九・一八歴史博物館と柳条湖爆破記念碑

                         加藤正宏

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2011年9月中旬、瀋陽領事館から「お知らせ」メールが入った。

 満州事変の発端となった柳条湖事件が起こされてから、今年は80年の節目の年になり、中国では大々的に式典を行うため、瀋陽在住の日本人に注意の知らせを入れたのであろう。私は既に瀋陽に在住していないのだが、知らせを受けた。以下は領事館から送られてきた「お知らせ」メールである。

 

 a、 在瀋陽領事館からのお知らせ

(1)          今年は、満州事変(柳条湖事件)の80周年に当たり、満州事変発生の地である瀋陽市では、記念式典活動が次のとおり行われる予定です。

ア 9月18日午前9時18分、九・一八歴史博物館の残暦碑広場において「『九・一八』を忘れるな撞鐘鳴警式典」が挙行される。

イ 9月18日午前9時18分から市内で3分間防空警報が鳴る。

ウ イに併せて、市内の指定された道路(*)を走行中の車両は停車しクラックションを鳴らす。

エ イに併せて、瀋陽テレビは通常の放送を中断し、「勿忘国恥、振興中華(国辱を忘れるな、中国を振興しよう)」の画面と警報音を放映する。

 *指定された道路・・・(筆者により省略)

(2)  現在のところ、瀋陽市をはじめとする当館管轄区域(東北三省)内の都市で、抗議デモ等の反日活動が行われるとの具体的情報には接していませんが、在留邦人の皆様には、念のため以下の諸点にご留意ください。

○外出する際には注意を払い、大勢の人が集まっている場所には不用意に近寄らないこと

○中国人と接する際には言動や態度に注意すること

○日本語で大声で騒ぐ等の目立つような行為は慎むこと

(3)      なお、緊急の場合は、当館緊急電話(・・・-・・・・-・・・・)にお願いいたします。

 

 この「領事館からのお知らせ」は2011年9月14日に中共瀋陽市委員会と瀋陽市人民政府連名の下記の通告に基づいたもののようだ。

 

 
 
 
 
 瀋陽晩報9月18日  瀋陽日報9月18日  遼瀋晩報9月18日  遼寧テレビ
不能忘却的記憶

b、 関于“九・一八”鳴響防空警報的通告

  今年9月18日是“九・一八”事変爆発80周年、為教育人民勿忘国恥、振興中華、警醒世人居安思危、警鐘長鳴、定于9月18日上午9時18分、全市鳴響防空警報三分鐘。瀋陽広報電視台中断正常節目、挿播“勿忘国恥、振興中華”画面和警報声音。届時、在市区規定区域道路上行的機動車輛一律停鳴笛。警報解除后、節目恢復正常播出、車輛恢復正常行

特此公告

中共瀋陽市委員会

瀋陽市人民政府

2011年9月14日

規定停鳴笛的街路及区域(筆者により省略)

 

 
 
 瀋陽日報9月19日  華商晨報9月19日

 式典が行われた広場に建つ“九・一八歴史博物館”は現在三つの部分(残暦碑、抗戦勝利記念館、及び新館)からなる。その歴史博物館の顔とも言える残暦碑が建てられたのは1991年の“九・一八”60周年であった。最初は“九・一八”事変陳列館という名前であった。1999年に新館ができている。このとき、当時の江沢民総書記が“九・一八歴史博物館”と題して館名を書き、この名が確定した。

 18メートルの高さ、幅が30メートル、厚さが11メートルもあるこの大きな碑は、卓上暦が開かれた形になっていて、右頁には「1931年9月18日星期五」(*星期五=金曜日)、左頁には事変の経過が記述されている。頁のあちらこちらには弾痕跡や髑髏など白骨が刻まれている。その碑内の陳列館内部正面には残月形の時計が22時20分を指している。鉄路が爆破された時間である。記念式典の時間は月日を時間に見立てたものである。

 

c、 日本史教科書に記載された柳条湖事件と満州事変

 この“九・一八”事変、つまり満州事変については日本の高等学校の日本史教科書では次のように記載されている。ごく一般的な2冊を挙げておく。

「1931(昭和6)年9月18日、関東軍は、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを中国軍の行為であると主張して軍事行動を起こした(柳条湖事件)。浜口内閣のあとを受けた民政党の第2次若槻内閣は、不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して戦線を満州全土に拡大していった(満州事変)。」(平成6年第一学習社B)

「関東軍は参謀の石原莞爾を中心として、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満州事変がはじまった。」(2004年山川出版、詳説B)

 当然中国の教科書でもきっちり取り上げられてきていた。それは当然のことだと思う。

しかし、このような大規模な博物館ができたのは90年代であり、9月18日午後9時18分(今年は午前9時18分)からの3分間の防空警報のサイレン、自動車のクラックションが毎年鳴らされるようになったのは1995年からである。私にはこれらの動きには江沢民の影響が大きくあると思えてならない。

 

d、 柳条湖爆破記念碑

 日本語教師として西安の西北工業大学に最初に赴任した1980年代中頃、その休暇を利用して独りで中国を旅した。瀋陽では北陵からバスを乗り継ぎ、柳条湖の列車爆破事件の歴史現場を尋ねた。日本では世界史の教師であった私にとって、確認しておきたかった歴史の現場であった。その時に付けた日記には次のように書いてある。

「北陵から213路のバスに乗って化工廠で降り、柳条湖事件の跡を探すが、それらしきものは見つからず、道路が鉄道と交差している辺りは、道路や鉄路が何重にも立体交差しており(望花立交橋など)、大きい道路がダブって十字に走っている。それでも、その付近の鉄路を写真に収め、そこを通りかかった人に尋ねると、『この辺り、日本人が施工し建設したところだ。あの倒れているコンクリートもそうだ。』と話してくれた。どこかに中国人の建てた碑がないかと尋ねたところ、『そのようなものは知らない。』とのことであった。私は日本人だが、真実の歴史を知って、確認して、日本に帰ってその真実を教えたいと述べたところ、一人の中国人が『為政権服務、不存在真正歴史(政権のために何事もなされ、本当の歴史など存在しない)』と私の手帳に書いて寄こした。」(1987年9月8日)

手帳に書いて寄こした文面を見て、中国ではこれが一般的な考えなのか、一般庶民なのにずいぶん覚めた考えをもっていると驚いたものである。

 
 
 
 柳条湖の線路  柳条湖線路脇の爆破記念碑残骸1987年9月

写真を見てもらっても分かるように、線路の傍にコンクリートの大きな塊が転がっているだけであった。戦争を直に知らない私には護岸のために海に沈められる塊のように見えたが、爆弾の尾翼を模ったものだそうだ。そして、これが柳条湖爆破記念碑なるものの残骸であった。

 
 
柳条湖爆破記念碑、当時の写真 

当時の絵葉書を見ていただこう。大きな正方形の台座に、頭部を突き込んで尾翼だけを見せている爆弾のような形をしたものがある。私が線路の傍で見たコンクリートの残骸、まさにそれである。日本によって1938年に線路脇に建てられた記念碑である。その碑の後方(線路側から)に4枚の正方形の看板が立てられ、向かって右から一枚ごとに一字、計4字「爆」「破」「地」「点(旧字)」の文字が書かれ、通過する列車から十分見て取れた。宣伝効果をねらったものであろう。

また、コンクリートの記念碑が建てられる前、柳条湖事件が起きて間もなく、線路の極近くに標識柱が建てられていたそうだ。そこには「昭和六年九月十八日支那兵線路爆破地点」と書かれていた。現在は勿論この標識柱は存在しない。 

 
 
 9月18日瀋陽晩報  9月18日瀋陽日報

 今年2011年9月18日の中国の現地の新聞『瀋陽晩報』には「假現場豈能掩蓋真侵略 “柳条湖事件”后 日寇簒改歴史 醜行一幕幕」との見出しの下、これら全てが写っている写真が掲載されていた。また『瀋陽日報』では「顛倒黒白 日本厚顔無恥建“柳条湖爆破記念碑”」と見出しで、この事件を日本が中国人のしわざにするための宣伝をしていたことを取り上げていた。これら二紙とも、これに加え、柳条湖事件を機に日本が攻め込み支配した北大営に建立された戦績記念館のことにも触れていた。絵葉書と『瀋陽晩報』に掲載されていた写真を紹介しておく。

 
 
 
北大営の戦績記念館   新国六三の廟墓

 北大営に関係するものとして、このHPの「瀋陽11、旧湯玉麟公館(旧独立守備隊司令部)」を見て頂ければと思うが、このとき「北大営夜襲第一の犠牲者、新国伍長碑」で紹介できなかった写真を、今回ここに紹介しておく。『瀋陽晩報』から取ったものである。

当時、満州事変を日本ではどのように教えようとしていたのか。昭和13年(1938年)文部省発行『小学校国史教師用書 下巻二』より、見ておこう。なお、中国の小学校の教科書ではどのように記述しているかはHP瀋陽史跡探訪の「25.遠足」で原文を紹介している。

タイトルは「満洲事変の発端」(513~15頁)

 
 文部省発行
『小学校国史教師用書
 下巻二』より

「昭和六年九月十八日の夜、虎石台守備隊では、中隊長陸軍歩兵大尉川島正指揮の下に、文官屯附近に於いて夜間演習を実施していた。其の南にあたる王官屯の西南側の南満洲鉄道の踏切事故の多い場所である為に、此の夜も柳条湖分遣隊から潜伏斥候を配置させてあった。たまたま中隊附の陸軍歩兵中尉河本末守は、巡察兵の動作を監察するの任務を帯び、伝令二名を従へ、ジャック、ボックス(Jack-box)の説明などをして、奉天駅の方向に前進した。丁度北大営の西南方約八百米の踏切附近に到った時に、後方煉瓦焼場(北大営の西南方五百米にあり)の方角に当たって、一大爆音の起こるのを耳にした。よって、中尉は斥候を呼び集めて、爆音の起こった地点に走ると、煉瓦焼場の西側なる鉄道線路が爆破せられあることを知った。時に、陰暦七日の月は早や既に高粱畑の彼方に没して、星光淡く空に瞬いて居るばかりであった。中尉が爆破の詳細を調査しようとした、その遑もあらばこそ、突如闇の中から射撃された。中尉は直ちに之に応射したが、忽ち六七名の支那正規兵が北方に遁走するのを認めたので、線路に沿ってやく百米ほど追撃した。然るに、右前方北大営と線路との間にある高粱畑中の煉瓦焼場付近から猛烈な射撃を受けた。兵数は三四百名もあらう。しかもそれが我が柳条湖分遣隊に向かう様である。よって、中尉は急を中隊長に報告すると同時に、ジャック、ボックスで南満州鉄道の各駅に通知した。さきに爆音を聞くや直ちに部下を率いて急行した中隊長川島大尉は、途中河本中尉からの報告に接したので銃声の方向に前進した。丁度北大営の外郭を南へ二百米も離れたと思う頃、突然東方高粱畑からまたもや猛烈な射撃を受けたのであった。中隊長は躍る胸を落付かせて、判断を下した。『今や日本軍は、支那軍に攻撃されているのだ、理由は兎も角、断然これを撃滅せねばならない』と。そして直ちに次の決心をした。『大隊長の判断も恐らくこれと同じであらう。されば戦闘を有利に導くため,たとへ中隊は全滅しても北大営の一角を占領して置くの要がある。』と。わずかに百余名の部下を提げ、全滅を期して敢然一万余の大兵の屯して居る北大営を占領しようとする中隊長の決心は、まことに壮烈無比なものといはねばならぬ。かくて北大営攻撃の命令がくだったのであった。」(*旧漢字は現在の漢字に直している。)

 写真は『小学校国史教師用書 下巻二』510頁に掲載されていた「北大営の夜襲」の絵である。

 

e、 江沢民の政治姿勢

 ところで、1980年代には陳列館さえ無かったこの地に、残暦碑を顔とした陳列館が90年代に入って建てられた。見向きもされずに放置されていた柳条湖爆破記念碑の残骸はこの陳列館の前の広場に展示されるようになった。

 
 
21世紀初めに見学した残暦碑記念碑 
と爆破記念碑 

21世紀初めに、吉林大学で日本語を教えていた私は、ここを見学しに来ている。写真はその時に撮った残暦碑と柳条湖爆破記念碑の残骸である。

 このHPの「長春05 70年前、ここに満州国の首都があった(満州国の首都新京に住んでみて)」でも紹介したように、溥儀の偽皇宮と呼ばれる博物館の正面には、江沢民が書いた「勿忘“九・一八”」と刻まれた大きな石が安置されていること、2001年9月18日には柳条湖事件の70周年記念行事が行われ、夜の9時には市内全域で30分間もサイレンが鳴らされたことも紹介した。このとき、瀋陽でもハルビンでも同じようなことが行われたという。

また、瀋陽で3分間の防空警報のサイレン、自動車のクラックションが毎年9月18日午後9時18分から鳴らされるようになったのも1995年からだという。

これらの動きには江沢民の影響が大きいと私には思えてならない。“九・一八歴史博物館”の題字も江沢民によるものだ。柳条湖爆破は日本の教科書にも記述されているように日本がでっち上げたというのが、歴史的な事実であることは確かだと私も考える。しかし、これを中国の愛国心高揚のために殊更クローズアップさせたのは江沢民その人であろう。事実、80年代に外国人の私がこの地を、歴史的な現場として確認しに行った頃には、全く史跡として保護はされていなかった。その事実は私が撮った写真を既に見て頂いたので、分かってもらえるはずだ。

 中国を動転させるような学生の民主化運動が1989年に起こった。天安門事件である。これを反革命動乱として武力で鎮圧させた鄧小平は、学生の民主化運動に理解を示していた趙紫陽を失脚させ、江沢民を登用した。

このような背景で登場した江沢民は国内をまとめていくために、政治家が良く使う常套手段を用いた。国外に敵を意識させることで愛国心高揚を図る策である。1994年には「愛国主義実施要項」を制定、1995年からは徹底した反日教育を推し進めていく。教科書は勿論、今回取り上げた博物館などの施設建設や行事式典が大々的に行われるようになった。

この教育によって、中国の若い世代に反日感情を必要以上に植え付けてきたと言える。中国の新聞では報じられていないが、今年の“九・一八”式典でも、一部で若者が日本の国旗を燃やしたようだし、中国サイトから、17,18日にかけて日本政府機関へのサイバー攻撃も行われたようだ。写真は神戸新聞9月19日20日の記事である。

 
 
神戸新聞2011年9月19日20日の記事 

2004年の中国で行われたサッカーのアジアカップなどの騒動も、2005年の上海領事館、北京大使館への投石なども愛国主義高揚政策(反日を軸とした)で教育を受けた中国の若者たちが主体である。当時の日本領事館への動きは各地に広がり、瀋陽でも動きがあった。このときの様子はこのHPの「瀋陽26 朋友馬さん」で紹介しているのでご覧いただきたい。

国内の矛盾、共産党一党独裁支配への批判、これらへの矛先をかわす為に、国外に敵を意識させることでやってきた政策が、国の意図以上に若者の意識を洗脳し、日中関係を不幸にしてきているように思える。戦後半世紀を既に大きく経過した現在、過去を取り上げて現在の日本や日本人を敵として意識するのは、江沢民の時期の教育や思想政策のせいであろう。教育の恐ろしさを感じさせられる。

初めて日本語の教師として赴任した80年代半ばには、大学の中で出会う人も、街中で出会い知り合った人も、一般の日本人と戦争指導者や軍人とは区別し、日本の民衆もこの戦争では被害者であった、戦争や戦争指導者は許せないが、あなたが謝る必要はないというのが普通であった。これが江沢民の支配する中国の下で、変わってしまった。

 

f、 以和為貴

“九・一八”歴史博物館の歴史上、忘れられない歴史(として新聞が取り上げたこと)

 2011年9月18日『瀋陽日報』の「勿忘国恥“九・一八”事変八十周年特刊」(9頁にわたる特集)の第6面に「警世篇 血涙歴史 震撼人心―“九・一八”歴史博物館建立以来難忘的18个歴史定格」と題された頁がある。

 

 
1997年9月6日
 橋本竜太郎と以和為貴
瀋陽日報
2011年9月18日

その1に取り上げられているのが「1、1997年9月6日、日本時任首相橋本竜太郎来瀋訪問、併在残暦碑前親手写下“以和為貴”四个字。」で、字を書く橋本首相の姿が大きく写真としても掲載されていた。

これ以外の17件の項目を挙げると、次のようになる。

2、“九・一八”歴史博物館拡建(97年11月2日)  3、江沢民為“九・一八”歴史博物館題写館名(99年9月18日)  4、張学良妹妹張懐敏来瀋参観(99年9月23日)  5、万民市民簽名紀念(00年9月18日)  6、日本戦犯参観長跪不起(00年9月18日)  7、日本遺孤専程来瀋(00年9月24日)*専程=わざわざ  8、勿忘“九・一八”重走英雄路(01年8月15日)  9、幸存“二戦”美軍戦俘来瀋参観(03年9月17日)  10、日本侵華経済証展出(04年4月30日)  11、連戦参観后書、収拾歴史的風凛凛寒(05年8月15日)  12、博物館免費開放首日接納四万人次(05年9月18日)  13、日本友好人士贈“反侵略”記念碑(05年9月18日)  14、台湾新党主席郁慕明参観留言(05年11月2日)  15、日本中華大使留言“和為貴”(07年3月24日)  16、宋楚瑜題写“勿忘国恥、庄敬自強”(09年1月15日)  17、獲贈聯合国“‘九・一八’事変罪証”複製品(10年9月17日)  18、東北三省首次在瀋鳴警撞鐘(11年9月18日)

 
 
 
 丹羽宇一朗 献花 陳列館前言  陳列館結語 

太字青で示したのは日本人がこの博物館を訪れたことが歴史定格とされていることだ。1の橋本首相の写真意外に、13の「反覇権、反戦争、反侵略」の碑、15の時の駐中国大使宮本雄二の「以和為貴」の書、それに歴史定格には挙げられていない2010年の駐中国大使丹羽宇一の残暦碑への献花が写真として掲載されていた。

 

 これら18件忘れ難い歴史項目から、この博物館がどのような役割を持たせられ、また果たしてきたかを考えることができる。

この記事の頭に書かれていた文面の一部と江沢民の政治姿勢を反映した表現になっている博物館展示の結語の締めくくりの部分をここに紹介しておく。写真は博物館展示の前言と結語である。

先ず新聞記事の一部。

「・・・・。在原残暦碑和地下展庁的基礎上、于1997年11月開始拡建、于1999年9月18日正式落成開館。

博物館通過大量文物、史料及多種展示手段反映了従1931年日本帝国主義発動“九・一八”事変后東北人民十四年遭受奴役、奮起抗争、浴血奮戦的歴史画巻。教育人民勿忘国恥、振興中華。」

 次いで、九・一八歴史博物館の展示の最後に中文・英文・日文で書かれた結語。

「・・・・・。中国人民は、決して国辱を忘れてはならない。中華を振興させ、愛国主義の旗印を高く挙げ、江沢民同志を中心とする党中央の指導の下で国の特色ある社会主義強国を構築するために心身を献げよう。」(原文のまま)

 

 江沢民も亡くなった今年、国外に敵を意識させる呪縛から中国人を解き放ち、中国も日中の真の友好を築き上げる方向に進み出して欲しいものである。また、その芽もあると私はと思っている。

日本からは、この九・一八歴史博物館に訪れた橋本首相も、駐中国大使宮本雄二も「以和為貴」と呼びかけている。彼らが訪れたということは過去の日中の歴史をしっかり認識していますよとの意思表示であり、そのうえでの「以和為貴」と呼びかけである。昨年赴任した中国大使丹羽宇一郎もここを訪れ献花している。

 
 
 
2011年9月18日の『華商晨報』 の残留日本人孤児へのインタービュー

2011年9月18日の『華商晨報』に残留日本人孤児へのインタビューの特集が組まれていた。そのインタビューのタイトルの中に「、従千余自殺日本人中活下来」*=彼女(彼女、千人を超す自殺した日本人の中で生き残った)、「是敵人的女児、但不是敵人」(彼女は敵の女児だ、しかし彼女は敵ではない)がある。正にこれである。日本人も一般庶民は被害者でもあったのだ。終戦後既に半世紀を大きく超えた現在、日本を支える日本人は後者の女児と相当、中国人の敵対した対象ではないはずである。聖徳太子がかかわったとされる『憲法十七条』の「以和為貴」でありたいものだ、日中の関係も。

追加訂正 2011年10月10日
 新聞記事によると、辛亥革命の100周年記念大会の会場人民大会堂に姿を現したという。7月の共産党成立80周年に姿を現さず、7月に死亡したと伝えられていたのだが・・・・・。
 
 江沢民健在の記事

 

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