臨時ローマ字調査会議事録(第3回)

 

昭和6年5月15日午後2時10分

文部大臣官邸において開会

出席者

会 長  田中  隆三君

委 員  武内  作平君  永井  松三君  潮  恵之輔君  石井  英橘君

     植村  茂夫君  横山金太郎君   中川  健蔵君  工藤  鉄男君

     篠原英太郎君   藤岡  勝二君  長屋  順耳君  岡田  武松君

     松村真一郎君   堀切善次郎君   桜井  錠二君  鎌田  栄吉君

     田中館愛橘君   嘉納治五郎君   田丸  卓郎君  林  博太郎君

     中目    覚君   福永恭助君

臨時委員 神保    格君  末弘巌太郎君   桜根孝之進君   宮崎  静二君

     菊沢  季生君

幹事長  芝田  徹心君

  事   森山  鋭一君  菊沢  季麿君  山崎  犀二君  保科  孝一君

 

 

 

●会長(田中隆三君)

 大変遅くなりまして申し訳ありませぬ。よんどころない差し支えがございまして,遅刻いたしましたことをお詫びいたします。これより開会をいたしますが,ちょっと幹事からご報告申し上げることがあるそうですから………。

 

●幹事長(芝田徹心君)

 ちょっとお聴きを願います。この調査会が始まって以来,各地からして会長あるいは大臣宛てで,建議もしくは請願書のようなものが,ずいぶんたくさん参って居るのであります。そのことをちょっと今日ご報告申し上げますが,なお大臣のお手許に直接に行って,私のほうに頂戴しておらぬものがあるかも知れませぬ。幹事の手許で取り調べたところでは,ただいまご報告申すようなものが主なものでありますが,こういうふうにたくさん参っております。

 

  その中で最近外務省の手を通して役所の方に公文で照会をせられたものが一つありますから,謄写版に刷りまして皆さんのお手許に差し上げてあるのであります。これは英国の日米協会からの請願書であります。お読み下されば分かりますが,要するに今急にヘバーン式羅馬字〔ヘボン式ローマ字〕綴り方を変えられると非常に困るから,なるべくヘバーン式にしてもらいたい,こういう請願のように承知いたします。

  それからして標準式でもなし,また日本式でもなし,特別の各自の考え方で,こういう式にしてもらいたいとか,あるいはまたそういう何式ということじゃなしに,合理的に十分研究をしてもらいたいというような意見書がありますが,そういう両派,すなわち日本式と標準式いずれにも属しない意見書あるいは建白書というようなものが,東京の上落合の中村如温という人から出ております。これは相当研究されたもののように思いますが,ちょっと小さい書物になるくらいのものであります。これはお手許に差し上げるといいと思いましたけれども,なにぶんだいぶ厚いものでありますから,謄写することができませぬので,そのままこちらに保管してあるようなわけであります。また機会をもちまして,皆さんのご覧に入れるようにいたしたいと考えております。

  その他鹿児島の児玉弥三郎という方から,やはりローマ字に関する意見書が出ております。この人は自ら称して児玉式と申しております。なお松江市の後藤蔵四郎という方からやはりローマ字採用法についての建議書が出ております。

それから最近に参りましたのは,京都の高鳥直一という人から送ってきた,教育上から見たローマ字というもので,これは実際教育に携わっておられるようでありますが,十分研究してもらいたいということであるように思います。しかしどちらかというと,これは標準式に近いように定めてもらったらばよかろうというような意見のように,大体私ども見たところでは考えられるのであります。

  それからこれは日本式の綴り方にしてもらいたい,もしそれができなければ従来の……従来というか現在のままにして,自然淘汰といいますか,自然の成り行きにまかすようにしてもらいたいというような趣旨で,広陵中学校理事長・富樫東十郎という人から意見書が出ております。それから千葉医科大学ローマ字会会長,小池敬事という名前でもって,医科大学教授その他511名連署して,日本式ローマ字採用方という請願が出ております。もう一つ盛岡市の富田小一郎という人の名前をもって,その他1141名の署名によって,日本式ローマ字綴り方に関する請願,こういうものが参っております。この事実だけをちょっとご報告申し上げておきます。

 

  それからなお,一つ申し上げておきたいことは,第1回と第2回の記録でありますが,これは費用の関係等からいたしまして,速記が十分に取れておりませぬので,その大要だけを記録したのでありますが,そういうわけでありますから間違いなんかあっては困ると思いまして,これをとにかく謄写版に刷りまして,皆さんのお手許にお配りいたしたのであります。

  それでご当人からしてご訂正のご意見が出るかとも思いますし,またあるいは他の方から自分の聴いたのとは違うとこういうふうなご意見が出るかとも思いますが,そういうご意見があったならば,ご配布申し上げましたものにご面倒でも,ちょっとお書き添え下さいまして,今日でも他日でもよろしいが,ご提出を願いたいと思います。それによって取りまとめて皆さんのご承認を得たと思われる記録を残しておきたいと考えるのであります。そのでき上がった記録を印刷するかどうかということは,経費の点もあり,別問題でありますが,とにかくまず皆さんのご異存のない記録を残しておきたいと思いまして,それで謄写版のものを配りましてご意見を伺ったのであります。

 

●会長(田中隆三君)

 これから会議を開きますが,桜井さんから前回にお述べになったことに関連して,ちょっと発言したいという申し出があって,その方が進行上都合がよかろうと思います。どうぞ……。

 

●委員(桜井錠二君)

 ただいま会長のお許しを得まして,前回に私の述べましたことについて,少しく訂正をしたいと思うのであります。

  前回に私の述べましたことの中にヘボン式の名称を日本式の方が作って,これを用いられて居るように申し上げたと思いますが,事実はそうでないのであります。それは私の全く考え違いであったのであります。

  誰が作ったかは知りませぬ。またいつごろから用いられて居るか知りませぬ。けれどもいわゆる日本ローマ字会なるものができる前から,そういう名前が,あるいは外国人の問に使われておって,それを翻訳してヘボン式といったんではないかと思いますが,とにかく日本式の方がヘボン式という名前をこしらえたものでないということをここに申し上げて,そうして私の申したことに対して,その点の訂正をいたし,なお皆さんのご諒解〔了解〕を得たいと思うのであります。

それと関連して前回の折りに,田中館博士から,私自身英語で書いた手紙にヘボニアン・システム〔Hepburnian System〕という言葉が用いてあったではないかと言われましたが,それはその通りであります。私がある友達に送った手紙にヘボニアン・システムという言葉を繰り返して用いたように思いますが,それは向こうからよこしました手紙にヘボニアン・システムという言葉があり,またその手紙には名称は問題になっておらぬ。名称は何であっても構わぬというところから,向こうから来た手紙にあるヘボニアン・システムという名前を用いて居るだけで,この前にもちょっと申し上げました通り,名前はどうでもよろしい。ただそれが重要なる意味を持ってくると,それは違うのであります。今の手紙において名称は少しも重要な意味を持っていない。こういうことであります。

  なおもう一つ訂正しておきたいと思うことは,田中館博士がかつて富士山の士を,di と綴られたことがあるということを申したのであります。私には今日でもそういう記憶が残って居るのでありますけれども,どこに書かれたか,その証拠物件をと思って多少探しましたけれども,見あたらないのであります。でありますから,私の記憶が間違って居るのではないかと思いますから,これも取りあえず訂正して取り消したいと思います。この点もご了承を願いたいのであります。

  したがってただいま幹事長からお話になりました第1回と第2回の議事録におきましては,今のヘボン式という名前に関する点についての私の誤謬とまた富士山の士についての私の誤謬は,2つながら取り消して書いておきましたから,左様ご了承を願いたいのであります。

 

●会長(田中隆三君)

 この前の会議のときに,この次に田丸さんにご発言を願うことになっておりますが,その前にちょっと簡単に福永さんがお述べになりたいということでありますから………。

 

●委員(福永恭助君)

 ただいまの桜井委員のご説明に関連しておりますが,これは桜井委員に対する質問であります。議事速記の第2回の28ページに出ております通り,第2回総会におきまして,桜井委員は「日本式論者は悪宣伝をやる」,こういうことを,激しい語調をもって仰いましたが,その次に

「これを用うるものは国賊である」(9,10行目であります)

「日本人には日本式でなければならぬというふうに盛んに宣伝をなし,もって自派勢力の拡張に努めて居るのであります」

云々と仰せられました。我々日本式論者の中には,こういう不穏な言葉を弄〔ろう〕したものは一人もないはずであります。にもかかわらずこう仰せらるるのはいかなる根拠に拠るのであるか,それが第一。

  第二はもう1ページお開けになった29ページ第1行,ラヂオの放送問題であります。我々日本式論者はいまだかって何人〔なんぴと〕といえども,ラヂオを使ってこういう悪宜伝をいたしたものはないと私は信じておりますが,桜井委員がこういうことを仰せらるるのは,何を根拠としていわるるのであるか,この2点についてご答弁をお願いいたします。

 

●委員(桜井錠二君)

 第一のご質問の要点は,ヘボン式を用うるものは国賊であるということを,日本式の方で言って居るということを私が言った。どういう根拠があってそれを言うかということであると思います。今日は持ち合せておりませぬが,もしその証拠物件が必要ならば,次回に提出します。あるいはその前に必要ならば,郵便で送ってあげますが,証拠物件はあります。確かにあります。しっかりした言葉は覚えておりませぬが,ヘボン式あるいはヘボン式というようなものを用いるものは国賊という言葉が現に使ってあるのであります。その証拠物件はいつでも提供いたします。

  それからラヂオのことは,これは誰が宣伝したか,どうしたか,それは知りませぬ。とにかく日本式になるとか,日本式に定まるとか,いうのは,これは日本ローマ字会の会員じゃないかも知れませぬが,とにかく日本式に賛成する人のいったことには違いないと思うのであります。それは誰であるか知りませぬ。それだけのことを申し上げます。

 

●委員(福永恭助君)

ラヂオのことについて申し上げます。私どもはことを好むものでありませぬから,この問題については第1回の会議のときに,芝田幹事長の口を経て,既に取り消しが申し込んであります。第1回の議事録にビラが付いて居るのがそれであります。幹事長は日本式仲間がこれに関係しておらないということを既に言明しておられるのであります。我々はこういうつまらない問題には,なるべくふれないで切り上げようと思いましたが,桜井委員がさらにこの問題を蒸し返されましたので,私は日本ローマ字会68団体の代表者としていささか申し上げなければなりませぬ。

  それについて,これより先「ひろめ会」理事の名をもって我々委員に向かって,昨年の12月9日,ご承知の通りこういう穏かならぬ文書が回って参りました。すなわち

「同胞国民を欺き,勅令に対して不遜の報道を為さしめたるもの有之候〔ありこれそうろう〕。右は真に卑む可き行為と存じ候付〔そうろうにつき〕……」

云々とあるのであります。

  これはいかにも日本式仲問がやったように取れる文書でありますが,私はこれは甚だ怪しからんと思いまして,早速帝国通信社に参りまして社長に詰問いたしましたところ,かくのごとき事実は一つもない。帝国通信社は人から頼まれて通信をしたことは一度もない。殊に日本式仲間から頼まれていたしたことはない。ただ我々自身の通信社の探訪記者が世間から探してきて特種〔とくだね〕として,それを放送局に提供しただけである。そういう言明を得ましたから,これをここにご披露しておきます。

  それはさておき,そういう文書が出たのでありますから,これは桜井委員が間違えられるのも無理はないのであります。こういう文書が出ますと,とかくこの文書に引き付けられるのは当たり前のことであります。一体「ひろめ会」理事というのはどなたのことか知りませぬが,こういうものを軽々しくお出しになったのはどなたであるか,桜井委員をはじめ我々委員一同の頭を混乱させた責任者はどなたであるか,「ひろめ会」会頭であられる鎌田委員のお取り調べをお願いいたす次第であります。

 

(この時宮崎静二君発言を求む)

 

●会長(田中隆三君)

 ラヂオにこういうことがあったのが面白くないとか,こういうことをいった人があるとか何とか,そんなことはこの程度に止〔とど〕めておいたらどうでしょうか。

 

●委員(宮崎静二君)

 それでよろしければ……。

 

●会長(田中隆三君)

 記録を整理なさるときになるべく問題を起さないようにしたら,どうでしょう。

 

●幹事長(芝田徹心君)

 私の方で要綱を書いたものもあります。それからまたご当人に見ていただいて訂正したものもあります。それですから皆さんに一遍お諮りしたのです。

 

●会長(田中隆三君)

 今後一層注意してもらうことにいたしましょう。そうして必要のないことは,あまり書かないことにいたしましょう。別に本人の述べた趣旨の妨げになることもなし………。

 

●幹事長(芝田徹心君)

 どういうことが問題になるか分かりませぬし………。

 

●委員(中川健蔵君)

 今後は却って意志が徹底するだろうと思って,正式に速記をすることにしました。

 

●会長(田中隆三君)

 どうでもよろしゅうございますが,ほかにも自然出るようなこともありますから,できるだけこの会議に縁の遠いことは削りましょう。

 

●幹事長(芝田徹心君)

 本人に見ていただいて削リましょう。こちらでどうするということも,ちょっとできないわけですから。

 

●委員(田丸卓郎君)

(この速記はたまたま田丸委員不快のため田中館,福永両委員で校閲したので,あるいは意味の取り違いなきやを保証されない,これらは他日の訂正を待つ。)

 私から日本式ローマ字の趣意を申し上げるはずになっております。この前のときに田中館委員から大体のお話がありましたけれども,詳細のところは田丸から申し上げるということになっておりますので,それを申し上げるのであります。

  が,その前に記録が参りましたから,いろいろここにこの前お述べになりましたことについて(学問上のことはこれから後,この会の目的の主なる部分として,段々にお話をいたすはずでありますから,それは申し上げませぬけれども),ただ事実を誤って思い込みになっていらっしゃるらしい点などについて,後のお話にも邪魔になり,あるいは下手口でありますから,手数をかけるような恐れがあると考えますので,そういう意味から事実と違うことを一二申し上げて(これは記録の誤りという意味じゃございませぬ。で,仰ったお方の思い違いというような点でございます)から本論に入るつもりであります。

 

 第一は第2回記録(第20ページ)にございますことで,これは一体「ひろめ会」側と私どもとの間のことについて,いろいろ難しくなりました大本〔おおもと〕のことがここに潜んでおりますので,これを委員諸君に了解しておいていただくということが非常に大事であると考えますので申し上げるのです。

  この20ページの6行目の鎌田委員の仰せられた中でございます,「ひろめ会」のしたことの歴史的なことがございます。そこを読みますと,

「いわゆる各派の人々と,言語学,国語学等の学者等を集めて綴り方の研究・調査をなし,会合すること14回,最後に50名の評議員会にかけて,綴り方問題を相談いたしました。」

これを見ますと,綴り方の研究調表をなした委員会というものが14回会合して,その結果ある事柄ができて,最後に50名の評議員会にかけて定めたもののごとく,誰にも了解されるのでございますが,私ども「ひろめ会」の会員でございまして,14回の会合に毎会出ておった一人であります。

  会合すること14回で,委員会の結果がどういうことになったかと申しますと,それまで「ひろめ会」における書き方は各自の全く勝手で,種々雑多でありまして,(当時まだ標準式という名前はできておりませぬ)ヘボン式および日本式の2つならばまとめることができるということになったにもかかわらず,それが報告になることと,私ども予期しておったところ,そういう結果の報告はございませんでした。

  で,それは全く幹部連の握りつぶしになりまして,一年あまりの熱心なる討議の結果が,全く暗に葬られまして,別に50名の評議員会に問題が出て,この綴り方問題がヘボン式ということに定まったのであります。一年あまり14回熱心に討議いたしましたことをそのまま握りつぶしにされたその態度が,甚だ私どもの腑に落ちないことでありましたので,それでいろいろその後が難しいことになりましたのです。その点だけを誤解のないように申し上げておきたいと考えます。

 

 その次に嘉納さんが主唱者になられて,両方の派があることは好ましくないから,一緒になって働こうじゃないかというお話があったのです。

  そうして会合に私も出たことがございますが,そのとき一緒にならないかという嘉納さんのお話に対して私は,断然お断りをいたしました。そのお断りをいたしたことが大変我がままな,一人だけ片意地になって居るがごとく嘉納さんもおとりになったらしく,その他の方もおとりになったろうと考えますが,これはただいま申しました前の問題があって,そのようなつまらない骨折りをして,そういうふうなことを繰り返すよりは,別に自分で働いた方がよいというわけでお断りしたのでありまして,この辺のことは嘉納さんにも今まではっきりお話ししたことはなかったのです。

  こういう問題がありますことを申し上げて,私が片意地になって居る訳じゃない,そういうふうなことがあったんだということを申し上げまして,ご了解を得たいと考えるのであります。

 

第二は,20ページの14行目に,

「私どもが『ひろめ会』の出版事業の一部分として,日本式側の出版物のお世話をしておったのでありますが,その要求過大のため,その負担に堪えなくなって,これを拒絶するや,その人たちは再び脱会し,このたびは日本式ローマ字と名乗り従来のローマ字は……」

云々とありますが,「このたびは日本式ローマ字と名乗り」ということは,全く事実と違います。

「日本式ローマ字」という名前を出しましたのは「ひろめ会」の一番はじめのとき,私の入りましたのは2,3ヶ月後でありますが,明治38年の冬,明治39年のはじめに「日本式ローマ字」という標題をかかげで,私は日本式ローマ字の理論を雑誌の上で述べた。何回かにわたって述べたことがありまして,そのことは全く間違いないのであります。これらがどういうわけか思い違いと見えまして,それから数年後分離してから「日本式ローマ字」という名前を出したもののごとくにお述べになったのは,全く思い違いで,このことは「ひろめ会」の中で一番はじめ私ども熱心に働いておった時に,「日本式ローマ字」ということを述べて,「ひろめ会」の人たちの賛成を求めておったのであります。

 

 その次に第26ページに1つあります,

「日本式の田丸博士は,固有名詞の書き方については,ご当人がそれまでの書き方を変えることを好まないのは,ご当人のお考え次第とすると書いておられるが,地図等においては同じ理由によって,従来の式を用うることには田丸氏にも異存はあり得ないわけであります」

とありますが,これは違います。

私は昔から地名の書き方ということはちっとも申しませぬ。ただ「人の名前」の書き方は銘々〔めいめい〕今までの書き方と違う人と思われると困るということを,ご当人が仰るから,そう仰る方は無理にお勧めするわけにいかぬと考えております。固有名詞とは申しませぬ。固有名詞の書き方についてということは,鎌田さんのお言葉でありまして,私の言葉ではありませぬ。したがって地図等において同じ理由によってということは,全く当てはまりませぬ。地名は永久的なものであり,一個人の支配すべきものではありませぬから,地図の地名というものは改めるべきものなら改めるがよろしい。こう考えております。

 

 その次に,26ページにもう一つ申し上げたいことがあります。同ページの終わりから3行目のところに

「一方理論的立場においては,東京帝国大学を中心とする日本全国の言語学者の学会の発表した意見書の原則に適うものであります」

と鎌田委員が仰せられてあるのでありますが,この言語学会の意見書が私どもの手許にも参りまして,拝見いたしましたが,これは東京帝国大学内言語学会とか書いてありました。その言語学会なるものが日本全国の言語学者の会合なりや否やということは,あの文句を見ましたときに私甚だ疑いを挿んだのでありまして,一言その方面の人に尋ねてみたのであります。

  その結果によると,あの書き物を出された言語学会というものは,東京帝国大学の言語学教室に出入りされる比較的少数の方々の団体であって,日本全国の言語学者というようなことではなかなかない。こういうことを諸方におられる言語学者の口から伺いました。また学会というと専門学の研究機関のごとくであるが,我々の聞き及んでおるところでは,そういうふうな団体ではないらしいということも,これは「らしい」でありますからあまり申し上げませぬが,とにかく言語学会の意見書というものは,決して日本全国の言語学者の統一したところのご意見ではないということは,確かに言えるということを発見したのであります。

これは鎌田委員の思い違いで,言語学会の発表でありましたから,多分日本全国の言語学者の学会の発表とお取りになったと考えます。事実はそうでないということを聞き及びましたから,そのことを皆さんに誤解のないように申し上げる次第であります。

 

 次に28ページにも,もう一つ誤りを直しておいていただきたいと考えることがあります。これは桜井委員のお話の中でございますが,第5行目のところに,ヘボンの辞書で使っておった綴り方に関係したことでございます。これは桜井委員がうっかり不適当な例をお書きになったに過ぎないとは思います。

  医者を(ishiya)と綴ったということでありますが,明治29年旧ローマ字会云々とありますが,「医者」というような語はヘボンの辞書は,第一版から(isha)と綴っておったのであります。これはただ不適当な例をお挙げになってそういう間違いになったんでありましょうが,とにかく「医者」というのはヘボンの辞書でもはじめから(ishiya)でなくて,(isha)でありました。

 

 これだけを私の第2回記録の中で,事実あるいは歴史的の点から皆さんの誤解をなるべく早く防ぎたいという考えから申し上げる次第であります。

  これから日本式の根拠のことを申し上げますが,なるべくごたごたにならないようにと思って,箇条書きにして書いたものを作って参りましたから,これをご覧下さりながら私のお話をお聴きとり下されば,大変好都合であると考えます。

 

 (この時箇条書きを配付す(巻末に添付))

 

 第一は(1のA)「綴り方の名前について」 ということであります。

  この名前と申しますのは,今まで全く思いもよらなかったことで,どうでもいいと思っておりましたけれども,しかし名前の点からどうやら感情的な気まずい状態になったらしいところもありますし,ヘボン式という名前については,先ほど桜井委員からご訂正がありましたが,しかしまだ十分納得のいかないお方もありはしないかと考えますので,この会議の評議が円満に進むためには,この点を十分に説いておくことが大変有益であろうと考えますので,名前のことを申し上げます。

  名前のことについて,こう人々が感情的になったことは,私の思いもよらなかったところでありますが,「ひろめ会」から出て居る刷り物などに我々がへボン式という名前を使って居るのが,悪意をもってやって居るように,また日本式という名前を使ったのが政策的に皆の受けがいいために名をつけたかのごとくに書いてありますが,これは全く邪推に過ぎない。

  私は一体理学者ですから,そういう点については全く理学的の癖を持っており,割に融通のきかない方でありますから,不適当な名前はつけたくてもつけられない方でありまして,ヘボン式という名前はやはり先ほど桜井委員の申されたように,昔からある名前で,自然それを使ったというだけのことでありますし,また日本式という名前についても,これから段々申し上げますが,つけるべき理由があって一番いいと思った名前をつけたに過ぎない。それが問題になろうなどとは,当時考えてもおらなかったことであります。

  そういうヘボン式という名前が,わざと悪意があって使うもののごとくであるということは,私どもはじめには思いもよらなかった非難であります。ただこういうことを言う人もあるがくらいに度外視しておったのでありますが,こういう馬鹿気たような宣伝も,ずいぶん世間に利いて居るものと見えまして,この間来たドイツの学者のシャールシュミットという人の書き物にさえも,そういうことが書いてある。外国人までもそれを真に受けて,日本式を攻撃して居るのを見て,実に驚いたのであります。

 

 第二番目に(1のB)《へボン式の名前》ということについてそれの拡がった事情ということを書いておきました。

  ヘボン式という名前は20年前後に拡がったものと私は思っております。元の旧ローマ字会の綴り方を拡めたのは,明治18年ですから,それまででありますが,20年前後私ども学生時代であったときに,和英辞書は他になくて,ヘボンの辞書ばかりでありましたから,学生すべてがヘボンの辞書を使ったので,ヘボンの辞書に馴れておった。それで日本語をローマ字で書く場合は,自然ヘボンの辞書の使い方に従うということになったわけであります。

  それで私どもの間では,「ヘボンの書き方」で通じておった。世間一般でもそれだけであると考えておった。旧ローマ字会の評議がそれの元であるというようなことは,それに携った桜井先生もご承知でしょうが,我々そのときの学生などは,どういう評議がどこにあったというようなことは無関係でして,ただあの書き方は「ヘボンの書き方」だというふうに,「ヘボンの書き方」が一般の通り名になっていた。理屈も何もなしに,一般に通じておったという名前に過ぎないのであります。

  ここにチェンバレン氏の日本口語文法書というのがあるが,これは明治21年10月に出た本で,チェンバレン氏は旧ローマ字会の綴り方の委員の一人だったのであります。この方の書かれた本の中に,ここに書いてあるような文句があります〔The simplicity of Dr. Hepburn's system...〕(箇条書き1のB(b))。その本にはヘボンのシステムを使うという文句さえもない。ただ綴り方に関係することはこの一句だけであります。その本に使って居る式,これは現在の標準式と言われて居るものと同じでありますが,その式をヘボン・システムと呼ぶということさえもない。それは分かりきったことという書き方になっております。そういうことをご覧下さると,ヘボン式という言葉は音から行われておったものであり,世間に通っておったものであることが,お分かりになるだろうと思います。私どもが悪意をもってそういう名前を使ってやって居るというふうなお疑いは,全然晴らしていただかないと困る次第でございます。

 その次に《日本式の名前》ということを書いておきました。そのところでちょっと,私がヘボン式という名前を製造したと,桜井委員のお書きになった理由が,あるいはこういうところにありはしないかということを一つ見つけたのであります。それは私の書いた本の中に,綴り方と書いて,以下ヘボン式と呼ぶというような字句を使ったところがある。そういうのを見て私が呼ぶというから,私が製造したんだとお読みになったのかと,後から探してみると思われるのであります。

  もしそうであったとすれば,まことに書き方が疎漏であって,お気の毒だと思いますが,何故そういうふうに書いたかというと,ヘボン式の名前の出所とか理由などを述べると,長たらしくなるから,そういう名前のことには関係がない,ただ内容について述べるだけで,そういう名前の出所などをくだくだしく述べることを避けるために,以下ヘボン式というふうに書いて議論を進めていったのであります。それがあるいは原因になって,私どもがヘボン式という名前を製造したんだろうと思われたとすれば,書き方の杜撰〔ずさん〕であったということをお詫びをしますが,全くそれだけのことで,製造したのではないのでありますから,ご承知を願いたいのであります。

 

 次に(1のC)《日本式の名前》ということについて申し上げます。

  日本式ということは,《田中館式》あるいは《田丸式》と呼ぶならば相当であるが,日本式という立派な名前を付けるのは誰の許しを得たんだということもありましたが,この田中館式あるいは田丸式というものも,世間で始終使って居るものがあるから,そういう名前がいいと思う方は実際にお使いになっているばかりではない,実際に使われて居る。

  しかし我々の方からいうと,そういう名前を使うということは僭越〔せんえつ〕であるばかりでなく,また適当でもないので,その訳は日本式の行き方は,私は無論のこと,田中館さんよりももっと前,明治6年に黒川真頼さんの百人一首なり,もっと前の蘭学時代のものなどにも同じ行き方の綴り方が出ておりまして,要するに外国人と独立に日本語というものを主にして,ローマ字綴り方を組み立てた日本人が,いつでも考えそうなこと,また実際に考えた綴り方である。それですから田中館式,いかにも田中館さんが最初の人であるがごとく,また田丸式というのも僭越であると思う。昔からそういう人がそういうふうな綴り方を使ったという点からしても,日本式という名前がこれも妥当である。歴史的に見ても妥当であることがお分かりになろうと存じます。

もう一つ歴史的でない側から言うと,日本式というものは,それの実質の方から申して日本式という名前で行くのが最も適当だ,私はむしろそのほうを主にして名前を付けましたが,それはこの次のところで段々申し上げます。

  とにかく名前のことについて大変やかましくなりましたことは,先ほど申したように大変遺憾なことで,そうならなくてよかったことと考えるのであります。実際「ひろめ会」においても数年前までは我々が日本式という名前を使って居ることに対して,誰一人故障を仰らなかったが,近年になって大変問題になってきた。

  この点について私ども甚だ不思議に考えて居るところでありますが,もしもそれが日本式が社会を動かしてきて,何か日本式を攻撃すべき材料が必要になってきた,あるいは他に実質において日本式にはあまり攻撃すべき内容がない,それでそういうことでも突っ込んでやらなければならぬという原因がもしありとすれば,私ども日本式仲間として,そういうふうに日本式の発達してきたことについて,まず喜んでもよいわけであります。しかし問題そのものについては甚だ迷惑を感じる次第であります。

 

 その次に申し上げますことは(1のD)《旧ローマ字会式と標準式》という標題を出しておきました。

  ヘボン式がいいと思っておられるローマ字論者の方が,旧ローマ字会の評議を重く見られて,すなわちヘボン式,我々ヘボン式と呼んでおりますところの今の標準式なるものは,外国人ヘボンが考えたものじゃない。これは日本のローマ字論者の多数の人が相談してやったのだという,そういう点を重く見られることはごく至当なことだと思います。

  つまり外国人のやり方は,ただ日本語の音を写すという意味で使っておったでしょうし,旧ローマ字会の人たちの考えは,これを国字にして使う意味から表現されたに違いありませぬから,その表現なり出発点の違うということは,よほど重大なことでありますから,これを重く見られることはごく至当なことだと考えます。

  そういう点から,すなわち歴史的に根拠のある点から見ますと,近ごろご採用になった標準式という名前などは,旧ローマ字会式という方が適当だろうと考えます。しかしローマ字会なるものは明治25年ごろになくなっておって,今では40年近くもなくなっておりまして,今はローマ字会というと,むしろ我々の仲間,日本ローマ字会の各地における団体が,何々ローマ字会という名前でやっておりますから,今ローマ字会と申されると誤解を生じますので,「旧」という字をお使いなさることをお願いしておきます。

  無論標準式でもよろしゅうございますが,適当だという点からいうと,「旧ローマ字会」というのが当たって居るわけであります。それはヘボン式をよいと思う方がそれが至当だと判断されるだけのことでありまして,我々日本式のものから見ると,旧ローマ字会の綴り方の評議というものは,実質においても大切でないとは思いませぬ。

  つまりその前にヘボン式が使っておったもので不適当なものを適当なものに直したのでありますから,大切でないことはありませぬが,要するに最初にヘボンの辞書に使っておって,あまり妥当でなかった点を改めた,そういう意味のものである。元のままで我々から見れば,最も軽い点に改良を加えたというに過ぎないのであります。でき上ったものは無論英語式の綴り方であって,その点はその前のヘボン式も旧ローマ字会が評議してできた綴り方も変わりませぬ。

  そういう意味からして私どもは先ほど申しましたヘボン式という名前が,普通に行われておった点とを合わせ考えまして,ヘボン式の名前をそのまま使うことが不合理ではないと考えます。普通に使われて居る名前,それは我々から言えば,直されたところ改められたところの綴り方も,大事な点においては元のままで世間に使われて居るから,そのままの名前を使うのが一番通りがいいと考えますので,へボン式という名前をやはり私どもは使っております。

  無論このヘボンが最初の版に使ったような綴り方というものは,それから後一度も問題になったことはありませぬから,ヘボン式と唱えて何にも怪しいこと紛らわしいことを生ずる恐れはさらにない。ヘボン式を唱えても,一番はじめにヘボンの書いたものをかれこれいうようなことは,特に論議する場合の他はないのですから,それで少しも差し支えない。また通りがよろしいからそういうことにいたしております。

 

  それから近ごろ「ひろめ会」では,標準式という名前にお改めになって,我々が頂戴した宮崎さんのパンフレットには,我々は日本式の名前を使って居るのに,日本式の人が標準式の名前を使わないで相変わらずヘボン式と言って居るのは,甚だ料簡が狭いというふうなお言葉があって,宮崎さんとしてはごもっともだと考えますが,私どもから見ると大変的を外れて居る批評であるのであります。

  と言う訳は,私どもは社会の人を相手に運動をして居る,中等学校でヘボン式を習ってきた人に対して我々の研究し得たことを教えて居るのであって,「ひろめ会」という団体は全然相手にしておりませぬ。考えておりませぬ。世間は広いのでありますから,「ひろめ会」は「ひろめ会」の都合のいい方面を開拓なさることは非常に結構で,私どもは私どもの都合のいいところへ向かって働いて,いっこう差し支えないのであります。

私どもはただ社会一般に対して,日本式の正当なることを申し述べて宣伝して居るわけであります。無論特別に横から問題が提出されて,それに対してやる場合は別として,普通の場合においては,「ひろめ会」に対してどうするということは全くしていないのであります。

  故に世間にヘボン式という名前が通りがいいならば,やはりへボン式の方がいいので,「ひろめ会」で標準式という名前をお使いになっても,世間に通っていないならば,それは不適当でありますから,私どもは社会相手という意味において,「ひろめ会」でお使いになる名前はどうであろうとも,それが世間に広まって居れば,いずれ世間一般に標準式という名前が了解されるようになる。今のところそうでないようであるから,やはり,ヘボン式という名前を使って居るのであります。

  このごろ「ひろめ会」では,日本中の学校の英語の先生などにも書き物をお回しになったのでありますから,あるいはこれから先は標準式という名前が相当広く使われるようになるかも知れませぬ。そうなれば私どもも標準式という名前を使おうと考えますが,ただいまのところまだそれは考えておりませぬ。

  ただいま申したことは我々が平常「ひろめ会」と喧嘩して居るのでも何でもない,全く独立して運動して居るのだということは――くれぐれも皆さんによくご承知を願いたいと思います。もっともこの調査会では,主に「ひろめ会」側の方々とお話をするようになるのでありますが,なるべく標準式という名前を使おうと考えます。社会に対する場合においては,そうでない方が適当だろうと私はまだ考えております。

 

 その次に(2)《綴り方の学問的評論》というのでありますが,第一に(2のA)先ほど申しました日本式という名前が適当なりや否やを申し上げて,日本式の日本式たるゆえんをお話し申し上げます。

〔ここに日本式ローマ字の表が入る。〕

 これはこの前綴り方の表というものを幹事さんから皆さんにお回しになりましたから,ご承知のことと存じますが,ここにありますのが日本式綴り方の表でございます。この表をご覧になるのに,五十音を書いたんだとお思いになると困るから,そうお思いにならないようにお願いいたします。

  Kに母音を付けたものを「カキクケコ」と読むのです。Sに母音を付けたものを「サシスセソ」と読む。これは読み方を知らせるための行列とご了解を願いたいのです。今は流行〔はや〕らないかも知れないが,私どもの学生時代には,ウェブスターのスペリングブックという本を読ませられたのでありますが,それと同じものだとご承知を願いたい。

  これはキャ・キュ・キョ,これはシャ・シュ・ショ,チャ・チュ・チョ,ニャ・ニュ・ニョ,この辺は別に標準式も変わりませぬ。ジャ・ジュ・ジョ,リャ・リュ・リョ,とこういう具合に綴ったものを読むとご承知を願いたい。これは日本式の綴り方であります。

  ちょっとお断りしておきますが,この表は仮名または五十音がもとではない,こういうふうに綴ったのをこう読むんだ,小学校の生徒に教える場合でも,これを見てこう読むんだと教えることとご承知を願いたいのであります。

 

 その次に日本語の最も主要な特徴は,動詞の変化と音便変化,その動詞の変化の中でも最も大切なのが五段の動詞であります。

  動詞というものは,日本語のおびただしいものの中できわめて小さい部分だ,そうして五段の動詞はまたその中のごく小さい部分だ,このきわめて小さい五段の動詞というようなものを捉えてかれこれし,これによってどうこう言うのは,甚だ均衡を失して居るというふうにお考えになる方があるかも知れませぬが,とにかくこれが日本語の中で最も特徴の現れて居る点である。これが注意を願いたい点であります。ある文法学者が,もとは他にたくさんあった格が五段に変わっていくというふうなことが言われて居る。そんな点からして考えても,五段の動詞は日本語では最も大切であります。

  そういうわけで従来規則正しいと言われておった五段の動詞の変化が,日本式をもって行くと正しく表さるるということ,左の方にある(sak)に(u)をつけるとさく(saku)と読む,(sak)の代わりに(yom)というものをつけると(yomu)となり,(hos)をつけると(hosu),もう一つ(kat)をつけると(katu)となる。みんな同じ規則で,ただ一つのその通りな語尾変化で持っていくというようなことが言えるのであります。これは国語の先生が中学校などでも盛んに使われて居る,ローマ字を教える意味でなく,動詞の変化を教えるために,ローマ字を使って居る方がずいぶんたくさんあるそうですが,そういう方に使われて居るのであって,私どもの発明でも何でもない。

  この通りに,日本語で最も主要な特徴である五段の動詞の変化が,従来国語文法で規則正しいと認められて居るものが,日本式で規則正しく表される。タ行・サ行等の五段の動詞が,カ行・マ行等に比べて不規則でないと今まで認められて居る。それがただいまご覧になったように,同じ規則で行くということが著しい点であります。

 「ひろめ会」のパンフレットなどを拝見すると,これは具合のいい例ばかりここに出したんだ,ハ行の動詞の変化はそうはいかない,いろいろ不規則なことがあるじゃないか。また立つ(tatu)は立った(tatta)となるというふうに,過去の形では日本式でも不規則じゃないかという故障ですが,これは従来の文法でも,皆そういうことが不規則になって居ることを認めて居る。従来認められて居るところが,ローマ字を使っても,そのまま不規則になって来るのは当然であります。

  いろいろなただいま掲げたような動詞の変化をここに出しておいて,一々断っては無論おりません。が我々は,すべての点が皆規則正しく行くとも何とも,はじめから申しておりませぬ。ただ普通に文法で正しく行って居るところが,日本式ローマ字でやはり規則正しく行くということを言って居るのであります。過去の形とか,ハ行の動詞がどうだということは,私ども無論知らないことはありませぬ。で,いろいろな刷り物,殊にこの前ここで皆さんにお目にかけました,私どものこしらえた和英辞書の終わりのところに出してあります。過去の形のいろいろ不規則なことも出してあります。不規則な部分はないと言って居るのでも何でもないので,ありのままに事実やって居るのであります。

 

 次に(c)《音便変化》。これも日本式にとっては特徴のある事柄であって,これがどういうふうに行くかということはきわめて面白いことである。それからそれに合うように綴り方をすることが,日本語を書く上において適当なものであることは,皆さんお認めなるだろうと考えますが,ここにいくつか例に書いて参りました。謄写版にも出しておきましたが,もう少し違った例もあります。既にご承知の方も大勢いらっしゃると思いますが,順序でありますから一通り申し上げます。

  例えば

    酒(Sake)というのが白酒(Sirozake)になると(S)が(Z)になり,

    鹿(Sika)が牝鹿(Mezika)になると(S)が(Z)になる。

    写真〔Syasin〕が色写真(Irozyasin)になると(S)が(Z)になる。それから

    玉(Tama)が赤玉(Akadama)になると(T)が(D)になる。

    月(Tuki)が三日月(Mikaduki)になると(T)が(D)になります。

    茶(Tya)が茶呑茶碗(Tyanomidyawan)になると(T)が(D)になる。

    燈灯〔提灯〕(Tyotin)が岐阜燈灯(Gihudyotin)(T)が(D)になります。

この変化がただ一つの法則で言い表されるということが見えます。

  これはただ偶然そういうふうに,あるいはこしらえたからそういうふうになったんだと言われるかも知れませぬが,これは決して偶然でもこしらえたのでもなく,日本語の音便の変化をその通りに規則正しさをもって表したに過ぎないということをご注意願いたい。これは偶然とかあるいは人工的のものというわけではなくして,今まで普通にも認められており,また自然の起こり方であるところの変化を,最も規則正しくかつ自然的に表したものであるということをご承知願いたいのであります。

 

 その次に申し上げることは(d)《日本語に使われる漢字の字音》,漢字の字引に何々の切というふうに説明して居る漢字の字音,この何々の切というものの行き方は,刷り物に書いて参りましたのをご覧願いますと,

「加」という字は古牙(ko-ga)の切でありまして,古という方が子音を与え,牙が母音を与えまして,こっちの方の(表を示す)k(o-g)a,そういう行き方になって居る。

「其」というのは渠之(kyo-si)の切,yo は無関係で k だけが子音になって出る。之(Si)が母音を与え,韻を与えて ki というのができる。

「巨」(其呂切)というのは「其」だけが子音を与えることは今と同じで,この「呂」は母音あるいは韻を与える。それから「作」というのは則洛(Soku-raku)となり,これも「則」のはじめが子音を与えて,終わりが韻を与える。

この反切というものはこういうふうな具合にできて居るのであります。

そういう向きであって,いろいろな問題になる事例を調べてみますと,例えば

  「地」というものは徒利(to-ri)の切,「徒」というのが子音を取り,利が韻を取りまして T-i が自然に出てくる。

  「琢」(竹角切)というのは日本式で書きますと,竹(tiku)ですから,これに子音が働いて,角(kaku)の aku というのが韻でありますから,taku となります。もしこれが ch というふうに参りましたら,chaku というふうになるのである。それは我々が使って居る韻を現さぬことになります。

  「呈」(直貞切)はこれを日本式に書くと,直(tyoku)というのが子音でありますから,貞(tei)の韻を使って呈(tei)となる。

  「直類切」これが「墜」という音になってくるのであります。その理由は直(tyoku)が子音を与え,類(rui)が韻を与えて墜(tui)というのができる。

  こういうふうな具合になりまして,chu とか cho とかというふうに書いては通らない。ここに言ったような形式ではいかない。皆「チ」「チョ」の子音はTであるということがいくつかからの場合から分かるのであります。

  なおここに yo の付いた言葉をいくつか拾って参りましたが,

  「秒」を日本式に書くと,亡沼の切で亡は子音ゆえ,沼が韻を与えて b(o-s)yo^ すなわち秒(byo^)となる。それから

  「小」が先了(Sen-ryo^)の切となって,yo^ という韻が出て,小の音が syo^ だということが,日本式の綴り方ならば,はっきりとこの場合に正しく現れるのである。

  「直」が逐力〔Tiku-ryoku〕の切となって,これとこれとが同じ韻のもので,これが共通になって居るということが大事な点であります。

  「蝶」というのは徒協の切で,それが蝶になる。徒(to)と協(kyo^)と合って Tyo^ となった時には蝶(tyo^),

  そういう具合に漢字の反切というものが,日本式のローマ字で行きますと,きちんと当てはまります。これはご承知の通り,やはり漢字の辞典にある通り,何々の切という規則は,皆漢学者自身いつもこしらえて居るのですが,これが漢字の音の決まり方を定義して居るといってよろしいと思います。こういうふうに日本式に書くことによって,きちんと正しく表現されるということは,簡明に現される日本語の形式であると申してよろしいと思います。この漢字の下に書いて居る何々の切ということについて,非常に正しく,日本式で書くと面白いといってもよいくらいよく合って居る。

  「ひろめ会」の方から出ております小原喜三郎という方の書かれたものに,《漢字の字引に書いてある何々の切というものは,これは支那の方の発音,支那の方の音であるから,これを日本のものとして見ることは妥当でない》,これは日本の問題には関係がないのでありますけれども,とにかく日本における漢字の多く取られて居る発音の仕方は,この形式で行って居る。日本において多く取られて居る漢字の漢音の読み方は,これで行って居るということが,全く間違いないのであります。これにはちっとも疑いの余地はないと考えます。

  もっとも字によっては,日本における何かの慣れの結果として,何々の切というのと違うような具合に読み慣わされて居る字もありまして,何々の切というのと飛んでもない違う音になって居る,変なものもないではありませぬ。宮崎さんもいくつか書いてお出しになっておりますが,これは日本における発音が,それだけの字について変わって居るというふうに見るべき例であって,一般の漢字の音の読み方,綴り方の問題としては,まず考えなくてもよろしいものであると思います。そういう宮崎さんの与えた例について,ここにおられます菊沢さんが却って違って居るということを書かれたものもありますから,それはよくお調べを願いたいと思います。

 

 ただいま申し上げました動詞の変化,音便変化,漢字の反切というようなことは,日本語に実際使われて居る音のいろいろ運転する具合,関係する具合,そういうものについて最も重要な特徴,ならびに反切の方は在来認められ,かつ使われてきて居る音に関係のものでありまして,それを最も簡単かつ規則正しく現すということが,日本式の日本式たるゆえんである。日本語の最も大事な特徴がそれを規則正しく現すのでありますからして,我々の使って居る綴り方が,日本語特有の綴り方であり,日本語の特徴を遺憾なく発揮するところの綴り方であるが故に,これは日本式と唱えることは至極適当であると考えます。

  日独文化協会の主事であるグンデルトさん,この方は日本語を非常に研究されて居る方でありますが,どこかでご覧になったろうと思いますが,日本式という名前は妥当であり,適当な名前であるということを認めておられますが,そういう内容から来て居るのであります。これだけのことで,我々の使って居る綴り方が,日本式という名前に適して居る綴り方だということを多分お認めを願うことができたろうと考えます。

殊にただいま申しましたことについてご注意を願いたいことは,私の今まで申しましたことには,仮名も五十音というものもちっとも関係はない。仮名音というものも出しておらない,綴り方の読み方を知らせるだけの方法だということを申し上げます。五十音および仮名と日本式との関係,それについては「ひろめ会」の方もよほど誤解をされて居るものと見えますし,今お帰りになりました桜井さんのお書きになった物にも,日本式は仮名から来た形を重んじて居るものだというふうに,日本式を誤解されて居るところがあると思います。それ故にただいま申し上げました点は,皆さんのよくご注意を願いたいところであります。

つまり日本式というものが,日本語の性質に適して居るということには,仮名がどうだとか,五十音がどうだということは,ちっとも関係しておらない。そういうものとは全く独立に一つの使い方,あるいは使われ方に適して居る。日本語の運転方〔法〕に最もよく適して居る。こういうことを我々は申すのであります。

  が,しかし「ひろめ会」のお書きになったものも,無理もないと思う。実は私どもが一般の日本人に日本式を設明するに,皆が五十音図を知っておりますから「五十音の一定の字母を使う,一定の何を一定の型に使う。それが日本式の特徴である」とそう書いてあるのをご覧になりまして,これは五十音図に従って居る,五十音に盲従して居るというふうにお考えになるのもごもっともであると考えます。

  しかしそれは日本式を説明するに一番便宜の方法を取ったに過ぎないので,実は日本式ローマ字は五十音図にはちっとも関係はないということをご諒解〔了解〕願いたい。ただいま申し上げたひろめ会の方は,日本式は五十音図を基にして居る,あるいは五十音図に拘泥〔こうでい〕して居る,あるいは仮名に拘泥して居る,仮名を取るというと,日本式はまるで拠り所がなくなってしまうようにお考えになることは,何とぞこれから後お止め〔やめ〕を願いたいのであります。

 

 ただいま申しました中のはじめのものは動詞の変化および音便変化,はじめのところをご覧になると「タマ」は「アカダマ」になり,「チリメン」が「ヒヂリメン」のdになり,その次が「ア」であっても,「イ」であっても同じように行く,これらのことを見ますと,日本語というものが,ローマ字式の国語であり,日本語というものは,元来仮名で書くよりもローマ字で書くのが一番適当して居る,事実上ローマ字式の国語であるということを,遺憾なく示して居ると思うのであります。

  と申しますのは,タマ(tama)がダマ(dama)になる,あるいは,チリメン(Tirimen)が,ヂリメン(dirimen)になるというときには ama または irimen の部分は変わらないで,ただtがdに変わる。そういうふうに「タ」または「チ」の子音字だけが一定の規則の下に変化するということ,つまり「タ」なら「タ」というものがいつでもまとまって動いて居るものではなくて,それは子音が母音と離れて別々に動いて居るということでありますから,言い換えれば仮名で表すような音節が最終の単位でなくて,母音,子音別々のものが単位であるのでありますから,すなわち日本語はローマ字式の国語だということを示して居るものであるといって,ちっとも差し支えないと思うのであります。日本語はローマ字式のものだということは,我々ローマ字を使おうと思う音には,心強く思う第一の根拠であるとご承知を願いたいのであります。

  それからもう一つ反切の方は,ご承知の通り,ローマ字綴り方それ自身といってもよろしい。韻と申しまして,子音と母音とが分かれずにくっつくという具合に,ローマ字の綴り方そのものであるといってもよい。日本語というものはそういう具合にローマ字,しかも日本式ローマ字で取り扱うことが本当に適当しており,かつ簡単に規則正しく現される言葉であるということを,ご承知を願いたいのであります。これが日本式の日本式たるゆえんという部分でございます。

 

 その次に参りまして(2ノB)《日本式綴りの音声的考察》ということを掲げておきました。

  ただいま申した通り,日本語においていろいろな音が使われる。現在については日本式が示す通り,日本式が最もよく規則正しさを現して居ることは,疑う余地がないと考えます。言葉の中に使われて居る有様,運転されて居る有様,これは日本式が最も規則よく,規則正しく現されて居る。しかし音声的には日本式は規則正しくないというように,今まで多く見られて居ると考えます。それでその点を一つ考えてみたいと思うのであります。

  一体日本人が日本語を使って居るということは,一種の自然現象である。何か約束に従ってこうやろうと言ってやるのではない。日本人が日本語をそういうふうにやろうと言って使って居るのではありませぬから,自然現象である。我々は理学者でありますから,それについて申し上げてもよろしいと思いますが,自然現象というものはある規則正しさをもって起こるものである。ある法則があるものである。

  そういう法則というものがない,規則正しさがないというと,理学の発達もなく,我々の立場も成り立たないので,自然現象というものにはある法則が行われて居るということは,私ども理学者の信じて疑わないところである。かつまたその作用等がご承知の通りいろいろな方面にも現れて,誰も疑う人がないようなことであると思います。そこで,日本人が日本語を使うというのは,一つの自然現象であると存じます。

  そうすると,我々理学者として考えますと,それに関係して居るいろいろな現れ,諸々の現れ,日本人が日本語を使うについてのいろいろな事柄の間には,相互に関係があるということが理解される。そこで日本語における音の使いみちにおいて,日本式が示す通りの規則正しさがあるということを認めます以上,それからまた日本語の運用の仕方がローマ字式であるということを考えます以上,どうしてもそこに音声の上にも,それと併行した規則正しさがあるはずだと,私ども理学者の考え方から考えられるのであります。そういう考えを持ちまして,日本語の音声的の点をいささかただ概括的に今申したような方面から見ますと,これは外から攻めるような考え方でありますけれども,しかしそういうふうに考えますと,そこには音声の上においても,音の使いみちにおけると同様なものがあるだろう。

 

  ところが今普通に使われて居る音声学的の見解の由来を考えると,ヘボン式で例えば「タ」行のところの「t」は「タ」の子音というふうに普通認められて居るようでありますが,そういう音声的の見解を考えてみますと,各々日本音に最も近い英語音を取って,それについて子音を取ってきたというのが,これは歴史的の由来から考えて,当たって居ると思います。これは多分間違いがなかろうと思います。旧ローマ字会の説明にも,子音は英語の音を取るというようなことを書いて居るのでも,その点には間違いがないと思います。

  しかるに近年日本音そのもの,すなわち英語における日本語に近い音でなしに,日本音そのものを直接に音声学的に研究する,あるいはそれをどういうふうに調べる,どういうふうに見なければならぬということが,いろいろ人によって書き分けられるようでありますが,それを見ますと,普通に使われて居る,ただいま申しました英語側から来て居る子音の使い方とだいぶ違うことを言われ,また研究の結果,これとは違うことを言っておられるのが,いろいろあるように見受けます。今申した由来の方から考え,前申した2つのこと,日本語が自然現象である以上,概括的の考え方からしましても,これは当然のことで,日本音の研究というものは,まだまだ研究の余地が十分にあるものと私は考えるのであります。

  「タ」行の音について申しましても,我々が「タ」という音のはじめの部分「t」の発音の仕方は,英語における「タ」の発音のときと仕方がだいぶ違うように,私ども素人でも思われます。英語の「タ」ならば,「i」というところに持っていくならば,「ティ」というのが自然であいうところに持っていくと,――日本語ではiというときには yi というふうな音になると,私どもの素人の耳には聞えますので――その i へ持っていくと「ティ」というのに行くのは無理で,「チ」という,またはそれに近い音に行く方が自然のように思います。

 こういう具合に「t」というものの音そのものが,英語の「t」と違う。日本のtは特別だ。母音も英語と違う,日本語は特別だ。そういうことを考えますと,日本語のtとは「チ」に相当近い音になる。「ツ」でも同様なことが言えると思います。これは十分調べてあるわけでもなし,私は音声専門家でもありませぬから,ただ一般的に理学者たる判断力によって考えてみまして,そういうことが言われそうに考えるのであります。

  そうして先ほど申しました,概括的にどうしてもこれは関係のあるはずだという方と合わせて考えると,これから先の研究というものは,今まで普通に用いられておったような,英語における近似音から判断して居るようなものとはだいぶ違う。これから後は多分――これは私の想像に過ぎませぬから,お笑い草だけかも知れませぬが――どんな見方に従えば,日本式の示す通りの規則正しさがあることになるか,日本式が示すような使い方によって来る規則正しさを,どんなふうにして見ればよいか,(それによったところの規則正しさがあるに違いない)が国語音声学の研究の主なるものとなるだろう。こういうふうに見れば,そういうものが出て来そうに思うのであります。

  これは私の専門でありませぬから,そうなるに相違ないとは申し上げませぬ。ただ私の想像を申し上げるのでありますが,理学的の考え方から想像して考えますと,そうなるはずだということを申し上げるに過ぎませぬ。同時にまた,日本語の音声に関係するところの研究というものは,いまだなかなかすべての人の一致するようなところに行っておらない,日本音そのものの研究はなかなか行き届いておらないということには,多分間違いがなかろうと思います。それだけのことはお認め願えるだろうと思います。

 

 その次に参りまして,(2ノC)《五十音図の価値》ということを出しておきました。国語音が規則正しく行って居る,規則正しいもんだと言っても,はじめの使いみちのほうばかりなら全く大違いで,音のほうもある。私の申したようにいくらかの値打ちがあるとすれば,音のほうにおいてもある。

  こう言って大した間違いがなかろうと思いますが,日本式綴り方がいろいろな方面において,国語音を規則正しく現して居るということが言えるわけです。それと同じ規則正しさを示すような具合に音節を並べたものが,すなわち五十音である。日本式に音節を並べたものが五十音である。

  それで,先ほど読み方を教えるためにという意味で書きました,あれが同時に五十音図を示すということにもなるのでありますが,この五十音図なるものは日本式ローマ字を使う場合には,まるでいらないものであります。先のように読み方を教えるような場合には,小学校でもずいぶん使うだろうと思いますが,一般の人の使い方としては,五十音図というものはローマ字を教えるときにはいらない。

  書くときには規則正しく書いていくことができる。ヘボン式のほうの方のパンフレットに,五十音図が将来値打ちがなくなってしまうようにすれば,日本式綴り方は根拠がなくなるだろうというようなことをお書きになるのは反対でありまして,日本式綴り方ならば,なくとも差し支えない。仮名を使うとすれば,そういう規則正しさは仮名自身にはありませぬから,五十音図を書いておく必要がある。どういうような具合に仮名が並んでおるもんだということを見ておく必要があるということは,これは申し上げるまでもないと存じます。

  そうしてその五十音図なるものは,日本式ならば規則正しく書くだけで,別に書かなくても分かって居るような日本式ローマ字が規則正しいと同様に,日本語にとっては規則正しいものであって,現在の仮名の方では五十音は要るのでありまして,国語の教授等に一般に使われて居ることは,皆さん一般にご承知の通りと思います。

 

 もう一つここに付加えておきましたことをご注意を願いたい。現に普通に仮名を使っておりますから,五十音図が必要になって居る。その今まで使われて居るその五十音図を見て,我々が音から日本語の使われるところの関係をたどってきて居るわけであります。そういう音の関係というものは,国民の音声の意識に……ああいうふうな具合になって居るということは,日本人全体の意識して居るところであるということは,これは事実として認めざるを得ないことと考えます。

  とにかく一般に使われており,文法の説明に使われておって,そういうものを知って居る。ですから日本語の音声の関係は,ああいうふうになって居るということは,国民一般に意識して居るものだということは,認めざるを得ないわけであります。これは先ほど申したように,日本式は間違って居る,規則正しくないものだという論が,音からありますけれども,しかし今まで申し上げたような使いみちの方から考えて,音声の方についても,たくさん議論があるということを考えますと,これはなかなかそういうふうに急に否定さるべきものでない。音からいろいろ人がそれを見て判断して居るということは,これは認めざるを得ないことであります。

 

 その次に参りまして(2ノD)《標準式綴り方の批評》ということを申し上げます。「ひろめ会」で近ごろお出しになりました音節の表というのがございます。これは皆さんのご承知のものでございましょうが,ここに書いて参りました。これについて,2つの批評を加えてみたいと考えます。

  第一には「キャ」「キュ」「キョ」というような音と,「シャ」「シュ」「ショ」,「ニャ」「ニュ」「ニョ」と「チャ」「チュ」「チョ」というような種類とは,全く違う取り扱いを受けて,一方はこういうふうになり,一方はこういうふうに並んでおる。これは日本語の音を現す表(表だと言えば,ある意味の規則正しさを現すところのものであるに相違ないと思いますが)そういうものに適当なるものであるかということであります。

 これは甚だ怪しいと思うのです。これは先ほどの反切の表と関連してお考えなさるとよいと思います。「シャ」「シュ」,「チャ」「チュ」という漢語の字音というものは,先ほどお目にかけましたように,漢語の字引の反切でもって説明して,(あるいは定義して居るといってもよろしい)定義して居るものでありますから,先刻の秒が,亡沼の切というときに,秒と沼とは同じ韻だということを申しましたが,そのほかのものも皆同様でありまして,小が先了の切だというときにはその小と了とが同じ韻になるというのであり,その次には貯というのが丁呂の切で,呂と貯とが同じ韻である。それから蝶は徒協の切で,蝶と協とが同じ韻だという類がたくさんあります,同じ韻というのは先ほど他の例でもご覧になったように,語尾のところが同じ音になるということと同じように理解してよいものなのであります。

  ところが「ショ」と「チョ」に限って,標準式の方はここ(左側)に入って,ここ(右側)に入らない(図を示す)。これは日本語のこういう音の規則正しさ,あるいはそういう音の韻の関係――韻というのは詩を作る人等が重きに見るもののようでありまして,普通の我々が読む漢音と比べるとだいぶやかましく行って居るようでありますけれども――今申した韻が同じという点だけは簡単ですから,我々が普通に使って居る音についても何にもむずかしいわけでなく,間違っていないと思います。それがこういう関係に行って居る。要はその規則正しく行っていないということは,確かに標準式が日本語の書き方として適切でないということの一つの明らかな例であると考えます。

  何故そんなことになったかというと,これはどなたでもお考えになります通り「チュ」や「チョ」は英語にこういうふうな綴り方がある。日本語の音に近い音を現すものが英語にある。「キョ」とか「キャ」これはないから,こっちの方(表の右側)に別扱いになって居る。それだけのことであると思います。これにも間違いがないと思います。英語にあるからこっち(左側)に入り,英語にないからこっち(右側)にあるというだけの原因から,こういうふうに違う取り扱い方を受けるようになって居るものに相違ないということは,これはどなたもお認めになって居ると思います。

〔ここに標準式(ヘボン式)ローマ字の表が入る。〕 

 それから次に標準式の音節一覧表には,日本語における音の使用上の規則正しさを示すのに,斜線を作って,「タ」行,「チャ」行「ツァ」行を結び付けて居る。こういう斜線がここに入っております。

  「カキクケコ」こういうふうに斜線をここに付けてあるということは,五十音図における音の関係を見やすくしたという目的になって居るのでありますけれども,その五十音図なるものが先ほどから申しております通り,日本語における音の使いみちの規則正しさをこれも簡単に示して居るものでありますから,「タチツテト」というもののこの関係は日本語を使う関係においては,いつまでも着いてまわる。五十音が今あるからこんなものを書くが,五十音図を忘れてしまったら,こんなものはいらない。

  而〔しこう〕して五十音がなくなっても日本語が変わらない以上は,「タチツテト」が「カキクケコ」と同じような使いみちになって居るということは変わりがありませぬから,斜線はそういう意味において五十音が今あるからというわけでなく,本当の使われ方が,こういうふうになって居るからという点から言って,いつまでも音の使われ方のほうから見ても,斜線を持っておらなければならないということになるので,こういうことはローマ字を使って国語を書いて居るどこの国の文法書を見てもないようです。

  ローマ字で書くとしたら,こういうふうにこれが使いみちのところでいつでも関係して居るということは,大抵の国語の文法書等には書いてないところであって,これはよほど珍しいと言えば珍しい,変だと言えば変だということになると思います。

  日本式の方であると,そんなものはない。表というものはいらないのですから……ヘボン式の方では五十音は値打ちがあるものでないということを仰るにかかわらず,標準式はいつまでも表でもって行かなければならぬという,いささか皮肉な運命のようでありますが,事実はそうであるようであります。翻って考えますと,これはローマ字をもって現す日本語としては適切でない。そういう結論を下して差し支えないことと考えるのであります。

 

 次に申しますことは,次の「d」に書いてあります「ナ」行の「ニ」。「ナ」行の「ニ」というものは誰でもお認めになり,我々のように素人でも昔から言っておったのでありますが,「ナ」行の「ニ」音というものは音声的の系統は大変違う。「チ」と同じ程度に違うということはこの間中山さんにお目にかかったときにも,それはそうだと仰いましたが,これは誰も認めることと思います。

  「ニ」は「チ」と同程度に違うのでありまして,こっちの方は ta に対して chi という具合に違う字を使うのに,こっちの方は na に対して ni という具合に,このままにしておくということは,片手落ちにしておくということはおかしいと思います。日本語の「ニ」という音は英語にない,それだけの理由でこうなって居るのである。英語にもし「ヌィ」でなしに,日本語の「ニ」と同じものがあったならば,「ナ」行もやはり「タ」行と同じように作って居るだろうと思います。

  またグンデルトさん等も,「ハ・ヒ」の「ヒ」という Hi は無声的の音でなく,Ich-ch というふうなものだと言っております。場合によってそのままのものもあるように思います。公平に言って「ヒ」には両方の音があるだろうと思います。これも区別して書くべきかも知れませぬ。これを実際区別しておらないのは,さっきと同じ流儀でこれも英語にそういう字がないからと考えられます。こういう訳で,いろいろな点で標準式が日本語の音の関係に対して,あまり適切ならざる形をして居るということは,私は認めなければならぬのです。

 

  こうなる理由はどこにあるかと言えば,要するに英語における似寄りの音の現しかたを取ったから,こういうことになった。そのほかに何らの意義もないと思います。実際旧ローマ字会がこの綴り方を決めたときの子音は,英語の子音を取るということを明らかに書いてあるというところからも,それは明らかに認められるわけであります。

この旧ローマ字会のときに,子音に英語の子音を取ったということとその取り方と,それからチェンバレンの先刻の謄写版にいたしました第1ページのところをご覧になると,ここに「ヘーバン・システム」というものは今までローマ字を使っていないところの未開の国の言葉に対する書き方だと言って居る。世界には,まだローマ字を使わないいろいろ開けない国がある。アフリカ,ニューギニア,そのほかいろいろある。そういうところの言葉を英語音で書くのと同じシステムにヘボン式なるものがなって居るということをチェンバレンのこれに書いてある。ヘボン式というものはそういうものに一致して居る書き方だということを,チェンバレン自身が書いて居る。

  故につまりヘボン式というものは,チェンバレンが今言って居る改良後のヘボン式,標準式そのものがそういうものだということは,チェンバレンが言って居るのであります。これはつまり開けない国の音を写すのに,普通に使われて居る式と一致して居ると,こう言って居るのであります。そのときの態度は,これは全くその国における昔からの研究というようなものは全く度外視して,そうして外国人が自分の耳に聞いてその音を写すという態度で来て居る書き方,ジオロジカル・ランゲージ〔geological language〕の書き方は,そういう書き方と思って間違いない。そういう書き方と同じだ。ですからつまりヘボン式というものは,むき出しに申しますと,日本国を野蛮国と見て,その音を自分流に書いた,そういう書き方である。あるいはそれと同じだ。そういうことを,チェンバレンが言って居る。そういう綴り方であるということを認めなければならない。

 明治18年ごろの日本というものは,一体西洋の文物を採り入れるに非常に忙しくしておった時であって,日本の昔のものはすべて捨てて顧みない。昔の物にいっこう値打ちがないと考えておった時代でありますから,そういう時代に,あたかも問題がローマ字ということである。西洋の字を使って言葉を書くというのですから,ローマ字でなく,外のものでさえも,日本の古いものは値打ちがないとして顧みられなかった時代に,あたかもローマ字の問題において,そういう態度を,チェンバレン自身が執ったばかりでない,旧ローマ字会の取調委員の方々も執られたということも,これはいっこう責めるべきことでない。その時代がそういう時代で,その産物もそういう意味のものであるということを思わなければならぬと思うのです。

 

  もっともそれはその時代においては当然であって,それらの委員を責めることはできないというのみであって,今でもそれが適当であるということはできない。その時代においても,見るところのあった田中館さんのごときは,それはいかぬということを言われた方ですが,多くの人はそれがよいということを言われた。しかし今の自覚した日本人から見れば,そういうものは到底容〔い〕れることはできないということを言わなければならぬと思います。それで旧ローマ字会の取調委員の仕事ということを書いておきましたが,これは先ほど申したように,元のへボン式の不適当なるところを改めたということは大事な点で,これは値打ちがあります。

  しかしそのほかの形式において,先刻も申しましたが,外国人が自分等の耳に聞く通りの開けない国の音を書くと同じような態度で書いた,そういう態度を改めて日本人のローマ字論者が唱えたことは,もちろん調査の形式を備えるだけの意味はあったに違いない。ですから旧ローマ字取調委員というものは,形式においては外国人のただ野蛮国の音を写すのとは違うし,日本人のローマ字で国語を書こうということを相談して決めたものであるという,そういう形式は認めなければならぬ。

  しかしその内容においては,今申したような社会の状態でもって,それの出てきたところのいろいろな事実上のことを調べてみますと,これは全く英語本位,英語における似寄りのものを現すために使われたところの綴り方,それ以外の意義は持ち得ないのでありまして,ただ形式上これは外国人が決めたのではない。日本人が決めたのであると言っても,それはただ形式上のことであって,内容においてはやはり英語式であることは免れないのであります。これだけのことが標準式綴り方に対する私の気持ちであります。

 

 次に(二のE)《正字法の理学的方針》を申し述べようと思います。

  正字法(オルトグラフィ〔orthography〕)というものの目的は何にあるかと申しますと,国語をもって書き現すに,どういう意味のことを書き現すかということが目的であるに相違ない。而してそれを口で言うときにどういう音になるかということによって,その音を現すことは手段になっておりますので,音を現すということは手段に過ぎませぬから,それを最終の目的にすべきでない。

  手段でありますからして,その手段を使う上において差し支えを生ずるようなものはいけない。差し支えを生じないような程度にあるならば,差し支えを生じないだけの考慮を払うならばそれでよい。それ以上は音というものを最も重いものとすべきではなくて,本来の目的たる思想を書き現すということを重に取るべきである。これは目的から見て当然な判断であると考えます。

  この意味において正字法の最も理学的な,つまり目的に適った規則正しさ,つまり理学的というものは最も規則正しくしたシステム,そういうのが理学的のシステム,これは先刻からいろいろ申し上げたことからご諒解〔了解〕のことと考えます。正字法というものの目的から見て,音一点張りということは至当でない。音は差し支えを生じないだけの考慮を払えばよい。

  本来最終の目的は思想を現すところにあるから,意味の方に重きを置いて,そうして最も都合のよい書き方をするのが至当である。理学的の仕組みである。一番「サイエンティフィック」〔scientific(科学的な)〕な「オルトグラフィ」というものでなければならぬ。その意味において,日本式ローマ字綴り方が理学的であると言える。

 

  昔の音声学者は音が手段になって居るという点を重く見たから,昔の音が一字一音ということになって居るらしく聞いて居るのであります。私はそういうはずのものでない。ただいまの一字一音主義,すなわち音が違えば必ず字が違はなければならぬということからして,昔の音声学者は日本式に共鳴できないということを申されたことがあるのでありまでが,しかし段々音声学者の方でも進歩しまして,近年行われてきておりますところの意見は,そういうふうではないように思います。

  この音について言語学会のご発表のこともありまして,やはり昔の通り一字一音ということを重く見られる学者もお在りになるということを聞いておりますが,そうでない学者も近年出てきて居るということも聞いて居るのであります。近年出て居る意見は,ただいま申しましたように,音が少しでも違えば違う字を使わなければならぬということでなしに,もっとゆとりを付けて,音のほうではある範囲の自由さを認めることになって居る。その意味において日本式綴り方を是認して居る音声学者もいろいろあるように聞いております。外国の学者等にもずいぶんたくさんあるようであります。

  この点について小原喜三郎という人が「ひろめ会」のパンフレットに書いておりますものに,《外国の学者が日本式に賛成すると言ってもいっこう差し支えない。外国の学者が日本人ほど日本語が分かるわけでないから,我々がいけないということを向こうがよいというのはいっこう値打ちがない》ということを,(文句が違うかも知れませぬが)そういうふうなことを書いておりますが,しかし問題は日本の音を正しく外国の学者が知って居るかどうかということでなしに,一字一音という主義が,正字法の主義として最も大事なものであるかどうかということが大事な点でありまして,それには日本の音を正しく聞き取っておる,おらないということは問題でない。 

  とにかく音の一字一音という主義と,それと変わった意見を待って居るそれらの人は,進歩したというものでありましょうが,進歩した人から見て,それは守って居る必要のない方針だということであります。鎌田さんのこの前のご演説にも,一字一音に適うということを最も重く見られて居るようでありますけれども,あれもただいま申したようなわけで,古い人の説には合って居ると思われますが,新しい説には合わない。一字一音主義には必ずしも賛成しない音声学者がたくさんあるということを,皆さんお認めを願いたいのであります。

 

 その次にもう一つ《理学的方針》というところに付け加えておきました。これは妙な言い現し方でありますが,意図する発音と事実上の発音,これは実は昔からそれと同じようなことをいろいろな形において言っておったのでありますけれども,こういうふうな言い現し方にしたのは,実はこのごろグンデルトさんの書いた書物を見て,なるほど現し方が大変適切だと思ったもんですから,それでこういうふうな書き現し方をいたしました。内容は元からいっておったことであります。

  正字法というものは,事実上の発音を書くという方針にしておっては安定でない。正字法というものは,国語を書くことが主たる動機でありますから,安定がなくては目的に適わない。安定ということが必要である。意図する……意図するということは英語でいうインテンド〔intend〕,こういう音を……言おうとして居る,こういう音を書く,そういうときにおいて正字法がはじめて安定する。

  ここに書いております,金,金貨,あるいは金屏風の「ン」の音は音としてはいろいろ違うのでありますけれども,我々《金銀》の《金》ということを考えて居る。それを言おうとして居ることは同じでありまして,それを言おうとする発音は同じだ。それと同じように書くということは正字法を安定にするゆえんだというふうに……あるいは例が適切でないかも知れませぬ。

  あるいはこのほかなお適切かと思いますのは,地方によっていろいろ発音が違う。例えば奥州の人と中国の人,九州の人等はいろいろ音が違う。同じ「ヒ」なら「ヒ」ということでもいろいろ音が違います。しかし各々の人が同じ一つの音を言おうとして居るということは確かである。しかしその言おうとして居るということは,すこぶるぼんやりして,厳重に論ずるということはなかなかむずかしいのです。どこに言おうとして居る物の実物があるかというとむずかしい。議論をすれば,議論の余地があると思いますが,とにかく我々日本国民がやってきた,今日まで教わってきた「ヒ」なら「ヒ」という「ヒ」の仮名を借りて,「ヒ」という仮名の現す音を言おうとして居る。

  これが大事な点だと思いますが,言おうとして居る音が一つである。実際現す音は地方によってそれぞれ違うけれども,とにかく言おうとして居る音は一つである。その言おうとして居る音を書くのである。そういう意味のものを書くというのが正字法ではよい。それを音が別々だから,一字一音で別々に書いたら正字法として悪いものになる。そこには標準語・標準音ということが出てくるでしょうが,それは別問題として,とにかく思うものをそのまま書くというのには,こういうことが言えると思います。

 

  それで「チ」「ツ」というようなものは,ここに書きました自然に意図された ti tu,自然に意図されたということはむずかしいのですが,「カキクケコ」「タチツテト」が出てくる。我々が意識しませぬけれども,しかし「カキクケコ」普通の語尾をかえる。そういうような具合と同じ具合に,「ツ」なら「ツ」という字を運転して「タチツテト」「カキクケコ」と行ける。同じように意識をなさぬで「タチツ」ということが出てくる。そうすると自然に意識はしませぬけれども,自然に意図をしたところの ti tu であるということが言えると思います。そういう意味において「チ・ツ」を ti tu と書くのが至当と言えるだろうと思うのであります。

  これだけが正字法の理学的方針ということについて申し上げようと思って考えたことでございます。だいぶ長くなりまして皆さんご退屈と思いますけれども,大事な点が残っておりますから,もう少しご辛抱を願いたいと思います。

 

 第三に《ローマ字綴り方と国家社会との関係》という大きな標題を出しました。

  第一(3のA)「ローマ字運動の歴史から」ということを書きました。

  旧ローマ字会は明治17,8年からはじまりまして,ときどき話に出ますところのいろいろ論判〔ろんぱん〕を経て,ヘボン式を採用いたしましたが,それの結果は不良に陥って,7,8年間は雑誌が出ておりましたが,実際勢力のあったのは,そんなに長くなかったのであります。その結果は潰〔つぶ〕れてしまった。

  ローマ字論者として最も古い先覚者の南部義壽〔よしかず〕氏,あの人の口から直接聞いたところによると,旧ローマ字会の評議会にヘボン式の代わりに日本式が出ておったならば,これほどローマ字運動というものはさびれなかったということを,私は直接に聞きましたが,これはいろいろ社会の状態とかいろいろな事情がそこにありますから,そう簡単には申されませぬが,先覚者がそういうふうに考えられ,現在のヘボン式を使ったということが旧ローマ字会の早くなくなったことの理由であったかも知れないくらいには言えるのであります。

  とにかく勢力は間もなくなくなった。またローマ字「ひろめ会」ははじめはすべての綴り方を皆引っくるめるという方針で,私どもも会員になっておったのでありますが,日本式を放逐するという方針を取ってから,結果が不振に陥ったということは,私どもは「ひろめ会」の一部の有志に直接聞いておりませぬけれども,この間桜井さんも言われたのでありますから,こう言って差し支えないだろうと考えます。とにかくたいして盛んではないような状態に伺われます。この旧ローマ字会がヘボン式を採用したから結果が不良である。

 

  桜井さんがこの前に仰った,桜井さんの友人に書かれた英文の手紙というものがパンフレットに出ておりますが,あれには,日本式を固執する人間がおったがために,うまく行かなかったということが書かれております。そういうふうにヘボン式反対の人がおったがために,ローマ字運動がうまく行かない,行かなかったということは,そういう方から見ればあるいは全くそう信じて居るかも知れないと思いますが,しかし日本式主張者が社会にあるということは,それ自身一つの社会現象である。これは間違いがないと思います。

  それで学問上からいろいろ日本式がいけないということは,それは差し支えありませぬが,日本式を主張する人がいたから,あるいは誰それが日本式を主張したかろうまく行かない,あたかもその人に責めがあるがごとくいうのは間違って居ると思います。

  とにかくそういう主張者が社会にあるということは,社会の一つの現象であって,それはよいとか悪いとかと言うべき筋のものでないと思うのです。とにかく在るという事実は絶対的の権威あるものとして,それに応じて適当な方法を執らなければ,ローマ字運動でも何でも成功するはずはないと思う。なければよいと思うのは勝手ですけれども,在るという事実は仕方がない。

  在るという事実をそこに見ておりながら,これがあるからいけないといって,在るということを認めて適当な方法をしないということは,これは間違って居ると思う。桜井さんのお書きになった手紙等がそういうふうな具合になって居るのは,甚だ遺憾であります。日本式主張者があるということは事実あるので,これはよいも悪いもない。そういう事実を見て適当な方針を執っていかなければならぬ訳のものだと考えるのであります。

  これは桜井さんが先ほどお留守になりましたことは残念でございますが,桜井さんはことに理学者であられますから,こういう日本式主張者があるのは一つの事実,それに対してよいの悪いの論評を下すべき筋のものでないということは,桜井さんによくお聴き取りを願いたかったのでありますが,お留守で残念であります。

  しかもヘボン式が中等学校の英語関係で絶大の順境にあるにかかわらず,これによって同語を書こうという「ひろめ会」の運動が発展しない。これに反して日本式は非常に不利益な関係にあるにかかわらず,著しく発展してきたということは,これはよくお考えを願いたい点であります。ローマ字運動の歴史の上で疑いのない事実であると考えますから,十分にお考えに入れて,皆さんのご賛成を願いたいのであります。

 

 その次に(3ノB)《小学校にローマ字を入れることについて》,ということであります。

  会長閣下が第1回のこの席でもって,この評議会の評議が決まれば,それによって小学校にローマ字を入れるつもりだということは,これは非常に我々の喜んで望んでおる点であります。それには《理論上から》と《実行上から》と,2つの見方がありまして,理論上から申しまして小学校でローマ字を教えることは,外国語に関係なく,日本語それ自身を書くことの一つの方法,英語にも関係せず,フランス語にも関係せず,ただ日本語を書くという方法を教えることになる。そういうことをお考えを願いたい。これは大切な点であります。

  従来日本は国字問題には大いに悩んでおるのでありまして,この問題はいつかは解決をしなければならぬのでありますが,今我々が取り扱って居ることは,それの解決の方法にもなる。もっともこれは人によってずいぶん意見が違うと思います。皆さんの中でもお考えが一様でないと思いますが,とにかく発展次第では,私どもの考えでは,ローマ字が小学校で皆が覚えると便利ですから,盛んに使われるようになるに相違ない。従って国民の多くのものに使われるだろうということを信じておりますが,よしそこまでにならなくとも,とにかく行い得るものであるということをお考え願いたいのであります。

  このたび「ひろめ会」の方からパンフレットをお送りになりまして,美濃部〔達吉〕博士のご意見をお載せになっておりますが,ローマ字というものは国字になる気遣いがない。まっすぐに書くと議論を吹っかけられるから,美濃部氏の文章にはそれが婉曲に書いてあります。国字になるような気遣いのないもんだというようなふうで,軽く見ております。そういう軽いものなら今のままでよいじゃないかというようなふうに言っておられる。

  我々はこの点を重く見ようとして居る。第1回における会長閣下のご演説にも,これは重大なる国家問題であるからということを言っておられます。この調査会においては,会長閣下の言われるような具合に,この問題を重大なる問題として,将来の発展次第では国字問題の解決にもなり得るもの,これは皆さんの中にはどうかと思われるかも知れませぬが,とにかく発展次第ではなり得る。そういうふうに見て,重く見るべきものとしてご討議を願いたいと思うのであります。

 こういう重大な意味のある国語の書き方を小学校で教えるのに,英語の用法による書き方にするということは,国語のためにも国家の体面の関係からも,全く道理に合わないと思います。とにかく標準式の方は,形式上日本人が40年昔,偉い人たちが集って決めたんだからと,こう仰る。これは間違いはないのですが,実質においては英語式に相違ないのですから,その実質において,英語用法であったところの書き方を,小学校で教えるローマ字に使うということは,国語のためにも我が国家のためにも,道理に合わないと考えるのであります。

  それをもう少し具体的に申し上げますと,一つの例でありますが,日本に使われるところの音の系統を正しく現すところの……正しく現すということは先ほど申したことで言えると思うのでありますが,五十音図のこの組み立てを離れて「タ」行の「タチツテト」を,こういうふうに3段に分けて取り扱うということは,そういう行き方を国語書き方の根拠にするということは,国語の語法から見て許すべからざる暴挙であると思うのです。暴挙であるというと,桜井さんのお叱りを受けるかも知れませんが,国語を正しくするという方から見て,暴挙と言うて差し支えないと思う。

「タチツテト」というものは,日本語の組み立てからいって,「カキクケコ」と同じように取り扱うべきものと考えて居る。野蛮国のようにこれを捨ててしまうならば別として,そうでなければ3行に分けて小学校で教えるということは,国語語法から見て許すべからざる暴挙であるといってよい値打ちがあると思います。

 

  これだけのことが理論上から見て,小学校で教えるローマ字は標準式ではいけないということを申したのであります。実行上から見て日本式のほうは,小学校の児童もきわめて簡単明瞭に覚えることができます。ごく雑作なく覚えます。我々何万人かの児童に教えた経験から,十分に皆さんに申し上げることができるのであります。あたかもそれが語法から見て正しいのでありますから,それで教えるのが一番よいに決まって居る。

  この標準式は「タ」行を3つに分けるという式で教えますと,何故そう分けなければならぬか,それを説明しなければならず,またこう分けると外国音「ティ」「トゥ」は「タ・テ・ト」に相当する「イ・ウ」列音でなくてはならないということを言わないと,納得ができないと思います。

  また標準式の方では,音の結び付き具合を斜線式にやっていくのが,一番やさしいと思っておられるようでありますが,それでは外国語の「ティ」「トゥ」ということを教えなければならぬことになります。それには先生が相当に「ティ」「トゥ」ができなくては困ると思います。が,そんなことは国語としていらないことである。国語には「ティ」「トゥ」ということはいらないのでありますから,教える必要はないのみならず,語法を乱すということと同じ道理で発音法を乱すことを教える,ここのところが非常に大事な点であると思います。

  日本語としては「カキクケコ」と同じような使いみちになるのが「タチツ」である。そういうふうに教えるのが日本語の正しい教え方でなければならぬ。それを英語における似寄りの音を根拠にしたような,あまり研究の行き届いておらない立場から,「タ」に対しては「ティ」でなくてはならぬ,「トゥ」でなくてはならぬということを言ったりするのは,国語発音法を乱すことを教えるものであると言うべきであると考えます。我々は全力を挙げて,小学校において日本語の国語発音を乱すことを教えるようなやり方は,是非とも防がなければならぬと思います。

  誰でも国語を擁護しようと思う人は,そういう考えを持つだろうと考えます。もし標準式を小学校で教えようという場合には,今申したような点を世間の学者が注目しましたならば,これ必ずや大騒ぎになるだろうと思います。日本式をもっていたしますれば,現在の小学校教師が,容易にローマ字を生徒に教えることができます。

  標準式ではその外に外国音「ティ」「トゥ」というような音の講習を必要といたしまして,あたかもそれの成績はそう満足に行くとは思われませぬ。小学校の教師が一般の標準から申しまして,「ティ」「トゥ」という音を生徒に対して納得の行くような具合に説明し得るような先生は,至って少ないと思われます。

 

 最後に(3ノC)「国民の気分から見て」ということを申し上げたいと考えます。

  おのれの国語を書くのに,他の国語の音の現し方によって書いて居るということは,少なくとも独立国である限り,どこにもないと思います。標準式は形式上はいろいろ申されますけれども,とにかく実質上は英語の発音の形式を土台にしてやっておられる。そういうやり方をやっておられる国は世界広しといえどもどこにもない。この間田中館先生が仰っておりましたが,トルコでローマ字を使うにしても,今までのドイツ式・フランス式を排して,トルコ式を作ったというお話でありましたが,それはどこでもそうであろうと思います。

  私どもは不案内で分かりませぬが,印度〔インド〕はどうでありますか。かしこは英国の支配を受けておりますから,英国風にやって居るのではないかと想像いたしますが,事実を存じませぬから,これ以上申し上げられませぬが,とにかく独立国である以上は,自分の国語を現すのに,よその国の発音を土台にしてやって居るということはなかろうと思う。それでもし日本政府が,国語のローマ字綴り方を,英語を根拠として居るものを国家として決めると言うならば,それは日本を独立国扱いにするものでない。欧米の植民地扱いにする。属領でなければ,少なくとも植民地扱いにすることを国家自らが認めることを意味し,これはずいぶん情ないことと思います。

 

  私どもが鉄道大臣に出した建議書に,英語を根拠とした綴り方にするのは植民地扱いにするものだということを出しました。それに対して桜井さんが,これは標準式を毒殺することを企てるもので,建議書にまでそういうふうな毒殺する文句を書いたというふうにお叱りになっておりますが,これは毒殺とか何とかというわけでない。我々の忍ぶべからざることを率直に書き現したものに過ぎない。要はヘボン式でなければならないということを自分から思い込んでおられる方はそうでないかも知れませぬが,まず普通の日本人ならば,私どもの言って居ることを認めるだろうと思います。決して特別にひどい言葉にしようとして書き現したものでない。

  欧米人等がそういう文句を見てどう思うだろう,少なくともどういっても遠慮することはないと思いますが,欧米人でもそれはもっともだと言うに決まって居るだろうと思います。どうも欧米人に対して,そういう具合に英語流をだいぶ使うようにできて居るのに,それを止めると大変機嫌を損ずるだろうという遠慮を持つ方も,ずいぶんあるやに考えますが,これは遠慮のいらぬことは,欧米人の道理の分かった方ならば,それはもっともだと言われるに相違ないと思います。

  少なくともそういう点において遠慮するならば,遠慮するといって却って笑われるくらいのことになりはしないかと思います。今日もロンドンから,ヘボン式を保存するようにしてくれという請願が来たということでありますが,保存するということは向こうには都合がよいかも知れませぬが,我々の国語の問題を解決するという大きな問題から,その不可なるゆえんを説明したならば,それはもっともだと言うに決まって居るだろうと思います。

 

  次に日本国民が世界の競争場裡〔り〕において,精神的に張り切った状態にあることが必要である。自分の語を書くのに,他の国語を基にした書き方を使うということは,精神振興に甚大なる影響がある。これはあまりに感情挑発的なところもないではないので,あまり方々〔ほうぼう〕で申さないことでありますけれども,実際こういうものだと私は考えております。

  何しろ自分が使うところの国語,これは最も大事なものであります。日本国民に特有な国語,それを書き現すところの書き方を,よその国の書き方を土台にしたところの型に従ってやって居るということは,そういう道具を使って働いていく上において,十分緊張した気持にはなりにくい。緊張した気持を持つためには,甚だ都合の悪いところがあるということは,考えられると思うのであります。

  桜井さんはこの前のお話の席において,英語が大変多く使われて居る。太平洋および極東においては,英語が非常に普遍性をもって居る,また日本では英語が最も多く使われており,教えられて居る。ですから英語の活用を根拠にした綴り方が,都合よく便利である。そういうように言われたようでありますが,都合,便利がよいということも問題次第,自分の大事にするところの国語を書く書き方というものが,いくらかの便利を感ずるというようなことでできるものでないと考えます。

  いわんやその便利さというものは甚だ怪しいことであって,我々今まで研究し,また聞き及んだところの点から見ますと,むしろ日本式を使った方が我々の太平洋・極東における発展,将来あるいは英語を習う上において,あるいは外国人と交際の上に,いろいろな点において却って便利であり,利益であるということを考えられる十分な理由があるのであります。

  とにかく桜井さんの言われたことは,前に申しました重大なる点を軽く見られて居るということが一方にあるから,そういうふうな議論をなさると考えるのであります。一方の点を重大に考えますというと,到底そういうふうなことを言って居るわけに行かぬのです。

 

  こういう訳からして,3通りお話をいたしましたが,そういう点から考えまして,標準式は国民の気分に合わない,気分に合わないといってもそれに気付かない人,これは非常にたくさんある。今中学校でローマ字を教わって居るような人は,英語の一部分のように習っておりますから,それが国語にもなるというようなそんなことは一向考えておりませぬ。そういう人はヘボン式を何とも思わずに使っております。

そういう人はたくさんおります。そういう人は中等学校の生徒,それでありますから,この間桜井さんの仰った通り,数はおびただしい人でありますが,それは皆気の付かない人で,標準式は気分に合わないという結論に対して,反対の結論を与えるものでないと思います。気付かない,強いてそれを軽視しようとする人は別として(先刻申し述べました美濃部博士のごときは,強いてそれを軽視しようとして標準式でよいというのでありましょうが),日本式は以上の諸点において適当であるのみならず,それが国語の性質にも合い,また国語音声の意識に一致して完全に国民の気分に合っております。

  これは現在ローマ字を日常のものとして使って居るほどの人は……中学校の生徒等は,日常の書き物に使って居ると言えない。――臨時に英語の中に日本の地名,人名を入れる,あるいは日本語から英語を引くために使う和英辞書を引くときに使うのみである。そうでなしに,日常の書き物,平常の手紙に使うとか,何でもやって居るという人は,ほとんど全部と言うては語弊がありますが,大部分日本式使用者である。

  我々の会の本部においでになりますと,どなたでもよく分かると思いますが,次から次へと往復の手紙をローマ字で書いて居る。ほかのものもありますが,普通の用向きを皆ローマ字でやっております。ヘボン式の側でも無論そういうご熱心な方がおいでになるに相違ないと思いますが,しかし大体においてヘボン式を使われるお方のほうは,臨時的の必要な時にちょいちょい使うくらいな人,まずローマ字でもって長い文章でも書こうという方は,この席でも多分少ないことであろうと考えます。日本式の方では,ローマ字ばかりで長い手紙でもどんどん書いていくという人が,割合に多いのであります。こういうことは,日本人の気分に,日本式が合って居るということを証明する大事な事実であるとして,皆さんご覧を願いたいのであります。

 

  こういう訳で,いろいろ長く申しました。これから結びというところに参りますが,本調査会の問題は,要するに英語の近似音に基づく綴り方を取るか,あるいは日本語自身の性質に基づく綴り方を取るか,このどちらかということを決するものであると考えます。それに対してどちらにするかということは,ただいまいろいろな方面から申しましたことで思い合わしていただければ結構であると思います。

ただそこに一言添えておきたいことは,桜井委員が仰せられた,《現在ローマ字を使って居る人の大多数がヘボン式を使って居る。中等学校の卒業程度の人で,ヘボン式を使っていない人はない。大抵ヘボン式を使って居る》。これは事実として我々も承認するのであります。桜井さんはそれだからローマ字綴り方は標準式に決まって居る。こう仰る。これは美濃部さんも同様である。大多数……日本式がどこにもかしこにもあるというわけでない。拾い出す程度のもので,それ以外は皆標準式でないかということを言っておられる。これもごもっともなわけである。

  しかし我々は大多数でも何でも,理屈に合わないものは改むべきものである。理屈に合わないものは改むべきものだという,そういう根本方針で働いて居るのであります。そうして,そういう方針で働いて居るところの成績も,相当に挙げて居ると考えております。この調査会ができたということも,そういう方針で我々の働いて居ることが,相当の成績を挙げて居ることの証拠であるといって,ちっとも間違いでないと考えます。今までの数年の間の事柄がその通りである。これから後どういう具合に行くかということは,今までの数年の形勢から推して知ることができる。これから後,たとい少数であっても,我々が今申したように理屈に合わないことは改めて,どんどんやっていくべきものであるということは,決して無駄にならないと考えるのであります。

  それはどういうことによるかと申しますと,ただいま申しました大多数のへボン式を使って居る人,これらの人は皆さんご承知の通り,ただ中学校等でそう教わって居るから,そうやって居る。国語としてそれが適当とか不適当とかいうことは考えていない。そういう自覚なしにやっておりますから,そういう人に日本式の話をいたしますと,いかにももっともだということを申すのであります。でありますから,そういう大多数の現在ヘボン式を使って居る人たちは,日本式の存在,それの証拠,さらにそれが気分によく合うというようなことを知って参りますというと,どしどし日本式に宗旨換えをいたします。ですから今非常にたくさんヘボン式を使って居るということは,いっこう重きをなすに足らないのであります。どんどん日本式に変わってしまう人たちでありますから,今こそ大多数であるといっても,近い将来においてその様子はずいぶん変わるということを予想しなければならぬ。

  一方日本式の方はどうかと申すと,これは国語を書くという意識をもってどんどん実行して,今日賛成して居る人たちでありますから,たとい比較的に少数の人であるにしても,そういう人は反対の方へ変わることもなし,むしろ一方人をどんどん自分の方に引き付けていく人たちでありまして,ただいま申しました現在は気が付かないでヘボン式を使って居る人でも,日本式の話を聞いて,日本式に宗旨換えをするという人たちであります。将来はそういう人の働きによって,大なる勢力を占めるようになると断言するに憚らないのであります。これは数年来の情勢によって申し上げるので,ただ空に申し上げるのではないのであります。

  このように申し上げれば,大多数がへボン式だということはいっこう重きをなす必要はない。ここで評議をなす場合においては,そういう頼みにならないものをどうだと言って評議をすることは,間違って居る。将来この社会の状態がどういうふうに変わっていくかということをお考えになって,ご評議を願わなければならぬと思うのであります。

 

  これで私のお話申し上げることは大体終わりといたしますが,なおヘボン式の美濃部博士,あるいは桜井さんは,「サ」行の「ジ」zi と「タ」行の「ヂ」di,「サ」行の「ズ」zu と「ヅ」du が,日本式が馬鹿げて居るということを仰せられるが,こういう問題は末の末である。

  根本は英語の綴り方にすべきものか,それをまず決めてかかることが必要である。それが決まって先へ行って,zi と di,zu と du というものを決めていっこう差し支えないと考えます。長いことご静聴を煩しました。

 

●会長(田中隆三君)

 今日は実は食事の用意もしてないそうでございますから,今のお話について簡単なことのご質疑があればその方をやりまして,少し時間がかかるようなことでありますならば,次回に願いたいと思います。

 

●委員(松村真一郎君)

 せっかく詳しくお話下さいましたから,少しく質問したいと思いますが,5分や10分では済みませぬが……。

 

●会長(田中隆三君)

 ではこの次にいたします。

 

●委員(松村真一郎君)

 それでは次の会には私に質問をお許し願いたいと思います。

 

●委員(神保格君)

 お願いがございます。私どもただいま伺いまして,この言葉,発音の諸問題を研究したいと志す者でございますが,ただいまお話を伺いますと,それについて疑問がたくさんございますし,ただいまおふれになった問題にもたくさんございますが,これを徹底的に研究したいと思います。それで何とぞそういう機会を与えていただきたいと思うのでございます。

  従ってもし必要がありますれば,かなり細かいことを申し,時間も長くなるということもあるかと思いますので,この総会の席上であまり細かいことをいってもどうかと思いますから,ご意見のある方があるようでございましたならば,あるいは小委員会といったようなものでもよろしいと思いますから,そういう議論をする機会を与えていただきたい。こういうお願いをいたします。

 

●会長(田中隆三君)

 承知いたしました。細かいことでも,総会で皆さんお揃いのところで隔意なくお話があった方がよかろうと思います。

 

●委員(田中館愛橘君)

 議事録に「秘」と書いておりますが,いろいろ自分の述べた意見を自然吐かなければなりませぬから,学説を吐くのに「秘」というと,ここでしゃべったら外でしゃべれないということでは……。

 

●会長(田中隆三君)

 これは先刻お話のような,いうたことと違うとか,そういうこともありますから,そのまま世間に発表してはお互いに困るので,その辺をしかるべくという意味でしょう。ご意見はどうせ今まで公然とお述べになったご意見が多かろうと思います。――どうもありがとうございました。今日はこれで閉会といたします。

(午後5時35分閉会)

 

 

 

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〔巻末添付〕田丸委員説明参照

 

1.綴り方の名前について

 

    A.これを述べる訳。

 

    B.「ヘボン式」の名前。

    (a)それの拡まった事情。

    (b)チェンバレン氏の日本口語文法書(明治21年10月発行)にある文句。

N.B. The simplicity of Dr. Hepburn's system, which practically coincides with that recommended by the Royal Geological Society for the transcription of hither-to unromanized languages, has brought about its general adoption in Japan not by Anglo-Saxons only, but by Frenchmen, Germans, and the Japanese themselves.

        

    C.「日本式」の名前。

    (a)歴史的考察。

    (b)特徴を示す名前なること。

   

    D.「旧ローマ字会式」と「標準式」。

    (a)「旧ローマ字会式」の名はこれを奉ずる人にとっては至当と言える。

    (b)我々が「ヘボン式」の名を使うゆえん。

   

 

2.綴り方の学問的評論

 

    A.日本式の日本式たるゆえん。

    (a)綴りの表。各綴りの読み方を教えるためのものとして承知されたい(仮名または五十音図がもとではない)。

(b)日本語の最も主要な特徴は,動詞の変化と音便変化。動詞の変化の中でも,最も大切なのが五段の動詞。従来国語文法で規則正しいと認められて居るものが,日本式で規則正しく表される。

〔ここで「咲く」「読む」「干す」「勝つ」の変化表あり。〕

    (c)音便変化。

         (       Sake

         (   Sirozake

         (       Sika

         (     Mezika

         (       Suki

         (   Yokozuki

         (     Syasin

         (  Irozyasin

         (       Tama

         (    Akadama

         (         Ti

         (     Hanadi

         (       Tuki

         (   Mikaduki

         (     Tyotin

         ( Gifudyotin〔Gihudyotinの誤植か?〕

    (d)日本語に使われる漢字の字音は漢字典にある反切で示される。

           加 = 古  牙  切

                k (o―g)  a

         巨 = 其  呂  切

              k (ir)  yo

         其 = 渠  之  切

              K (yos)  i

          作 = 則  洛  切

              s (okur) aku

           −−−−−−−−−

          地 = 徒  利  切

              t (or)  i

          琢 = 竹  角  切

              t (ikuk) aku

          呈 = 直  貞  切

              t (yokut) ei

          墜 = 直  類  切

              t (yokur) ui

          秒 = 亡  沼  切

              b (o^s)  yo^

          小 = 先  了  切

              s (en―r)  yo^

          貯 = 丁  呂  切

              t (ei―r)  yo

          直 = 逐  力  切

              t(iku―r)ryoku

          蝶 = 徒  協  切

              t (o―k)   yo^

(e)かく日本語の最も主要なる特徴、並びに在来認められかつ使われて居る音の関係を,最も簡単にかつ規則正しく表すことが日本式の日本式たるゆえん。

(f)上の議論には仮名も五十音も全然関係がないことに注意されたい。

(g)(b)(c) は日本語がローマ字式の国語であることを示す。(d) はローマ字綴り方そのものだと言える。

   

    B.日本式綴りの発音的考察。

(a)日本人がその言語に諸々の音を使って居ることは一種の自然現象である以上,それの諸々の現れには相互の関係があることが予期される。

(b)日本語における音の使いみちにおいて,日本式の示す通りの規則正しさがある以上,音声の上にもそれと平行した規則正しさがあるはずだと思われる。

(c)これまで普通に行われて居る音声的見解の由来を考えると,各日本音に最も近い英語音を取って,それについて子音の異同を考えていたのだというのが当たって居る。近年日本音そのものの音声的研究者には種々の説がある。研究の余地が十分にある。

(d)これからの研究は,どんな見方に従えば日本語の音声に日本式の示す通りの規則正しさがあることになるか,という見方の研究が主な点になるらしく思われる。

   

    C.五十音図の価値。

    (a)国語音を表す上における日本式綴り方の規則正しさと同じ規則正しさを示すように音節を排列したものが五十音図である。

    (b)五十音図は日本式ローマ字を使えば不用であるが,仮名を使えばきわめて必要である。

    (c)日本式ローマ字が日本語にとって規則正しいと同じ道理で,五十音図は日本語にとって規則正しい。

    (d)現に仮名を使って説明して居る国語文法は,五十音図に基づいて説明されている。

    (e)五十音図に示される諸音の関係は,国民の日本語音声の意識になって居る。

   

    D.標準式綴り方の批評。

    (a)「ひろめ会」で近ごろ出す日本音の表。

    (b)キャ・キュ・ニャ・ニュ等の音と,シャ・シュ・チャ・チュ等の音との取り扱い方を異にすること。

    (c)日本語における音の使用上の規則正しさを示すに,斜線をもってタ行・チャ行・ツァ行を連絡すること。

    (d)ナ行のニは,少なくもチと同程度に音声符号式の ni と違うのに,これを区別しないこと。ハ行のヒも同様。

    (e)標準式は要するに英語における似寄りの音の表し方を取ったことの他に意味を持たない。

    (f)旧ローマ字会の綴り方取調委員の仕事。

 

    E.正字法の理学的方針。

(a)正字法の目的は,国語をもって思想を書き表すことである。音を表すことは手段に過ぎないから,差し支えを生じないだけの顧慮を払えば十分である。この意味において,正字法の最も理学的な仕組みは日本式綴り方である。

(b)昔の音声学者の方針と近年行われて来たる意見。

(c)意図する発音と事実上の発音。正字法は意図する発音を書くことによってはじめて安定である。金,金貨,金屏風の例。チ・ツは自然に意図された ti tu である。

 

 

3.ローマ字綴り方と国家社会との関係

 

    A.ローマ字運動の歴史から。

(a)旧ローマ字会はヘボン式を採用して,結果は不良だった。ローマ字「ひろめ会」は日本式を放逐する方針をとって,結果は不振に陥った。

(b)日本式主張者が社会にあることは,それ自身一つの社会現象である。ローマ字運動不振の責めをそれに嫁〔か〕する人は,己の不明を広告するものである。

(c)ヘボン式は中等学校の英語関係で昔も今も絶大の順境にあるにかかわらず,これによって国語を書こうという「ひろめ会」の運動が発展しない。日本式はこれに反して,社会的に不利益な事情にありながら著しく発展してきた。

   

    B.小学校にローマ字を入れることについて。

    理論上から

(a)小学校でローマ字を教えることは,外国語に関係なく日本語を書く一つの方法を教えるという点が大切である。将来の発展次第では,国字問題の解決にもなり得るものである。

(b)かかる重大な意味のある国語書き方を英語用法による書き方にすることは,国語のためにも国家の体面のためにも全く道理に合わない。

(c)具体的に言えば,日本語に使われる音の系統を正しく現す五十音図式の組み立てを離れて,タ行を3つに分けるというような組み立てを国語書き方の根拠にすることは,国語語法から見て許すべからざる暴挙である。

 

   実行上から

(d)日本式は小学校の児童もきわめて簡単明瞭に覚えられる。あたかもそれが語法から見て正しいのである。

(e)標準式をタ行3行式で教えるとすれば,外国音ティ・トゥ等をタ・テ・トに相当するイ・ウ列音として教えるを要する。これは国語として不用なるのみならず,国語発音法を乱すことを教えるものである。

(f)日本式をもってすれば,現在の小学教師が容易に教えることができる。標準式では外国音の講習を要し,あたかもその成績は不満足であることは十分想像できる。

 

    C.国民の気分から見て。

(a)己の国語を書くのに,他の国語の音の表し方によって書いて居る国民はどこにもない(少なくも独立国の国民は)。

(b)国語のローマ字綴り方を英語を根拠としたものに国家として定めることは,日本を英米の植民地扱いにすることを国家自らが認めることを意味する。

(c)日本国民が世界の競争場裡で劣敗者とならないためには,精神的に張り切った状態にあることが必要である。自分の語を書くに,他の国語を基にした書き方を使うことは,この精神振興に甚大な害がある。

(d)上の諸点から標準式は国民の気分に合わない。それに気付かない人や,強いてそれを軽視しようとする人は別として。

(e)日本式綴り方は上の諸点において適当であるのみならず,それが国語の性質に合い,国民の国語音声の意識に一致して居る点から,完全に国民の気分に合っている。これはローマ字を日常の書き物に使って居るほどの人は,ほとんど皆日本式使用者であることによって最も雄弁に物語られる。

 

 

 

 本調査会の問題は,要するに英語の近似音に基づく綴り方を取るか,日本語自身の性質に基づく綴り方を取るかである。それに対する答えは,上に述べたことで十分明らかであると思う。zi と di,zu と du の問題等は末の末である。

〔ローマ字の項目符号「A」「a」などは,大文字については「A.」,小文字については「(a)」として識別しやすくした。〕