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A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

 

 

 

 

 ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

 世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

 そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 

 

 

 

 

 

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 角材を鉈でたたく。木を彫琢する。じぶんを削るたたき割る。木屑がおどる。木屑のようにおどれたらと思う。にんげんの屑はおどれないのか。マール・ハガードの音楽はあたたかいほとんど足をすくわれそうになる。かれの魂はさびれた町の工場の裏路地にいまも漂っている。そこに行けば会えるよ。ジョニー・キャッシュがサン・クエンティンの刑務所で演奏したとき、かれは囚人のなかにいたんだ。そこでジョニー・キャッシュの歌を聴いた。善人か、悪人かと問われれば、善人にも悪人にもなれない、中途半端なそれ以下の下衆だとこたえるだろう。この鉈が風を吸いこむことはあるだろうか。ジョン・ヘンリーはマシン(機械)との闘いに勝利した。やつの心臓は破裂した。忘れないさ。お金では買えないたくさんのものをあなたは持っている、とかつて彼女は言った。それ以外の人はだれもが当時、ぼくらのことを悪く言った。でも彼女が高名な作家か何かで、Web上でぼくのことをあらいざらい書いたらぼくは社会的に抹殺されるだろうな確実に。下衆には下衆の痛みがあるんだ。でもときどきじぶんが下衆であることを忘れて立派な善人か悪人になれたかのように振る舞い、酔っ払って、調子に乗って騒いでいる。みなさん、わたしはあなた方の組織は要らない。わたしはあなた方の靴を磨き、あなた方の山を動かした。なのにエデンの園は燃えている。楽屋裏に花束を抱えていってサインをねだるなんてのは苦手だな。肉も皮も削げ落ちてしらじらと屹立する白骨になりたいんだよ。さびしいがらんどうの反響で歌をうたうんだだれも聞いたことがないような屑の歌をね。にんげんの屑もいつかはおどれるはずだから。角材を鉈でたたく。じぶんを彫琢するたたき割る。木端微塵になって夜汽車にゆられゆられてどこへいこう。

2018.3.10

 

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  昨年末、自治会長のTさんが入院してもう何ヶ月か経ち、退院の見込みは立っていない。次の自治会長を選出しなければならないのだが、空き家ばかりが目立つ古い城下町のことだ。日本全国の例に漏れず高齢化がすすみ年寄りばかり、会長・副会長・会計の三役をできる家は限られている。加えて長年の複雑な経緯で、任期は2年、副会長が次の2年は会長にスライドといった会則はあるものの、だれもやりたがらない会長はTさんが十数年務めていて、副会長や会計もその場しのぎの「頼みますわ」で同じような顔ぶれが続き、「順番では次は1班から会長を出すはず」というTさんの奥さんに、もともと会則をつくった1班のOさんが「そんなの、会則どおりにやらないのが悪い」と噛みつき、もうぐちゃぐちゃですわ。それでとりあえず、新三役の選出及び会則の見直しをするために臨時総会を開いてみんなで相談しようと、副会長の近所のNさんに頼まれて回覧版の内容をわたしがA4サイズで作成したのが昨夜。「会則の見直しったって白紙から始めたら決まらないだろうから、ある程度たたき台をつくって、かつ主要メンバーで外堀を埋めておいた方がいいんじゃないか」とわたしのアドバイスで、つれあいの他三名がわが家に集まってフリーメイソンならぬ秘密会合をもち、仕事から帰ってきたら「うちが自治会長になっちゃったの」って、いったい何があったのですか。訊けばいろんなことがぐちゃぐちゃになっているし、総会でこまかい議題を出してもまとまらないだろうし、とりあえずやる気のあるメンバーで三役を牛耳って、2年の間に役員総会でいろんなことを決めてしまおう、という作戦らしい。「そうか、わかった。いよいよおれの時代がきたか」と、わたしはなかばやけくそになって、「ではまず、“若い娘をさしだせ”という会長指令を出す」と宣言すると、つれあいが「若いって、わたしたちくらいが若い世代だからね〜」 続いて娘「20歳の女の子4人分で80歳のおばあさん一人でどうだ」 「それはちょっとキビシイな〜」  会長指令は早くも座礁しかけている。 「会長って、たとえばどんなこと、するのさ?」 「そうだね・・ お葬式が出たら、回覧をまわして、葬儀委員長みたいなことをしなくちゃいけない」  「“2年間はだれも死なないこと”という会長指令第二弾を出す」  つれあい「それはむずかしいんじゃないかな〜」  「“死んでも2年間は死を秘匿すること”」  娘「武田信玄だね!」  そんなお馬鹿な会話でわが家の今宵は更けていく。

2018.3.16

 

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 休日。朝からつれあいのベッドの微調整をし、その合間に明日の夜のカレーと、今日の昼のお蕎麦をつくる。場所を三の丸会館に変更した回覧板5班分を印刷し、つれあいが昼までに各班長へ配ってまわった。午前中頑張って、午後は自由時間をつくろうと思っていたのだが、どうしても睡魔に勝てず昼食後、夕方までソファーでうつらうつらと。夕方、ジップの散歩に出る。FB友のアライさんに教えて頂いた、洞泉寺墓地にある「病没娼妓之碑」を確認に行く。カイチビルの裏手駐車場から入り、オークワ側の南端に供養碑は建っている。裏に「石橋屋」とあるのは店の名前だろうか。手を合わせ、しばし黙祷する。ここの墓地は他にもかなり古そうな無縁仏や石仏がたくさん、墓域のすみっこにかたまっている。もうひとつ、こんどは岡町の遊郭の娼妓供養碑があるという柳5丁目の西向寺に向かうが、商店街わきの小さなお寺でジップをつないでおく適当な場所がなかったので、今回はあきらめた。アライさんの送ってくれた写真では「岡町遊郭接待婦之精霊跡」なる供養碑が無縁仏にならんで建っているらしい。家に帰って、ちょっと体調がもどってきた娘と夕飯。天理の「麺屋 一徳」へラーメンを食べに行った。これまで何度かトライして、休みだったり、駐車場が空いてなかったりで機会を逃してきた一徳だが、今日は開店間際に行ったせいか空いていた。二人で塩ラーメン。小松菜とうすいハムのような味わい深いチャーシューと葱だけのシンプルな構成。わたしが頼んだ〆ご飯は、海苔とほそく裂いた鶏胸肉、そして柚子胡椒が添えてある。「いごっそうには負けるけど」と娘は笑っていたが、満更でもなさそう。奈良で、確実に片手には入るラーメンだな。帰宅してからこんどはあるいて、つれあいが9時まで勤務している図書館へ。郷土資料のコーナーを漁り、紡績工場や遊郭については市史をはじめ、ろくな資料もないことは分かった。どうせ、残すつもりもないのだろう。関西学院大学の社会学部のゼミの学生の「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」という卒論の写しを見つけて、一部をコピーしてきた。この中に、わが家からもほど近い誓得寺に、紡績工場で亡くなった女工さんの供養碑があることを見つけたのが大きな成果だ。地方出身の身寄りのない女工の葬儀一切をおこない供養したという住職の言葉も載っている。明日あたり、見に行ってくるかな。紡績工場と遊郭。それぞれの過酷な場所で若い命を散らせた少女たちの記憶は、いまでは殆ど忘れ去られようとしている。それを、救い出したい。

◆「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」 http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113/1294922850 

◆大日本紡績の誕生と摂津紡績 (PDF) https://www.unitika.co.jp/company/archive/history/pdf/nichibo01.pdf

◆あっさりシンプル。そして美味!『麺屋 一徳』@天理市 http://small-life.com/archives/11/03/1819.php 

2018.3.17

 

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 沢田教一という写真家をそれほど知っているわけでない。かれが青森の出身で寺山修二と同級生だったことも知らなかったし、アメリカ軍三沢基地内の写真屋で知り合った11歳年上の女性と結婚したことも知らなかった。掘っ立て小屋がたちならぶ恐山の全景の写真がある。イタコの前で身をふるわせ涙をながす女がいる。賽の河原の石のほとけを熱心におがむ老女がいる。こどもをおっぱし荷物をかかえ、艀(はしけ)のような板の上をわたる若い母親がいる。こういう視線と体温をもった人間が戦場へ行ったらどうなるのか。殺伐とした目、刺すような目、うつろな目、なぜかとはげしく問う目。これだけたくさんの尋常でない目にさらされ続けたら、ひとの精神はたいていは、持たない。それらの無数の目が見返した、いまはいない沢田教一という不在の存在を、まるでおのれがもうひとりの沢田教一であるかのように錯覚しながらひとつひとつの写真の前で受け止めているじぶんがいた。戦争が終わったあとの、廃墟のなかではあるが、取り戻しつつある子どもたちの笑顔はなんて愛らしいのだろう。見ているこちらまで思わず、笑みが伝播する。「戦場の写真を撮っても、最近は載せてくれるメディアが少なくなってきている。そんなふうに怒りを失いつつある世の中が逆に心配だ」 たしか、そんな石川文洋の言葉がどこかに添えられていた。展示されていたかれの愛用のカメラ(ライカM3)はとても小さかった。肉薄しなければ撮れない写真だと、そのとき気がついた。弾丸や爆風の熱が頬に痛いほど感じるほどの距離で。 (京都高島屋 25日まで)

◆「写真家 沢田教一展 −その視線の先に」京都高島屋で開催 https://digitalpr.jp/r/25672 

2018.3.19

 

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 自転車で見知らぬ町を走ればいまも、はなやかな表通りよりも影にひかれ、さびれた路地に迷い込み、被差別の地域にまぎれ、墓地で死んだものを追憶する。やはり、じぶんは多少変わった人間なのかも知れない。20代の頃は、漠然とした、拭いようのない違和感、だった。差異、ということばを見つけたのは20代のおわり頃だ。子どもが生まれた頃に「差別、あるいは差異化についての覚え書き」という拙い文章を書いたのが、肉だ。やがて沖浦和光氏の一連の著作により、賎視や被差別ということばがそこへ流れ込んできた。被差別部落、ハンセン病、障がい者、いじめ、少数民族、在日朝鮮人、乞食者(ほかいびと)、山水河原者、フリークス、あらゆる異形の者たち、敗れた者たち。別々の場所でほのかな親しみを感じていたものたちが、つらなり、聖者の行進をはじめた。すこしづつ、わかってきた。わたしがかれらを追い求めるのは、そこにニンゲンの顔がいちばんよく顕(あら)われるからだ。おぞましいほど残酷で、不可解で、つめたいニンゲンどもの顔が。そして虐げられたなかで、懸命に、したたかに生きる真の美しさが、かれらにあるからだ。そうした合切がようやく、見えてきたような気がする。わたし自身が内なる深みにずっと、そうしたものを抱えてきたということだ。言祝(ことほ)ぐ、ということ。それが、見えてきた。

2018.3.20

 

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 春分の日の休日。義父の85歳の誕生祝で、家族三人と犬一匹にて和歌山へ行く。わが家からは柿の葉寿司を買って行き、つれあいの妹さん宅でケーキと唐揚げなどを、それぞれ持ち寄って昼食とした。義父は85歳、義母は81歳。わが家の娘がまだ小さかったとき、「この子の成人式までは生きてられないだろうよ」と義母は言っていたが、じきにもう目の前だ、とわらった。

 食後はわたし一人で親類のT家へいそいそと出かけて行き、90歳のおじさんに朝鮮人飯場についての聞き取りを夕方まで。「あんたはいったい、なにを調べたいんだい」 「本でも書くのかね。変わった人だね」とおじさん、おばさんに笑われながら。わたしが見つけ出した資料のなかの古びた写真の顔や記された名前の幾人かをおじさんはよく知っていると云う。「こいつはわしの盆栽仲間だよ。もう何年か前に死んでしまったが」  戦時中、この小さな漁村の山の上の朝鮮人飯場に家族で住み、危険な砕石作業に従事していた人々がたしかにここで日々を送っていた頃、おじさんは小学生で、現場監督などでもっとくわしく直接に現場のかれらを知っていただろう村の人たちはみな彼岸へいってしまった。あと10年、いや5年早く訊いていれば、と思う。遅きに失した感は否めない。こうしてわたしたちは、みずからの歴史を失ってきたのだ。

 帰り道。8割方開通した京奈和道の、御所のあたらしいサービスエリアでポン柑を買った。新宮の八百屋の店先ではじめて食べたときのことを忘れない。帰宅して食後に食べようと思ったら、9個中の半分近くが白い黴が生えたり黒ずんで腐っていたりした。あんまりひどいのですぐに電話をした。支配人の名刺を持った年配の男性が御所から走ってきて丁寧に謝罪してくれ、返金の上、桜の葛餅の包みを置いていった。おそらく見られていたのだろう、店先で二人で「おいしそうだね〜」と言っていたおなじ葛餅だった。うれしい〜 とつれあいは破顔して、ついで「籐で編んだバッグも素敵だなあってわたし、言ってたんだけど」って、こらこら。

2018.3.21

 

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 「しんぶん赤旗」の共産党書記局長との対談で白井聡が、いわゆる“森友問題”の公文書改ざんについてこんなことをしゃべっていた。「今回の文書改ざんで思い浮かぶのは、敗戦時に軍と官僚が書類を大量焼却したことです。書類を焼いてしまうのはまずいことをやってきたと分かっているからです。文書がすぐに公開できなくても将来正しさが納得してもらえるはずだという自信がないからです。」

 もうじき読み終える「朝鮮人強制連行」(外村大・岩波新書)の中のこんなくだりはどうだ。

 日本政府はこれまで首相談話などを通じて植民地支配に対する反省の意を表してきた。だが、これまで労務動員政策の中で生じた朝鮮人に対する人権侵害に、国としての責任についての見解を公的に明らかにしてことはない。

 以上からは、労務動員の政策に関与した人びとや日本政府が、戦後、自分たちの責任(もちろん、個人にせよ組織にせよかかわりの度合いによって異なるが)誠実に向き合おうとしてこなかったことがわかる。彼らはそれが多大な暴力を伴うものであったことを認識しながらも、その責任については、自分たちではなく他者(甚だしくはより立場の弱い朝鮮人の下級官吏に)や、自分が関係していない組織にのみ関連づけて語ろうとしていた。しかも、公の場ではその事実を語らず、そして、被害者である朝鮮人の被動員者やその家族に対して謝罪の意を表そうとはしなかったのである。

 わたしには、こうしたことはすべてつながって見える。いまに始まったことでない。この国は70年前からずっと公文書を「焼却」し続け、なきものにし続けてきたのだ。そうした卑しい根性が骨の髄までしみついてしまっている。哀れな、恥ずかしい国だ。

2018.3.22

 

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 土日に仕事が入ったため、本日代休。ひさしぶりの平日は特に何をするでもなく、三度の食事を担当し(朝、野菜のオリーブオイル蒸し。昼、手製サラダチキンとトマト煮ミックス豆。夜、ホットプレートの定番豚もやし)、午前中はつれあいとコープへ買い物、午後は一人でぶらぶらとごく近所を徘徊した。まずは柳町5丁目の西向寺にて、かつて東岡町にあった遊郭の娼妓供養碑を確認した。本堂の右手の狭い通路を奥へ入ると、小山のように積み上げられた無線墓に並んでひときわ背が高くそびえている。表に「岡町遊郭接待婦之精霊塔」、裏は昭和27年8月の日付で「岡町特殊料理業組合」の名が刻まれている。先日見た洞泉寺の供養碑は「病没娼妓」であったが、こちらは「遊郭接待婦」である。一人ひとりの顔はなにひとつ見えてこないが、ひざまづいて、手を合わせた。折りしもFB友の鄭玹汀さんの紹介で取り寄せた曽根富美子『親なるもの断崖』(1992年)を読み始めたばかりだったので、何やらいたたまれなかった。続いて洞泉寺遊郭の旧川本邸へ寄ってみた。建物の南側を撮ろうと隣接する大信寺の境内へ入ったところ偶然、グアム島戦死の文字が目に飛び込んできた。25才、死者が「育次」で、墓の建立者が「育三」は、戦後に弟が建てたのだろうか。旧川本邸は「雛祭りイベント」が終わって、遊郭自体の展示が追加されていないかと思ったのだったが、当日は立ち入れなかった3階へ上がれるくらいしか変わりはなかった。その代わりに常駐していた、FB友のアライさんのお知り合いだというボランティア・ガイドのSさんが安堵町のガイドも兼ねている人でいろいろと話が弾み、昭和30年頃の遊郭の見取り図などを写真に撮らせてもらった。洞泉寺墓地の「病没娼妓之碑」裏にあった「石橋屋」の名前もある。遊郭も紡績工場も九州からの女性が多く、中には紡績工場から遊郭へ移ってきた女性もいたとか。市が「町屋物語館」としてオープンさせてから、かつて客として遊んだというお年寄りがやってくることもあるという。平日なので見学者はほかにだれもなく、内部はひっそりとしずまりかえっている。3階の三畳の狭い部屋の窓から下をのぞくと、隣接する浄慶寺の墓地が見えた。かつてこの苦界に生きた女性たちも、ここから立ち並ぶ墓石を眺めて何かを思ったことだろう。誰もいないのをいいことに、しばらくその三畳の愛欲苦界に寝そべって、目を見開いていた。旧川本邸を出て、最後に向かったのは紡績工場の工女の供養碑があると思われる誓得寺だ。門はすべて固く閉じていて、正面玄関のインターホンを何度か鳴らしてみたが応答がない。後日にまた来ることにした。何となく手持ち無沙汰で、すぐ隣の良玄禅寺の墓地にも何か紡績工場に関する手がかりがないかと覗いてみた。小春日和ののどかな平日の午後に、どうもおれは墓場ばかりだな、一人苦笑する。ここはだいぶ大掛かりな墓地整理をしたらしい。西面のおなじ境内にある弁財天の堂と道路との間のすき間に数メートルの高さの塀のような形で無数の無縁墓が積み上げられている。そのひとつひとつを目を凝らして見て行ったら最後、いちばん奥のどんつきの端っこに、扇形をした小さな石仏のような石に刻まれた「矮狗福塚」の文字が気になった。帰って調べると矮狗は「ちん」。かつてこの国では、小型犬を総称して「ちん」「ちんころ」なぞと呼んでいたらしい。FB友の民俗専門家、歌詠みでもある勺 禰子女史にメッセージで尋ねてみても「わんちゃんのお墓かなあ」とおっしゃる。年代は分からねど、石の見た目から江戸から明治あたりか。家族同様だった愛犬のために誰かが建てたのかと思えばほほえましい。

◆曽根富美子『親なるもの断崖』 https://matome.naver.jp/odai/2142964407932922301 

◆大阪DEEP案内「大和郡山市東岡町」 https://osakadeep.info/koriyama-shinchi/

◆町屋物語館(旧川本邸) https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/info/004886.html 

2018.3.23


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 娘が桂枝雀の落語を聞き出したのは、小学校の3,4年生あたりだったろうか。中学になって学校を不登校になった頃も、枝雀さんの落語は癒されるから、と毎晩のように iPod で聴きながら眠りについていた。その娘が最近は米朝さんにはまっているのだが、「代書屋」という演目の中に、済州島出身の男が大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を依頼する場面がある、とおしえてくれた。「ワダシ郷里(くに)に妹さん一人あるテす。その妹さんコント内地きてボーセキてチョコーさんするです」 この最後のところがなかなか聞き取れなかったのだが、父がこのところ遊郭や紡績工場の話ばかりしているものだから、ボーセキてチョコーさん、ああ、紡績で女工さんか、と閃いたそうなのだ。

 

◆越境する民の記録:上方落語「代書」に聞こえる済州島方言

上方落語に「代書」あるいは「代書屋」と呼ばれる演目がある。昭和10年代、 大阪市東成区今里の自宅で副業として今日の行政書士のルーツである代書人を営んでいた四代目桂米團治が、その実体験に基づいて創作した新作落語で、1939年4月初演された。そのなかに、済州島出身の男が駆け込んできて、大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を片言の日本語で依頼する場面がある。杉原達『越境する民』によれば、なんと最後には依頼主のセリフに済州島の方言が音写されているという。

◆記憶の彼方へ http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20100925/p3

2018.3.24

 

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 夕食後、娘とつれあいがポータブル・テレビをテーブルの上に乗せて、アスレチック・ゲームのような挑戦番組を見始める。二人で熱心に小さな画面を覗き込み、笑ったり、小さな悲鳴を上げたり、歓声をあげたりしている。ふだんであったらわたしは、部屋のすみのソファーに二人の姿が見える向きに寝そべって、新聞をひろげながら彼女たちの声を聴き、ときおり様子を眺めたりしているのが好きだ。それはだれにも邪魔されたくないかけがえのない時間だ。けれども今日は違った。わたしのなかで何かがうごめいている。食べ終えた食器を洗って、それからじぶんの書斎へ閉じこもった。PCの iTunes でひそやかなクリスチャン・ソング(Audrey Assad)を大音量でかけ、揺り椅子にもたれて、唯一スマホに入れているMLBのベースボール・ゲームを始める。目の前の重みに耐えるために、あえていちばんつまらないことで時間をやり過ごすのだ。そのうちにわたしの手は凍りついたようにとまる。スマホを置き、銃を投げて投降する殺人犯のように目を閉じる。わたしに欠けているのは「神」だろうか。ユングが夢に見たような「大聖堂を排泄物で破壊する」神か。わたしは無力で、ひとかけらの価値もなく、みじめに消えていくだけのシミのような存在に過ぎない。わたしの内なる存在は何をもとめているのだろう。願ったものはすべてあるはずなのに。今日は休日だった。娘と二人で昼を済ませてから、紡績工場の女工の供養碑があるという寺へあるいていってインターホンを押したがやはりだれも出てこない。困り果てて思い切って寺の向かいの旧家のインターホンを押してみた。初老の男性が出てきて、ここのお寺の住職は橿原の寺に嫁いでいまはここに住んでいないが、週に一二度は法事や何かでやってくる、水色の軽自動車が停まっていたら寺の門も開いているはずだ、とおしえてくれた。檀家といってもこのお寺さんは墓地がないんですねと訊けば、ここじゃない、墓はあのイオンへ行く途中の道のはたの田んぼの中にひろがっているところと言うので、思わず「ああ、あの石の鳥居がある墓地ですか」と声のトーンがあがった。それで自転車に乗ってさっそく見に行ったのだ。死んだ女工の手がかりの石けらでも残っていないかと。あたたかな小春日和だ。家族連れが一組、バラックのような四阿(あずまや)でお弁当を食べていた。わたしはうっすらと汗ばむような熱につつまれて黒ずみ、落剥し、倒壊した墓石をひとつひとつ見てまわった。何も残っていない。残っているはずもない身よりもなく死んだ女工の墓など。風呂に湯を落とし入る。浴槽につかりながら岸和田のキリスト教会にいた朝鮮人のひとびとの聞き取りを読む。「大阪南部の泉南地域には、かつて石綿紡織の零細工場が集中していて、その多くは在日韓国人・朝鮮人に支えられていた。また同和地区や僻地出身の人々、炭鉱離職者らも多く働いていた。そこには、差別と貧しさゆえに石綿から逃れられない構造があった」  車椅子に座り、酸素呼吸器をつけた李善萬さん(80歳)は、「石綿のほこりが体に悪いという予感があり」他の職場へ履歴書を持っていったがどこでも「朝鮮人はあかん」とはねつけられた、という。三人の子どもを食わせるために石綿の仕事を続けるしかなかった。李さん夫婦は朝鮮半島南部の出身で日本で結婚し、つてを頼って泉南に移り住んだのが1950年だ。通称「石綿村」と呼ばれたその地域は日本人より在日が多かったという。戦争が終わってからも、この国は他国の弱者たちに容赦なかった。まるで鬼のような国だと愕然とする。それでわたしの魂はまたあの昼間の、小春日和ののどかな田んぼの中の墓地へ飛んでいくのだ。いまでは墓か石くれかも分からない黒い団子のようなかけらの前でらあらあらあらあといまも哭いているのだ。

2018.3.26

 

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 さて、前自治会長入院による町内会の臨時総会が開かれたのはもう太古の昔、いまとなってはデボン紀の頃にすら思える。予想を超えた全世帯の3分の2以上の出席者が集まり、一部では籤引きになるという噂も流れていたようで当初はみな戦々恐々とした顔で着席をしたわけだが、念のため立候補者を訊いてもモチロン手を上げる者はなく、ではこちらで用意した三役でいいですか? と投げかければ、解き放たれた安堵の息と拍手による満場一致で、わが第三帝国の発動がすみやかに可決されたのであった。自己紹介の場で、これからいろいろなことを変えていきたい。見直す必要のあるものは思い切って見直して、次の役員の人たちがやりやすいようにして引き継ぎたいので、みなさんのご協力をお願いしますと、いったことをひととおり喋ってから、肝心の会長指令第一弾「若い娘を差し出せ」を発令しようと思ったのだが、ほぼ老人慰安会のような出席者の顔ぶれをあらためて見渡して思わず言葉を飲み込み、とりあえず「(任期の)二年の間に、お葬式はなるべく出さないようにお願いします」という会長指令第二弾でささやかな笑いをとり、臨時総会は無事閉会したのだった。

 というわけで、いまはいきなり明治維新前夜のようなきな臭さと慌しさの渦中にいる。つれあいに至ってはほぼ毎日のように前会長宅や役所を尋ねまわり、あちこち関係部署に電話をし、会計のAさんとはラインによる会話が常態化し、副会長のSさんと互いの犬を散歩させながら毎日のように活発な意見交換をしている。おかげでわが家の名犬ジップは自治会に関しては町内でも随一の情報通犬となった。あらためて町内をじっくり見回れば、班の数の5箇所にある木製の掲示板は相当ぼろぼろで、画鋲が刺さるかどうかも怪しいから告知物を養生テープで貼りつけているせいで余計汚らしい。班割りも空き家が多くなり、一人暮らしの高齢者も増えて、役員などを回していくのに単純な世帯数割ではすでにバランスが崩れている。3班に縮小し、掲示板も減らして防水仕様の新しいものと交換してはどうか。会長が10年以上も続いたためか回覧の印刷や役員会のお茶代など、こまかな雑費が自腹であったものが多い。これはきちんと明朗会計で計上したい。役員も回覧作成などのPC操作ができないことがネックになっているのであれば、できる者に手当てを出して代行してもらえばいいのではないか。地元の信用組合でつくっている口座も自治会長名義だったため、いちいち会計が印鑑を借りて駅前まで行っていたのも面倒。近くにある郵便局に移して、自治会名義の印鑑を作った方が便利ではないか。 あれこれあれこれ、どこぞからサナダムシの如く出てきてきりがない。

 いちばん驚いたのは、これまで大して目もくれなかった会計報告だ。町会費のじつに6割近くを地域の神社への寄付金が占めているというのは実際、どうなんだろうね。これに歳末募金や消防団出初式祝儀、日赤募金なども加えたら、その率は76%にも及ぶ。まあ、じっさいのところは収入に廃品回収や役所からの文書配布委託料などが少々加わるので、現実の割合はもう少し下がるのだけれど、それでも繰越金は3万円前後。お葬式やお見舞いなどが重なれば余裕はほとんどない。特にエリア的にわが町内も氏子となっている(らしい)某神社にあっては数年前から平成の大修理が継続され、昨年度はこの最後のしめくくりだということで町会費のじつに4年間分に相当する別口の「修理奉納」を計上している。一軒あたり2万円の勘定だが、全戸から集金するのは困難と思ったのだろう、前自治会長の判断で自治会の繰越金から支払われ、一部の住民からは「何の相談もなしに勝手に出した」という苦情も出たと聞く。加えて腹立たしいのはこの某神社の建物を前回の臨時総会で使わせてもらおうとつれあいが行ったところ、さいしょ一万円を請求され、高いと言ったら5千円になり、その後に訊きに行った少々離れた公民館は(自治会活動に限って)無料だったので、そちらを使うことになった。あとで聞けば、前会長のときは2千円で、それは前会長との特別な関係があったからという。これが町会費4年間相当の「修理奉納」をした氏子に対する対応だとしたら、神社の神さんというのはどれだけ非常識で横柄な存在なのだろうか。その神さんの社や祭りのために、隣町では年に一回の総会時に配られる弁当をことしは取りやめにしたとか、町内のお地蔵さんのお堂の修繕を先延ばしにしているとか聞くし、わが町内でもわが家が引っ越してきた当初はあった親睦会もなくなり、町内にある掲示板はぼろぼろのまま野ざらしになっている。何か、おかしくないか。

 昨日は夜勤明けで寝ていたところをコープの配達の兄ちゃんに起こされたもので、市役所に行って対応してくれた総務課のお姉ちゃんがなかなか美人だったからというわけではないが、掲示板や防犯カメラ、防犯灯、自主防災活動等々に関する補助金制度などの説明をたっぷり時間をかけて訊き、ついでに城下町の自治制度「箱本十三町」の町名案内板がなぜうちの町にだけ設置していないのかという質問に加わった企画制作課の兄ちゃんにところで・・ と紡績工場の工女の供養碑について知らないかと質問したりして、おそらく相当うさん臭い自治会長のイメージを植えつけてしまったに相違ない。帰って夕飯の席では娘もいっしょになって会計報告のおさらいだ。「とにかく○○神社だ。10年間で町内会費は四分の三に減っているのに、神社の奉納金は倍近くにも値上がりしている。まったくあこぎな新興宗教団体より性質が悪い。神社前に貼っている平成大修理完成のお礼には“氏子のみなさまの益々の発展を祈って”なぞと書いているが、“おまえらがいる限り氏子は発展できない!”と逆に言ってやりたい」  「地蔵盆もねえ、お地蔵さんに化粧でもして恵比寿様にして、魚町みたいな恵比寿神社にして笹を売った方がお金になるんじゃないか。何ならうちの隣の長屋を壊したまま空き地になっているところの井戸を直してだな、マボロシの刀鍛冶がつかっていた井戸とかにして売り出したらいいんじゃないか。隣に社務所を建てて、御朱印を1枚500円で売る。同時に井戸横から出土した名刀というのを展示して拝観料も取る。いまも千年の長寿を生きる刀鍛冶の母親というふれこみで近所の婆さんたちにも交代で出演してもらう。老婆たちによる名刀踊りをつくって、CDも販売する・・」  「傷口が広がらないうちに、そろそろやめとけ」と最後に娘。

2018.4.5

 

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 みわたすかぎりの平原のそのしたに、どんなふかいくらがりがひそんでいるか、ひとはたいてい気づかない。むかし、「ヴァリス」というフィリップKディックの小説でこんな言葉があった。 一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。 同意する者だけがそのくらがりに入っていけるのであり、狂いは、権力のくびきから落剥した刻印である。植物たちがひしめく、あかるい光の世界を脱落し、ふかいふかいくらがりへと下降していけば、そこにあるのは冷たい地層の感触。ざらついた、けれど妙にこころやすらぐ冥府であり、目を凝らせば、何やらちらちらと赤い舌をのぞかせる爬虫類がひそみ、古生物にも似た厚いかなしい皮膚に身を固めた魚類がたゆたい、モノクロの白い花弁が音もなくひらき、その奥に、巨大な、もの言わぬ、眼窩の落ちたなにものかが未来永劫を沈思している。この絵を描いていた日々のことを画家はこう記している、「1994年、娘が血液の難病を患った。それまでの人生の困難は乗り越えてきたが、どうにもできない無力感を味わった。地下に恵みがあるように、娘の心身の奥底にも不思議な生命力があるはずだと、ひたすら祈り、その思いを描き続けた」  ふかいくらがりに潜伏しているものは、おのれを射る矢でもあり、同時にことばが放擲したさいごの智慧でもある。西天満の雑居ビルの、まるでヨナが呑み込まれた大魚の臓腑のような不思議な空間で、そんなことを考えた。 中野和典「無意識の楽園」出版記念 個展
■ギャラリー菊 2018年 4月1日(日)〜4月7日(土)12:00〜18:30(初日は13:00より、最終日16:00まで)
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/02gal.pak/03gal-tikamiti/03rental-gal/15-kiku-hp/02-kiku.html#Anchor-exhibition 

2018.4.6


 

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 13歳のときにレノンの Working Class Hero に頭を叩かれてから、ずっとこの世は糞だと思って生きてきたが、50を過ぎていまさらだが、やっぱり糞は糞以外でないのだと再認識をした。糞と会話をしたいとも思わないし、糞と分かり合えるとも思わないし、糞にまみれたいとも思わないし、糞を舐めたいとも思わない。糞はやっぱり糞でしかない。テレビのニュースにまでなってしまった大和郡山の商店街の金魚電話ボックスをめぐるあれこれ。地元の人間が声をあげなければと、柄でもないのにネット上で署名キャンペーンを立ち上げたものの、肥溜めに群がる糞蝿の多さにうんざりした。集まった署名を提出する平日が休めないわたしの代行をしてくれたのがおなじ市内に住むKさん。前日の夜に帰宅をしてから七百人以上の署名を印刷して、近所で待ち合わせて合流しお渡ししたのだが、長年定時制高校の教師をしてきていまはときにポン菓子を売る紙芝居屋に扮するというKさんはじつにファンタスティックでクレージーなおっさんだったな。深夜の12時近くのファミレスでいきなり登場したパペット(手)人形の爺さんのおしゃべりに周りの客が一斉に振り向いたのはなかなか素敵な光景だったぜ、ベイビー。Kさんのお陰でおれはマスゴミ共の視線に晒されることもやつらのカメラに映されることもなく済んだ。Kさんに感謝だ。そんな翌日にKさんが持っていった(Kさんがみずから現地で集めた分を加えた合計917筆の)署名に対して市長がすでに用意していた「メッセージ」がこれまたいかれている(「学生グループが制作した作品を譲り受け、その維持・管理にご尽力いただいた方々に心から感謝申し上げるとともに、これまでの経緯を踏まえた苦渋の決断を 、私の立場としても理解いたします。」)。ふつうは署名を受け取って、「拝見します」とか、「中身を見て検討します」とか、「考えます」とかじゃねえの?  受け取る前にすでに一方の方だけを「私の立場としても理解いたします」の回答ありきは、いくらなんでも署名をした人たちに失礼だろ。そんな人間としての最低限の節度もマナーも品格もないやつが偉そうに「市長」とか「首相」とか大層な肩書きつけてふんぞり返っているのがこの国のどうしようもない糞の景色だ。商店街の店主や地域のお偉いさんも市民だろうが、署名をした方も市民だぜ。それともお前はてめえの品のない糞面を向ける市民と汚ねえ尻を向ける市民とを分けているのか。こんなやつがかつては高校で歴史を教えていたというんだから道理でこの国の歴史認識も腐り果てるわけだ。こういうのはみんなキットつながっているんだな、「大人の事情」とやらで。金魚電話ボックスの今回の撤去決定に至る経緯も判断理由も何一つ説明せず、マスゴミの取材にも何も応えず、「撤去を望まない」多くの人の署名を受け取ったその夜に理事会を開き翌日に示し合わせていたかのように金魚も水も抜いてカバーをかけた商店街も結局はおなじ穴のムジナだな。この国を覆っている腐れチンコの吐き気がする匂いの末端だ、こいつらも。「裁判となる可能性があります。つきましては従来よりコメントを差し控えるよう弁護士の指示を受けており」なんていまさら出してきたコメントなど、どこぞお間抜け官僚や政治家どもの国会答弁とほとんどいっしょじゃねえか。おんなじなんだよ。こういうやつらがアベ自民党に票を入れ、日の丸振って兵士を送り、あるいは戦場で異国の女や子どもたちを残酷に殺すのだ。それで帰国して臆面もなく「戦争は酷い」とか言っててめえの哀れなチンポは大事に隠し続けるわけだよ。市のイメージとしても大事なことなのに一人して声をあげない市議会も、商店街の若い世代を含む地元の連中も、みんなおなじ穴のムジナ。絶望は果てしなく深い。ついでに言えば、この署名キャンペーンのリンクを貼りつけ無数の糞蝿が舞い上がったFBの奈良を愛でるグループや同様の公開グループのコメント世界も批判はなし、お互いに褒め合いましょう愉しみましょうお上品に譲り合いましょうのニコニコお仲間新興宗教団のノリで、おれはやっぱりだめだな。気色悪くて反吐が出る。13歳のときから現在に至るまで、おれはただのロックンロール馬鹿なんだよ。金も、品も、教養もないが、単純なことだけは分かるんだ。おまえらの世界は糞にまみれている。そう、ディックが書いていたのとおんなじだ。「一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。」 いまここに書いたやつらは「同意しない者」たちだ。そしてこれを書いているオイラは「同意する者」狂った者だ。むかしからずっとそうだったよ。だからおれは同世代の連中がとっくに世間に出て立派に働いている頃に毎日、誰もいない山奥の道を気狂いのように単車で走り回ったり、真っ暗闇の渓流で夜がふけるまで焚き火の炎をひとり見つめていたんだ。近所の健康的な市民たちからは白い目で見られていたろうが、でもおれはおれを見失ったことはなかった。今日は娘は通信制高校の始業式だった。絶対に行く、行きたいと前の日から言っていたのに、結局、行けなかった。朝から夜まで何も食べずに一日、ベッドの中で泣いていた。おれにはこういうことこそほんとうに大事なことだ。世界の真の中心だ。糞にかまっている暇などないんだよ。おれは狂っているのかも知れないが、おれは宝を天に積んでいる敗者なのかも知れないが、おれはじぶんの間抜けな足が立っている地面をちゃんと感じている。マスゴミのように世界中にニュースを配信できることはできないが、おれは半径数メートル内にいつもいる大事な人だけは守ってみせる。愛すべきKさんが金魚電話ボックスの前で署名活動をしているとき、誰だか知らねえ一匹の糞蝿がおれが「逃げた」と言っていたそうだ。おれは腹の底から笑ったね。おれは13歳のときからずっとここにいるし、いまも相変わらず冴えない大仏のようにここにいる。おれは40年前からここにすわって、偉大なオーティスやサム・クックの音楽を聴いているだけの平凡な人間だよ。学者でも作家でもアーティストでも法学者でも活動家でもない。教えてくれ。おれはいったいどこから「逃げた」んだ? で、あんたはいったい誰で、おれの何を知っているって言うんだ? 糞と会話をしたいとも思わないし、糞と分かり合えるとも思わないし、糞にまみれたいとも思わないし、糞を舐めたいとも思わない。おれは、いち抜けた、だ。おまえらの汚ねえ尻など嗅ぎたくもない。

2018.4.13

 

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  いやあ、改めて驚いた。これまで会計のAさんからペーパーでもらっていた自治会の会計報告を、エクセルに入力して簡単な関数など入れてみたら、配本回収やお地蔵さんの賽銭、市からもらえる「文章配布協力金」といった雑収入を除いた完全に純粋な町会費の収入に対して、神社の寄付や募金の類がじつに82%にのぼった(昨年度)。これはもう会社ならとっくに倒産、家庭なら給料のほとんどをギャンブルに使ってしまう父親のようなもので、とても正常の収支とはいえまい。昨年度会計で言えば、町会費だけでは当然赤字で、前述の雑収入を加えてかろうじて赤字すれすれにとどまっているという状態。82%のうち前に書いた薬園八幡神社の寄付だけで54%を占め、他は「大和大納言奉賛会」、「柳沢神社奉賛会」、「源九郎稲荷神社春祭」といったわりと小額の寄付が並ぶ。また22%は「消防団出初式祝儀」、「日赤募金」、「共同募金」、「歳末助け合い募金」などが占めている。というわけでわが町内会費は(おそらく)はるか古墳時代のむかしから寄付と募金のためだけに存在していたのであった!

 ということを頭に入れていよいよサイキック・バトル、道満か晴明か、源九郎か義経かと気合を入れて、「夜までに帰らなかったら警察へ」と家族に申し伝え、うららかな小春日和の城下町を愛車ジオスにまたがって、源九郎稲荷神社にいまします薬園八幡神社氏子総代会長、源九郎稲荷神社氏子総代会長、大神神社報本講社代表、洞泉寺町自治会長、市飲食店組合役員等々の肩書きを連ねるN氏の下へ馳せ参じたのであったが、気がつけば境内の緋毛氈の縁台に二人で腰をかけ、三笠と共に出された熱いお茶をすすりながら遊郭を含む洞泉寺町の歴史や自治会の運用、 また昭和33年の売春禁止法で遊郭が廃業して以来20年間途絶えていた源九郎小唄のお囃子をN氏が再興する話などをあれこれ聞いていたのだった。温厚で気さくな、氏神さんを大事にする昔気質の古老であった。加えて偶然だが、このN氏のお孫さんがうちの娘と小学校のときの同級生で、市内で飲食店をしていた息子さんが昨年癌で亡くなった話なども聞き、あのときはわしもつらかったとぽつりと漏らされる場面などもあった。娘もつれあいも、なくなったお父さんも、美人で愛想の良いお母さんも知っているというと、うれしそうにうなずいた。

 そんなわけでかれこれ2時間近く話し込んでしまったか。肝心の神社の寄付に対してはわたしの会計説明に、「寄付というものは本来心づけなんだから、町内の事情に沿って、できる範囲でしてくれたらいい」と理解をして下さった。一昨年、平成の大修理最終弾と銘打ってわが町内から一世帯あたり3万円の金額(合計64万円)を町会計から出した別途寄付では、N氏の町内では「自治会長の裁量で、会計と相談し」20万円を町会費から出し、あとは個人の寄付に任せたという。神社側はおよその希望金額を言ってくるわけだが、必ずしもそれに満額回答する必要はない。わが町についてはこれまでずっと、残念ながら「言われるまま」町会費から出していた、ということになる。

 寄付というのは本来、任意のものであるはずだ。神社以外でも前述した22%を占める祝儀や募金の類も、本来なら「金額ありき」ではなく、10円でも百円でもいいわけなのだが、どうもいろいろと調べると自治会というものが体のいい「集金システム」として利用されている実態があるようだ。ほんとうは自治会や班長が集金袋を持って各戸をまわり趣旨説明、同意を得て何がしかの心づけを集めるというのが正しいのだろうが、面倒くさいので金額を決めて町会費から支出する。けれども「任意」であるのだから、総会で満場一致の同意を得なければ厳密にいえば違法だ。現に2008年、滋賀県甲賀市希望が丘自治会の住民が各種募金の自治会費上乗せを違法とする最高裁決定(大阪高裁判決2007年8月24日判決 ・募金などは、個人の自由意思に基づくもので、募金等を自治会費に上乗せして徴収するとした総会議決は無効であるとの判例) も出ている。また共同募金などは、母体となる社会福祉協議会の代表を市長が兼ねているところが多いことのからみもあるらしい。「なぜ、改まらないのかといえば、その要因は、募金の主催団体が自治会を集金組織としか考えていない傲慢さと怠慢にあるからだと思う」と書いているサイトもある(◆「自治会と寄付金」問題がなかなか改善されないのはなぜか〜自治会が共同募金や社協会費を集める根拠がないのに? http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-3df2.html

  「消防団出初式祝儀」についても、見なし地方公務員の待遇を受けている消防団にはそもそも必要ない、という意見もある。消防団によって規則に「祝儀の禁止」を明示しているところもある。かれらには年間の手当て、出勤ごとの手当てがきちんと支給されており、訊けば祝儀はかれらの懐へ直接に入って旅行などの代金に使われるのだもと言う。ところによっては「「祝儀の金額が少ない」と言われ更に「火事になっても消さないぞ」」と言われたなどの話もあるようだが、町内の会計を疲弊させてまで出さなければいけない出費ではないだろう。神社への寄付にしろ、祝儀や募金にしろ、むかしからの習いだから、前年とおなじが無難だろう、の繰り返しが町会費の82%という異常なバランスを支えていた悪しき慣習であったことが伺える。

 というわけで、さっそくエクセルの別シートに「改善後の支出金額」を、収入に対するパーセンテージの関数結果を眺めながら修正していった「案」ができた。内訳は最大の薬園八幡神社寄付は1/3の減額、他の「大和大納言奉賛会」、「柳沢神社奉賛会」、「源九郎稲荷神社春祭」は小額なので据え置き、「消防団出初式祝儀」は廃止、「日赤募金」、「共同募金」、「歳末助け合い募金」などの募金は半減。これで計算上、1.純粋な町会費に対する寄付・募金全体の割合は82%から29%へ。2.純粋な町会費に対する薬園八幡神社寄付の割合は54%から17%へ。3.純粋な町会費に対する祝儀・募金の割合は22%から6%へ。4.純粋な町会費から全支出を差し引いた会計がマイナス30%からプラス17%へ変わり、5.雑収入を含めた全体の収入から全支出を差し引いた会計は8%から42%となる。多少の積立金は残すにしても、これで何とか年に一回くらいはみんなで食事をしたり、敬老の日にプレゼントしたり、できるのではないか。

 この他に現在、着々と進行形のもの。

1.ぼろぼろで画鋲すらまともに刺さなくなっている計3ヶ所の掲示板(木製)を撤去、町の中央の一ヶ所に集約して、市の補助金も活用して足つき、摺りガラス戸付き防水、マグネット使用の掲示板を新設する。設置予定場所であるガレージ壁面の所有者にはすでに了解をもらい、足がかかってくる溝の部分が市道であるため現在、市に許可を申請中。

2.町内の7ヶ所に設置されている消火器を点検したところ、すべて10年前のもので使用期限を超えていたことが判明。これも市の補助金を活用し、4ケ所に減らして新設する。つれあいがネットで安い業者を探して見積もりを取り、これから市へ補助金申請を行なう。

3.自治会長名義の印鑑で駅前の信用金庫につくっていた町会費の口座を、自治会名義の印鑑をあらたに地元の判子屋さん(つれあいの職場の同僚の家(^^)に注文・作成し、その印鑑で町から歩いてすぐの近所にある郵便局に移す。自治会名義の口座でも代表者の住所・名前での登録が必要らしく、これはたんなる形だけなのでわたしの名前にした。また町内会の創設日が記載された規約が必要と言われて、従来の会則に創設日を追記・「改竄」した。平日は休めないわたしに代わって副会長のSさんに委任状を持っていってもらい、週明けに提出予定。

4.豊臣秀長の時代から、ここ城下町では「箱本十三町」なる自治の仕組みがあり、また「魚町」「材木町」「雑穀町」等の町の名称に由来した歴史を有している。数年前にそれぞれの町内にイラレで作成したような城下町マップと共に町の由来を説明した観光客用の町名板が市によって設置されたのだが、以前からわが町内にはそれがないのが気になっていた。市の都市計画課で聞くと当時、設置(家の壁面などに接着剤などで取り付け)を許可してくれる家が見つからなかったのではないかとのこと。2軒ほどのお宅で設置してくれてもいいという話があるので、都市計画課と現場確認も含めて調整中。

5.表札の横や玄関のドアノブなどにぶら下げる「自治会長」「班長」等のプラスチック製のプレート。磨耗して文字が読みにくくなってきたりしているので、「もう要らないでしょ。みんな分かってるし。ぶら下げてるとみっともないし」ということで使用を廃止した。

6.5班で構成されていた町内の、とくに役回りのバランスが空家や高齢化などでいびつになってきているため、新たに1班A、1班B,2班、3班の3班制に組み替えた。会長、副会長、会計の三役は今後、この1〜3班を順番でめぐり、班長については回覧板や集金作業、地蔵盆等行事の担当などもあるのでA・Bを加えた4人制にした。(よって先日の第1回役員会で集まって頂いた5人の新任班長さんのうちの1名は、わずか半月だけの短期任務でお役御免となった)

7.かなりくたびれていた回覧板のバインダーを新品と交換した。つれあいが役所へ行ったら、あたらしいものを呉れた。

こまかいことはまだあるような気がするが、まあ、だいたいこんな感じかな。

2018.4.14

 

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