【紹介】この論文は,社団法人日本ローマ字会・機関誌
「ローマ字世界」第41巻第10号(1951n.11gt.)に発表されたものです.
「東大システム分かち書き」は,
現在ではローマ字文の書き方の標準的なものとなっていますが,
この論文はその原典ともいうべきものです.
おことわり:
●文字づかいやかなづかいは原文のまま
としましたが,つぎの2点だけ変えました.
1.つまる音や拗音を小さな文字に.
2.あたらしい漢字字体にしました.
                (Simizu-Masayuki)

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わたしたちの分ち書きが決まるまで

        後 藤 篤 行

  1.始 め に

 これは東大ローマ字会で,「分ち書きの手引」を作るに当って,その構想をまとめる為め私が自分で歩んで来た分ち書きの道を書いたものです。この文章はまだ良くまとまってはいませんが,正しく,易しい分ち書きを求める声が,日一日と大きくなっている今日,何かの參考にでもなれば幸せです。

 この中の表現を努めて具体的にした為め,私達自身のアラも目立ち,又大分あたりさわりもあるものになりました。もっと抽象的にぼかして書けば,これらを無くすことは出来ますが,それは決して正しい態度ではないと信じ,あえてこのように書きました。どうか言葉の足りない所から来る失礼はお許し下さい。

 

 

 2.―人ぼつちの時代

 

私も多くのローマ字仲間と同じように分ち書きは「ローマ字文の研究」(以下 r.k.と書く)によりました。然し読む時は良いとしても,一度書く段になると分ち書きは非常に重荷でした。あとから見かえした書きものが,あちこちチグハグな分ち書きをしているのは実に嫌なので,一寸神経質すぎるくらい「文法字引」を引きました。だが毎月とどくローマ字世界はもとより色々なローマ字書きの本は総てチグハグがありました。私はこのチグハグは植字工の間違いだと思っていましたが,その間違う点が非常に共通していることにおぽろげながら気がついて,若しかすると書き手のせいかなと考える事もありました。

 然し十年も二十年も昔から「易しい」筈のローマ字をやつている人々が,しかも最高級の頭脳の持ち主達がチグハグの分ち書きをするとはどうしても考えられなかったのでやはり印刷の時の間違いだと思いなおしました。

   3. 口−マ字世界の校正

 そのうち,ふとしたことからローマ字世界の校正をお手伝いすることになりました。これはr.k.中で良く覚えていなかった所やあいまいだった点を,再認識させてくれました。然し,ずい分苦労して校正したつもりでも,他の方々に見ていただくとまだまだ見落としがあったり,なおした所が更になおされたりしました。それでもこの校正のお蔭でr.k.の規則は完全とは行かなくても一応全部おぼえることが出来ました。

 だが,私の得た最大のものは,皆んながr.k.に忠実であるように努めながら,しかも一人としてr.k.を使いこなせないでいるということでした。ローマ字会に来る手紙など個人的なものは勿論,公の性質をもった原稿にも沢山のチグハグがありました。(二十年くらい前からの会員なら葉書一枚でチグハグ二つというのが大体の見当です。)皆んなに是非チグハグのないローマ字を書いでもらうには,間違い易い所を整理して覚え易い表でも作つたら良いかと思い,一寸この間違い易い所を集め出しました。

  4.東大ローマ字会の仲間

 この頃東大ローマ字会が教養学部にも作られ,その会員が十七人程になりました。そのうち特に鈴木重幸さんと宮島達夫さんと私の三人は,殆ど毎日のように集つては議論をしました。議論の焦点は先ず綴りの問題だったので,分ち書きの方は一時おあずけの形になってしまいました。然しこの時程多く啓蒙された時はありません。お互いの意見があんまり食い違っているので,強情な私は自分の意見を曲げる位なら東大ローマ字会なんかから抜けちまえと考えて駄々をこね,鈴木さんなどにはずい分手こずらせたりしました。だが感情的な議論でない限り,必ず「話せばわかる」もので,次第々々に皆が同じ方向に進み出しました。この議論のお蔭で一人では思いもよらなかったような新しい疑問が起り,その答えを求めてローマ字関係の本をあさりました。

 ある時ローマ字世界を創刊号から読みとおしました。これで昔から今までの論争のあらすじを知るとともに,古いローマ字世界にも分ち書きの間違いが沢山あることを再確認しました。例えば任意に選んだ一冊,それは日本式から訓令式に移る事になった丁度変り目の第28巻11号では,本文29頁のうち私が一度見ただけでr.k.と違っている所は,84,内訳は大文字の使いわけで19,分ち書きで64,dyzyの使いわけが1です。

 ヘボン式の資料は東大図書館にあるのを鈴木さんと宮島さんが調べましたが,これは完全な出鱈目で,とても発表出来るものではありません。

 私達はこういう現状を見て,綴りの問題と同時に分ち書きの問題も議論し始めました。

  5・ 読み易さの問題

 分ち書きを決める時,どんな條件を考えなければならないかという問題が先ず起りました。そして一番先に考えられたのは読み易さでした。これはローマ字会理事の三尾砂さんは心理学が専門ででもあるので,三尾さんに現在の学説や參考書などをお聞きしました。お聞きしたことと私達の調べたことから,読書心理学では読み易さについて次のことが定説になっているということがわかりました。

「吾々が読書をする時,行を追って眼球が運動する。然しそれは等速運動をするのではなく,行の途中で時々止まる,この止っている時間が読書時間全部の12/13から23/24をとっている。残りの1/13から1/24は眼球が運動している時間で,この問に知覚は起らない。故に読みの早さ(理解度を含めての)を調べるには,眼球の止まる位置の数と,その止っている時間を調べれば良い。

 しかるに,眼球の止まる位置は,文法や修辞学や意味に関係なく機械的に存在する。

 又,止っている時間はよく知られている語なら短く,そうでなければ長い。

 又「上手な読書(読書時間が短く,理解度の高い読書)と,下手な読書との差は非常に大きいので,あまり非常識な分ち書き(例えば機械的に四字目ごとに切るなど)でなければ,分ち書きによる読み易さのフレは,行の長さや,行間や,活字のポイントによって起る読み易さのフレと同様,そうとう少く考えても良い。」

 これは以前「附きそい名詞tokinotoki noと切つて書いたら,tokinoが一単位時間しかかからずに読める時,toki no は二単位時間かかって了うという事はありませんか」と佐伯功介さんにお聞きした時に「なあに,tokiと noの問に白い活字があると思えば良いでしよう」とユーモラスに答えて下さったのと一致していて面白いと思いました。

これは分ち書き論争の一つのヤマで,ここに至るまで「長すぎてはゲシタルトが出来にくい」とか「ぶつ切りは理解しにくい」などという全く主観的な議論は只の感情問題のもつれから来る所が多かったことも,改めて反省させられました。

 

   6.名詞小文字

 

 これと同時に名詞大文字の根拠にこついても色々なことがわかりました。

即ち,「C  ntr m という語を瞬間的に見せる時,これをCentrum と読む。然し entrum を見せても Centrum とは読まない。

 又 Kl  ngb  ld を見せれば,Klangbild と読むが,  lan bild では読めない。これと同様に語にはその語を読ませる特定の文字があると考えられる。語を決定するに特に必要な文字を決定文字という。どんな文字が決定文字になるかといえば,次のようなものである.

 (1)語の最初の文字

 (2)語のラインの上下に突出している子音文字(例えば b,d,g,y

 (3)母音

 以上がゴールドシャイダーの決定文字説で名詞大文字をとれば(1)と(2)を満足させるので語の特長,決定文字が作り易くなり,有利であると考えられます。これが名詞大文字を主張する最も大きな理由です。

 然し,全体から考えると,この為に有利になる度合はあまりにも小さいので,前にも述べたような行の長さや行間や活字のポイントによるフレによつて消されてしまいます。

 それよりも読書に於ては,書よりも文字,文字よりも語,語よりも文がその出発点になっています。例えばフリーマンの実験によれば次の表が得られます。

 

 AとA,BとB,CとCは物理的性質に於ては接近しているが,心理的性質に於ては大いに異つているものです。ですから,文の中の特定の語だけを読み易くしても,あまり効果がないことはここからも解ります。

 これに対して,「いや,文の中の特定の語を読み易くすることを通じて,文全体を読み易くするのだ」という方があります。こういう議論は,はたしてどの程度の客観的な根拠があるのか知りませんが,たとえ読み易くなったとしても,それは読書のごく初期の段階に於てのみであると言えましょう。

 その上,上手な読書(読書時間が短く理解度の高い読書)との差は非常に大きいので,名詞大文字による有利さなどは,完全に実験誤差の中にはいってしまいます。

 ですから,名詞大文字の習慣が既に出来上っていると判断しない限り,これをとる必然的な理由は無いように思います。名詞大文字をとる理由のうち,口でいう時名詞は強くいう,などというのは勿論間違いですし,一音節の名詞と,助詞がまぎれる時は,そこだけアクセントの印しをつければ、総て解決します。例えば,

   Haru no No no asobi は

   haru no nò no asobi

とするたぐいです。(こんなのを附けなくてもharu no no no asobi の様にコンマをうまく使えば大丈夫ですが)

 ただ,名詞大文字による読み易さの問題だけは,不幸せなことには―−或は幸せなことには―−両方とも数字のないままに“水かけ論”を繰返していたのではないでしょうか。

 結局私達は名詞は小文字にすることに決めました。

  7.新しい分ち書きえ

 この頃,綴りの問題に一応ケリがついたので,分ち書きに議論を集中しました。名詞小文字をとると同時に,名詞大文字のシステムから完全に独立した新しい分ち書きが必要になります。例えば最もわかり易い例として附きそい名詞などという概念は要らなくなるからです。そこで以前に集めた「間違い易い分ち書き」を参考にして,なるべく易しい分ち書きを作るように討論を始めました。名詞小文字のシステムに於ては分ち書きも非常に易しくなります。勿論いくら易しくても日本語の本質からはずれたものであってはなりません。そこで先ず色々な文法書などを調べると共に,又分ち書きの色々なやり方などを集めました。そのうち分ち書きでは次の様なものがあります

 1.ローマ字数科書  文部省他六社

 2.ローマ字文の研究 田丸卓郎

 3.日本文法の輪かく 宮田幸一

 4.ローマ字文章法  ローマ字同志会

 5.ローマ字文法   三尾 砂

 6.ローマ字新聞   ローマ字新聞社

 以上の分ち書きを見て驚いたのは,一つとして同じものがないということです。r.k.にもとづいて作られたのだと思っていたある二社の教科書も違っています。だが,傾向としてはr.k.より切れる方向に進んでいるということは言えましょう。分かり易い為めにこれを教科書について見て見ましょう。

  8.教科書の分ち書き

 ローマ字教科書は七つの出版社から発行されていますが,分ち書きはまちまちで,しかもそれぞれのシステムに於てチグハグが大分沢山あります。甚しいのは途中でシステムを変えたのさえあります。特に問題になるテニオハの分ち書きは図のようです。(図參照)

 教科書で思い出すのは,私はある教科書を用いてローマ字講習会を開いた時,小学校四年生を三十時間だけ受持たせて戴いたことがあります。その時小学生達は読むのは出来ても書くのは全然だめでした。これは私の教え方が悪いのだと思っていましたが,この講習の最後の日に六年生を受持っていられた教育の専門家でありローマ字会のずっと昔からの会員であるMさんが,「小学生に分ち書きを教えるのは不可能だよ」とおっしゃるのを聞き,そして他の人々も皆黙ってそれを聞いているのを見て安心(?)しました。この他実験クラスのOさんからも,又ローマ字教育に非常に熱心なMさんからも同じようなことを聞きました。

 日本が完全にローマ字化され,毎日の新聞がローマ字になれば分ち書きの間違いは今よりは減るでしょう。然し現在の分ち書きを土台から考えなおさなければ,小学生に正しく書ける「易しいローマ字」は決して得られないのではないでしょうか。「小学生や中学生にはどうせ分ち書きは教えきれないのだから,なるべく書かせない方がボロが出ない」という考えにはどうしても賛成出来ません。ましてこの“決心に理論づけをする”ため,田中館先生のくちぶりをまねて「書く時問より読む時間の方が多いし,読み手は書き手の何十倍もあるから,書く方は考えなくても良い」などというに至っては心の底から怒りがこみ上げます。(勿論,中にはこんな“理諭づけ”をまにうけて,オーム返しにとりついでいるに過ぎない人もいるのでしょうが)事実は全くアベコベで現在のようにローマ字の読み物が少く,自分の読みたい本で,しかもローマ字書きのものなどが得がたい時代に,ローマ字の良さがわかるのは書く時にあるのではないでしょうか。その書き方がむずかしければ,「ローマ字教育をやっても,それが終わると同時にもうローマ字を使わなくなってしまうのが残念だ」となるのは当然すぎる程当然です。私は,もし易しい書き方をしていたら,ローマ字を教わった小学生は自分から進んで漢字仮名を止めでローマ字を使うようになると信じます。ローマ字はそうなる良さを持っているからです。

 では,はたして日本語本来の性質は,こんな難しい書き方をしなければならないものなのでしょうか。決してそうではありません,

   9sanninno oya

 分ち書きの間違いを調べて見ると,間違える部分は或る場合には附けで書き,或る場合は離して書く所だけだと言えます。例えば名詞大文字システムに於てはnoの附け離しが非常に複雑ですが,又このシステムに於ける noの間違いは非常に多いのです。それを名詞小文字システムのように何時も切るとすれば問題は起りません。

 然し,これに対する反対論としで,分ち書きで区別が出来る二つの意味が区別出来なくなるというのがあります。良くその例に出るのは「親三人」の意味のsanninno oyaと「小供三人の親」の意味のsannin no oya です。この区別の出来る事が「ローマ字の御利益」のようこ思い勝ちです。然し日本語そのものに於てはアクセントでさえ区別がないのを,分ち書きで区別しよう,而も分ち書きでは附けるか離すかの二種類の方法しかないから二種類にだけ区別しようというのは,本来の日本語には全く関係のない邪道であると思います。或る外国語が区別しているのに,それにあたる日本語の或る言いまわしでは区別していないのを見て,その真似をして[見る,観る,看る,視る]等と書き分けてそれがあたかも日本語を豊かにするものであるかの如く思い込む漢字礼賛者がいます。又ローマ字綴りの表にヴァ,ヴィ,ヴ,ヴェ,ヴォなどの欄を入れれば,それが日本語を豊かにするものであるかのように主張するヘボン式論者もいました。これと同じように sanninno oyasannin no oyaを区別して,それが日本語を豊かにすると思うのは,「精神に於てヘボン式」の分ち書きではないでしょうか。

 本来の日本語からはずれた区別であるが為めに,わかりにくく,間違い易いのでもあるのでしょう。たとえばsanninno oyasannin no oya を区別したければ,その後の意味が出鱈目になってしまうような文章があったとしたら,それは,oya sannin とかkodomo sannin no oya とか書きなおすべきです。少くとも注釈をつけるのは絶対に必要です。何故なら,分ち書きの聞違いは前にも書いた通り非常に多いので,分ち書さだけで大切な意味の違いを伝えようとしても,「この大切な部分には,分ち書きの間違いがない」という保証がない限り読み手は迷わざるを得ないからです。私達などはnoを附けて書くのはむしろ名詞大文字の影響だと思います。 r.k.ではsenmonteki no noを離すと,その前は“無形名詞”とするのですから,大文字で書かねばなりません。このように全部の no を離せば大文字が多くなりすぎて,反つて“意味もとりにくく”なるし,又文面も非常にきたなくなります。それでは「附きそい名詞」や「anootoko; tatigare-suru; sonotoki; menbokunai」などまでやって大文字をへらした努力が無駄になってしまいます。(r.k.參照)

 これは,多分無意識のうちにだつたのかも知れませんが,noはなるべく,前につけて形容詞として使うことを奨励しようとした大きな原因であるように思いまず。(naniの或る場合についても同じことが言えます。)

 然し名詞小文字のシステムに於ては,そんなことは考える必要は少しもない。いや,これを何時も切るのが名詞小文字の長所です。

 頭の中での分ち書きを離れて,実際に使ってみれば,noを何時も離してしまった為めに意昧がまぎれて解らなくなったり,理解しにくくなったりすることは,決してありません。先の読書心理学の定説もこれを裏書きしています。丁度「彼が太郎だ」のgaと「やったが駄目だった」のgaは両方とも離して書いていても,少しも困らないのと似ています。(前のgaは附けて書き,後のgaは離して書けば意味もとり易く,外国語とも一致し,ペンの上げ下げも少くてすむ,という議論が大分強くて,これを納得させるのに田中舘愛橘先生はずい分苦労なさったそうです。)

 

    l0kono

 名詞小文字のシステムでは凡てnoは離す事になっていますが,konosonoanodono などのnoを離したのは一つもありません。

 これは当り前のようですが,大切な事を含んでいるように思います。

 則ち,その第一は,現代の標準語に於ては「koは如何に」や「soが上に熱き涙をしたたらせて」などがなくなり,文語文法のようにkosoなどを独立した代名詞だとは認められないので,それらは死んだものとし,no までを含めて―つの品詞(連体詞)にした,即ち歴史性を一応無視して現代語に重きを置いて分ち書きをきめたことです。

 第二はnoに独立性があっても koに独立性がないので一続けに書いたことです。

   11.以上のまとめ

 noの分ち書きを長々と書いたのは,これと同じ問題がすべての分ち書きについて起るからです。くどいようですがもう一度今まで述べた所の要点を書けば次の通りです。

 (1)現代の分ち書きは非常にむずかしく,一人としてこれを使いこなしていない。従って分ち書きの習慣がすでに出来上ったとは考えられない。

 (2)この分ち書きを易しくすることはローマ字運動に非常なプラスを与えるが,その為には(少くともnoの分ち書きに於ては)本来の日本語に忠実な分ち書きをすれば良い。

 (3)分ち書きを変えることによる読み易さ(理解度を含めた意味)のフレは無視して良い。

 (4)或る場合に附け,或る場合に離すという分ち書きでは問違い易いが,傾向としては離れる方向に進んでいる。

 (5)現代語の分ち書きは,現代語の用法にもとづいて定められるべきである。本来の日本語には無い区別を,分ち書きによつて区別しようとするのは邪道である。

 (6)離す時は,前の語も,後の語も独立性がなければならない。

  12nani

 noの分ち書きは割含にすぐ結論が出ますが,その他の間違い易い所の分ち書きでは仲々議論がつきませんでした。その中でも,最も問題になったのはnaniです。

 附きそい名詞などというものを捨てて,更にanohitokorekaraなどは常に二つに書くという名詞小文字の常道に従えば,分ち書きの間違いはテニオハだけに限られると言えます。このうちnowa は他の小文字システムと同じ様に,常に離すとする決心はすぐつきますが,nani mo to de はどうもそうは行きません。

 naniの離せない理由として次のようなものが挙げられます。

 sizuka nasizuka ni は橋本進吉博士の流れをくむ文法書ではこれを形容動詞としてあつかい,sizukaが語幹,naniは語尾としています。然し時枝誠記博士の文法では形容動詞という品詞をもうけることは不合理だとしてあります。(時枝誠記著,日本文法,岩波新書,1950年発行)勿論この他にも山田孝雄博士(日本口語法講義)や金田一京助博士(国語学入門)など色々の方々も形容動詞を否定しております。体言と,いわゆる形容動詞の語斡が違う点は,主語になれるかなれないかだけに過ぎないからです。

 ここで思いつくのは名詞大文字のシステムでは

  A Kun wa yoppodo baka da

       副詞 形容詞の動詞形

  A Kun wa yoppodono Baka da

       形容詞  名詞

bakaBakaを書きわけていますが,(r.k. 149p)

    A Kun wa 馬鹿da.といった時はbakaでもBaka でも艮いことになっていました。これは日本語の「馬鹿」はbakaBakaの二つの意味を含んだものであること,即ち名詞と,いわゆる形容動詞の語幹とは,厳密な区別がつかないことを示しています。更に

 aitu mo tôtô Dozaemon da. や

     副詞

 mada zenzen akanbô desu

     副詞

などのDozaemonakanbôは,副詞が前にあるからとしても,形容動詞の語幹と見るのは不適当でしょう。又この後にnani が来た時,これを一続けに書くのは無理だと思います。

 そしてsizuka ni sizuka naを一続けに書く人でもsizuka da は離して書くのですから,sizuka na を一続けに書く理由に,一つの品詞,形容動詞だからというのは意味のないことです。

 naniを離せない理由として,utukusii kesikiutukusiiは一続で書くのに,kirei na kesiki とした時は二つに書くのは不合理だというのがあります。

これは kesiki ga utukusii. と

    kesiki ga kirei da

の場合を考えない議論でしょう。同じ概念を表わすからといって,同じ数の単語で組立てられなければならないのなら「三角形」を一続きで書けば「三つの直線に依つて囲まれた平面の部分」(理化学辞典,岩波書店)も一続きで書くようになってしまいます。

 nani を離せない理由としてniは英語の-Iyと同じだというのがあります。然し英語の-lyは常に附けて書くのに日本語のniではkirei ni naru niを続けて書く人でもekaki ni naru niは離して書くのですから(r.k.147p.)較べることは無理だと思います。英語を參考にするのならin good health=健康に,やin a circle=車座に などのinが日本語のniにあたるのではないかという考えを忘れることは出来ません。

 na ni が離せないと主張している人でも

  Sore wa kirei ni sôinai

niは,切らなければなりません。(r.k.139p.)又

  Uti ga kirei ni natta.

ni即ちプレジケートの後にくるniは指定の助動詞daの変化として離すべきだとするのは,文部省教科書,ローマ字新聞,ローマ字文法,などあちこちに見られます。同様にプレジケートの次に来る,na,例えば,

 Tôkyô na no de   のna

kirei na no de   のnaは同じnaだからda と同じ様に離して書くべきだという考えもあります。

 然し私達がこれ等の論争を続けているうちに気の附いたことは,分ち書きは正字法に属するのだから,いわゆる文法とは一応別物として扱うべきである。或る文法システムの説明の便宜のために正字法をまげてはならないということでした。[r.k.にも「kirei da にも全体を形容詞の動詞形」(147p)kenkyû suru と書いても kenkyû suru 全体で一つの動詞」(121p.)o-hikiuke, go-hunpatu, o-kaki などは,suru, môsu, nasaru などの補ひ語(名詞形の動詞)(132p.)などとあって,二群を一つの品詞と見るという立場がとられてあります.名詞大文字の影響ですが」

 結局私達は分ち書きのガンであったnaniは常に切ることにしました。(27参照)

 

   13mo to de

 naniを切る所まで行けばあとは簡単で,kaite momo : kaku tokakimasen dedeも切る事になります。

 このうちmoはいわゆる文法書ではwarai mo sinai moは「も」で kaite mo minaimoは前の -teと一緒にして「ても」だとありますが,waと同じ様に同じmoとして扱いました。〔これ等の文法書では「は」と「ては」になっていません。この助詞の分類でtewaはボーダーラインにあたります。〕

 これらのテニオハを離すのは心理的に無理だという議論もありますが,これも丁度

  inaka no hito rasii

は一続けに書かなければ心理的には無埋であり,又アクセントも一つ一つの単語の時とは大きく変化していても,正字法としてはinakanohitorasiiとするのは不適当であるのと同じ様に,これ等のテニオハも正字法としては切って差しつかえない,否,切った方がはるかに良いと思います。(図參照)

 只,今まで続けて書いていたのを離すと,離れるべからざるものが離れてしまったような,丁度「床の間の置物がわれてしまった」ような,「言語両断」な感じがします。そして始めのうちはタイプライターを打つ時も,ついスペースバーをおし忘れたり,書いているうちに続けて書いてしまう所が出たりします。又,「漢字がむずかしいというのなら,ローマ字だなどとケチなことを言わないで,いっそ字なんか止めちまえばいいだろう」という末期的な漢字論者の考え方をかりて来て「今の分ち書きが不合理で,しかもむずかしいというのなら,いつそ分ち書きなんか止めちまえばいいだろう」という感情的な反対論や,書くのが遅くなるだろうとか,紙が余計いるだろうとか……色々な,反対論もあります。然しともかく「そらで書けてしかも間違わない」分ち書きがどこまで使えるかを実際に試して見る為め,私達は毎日とるノートにこれ等の分ち書きを使って見て,更に改めるべき所は改めようと申合わせました。そして私がそのきまった分ち書きを清書することになりました。さてそれをまとめて書いていると,何だかこの分ち書きを貫いている規則があるような気がしてなりませんでした。それを引出そうと大分努力をしましたが仲々うまく出来ませんでした。

 丁度その時,佐伯さんの「分ち書きについて」(ローマ字世界40巻第8号)について皆で検討をしました。

   l4.「分ち書きについて」

 佐伯さんは,これは「絶対的のものではない」し「お互いに関連するものもあり,矛盾する場合もある」とけんそんなさっていますが,この「分ち書きについて」は今までの,r.k.による分ち書きを,根本から再検討する具体的な第一歩として,ローマ字仲間全部が注目すべきものだと思います。

 その規則の第一は「一ト目読みの都合」です。これは5に書いたように,馴れによる所が大きいので,あまり問題にならないと思います。

 その第二は「文法的の関係」です。これは分ち書きを適当にきめることによって,文章の筋をとり易くしようというのですが,例に出ているtonaの附け離しは漢字仮名の時はベタ書きで書いてあっても,そんなに不便でない程ですから,あまり大きく見る必要はないと思います。

 第三は「字引きの見出し語としての都合」です。字引きのために正字法をまげるのは良くないし,又その必要もないと思います。然しこれを考えに入れるならば,いつも namari no sizuka na などと書いて字引にはsizukanamari だけをのせる方が,namari da namarinamarino,又sizuka dasizukaと,sizukanaと,sizukaniを全部字引きにのせるより良いでしよう。(漢字仮名の字引きでは全部が「静か」だけがのせてあり,「静か」「静かな」「静かに」などと別々にのせてありません。)

 なお,noninaなどを離すとしても,konoや,sudeniや,donna などを切ってはならないという意味が書いてありますが,これは前に「noに独立性があってもkoに独立性がなければ離してはならない」と書いたことと一致します。

 第四は「結びつきの範囲」です。これに後に私達の分ち書きを仕上るヒントになったものです。但しこの例では動詞の或る形にしか附かないテニオハと,動詞の色々な変化形につくテニオハが上っていますが,私達は動詞と形容詞という具合に違った種類の品詞につく場合を考えたのが一寸違います。

 第五は「新しい意味がつく場合」です。

 これなどは新しい意味がついても,なるべくもとのままの形で書いて熟語として扱うのが良いように思います。

 第六は「一方の要素が死んだ単語の場合」です。これはko-no の所で書いたように非常に大切な規則ですが繰返えしになるのではぶきます,

 第七は「文法にない結びつき」です。

 私達は,いわゆる文法は一応正字法と切り離して考えています。それは現代の文法学説は細い点ではまちまちであるし,又正字法が文法学説とともに変動するのは不適当だと考えるからです。従つて文法にない結びつきでも両方の単語に独立性があれば,切って熟語として扱って良いと思います。

 第八は「音便変化,連濁などの起る場合」です。これは音便変化や連濁があっても一意的に分ち書きを定めることは出来ませんからあまり大切ではないと思います。但し後で書くように第4の目安を拡張すれば,ここに例として,又例外として出ている単語はすべてうまく整理されます。

 第九は「音節の中に切れ目のある場合」です。kak a nai と書くのに対する反対論ですが,こんな書き方をする人は先ずないので飛ばしても良いでしよう。

 第十は「問に他の語がはさまる場合」です。間に他の語がはさまるというのは結びつきの範囲が広いことで,第四の目安を拡張すれば良いと思います。

 以上で簡単ながら「分ち書きついて」の私達の考えを書きました。この頃柴田武さんが雑誌「教育生活」に連載された分ち書きの規則と,同じく柴田さんの「分ち書きについての覚え書き」を皆なで回し読みしました。そして国立国語研究所に直接柴田さんをおたずねしてお話を伺いました。今ここに「分ち書きについての覚え書き」を抜書きしながらそれを説明させていただきたいと思います。

   l5・ 分ち書きについての覚え書き

 先ず,「分ち書きは読み易さの為めにする」ということから始って「分ち書きの一文字の単位はあまり長くないことが必要である」し「あまり長くなっては読みにくい」とあります。これはそのまま読み易さが馴れの問題であるという一つの良い例ではないかと思います。柴田さんはうんと切った分ち書きをずっと以前から使っていらっしゃるから長いのは読みにくいとおっしゃいますが,r.k.に従って書いたものに馴れている人達は,皆んな「柴田さんの分ち書きはぶつ切りで富にくい」といっています。

 さて次に「分ち書きは正字法に属する」から「分ち書きは単純な規則にもとづかなければならない」し,その為めには「形態論的単位によって行わるべきもの」であり,「文法とは原則として別なものである」とされています。これは全く私達の分ち書きに対する考えと同じで非常に嬉しく思いました。

 まだこの他にも,正字法にする為めには,「印しはなるべく使わないことが望ましい」とか,「音声的特徴は必らずしも分ち書きの絶対的な手がかりとはならない」など見たところ簡単な,規則も非常に多くの研究の後で,始めてこの結論を出されたのです。

 この鋭い観察と長い間の努力は柴田さんにして始めて出来ることです。

 柴田さんの分ち書きの原則は,種類の違つた自立語(l6参照)をz1z2z3,附属語(16參照)をh1h2h3とした時,次のどれか一つにあてはまれば切ります。

 柴田さんの分ち書きは今までのやり方に較べて非常な違いがあります。それは意味や文法を出来るだけ考えに入れないようにして組立てたので,原則がうんと少くてすみ,従って一貫した易しい分ち書きになっていることです。

 私はこの原則を見た時(3)は要らないのではないかと思いました。つまり(3)で切ることが出来る単語なら(1)か(2)で切ることが出来るのではないかと考えたのです。これは後に宮島さんが柴田さんにお話ししたら,柴田さんも「 (3)は日本語に於ては不必要らしい」とおっしゃったそうです。なお良く調べてゆくと(1)と(2)の原則が重さなる場合が沢山あるので,これは一つにまとめられると見当をつけて考えているうちに,(1)が(2)よりも根本的な規則らしいと気がつきました。更にこれと佐伯さんの考えを研究しているうちに,私達が最初に組立てた「出来るだけ間違いをしないような分ち書き」は非希に簡単な規則で貫ぬかれていることを発見しました。以下私達の分ち書きをこの方法で説明いたしましょう。

  16. 東大ローマ字会(T.D.R.)の分ち書きの原則

 『決して意見を変えない人間,死人と馬鹿』ということわざがあります。これをうんと切って言ったとすると「決して 意見を 変えない 人間,死人と 馬鹿」となります。これ以上切っていうとおかしく感じられたり,意味がとりにくくなります。この様に最も短く切れる単位を文節といいます。 所が「意見」や「死人」はそれ一つでも文節になれまず。例えば,「吾々は正義派であるという最後的な意見,それはいつも正義派によって述べられる」などに表われる「意見」は文節になっています。この様にそれ一つでも文節になれる単語を自立語といいます。

 又「を」や「と」はそれだけでは文節になれず,自立語に附属して始めて文節になることが出来ます。この様な単語を附属語といいます。

 私達の分ち書きの原則は次の二つです。

 〔1〕附ける場合。

 自立語を切って書いてはならない。

 例えば,donnadonnaまでで一つの自立語ですから,これをdon na と書いてはいけません。このことを便宜上,

 donz       ∴ +na  

と書くことにします。

 〔2〕離す場含。

 (違った種類の品詞で終る文節)にのみ附く附属語は離す。

 例えば,「東京へyuki,勉弧したい」や「osanai,可愛らしい少年でした」のyukiosanaiは動詞と形容詞と種類は違っており両方とも文節となれます。

 そしてnagaraは,yuki nagara にもosanai nagara にも附きます。そこでnagara は離して書きます。

 これを便宜上

 yukinagara

  osanainagara     ∴ /nagara

と書きます。

 又yukitaitaiは動詞にしか附きませんから,これは前に続けて書き動詞の語尾として扱います。(そしてyukitaiまでを動詞とします。)

 これを便宜上,

 yuki×tai     ∴ +tai

と書きます。

 (離す場合の原則はこういう意味をもっています。

文節の切れ目は分ち書きの切れ目と一致します。ですから少くとも文節の切れ目で切れている綴りがあるわけです。この後に附属語が来る場合は,その結びつきが相当かたくない限り附けなくても良いと考えられます。その結びつきのかたさの目安すとして,私達は「その附属語が他の品詞にも附くかどうかまたその時の他の品詞はそれ一つだけで用いられるかどうか」にしたのです。)

 以上,二つの原則から分ち書きを組立てると,丁度私達が「間違わない分ち書き」として作ったものと一致します。

  17. 動詞の変化

 

 動詞の終止形がuで終るものについてのみ書きますがruで終わるものも同様です。

kakanai    ∵ kakaz

         (形容詞の変化と同じ)

kakaneba    ∵ kakanez

kakanu     ∵ kakaz

kakareru        ∵ kaka   

kakasareru      ∵ 

kakaseru        ∵    

kake!           ∵ kakz

kakeba          ∵ kakanez   (19を見よ)

kakeru          ∵ kake×ru

kaki      ∵ kakz

kakimasu        ∵ kaki×masu   (19を見よ)

           kakimasen

           kakimasita

           kakimasitara

           kakimasitaraba

           kakimasitari

           kakimasitarô

           kakimasite

           kakimasu

           kakimasumai

           kakimasyô

kakisô            ∵ utukusiz   (19を見よ)

kakitai           ∵ kaki×tai    (形容詞の変化と同じ)

kakitagaru        ∵ kaki×tagaru (ruで終る動詞の変化と同じ)

kakitutu         ∵ kaki×tutu

kaku              ∵ kakz

kakubeki          ∵ kaki-uz

kakumai            kaku×mai

kakna!             kaku×na

kaite              kaiz

kaita             ∵ kaiz   (19を見よ)

                         kaitara

                         kaitaraba

                         kaitari

                         kaitarô

           

18形容詞の変化

 

uresii             uresiz                    

uresikarô       uresiz   

uresikatta      ∵ uresikatz(19を見よ)

                        uresikattara

                        uresikattaba

                        uresikattari

                        uresikattarô

uresikereba        ∵ uresikerez

uresiku          ∵ uresiz

uresikute        ∵ kaiz     (19を見よ)

 

  19.以上の分ち書きについて

以上の分ち書きのうち疑問の起りそうな所について説明をします。

t〕附ける事について

t1〕 +ba

 +baは kakeba()kaitaraba()kakimasitaraba()utukusikattaraba()の他に,kakaneba()kakarereba()kakasarereba()kakasereba()utukusikereba()などにも附きます。このうち前の群はbaがなくとも自立語になりますが,後の群は自立語でなくなります。従って勿論文節にはなりません。ですから,baは切る場合の原則「(……)にのみ附く附属語は切る」にあてはまりません。

t2〕 +

 sôkakikireiの他にutukusiにも附きます。utukusi は自立語ではあri

ませんから〔t1〕と同じ理由で附けて書きます。〔但しこのと機能の違う23に出て来ます。〕

t3〕 +mai

 maikakumaikakimasumaiに附きます。然しmasukakix masu ですからkakimasu までを一続けにして動詞の変化形として扱わなければなりません。故にkakikakimasuも同じ種類の品詞の変化形で,離れる原則はあてはまりません。

t4〕  ta,+tara,+tari,+tarôなど kaitautukusikatta kaitara utukusikattarôなどは前が自立語にならないので必ず続けなければいけません。ただこれを意地悪くtarataritarôとしないで,kaitarakaitarikaita とされると困るので念の為。

k〕切る事について。

k1〕 /to

kakuto

utukusiito     to

k2〕 /wa

kakiwa

utukusikuwa     wa

k3〕 /mo

kaitemo

utukusikutemo    mo

k1〕 /de

kakimasende

naide           de

 以上で動詞と形容詞の分ち書きで疑問の起りそうな点のあらましを述べました。

20.助動詞

 助動詞は用言の語尾となるものの他は総て離して書きます。

    utukusi

    kaitasô             ∵ /

    utukusii

    kaitayô             ∵ /

    utukusirasii

    kaitarasii          ∵ /rasii

    kireida

           (desu)

    kare toda            ∵ /da

             (desu)            desu

    utukusii nara

    kaita nara             ∵ /nara

 このうちrasiidadesunaraの後に附く特定の助詞,助動詞は語尾にします。

 rasiiは形容詞の変化と同じ。

 dadesuは次の通りです。    。

 dadarôdattadattaradattarababadattaridattarô

 naranaraba

 desudesyôdesitedesitadesitaradesitarabadesitaridesitarô

 これ等を一続けに書く理由は19の〔t〕を參照して下さい。      ,

21. 助詞

 助詞は,用言の語尾となるものの他は総てて離して書きます。

 但しniwanimo dewa demotowatomoは常に一続けに書きます。これは今までの習慣,特に佐伯さんの「分ち書きについて」にも示された御意見を重んじたのです。

 用言の語尾でない助詞を全部離すのは

   Tarô ga

      Tarô nado ga       ∵ /ga

      korosu gurai

      ningen gurai       ∵ /gurai

などとなれるからです。

22.副 

副詞は〔H1nitoで終らないもの

H2nitoで終るもの

に分けて考えると便利です。

〔H1〕には問題はありません。

 hutatabikessiteômunetabun等々

〔H2〕は,副詞以外には用いられない単語で後がnitoで終っているもの,例えば,gennisudeni kittotyotto は勿論一続けに書きますが

 〔k1〕それだけで独立して用いられるものにnitoが附いた場合

 (例)Nipponteki daNipponteki ni

    sikkari yaresikkari to

 〔k2nito の代りに他の離して書く助詞(例えばnowa)が交換出来る場合

  (例)「hizyô no場合のドアの開け方」→hizyô ni

  k3〕擬声,擬態の語にnitoが続いた場合

   (例) gorori to dokan to

の三つの場合にはni toは離します。

   23. 連体詞(名詞を修飾する語で活用しないもの)

 連体詞は〔R1nanoで終らないもの

     〔R2nanoで終るもの

に分けて考えると便利です。

 〔R1〕には問題はありません。

 arayuruiwayurutaisitawaga等々。

R2〕は連体詞以外には用いられない単語で後がnanoで終っているもの,例えば

konnadonnaanokudanno,は勿論一続けに書きますが,

   〔k1〕それだけで燭立して用いられるものにnanoが附いた場合

   (例)Nipponteki daNipponteki na

    sukosi yattasukosi no

 〔k2nano の代りに他の離して書く助詞(例えばniwa)が交換出来る場合

 (例)tossa nitossa no

の二つの場合にはnanoは離します。

  24. 接続詞

 接続詞以外には用いられない単語,例えばoyobimosikuwa sikasiなどは一続けに書きますが,他の単語を集めて接続詞の代りにしたものは離して書きます。

 (例)da gadesu karasore da karada kara to itte;などなど

25.そ の 他

 感動詞や名詞(普通名詞,固有名詞,代名詞,数詞,形容詞の語幹)の書き方は今までと同じです。

 品詞論は以上で終りですが,なお接頭語,接尾語は離さない。

otôsanhukamimottaiburukarerawatakusitatibuyôzintayasui

復合語も,

kakidasukakiuruasaguroi;atukurusii hanakagohahaoya など殆んど問題はありませんが,或種の復合語,特に漢語には迷うことがあります。例えば『アメリカ教育使節団員一行」を“Amerikakyôiku Sisetudan in ikkô と書く人は先ず無いでしょうが,ずい分まちまちに書けそうです。

 復合語を切って書く時は(又は幾つかの単語を復合語する時は),一つ一つが独立した品詞として用いられるかとか,頻度数とか,アクセントや音節数なども関係するので仲々一意的には決まらないように思います。(語イ的には試案として決めてはありますが。)

   26.このジステムについて

 

  今までの分ち書きの方法は,始めにあるシステムを考え,それに従って分ち書きを組立ててきました。私達は逆に分ち書きの間違いを集め,それ等がなくなるような分ち書きを作り,後からシステムとしてまとめました。

 前のを演繹的というのなら,後のは帰納的ともいえましょう。ですから私達はこの分ち書きをよりよく説明する方法があれば,ためらわずにそちらをとります。然しそれはあくまで説明する方法をよりよい方に変えるのであって分ち書きそのものをこれよりむずかしいものに変える必要は認められません。勿論分ち書きのつねとして,このシステムに於て も附けるか離すかの境い目にあたるような語イがないことはありません。然しそれは桁違いに少い上にもってきて,「附けるか離すか迷うときは離す」のを最後の原則にしていますから,分ち書きで困ることなどは絶対にありません。

 今私達は,毎日とるノートにこの分ち書きを使っていますが,非常に具合が良く,また新しい会員でもその日から使っています。そして,実際に使って見て始めて読む時遅くなるだろうとか意味がとりにくくなるだろうなどという反対論は単に想像に過ぎないということを知りました。

  27.終 り に

 この分ち書きを決めてから川上晃さんに,アメリカの言語学者であり且,日本語研究の権威であるハルペン博士のやり方がこれと同じであることをお聞きしました。又,進駐軍の日本語教科書(ブロック著)も同様の分ち書きを使っています。勿論私達はこれ等を參照したことなどは絶対にありません。

 そしてこの分ち書きが実際的にもすぐれたものである一つの理由として,終戦以来多くの戦災孤児をひきとり寝起きを共にしながらローマ字で教育なさっている三尾砂さんが,今度御自分が発行されている国民図書の教科書を改める時はこういう分ち書きになおしたいといって示されたのはこれと全く同様のものでした。又,現場の先生達がお作りになった教育図書の教科書も分ち書きを易しく改めるそうです。この二つが最も良いロ←マ字教科書であることは定評のある所ですから,これが易しい分ち書きをとるようになれば本当に素晴しい教科書が出来るわけです。    

 

28. つけたし

 この原稿を書きあげてから,カナモジ会のマツサカ タダノリさんにお会いして,カナモジ会の分ち書きのシステムと,その移り変りについてお聞きし「ワカチガキノ ケンキュウ」(1943年発行}を拝見しました。今私達の參考になりそうな所を抜き書きして見ます。

 『コノ処置ワ「ナ」ヲ助詞ノアツカイニシタモノデアル。

 一般ノ文典デワ コノ「ナ」ヲ「指定ノ助動詞」ノ「だ」ノ連体形トシタリ,アルイワ前ノコトバト ヒックルメテ「形容動詞」トナヅケタリシテイル。

 助動詞説ワ,起原カライエバナルホド にある>なる>な デアル。ガ,文法論ニ沿革論ワ禁物デアル。アクマデモ「共時論」デ論ズルノデナケレバ科学トワイエナイ。

 現代語ニオイテワ「な」ト全然オナジ用法デ「の」ガツカワレテイル。

 しばらくの間;やっとの思;堂々の陣;勿論のこと(ナカニワ両方が任意ニツカワレテイルモノモカナリアル)

 シタガッテ,「な」ガ助動詞ナラバコレラノ「の」モマタ助動詞ダトミナケレパナラナイ。副詞格ノ「に」モ同様デアル。シカルニ「の」「に」ヲ助動詞トスル文典ワ見タコトガナイ。ソレデヨイノデアル。助詞が格ヲアタエルノデアル。シタガッテコレラノ「の」「に」ガ助詞トユウ分類ノママデサシツカエナイノト同様ニ,「な」モマタ助詞ノアツカイヲシテ サシツカエナイ。

 マタ「嬉シカッタ,悲シカロウ」ノタグイワ しくあ>しか ノ経過ニヨッテ2語ノ境目が1音節ニクッツイテシマッタノダカラ1語トスルノワ理由ガアル。(最後ノ「だ」「う」ワ助動詞)シカシ,他ニソレト同ジ意義ダカラトイッテ「静かだった」「立派だろう」ヲモ同ジニ見ルノワ,修辞論ト単語論トノ混同デアルトイワナケレバナラナイ。

 「嬉しかった」ノ「かった」ヲ去ッタ「嬉し」ワ「嬉し泣き」ノヨウナアワセ-コトバヲツクル以外ニワ,口語トシテワ独立シテツカワレルコトガナイ。シカルニ「静か」モ「だった」モ,リッパニ独立スル。「静かとは言えない」「家賃は安く,あたりも静か,これなら申し分ない」ナドニヨッテ,「嬉し」トワマルデチガウ「静か」ノ独立性ワ知ラレヨウ。「だった」ワマタ「夢だった,戦地だったら」ト名詞ニツク。「静かだった」モ,「夢だった」モ,文法上(文典上デワナイ)全然オナジ「だった」デアル。同様ニ「戦地なので」モ,「静かなので」モオナジ「なので」デアル「戦地」ガ名詞デアルゴトクニ、「静か」モ名詞格ニツカワレテイルノダト見ルコトコソ,分析ヲモッパラトスル単語諭ノ立場デナケレバナラナイ。「静か」ワ主格ニタタヌカラ名詞トワイエナイトユウナラ,マエニモノベタトウリ〔44〕「準体形」トカ「準名詞」トイッテモヨイ。名ワドウアロウトモ,「静か」ワアラユルバアイヲ通ジテ(静かだ,静かに 静かならば 等々)同一ノ単語デアルト見ルノデナケレバ,国語ノ事実ヲ説明スルコトニワナラナイ。スナワチ「静かに」ガ,語節論トシテワ,1語節〔1文節の意味(寫し手)〕デアルケレドモ分析的ナ単語論トシテワ「静か」ニ「に」ガツラナッタモノデアルコト,アタカモ「春になれば」ノ場合トスコシモカワラナイ。「春になれば」ノ「に」が助詞ナラバ「静かになれば」ノ「に」も助詞トスル見解ワ文法上何等サシツカエナイハズデァル。

 山田孝雄博士ガ「助詞」ノ「に」ノ説明ノナカニ「副詞その他用言に対して修飾の地位に立つものに附着する場合」トユウ一項ヲモウケ「美事に出来る」,「静かにしている」ヤ,「待ちに待って」,「思ひ思ひに」ナドノ例ヲアゲラレテイルノワ,実ニワガ意ヲ得タモノデアル。(「日本国語講義」150151ページ)

 以上ノ論ワ「な」ヲ存在詞(助動詞)トミルベキデワナイトユウノデワナイ。存在詞トシテモヨイ。ガ,助詞トミルコトモ何等不都合デナイトユウノデアル。ナゼ助詞ニスルカトユウニ,ワカチガキ法ヲナルベク例外ノナイ,オボエヤスク,マヨウコトノナイモノニシタイタメニホカナラナイ。」(71p73p

 『助詞ノ多クワオナジ文字ガイクトウリニモチガウ意味ニツカワレル。ソレユエ意味ノチガイニヨッテツナゲタリハナシタリスルコトニスレバ,テゴロノ長サヲ得ルノミナラズ意味ヲハッキリサセルコトニナッテ都合ガヨイ……ト一応ワカンガエラレル。タトエバ,「めくらの子供」ヲ,子供自身ガメクラナラ「めくらの」ヲ形容詞トシテ「メクラノ 子供」ト書キ,親ガメクラナラ「メクラ ノ 子供」ト書クタグイデアル。

 シカシ,コノ方式ワ実地ニヤッテミルト容易ナラヌムズカツサヲトモナウ。「竹の柱に笹の屋根」ワ「竹」ヤ「笹」ヲ名詞トミルベキカ,ソレトモ「の」マデイレテ形容詞トスベキカ。「風の便り」「烏の行水」「紺屋のあさって」「夜の目もねずに」「酒のきげん」「知らぬ顔の半兵衛」サテワ「平気の平左」「唐人の寝言」「屁の河童」等々,ホトンドヤブシラズノナカニマヨイコム気持デアル。

 「に」ニシテミテモ同ジコトデ,「静かに」「僅かに」ナドヲ副詞トシテツナゲルコトワカクベツムズカシクモアルマイガ,「財布がからになる」カラハジマッテ「からっぽになる」「一文無しになる」「貧乏になる」「乞食になる」「どろぼうになる」「人殺しになる」「前科者になる」ノ,ドコイラヘンデ副詞ト名詞トニフリワケルカ,考エレパ考エルホドマヨワサレル。』(7980p)

 ソレデワ,助詞ニオイテ同ジカナガイクイロモノ意味ニツカワレテイル事実ワ,実用上ドコマデ区別サレルノガ適当ナノデアロウカ。コレヲ知ルニワ申シブンノナイ材料ガアル。ワカチガキヲシテイナイ漢字マジリ文ニオイテワ,同ジ発音ノコトバヲ漢字ノツカイワケニヨッテ,タトエバ 見る,観る,視る,看る……喜ぶ,歓ぶ,欣ぶ,悦ぶ……ノヨウニ必要ノ程度ヲハルカニコエテマデ使イワケシテイルノデアルガ,ソレデワ助詞ワドノヨウニ書キワケテイルカトユウニ,全然書キワケテワイナイトイッテモヨイノデアル。支那語(漢文)トノ関係ニオイテ助詞ノ漢字書キガハヤラナカッタ必然ノ事情ワアッタニシテモ,モシ実用上ソレデサシツカエガアルナラバ,たとえば「の」ヲソレゾレ意味ノチガイニヨッテ「之,乃」ナドニヨッテ使イワケルコトガ当然オコルベキハズデアル。コノ事実ノウエカラ,助詞ヲ意味ニヨッテ書キワケルコトワ,原則的ニワ無用ナ,ムシロ非常ナワズラワシサヲモタラス点ニオイテ有害ナコトデアルトシナケレバナラナイ。』(80p

 以上の議論に賛成なさらない方でも,この「ワカチガキノケンキュウ」が出てからカナモジカイでは分ち書きの間違いがなくなったということは見のがせません。

 習慣は,個人的なものでも改めるのはむずかしいことですし,又自分から改めようとするのでない限りそれは非常に不愉快なものです。まして長い間,非常な努力を費さしたものを,急に易しいやつが出て来たからといっておいそれと乗り変える気の起らないのは当然です。然し吾々は,社会的な習慣をも改めようと,いうローマ字論者です。どうかこれを機会に,仲間の一人一入が分ち書きの再検討に眼を向けられんことをお願いしてペンを置きたいと思います。(修文館は今年改訂する教科書から,全くこの分ち書きとする事にきまりました。これで名詞小文字システムの教科書は,文部省以外,重要な分ち書きは全部同じになるわけです。

 文部省の分ち書き部会も,大文字システムの委員と小文字システムの委員にわかれて審議すれば,すぐまとまるのではないでしょうか。)

 なおこの他,分ち書き字引などは,紙面の都合で一切はぶきましたことをお断りいたしておきます。(係)