臨時ローマ字調査会議事録(第2回)

 

昭和6年1月13日午後1時40分

文部大臣官邸において開会

出席者

会 長  田中 隆三君

委 員  河田  烈君  杉山  元君  石井 英橘君  植村 茂夫君

     中川 健蔵君  篠原英太郎君  藤岡 勝二君  長屋 順耳君

     岡田 武松君  松村真一郎君  今井田清徳君  青木 周三君

     久保田敬一君  桜井 錠二君  鎌田 栄吉君  阪谷 芳郎君

     田中館愛橘君  嘉納治五郎君  田丸 卓郎君  中目   覚君

     福永 恭助君

幹事長  芝田 徹心君

幹事   森田 鋭一君  菊沢 季麿君  山崎 犀二君  保科 孝一君 

 

 

 

●会長(田中隆三君)

 これより開会いたします。都合により日程を変更いたしまして,本日は日本式と標準式とのご主張の要点を伺いたいと思うのでありますが,皆様においてご異議がなければ,左様にいたしたいと思います。

 

●委員(田中館愛橘君)

 では私から申し述べることにいたします。

 この調査会をお設けになりまして,私どもの意見を諸君の前に申し上げることは,私の光栄といたすところであります。またこの機会を得ましたことを非常に喜ぶものであります。それは我々は場合によりましては,甚だしく誤解されて居るところもありますから,これらについてもこの際申し上げておきたいと思うのであります。

 

  この前会長からもお話になりましたように,この問題はすこぶる重大なる問題でありまして,かつ各方面に広く関係あるものであります。また将来にも非常に影響のある問題でありますから,なるべくこの会議の結果を有効にすることのできるように希望いたします。

  この問題は通常の事務的の問題などとは違いまして,国民全般にわたってこれを重大視して居るのであります。仮名遣いのことについては,既にしばしば変更され,小学校にまで入れてみましても一般社会にはそれが行われておりませぬ事実があります。ローマ字もまた,かつて文部省がローマ字の調査会を設けて,その書き方を調査せしめた結果が,官報に出されましたけれども,その書き方を使うものはありませぬ。官報に出ましたほか,本員などはこれをもって書いた国語の書き物を見たことはないのであります。

 新仮名遣いについても,国語調査会が発表せられまして,これを文部省式などと言っておりますけれども,これは方々から異論が出まして,「シ」の濁音も「チ」の濁音も,世間で皆用いて居るようであります。それでありますから,これを有効にしようというのには,慎重に審議いたしまして,これならば国民の諒解〔了解〕を得るであろうというところに達しませぬければ,その効果を挙げることはできないと思います。

 お話になりましたように,大臣の職権によって教科書等に入れることができることは,お示しの通りできますが,しかしかようなることも調査の結果が合理的にいっておりませぬと,ただ一片の法令では難しいと思います。トルコのごときは武断的に法令をもって国字を改良いたしました。昨年トルコに参りまして,いわゆる国語委員につき親しくその様子を聞いてみましたところ,この国語委員は旧来同国に行われた仏〔フランス〕式・独〔ドイツ〕式・英〔語〕式等の綴り方を全廃し,ローマ字をトルコ文字としてトルコ語の音系に叶うように式を決めて小学教育に入れました。

  ところで目下国語委員はその文法を調べてみる間に,これに適するように,今少し変更したいところを見出して,これを改めようとして悩んでおる。これをヨーロッパの一部の者が見て,トルコの国字改正は失敗であると言いふらすものがあります。私の会いました委員も,結局はこれを改正する必要はあるが,大体において成功であると申しております。

また近ごろはコンスタンチノープルにおりますその道のマレー氏の論文を送って来たものを見ましても,多少の改正はしなければなるまいという点を示しております。これに鑑〔かんが〕みても一般国民の納得できるものでないならば,たとい法令をもって強制いたしましても,遂に失敗に終わるだろうと思うのであります。

 

 我が国のいわゆる標準式なるものは,いつできたか知りませぬが,もしこれが真に標準式であったならば,明治33年に文部省で取り調べて,さらにこれと違ったところの式が出て居るはずがありませぬ。官庁の権威からしましたならば,むしろかの式を標準式と言うべきかとも思うのであります。さらにまたローマ字ひろめ会ができた時代に,外国の書類などに書いてあるものを調べてみましても,このような英語によった式を,いずれもヘブロニアン・システム〔Hepburnian System〕なる名をもって書いてあります。桜井君の書かれたものをみましても,ヘブロニアン・システムという言葉が使ってあります。

  それで,ローマ字をもって国語を書くということにつきましては,いかなる式によってこれを使うかという前に,どういう事情でこれが日本に行われるようになったかということを調べ,なお一歩進みまして,そもそもローマ字はどういう文字であるかということを研究してみなければならないと思うのであります。申すまでもなく,ローマ字は表音文字であって,音を表す文字でありますが,その名称の示すごとく,ローマ人が使った文字であります。そのローマ人はこれをギリシャから取り入れ,なお学者の研究によれば,ギリシャ人はこれをフェニシア〔フェニキア〕から取り入れ,フェニシアはこれをエジプトから取り入れたというように,要するにこれは方々〔ほうぼう〕で使われた表音文字であります。

表音文字とすれば,どこの音を写すかということが問題であります。それでギリシャからラテン語に取り入れられた時に多少の変化を受け,今日我々の見るごとくに,ローマ字の形やその発音価の大体の規則を作り上げたのであると思うのであります。しかしてこの文字がローマ帝国の発展とともに,他のヨーロッパの国にも広がりまして,他の国の言葉も,これで書くといたしますれば,ローマ人の語にない音をこれで表すためには,ヂフソング〔diphthong(二重母音)〕,ダイクラフ〔digraph(二重字・連字)〕などいろいろの工夫をいたしまして, eu oe やあるいは ch sh ch tch 等を使うというように,合成音表を作ったことは,あたかも我々が仮名で拗音を書くごとき形勢であります。

 仮にこれを色に譬〔たと〕えれば,三色版の三原色を調合して,ある一種の色を作り出すと同様であります。この例によって推論してみますれば,文字を次々に並べて書く代わりに,これを一緒に重ねて書かなければなりませぬ。しかしそれでは混同して見えなくなるから,並べて書くのであります。かくして少しづつなまりの差を付け加えていきますと,段々混雑してきます。その甚しい例になれば,ドイツ大使の名前ドクトル・フォレッチ Voreztsch のごとく子音が5つ重なって「チ」になっておりますが,これではローマ字で人の音を表すのは,三色版が五色版にも六色版にもなり,非常に複雑になりまして,文字という役目から遠ざかるのであります。このようにしてローマ字を写音用とすることは不可能であります。

 

  ここにおいて,ローマ字は文字として国語の音系を表し,別に発音記号となるものができまして,言語学者や声音学者がくわしく研究すれば,音の大要しか写せないのであります。詳細な写音式にはなお多数の記号を要することになります。ローマ字では各国の音をその国の国語音の音価に従って,それを写すということが自然の結果であります。すなわちフォネティック・トランスクリプション Phonetic Transcription がそれであります。

  もしこれが確実に行くものとすればまことに簡単でありますが,音の価というものは,前申す通り国語によって違うのみならず,一国内においてもそれが幾通りもありまして,簡単なRという字においても,その者が英語には3通りに分かれて居るようでありますが,これも大体の所でありまして,パーマー氏や森氏の本によりましても,例えばリーダーという単語において最初のRのごとく「リ」という場合と,最後のRの「ァ」のごとき音とを比較すれば,全然異なった音を出しております。かようなRの音を全然違わせて書くことは,フォネティック・トランスクリプションにはなりますが,国語における音の系統を表すオーソグラヒー Orthography(正字法)にはなりませぬ。すなわち正字法は一つでありますが,写音法は各国語に特有の音価に従って幾通りにもなります。

 例として,ただいまここに丘浅次郎君がフランス人が日本語を摸倣〔模倣〕したときの例が挙げてあるものを,一枚刷で諸君に差し上げてあります。これはすべて模音法であって,ボヘミアン Bohemian になりますと,よほど簡単なものになっております。これで模音法と正字法との区別がよく分かるのであります。もう一つの例として,アストンAston氏の書きました日本文学史に,ある邦語を英式で書いたものを,英語式から仏式に翻訳してみますると,u は ou に,ch は sch に,shi は ci または si になっております。

 かくのごとく,正字法と模音法と全然別物で,あるいは他国の模音法で国語を書くとすれば,必ず語法文法に無用の煩いを起こして,実用に不便を来たします。ある小学校でローマ字を教えるならば,是非とも国語の本質にかなった正字法を採用しなければなりませぬことは,今日の世界の趨勢〔すうせい〕からみまして明らかであります。日本文をローマ字で書く必要が,これからますます殖〔ふ〕えていくについては,綴字法を正当に確かめることは最も緊要であります。

 この問題はとかく誤解をせらるることが多うございますから,ちょっと申しますが,かのヘボン式は和英辞書が編纂されて以来,その綴り方が多く英学界に行われたために,これを見慣れたものは,日本式を見て奇異の感をなし,これをいたずらに異を唱える偏狭なるものである,我意を募るものであるといって,方々から宣伝されたようであります。これはまことに遺憾なことであります。

 

 日本式主張者の唱えます意見が具体的に現れましたのは,明治6年に出た当時の学士院長・西周君の論でありまして,同氏は明らかに「ヘボンやローニの日本語綴字の矯正」と言っております。次に同じ頃に現れた馬場辰猪君の日本文法であります。また19年ローマ字会のできました当時,ケンブリッヂにおられた末松謙澄君が,ローマ字の書き方に改良を加えることの必要を述べまして,日本文章論を著わされました。これらがただいまの日本式と大体同じ綴り方であります。皆様に差し上げました「日本式になるまで」という小冊の中にその一部が抜粋してございます。

この中に私のことなども書いてありますが,私は決して卒先して日本式を主張したわけでも何でもなく,既に前から日本語の本質に従って,ローマ字をもって日本語を書こうという方々からしばしば主張されたのに従っただけであります。そのときの有り様を述べますと,そのローマ字会ではヘポン式を少し改めて拗音にYを入れたくらいで,大体は英語の発音に従ったのであります。

 この式を決めるときに,委員の中の寺尾君が今の日本式を唱えて居るものと同じものをこの委員会に出しまして,私の記憶いたしておりますところでは,山川健次郎君,巌谷龍太郎君等の人々も賛成されましたが,原案委員会においてただ1票の差をもってヘボン式になったということを寺尾君の話で聴きました。これを非常に残念に思って,私どもは10人ばかりで修正案を提出いたしましたが取り上げられませんでした。

  その当時私が書いて諸先輩に質〔ただ〕しました論文を,ローマ字会でそのまま写真版にして出したのを,ここに皆様のお手許に差し出しました。ここに特に申し上げておきたいことは,一体音というものはこれを発する口,咽の機構ばかりでなく,これを聴く方の耳の生理上の作用が大切であります。さらに音を発する口とこれを聴く耳との両方の間の媒体なる空気の状態と,この3つの要素によって音系意識が発生し,国語の特徴が現れるのであるから,綴字法においても,これに適応するものでなければならないことを論じたものであります。決して単に異議を唱えるために異議を唱えたものでありませぬ。

 そのころ外山博士・矢田部博士は学界に勢力ある方でありましたが,これらの諸先輩は私の論旨には反対せず,ただローマ字を拡めるのに,今左様な内輸の論をしてはいけない,綴り方は後で直すとして,まず一致しようということでありました。私のこれに対する意見は,一旦綴り方を決定すると,その後にこれを改正することは困難である。英語の綴字法改良案などはしばしば出るが,解決のつき難いことは見らるる通りである。これは国家百年の計のためにどうしても今論じなければならないといって,棚橋一郎氏・林田亀太郎氏・日高真実氏その他の人々が連名をもって,修正案を総会に提出したのでありました。

この会の感想を朝比奈知泉君が書かれたものが,土岐善麿著「日本式になるまで」の11ページに書いてあります。

「羅馬字会の綴り方は,子音を英語流にするため,不規則の形をなしたり,これはあまりにも無造作なりし……羅馬字会は言語文字の知識に富める専門の委員を選び,互いに深く考究することもせず,素人多数の総会に付し,格別身に染みたる討論もなく,提出者の説明すら十分に耳に入るか入らぬに,改正動議は早くも否決と定まりぬ……」

この会議の状況は「ジャパン・メール」に記載されましたが,板倉銀之助君が議場に出まして,巻紙に長く書いた意見を演説しますると,議長から「簡単に,簡単に」の注意がありまして,間を抜いて読んでおりましたとき,またその中に「簡単に,簡単に」と言われるので,なお幾度も間を抜いて読み終わったくらいであります。その案の・・・・・・

 かくしてこの案は否決と相成ったのであります・・・・・・

(議長鳩山和夫君の宣告では「約3と2の比例と認めます。異議があれば数えて調べます」といったと記憶いたしております。ほとんど全会一致抔〔ほう〕というのは,全く事実と違います。生きた証人がいまだあります。)

 ここにおいて,今の日本式主張の人々が退会をいたしまして,日本式の雑誌・ローマ字新誌を出すことになりました。

かようなる訳で,両方とも振わず,遅々として進んでいたのが,遂に明治38年「ローマ字ひろめ会」というローマ字論者の大同団結とも称すべきものができました。書き方には拘泥しないで,綴り方は全く自由で,南部・大倉・丸山等のいろいろなる書き方がありまして,標準式杯というような名は全くなかったのであります。その雑誌を出してみれば分かります。

それが種々の論戦経緯の後明治41年に至って,ヘボン式に準じたひろめ会式なるものに統一することになったので,日本式の主張者は直ちにこれより脱会して,別に会を設けんといたしましたが,妥協がついて日本式を2ページだけ載せることになっていたのであります。

しかるに日本式賛成者が段々増加して,明治45年には遂に広め会と分離して日本ローマ字会を設立し,機関雑誌「ローマ字世界」を発刊するようになり,今日の盛況に達し,会員の数もおいおいと増加いたしました。その間官庁においても,中央気象台・陸軍省の陸地測量部,海軍省の水路部においても,日本式をもって地図・海図の地名を書くようになり,さらに進んで陸海軍両省の公定の書式にご決定になったのであります。

 

 これについてもいろいろの誤解があります。この間もお伺いいたしますると,日本式の奴等は裏を潜って巧妙に宣伝をやって居るというようなことを言われる方もありますが,これは全く反対で,実際私どもは全然知らないことであります。海軍水路部で日本式にしたときに聞くところによれば,正木中将などは上級の将官の威勢で猛烈に日本式を非難されたそうであります。

  それにもかかわらず――海軍次官から内務次官に宛てた通牒を発するに至ったのであります。その写しを出しておきました。これはこの前差し上げました小冊の中に出ております。ご覧の通り,海軍ではこれを日本式とは言わず,「左の式を用うる(田中館博士の唱導するいわゆる日本式と同じ)」と書いてあります。つまり海軍省で調査した式は,偶然にも田中館博士等の唱導するものと同じになったというのであります。

  陸軍においても,日本式を使うとは書いてありませぬ。「左の式を用うる」と書いてあります。後に万国船舶信号書に日本式を用うることになったが,これに対しては,ずいぶん反対運動があったと聞きます。岡田大将は当時海軍大臣でおられましたが,日本式を使ってはいけないという人が来て,2時間もしゃべられたというお話であります。その後でありましたが,私どもの意見も一通り聴きたいというので,海軍省のご依頼によりまして,関係の方々に日本式の説明をしました。そういう具合で,日本式の仲間に対する非難は事実を誤って居るところがあります。

私どもの方から見ますると,「ローマ字ひろめ会」の方々こそ宣伝がうまいと思われるのであります。ただ日本式の宣伝が目に付くのは各地方に団体ができまして,日本式をもって文章を書くというような真面目な実行的の運動が行われて居るため,それが目に付くのであります。これらの団体の数は70くらいであります。大学ローマ字会・高等学校ローマ字会,あるいは台湾ローマ字会などができまして,別にそれぞれ雑誌を発行いたして居るものがあります。今年などは10年目になるだろうと思いますが,その例を申し上げますためにこの式で出版した本を持って来ました,ご覧を願います。

 

(書籍数部を出す)

 

 それからもう一つ申し上げておきたいことは,なるほどへボン式は目につく名刺や看板や辞書などには使われておりますが,日本文章を書くときには,日本式が使われることが多いのであります。近ごろ学位論文なども,日本式のローマ字をもって書かれたものが3回にも及んでおるのであります。日本式はいわばこれから生長しようとするところの子供であります。「この子供が生長したら厄介だから,今のうちに片付けよう」というような態度の人もあるようでありますが,それはできるものでないと思うのであります。たとい一人の赤ん坊を殺すことはできても,後からいくらでも自然にでてくるものを殺しつくすことはできないと思います。

 世間でよく妥協ということがありますが,政治上の意見譲歩や,営業会社の合同とかいうことには,折衷案もまことに結構と思います。しかし国語のごとき民族意識の表現に関して,その音系組織の上に立つ日本式と,他国の音系による模音式との折衷することは,木に竹を接〔つ〕ぐようなもので,実際行われるものでありませぬ。

 

 この2つの式は各々別々の立場で立って居るものであります。そんなことができるものなら,とうの昔にできて居るはずです。先日,外国宣教師の立てて居る日本語学校の校長が,ローマ字の意見を聞きたいといって頼まれましたから,英語で一席の講演をいたしました時にも申しましたが,私はヘボン式を排斥するものではない。英米人がこれを用いるのは,独仏式も同様,我々から干渉すべきものでない。

 私どもはヘボン式主張者が日本式を排斥するごとくに,決してヘボン式を排斥するものではありませぬ。日本式の教科書の終わりには,英語にはこういう書き方もあると,ヘボン式を書いて居るが,ヘボン式の方から出た本には,こういう日本式というものもあるから,これを学べということが書いてあるのは見たことがありませぬ。

  たとい今日すべての日本語を日本式で書くように決定したところで,ヘボン式は決して明日からなくなるものではないのであります。また同様にへボン式をもってするようにいたしても,日本式は決してなくなるものではありませぬ。今日の日本の形勢は,一片の法令をもって万事を押し通せるものではないのであります。国民意識に適ったものでなければ決して行われない。

 民族意識ということは,国際連盟が成り立って以来ますます尊重されまして,各国民の風俗・習慣・宗教等をはじめ,特に国体・国語を尊重するようになったことは,最も注目すべきことであります。中について国語のごときは,非常に執着力の強いものでありまして,国語を捨てる,あるいは国語を組み替えるということは,容易ならんものであります。国語を尊重するならば,その国語の語法・文法を尊重して,その音系意識に適った書き方をしなければならないというのが,日本式の眼目であります。

 

 余計なことではありますが,国際連盟からもらいました論文を見ますると,《元来ヨーロッパ人は,そこで製造したものを,世界中の未開国に持って行って,その土地の天産物を取ってきた。すなわち世界は白人の世界なりと考えて居った》と書いて,百年前の輸入額はこれだけ,輸出額はこれだけということがありまして,その次に戦後の輸出入の大なる変化を示し,《この世界の変動を起こしたものは,対島海峡海戦の砲声であった。これによって,黄色の人間も白人を打ち負かすことができるということが分かった。これが世界における大事件である》と書いてあります。もしこのことなかりせば,今日の支那〔中国〕・印度〔インド〕等のごときは,どうなったか分かりませぬのであります。民族の自覚ということは,また自国語の尊重にも大いに関係するをとを考えねばなりませぬ。

    言語は心理現象であるから,国語の特性は心理学的に考察せねばならない。翻訳には往々反対のことを書く場合がある。それは言語のメンタル・ハビットmental habit,精神・習慣の関係を了解しないから起こるとは,近代言語学者の認めるところであります。すなわち我々は漢文に返り点を付けなければ読めないのでありますが,支那人は日本文に返り点を付けなければ同様であります。

  正字法に対しても同じく,我々が自然的と思うことを英米人が不自然と思うのは当然である。我々がローマ字をもって国語を書くのは,我が国語を世界的に持ち出そうとするためである。英米人を真似〔まね〕るためではないのであります。

 

 しかしいくら日本式でも,これを世界が使わなくては,日本語を世界語として,国際に通用させることはできませぬから,これを諸方の専門家,イギリス・フランス・ドイツ・イタリーその他の専門家にたびたび質〔ただ〕してみますところが,案外にも日本式は全然正しいものである。You are absolutly right と言うのであります。これはイギリスのスクール・オブ・オリエンタル・スタディス School of Oriental Studies のロイド・ジェームス氏の申すことであります。なお同校の校長サー・デニソン・ロース氏,ロンドン大学のジョンス教授も全く同意見であります。

  ローマ字で声音をその通り書くことは,前に申しました通り,無論できない。ローマ字の一字一字の値を仮定しておいて,それで国語を写すという考えは,昔の学者の試みで,その無益なことは既に悟ったのである。これに反して,今は国語における音の総合体に何字を用うるかと逆に考えるのであります。正字法にこの考えを起こしたのは,比較的新しいのでありますが,偶然にもこれは日本式論者が60年来唱えて,排斥・圧抑の目にあっていたものであります。

 イギリス大使館参事官サンソム Sansom 氏のごときも,日本の文法・歴史を書いてみて,つくづく日本式でなければならぬということを悟ったと言っております。外の専門家に聴きましても,大抵そうである。

 この前ロンドンの地理学会レイノールド氏の意見では,ヘボン式は多く使われているからこれを用いたい。見なれぬ文字は困ると言って居る。昨年の測地学会にはご当人が見えないのでありましたが,英国地理学会幹部の諸氏に会いましたから,私は「国語の正字法は大問題で,地名のごときはその一小部である。この大問題を決するには,なかなかの時を要する」と言いましたら,「全くその通り,我々はただ日本の学者の決定を待って居る。」と言っていました。

 

  国際連盟の智的〔知的〕協力委員会では,一昨年に世界中の国語を同じ文字で書くようにしたいという動議が出ました。今世界でローマ字を使わない頭数を数えますと,支那・印度・ロシア・日本等を入れまして,人口で5割以上の頭数になる。これらの国にローマ字を使うことを奨めよう。但しローマ字を使うにしても,正字法はその国語の性質に適ったものをもって統一するという案文になりました。

この問題は非常に重大なる問題であるので,特別委員に付託し,その調査を経て,昨年7月本会議にのせるということになりまして,特別委員がこれを昨年7月14日に論議をいたしました。正字法は国語の性質に従うことについては,誰も異議はないのみならず,委員の一人なる,カサレス君などは,日本語を3年間も習った後に,日本に2年間も来ておった。そのときはいろいろの綴り方が論ぜられたが,そのいずれを見ても,日本式ほど合理的なものはない,ということを述べたのであります。

  しかしてこの動議は全会一致で可決されまして,各国に向かってこれを貫徹するように勧告しました。但しその実行の方法は,国の状況によって政府の命令が最も有効であるところもあり,またその他の国においては民間の世論を動かすことが必要であるところもあるから,それらは国状に従い適宜処置を取られたいというのであります。

 トルコは政府からこれを持ちかけて,命令によってやったのでありますが,ルーマニアのごときは,政府はローマ字にすることを嫌がったにもかかわらず,国民がこれを使って止まないために,82,3年前に,政府もやむを得ず,これを使うことに決定したということであります。

 今日の我が政治家は,この問題を取り扱うに当たって,その来歴とともに広く世界の状態を考えられる必要があろうと思います。進んでは国体思想にも関係ある問題であろうと思うのであります。故に慎重に考えなければなるまいと存じます。

 私はきわめて大体の筋道だけを申し上げました。詳細の問題についてはことさらに避けましたから,その点については田丸博士にお話を願うつもりでおりますから,私はこれで終わりといたします。

 

●会長(田中隆三君)

 次に標準式のことを述べられたほうが便利と思う。

 

●委員(鎌田栄吉君)

 私はこの問題について,別に造詣のあるわけではありませぬ。田中館博士のごとく,これについてご研究を積まれた方とは違いまして,ただ過〔あやま〕って「ローマ字ひろめ会」の会頭に推されたのでありまして,到底私はその任に耐えないのでありますが,ただいまその職にあります関係上,一応評議会の現状を申し上げることはできないこともないだろうと思うのであります。

  私個人といたしましては,文字のことを国家の強制力をもってこれを変えるとか,これを定めるとかいうことは決してできないことでもあり,またそれは適当でないということを信じて居るのであります。ただ社会の趨勢がそこに到れば,政府もそれを認め,それに対して考慮の必要ありとは信じて居る次第であります。従って私はただちにローマ字を国家として採用する意見を発表するものではありませぬ。

 しかしながらローマ字をもって日本語を書く綴り方をいかにするかということになりますれば,「ローマ字ひろめ会」の主義といたしましては,国語として使うという一つの仮定を置きまして,話を進めることが適当と思いますから,どうかそのおつもりでお聴き取りを願うのであります。

 

 天正18年(西暦1590年)ワリニャーニが鹿児島に上陸してから,明治17年羅馬字会ができるまでの,およそ300年間は,我が国におけるローマ字運動史上の準備時代とでも言うべきでありまして,オランダ式,ポルトガル式,あるいは五十音図式など,いろいろありましたが,慶応の頃から明治の初年にかけて,ローマ字運動にしばらく真剣味が加わり,特に米国人ヘボン氏が和英語林集成を著して,ローマ字で日本語を書いたことは,当時の人たちに非常な便利と刺戟〔刺激〕とを与えたことと思われます。かくて明治17年には羅馬字会が生まれ,従って綴り方決定の必要も生じました。

 これは,従来西洋人が日本の国字でない文字で,各自国流に日本語を書き表していた Transliteration すなわち字訳または書き直し,あるいは五十音図表を本として仮名そのままの書き直しなどの混沌とした状態から,国字としてのローマ字綴りを確定しようという試みなので,我が国の文化史上,特筆大書して万代に伝うべき,民族的大運動でありました。これ実に我が大和民族が一千数百年使用し来たった漢字,仮名の代わりに,容易で,便利で,完全に近い,ローマ字を国字として採用し,民族発展の基礎を形作るべき大計画への確実なる第一歩を踏み出したのであります。

 

 羅馬字会では委員40名を選び,さらにその中から起草委員を選定し,起草委員会は,従来の日本文字の書きかえとしての立場,および国字としての立場から考えて,外人等の意見をも聴き,原案を作製し,委員会にかけました。委員会は起草委員の原案に基づき,会合審議すること5度,いよいよ決定案を得て総会にかけました。

  すなわち明治18年2月,虎ノ門の工部大学校の講堂における大会であります。これこそは民族的に,国字としてローマ字の綴り方が決定せられた最初のものでありまして,従来の表意文字や熟音文字から,純然たる単音文字へという民族的の公案提出でありました。

 ヘボン氏はその著の第3版の序文中に,自分の意見とは多少相違するが,日本のローマ字運動の前途のために小異をすてて大同につくと宣言して,その第3版以来この羅馬字会式を採用しました。一派の人々がへボン式と称するは実にこの綴りで,実は我が国の先輩諸氏によって決定採用せられた,大日本の標準となるべき綴りなのであります。羅馬字会はこれを西洋諸国にも通知し,諸外国は今日も依然としてこれを使用しております。

 明治18年の総会においてはほとんど満場一致をもって可決確定したのでありましたが,その中に準備時代の式に執着して,この式に反対した人が一人ありました。板倉銀之助氏であります。この人およびある少数のこれと感を同じうする人たちで脱退した人もありまして,分裂の種子が播〔ま〕かれました。

 一時は2万の会員を擁したと言われるローマ字会も,その後反動思想の渦中に捲〔ま〕き込まれ,国粋保存,西洋排斥の激浪にもまれて,せっかく芽生えたローマ字運動も,明治25年遂に一時影をひそめるのやむなきに至りました。

 

 しかし,一度目覚めた民族の文化的向上の機運は,決して永久に滅びるものではありません。明治38年日露戦争が,日本を世界の強国として自覚せしめたために,再びローマ字運動が起こり,このたびは一切の感情的な過去を忘れ,大同団結をしようというので,またローマ字会ができました。今日まで26年間絶えずローマ字運動を続けて居る「ローマ字ひろめ会」は,名実ともにその会なのであります。

 西園寺公爵はその後間もなく会頭となられましたが,第3者の立場から見るときには,一国の総理大臣であり,またその後引き続いて国家の元勲として君国に尽す名士を会頭にいただき,天下の名士・先輩・先覚者を会員として網羅したこの会こそは,実に民族的に承認せられたるローマ字の中心機関であるといってよかろうと思われます。

 かくて,「ローマ字ひろめ会」は,当時のローマ字運動者の一切を網羅していたのでありますが,皆の考えが国字としてという意味でローマ字を見るのでありますから,綴り方の統一は必然的に重要性を持つのであります。

  そこで,いわゆる各派の人々と,言語学・国語学等の学者とを集めて綴り方の研究調査をなし,会合すること14回,最後に50名の評議員会にかけて綴り方問題を相談しました。この時にも皆の承認を得た式は,やはり以前の羅馬字会式でありました。新たに羅馬字会式は再び国民的承認を得ました。

 

 ところが,ほとんど満場一致の間に,このたびも一二の不賛成者が見出されたことは遺憾なことであります。しかし仲間割れは面白くないというので,一時は機関雑誌の中にその人たちのために特に紙面をさき,どこまでも大同団結の方針を捨てなかったのであります。

  しかるに,総会の大多数の意見を尊重することを知らざる者のために紙面をさく必要はないという,有力なる会員の意見のために,編集者等はそれを別刷にして付録とし,ひそかにその人たちに頒〔わか〕っておりました。それらの付録はやがて雑誌の形をと5ページ数を増したが,「ローマ字ひろめ会」は依然その費用を負担していたのであります。

  しかしその要求過大のため,その負担に堪えなくなって,これを拒絶するや,その人たちは再び脱会し,このたびは「日本式ローマ字」と名のり,「従来のローマ字は日本語を知らざる外国人が,外国人のためにしたローマ字綴りである。英語に寄生して育ったローマ字であり,耳で聞く人のローマ字である。すなわち外国人が自分の便利のために使った書き換えであって,日本人が国字としての書き表しに適しない。日本語のローマ字綴りは,日本語を熟知して居る日本人によってきめられた日本式ローマ字でなくてはならない」という意味の旗印の下に,同志を集めておられるようであります。

 しかし,それだけならば格別の問題ではないのでありますが,大正3年ごろからは中央気象台に入り,大正12年ごろからは海軍水路部に入り,これと前後して陸軍陸地測量部に入り,かくて政府部内の綴り方の統一が乱され,外国から綴り方統一の希望を受けるに至ってみると,上に述べた伝と歴史とを有する私ども「ローマ字ひろめ会」では,まことに遺憾至極に思うのであります。

 以上が標準式と日本式とのたどった歴史の大要であります。これは本問題の本旨には関係ないことのようでありますが,世間ではこの問題の真相が分からないで,標準式の綴り方を,前に述べた日本式の方々の宣伝そのままに信ずる方もあるようであり,私どもの綴り方を外国人の綴り方を鵜呑みにしたもののように考うる向きもあるように思いますから,先輩の方々の幾度も慎重審議決定せられた,大日本帝国における国字としてのローマ字綴りは,我が「ローマ字ひろめ会」の使用する標準ローマ字綴り以外にはないことを明らかにし,これこそ民族的に認められたる綴り方なることをここに言明するのであります。

 

  標準式ローマ字綴りの精神は,先般言語学会で発表せられたご意見中の原則と一致するものでありまして,(原則第2参照)発音を写すことを主としたものであります。そのために原則としては一字が一音を写すのであります。しかし,元来,口から耳に伝わる音波の作用を目で見る形に表すものである関係上,数学的緻密さをもっての一音一字とは行きかねる場合もないではないが,実用上の立場からは,一音一字ということにほとんど差し支えないのであります。

 従って標準式は音声学符号としても,かなり精密な点まで役立っために,すぐに用いてもって方言矯正,国語統一に利用できるし,また従来の国字の書きかえにも何らの不自由なく,最も重大なる使命,すなわち国字としての立場から見ても,一点の不都合・短所がないのであります。つまり音声学符号として用いても,外国人向けの書きかえとして用いても,国字として見ても立派な,恐らく理想に近い表音文字の書き表し方であります。もし万一この式での書き方で,少しでも差し支えがあるならば,他の式をもってしたなら,より大〔おお〕きなる不便・不都合があろうと思います。

 しかるにある人たちは,私たちの標準式綴り方では日本語の性質を書き表すことはできないかのように言います。例えば文法上動詞の説明をなすに不便であるとか,不可能であるかの非難をする人があるのであります。しかしこれは大なる誤りで,ローマ字の綴り方は,言語学会の方々のご意見のように(原則第4参照)単一目的で行かねばなりません。

 古典文法の四段活用は,今日五段に活用すると見られ,いわゆるサ行,タ行において不都合があるように難ずる向きもありますが,そのは文法なるものの根本的誤解に基づく結果であります。江戸時代の文法的説明と今日の文法的説明とは相違があり,甲の学者と乙の学者とは,文法的見解を異にし得るに見ても,動詞変化の形のごときはそれらの人々の形式において,それらの人々を満足せしめざるが故に,不都合呼ばわりをすることは穏当ではありません。文法とは活言語の実相を見て,その間から抽象して得たる,その言語の法則の全体であることは,今日世界の学者の文法に対する,一致して居る見解であります。

 

 今一つ日本語の著しい性質として,一つの語と他の語との集まって新しき語を作ること,すなわち合成語を造るという現象があります。この場合日本語においては音韻転化がきわめて自由であります。例えば

   一切 (イチサイ)   は   イッサイ  (issai)

   一間 (イチケン)   は   イッケン  (ikken)

   一体 (イチタイ)   は   イッタイ  (ittai)

   一杯 (イチハイ)   は   イッパイ  (ippai)

などとなり,仮名においては上の4つの場合を通じて,「イッ」と「ッ」を小さく書けば間にあうが,実は各々の場合は音の上からは皆違うから,ローマ字ではそれぞれ皆違った字で書くのであります。そして音を主として書くという単一目的で行くから,少しも窮屈なことがないのであります。なお一例を挙げれば,

   酒(サケ)と樽(タル)がサカダル

  上(ウヱ)とスベリ  がウワスベリ

というような言語現象がありますが,これらは,仮名でも一様には書き表すことはできないので,音が変われば他の字で書くという原則を尊重せねば,動きがつかなくなります。

 今日の日本語は無声子音と無声子音(k, sh, s, t, ts, ch, f, p 等)との間の母音(ウ)u および(イ)i は無声になり,u のごときは口の形さえすっかりなくなってしまっております。これらの性質は将来日本語の形の変遷する尖端〔先端〕をなすものと学者は言いますが,この母音落ちなどの性質は言語学会発表の原則第2,すなわち子音母音式によるにあらざれば,これを書き表すことはできないのであります。

 なお歌などの場合に,母音が表れることを見て,本項の否定を試みる者もありますが,それは言語の何物たるかを深く顧みざる者の言葉かと思います。

 

 文字には文字本来の性質があります。漢字は一字が一語で,一つの思想内容を表すのがその特質で,音声的方面はどうでもよいという符号的傾向をとりやすくなります。極端なのになると人の姓などで,坂上のごとく書いてサカウエかサカノウエか,サカノエかサカガミか分からず,どちらかと聞けば,どうでもよいなどという挨拶を聞くことがあります。これらは漢字が音を超越して符号化する例であります。

 仮名はこれに反して,一字のままでは必ずしも意味を表しません。数箇の字が集まってはじめて完全に意味が表れることになります。しかるに,仮名は「アイウエオン」の6字のほかは皆一熟音を表すものであるために,言語音をしっくり表すことができません。この欠点は仮名書きのものを静かにご覧になれば,よくお解りのことと存じます。

  この欠点を補うものとして,ローマ字は実に理想に近い文字ということになります。世界の国々がローマ字を採用するのは,この表音能力の長所を認めることが,その原因中の有力なる一つと思います。

 また一面,世界の文字進歩の跡を見ると,表意文字から表音文字へ,そしてその表音文字にしても,熟音文字から単音文字へ,すなわち子音母音の分解へという過程を追うております。今日仮名で書かれて居る促音とか拗音とかいう書き表しは仮名の悩みをさらけ出したものであります。これは日本民族が熟音文字で不充分なために,単音文字を要求しはじめたことを意味するもので,一音一字すなわち子母音式の文字に対する強き要求を持ちはじめたことを物語るものであります。

 

  私はここでローマ字国字論をするのではありません。またこの会がそんな意味の会でないことも承知しておりますが,これを数百年後になって,日本民族の文化史上のできごととして回顧してみるとしますならば,今度のこの会合は,世界的競争の道具たる文字は,漢字では荷が重過ぎるから,表音文字にしよう。表音文字も熟音式ではいけないから,単音式で行きたいという,文字に対する民族的自覚の会合であり,大運動であると見えるのではなかろうかと思うのであります。従って,ローマ字という単音式文字を用いて,これで日本語を書き表す方法を相談するならば,当然の帰結として,熟音文字たる仮名の性質に囚われることなく,ローマ字本来の性質を尊重し,時代必然の要求である,熟音文字から単音文字の使用へとの過程を愛護し,民族万代の大計画を決定してやりたいものと思うのであります。

明治18年すなわち47年前に同胞民族に提示された,単音文字の使用というこの公案を,今日進んだ学問と新時代の民族的自覚に立てるこの会合において,これを完全に解決し,いつ国字として使用せらるる日が来ても差し支えないように,この熟音文字から単音文字への偉大なる一歩を進めたいと思うのであります。

 しかるに,私どものこの標準式を外国人の決めた綴り方と称し,日本語の性質を書き表し得ないと論ずる人たちは,仮名のこの熟音的性質に執着し,これこそ日本語の性質であると思い誤り,すなわち仮名がもつ文字としての性質を日本語の性質と誤信した,換言すれば,字と語との概念の混乱したところから出発して,ローマ字の本来の特質を殺し,熟音から単音への過程を阻もうとするものであります。日本人にしてこれを阻む者は,日本民族の文化的向上を阻む者であり,外国人にしてこれを阻む者は,日本民族に罪を犯す者であります。いずれも誤っております。ローマ字本来の性質を殺してならないことは,学的立場から批判せられた言語学会の声明書の原則第2項にある通りであります。

ただ過去において,江戸時代の学者の多くは,五十音図表をもって日本語の母であるかのように,語と字との混乱した考えを持っておりましたが,これは学問のいまだ進歩しない時代にはよくあることでありますが,今日はかような考えは捨てねばなりません。

 

 なお,ここに一言付加うべきは正字法についてであります。

 正字法とはある国家が国字として文字を採用するとき,この字はこの音に,あの字はあの音にと国家的に決定したる書き方をいうので,正字法は発音通りの書き方であってはならぬという考えは誤っております。英国のごとき Anglo-Saxon があの島に来たころには,発音と正字法とは一致していたとヘンリー・スウィト Henry Sweet は言っております。それを保守的思想が今日のごとき英語の正字法としたのであって,そのために英国の児童は苦しんでおるのであります。

 私たちはかような苦しみの起こるのを除き得る道を考えて,ローマ字の綴り方を決めるべきであると思います。我が標準式は,パーマ氏(Palmer: Principles of Romanization. 昭和5年12月東京)のいわゆる Phonetic notation〔音声標記法〕ともなり, Transliteration〔翻字〕にも,また Orthography にも完全にその役目を果たす,理想に近い綴り方なのであります。

 しかるに,世にはややもすれば五十音図表をそのままローマ字に書きかえたる,いわゆる図表の生み出したるローマ字綴り方をもって,学修上または実用上便利であると考えて居る人もあるようでありますが,これは漢字や仮名の学修が十分できた人たちに教えるものとの前提を,言外に認めて居る人の考えであります。もし尋常小学校の一年生からローマ字を教える日が来ましたならば,標準式のローマ字綴りの方がその便利を感ずるので,五十音図表式の綴り方を覚えることこそ非常な負担であります。

 全然五十音図表を知らない,小学校入学以前の児童に試みれば,これはすぐにわかることと思います。

  標準式ローマ字綴りは一字一音を原則としていくのでありますから,音の分解・総合が自然に行くのであります。ローマ字を教えるということは,実は母音と子音とを区別して,言葉を書き表す力を養うゆえんであります。従って児童の推理判断が,国語科の教授においても助長されるのであります。

  例えば t と a とで ta「タ」として教え,子音母音の関係を明らかにすれば,t と i の綴りは ti「ティ」であって「チ」ではないことをすぐに自発的に知るのであります。が,それを「チ」として教うることになれば「チ」でないものを無理に「チ」と約束して教うるので,児童の頭に非を理として教うる第一歩を踏み出すことになります。

  現に今日の小学生,何ゆえに「ヰマス」と書くべきで,「イマス」と書いては不都合であるかということに,苦しむ者が多いようであります。開発されずに,注入される習慣,すなわち自発的活動的なる児童の順に受動的・退嬰的の訓練を加うるゆえんであります。これは憂うべき教育上の重大事ではありますまいか。

 

 日本語に関係を有する限り,ローマ字の綴り方は,明治18年の決定宣言以来,世界中皆我が標準式ならざるはないのであります。そのためにこそ昭和3年万国地理学会において,レイノールヅ氏 Reynolds の意見書が表れたのであります。もし私どもの標準式以外のある式が行われて居るものがあれば,これは私どもの標準式をそれらの式が何の程度まで乱すことができたかを物語るに過ぎません。

 日本式の田丸博士は固有名詞の書き方については,「ご当人がそれまでの書き方を変えることを好まないのは,ご当人のお考え次第とする。」(ローマ字国字論212ページ)と書いておられるが,地図等においては,同じ理由によって,従来の式を用うることには,田丸氏にも異存はあり得ないわけであります。

 今日大日本帝国の国字は,漢字と仮名とでありますから,用いんがために用いる必要ある人は特別として,現在の日本人には漢字混り文が本体である関係上,ローマ字書きの書籍等は一般書籍としての必要はほとんどないというも過言ではありますまい。が,ただし辞書等においては,必需的にローマ字をとらねばならぬのであります。しかしてこれらは皆私たちの標準式であります。

 私どもの標準式はあれこれと,実例をあげるにしては,あまりに多く用いられて居ることをご承知願いたいと存じます。もし標準式以外のものを使用する事例を数え挙げる人がありますならば,それはその式の全体で,他は皆,全世界中我が標準式であることをご承知願いたいと思います。

 

 以上述べました通り,私ども標準式ローマ字綴りは,使用範囲においては,すでに全世界に普及しており,一方理論的立場においては,東京帝国大学を中心とする日本全国の言語学者の学会の発表した意見書の原則にかなうものであります。

 そもそも世界の学者の中で,言語の性質等一切については,言語学者が一番研究が深く智識〔知識〕が豊富であります。今日においては日本語の性質は日本の言語学者が一番よく知って居るのであります。その言語学者の会である言語学会の意見書は,日本語のローマ式綴りについては,世界的権威でありまして,前記学会の意見書は,世界の何の学者の数万言よりも価値あるものと信じます。

  しかして,もしこの会合において,これら専門の学者の意見が無視せられることになれば,内には,日本人が自ら日本の学者一般をふみにじったこととなり,外,列国に対しては自己の恥辱を暴露することとなりましょう。これはくれぐれも政府ご当局のご高配を願いたい点であります。

 これらの諸点をご考慮になり,慣重審議を重ねられ,笑いを諸外国に買うことなく,禍〔わざわい〕を万代に遺すことなきように,なお日本は理想的によきローマ字綴りを採用したと賞揚している外国人等の,親日感情を傷つけることなきように,日本文化の将来に重大関係を有するこの問題を,解決していただくように切望するものであります。

 

●委員(桜井錠二君)

 ただいま田中館・鎌田両委員よりそれぞれ日本式・標準式の主張が述べられましたから,これより質問応答や意見の交換があることと思われますが,どうかすると議論が問題の枝葉に流れ,これがために,思わざる時間を空費することがないとも限りませんから,私は今問題解決の根拠となるべき,最も重要なる一二の点を捕らえ,公平無私の態度を持し,条理に照らし,常識に訴えて,これを解剖してみたいと思うのであります。

  念のため申し上げておきますが,私は旧ローマ字会創立者の一人であり,また同会のローマ字綴り方取調委員の一人でもあったのでありますが,今私の述べんとするところは,日本式の弁護でないと同様に,標準式の弁護でもないのであります。いわゆる党派心のごときものは,私の性格の許さないところでありまして,私はただ条理の命ずるところに従い,率直にまた無遠慮に自分の所見を述ぶるに過ぎないのであります。

 

 第一に解剖してみたいと思うことは,日本式・標準式両派の情勢に関してであります。しかしてこれに大なる関係を有するところのものは,名称の問題であります。名称について,かれこれ申すのはつまらぬことのようでありながら,実はそうではないのであります。

  シェークスピヤが「名はどうでもよいではないか。」(What’s in name?)と言ったのは,一面の真理ではありますが,またそうでない場合もありまして,旧ローマ字会式すなわち後の標準式をヘボン式と呼び,しかしてこのヘボン式なる名称を利用して,盛んに悪宣伝をするというごとき場合は,確かにその一例であります。

 旧ローマ字会の綴り方は,40名の委員が数回会合して議論を戦わし,十分調査研究したる上,一両名の反対者を除く外,全会一致をもって決定したるものであって,ヘボンの創意に係るものでも何でもないのであります。しかして事実においては,ヘボンの方が却ってこの式に倣って綴り方を改めたることが多いのでありまして,第一版および第二版のヘボンの辞書には,日本語の仮名書きをローマ字で写し,例えば医者を ishiya と綴ったごとくでありますが,明治19年すなわち旧ローマ字会綴り方の確定したる翌年の第3版には,この確定式に従い,全部に大改正を施し,医者は isha と綴ることにしたるごときであります。

 かようなわけでありまして,旧ローマ字会式をヘボン式と呼ぶことには,名実相反するところがあります。それだけならば必ずしも問題にする必要はないのでありますが,日本式の方では,旧ローマ字会式を強いてヘボン式と呼び,しかして

「ヘボン式は外国人の創意に係り,日本語を知らざる外国人のために作られたものである。英米の属国向けのものである。これを用うるものは国賊である。日本人には日本式でなければならぬ。」

というふうに盛んに宣伝を尽くし,もって自派勢力の拡張に努めて居るのでありますが故に,今両派の情勢を解剖するに当たって,名称の問題が起こるのであります。

  私は宣伝そのものが悪いとは少しも考えません。しかしながら,悪宣伝を行って他を傷つけ,もしくは毒殺せんとするごときは,あたかも競走において前に裂け行く者を突き倒してまでも,自分が勝ちを制すればよいということと同様であって,正々堂々たる態度とは言えない。むしろ恥ずべきことであると私は考えます。

 

 日本式の宣伝は独りへボン式なる名称の利用に止〔とど〕まらず,種々様々の形において行わるるようでありますが,最近田丸博士が大学新聞に書かれたものの中に,この調査会のできた動機に関する一節があります。すなわち

「しかし,もっと直接な原因はへボン式を主張して居る人たちが,日本式の使われる範囲の急激に増しつつあることに対し不安を感じ,なるべく早く政府筋の手をかりて,綴り方統一の美名の下に,日本式の発展をおさえようとして政治的に有力な人の媒によって政府を動かしたものである。」

と書いてあります。これは実に穿〔うが〕ったもので,宣伝の妙を得たりと評するよりほかはありません。これに反し,先日のラヂオ利用の宣伝は,あまりに拙劣なやり方で,却って物笑いの種となったるは,自業自得とでも言うべきでありましょう。

 日本式の方では宣伝ばかりでなく,実際の運動ないし策動が盛んに行われるように聞いております。しかも裏面的もしくは潜航艇式運動,すなわち《こそこそ運動》が多いように聞いておりますが,私は断じてこれを信じません。

立派な地位にあり,立派な人格者と世間から見られて居る者が,表玄関で取り次ぎを乞わず,台所口からこそこそ出入りするようなことが果たしてできましょうか。私は右様の噂は全然これを否認するものであります。しかして私は単に表面に現れたものについて,一言批評を試みんとするものであります。

 

 それは大正15年12月と,昭和4年12月との2回に,日本ローマ字会が鉄道大臣に宛て鉄道駅名のローマ字綴りを日本式に改めてもらいたいという意味の建議書を出したことであります。

  建議書の提出そのものについては,何もかれこれ申すことはもちろんありませんが,ただ相変わらず例のヘボン式を持ち出して「英国植民地式の書き方」とか,「英米人におもねるがごとき綴り方」とかの文句を並べて,標準式を毒殺せんとする意思が堂々たる建議書の上にまで現れて居ることは,心ある者に好感を与うるゆえんにあらざることを,日本式一派の方々に私は忠言したいと思うのであります。

また建議の内容については,数十年来の慣用に係り,広く一般社会に認められて居る駅名ローマ字綴りを廃して,自派少数者の間においてのみ用いらるる日本式に改めてもらいたいということは,あまりに非常識的であり,あまりに我がままであって,いわゆる横車を押すの甚だしいものではありますまいか。この運動は表面に現れたので2回とも標準式の方から牽制的の建議が出ておりまして,その内容は駅名のローマ綴りは従来通りの方がよい,しかしてもしこれを改めんとするならば,まずもって権威ある委員会を設けて十分調査した上のことにしてもらいたいという意味であったのであります。

  幸いにして駅名のローマ字綴りが従来通りになって居ることは,ご承知の通りでありまして,一方の牽制的建議がなくとも,鉄道省は右様の横車に綱を付けて引くような馬鹿げたことは,決してやられんと,私は硬く信じます。しかしながら,万一この場合に潜航艇式策動が行われ,その結果駅名ローマ字綴りを日本式に改めることになったとしたならば,いかがでありましょう。一番困るのは鉄道省自身で,莫大な経費と手数とをかけ,しかも世間からは,非常識・無分別といって笑われたでありましょう。

  以上述べ来たったところは,日本式の宣伝や運動にして,直接私の承知いたして居るところのものについて,冷静にこれを考察・判断し,その考察判断の結果を無遠慮に申し上げたるに過ぎないのでありまして,私は日本式を傷つけんがために,ことさらに苛酷〔過酷〕なる批評を試みんとするなどの浅ましい根性を有するものでないことをここに重ねて申し上げておきます。

 

  さて,日本式の方はかように活発に,しかして利口に宣伝や運動に余念なき情勢を示しておりますが,その収穫果たしていかに。日本式が幾人の同志を糾合し得たかは,私にはよく分かりませんが,昭和4年12月すなわち1ヶ年前に鉄道大臣に出した日本式の建議書に会員7千余名,並びに全国各地の連絡団体64ということがあります。64団体の団員が会員7千名の内であるか,また外であるとすれば,その数幾人であるか,さらにまた会員および団員のほかに同志の人々が幾人あるかは,すべて私は承知いたしませんが,会員7千名のほかに仮に同志がさらに7千名あるとすれば,合計1万4千名となる勘定であります。

さて日本式またはこれと同様の綴り方を用いた人は昔からあったようでありますが,明治17,8年の頃,ローマ字運動が組織的となってより今日に至るまで,終始一貫これが主張に没頭せられたるは,田中館博士お一人であり,次いで,日本式の副将として現れ,目覚ましい活動振りを示されたるは田丸博士であります。しかして会員7千名を有する日本ローマ字会の盛況は,全く両博士の熱心と努力との結晶でありまして,この点においては,私は満腔〔まんこう〕の敬意を表するものであります。

 さて,次に標準式の方はその情勢いかにと申すに,この方は宣伝もしなければ,積極的運動もせず,ただ日本式の横車を牽制せんがための建議書提出くらいのことで,雑誌やパンフレットの上で日本式との論争を相当盛んにやって居るほかは,甚だ不活発の観を呈して居るようであります。これを一面から見れば,たしかに標準式の怠慢とも言い得るでありましょうが,また一面から考えれば標準式にとっては,日本式のようにあせる必要が少しもないのであります。しかしてこのあせる必要のないのは,標準式が自然的に拡がっていき,国の内外を問わず,日本語のローマ字綴りは既に標準式と決まって居るからであります。いかなる事実を根拠としてこれを言うかと申すに,

(1)   和英辞書のごとき日本語をローマ字で書いてある辞書は,全部標準式を用いて居るのである。しかして今,単に故・井上十吉氏の和英辞書のみについて見るも,その部数は150万に達して居る。なおこのほかに石川林四郎,武信由太郎,竹原常太等諸氏の和英辞書には,80版・70版・40版に及んでおるものがあり,松井知時,丸山順太郎等諸氏の和仏辞書には20版・10版に及んでおるものがあり,ユンケル,小田切良太郎等諸氏の和独辞書には40版・30版以上に及んでおるものがあり,さらに上田万年博士のローマ字国語辞典は40版に及び,その他この種の辞書がいくらもあるが,全部標準式を用いて居るのであります。

  今井上和英辞書以下これら辞書が,合計何部世間に出て居るかの統計を調べてみたことはありませんが,200万以上300万以下の見当,すなわち概数を250万とすれば,甚しき誤算ではなかろうと考うるのであります。しかして辞書の類は一人が一冊を専有するものでなくして,数人(図書館等に備え付けのものに関しては,数百人・数千人がこれを使用するわけでありますから,一冊につき平均3人がこれを使用する)とすれば,概数750万人すなわち全人口の10分の1が標準式を現に使用して居ることが分かるのであります。

(2)   辞書の使用が社会のある階級に限定せられて居るに反し,店先の看板その他広告の類は,きわめて一般的・通俗的のものであることは申すまでもありませんが,全国至るところにおける看板や広告の類で,ローマ字を書いてあるものはことごとく標準式を用いて居ることが最も顕著なる事実であり,しかして一般社会がいかに標準式を要望して居るかを,最も雄弁に物語るものでなければなりません。

(3)   看板や広告以外に民間における大小の商店会社などが,外国取引員その他の書類に用いるローマ字も,また,全部標準式であると思います。看板や広告にしても,また取引その他の書類にしても,標準式のみを用いて居る理由は,ただこれを使い慣れて居るから便利であるというのではなくして,日本式では,国の内外に通用せぬということが商売上の重大なる理由であるように考えられます。

(4)   外務省の国際関係書類をはじめとし,他官庁の書類にローマ字を用いる場合には,そのローマ字は,気象台・水路部および陸地測量部を除くほか,全部標準式を用いて居るのであろうと思います。しかしてこれを少数の政府部局において,日本式を採用するに至った理由につき,前回に関係各委員から説明がありまして,これによれば,日本式の方が簡単であるとか電報の字数が少なくなるとかいうふうに聞き取りましたが,ただいま申し述べてきたようなきわめて見やすき社会一般の趨勢を無視し,また他官庁の慣例を無視してまでも,標準式を排斥して日本式を採用せねばならぬという理由としては,私はそのあまりに貧弱なるを遺憾とするものであることを,ここに明言いたしておきます。

 

 以上は一般社会における標準式ローマ字の現趨勢〔すうせい〕を例示したのでありますが,さてその将来いかにと申すに,今小中学校その他の学校において,生徒がローマ字を学習する場合には,私の承知いたして居る限り,そのローマ字は全部標準式であるのであります。

  そこで,今昭和2年の文部統計摘要によれば,同年の全国各種学校卒業者の総数が258万あまりでありますが,そのうち学校でローマ字を学習したものが幾人あるかは全然分かりません。しかしながら,今もし中学校卒業者が全部ローマ字を学習し,その他の者は一人もローマ字を学習したものがないと仮定するならば,258万あまりのうち,同年の中学校卒業者は5万あまりでありますから,昭和2年には標準式ローマ字の使用者が5万人増加したことになり,しかも年々概数5万人の標準式使用者が増加すべきことを示すわけになるのであります。

 現在および将来における標準式ローマ字の趨勢,すなわち耳を覆うても,眼を閉じても,無視することのできない上述の事実は,そもそも何を物語るものでありましょう。言わずして明らかであります。すなわちローマ字の綴り方については,私にはあれかこれかの問題はないように思われます。しかして万が一この調査会が動かすべからざる上述の事実を無視し,条理・常識を度外に置いて誤ったる判断を下すことがあったならば,それはこの調査会,否日本国家が恥を世界にさらすことになるのではありますまいか。

 

 第二に解剖してみたいと思うことは,両派の根本主義の相違についてでありまして,日本式が盛んに宣伝せらるるにかかわらず,一般国民がこれを認めざるに反し,標準式が自然的に一般国民に歓迎せられ,自然的に国の内外に普及せらるるに至った理由は,すなわち両派の根本主義の相違に存するところのものであると考えられるのであります。しかして両派論争の諸点も多くはこの根本主義の相違から分かるるものでありまして,鎌田委員も既にこれらの点に論及せられ,一層詳細なる点については専門家の意見を聴取すべきでありますが,私は今ここに実用上・常識上の見地より,きわめて簡単に両派根本主義の得失について,公平なる批評を試みたいと思うのであります。

 さて,何を両派の根本主義というかと申すに,標準式においては,我々が話す言葉の音をローマ字で表すことを根本主義とするに反し,日本式においては我々が仮名で書く言葉の形をローマ字で表すことを根本主義とするのであります。申すまでもなく,言葉は生きたものでありまして,昔は「カハホリ」といったものを,今は「コウモリ」というがごとく,過去の時代に普通一般に用いられた言葉で,今日用いざるものがあり,過去の時代になかった言葉で,今日普通一般に用いるものがあり,また今日用いざる言葉で,将来普通一般のものとなる場合もありましょう。

  かくのごとく,言葉そのものに変化があるとともに,言葉の発音に転化のあることもまた事実としてこれを認めねばならぬところでありまして,その最も手近な一例は「ジ」と「ヂ」や「ズ」と「ヅ」の場合で,ある時代には一般にこれを判然と区別して発音し,ある地方では今なおこの区別をしておりますが,一般にはこの区別がなくなってきたことはご承知の通りであります。すなわち電話帳や種々の名簿などにおいては,「ジ」と「ヂ」,また「ズ」と「ヅ」とは同様に取り扱って居ることを見ても明らかであり,しかしてこれを使い分けることは,現に一般国民の大なる悩みであるのであります。

 そこで,標準式では言葉の音を取って「ジ」「ヂ」はともにこれを ji で書き表し,「ズ」「ヅ」はともにこれを zu で書き表すに反し,日本式では仮名書きの形を取って「ジ」は zi,「ヂ」は di,また「ズ」は zu,「ヅ」は du というふうに,それぞれ書き分けるのでありまして,その得失は何のためにローマ字を採用するのであるかを一考せば,きわめて簡単明瞭ではありますまいか。

 

  ローマ字は世界的の文字であるということのほかに,これにより漢字や仮名の悩みを除き,教育上の能率を増進せねばならぬということが,我が国ローマ字運動の目的であって,元来この目的達成のためには標準式・日本式の区別などあろうはずのないことであると私は信ずるのであります。でありますから,仮名の悩みをローマ字にまで持ち越そうとする日本式には,大いなる矛盾があるように私には思われます。

  すなわち日本式ではまずもって仮名の使い分を学び,しかも今日一般国民に何らの意義なきまた何らの実用なき,この仮名の使い分を学んだ後でなければ,ローマ字で自由にしかして正しく書くことができぬことになるに反し,標準式では日常話す通り,聞く通りを書くのでありますから,何らの悩みもないわけであり,現に私の孫どもが学校友達との間に交換する手紙はいずれも標準式ローマ字で,何の苦もなくすらすらと自然的に書いてありまして,なるほどこれでこそ学校でローマ字を教える必要があるのだということを,深く感ぜしむるものがあるのであります。

 近年日本式の方では許容ということを言い出されたようでありまして,それは d で書くべきところを場合によっては z で書いてもよろしいということでありますが,元来この許容ということは,日本式の根本主義にふれるところの大問題ではありますまいか。すなわち「ズ」と「ヅ」や「ジ」と「ヂ」などの区別撤廃に進む第一歩であるのではないでしょうか。もし果たしてしかりとせば,これれ実に我が国ローマ字運動のためには一大福音でありまして,不幸にして一時分かれたるこの運動の支流が,再び本流に合〔ごう〕して一体となることの吉兆でなければならんと思うのであります。

 

 最後に一言〔いちごん〕いたしたいと思うことは,標準式で日本語の音を写すには,いかなる発音を標準とするのであるか,またいかにしてこれを写すのであるかの問題に関してであります。

  いずれの国においても,地方によってその国語の発音を多少異にすることあるは申すまでもありませんが,ドイツはベルリン,仏国はパリ,英国はロンドンというふうに,各国の文化の中心である地方の中流社会において,現に行われて居る発音を標準とすることは最も穏当であると,世界一般に認められて居るに鑑〔かんが〕み,標準式では東京の中流社会で現に行われて居る発音を標準としたのであります。

  しかしてこの発音を写すに,母音として a, e, i, o, u のイタリー音を用いて居ることは,日本式も全然同様でありますが,子音の点においては,二者の間に幾分の相違があり,日本式では五十音図のサ行,タ行,ハ行,ザ行,ダ行はそれぞれ s, t, h, z, d で一貫して形を揃え,また拗音には全部 y を用いてその形を揃えるに反し,標準式では「シ」は shi,「チ」は chi,「ツ」は tsu,「フ」は fu,「ジ」「ヂ」はともに ji,「ズ」「ヅ」はともに zu として,それぞれその音を写し,また拗音にしても,何らその形を揃えようとはせず,単にその音を写すのでありまして,子音は英語の子音を用いて居るのであります。

 旧ローマ字会が英語の子音を用いるに至った主なる理由は,英語の子音は日本語の音を写すに必ずしも完全なものではないが,他の国語のそれよりも遥かによく適合したものであり,殊に英語は世界中最も広く行われて居るのみならず,太平洋方面および極東においては最大の普遍性を有し,しかして我が国においては現に中等教育の諸科目中最も重きをなすものの一つであることに鑑み,ローマ字を我が国に普及せしむるには,英語の子音を用いることが最も適切であり,また最も捷径〔しょうけい=近道〕であるというところにあるのであります。

  すなわち標準式が英語の子音を用いて居るのは,ヘボンを模倣したのでもなければ,また英米におもねるためでもなくして,世界的・国家的見地より,いかにせば最も合理的にまた最も容易にローマ字を我が国に普及せしむることができるかということを,十分に考慮・研究した結果にほかならないのであります。しかして言葉の音を写すことを根本主義とすることと,英語の子音を使用することが,ともに国民の意思と合致したる結果,標準式が速やかにしかして広く,また自然的に国の内外に普及せらるるに至ったものであると考えらるるのであります。

 

●委員(松村真一郎君)

 私は註文〔注文〕いたしたいことがあります。ただいままでのお話は大抵のところは書き取っておりますが,両派の意見を反駁〔はんばく〕することは余計なことであり,とにかくただいまはローマ字の問題でありますから,ローマ字の綴り字について,どういう音価を与えられるか承りたい。日本式も標準式もABCに対してどういう音価を与えられて居るかということを承りたいのであります。ただいま桜井委員のお話にも音を写すとか,仮名を写すとかいうことになっておりますが,日本式なり標準式なり……

 

●会長(田中隆三君)

 そういうことは今後の会議で打ち解けてお話しになっては……

 

●委員(田丸卓郎君)

 先ほど日本式の大体の説明として,田中館博士から一応お話しがありました。従って日本式の立場というようなものについても,ちょっとお話しはございましたが,具体的の点についてはお話がございませぬでしたから……

 

●会長(田中隆三君)

 ちょっとご相談いたしたいのですが,この次の会議の時には貴方のご説明を真っ先に伺いますから,今日のところはご意見の発表は留めていただきたいと思います。それからなお田中館君からちょっとご意見があるそうですが,次会のことはどういたしましょうか,できれば議会後に延ばしていただきたいのですが,

 

●委員(田中館愛橘君)

 桜井委員のお話を聴くと,日本式論者が最初に,標準式に対して,ヘボン式という名称を製造したと仰いましたが,このところにある桜井君ご自身に英語で書いた書面に,この通りその中には,ヘブロニアン・システムという辞〔ことば〕が11ヶ所あるのですから,ヘボン式という名称を日本式論者が製造したのでないことは明らかであります。我々のヘボン式というのはむしろこの式の創成者に対して敬意を払って居るものであります(桜井氏の書簡を提示す)。

 

●会長(田中隆三君)

 本日はこれで閉会といたします。

午後4時40分閉会