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五稜郭の四季へ五稜郭
 
北海道函館市にある五稜郭、TVドラマにもなりましたね。函館は昔は「箱館」と呼ばれていたのですが明治2年に現在の名称「函館」となりました。安政元年(1854)の日米和親条約に箱館が開港されたことから幕府は箱館奉行所を現在の元町公園付近に設置しましたが、北方の防衛のためには軍事的に不利な場所であることから五稜郭へ移転することになりました。
 当時
亀田御役所土塁と呼ばれていた五稜郭は安政4年(1857)に着工、元治元年(1864)に完成した西洋式の城郭です。慶応3年(1867)10月の大政奉還後、新政府に移管されて明治政府の箱館裁判所箱館府の役所として使用されました。
慶応4年(1868)におこった
戊辰戦争で、旧幕府軍榎本武揚らによって短期間占領された後、新政府軍に平定されます。箱館戦争当時の砲弾でも港から撃ったものが、ここまでとどいたそうです。函館奉行所は天守閣のない、地べたに這うような形をしていました。砲撃による被害を最小限にするためです。幸いにして戦火による焼失は免れたのですが明治4年に開拓使本庁が札幌へ移転することになって、その資材として大半が解体されてしまいました。現在は城の堀だけが残されています。日本で最初の星形の堀です。
 上空から見ると緑に縁取られた星の形がとても美しいのです。堀では貸しボートに乗ることもできます。たくさんの大きな鯉がいて橋の上から人が投げるパン等に集まって来ます。鯉に混じって鯰や亀も出てくることがあります。堀の土手にはたくさんの木が植えられていて桜・つつじ・藤がとてもきれいに咲き、夏の夜には堀と、堀の土手を舞台に市民創作「函館野外劇」をやってます。大規模な迫力のある素晴らしい劇です。函館野外劇のホームページへのリンク
→上の写真をクリックすると公園の季節の写真が見られます!! New! 2002/4/21


→箱館戦争のあらまし
→箱館戦争当時の大砲
→榎本武揚のその後
→土方歳三の最期
→五稜郭築城の設計者は


箱館戦争のあらまし
脱走と蝦夷共和国設立
 慶応4年(1868)8月19日(新暦10月4日)、旧幕府海軍副総裁
榎本武揚は新政府軍への軍艦引き渡しを拒否し8隻の軍艦で品川沖から脱走し、北へ向かいました。10月20日(新暦12月3日)には鷲の木(森町)へ上陸し、10月26日(新暦12月9日)に箱館・五稜郭を占拠します。榎本武揚が目指していたのは箱館を首都とする蝦夷共和国の樹立でした。12月25日(新暦2月6日)には蝦夷共和国の設立を宣言しております。実はこのとき列強諸国はこの蝦夷共和国を、日本列島に存在するもう一つの政権として認識していたそうです。

最強の軍艦・開陽

 榎本軍の軍艦のうち
開陽はその時点で日本最強の軍艦でした。しかし、開陽は明治元年(1868)11月15日(新暦12月28日)北海道の江差沖で暴風雨のため座礁・沈没してしまいました。一方、明治新政府軍は強力な装甲とガットリング砲を装備した甲鉄艦(ストーンウオール・ジャクソン号)を入手します。この船は当時の軍艦では相手にならない強力な船でした。3月25日新暦5月6日)、旧幕府軍は、軍艦回天を使い、宮古湾に停泊中の甲鉄艦の奪取作戦を強行しますが、失敗に終わり回天は箱館へ逃げ帰ります。これが宮古湾海戦です。

明治新政府軍の逆襲

 明治2年(1869)4月9日(新暦5月20日) 青森口で待機していた新政府軍が乙部に上陸し、江差を占領した後、松前・木古内方向二股へ分れます。 4月10日(新暦5月21日)に 木古内の新政府軍が進軍を開始しました。 5月11日(新暦6月20日)には 新政府軍による総攻撃が始まります。函館山裏手から山を越えて奇襲するという作戦で箱館および四稜郭方面を制圧しました。函館山の裏側は断崖になってますので、予想外の作戦と言えましょう。この戦いで土方歳三は戦死し、5月12日(新暦6月21日) には新政府軍による降伏勧告交渉が開始され。5月17日(新暦 6月26日)榎本軍は降伏を決定します。 5月18日 (新暦 6月27日)五稜郭が明け渡され箱舘戦争は終結しました。

函館近郊の面白スポット〜開陽丸へジャンプクリックで拡大(左)再現された軍艦 開陽 (江差) 開陽をクリックすると「函館近郊の面白スポット〜開陽丸」へジャンプします
 

(右)箱館戦争を描いた絵     

 

函館戦争当時の大砲へ


箱館戦争当時の大砲
 
右下の写真を見てください。向かって左がブラッケリー砲、右がクルップ砲。
ブラッケリー砲は旧幕府脱走軍が湾内攻撃のために築島台場に設置したもの、クルップ砲は新政府軍の軍艦朝陽の艦載砲と思われます。朝陽は旧幕府脱走軍の軍艦 蟠竜に撃沈されました。蟠竜は旧幕府軍の軍艦では一番最後まで残っていましたが、機関故障のため戦闘不能になって旧幕府海軍は全滅状態となります。
 クルップ砲は当時としては命中率、射程距離ともに高性能な旋条砲(砲身内に螺旋の溝があって発射する砲弾に回転を与える)でしたが、先ごめ式のため、1発発射するたびに砲を引き戻し、砲口から砲弾を旋条に沿って装填するという作業が大変でした。

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(右)公園内の博物館前にある本物。


(左)五稜郭タワー横の稜雲亭前にある大砲。模型ですが、野外劇や五稜郭祭りでは轟音とともに火を噴きます。





榎本武揚 その後は


      

クリックで拡大榎本 武揚は幕府海軍の開陽建造の監督および技術の習得のためオランダに留学し、他国の侵略から日本を守るべく意気揚々と帰国したのですが、開陽と榎本武揚を待っていたのは倒幕の嵐でした。脱走当時の榎本武揚の考えとしては、藩籍奉還で失職した武士の救済のためにも蝦夷地開拓に向かうということでした。蝦夷共和国設立のための組織編成のために、日本で初めて選挙を行った人でもあります。戊辰戦争後は投獄されましたが、1872年に赦免された後、開拓使で開拓調査にたずさわり74年に海軍中将・特命全権公使となります。1875年に樺太・千島交換条約を締結、シベリアを馬車で横断して1878年に帰国。その後、海軍卿のほか逓信相・文相・外相・農商務相などの要職をつとめました。
    土方歳三の最期へ


土方歳三の最期
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新選組副長・土方歳三鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦北上し仙台で旧幕府軍副総裁榎本武揚率いる脱走艦隊と合流しました。土方歳三という人は新選組においては近藤勇、箱館戦争においては榎本武揚のもとで副官として活躍しています。大きな力を持ちながらNo.2としての役割を果たすことに長けていた人だと私は思います。
箱館戦争で榎本軍が次々と敗退する中、土方歳三の守った二股口(大野町・平成18年2月から北斗市)は最後まで陥落しませんでした。二股口の戦いは台場山砲台を中心にして16時間におよぶ大変な激戦であったと言います。明治2年(1869)5月11日箱館は既に新政府軍の手に落ち、五稜郭攻撃が開始されます。(五稜郭は当時箱館の郊外でした。) この時、土方歳三は箱館奪回を目指し50名の兵と共に五稜郭を出て箱館の市中に向かい、旧箱館と亀田村の境界にあった一本木の関門を抜け、敢然と切り込んで行くのですが銃弾を浴びて生涯を閉じました。35歳でした。
死を覚悟していた土方は辞世の歌を残しています。

たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも

魂は東の君やまもらん


 
若松町にある土方歳三最期の地  碑石と一本木の関門
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土方歳三の戦死した場所ですが、現在あいよる21という市の福祉センターの前に碑石があります。石碑の前に置かれた歳三の写真の隣りに戒名が歳進院殿誠山義豊大居士と記されていました。土方歳三の最期の地は他に大手町や末広町だという説もあります。


   五稜郭築城の設計者へ



五稜郭築城の設計者
蘭学者の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)がフランスの城を参考に設計したそうです。
日本では珍しい星型の堀になってます。

クリックで拡大 武田斐三郎の顕彰碑 なぜ顔だけぴかぴか光っているのでしょうか? こたえ

ところで、日本にはもうひとつ五稜郭があるのをご存知でしょうか? 
長野県佐久市臼田町にも五稜郭(龍岡城五稜郭)があります。現在は田口小学校が中に建てられています。
さくだいらうぇぶHPへのリンク
 佐久市臼田町田口小学校函館市立千代田小学校と、五稜郭のある町の小学校として交流があります。


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