽然として其間に「∫」が入つて來て、「t∫i」となつたり「t」と「u」との結合に於て、忽然として「s」と云ふ摩擦音が無條件に入つ て來て、「tsu」となつたりすると云ふことは、理論上是は許すことの出來ない所の不合理であるからであります。si もやはり同じであります。ji 即 di も zi も同樣でございます。つまり五十音圖表にあるが故に、それをさう書くと云ふこと、(si をシ、ti をチ、zi をジ、di をヂ)等が考へられるのでございます。こゝまで參りますと、ローマ字綴りはローマ字の特質である所の單音を書く表音文字としての性質を失つて、是は音節を 書き表はすことになり、表單音文字としての特徴を失つてしまふことになり、全然假名と同じ物になつて、假名が一字で間に合ふのに二字書かねばならぬだけが 其不便の特徴となり、文字發達の歴史的事實に逆行することになる事を御注意を願ひたいと存ずるのであります。併し日本式の方では、西洋の學者の誰が日本式 を褒めた、或は誰が斯う言つたと仰しやいますが、西洋人達が日本語の實際に精通しないで、しかも五十音圖表が古典圖表として一千年以上も存在して居る所に 眩惑されて、言語學的の應用を誤つて判斷すると云ふことは、是は必ずしも無理のない所でございます。西洋人だからと云つても、必ずしも正しくない場合が多 いのであります。事情が能く分らない時に、片一方だけの話を聞いた時は、随分へまな判斷を致します。是は今囘の國際聯盟と支那代表との關係を御覽になれ ば、思ひ半ばに過ぎるものがあらうと思ひます。
 私は常識の立場から、五十音圖表式ローマ字綴り即ち日本式に批判の目を向けて見たいと存じます。


2.五十音圖式ローマ字と日本語の將來

 靜かに日本語とローマ字との關係を、今日の情勢に於て觀察致しますと、先づ(a)對外關係と(b)對内關係とに分れます。
 (a)対外關係と云ふのは、(イ)外國人が、又は外國人の爲に、日本の固有名詞をローマ字書きにすること、(ロ)日本語研究の爲に、外國人が、又は外國 人の爲に、日本語の文章をローマ字書きにする場合の二つがあらうと思ひます。是は絶對にと云つても宜い程に標準式でございます。海軍の海圖の例が出ました が、さう云ふ風の若干の點はございますけれども、對外的には殆ど絶對と云つても、言過ぎでないと思ひます。彼のパーマー氏とか、グンデルト氏ですら、やは り日本語を書くのに、標準式を使つて居るのを見ても、此事の眞實であることが分ります。
 (b)對内的に考へて見ますと、(イ)第一に辭書等に出る単語又は固有名詞を對外的にローマ字書きにすること、(ロ)日本人の日常生活の爲に、ローマ字 文を書くことゝの二つでございませうが、辭書等には盛に使用されて居りますが、ローマ字文を書く方には未だ使用されないで、唯宣傳の爲に使用されると云ふ ことが正しい處ではないかと思ひます。勿論自分一個に關する限り何處までもローマ字生活をする人のあることは勿論でございます。田中館博士でございますと か、櫻根博士でございますとか、その一人と考へて宜しいと存じます。日本語とローマ字との關係は現状此通りの關係でございますが、殘る國字としての問題、 是は重要問題として今日殘つて居るものでございます。學者は「言語は變遷する。併し書いた形は原形に執着するから、話す言葉と省く形とは必ずしも相伴つて 進まない。」と云ふことを言明して居ります。田中館博士は「日本式ローマ字綴り方公用に就き、内外諸名士の所見。」の追録第十二頁に「繰り返して云ふが、 日本式と雖も、將來國語の發達に伴ひ改良して行く可きは勿論だ。」と書いて御出になります。さうかと思ふと、一面に於ては日本式諸氏の御説明の中に正字法 は音聲記號の正確さを持つことが不都合であると云ふ御考へが伺はれます。たしか今日戴きました菊澤さんのパンフレツトの中にもさう云ふことが書いてござい ました。

○委員(田中館愛橘君) 文字と音聲記號と混同してはいかぬと云ふことを毎度言つて居ります。

○委員(宮崎靜二君) 昨日頂戴致しましたパンフレツトに出て居ります。私此前の總會に言つたことを、
「我標準式(ヘボン式)はパーマー氏の所謂 phonetic notation ともなり、transliteration にも、又 orthography にも完全に其役目を果す理想に近い綴り方なのであります、と云ふ欺瞞を堂々と述べ立てるのであります。その支那式逆宣傅の巧みなのには驚嘆致しますが、す でに三樣の目的に一個の綴り方が完全に適合すると云ふが如きは、敢て音聲學的知識を用意せずとも、單なる常識を以て容易く論破し得るのであります。」
と御書きになつて居りますが、是は欺瞞でもなんでもないのであります。
 單音を表はす筈のローマ字の性質を殺して、音節的の用法をすると云ふ事實上の矛盾を、學的色彩を以て背景づける爲には、此正字法と云ふのは多少實際の言 語形とは相違すると云ふことは、非常に都合の宜いことになるのであります。で日本式の方々は、フォニームとかと云ふ學説を以てフォノロジーの立場から、田 中館博士の先刻の御話のフォノロジーの立場から説明なさるさうであります。私はこゝで所謂フォニームやフォノロジーや「意圖する發音」等に付て論ずべきで ありますが、是は學理上の細説にわたりますので、學界の方に御願する事に致します。昨日菊澤さんの、パンフレツトの中にも一寸拜見致しましたが、是等の問 題は學界の方々も大事な問題として御覽になつて居りますし、餘程詳しい御研究もあるやうに伺ひますが、其結果がやはり私共の綴りを支持して居て下さるのだ と云ふ結論だけを申上げまして、何れ此事は學界の方から御説明を願ふことに致し、私は實際的の方面から此論を進めて行きたいと存じます。尚日本式の御主張 を繰返して見ますと、
 第一、正字法と音聲記號とは一致出來ない。否寧ろ一致しない方が宜い。
 第二、一方音節的に結合して居る所の綴りを以て今日ローマ字綴りとして出發すると云ふこと。
 第三、時代と共に進歩改良して行く。
と云ふ三つの條件がありますが、此三つの條件から如何なる結果が出るかと云ふことを見て行きたいのでございます。第一と第二の命題から即ち正字法と音聲記 號が一致しない方がよい。音節的に結合した綴りから出發すると云ふ二命題から如何なる結果が發生するか、斯う云ふことを檢討して見たいと思ひます。それに は最も著しい問題即ち

(A)母 音 落
 先づ母音落と云ふ言語事實をながめて見ませう。日本語に於ては無聲子音と無聲子音との間に來る u や i は音がなくなります。御承知と思ひますが、s, t, k, と、sh, ch, f, h, p 等は聲の伴はない所の息だけの音でございます。即ち無聲の子音と無聲の子音との間に來る u 若くは i と云ふ母音は是は能くなくなるものでございます。或特別の場合例外はありませうが、日本語全體に亘る原則と云つて間違ひない程の言語事實でございます。是 等に關することも詳しい説明が必要であれば學界の方から御説明を御願ひしたいと思ひます。例へば是は第十表を御覽下されば分りますが、「ガクシャ」と云ふ 時 k と sh とは無聲子音で、其間のcは落ちるのであります。「ガクシャ」は gakusha ではなくて gaksha でございます。「デシタ」は deshita ではなくて deshta でございます。方言等や除外例は多少ございませうが、原則としては是で間違ひないと認めてよいと思ふのであります。日本語の變遷は恐らく此邊から始まるも のであらうと私は思ふのであります。是は立派に「日本語の一性質」と存じます。日本式の方の好んで御使ひになる日本語の性質でございます。「デシタ」、 「マシタ」、「イシカワ」と云ふ例を十表に出して居りますが、之を日本式では母音を抜いて書きますと、desta, masta, iskawa となつて正しい発音を表さないことになります。又 omachikane, itsutsu, tsutsuzi[ママ], 等に付て見ますと、母音を落して書きますと、日本式では omatkane, ittu, ttuzi となります。若しそれ母音が落ちたらアポストロフィを入れると云ふなら、それは既に單音文字としての用法ではなくて、音節文字としての用法、即ち今日我々 の用ふる假名を其まま代へると云ふ思想に立つた考へ(即ち音節的ローマ字綴りから出發する考)でありまして、生きて居る日本語の語形を寫すと云ふ考へとは 遠ざかつて居るのであります。是は形式ばつたことに於ても、卑俗な語に於ても同樣でありまして、つまり日本式は假名がなければ、一人歩き出來ないローマ字 ではないかと、時々考へさせるのでございます。即ち假名を書直すローマ字かと云ふことでございます。併ながら、假名からの過程として假りに暫く許すと致し ますが、假名がある中は此のアポストロフィは此「s」が「∫」になる意味のアポストロフィと云ふことになる。此の場合は「t」が「t∫」になる意味だ。此 アポストロフィは「ts」になる印だと、學校の先生は子供にヘへなければならないことになります。菊澤さんは前囘簡單な物がよいと云ふ意味のことを仰しや つたやうでございますが、多分日本式は五十音圖式であつて簡單だとの思想からかと思ふのでございますが、若し左樣な意味の簡單でございましたならば、日本 式の簡單と云ふものは底の知れない複雜さを藏して居る簡單さであると云ふことに御注意願ひたいと存じます。
 さて此等の apostrophe が年月と共にとれたと致しますと(欧洲の例から見れば、斯樣な例はよくあるのでございますが)元の形の omatkane, ittu, ttuzi となります。omachikane は omachkane となり、itsutsu は itstsu. tsutsuji は tstsuji となるのが音韻變遷の自然の傾向であらうと思ふのでありますが、そこまで行つて見ますと、書いた言葉と話す言葉とは提携が出來惡くなる譯であります。第十 表BCの一番初めに書いてあるのを御覽になれば分りますが、上の方が日本式で、下の方が標準式でございます。標準式では左樣な場合 omachikane→omachkane→omashkane; itsutsu→itstsu→itssu; tsutsuji→tstsuji→tssuji の樣に音の實際と共に正字法が立派に順應出來ますが、日本式では母音を落しても、原のまゝでも話す言葉と書いた言葉との提携は出來ません。 omatikane→omatkane→omaskane≠oma∫kane; itutu→ittu≠itssu; tutuzi→ttuzi≠tssuzi となつて母音を落さない形にも落した形にも、實際の話す言葉は提携出來ません。そこで愈々提携が出來ないとなれば、何も苦んで書き方を改める必要はないで はないか。一體書き方を改めることは元來嫌ひなのだ。もとく正字法と話す言葉とは少し離れた方がよいのではないかと思つて居る處なのだ。となれば、さなき だに固定しょうと云ふ性質を持つて居る正字法は、こゝに公然と固定して動かなくなります。斯樣な状態を百年か二百年續けて參りますと、ローマ字は立派に漢 字の代用をするものとなつて來まして、假名所ではなく立派な表意文字の働をすることになります。今十一表を御覽下されば能く分りますが、つまり英語は其標 本でございます。此點では英國の子供は頗る困つて居ると云ふことであります。honour と書いて「  」[honour の発音記号]と發音しなければならぬ。一つの發音に對して斯う云ふことになりますと、「ヒト」と云ふ字は斯う書く。「カネ」と云ふ字は斯う書くと云ふ漢字 と全く一つになつて仕舞ふのであります。全くと云つては云ひ過ぎるかも知れませぬが、殆ど一致して仕舞ふのであります。しかも日本式の方々は英語式の此行 詰りを理想として其主義を謳歌して居る樣でもあります。パーマー氏が「さればヘボン博士の名に依つて世に知らるゝ綴方に反して、英語に於ける子音の價値並 に發音慣例を巧妙に適用したるのみならず、云々」と裏書せられた所以かとも考へられるのでございます。私共は英語式と云ふ語は今日改めて日本式の方々に御 返し申す方が宜いやうに考へられるのであります。そして英語式にすれば、大日本帝國が今にも亡びさうな悲痛な御叫びは其まゝノシを附けて御返し申す方がよ いやうに存じます。尤も田丸博士の御主張と異りまして、私共は英語式なる名前には何等の憎惡も反感も感じないのでございますが、英語の現状のやうに、複雜 な綴となる樣な組織の綴り方は、ローマ字運動本來の大精~に反するが故に、百年の兒等のnモフ爲に斷然反對するのでございます。

(B)綴り方改訂
 次に綴り方改訂のことに付て申上げます。そこで話す言葉と正字法との提携は完全でない方が宜いと云 ふことゝ音節的に決定したローマ字綴りとから出發する時、そして今日の日本式の御主張に耳を傾けつゝ行きついた所は今申述べた通りの所でございます。即ち 第一と第二との命題の歸結でございます。併し田中館博士の御説では、時代の進化と共に、國語の進展と共に、綴り方を改めると云ふのでございますから、此綴 り方改訂と云ふことに付て考へなければならぬ譯であります。先般臨時國語調査會の決定に依つて出來た假名遣改訂案には、不祥な流言まで出たさうでございま すが、ローマ字に於ても遠き未來はそれと同じやうなことが出來ない譯でもありますまい。斯樣な傾向が已に現にあるのでございますから、左樣な形勢を他日惹 起さないやうに、今日から考慮すべきであらうと思ふのであります。日本式の方の熱心なる或る方は斯う云ふことを仰しやつて居ります。「斯樣に行詰りが出來 れば、改訂が出來るのであるから宜い、さうでないと却つて改訂が出來なくなつていけない。」と仰しやるのであります。斯う云ふ意見を言語學會のパンフレッ トの對しての反駁論として發表して御出でになりましたが、此改訂の必要に迫られた日を想像致しますと、次の三つの場合があるかと思ふのでございます。
 第一、五十音式の音節的表音主義で改訂するか、
 第二、表單音式で改訂するか、
 第三、改訂難の為に其まゝ押し進むか、
と云ふ三つの場合がございませう。
 それで第一の場合は恐らくあり得ないであらうと存じます。何故かなれば、假りに其方針に從ふとしますれば、更に又行詰りを來すことの歴史を繰り反すべきであるが、それを眼前に見ながら、賢明な我大和民族が左様な愚を爲すとは信じられないからであります。
 第二の場合を想像しますれば、其時代は今日と違ひまして、ローマ字になつて居る時代でございますから、さうなりますと、其時には假名で書いた物を日本人 が使用すると云ふことはないのでありまして、日用文字としての音節文字、即ち假名は無くなつて居るものと見なければなりませぬから、それの必然の結果とし て、實際言語の發音に從つて行くと云ふことになる外ありますまいから、丁度今日の私共の主張と一致することになります。數百年の後に始めて採用させる爲 に、今日是が非でも日本式の音節ローマ字を採用することは、その數十百年の間の日本語を全然犠牲にして、今日の日本式諸氏の御主張を迎ふると云ふことにな りますと、是は賢明でない遣り方であるのみならず、罪を子孫に殘すと云ふことになるのではないかと思ふのであります。
 第三の場合は、保守的感情の爲に、第二の改訂案が破れて、ローマ字で漢字の樣な働きをすると云ふやうな場合でありまして、是は惨憺たる國語の上の悲劇で あらうと存じます。今日現に假名遣改訂案で此の苦を味つて居ります。斯くして日本式は禍を萬代に遺さうとして居られるやうに存ずるのでございます。斯樣に 調べて參りますと、田中館博士の仰しやつた「國語の發展に從つて綴り方を改める」と云ふことは、一體何を意味するのか分らないやうに思ふのでございます。 云ふべくして行はれ難い空題目ではないかと疑はれるのでございます。それとも田丸博士の仰しやる「ジ、ヂ、ズ、ヅの問題は末の末である」と仰しやる、あん な事でございませうか。即ち許容法の取極めと云ふやうなことを意味して居るのでありませうか。然らば更に私は次の項に移りまして、之を檢討して見たいと思 ひます。


3.改良進歩する日本式

 斯樣に日本式は改良進歩の出來ないのが其本領のやうに存じますが、近頃「ヂ、ジ、ズ、ヅ」の用法に於て、「許容法の取極」と云ふものが出來まし た。第三囘の總會に於て、田丸博士が「かう云ふ問題は末の末である」(第七十九頁終から第四行目)と仰しやいました、あの「許容法の取極」と云ふことは、 何であるかと申しますと、私共現在の日本人は「シ」の濁りと「チ」の濁り、「ス」の濁りと「ツ」の濁り、學問的には濁りと云ふことは不正確な言ひ方と存じ ますが、「ジ、ヂ」と「ズ、ヅ」の使ひ分は出來ない場合が、今日の日本人には多いのであります。發音上からは區別が出來ないのでありまして、それに非常に 苦しむのでありますが、日本式の方では假名を本にして御書きになつて居りまして、五十音圖表が本でございますから、それを明瞭に書分けなければならないの でございます。例へば「以上の事實に本づいて」と云ふ句を標準式で書きますと、十七頁を御覽願ひます。標準式で書きますと、「以上の事實に本づいて」は一 通りで解決するのであります。即ち Ijô no jijitsu ni motozuite……で済みますが、日本式で書きますと、それが次の如く十六通りの形が出來るのであります。
Idyô no Diditu ni motoduite………Izyô no Diditu ni motoduite………
Idyô no Diditu ni motozuite………Izyô no Diditu ni motozuite………
Idyô no Dizitu ni motoduite………Izyô no Dizitu ni motoduite………
Idyô no Dizitu ni motozuite………Izyô no Dizitu ni motozuite………
Idyô no Ziditu ni motoduite………Izyô no Ziditu ni motoduite………
Idyô no Ziditu ni motozuite………Izyô no Ziditu ni motozuite………
Idyô no Zizitu ni motoduite……◎Izyô no Zizitu ni motoduite………
Idyô no Zizitu ni motozuite………Izyô no Zizitu ni motozuite………
 「以上の事實に本づいて」が斯う云ふ風になつて參ります。そこで其中の◎の附いたもの一つだけが正しいのでありまして外は皆間違であります。今日の我々 は漢字で書いて居りますから、左程の注意を引かないのでありますが、此假名遣を正しくすると云ふことは中々むづかしいのであります。それで日本式は數年、 否數十年でありますか存じませぬが、其御發行になつて於る日記帳に是が附いて居るのであります。是は日本式の方々はよく其使ひ分を御承知でいらつしやるか どうか知りませぬが、是は「シ」の濁り、是は「チ」の濁りとよく分る樣になつて居りますから、此の手帳があり、又漢字を知つて居れば直ぐ分りますが、手帳 がないとか、又あつても漢字を知らないとかの場合は書けないのでございます。で、是は非常に困難でありまして、つまり漢字や假名がよく出來る人には重寶で ございますけれども、漢字の出來ない人は非常に困るのであります。又漢字の出來る人は日常は漢字で間に合せるのでございますから、却つてローマ字などは面 倒であるかも知れませぬ。ところが其度に手帳を見ると云ふことは厄介でありますから、「シ」の濁り、「ス」の濁り、「チ」の濁り、「ツ」の濁りに代用して も差支へないと云ふ許容法、即ち『「ジ、ヂ、ズ、ヅ」の許容法の取極め』が出來たのでありまして、田丸博士の所謂末の末なるものが是であります。此の取極 の出來た事は非常に結構なことでありまして、非常な進歩を日本式の方々が爲さつたことを御喜び申します。
 ローマ字運動の大局の上から見れば日本式の方々が此の取極をなさつたことは非常に喜ぶべきことでありますが、日本式の爲には崩壞の第一歩を踏み出したも のであると云ふことは注意すべき重大なことでございます。何故かと申しますと、一度許せば、それからは禁ずることは出來なくなるのであります。許して仕舞 つたのですから禁じても拘束力がありませぬ。日本式の方々は正式と仰しやいますが、其正式とは如何な意味でありますか。ヘ科書と云ふ意味でありますか、如 何ですかよく分りませんが、我々が書く式には正式も邪式もないので、實際は我々の思想を發表する爲に書くのでありますから、總てのものが同じやうに尊重さ るべきものでないかと思ふのであります。
 元來日本式の立場で申しますと、田中館博士が能く仰しやいます日本式は音系だ、日本語の音系組織にかなふと云ふことが日本語の本當の信條のやうに仰しや るのでありますが、それで一生懸命に日本式の御宣傳なさるのだらうと思ふのでありますが、今「チ、ツ」の濁音、「ヂ、ヅ」を「シ、ス」の濁音で表はすこと を許すと云ふことは、實は二樣の書き方を「シ、ス」の濁りに一致させると云ふことでありますが、是は日本式の音系を根本的に覆させる所の重大なる問題だと 思ふのであります。一體音系とは何んでございませうか。田中館博士は第四囘の會合の質問の時に明快なる御答を下さらなかつたのであります。私は遂にそこで 思ひ切つたのでありましたが、或はして下さつたのを私が分らなかつたのかも知れませぬが、動詞の變化とか、清濁相關の事實とか、反切とかの相關係する系列 と云ふ意味のことを仰しやつたやうに考へて居ります。つまり五十音の一行に一子音を當てると云ふことは、丁度田中館博士の此御答と見て宜いと思ひます。そ こで第一に動詞に於て見ますと、(中に挿んである紙を御覽願ひねいと思ひます。)十九頁こゝに「モミヅル」と云ふ言葉がございますが、是は「タ」行の上二 段變化で「紅葉、ヂ、ヂ、ヅ、ヅル、ヅレ」と變化して、之を假名で書くと、di di du duru dure となりますが、之を許容法に從つて「サ」行濁音、即ち「ジ、ジ、ズ、ズル、ズレ」と書いて差支へないと云ふことになりますと、ローマ字では d で書いたのが z で行くことになり、di di du duru dure が zi zi zu zuru zure に變つて來たことになります。若しそれは古い形の文語だと仰しやるならば、私は更に「閉ヂル」、「耻ヂル」の二語をとつて參りますが、是にしても同じであ ります。「閉ヂル」、「耻ヂル」の「ヂ」、是は「タ」行の音系と「ス」行の音系と音の系列が違つて來るのであります。斯う云ふことでありますと、吾々は斯 う云ふ風に假名とか漢字とかの形でありますれば分るのですが、「紅葉」とか「耻」とかは割合に分り易いのでありますけれども、之をローマ字を以て學ぶと云 ふことになりますと、殆ど分らなくなつて仕舞ひます。以上延べたことに依つて分るやうに動詞の變化の形を變へると云ふことになり、音系が明かに變じたと云 ふことになります。つまり音系の移轉と云ふことが發音の便利に從ふと云ふことを納得したと云ふことになる譯であります。是は非常に意義ある所の重大な出來 事でございます。斯樣な例は今日既にどんどん日本式で實行して御出になるのであります。昔ハ行四段であつた「ナラフ」が今日「ワ」行五段になつて居りまし て、明かに音系に於て移動を致して居ります。それは一行全體が移動するのだから宜いぢやないかと仰しやるならば、私は再び前に返つて第三表から見て戴きた いと思ひます。九頁の第三表でございますが、第三表の右の方に書いて居る「書イテ、騒イデ、押シテ、立ツテ、死ンデ、呼ンデ、讀ンデ、賣ツテ、買ツテ」是 でございます。「立ツテ」は是は「タ」行でございますから、音系に變化がないと見て宜しい譯であります。「立チ、立ツ、立テ、立トウ」と云つても音系が變 らぬと見て宜い譯であります。「死ンダ」は「ナ」行でありますから、音系に變りがない、ところが「呼ンデ」と云ふのは、音系に變化を來して居ります。つま り「呼ンデ」と云ふのは、「バ、ビ、ブ、ベ、ボ」の「ビ」でなければならぬ。それが「ン」でありますから、音系が變つて居ります。其次に「讀ンデ」は「讀 マ、讀ミ、讀ム、讀メ」、それが「n」になつて居りますから、音系が變つて居ります。其の次の「賣ツテ」は「賣ラ、賣リ、賣ル、賣レ」、それが「賣ツタ」 となつて居りますから、是も音系が變つて居ります。「買ツタ」も「買ハ、買ヒ、買フ、買ヘ」で、是も音系が變つて居ります。斯う云ふ風に日本式の唯一の立 場である音系組織に於ても先づ第一に動詞變化に於て崩壞して居るのでございます。
 第二に清濁關係、是は田丸博士の音便、つまり清濁關係でございます。先づ私は意地、心地、善知識、舞鶴と云ふのを拾つて見たのでございますが、是等は私 共が漢字をよく知つて居りますから、「チ」の濁音であることは直ぐ分りますけれども、是が先刻の許容に從ひますと、「サ、シ、ス、セ、ソ」の「ズ」で書い ても差支へないのであります。さうすると、ここにも清濁關係の音系は蹂躙されたことになるのでありまして、是等で、つまり日本式は五十音と假名との修行が 出來上つてから使ふローマ字と云ふ事實がはつきり分るのであります。それは即ち假名を書き直した所の考へ方であるからでありまして、失禮であるかも知れま せぬが、是は假名に囚はれた所のローマ字であると云ふことがこゝで明かに分るものゝやうに存じます。是は今日の人には皆五十音の圖表で分つて居りますか ら、誰でも斯う云ふ風に書きたいのは一面無理のないやうな氣持が致しますが、併しローマ字としては斷然排斥すべきものであると私は固く信じて居ります。
 第三には反切でございますが、反切はローマ字の問題に出る資格のないことは前に申上げましたが、尚ほ念の爲に一、二の例を擧げて申しますと、除は唐韻直 魚切で tyo になります。是が集韻々會の陳如切で tyo になります。是を zyo とすれば、是も音系が亂れて參ります。其他「持、軸、嬲」、斯樣な反切で參りますと、「タ」行であるものを z で書くことは洵に變なものであつて、音系を亂すものなのであります。つまりローマ字ヘ育を受ける所の彼等は、少年時代から十幾年も「ジ」の濁りで書いて居 ると云ふのでありますから、其等が反切を習ふと云ふことは大多數の者にはないと云つて宜いのであります。それがずーと進んで行くのでありますが、それで慣 れて居つた者が專門ヘ育を修める樣になると、急に di, du と云ふものが頭を持上げて來ると、愕然として是は驚ぐだらうと思ひます。今まで受けた所のヘ育の幻滅の悲哀と云ふことを感ずるだらうと思ひます。斯樣に調 べて參りますと、五十音圖表と云ふものは日本式の方々が自ら御壞しになつて、今又「ジ、ヂ」、「ズ、ヅ」問題で打砕き、物の見事に崩壞され、又崩壞を續け るだらうと思ひます。しかも此間にあつて「シ、チ、ツ」を死守なさることは、洵に辻褄の合はないことゝ存じます。私は「ジ、ヂ、ズ、ヅ」の問題の解決を異 常な興味を以て眺めて居りました。之を投げ出すことは音系を抛つて、發音本位に進むと云ふ最後の信號をなさつて居るものと思ひます。尚ほ一度繰返して申し ますと、音系は日本式の生命である。音系を亂すことは日本式の崩壞である。然るに今既に之を亂して居り、今又此「ジ、ヂ、ズ、ヅ」問題で音系を亂したこと は、重ねて自らの式、即ち日本式綴り方の土臺石を掘り返して、基礎工事の破壞をしたものであります。で、日本式綴り方の結論は下の如くなります。「シ、 チ、ツ、ジ、ヂ、ズ等の數音節に根本的不合理がある爲に、實用にすればする程困難が大きくなる。」即ち綴り方が現在の英語の樣に固定して學習困難を惹起 す。即ち禍を萬代に胎す。若し此禍を免れようとするならば、それは即ち私共の今日唱ふる單音を表はす書き方に一致する事でありまして、日本式の立場たる所 の音系と云ふものは、崩壞して最早問題にならないのであります。即ち日本式は此兩者の何れかを選ぶ外ないのでありますが、若し此兩者の間の何れにも付かな い外のものを御選びになるとするならば、それは理論的虚僞をして居るものと云はねばならないと存じます。


標準式の長所

 そこで、私は標準式の長所と云ふものを一通り申上げなければならぬと存じます。日本式五十音圖表式ローマ字綴り方が、日本語表記の將來に如何な る禍を胎すかと云ふことを一通り述べましたが、標準式はどうかと云ふことを簡單に申述べまして、私の意見の發表を終りたいと存じます。
 私共の標準式は終始一貫して單昔表記を旨として居りますから、「タ」音の中にある t と云ふ子音に「ア、イ、ウ、エ、オ」と云ふ母音を配すれば、ta ti tu te to が出來ると云ふやうに、單音が日本人の標準音中にある音ならば、細大洩さす書き表はすことが出來ます。日本語の現代に於ける音韻は勿論、語法・文法の一切 に旦つて、荀もローマ字で否、假名や漢字等今日の現在の文字で書けるものならば、書けないものは一つもないのであります。文法とか語法とか云ふものは、實 際に我々が話す其まゝを書現はし、其書現した形に付て、語法を其間から見出すべきものであると云ふことが正しい本當の觀方であると云ふことは、此間申上げ たのであります。規則的であらうと不規則的であらうと、それは多く問題にならないことを申上げて置きます。それに付て菊澤さんの昨日のパンフレツトの中に ある批難は、「その非なる事は一々指摘するにも及ばないのでありまして、何れも簡單にして適切といふ標準から外れてゐる一事實を見れば明瞭であります」と 始末していらつしやいますけれども、私には是では未だ割り切れて居りませぬ。解決がついて居らぬやうに思ふのであります。
 然るに、田丸博士は標準式を小學校で散へることは(イ)小學校のヘ師に出來にくいことであると云ふ點、及び(ロ)語法を亂すと云ふことゝ同じ道理で、發音を亂すことをヘへる、と斯う仰しやるのであります。
 (l)成る程小學校のヘ師に付て申しますと、小學校のヘ師の中には、年がいつた爲に聽覺機關や發音機關が固くなつて ti tu si di du 等のやうな、從來餘り慣れて居ない所の音連合には、發音に困難する者もないとは申されますまいが、是も始の十年位の問題でありまして、愈々之を全國的にや ると云ふ時には、其處に十年位の年月があれば、ハンティングとかスティームと云ふものに必ず耳を傾けます。一寸でも是等の音に耳を傾けて來た者に取つて は、是は大した問題ではないのであります。私は毎年夏に講習をするのでございますが、講習をやつて實驗して居ることでございますから、間違ひのないことで ありまして、是はむづかしいことでも何んでもないのであります。若し出來ないヘ師があれば、其ヘ師を出來るやうにしてやることが、愛國語の實際運動であ り、國語統一の第一歩でございますから、小學校のヘ師に出來ないと仰しやることは是は誤りでございます。つまり日本式の方々の御考は、國語ヘ育本來の立場 として、發音出來ないものに發音を正しくする樣せしむ可きものを、それは出來ないから止めるが宜いと仰しやることになりまして、是では百年經つても國語音 統一は出來ないことになります。奥州とか九州の人は標準語の發音が出來ない人もありますが、標準語をヘへると云ふことをしなければならぬのであります。 (2)發音を亂す云々との事は、是は失禮でございますが、何かの誤解であらうと思ひます。美しい、明快な發音は、訓練に依つて異同辨別が出來ることに依つ てのみ出來る所でございます。將來益々國際的に進出しようと云ふ日本民族を teas と cheese 發音區別も出來ないやうな者に育て上げたとしても、それは少しも日本語を愛することでもなく、日本民族を向上せしむることでもないと存ずるのであります。 現に今日 steam, hunting, typical, T定規等のやうに ti の音は小説戯曲に詩に歌にどしどし入つて居ります。然るに、是らを「スチーム、ハンチング、チピカル、チー定規」と發音したからとて、少しも偉い日本人と はなりませぬし、日本語を愛することにもならないと思ひます。又反對に steam, hunting, typical, T定規と發音しても、少しも輕薄だとは思ひませぬ。徹底したる發音訓練は子音・母音の分解と綜合とが自由に出來るやうなもの、即ち標準式的訓練を用ひるこ とに依つてのみ得られることであります。しかして是は國語ヘ育上重大なる效果を與ふるものであります。方言の矯正とか國語標準音の統一とかと云ふことは、 國語政策上の重大なことでありまして世界の各國政府が民族統一上非常に留意して居る所でありますが、私共標準式は正字法と規則的な音聲記號とを兼ね得る式 でありますから、通俗音聲記號としては殆ど理想的な働きをなすものであります。現に私は夏期講習に高等の學校の學生々徒を講師にして講習をやるのでありま すが、其講師達の發音訓練を致しますのに、標準式ローマ字の一點張りでやりますが、出雲方言、東北方言等を使ひます者でも、此單音式の訓練で段々やる内 に、幾らも手數を掛けないで、立派な成績を収めて居るのであります。日本中の國音統一の如きも本氣になつてやつたら、二十年の中には見事に出來るのではな いかと私は思ふのでございます。
 今一度オーソグラフィとフォネティック・ノーテーションのことに付て申しますと、御名前を申上げる必要はございますまいが、或方は「ローマ字で日本語を 書く時に phonetic notation(發音記號と申しますか)transliteration(寫音と申しませうか)orthography(正字法と申しますか)と云ふ三 つの使ひ方がある」と云ふ御主張をなさつて日本式でも其説に御共鳴でございます。成る程確かに此説には同意することが出來ます。それで結構なことと存じま す。併し此方の御考には phonetic notation と transliteration と orthography の三つの關係と云ふことは全然入つて居ないやうに存ぜられます。phonetic notation と transliteration とは同樣に考へられる場合もございますから、之を一つに考へまして、phonetic notation と orthography とが一致すればよいと云ふ考は、日本式の方々ではどうも是は御否定なさつて居るやうで、寧ろ一致しない方がよいと云ふ御考が強いやうであることも、前に申 しました。併し是が一致する方が我々のローマ字運動の目標ではないかと、私共は考へるのであります。何故なれば一致すれば、最も簡單で最も理論的で、最も 容易で、最も實用價値が大きいからであります。つまりそれが一致するならば、是で理想的になる譯であります。しかして私共の標準式は正に此理想に叶ふもの でございます。ところがパンフレツトの中で、菊澤さんの御異論のあつた事は前申しましたが、是は後で詳しく御質問がございませうから略して參ることに致し ます。
 第二はやはりヘ育上のことでありますが、是は先般鎌田會頭から第二囘の總會に於て「ローマ字ひろめ會」の主張として大體述べてありますが、國民ヘ育に於 て児童の心理的訓練を資けることが非常に大きいと云ふのであります。國民ヘ育に於て智育方向の目標は、判斷明確な、賢明な帝國々民を養成すると云ふことは 申す迄もないことと存じますが、現在の日本のヘ育は、詰込み主義だと云ふ樣な非常に遺憾な非難もあるかと思つて居るのであります。漢字とか假名とかと云ふ ものに依る讀書力の養成として見る時には、日暮れて道遠く、否日が漸く出始めた時から驅足で行かなければならぬ程、道の遠い日本の現状では、無理ならぬ所 もあるぢやないかと存じますが、今ローマ字でヘ育するやうになれば、其學修方法に一轉機が來ると云ふことが豫期出來るのであります。何となれば、現在の文 字では、假名は斯う云ふ風に書く、漢字は斯う書いて、斯う讀むのだと嚴命するのであります。つまり「カハホリ」と書いて「コーモリ」と讀む、「ヰマス」と 書いて「イマス」、反對に「居ます」は「ヰマス」と書かなければならぬ。「イマス」ではいけないと斯うやるのであります。それを改めようとすると、日本精 ~を亂すものであると、暴力をも用ひかねない形勢になる所まで、固執すると云ふ風でありますが、實は日本精~を亂すものでも何んでもないのでありまして、 昔から使つたから、さう云ふことにしなければ感情滿足が出來ないと云ふことに過ぎぬのであります。さう云ふ風になりますと、是は不合理でもあり、甚だ不經 濟なことで、國語ヘ育の形式ヘ授の上から甚だ不經済なことだと思ふのであります。然るに、ローマ字の場合は、各々い字が單音を表はす爲に、其單音文字の幾 つかを組合せて一つの語を書き現はすことになります。こゝにローマ字のヘ育的價値がございます。即ち記憶と云ふ土臺に立ち、推理を働かせて、最後に判斷を して行くと云ふ智的訓練を讀み書きの學習を始める第一歩から受けると云ふことになります。分解と綜合との訓練を常に受けつゝ、讀み書きの練習を積むことに なります。斯う云ふ風にしてローマ字に依つてヘ育せられる所の將來の日本人は、小學校に行くと同時に、頭腦發達の程度相應の推理判斷の訓練を受けつゝ育ち ます爲に、小學校生活六年に亘って殆ど記憶一點張りの根本に立つ現代の國語ヘ育に比して、想像も及ばない程の優秀な結果が現はれることであらうと確信する のであります。是は唯想像ではなくて、大きな聲では申されませぬが、實際に入學以前の兒童に試みて、非常に成績の優秀であつたことを私は認めて、愈々其信 念を固くして居るのであります。
 けれども、是は標準式ローマ字のことでありまして、日本式ではさうは行かない。何故かと申しますと、「サ、シ、ス、セ、ソ」はs扁に a i u e o だ。「タ、チ、ツ、テ、ト」はt扁に a i u e o を附けるのだ。斯う云ふのが日本式のやつて居るやり方でございます。t扁に a i u e o は「タ、ティ、トゥ、テ、ト」〔ta ti tu te to〕ではございませぬかと子供が聞いたと致します。さうすると多分それは「タ、チ、ツ、テ、ト」と讀むんだと云ふ風に御ヘへになるでありませう。若し子 供がそれでは「ティ、トゥ」〔ti, tu〕は如何に書きますかと聞いたら t と i とをアポストロで切つて t'i と書く。斯うヘへられるだらうと思ひます。ところが「タ、チ、ツ、テ、ト」の子音の結合には、少しも形式的差別はないのでありますが、此の二つだけ 「t'i, t'u」とアポストロで切ることを學ばなければなりませぬ。即ち「t'i, t'u」と云ふものは支那音に出て來る音でありますが、「t'i, t'u」と云ふのは t と i の間に「イゥー」と云ふ音の切れ目があり t と u の間に音の切れ目があると云ふ事を現はす時にアポストロ、フィー[ママ]を使ふと云ふならば、正確かと存じますが、ti tu の音に使ふのは不都合なのであります。今滿洲國が出來まして、非常に關係が密接になるやうに思はれるのでございますが、支那音の中には「t'i, t'u」と云ふのがあるさうでございますから、それが耳に止まるやうになるであらうことは、僅かに十六、七時間の講習を小學校の兒童に加ふることに依つて 彼等が言語音の聞き分けに如何なる進歩があるかと云ふことを見て容易に信ずることが出來るのでありますが、さうなりますと、日本式では行詰るのでありま す。詰り合理的な音韻記述が出來ないので、假名と同じことを繰返さなければならぬのでありますから、只今申しましたヘ育的效果は期待出來ないのでありま す。即ち依然として詰込み主義で進まなければならぬと云ふことになるのであります。斯樣にして標準式は小國民の頭の運用の形式を自學自習、獨立自治的研究 の精~を以て自ら處するの道へと導くのでありますが、日本式では此通りとは参り兼ねるのであります。是は從來のローマ字運動に於て餘り注意されなかつた點 でございますが、大人から申しますと、何だ、そんな事がと思はれるやうな事が、若芽の彼等には一生涯の考へ方の形式を決定する程の重大なことになるのでご ざいます。例へて申しますと、五に三を加へれば八になるんだ。と云ふ事は我々には何だ下らない、と斯う思ふ程に容易なことでありますが、彼等に取つてはそ れは一生懸命な仕事であります。それと同じ樣に stiimu と云ふ風に書く。斯う書いてあれば、「スチイム」と讀むと云ふことの練習をすると云ふことは、其事夫自身が彼等に非常な訓練を與へるヘ育上の重大な仕事で あるのであります。此一事實だけから見ても、初學年からのローマ字ヘ育は、ヘ育上有效であり、而も標準式ローマ字に於てのみそれが有效であると云ふこと は、頗る面白い點だと思ふのであります。詰り日本式ローマ字は、百年祖國の兒等から眞のヘ育の機會を奪ひ去り、依然詰込み主義のヘ育を強ひる道を講ずる綴 り方と云はなければならぬのでありまして、茲にも日本式ローマ字の恐るべき禍を見出すのであります。
 第三に標準式ローマ字の特徴は、依然として滅びないと云ふことを私は信ずるのでございます。ローマ字が日本に行はれる限り、永久に不滅であると云ふこと を申上げて見たいのであります。田丸博士は「ローマ字國字論」第三版(二一二頁)に於て、固有名詞のことを御述べになり、「御當人がこれまでの書き方を變 へることを好まないのは、御當人の御考次第とする。」と御書きになつて居ります。事實是は適當なことと存じます。只今實業界に於て大勢力を持つ三井、三 菱、高島屋、白木屋、三越、松屋、松坂屋等の大百貨店、第一銀行の如き歴史的な銀行から、通俗的な所では、松喜、江知勝等の店舗は、海外にも知られ皆標準 式綴り方に依つて知られて居るのであります。日本式では先般是等に對して綴り方改訂を全部的に御奬めになつたさうでありますが、餘り效果はなかつたやうに 伺つて居ります。事實之を改めることは暖簾を書き變えるやうなことに相當するのでありまして、或は快諾して日本式になるやうな方もあるかも知れませぬが、 大體は困難であるやうに思はれます。しかして是等の大實業家の永続性は可能性は五〇%でございますが、先づ永續するものと見るべきでありませう。假りに今 日全日本を日本式にしましたとしても、標準式の贊成者で、其式獨特の綴り方を採用するものとせば、是は固有名詞として永久滅びない事になるでありませう。 しかし實際問題としては、其爲に刑に處すると云ふことも出來兼ねるものと思ひます。
 又一面學者の中には、世界的に有名な方も澤山御在りになると存じます。又是からもどんどん出來ることと存じますが、本人が生前使つた名前を歿後だから改 めると云ふことは、時として永久に其人を葬むることとなりまして、非禮になると思ひます。是は爲すべからざることと思ひます。地名等に致しましても、或外 國人等は自分の生きて居る中は Fujisan 等は絶対に書替へるのは厭だと云ふことを痛切に言つて居ることを聞いたこともありましたが、斯う云ふ風に執着を持つて居るとしても、是は個人の所有物であ りませぬから、改めることも出來ませうが、學者や作家等で熱心な標準式支持者が出て、fu とか ji shi chi tsu 等に關係ある名前を用ふるとする時は、其人の作は永久に殘りますが、是は標準式に於て、日本式の綴りを全部抱懷することが出來るのに反して、今日日本式か ら見れば、特別な綴りを存置せねばならない理由になることかと存じますから、是等に依つて永久に滅びないと云ふことになるのであります。日本式の講習では 何時も私共の綴り方をヘへて下さるさうでありますが、私共の方では日本式は抱擁されるのでありまして、別に日本式の方をヘへてやるやうなことはしないので あります。事實は日本式の方では標準式をヘへて下さらなければ、本當の役に立たないではないかと思ふのであります。是は強大なる理由にならないかのやうに 存じますが、實際上からは重大なる問題となるのではないかと存じます。
 第四に先程一寸觸れましたが、國交上滿洲國と我國との關係は、言ふを要しませぬが、滿洲國の地名は今日でもローマ字書では、既に私共の標準式と同じ子音 を採用して居ると承つて居ります。是は彼の Wade 式と呼ばれるものが結局眞生命を持つ爲でございます。今日手に入りました面白い書き物がございますが、是は大阪朝日新聞の記事でございまして、大阪の商人 の間に非常な勢で支那語の研究が流行つて居るさうでありますが、其綴りはやはりウエード氏のローマ字でやつて居りまして、其ウエード式は私共の標準式と同 じ精~に立つて居るのであります。今日の日本は鎖國の日本ではなく、世界的競爭の眞唯中に出て居ること、及び日本民族の爲す一擧一動は常に萬國的關係から 最善の道を講ぜねばならぬものなることを、一寸も忘れてはならないと私共は信じて居るのでございます。標準式を採用すれば、日本語が自由に書けることは云 ふに及ばず、四隣の國々の固有名詞すらもより多く正確に書き表はすことが出來、ある音の如きは大まかに云へば、同じもので間に合ふのであります。國語は勿 論外國音まで書けるならば、文字としては是以上の優越性はないではないかと思ふのであります。
 最後に附則として一言申上げたいことは、音節圖表たる百音圖表に付てゞございますが、標準式では a i u e o, t ch d と云ふやうな子音の知識があれば、母音と子音の組合せが自然に出來るのでありますから、實は音節圖表と云ふものは、全然私共には要らないのであります。差 上げてございます所の表の第十八頁の其まゝで宜しいのでございます。併し現在五十音圖に依つて育つて居ります小學校の兒童にヘへる爲に、ヘ授上何等かの音 節圖表がある方が便利であると云ふ所から、過渡期の方便として用ひて居るのであります。從つてこの斜線は田丸博士は非常に御心配になつたやうでございまし たが、是は五十音圖表が斯う云ふ風にローマ字の音韻圖表の中に包含されるもので、五十音圖去が斯樣に歪んで居ると云ふことを示すに過ぎないのであります。 しかも彼の表は標準式に於て公認の表ではなく、宮崎がローマ字ひろめ會の淀橋支部たる、ローマ字同志社と號する若人の團體に於てのみ使用するものでござい ます。從つてローマ字同志社以外の物には印刷してはないのであります。櫻根博士に依つて率ゐられて居る帝國ローマ字クラブ、海軍中將正木義太氏のローマ字 會館に於て用ひられて居るローマ字會館式の音節圖表は、又夫々獨特の圖表がありまして、其使用を爲さつていらつしやる筈でございます。何れも是はヘ授者の 便宜に任せて差支へないのでありまして、單音で行く標準式では少しも是は問題にならないのであります。ローマ字同志社の百音圖表が田丸博士の御目に止りま して、御批評を辱う致しましたことは、光榮に感じて居りますが事情は斯の如くでありますが、宮崎がローマ字ひろめ會の常務に携つて居ります爲に、しか御諒 解下さつたものかと存じます。尚ほ此斜線に付て何處の文法にもない珍しいものだと云ふ仰せでございますが、是も田丸博士御獨りの御意見で、日本式の皆樣の 御意見でないかも知れませぬので省くことに致します。
 尚ほ此外に新しき音聲學とか、前に申しましたフォニームとか、フォノロジーとか幾多の問題があります。そして是等のことに付ては、田中館博士、菊澤委員 等から色々の御意見を伺ひました。尚ほ建白書等も出たことがあるかに承つて居りますが、是等のことは專門の學界の方に御願ひすることに致しまして、私は之 には觸れないことに致します。併し是等の問題に付ても、其研究の結果が私共の主張の確實性を裏書して呉れることだけを、こゝには申述べて置きます。
 大變長くなりまして恐れ入りましたが、最後に結論として今一言申添へさせて頂きたいと思ひます。
 以上申述べましたことは、次の如くになるかと存じます。
 第一に日本式の唯一の旗印たる「日本語の性質にかなふ。」と云ふ御主張中の前二項は、文法的關係ではあるが、學的に何等云ふに足らざる權威なき獨斷であ つて、其點は標準式に於て、却て眞に「日本語の性質に合ふ。」事實を認めたこと、及び第三項の反切は、漢字と五十音圖表との關係であつて何等日本語の本質 に關係なく、ローマ字書の日本語に於ては、全然無關係の字と語との概念の混亂から來た誤つた考へであると云ふことが其第一であります。
 第二は是等の如何はしい「日本語の性質に合ふ。」と云ふ看板の下に、標準式は外國式だ、英語式だ、外國人崇拜の爲に、欧米に迎合する爲に、先輩が決めた のだと云ふ印象を與ふる宣傳を猛烈になさることは、全く事實に反するものであります。日本人の國際的關係に惡影饗を及ぼす虞れがあり、挑發的文句其もので あつたことが其第二であります。
 第三に標準式綴り方は、言語文字の理論にかなつて居るものである。從つて最も良く日本語の性質に叶ふものである。是が第三であります。
 第四、標準式は日本語の純化、統一、發展を助くる良き綴りであることが第四であります。
 第五には標準式は、小學校の最低學年から其ヘ育に用ひれば、兒童は記憶一點張りのヘ育から解放せられ、記憶、推理、判斷の訓練と云ふ基礎に立つて、學習しつゝ成長し、ヘ育上著しい進展を見ることが第五であります。
 第六と致しまして、標準式は、ローマ字が日本人の生活に關係して居る範圍に於ては、國中に普及徹底して居りますし、外國人關係に於ても同樣でございま す。唯日本式を使用する官廳から出る或種の物は、是は例外でございます。そして是等が問題を複雜にすることに付ては、非常に遺憾なことゝ存じて居るのでご ざいます。標準式では無理に讀ませようとせず、自然の進展に任せてある關係上、只今は多くの讀み物を有しませぬが、貴い古典等のローマ字書きもあり、尚ほ いざとなれば續々と出ることゝ存じますが、是は宣傅の巧拙の問題で、ローマ字綴りの本質に觸れるものではありませぬと云ふことをよく御諒解を願ひたいと思 ひます。日本式の機關雜誌では、日本式の使はれるあらゆる事例を全國から集めて發表になつて居りますが、それらは要するにそれだけの話で、私共の方は國の 内外に充滿して居りますから、使用の範圍と云ふことに付ては、殆ど問題にならないのでございます。從つてローマ字を以て日本語を書く方法としては、昔から 五十音圖表を基とした式と、單音表記式との兩式がありましたが、五十音圖は音節表音の字母表でございますから、單音表記の式の方が理論と實用との兩方面に 於ける優秀なる綴りであり、單音文字としてのローマ字の眞の性質を發揮するものであると云ふことが明かになつたと存じます。我々日本民族が明治御一新以來 仰いで來た所の傅統的國是に從つて之を批判して見ますと、ローマ字綴りは標準式ローマ字綴り以外、選擇の餘地がないことが明かになることゝ存じます。日本 式の方々の目指して御出になる所も、大分私共と一致して參りましたことは嬉しいことであります。第一に發音を寫すと云ふこと、第二に廣義の一音、即ちフォ ニームに一字を宛てると云ふ所まで參りました。殘る所は此フォノロジーの原則に從ふ所のフォニームと、私共の一音とがどの程度まで一致することが出來るか と云ふことが決定すれば、自らローマ字綴りは決定するものであります。私共の標準式は殆ど理想に近い良い式だと信じますけれども、是も人間の作つたもので ありますから、缺點もあるかも知れませぬ。又私共自身も改良したいと思ふ點もないではありませぬ。どうか虚心坦懷百年の兒等の爲に、祖國文化の將來の爲 に、何の點を如何に改良すべきかと云ふことを御ヘ示下さることを希望致すものであります。尚ほ色々申上げたいこともございますが、二囘に亘り大變長くなり まして、恐れ入りますから、今日は是で止めることに致します。二囘に亘りまして長い間御清聽を煩はしましたことに對して、厚く御禮を申上げますと同時に、 野人禮に嫻はず、言辭或は非禮に流れた所がありはしなかつたと云ふことを窃に恐れるのであります。

○議長(鳩山一郎君) ii委員から極く短い質問がと云ふことで、質問の通告があります。尚又櫻根委員から説明の追加竝に質問と云ふ要求がありますが、只 今の御説明の速記が出來まして、それを皆樣の御手許に配布した後に、之に對しての質問を一括してやつた方が便宜だと思ひます。本日は是で散會致したいと思 ひます。

○委員(田中館愛橘君) 一寸私一身上のことに付て此際申上げて置きたいと思ひますが……

○議長(鳩山一郎君)やはり此次にして下さいませんか。今質問を許すと、前に通告があるもんですから、それも速記を見てからの方が宜くはございませぬか。では御苦勞樣でございました。
(午後五時四十分閉會)