26





 目の前が、いや、体全体が真っ赤になった。

 信じられないほど熱い、どろどろした何かが一瞬で頭の中、いや、体全体をおおい尽して僕自身を押し流す。

 少しの間、僕の意識はどこかへと消え去って、何も判らなくなっていた。

 ――二、三分? それとも一時間? 判らない。 

 時間なんて無意味だ。

 両手から伝わる痛みでようやく気が付いた。あちこちに擦り傷や痣が出来ている。LCLの中にほんの少し血が混ざりこむ。

 どうやら、しばらくの間、完全に気が狂ってたらしい。当たり前だ。またしても「アイツ」を奪われたんだから。

 完全に発狂しなかったのが不思議な位の怒りを感じる。

 意識は戻ったけど、僕の全身は怒りと憎しみで煮えくり返ったままだ。

 怒り、そして

 ――憎しみ。

 僕は今まであの女(もう母親などとは思わないし思えない)を憎んでる、と思ってた。

 とんでもない間違いだった。

 今、この一瞬一瞬感じている「憎しみ」に比べれば、それまで感じていたモノなんて無いも同じだ。

 熱いアスファルトの上でゆらめいている陽炎みたいなモノだ。

 憎しみ、憎しみ。

 殺してやりたい、とすら思わない。もう頭の中で百億回以上殺しているから。殺し続けているから。

 アスカの事も、白いエヴァの事も忘れる。

 目を食いしばるように強くつぶって、「アイツ」を探す。

 僕のすぐ近くにいるはずなのに…「アイツ」の気配はあるんだ…でも、あの女が邪魔してる。

 あの女が厚くて固い壁みたいになって、「アイツ」とつながる事が出来ない。

 壁の向こうでは「アイツ」も僕を探している。僕には判る。

 僕には「アイツ」しか無いように、「アイツ」にも僕しか無いんだから。

 くそっ! ちくしょう!!

 憎しみ、憎しみ、ひたすら強まっていく一方の、限界をとっくに通り越した、果てしない憎しみ。 

 また意識が飛びそうになり、あわてて操縦桿を強く握り締める。

 両手の痛みがやけどしそうに熱くなる。

 あの女の事は今だけ忘れろ! 「アイツ」の事だけを考えろ!!

 集中しろ!! 意識を、感覚を研ぎ澄ませ!!

 「アイツ」はすぐ近くにいるんだ。この固い壁の向こうに。

 「アイツ」もそれに気付いている。僕を呼んでいる。僕には判る。「アイツ」の「声」みたいなのが届いている。

 なのに――あの女が邪魔して――――あの女が! あの恥知らずのくたばりぞこないが!!

 ころしてやるぶちころしてやるずたずたにひきさいてこなみじんにしてやるなにひとつのこならいようにしてやるああそうさあんなおんなこのぼくがぼくがぼくが…

 …………落ち着け!! 落ち着くんだ、今すぐ!!

 でも、どうすればいい? どうすればこの「壁」を越えられるんだ? どうすればこの向うに届く?

 外の様子、と言うか雰囲気が少し変わったのを感じた。

 目は閉じたままだから何も見えないけど、音は伝わって来る。

 弐号機のアスカと九体の量産型エヴァが戦っているらしい――でも、そんなのどうだっていい。

 こっちはそれどころじゃないんだから。

 それにしても、気が付いてしまうとやたらとうるさい。気が散って集中出来ない。

 物凄くうっとうしい。やるんならどっか他の所でやれよ、好きなだけ! 


 (――アスカの弐号機、ケーブル切れててそろそろ動けなくなる、そしたら…)


 なんでこんな余計な事考える!? 関係無い!! 僕が大事なのは「アイツ」だけだ!!


 (――9対1だ…ケーブルが無事でも勝てるかどうか…アスカ、ついさっきまでシンクロ出来なかったはずだし…)


 だから、なんなんだよ!? なんで僕がアスカの心配なんかしなくちゃなんないんだよ!! 集中しろよ、今は!!


 (――作戦部長の人、向うはこっちを皆殺しにする気だって言ってた……アスカ、今度こそ本当に殺されちゃうかも…)


 うるさいうるさいうるさい! だからその為にも、少しでも早く「アイツ」を取り返さなきゃならないんじゃないか! 今は「アイツ」の事だけ考えていたいんだ! なんでアスカの事なんか考える!? なんであんなヤツの事気にしなきゃなんないんだよ!? 

 大体、アスカが僕に何してくれたってんだ? 自分勝手な事ばっか押し付けて、気に入らないとすぐ殴る。僕にヤツアタリして怖い目で睨んだり嫌味言ったり、ロクでも無い事しかして来なかったじゃないか………笑いかけてさえくれなかった……何考えてるんだ、僕は? アスカにそうして欲しかったのか?

 ――バカな!! 僕には「アイツ」がいる。「アイツ」以外の事なんてどうでもいいんだ!!

 ちくしょう、なんでアスカの事なんかでこんなに悩まなきゃなんないんだ!? シンクロ出来無くなってたんだから、おとなしく引っ込んでればいいのに! なんで今になって復活したりするんだ!? ちくしょう…なんだってこう余計な事しかしないんだよ!?

 ――考えない。アスカの事考えてるヒマなんか無い。あの女の事も今は忘れる。「アイツ」の事だけに集中するんだ!

 僕と「アイツ」との間にある固い壁みたいなもの。ひょっとしてATフィールドみたいなものかも知れない。だったら中和出来るかも、いや、中和しなくちゃならない。なんとしてでも!! 「アイツ」のぼんやりとした気配の位置をなるだけ正確に掴むんだ。そこに僕の意識を集中させる。

 僕はここだ、お前だって気付いているんだろ? シンクロテストの時と同じ感じで「アイツ」を感じ取ろう。この壁をすり抜けて奥へ、「アイツ」の待っている奥の方へ意識を、心全部を染み込ませるんだ。僕自身がATフィールドを展開する感じで……展開出力最大状態をずっとキープし続ける。

 「アイツ」。エヴァンゲリオン初号機と呼ばれている、僕だけの「アイツ」。世界でただ一人、僕を受け入れてくれた大切な、何よりも大切な「アイツ」。僕には「アイツ」しか無いんだ。だから、取り戻す。一秒でも早く。

 ――ほんの少しづつだけど、「アイツ」へと近付いて行く感じがし出した。向うの方でも「アイツ」が僕へと近付こうとしてるのが、なんとなくだけど判る。感じ取れる。凄く嬉しい。待ってて、すぐそっちへ行くから。

 頭の中を「アイツ」の事だけで一杯にする。他は全部邪魔だ。いらない。心と体、僕の全部を「アイツ」に重ね合わせるイメージ、これをハッキリ、明確にするんだ。僕は「アイツ」。僕は碇シンジなんかじゃない、「アイツ」だ。14の男の子なんかじゃない、「アイツ」だ。僕はエヴァのパイロットなんかじゃない。僕は「アイツ」を操縦なんかしてない。「僕」が「アイツ」だ。僕こそが「アイツ」そのものなんだ。取り戻すんだ、僕の体を。僕自身を。僕のコントロールは僕だけにしか出来ないはずだ。さあ、感じ取れ、僕自身の鼓動を。僕を僕に重ね合わせるんだ。

 もっと、もっと深く、もっと奥へ……ずっと奥の方へ…沈んでいくんだ…そう……奥へだ……………。

 ――突然、外の雰囲気が変ったのを感じた。集中出来てた所にいきなり水をさされた感じだ。強引に浅瀬まで引きずり出された気分。

 「邪魔するな!!」

 つい大声で叫んでしまい、うっかり閉じていた目を開けてしまった。だから――見えてしまった。

 弐号機の残骸。エヴァの死体。白いエヴァの群が弐号機の全身を食い散かしている。肉を噛み切り、内蔵を引きずり出している。一面に血が飛び散っている。


 (アスカ?)


 頭の奥の方で小さな音が、何かが弾けるような、引き千切られるような音がした。ついさっき真っ赤になった頭の中が、今度はいきなり真っ白になった。




 …

 ……

 ………

 …………声が聞こえる。誰かが大声でわめいて、いや、吼えている。気の狂った獣みたいに。凄く嫌な声だ。

 うるさい。聞きたくない。思わず耳をふさぐ。でもその声は消えない。小さくすらならない。

 咽喉が痛みでようやく気付く。吼えているのは僕だった。気が付いても吼えるのを止められない。体が勝手に吼え続けている。目も動かせない。弐号機の死体から。その肉をむさぼり続ける白いエヴァの群から。


 (アスカ?)


 さっきまで「アイツ」の事だけに集中していられたのに、真っ白な頭の中にアスカの顔が勝手に浮かんで来る。

 どうして!?

 咽喉が擦り切れるように痛むのに、痛くてたまらないのに、吼え続けるのを止められない。目も凍りついたみたいに動かせない。瞬きすら出来ない。

 どうして!!??

 泣いてる? LCLの中にいるからよく判らないけど、どうやら僕は泣いているみたいだ。

 だから、どうして!!??

 なんで僕は泣いているんだ? なんで涙が出て来る? なんでアスカの事しか考えられない? 

 なんなんだよ、今感じてるこの気持ちは!? 生まれて初めて感じる、心の痛み。今まで嫌な思い、辛い思いは散々してきたのに、そのどれとも違う痛さだ。その初めての痛みはどんどん大きくなっていく、僕の中で膨れ上がっていく。止まらない、止められない。

 どうしてだよ!? どうして!? どうしてなんだよ!!??

 
 (アスカ?)


 …

 ……

 ………

 …………違う。

 絶対にそんな事無い。あるはずない。

 僕が、アスカの事を………?

 違う! そんなんじゃない!! 違う、違う、絶対に違う!! そんな訳無い!!

 違うに決ってるだろ!!

 グチャグチャに引き裂かれた弐号機から目を離す事がどうしても出来ない。体が言う事を聞かない。

 周りを飛び回る白い量産機の体は、弐号機の血であちこち赤く染まっている。そこにいきなり黒い色が混じり始めた。雨? 何時の間にか真っ黒い雨が降っている。土砂降りだ。弐号機の血で出来た赤い沼が、あっという間にどす黒く変っていく。嫌な色。嫌な嫌な、吐き気をもよおす色。

 白赤黒のまだら模様した量産機の群が降りてきた。汚い沼を踏みにじりながらこっちに近付いて来る。


 (アスカ?)


 なのに僕はアスカの事しか考えられないままだ。


 (アスカ?)
 

 アスカはもういない。「アイツ」もいない。あの女さえいない。

 誰もいない。

 ここには誰もいない。

 僕一人だ。

 ヤツらが近付いて来る。こっちに手を伸ばして来る。

 何も出来ない。

 何も………したくない。

 ヤツらは僕――「アイツ」を捕まえると、黒い雨を降らす雲に向かって飛び始めた。

 どうでもいい。好きにすればいい。視界から弐号機が消えると体が動くようになった。僕は目を閉じる。

 「アイツ」の気配を感じて、それにすがりつく。でも集中出来ない。したくても出来ない。

 「アイツ」と一つになりたくてたまらないはずのに…心が麻痺したみたいになってる。

 何もかもがどうでもよくなってる。

 上へ昇って行く感覚。「アイツ」の装甲に大量の雨が当たる激しい音。多分、今の「アイツ」は真っ黒に汚れているはずだ。どうでもいい。すぐ近くで鳴り響く雷の大きな音。多分、N2が作ったキノコ雲を突っ切っているんだろう。どうでもいい。音が止み、閉じたまぶたに光を感じた。雲から出たらしい。どうでもいい。

 突然、両方の手の平に軽い痛みが走って、すぐに消える。


 「え!?」


 ほんの一瞬、「アイツ」と繋がったような感じがした。驚いて目を開けると何か白いもの、量産機とは全然違う、ぼおっと、淡く光るような白さの、とてつもなく大きなものの一部が見えた。

 そして――上の方から視線を感じた。引き寄せられるように顔を上げると、シンクロしてないはずの「アイツ」の顔も上がる。でも、その事に気付く前に、見てしまった。視線が合ってしまった。

 二つの、赤い何か――目? 大きな、大きすぎる赤い――瞳?

 僕をじっと見下ろしている。まっすぐ僕を見ている。

 山よりも大きな、白い、綾波さんの、顔が、そこに。

 今度は声を出す事も出来なかった。思い出したから。あの時の事を。

 あの時も、僕はこんな風に見下ろされていた。

 どうして忘れていたんだろう。

 あの日、僕は父さんと母さんに連れられてここに来ていた。そして「アイツ」と会った。

 「アイツ」の中に消えていく母さんを、僕は見ていた。

 父さんが、母さんの名を大声で何度も呼んでいた。

 その時、「アイツ」が、母さんを完全に飲み込んだ「アイツ」が、じっと僕を見下ろしていた。

 少しも恐くなかったっけ。

 周りの大人達が大騒ぎしてる中、「アイツ」はずっと僕を見続けていた。そして、僕はそれが嬉しかった。

 あの時、「アイツ」は僕を選んでくれたんだ。

 十年もの間、ずっとここで、僕を待ち続けてくれてたんだ。

 どうして忘れていたんだろう、こんな大切な事。

 その時、「アイツ」が吼えた。世界全体に響き渡るような大声で、嬉しそうに。やっとこの事を思い出した僕を褒めてくれるように。

 何時の間にか、本当に何時の間にか、目の前に赤い槍――前、綾波さんの零号機が宇宙空間の使徒目掛けて投げたのと同じやつ――が浮いていた。

 九体の量産機は「アイツ」を支えたまま飛んでいる。何もしようとしない。ヤツらもあの赤い槍と同じ物を持っている事にようやく気付く。その内の二本が「アイツ」の手の平に突き刺さっている事にも。

 ああ、そうか、さっき僕の手の平が一瞬だけ痛んだのはこのせいだったのか。じゃあ、あの時だけ僕と「アイツ」は繋がっていたのかな? よく判らない。何も考えられない。

 一体、僕の周りで何が起こっているんだろう。

 何も考えられない。

 何かを疑問に思う事も出来ない。

 心も、頭の中も麻痺したままだ。

 だから恐怖も感じない。何も感じない。ただ黙ってなすがまま。流されていくだけだ。

 「アイツ」が勝手に、自分の意思でそうするみたいに、あの赤い槍を掴むのを、別の赤い槍が突き刺さったままの両手で掴むのを、ぼんやり眺めてる事しか出来ない。

 「アイツ」は赤い槍の二つに分かれた先端を、ゆっくりと自分の胸に突き刺し始めた。

 白い、大きな綾波さんそっくりなものが、ゆっくりと両手を差し伸べてくる。僕を、「アイツ」をそっと包み込むように。


 「…あ、あ、あ」


 まだひりひりと痛み続ける咽喉の奥から、小さなかすれ声が漏れる。僕の声じゃないみたいだ。意識がだんだんとぼやけていく。遠くなっていく。なのに、それをまるで他人事のように遠くから眺めているような感じもする。

 そして、僕は






前へ戻る    NOVELに戻る     次に進む