本文へスキップ

 Topix                        更新履歴

8月19日(土)
自民党徳島県連 執行部会
8月24日(木)~25日(金)
関西広域連合8月議会 滋賀県 管内視察
8月26日(土)
陸上自衛隊 小田原演習場にて 視察研修
8月30日(木)~31日(金)
次世代・少子高齢化対策特別委員会 県外視察
9月7日(木)
徳島県敬老の集い あわぎんホール
.時事雑感                        Privacy Policy
8月15日の社説一覧                           20170816
これ以降の記事にも注目です!

徳島新聞
「8月15日付  終戦記念日  空襲の記憶を平和の礎に」

 長い間、徳島県民の記憶の底に埋もれていた太平洋戦争の傷痕に、触れたような気がした。
 1945年7月4日の徳島大空襲では、米軍の爆撃機が投下した焼夷弾が徳島市の中心部を焼き払い、約千人の市民が犠牲になった。 大規模な空襲であり、体験者も多いことから、さまざまな形で語り継がれてきた。
 ほかにも、県内では空襲によって少なくとも15カ所で人的被害が発生し、217人の死者が出ていたことが、県警察史や徳島新聞の取材などで分かった。

 終戦から72年を迎え、当時の状況を知る人が少なくなる中で、掘り起こされた事実である。今こそ、空襲についての証言を書き残し、後世に伝えていかなければならない。
 徳島大空襲以外では、7月30日に起きた阿南市那賀川町の那賀川鉄橋の空襲が、体験者たちの証言によって、語られてきた。子どもも乗っていた列車を米軍機が銃撃し、約30人が亡くなった。鉄橋には今も弾痕が残る。
 人的な被害がさらに大きかったのは、6月22日の徳島市秋田町一帯への空襲だ。米軍機が秋田町、伊月町、鷹匠町などに5発の爆弾を投下し、123人が犠牲になった。

 3月から終戦間際の8月にかけて徳島、鳴門、小松島、阿南、吉野川、美馬の各市、藍住、松茂、海陽、那賀の各町で、空襲があったことが判明している。
 地元では知られた事実であっても、県民が広く共有していたとは言い難い。
 戦後、悲惨な戦争体験を語りたがらなかった人は多い。時間の経過とともに、戦時中の記憶の中に埋もれてしまうのは、無理のないことだ。
 ただでさえ空襲に関する史料や写真が乏しい中、体験者の証言は大きな頼りになる。

 県内の空襲をまとめた記事を受けて、読者からは貴重な情報が次々に寄せられた。関心の高さをうかがわせる。
 空襲の脅威は、遠い過去のものではない。北朝鮮は大陸間弾道ミサイル(ICBM)を日本海に向けて2回も発射して、緊張を高めている。核とミサイルをもてあそぶような挑発が、偶発的な事態を誘発しないか心配だ。
 国際社会を挙げて、北朝鮮の暴発を食い止めることが大切である。

 戦後、日本は平和主義をうたう憲法の下で、武力を排した外交解決に専念してきた。
 平和を築くためには膨大な労力を要するが、戦争で崩壊させるのは一瞬だ。その教訓を次の世代に伝えるのは私たちの責務である。
 古里に深い爪痕を残した空襲は、戦争の悲惨さを肌で学ぶための教材になる。
 お年寄りが子どもたちに空襲体験を語り、戦争の愚かさを共有することで、平和の礎を築きたい。
 終戦記念日のきょう、徳島市など全国各地で追悼行事が行われる。犠牲者の冥福を祈り、永遠の平和を誓う。

 朝日新聞 
「72年目の8月15日 色あせぬ歴史の教訓」

あの戦争のころ、世の中はどんな色をしていたのか。
 世界のすべてがモノクロームだったようなイメージがある。そう話す若者たちがいる。目にする空襲や戦地の映像はどれもモノクロだから、と。
「『戦時下』って、自分とは別次元のまったく違う世界だと感じていた」
 戦中の暮らしを描いたアニメ映画『この世界の片隅に』で主人公の声を演じた、いま24歳ののんさんもそう語っていた。
 今年も8月15日を迎えた。
 「不戦の誓いとか戦争体験の継承とか言われても、時代が違うのだから」。若い世代からそんな戸惑いが聞こえてくる
 たしかに同じ歴史がくり返されることはない。戦争の形も時代に応じて変わる。だが、その土台を支える社会のありように共通するものを見ることができる。そこに歴史の教訓がある。

 ■戦時下のにぎわ
 日中戦争が始まった翌月の1937年8月。作家の永井荷風は日記に書いた。「この頃東京住民の生活を見るに、彼らは相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如(ごと)く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり」
 軍需産業の隆盛で日本はこの年、23%という経済成長率を記録。世は好景気にわいた
 戦線が中国奥地に広がり、泥沼化した2年後の東京・銀座の情景もさほど変わらない。
 映画館を囲む人々の行列。女性たちは短いスカートでおしゃれを楽しむ。流行は、ぼたんの花のようなえんじ色とやわらかい青竹色。夜になればサラリーマンはネオンの街に酔った
 戦地はあくまでも海の向こう。都会に住む人の間には「どこに戦争があるのか」という、ひとごとのような気分があったと当時の記録にある。
 どこに、の答えが見つかった時にはもう遅い。〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉。この年そう詠んだ新興俳句の渡辺白泉は、翌年、創作活動を理由に治安維持法違反の疑いで逮捕される。白泉が言い当てたように、時代は日常と非日常とを混在させながら流れていった

 ■いまを見る歴史の目
 社会が息苦しさを増す過程で最初にあらわれ、後戻りすることがなかったのは、多様性の否定だった。朝鮮、台湾の植民地や沖縄で日本への同化教育が行われ、国内でも天皇機関説事件などによって、学問や言論の自由が急速に失われていく
 享受している生活が、そうした価値と引き換えであることに気がつかなかった人、気づいたけれども声に出さなかった人。その後の日本にどんな運命が待ち受けていたかを、後の世代は知っている。
 歴史の高みから「分岐点」を探し、論じるのはたやすい。ではいまの社会は、数十年後の日本人からどんな評価を受けるのだろうか
 作家の半藤一利さんは、近代以降の日本は40年ごとに興亡の波を迎えてきたと説く。
 幕末から日露戦争まで。そこから先の大戦に敗れるまで。次は焼け跡からバブル経済まで。興隆と衰退が交互にあり、いまは再び衰退期にあると見る
 「人々は約40年たつと、以前の歴史を忘れてしまう。日中戦争太平洋戦争の頃のリーダーで日露戦争の惨状をわかっていた人は、ほぼいない。いまの政治家も同じことです」

 ■「似た空気」危ぶむ
 半藤さんも、ほかの学者や研究者と同様、「歴史はくり返す」と安易に口にすることはしない。歴史という大河をつくるひとつひとつの小さな事実や偶然、その背後にある時代背景の複雑さを知るからだ。
 それでも近年、そうした歴史に通じた人々から「戦前と似た空気」を指摘する声が相次ぐ
 安保法制や「共謀罪」法が象徴のように言われるが、それだけでない。もっと奥底にあるもの、いきすぎた自国第一主義、他国や他民族を蔑視する言動、「個」よりも「公の秩序」を優先すべきだという考え、権力が設定した国益や価値観に異を唱えることを許さない風潮など、危うさが社会を覆う。
 「歴史をつくる人間の考え方や精神はそうそう変わらない」と、半藤さんは警告する
 一方で、かつての日本と明らかに違う点があるのも確かだ。
 表現、思想、学問などの自由を保障した憲法をもち、育ててきたこと。軍を保有しないこと。そして何より、政治の行方を決める力を、主権者である国民が持っていることだ
 72年前に破局を迎えた日本と地続きの社会に生きている己を自覚し、再び破局をもたらさぬよう足元を点検し、おかしな動きがあれば声を上げ、ただす。
 それが、いまを生きる市民に、そしてメディアに課せられた未来への責務だと考える
 1945年8月15日。空はモノクロだったわけではない。夏の青空が列島に広がっていた。

読売新聞
「終戦の日 平和の維持へ気持ちを新たに」


 ◆日米連携で国際秩序どう守るか◆
72回目の終戦の日を迎えた。東京・日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。
 先の大戦の死者は310万人に上る。志半ばで亡くなった人々の尊い犠牲を礎に今日の平和と繁栄がある。改めて胸に深く刻みたい。
 戦後日本は、東西対立期もポスト冷戦期も戦争に巻き込まれなかった。平和外交に加え、日米同盟と自衛隊の存在が抑止力となってきたことを忘れてはなるまい。
 1954年に創設された自衛隊は、前身の警察予備隊以来、約1900人もの殉職者がいる。今春にも、陸上自衛隊機が北海道で墜落し、4人が命を落とした。

 ◆検討に値する9条改正
 防衛省の敷地内には慰霊碑があり、毎年10月に政府が追悼式を行っている。国会議員の参列者が少ないことが気がかりだ。
 安倍首相は、9条を維持したまま、自衛隊の根拠規定を加える憲法改正を提起した。長年の不毛な自衛隊「違憲論」に終止符を打つとともに、自衛官が誇りを持って厳しい任務に取り組めるようにする。そのような意図は理解できる。
 自民党は、改正案の議論を進めている。「戦力不保持」などを定めた9条2項との整合性を取ることが欠かせない。熟議を重ね、説得力のある案をまとめてもらいたい。
 自衛隊の重要性は近年、一段と高まっている。アジアの安全保障環境が悪化しているためだ。
 北朝鮮は、核・ミサイル開発を急速に進展させた。中国は、日本領海に公船を再三侵入させ、南シナ海でも軍事拠点化を進める。

 ◆安保環境悪化に備えよ
 北朝鮮の軍事的挑発を封じ込める。東・南シナ海での中国の「力による現状変更」を阻止する。そのカギは、やはり日米同盟だ。
 日米両国は昨年、懸案のオバマ米大統領の広島訪問と、安倍首相の米ハワイ・真珠湾訪問を実現させた。大戦での恩讐を乗り越え、絆は格段に強固になった。
 今年1月に就任したトランプ米大統領は、北朝鮮への影響力が強い中国に圧力強化を迫ってきた。南シナ海では「航行の自由作戦」を再開し、中国を牽制する。
 トランプ外交の基本的な方向性は間違っていないが、場当たり的で、戦略性を欠く面もある。
 安易な軍事力行使には自制を求める。自由や法の支配といった価値観を踏まえ、国際協調を促す。アジアの平和と秩序の維持へ、日本は米国にそうした働きかけを静かに続けることが大切だ。
 懸念されるのは、日米韓の結束が求められる今、韓国の文在寅政権に歴史問題を蒸し返そうとする動きが出ていることだ。
 鄭鉉栢女性家族相は、慰安婦問題の関連資料を国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録しようとする民間団体を支援する、と表明した。
 慰安婦問題の「不可逆的な解決」や、国連などでの「非難、批判の自制」を確認した2015年の日韓合意を無視するものだ。
 徴用工など個人の請求権は消滅していないとする12年の韓国最高裁の判断以降、日本企業を相手取った訴訟が相次いでいる。今月も、光州地裁が2件で三菱重工業に賠償金の支払いを命じた。
 両国間の請求権問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みであり、疑問が残る判決だ。

 ◆反日の動きは要注意だ
 12日には、ソウル、仁川両市内で徴用工像が設置された。日本大使館前への設置計画もある。徴用工を描いた反日的な映画「軍艦島」もヒットしている。民間の動きながら憂慮すべき事態だ。
 今年は、盧溝橋事件、南京事件から80年となる。中国は、7月の盧溝橋事件の式典では対日批判を控えた。近年唱え始めた「抗日戦の起点は盧溝橋事件でなく満州事変」という主張の反映だろう。
 歴史観の見直しには、盧溝橋事件と違って、日本軍の謀略で始まった満州事変の重要性を強調する狙いもうかがえる。中国が今後も歴史認識の問題で自制的な態度を保つのか、注視したい。
 新たな展開が期待されるのが北方領土問題だ。安倍首相とロシアのプーチン大統領の首脳会談は18回に及ぶ。その関係を基盤に、北方4島での「共同経済活動」を目指す協議が続いている。
 千島列島北東端の占守島では7月、日本の民間団体が旧軍の守備隊の慰霊祭を12年ぶりに行った。父祖の散った土地への思いは、今なお遺族に受け継がれている。
 残された戦後処理問題の解決に向けて、政府は、領土交渉に粘り強く取り組むべきだ。

毎日新聞
「きょう終戦の日 目指すべき追悼の姿とは」


 今年も8月15日がめぐってきた
 政府が終戦の日に全国戦没者追悼式を開くようになったのは1963年からだ。日中戦争以降の戦没者310万人を悼み、不戦を誓う国家行事だが、会場の日本武道館はあくまで1日だけの設営である。
 戦没者のうち50万人は、国内での空襲や原爆で命を落とした市井の人びとだ。戦争は遠い南洋から国内の隅々までを巻き込んだのに、これらすべての戦争犠牲者を横断する恒久的な追悼施設が日本にはない。
 それはなぜだろうか。
 2008年2月、滝実衆院議員は空襲被害者向けの国立慰霊碑の建立を求めて質問主意書を出した。
 福田内閣は、兵庫県姫路市にある「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」の平和祈念式に政府代表も参列していることを理由に、建立の考えはないと回答している。

一貫しない政府の姿勢
 姫路の慰霊塔は、空襲の被災自治体が共同で56年に建立した。軍人・軍属に比べ「無辜(むこ)の市民」には「国家的に何らの顧慮も払われていない」ことへの抗議でもあった。
 確かに姫路には総務省政務官らが派遣されている。ただし、毎年の参列は03年からであり、政府の姿勢が一貫しているとは言い難い。
 東京大空襲(45年3月)で推定10万人が亡くなった下町地域には、小さな慰霊施設が数多く点在する。
 その一つ、江東区森下の「八百霊(やおたま)地蔵尊」は終戦の翌年にできた。800人近い犠牲者が名称の由来だ。
 家族生き別れで遺骨もない人が多かった。そこで2年前、過去帳を基に全死没者の氏名を刻んだ御影(みかげ)石の墓碑が祠(ほこら)の横にすえられた。
 墓碑建立に取り組んだ築山実さん(88)は「多くの遺族にとって地蔵尊はお墓代わり」と話す。
 このように、国内の非戦闘員に対する慰霊・追悼は、自治体や地域の人びとの自発性に負ってきたのが実情だろう。そこに確固とした国家意思を見いだすことはできない。
 背景には、戦没者の死の意味に対する理解の分裂がある。国家に尊い命をささげたと考えるか、国家の過ちの犠牲になったと考えるかだ。
 前者の代表は靖国神社だ。遺族にとって夫や息子の死が無駄ではなかったことを確認しなければ心の傷は癒やされない。靖国こそ慰霊の中心施設だという心情は理解できる。
 しかし、靖国神社の最も重要な機能は国家に殉じた人の顕彰にある。それは必然的に国家に功績があった死者かどうかの選別を伴う。
 合祀(ごうし)者の中には、補給を度外視した作戦で餓死した人や、捕虜を恥とする「戦陣訓」を守って自決した人が数多く含まれる。顕彰によっても国家の罪は免れない。
 戦後の一時期、靖国神社が平和主義志向を強めたこともあった。しかし、松平永芳宮司時代の78年にA級戦犯を合祀して以降、内外の批判を受け付けない体質が強まり、中心的な追悼施設になる道を自ら遠ざけてしまったように見える。

差異乗り越える努力を
 戦争受忍論と呼ばれる考え方も追悼施設の議論に水を差してきた。
 戦争という非常事態に伴う犠牲は、国民が等しく受忍しなければならないとして、空襲被害に対する国家責任を否定する論理だ。
 今年4月に亡くなったフォーク歌手、加川良さんは代表曲「教訓1」で「御国(おくに)は俺達死んだとて/ずっと後まで残りますヨネ/失礼しましたで終るだけ」とそれを皮肉った。
 アジアから見れば日本は加害者である。同じ敗戦国のドイツは統一後の93年に中央追悼施設を内外すべての戦争犠牲者向けに改装した。
 追悼式の首相式辞で「アジア」に初めて触れたのは93年の細川護熙首相だ。以来アジアへの加害責任が踏襲されてきたが、安倍晋三首相は13年から一貫して言及を避けている。
 国家は国民の共同体として存在する。国家意思は変わっても国民への責任は負い続ける。その国家が進めた戦争による犠牲者の追悼をめぐって、戦後日本は異なる流れをまとめられずに今日まできた。
 国立の恒久施設のない現状では、この溝が埋められない。政府は歴史的な経緯や差異を乗り越える努力をすべきである。それでこそ「不戦の誓い」は強さを増す。
 72年続く平和がすべての戦争犠牲者を礎にしていることは言うまでもない。立場や事情を問わずに等しく追悼できる環境を整えることが、死者への責任の果たし方だろう。

日経新聞
「わだかまり無くせん没者を追悼したい」


 戦後72回目の終戦の日を迎えた。先の大戦で惨禍を被った内外の多くの犠牲者を悼み、平和への誓いを新たにしたい。
 先日、沖縄県の大田昌秀元知事が亡くなった。沖縄戦では、少年兵で構成する鉄血勤皇隊に動員され、最前線で伝令などを務めた。「鉄の暴風」を生きのびたのは、師範学校の同期生125人のうち37人だった。
 戦後は米国の大学などで学び、日本側の資料がほぼ焼失した沖縄戦の様相を米資料などから再現しようと努めた。

敵と味方を区別せず
 大田氏の知事時代の言動には毀誉褒貶(ほうへん)があるが、大きな業績も残した。いちばんは1995年、戦いの最期の地となった摩文仁の丘に「平和の礎(いしじ)」を建設したことだ。戦没者の名を刻んだ石碑が並ぶ。
 沖縄戦では家族全滅、集落全滅が少なくなかった。悼む人すらいなくなっていた無名の犠牲者が、戦後半世紀を経て、ようやく弔われる場を得た
 平和の礎の特徴は、どこの国籍か、軍か民間か、そうしたことを一切区別せず、戦地で倒れた延べ24万人の犠牲者全員を等しく刻印したことだ。
 亡くなれば敵も味方もない。こうした死生観は多くの日本人が共有するものだろう。平和の礎は追悼施設であると同時に、日米の、さらには本土と沖縄の「和解の象徴」でもあるのだ
 やや似た発想で建てられた祠(ほこら)が東京にある。靖国神社の境内の片隅にひっそり建つ鎮霊社である。靖国の本殿に祀(まつ)られない人々、例えば会津藩の白虎隊や西南戦争で朝敵となった西郷隆盛らの霊を鎮める目的で65年にできた。
 鎮霊社は「和解の象徴」としての評価を広く得ているとは言い難い。2013年に安倍晋三首相が靖国参拝した際、こちらにも足を運び、「諸外国の人々も含め、すべての戦場で倒れた人びとの慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをしました」と力説したが、かえって中国や韓国の反発を増幅した感があった
 平和の礎と鎮霊社。ふたつの違いはどこにあるのだろうか。これが正解とは断言しにくいが、ひとついえることがある。真の和解を支える友好の土台がなければ、うわべだけ取り繕っても、相手と心を通じ合わせることはできないということだ。
 昨年、現職の米大統領が初めて被爆地ヒロシマを訪れた。罵声を浴びせられるのではないか、との米側の懸念は杞憂(きゆう)に終わった。謝罪を望む被爆者がいなかったわけではないが、勝者ぶらないオバマ氏の振る舞いは広く歓迎された
 両国民が70年かけて築いた友好の土台があったからだろう。日米同盟は安保の損得勘定だけで成り立っているわけではない。少々の不協和音では、揺らぎようのない仲である。

 中韓ともこんな関係を築ける日が来るのだろうか。
 公明党の山口那津男代表は先日、広島で原爆死没者慰霊碑だけでなく、韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも献花した。原爆で亡くなった14万人のうち、朝鮮半島出身者は2万人もいた。にもかかわらず、政府・与党首脳がこの碑にお参りしたのは初めてだったそうだ。こうした小さな積み重ねの先に真の和解はあるはずだ。

戦争指導者と一線を
 いちばんよいのは靖国神社を巡る問題を解決することだ。赤紙で召集された兵隊さんのために参拝した。鎮霊社で中韓の犠牲者にも手を合わせた。そう釈明しても、参拝すれば合祀(ごうし)されている東京裁判のA級戦犯を肯定したと受け止められても仕方がない。
 政府は過去、(1)無宗教の新施設を建設する(2)身元不明者の遺骨を納めた千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充する――などを検討したが、国民的な支持は得られていない。追悼にもっともふさわしい場所はやはり靖国である。そこを戦前日本の復活を企図する一部の国粋主義者の牙城にしてはなるまい。
 「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」。昭和天皇の御製である。富田メモによれば、東条英機らの合祀に憤り、参拝をやめたとされる。同じような認識の遺族はかなりいるとも聞く。

 分祀と呼ぶのが適当かどうかはともかく、靖国と戦争指導者の間に一線を引く。そうすれば、周辺国との関係改善に資するし、何よりも遺族がわだかまりなく参拝できるようになる


産経新聞る
「平和」の中に滅びた日本人の徳 「戦争」と同様に「平和」も危険なのだ
 
文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

 戦後72年、大東亜戦争の戦没者に対する深い鎮魂を心に思う夏である。まさに深い鎮魂の心に沈潜しなければならないのであって、戦争の犠牲者を悼むというようなとらえ方をしてはならない。長い平和の中で、英霊に対して礼を失するような振り返り方が目につくように感じられる。戦没者は、世界史の必然の中で国家の運命に殉じたのであって、決して犠牲者などではない。

≪内部からいつもくさってくる≫

 茨木のり子の詩「内部からくさる桃」の中に「内部からいつもくさってくる桃、平和」という一行があるが、過去の歴史の悲劇に対する敬虔(けいけん)の情の喪失は、今日の日本の「内部からくさって」いる「平和」の腐臭の一例であろう。

 72年間の長きにわたり自立的でない「平和」が続いてきた日本に思いを致すとき、『イタリア・ルネサンスの文化』などの名著で知られる19世紀スイスの歴史家・文化史家ブルクハルトの『世界史的諸考察』(藤田健治訳)の一節が思い出される。およそ150年前に語られたことであるにも拘(かか)わらず、現代の日本の状況が言われているかのような錯覚さえ覚える。

 ブルクハルトは、歴史における危機について論じている章の中で「長期の平和は単に意気の沮喪(そそう)を生み出すだけではなく、苦悩と不安に満ちて、切羽つまった生存をつづける多数の人々の発生をも許すが、長期の平和なくしては生ずることのないこのような存在はやがてはまた大声で『権利』を求めて叫びつつどんな仕方ででも生存にしがみつき、真の力の占むべき場所を先取して、あたりの空気をムッとさせ全体として国民の血液さえ猥雑(わいざつ)なものとするのである」と書いている。

 今日の日本社会の「空気」は、確かに「ムッと」しているし、世間を騒がせているさまざまな事件は、「国民の血液」が「猥雑」になってきたことを痛感させる。

≪惰性で生き残った特殊な「考察」≫

 この哲人の言葉は、本来良きものである「平和」が孕(はら)む逆説的な危険について改めて考えさせる。特に、自立的でない「平和」の場合は、その弊害がさらに深刻なものとなるであろう。「戦争」と同様に「平和」も危険なのである。

 「戦争」だけが危険であると思い込み、「憲法」と同様に「配給」された「平和」という枕の上に眠りつづけた日本の戦後史というものも、「世界史的」「考察」を下してみるならば、ずいぶんと奇妙なものに違いない。戦後のいわゆる進歩的文化人による特殊な「日本史的な、余りに日本史的な」「考察」は、世界の現状からみれば、もう有効期限がとっくに切れているのであるが、日本では「意気の沮喪」による惰性で生き残っているのである。

 もう一つ、思い出されるのは、新渡戸稲造の『武士道』(矢内原忠雄訳)の中で引用されている、ブルクハルトと同じく19世紀の、こちらは英国の高名な評論家ラスキンの文章である。新渡戸は、レッシング(これは18世紀のドイツの劇作家・思想家であるが)の「我らは知る、欠点いかに大であるともそれ(戦闘)から徳が起こる」という言葉に付けた注で「ラスキンは最も心柔和にして平和を愛する人の一人であった。しかし彼は奮闘的生涯の崇拝者たる熱心をもって、戦争の価値を信じた」と評した上で、ラスキンの次のような文章を引用している。

 「戦争はあらゆる技術の基礎であると私の言う時、それは同時に人間のあらゆる高き徳と能力の基礎であることを意味しているのである。この発見は私にとりて頗(すこぶ)る奇異であり、かつ頗る怖(おそ)ろしいのであるが、しかしそれがまったく否定し難(がた)き事実であることを私は知った。簡単に言えば、すべての偉大なる国民は、彼らの言の真理と思想の力とを戦争において学んだこと、戦争において涵養(かんよう)せられ平和によって浪費せられたこと、戦争によって教えられ平和によって欺かれたこと、戦争によって訓練せられ平和によって裏切られたこと、要するに戦争の中に生まれ平和の中に死んだのであることを、私は見いだしたのである」

≪西欧の成熟した思想に学べ≫

 「長期の平和」の中で「生存」してきた日本人にとって、このラスキンの言葉は「頗る奇異であり、かつ頗る怖ろしい」ものに違いないが、「まったく否定し難き事実」なのである。近代日本の歴史を振り返ってみても、人間の高貴な精神を発揮した数多の行為が日露戦争や大東亜戦争という「戦争の中に生まれ」、日本人の伝統的な徳の多くが戦後の長き「平和の中に死んだのであること」を「見いだ」すからである。

 今や世界は深刻な危機の時代に入った。「平和」と「戦争」についての単純な思考を超えて、ブルクハルト、ラスキン、レッシングのような西欧の思想家たちの成熟した思想に改めて学ぶ必要があるのではないか。そのような精神の深みからの鎮魂こそ、先の戦争の英霊にはふさわしいからである。(文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司 しんぽゆうじ)

 

まるわか
.写真レポート . 

丸若
丸若
丸若
マルワカ
丸若
まるわか
徳島県関係
丸若
丸若
政 党
マルワカ
丸若
情 報
日本の借金時計
徳島の借金時計
まるわか
丸若
丸若
まるわか
.
.