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A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

 

 

 

 

 ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

 世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

 そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 

 

 

 

 

 

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 五木寛之の「風の王国」に魅せられていた頃、吉野の山深くで若い白装束の行者とすれ違ったことがあった。わたしはひとりで、水分神社あたりから吉野山へもどろうとしていた。行者は反対に吉野の奥をめざしていた。風のようにすれ違い、ふっとうしろを振り向いたらもう、見晴らしのいい尾根道のずっと先を駆けていた。あとで大峯千日回峰の行者だと知った。たしか比叡山の回峰行の阿闍梨だったと思うが、何かの本のなかで、毎日毎日山道を歩いていると目をつむっていても地面の石ころひとつひとつの場所も手にとるように覚えている、と喋っていた。今尾さんの絵は、そうした無数の石ころで成り立っている。石ころのひとつひとつがころがって森と成り、はねあがって水と成り、わきあがって雲と成り、ちらばって光と成る。それらが共鳴して、まじりあって、とけあってキャンバスの上で大きな自然(ネイチャー)の心像をむすぶ。キャンバスの上のそうしたすべての石ころは画家が実際にかつて手にしたり、踏んづけたり、転がしたりした石ころなのだ。つまり、修行中の阿闍梨が目をつむっていても見えると言った石ころによる曼荼羅だ。その曼荼羅が描く心像風景によって、わたしたちはじぶんを閉ざしている皮膚と世界との境界をするどいサヌカイトの石のナイフで裂かれたような感覚を喚起させられる。はだかで原始の山塊深くへ分け入っていくときによみがえってくる強烈で愛おしい同時にぴんと張ったほそい一本の糸のような身体感覚だ。二上の霧の向こうから、風のケンシたちがたちあがる。

( 京都のギャラリー三条祇園で「今尾栄仁個展」を見た )

2017.5.17

 

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 「眞子さま」とか、「陛下」とかね。結局、そういう何気ない日常に潜んでいるじぶんの「内なる国家」を掘り下げて、ひとつひとつ問うていくしかないんじゃないかな。自民党がどーたら、日本会議がどーたらということより、休日に日向ぼっこしてお茶をすすってるときの風景にじつは沁み付いているような、そんな根深いものなんだと思う。粘菌の胞子のような。そう、あれだよ。ナウシカの腐海で漂っていた胞子のようなもの。ナウシカの腐海では瘴気に満ちた森は人間たちが汚した自然を浄化する機能を地層の奥深くに隠し持っていたが、この国の胞子は何を隠し持っているのだろう。せっかくビートルズが来日したのに、ロックンロールをまじめに聞かなかったのがこの国の大罪だな。「きみがほんとうにひとりぼっちのとき、きみはほかのだれにもできないことをやってのける」とレノンは歌ったけれど、みんな忠実な犬の方がいいみたいだ。過去を凝視しないから、明日はたんなる今日の続きで、だらだらと垂らしたみにくい犬の唾液の先にぼくらの未来が待っている。法律は役立たず、三権分立も腰砕け、放射能で国土は汚染され、政治家はおつむが腐敗し、なんにも頼りにならないなら風がどっちに吹いているかじぶんの指に唾をつけて感じ取るしかない。さあ、気をつけろよ。使える感覚はすべて利用するんだ。本物とガラクタを仕分けておいた方がいい。ここから先はUSJやディズニー・ランドのアトラクションじゃないんだぜ。90年前に治安維持法が成立したときもこんなふうだったんだ日常は何もなかったかのように続いていたんだろうと実感をして生まれてはじめて「歴史」に参加しているような気持ちでわくわくしている。学校では死んだ歴史しか教わらなかったからいま身をもって体験している。怒りがほんとうに爆発するときはお行儀よくなんてしてられねえだろ。これでやっと北朝鮮やシリアやパレスチナのふつうの人たちの痛みがすこしは分かるようになるだろう。真の連帯がむすべるかも知れない。くずれかけた秘密トンネルの中で。とにかく、おめでとう日本。こんな不甲斐ないくたびれたおれたちにも小林多喜二や大杉栄や大石誠之助や高木顕明になれるチャンスが巡ってきたということだ。忠実な犬といっしょに不自由な世界で自由をさがす旅に出るぜ。オーティス・レディングでも聴きながら。

2017.5.19


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 先日はからずも訪ねたグアムに配備された日本軍に奈良の部隊があることをおしえてくれたのはFB友の中平さんである。歩兵第38連隊は明治29年に大津にて創設、翌年に京都深草に移駐して日露戦争、満州派遣などを経て、大正14年に奈良へ転営した。春日大社の南、現在の奈良教育大学の敷地に兵舎があり、隣接する法務局(奈良第二地方合同庁舎)に「奈良聯隊跡記念碑」がいまも残っている。その後、満州へ駐屯した連隊は昭和12年、上海派遣軍に編入されて、かの南京攻略戦に参加している。師団長の中島今朝吾は南京占領後に西欧からの猛烈な抗議を受けた軍司令部の調べに対して「略奪、強姦は軍の常だよ」と平然と答えているように、上海派遣軍(第16師団)は南京に於ける日本軍による虐殺事件で最も代表的な部隊だったと言ってもいい。歩兵第38連隊は津の歩兵第33連隊と共に、降伏後の南京市内外の「掃討作戦」に従事した。「捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令を受けて捕虜や「疑わしき」住民を殺戮し尽くした証言は多く残っている。その後、中国各地を転戦した歩兵第38連隊は昭和19年3月にグアムへ配備され、7月のアメリカ軍上陸により全滅した。ちなみに昭和47年に「発見」された横井庄一さんもこの38連隊の陸軍伍長であった。

 南京虐殺を描いた堀田善衛の小説「時間」を臓腑に釘を一本一本打ち込むような思いですこしづつ読み進めていったのは年明け、出張で滞在していた北陸のレオパレスであった。続いて中公新書の「南京事件 「虐殺」の構造」(秦郁彦)で全体像を追った。そしてはからずも、のグアム。南京とグアムとわたしが住む奈良が「戦争」というキーワードで貫木のように嵌った。それからわたしは休日になると歩兵第38連隊の影を追うようになった。奈良教育大からさらに南、古市の集落ちかくの丘陵地のしずかな林の中には奈良の陸軍墓地がある。いまでは訪れる人も滅多にないだろうこの墓地(グアムの慰霊塔公苑とおなじような時の彼方に置き去りにされた空虚な静寂に満ちている)には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和31年5月30日建立)と「歩兵第三十八連隊将兵英霊合祀之碑」(昭和9年3月建立)の二つの塔、そして寛城子事件(※大正8年、当時の満州の長春で日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件)で亡くなった34人の兵士たちの墓がある。そのうち将校の墓は巨大な慰霊塔の両脇に立派な台座と共に建ち、下級兵士たちの墓はそこから一段下がった場所に素朴な墓石が並んでいた。印象的だったのはなぜかこの下級兵士たちの墓だけ、墓石のまわりにたくさんの石が積まれていたことだ。故郷の石を遺族が運んだのだろうかと空想した。はじめてだったが陸軍墓地よりわずかに北方、奈良佐保短大に隣接する広大な敷地の奈良県護国神社も覗いてみた。「奈良県出身の英霊3万柱を祀る」とうたったこの社の背後の峰で点火される、奈良の夏の風物行事でもあるこの高円山の送り火が、じつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰霊祭であり、護国神社をはじめとして大安寺、東大寺ら近在の30ヶ寺が参集して「県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」されることを知ったのもおなじ頃だ。また薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京の秋篠川沿いにやはり英霊を合祀した奈良市慰霊塔公苑があるのを知り、自転車で見にいったのはつい数日前。「英霊」や「散華」といった戦前の化け物が何気ない日常の風景の裏に粘菌のように滲みついているように感じた。そしてこの国では、「戦前」と「戦後」はけっして断絶ではなく「連続」なのだという思いをいっそう強くした。

 「軍人墓」というものがある。頭部を方錐形にしてたいてい一般の墓石より高くそびえて建っているから遠目でもよく分かる。1874年(明治7年)、陸軍省が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により墓碑の規格を統一。以降、軍隊入営中に戦死した者は国や軍隊からの指導により、先祖代々の墓とは別にこの規格に沿った墓に葬られたという。グアムで全滅したのが奈良の連隊であったと知ってから時折、時間を見つけて自転車で近所の墓地を回るようになった。正面に軍隊での階級と氏名があり、側面には戒名と「○○○ニ於イテ戦死 二十二才」などの文字があり、裏面は建立者というパターンが多い。簡単に戦死した場所と年齢だけの場合が多いが、ときに入隊してからの経緯をくわしく刻んだ墓石もあれば、年齢だけで場所を記していない墓もある。ニューギニア、比島、中華民国、ラバウル、ビルマ、朝鮮沖、蒙古、バシー海峡、マリヤナ群島、南京、沖縄本島など、さまざまな場所で戦死した兵士たちの墓をいくつも眺め、刻まれかすんだ文字を読み、黙祷をしてから次の軍人墓へあるきだす。沁み入るような青空の下でそんなふうに一時間も二時間も広大な墓石の間をさまよっていると、おれはいったい何をしているのだろう、とも思う。まだじっさいにはお会いしたことはないがFB友で彫刻家の安藤栄作さんはパレスチナのガザで殺された子どもたちの像を一体一体刻み続けていつの間にか千体を越えた。それに似たものかも知れない。わたしはアーティストではないので、こうしてひとつひとつの墓石を訪ね、墓石と対峙し、「どこで」「何歳で」死んだくらいしか分からないが、それだけでも重い魂を測りにかけるかのように、戦場における死者をこの不器用な精神と身体に肉化していく。真昼のひと気のない墓場をあるきまわっているとどんどん体が重くなっていく。そのままずぶずぶと沈んでいきそうな気がする。それでもわたしは何かに引かれるように墓場をあるきまわる。

 戦争が激化した終戦間際の戦死だったとして、1945年(昭和20年)に25歳で死んだ青年の母親はもう50歳近いだろうか。2017年の現在では122歳となる計算だから、これらの墓石の前で知れず嗚咽をした母はもうとっくにこの世にはいない。子孫がおなじ墓域で建ててくれている墓はいい。参る者もいなくなり、無線仏の石くれの山に積み上げられて、もう名前すら読めない軍人墓もたくさん見た。わたしたちはかれらを「英霊」と讃える連中に預けっぱなしで済ませていたんじゃないだろうか。ひとつの大きな墓石の左右側面に二人づつ、計4人の兄弟たちの名前が刻まれた墓石を見つけたときは呆然とした。昭和19年9月、中国湖南省。昭和20年5月、レイテ島。同年6月、レイテ島。同年8月、モンゴル。21歳、22歳、25歳、27歳の兄弟の墓である。終戦の混乱期を耐え抜いて、昭和32年にようやく母親はこの兄弟の合同墓を建立した。父親の名前でないのは、このときすでに夫は他界していたのかも知れない。縁もゆかりもない見知らぬ家庭ではあるが、わたしはこの兄弟たちと母親がまだ生きていた実時間での歴史の風景が脳髄の奥の方から知れずあふれ出して来て、ことばを失う。その母も、もういまはこの世にいない。そびえ立つ墓石の先の青空をわたしはじっと凝視する。グアムでの戦死者の墓を見つけたのも、おなじこの共同墓地だ。25歳の若き軍曹は昭和19年9月30日に大宮島(グアム島)にて戦死していた。かれが歩兵第38連隊だったのであれば、アメリカ軍の上陸が開始された7月には「かれ」はアガット湾に配置されていたはずだ。ちょうどわたしたち家族がレンタカーで島を回った日の夕方に、地元のスーパーマーケットで買い物をしたあたりの美しい海岸だ。けれども米軍の猛烈な艦砲射撃と空爆により部隊はたちまちに壊滅し、生き残った兵士はジャングルの奥の残存部隊に吸収された。戦史によれば8月11日に叉木山の最後の司令部の将校たちも自決し、最後の日本兵が降伏して戦闘がほぼ終了したのは9月4日というから、9月30日戦死の「かれ」はその後のジャングルでの日本軍兵士狩りで殺されたか、あるいは戦死した場所も日にちももはや定かでないから9月の末となったのか不明だが、後者であるのかも知れない。おそらく遺骨もなかったろう。わたしは「大宮島」と刻まれた文字をそっと指先でなぞった。もうたくさんだ、と思った。奈良から出征し、南京での悪夢を経て、遠く南方の小島のグアムで散った命が、いま、わたしの手にもどってきた。へんな言い方だが、もどってきたような気がした。

▼歩兵第38連隊 (Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC38%E9%80%A3%E9%9A%8A

▼歩兵第38連隊 http://www.geocities.jp/bane2161/hohei38rentai.html 

▼奈良歩兵第38連隊の帰還 https://ameblo.jp/fugo0330/entry-10618461112.html

▼「虐殺」命令(歩兵第38連隊兵士の証言) http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html#yamadad

▼奈良陸軍墓地 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2nara.htm

▼奈良縣護國神社 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gokoku-nara.htm

▼大文字送り火行を創始する(鍵田忠三郎) http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm

▼奈良市慰霊塔公苑 http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1147087494791/

▼軍隊と戦争の記憶 日本における軍用墓地を素材として(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L115.pdf 

▼「万骨枯る」空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf

▼軍人さんのお墓(PDF) http://www.tennoji-h.oku.ed.jp/j-tennoji/jiyukenkyu/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(26)_2001/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(2001)_26_13-18_gunjinsannoohaka.pdf 

▼安藤栄作彫刻展 http://www.tamaky.com/mt/archives/2015/11/andou-eisaku.html

▼グアムの戦い(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

2017.5.20


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 高橋アキさま

 わたしがあなたの弾くピアノ全集とともにエリック・サティの音楽をさながらしゃれたスカーフのようにまとっていたのは20代の頃でした。しゃれたそのスカーフはときにユーモラスな手品の道具になったり、辛辣さを包みかくす風呂敷になったり、そしてときに魔法の杖や謎めいた蛇に変わったり、また厳かで純朴な聖句を記した当て布になったりしました。そうしたサティの音楽のふるまいをまねて、わたしはどうにか難儀な20代をとおりぬけたのです。今回、あなたのあたらしいCD(Peter Garland: The Birthday Party)をひさしぶりに聴いたとき、あの頃とおなじような風を感じました。Peter Garland という作曲家を残念ながらわたしはよく知らないし、英文のライナーノーツを充分に読めるほどの語学力もないのでこのアルバムがどんなコンセプトのもとにつくられたのかも分からないのですが、とにかくはじめて聴いたとき、木槌のような音だ、と思ったのです。それも山奥のしずかな自然のなかで、ひとつひとつの作業をとてもていねいに、こころを込めてたたいていく木槌の音です。大仰な身振りからとおくはなれた、等身大のつましく、ちからづよい響きです。それがまるでかの宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」のように、周囲の生き物や自然と呼応しあっているのです。こつこつと小さな音のときは、きっと窓枠やドアのかざりの部分を造作しているのだろうと思います。ちからづよい足踏みのような音のときには、棟上が近いのかもしれないと空想します。ここ数日間というもの、満員の通勤電車のなかでわたしはこの音楽をイヤホンで聴きながら、正しい呼気や吸気のように音楽がこころを整えるような心地を覚えました。この困難な時代にあって、人間がもし歴史をやりなおせるのであれば、こういう場所へもどっていかなくてはいけないと思ったのです。もどっていくと言いながら、森のなかにあたらしい小路をひとつこしらえるような、そんな密かな愉しみなのですが。

2017.6.4


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 差異とは何であろうか。ひとがひとを区別し、忌避し、放逐しようとするこころの仕組み。思えばわたしは、娘が生まれる前から、つれあいと出会うずっと前から、そうした問いを身にまとってあてどなく歩きまわっていたような気がする。じぶんでも分からぬ道を。

 混雑を避けて朝いちばんで国立博物館の「1000年忌特別展. 源信 地獄・極楽への扉」を見に行こうと娘と約束していたのだけれど、朝食を食べ終わる頃にお腹が痛いと言い出して母親と二階の部屋へ摘便をしにいって、「すこしは取れたんだけど、まだ奥のほうに残っていて気分が悪い。お父さんには悪いけど、またいつ出たくなるかも分からないから今日はとても出かけれないと言って、いまベッドに横になっている」とつれあいだけ降りてきた。毎度のことだから、展覧会は仕方ない。それより毎度のことなれど、足の不自由は百歩譲ったとして、おしっこ・うんこはいろいろと日常生活に影を落とすものだから、いつか神経医療が進歩して治るようになったらいいのになあといつも思う。そんなわけで予定を急遽変更、あるいは夕方にでも行けるようになるかも知れないからいまのうちにと、自転車で駅前のスーパーに食材を買いに行って、お昼のサラダと夕食のボルシチをつくりはじめた。庭のハーブ二種を積んでいつものハーブ・ティーもたっぷり沸かした。

 昼時になった。つれあいが朝、仕事へ行く前につくって置いていってくれたおにぎりと、わたしがつくった鶏ささみと豆腐、パプリカ、淡路島のフルーツ玉葱などのサラダの昼食。娘はおにぎりをひとつだけ食べた。それから、何の話をしたろう。わたしがたまたま今朝の新聞で見た、アメリカのどこかのマグマに近い岩場の泉で、どんな仕組みで生存しているのか分からない遺伝子を持った細菌が発見されたという記事のことを彼女に話した。いろいろ話をしているさなかに娘の調子もちょっとよくなってきたようで、わたしはふと何気なく、おまえはいままでお父さんやお母さんに「どうしてこんな体にじぶんを生んだのか!」って文句を言ったことがいちどもなかったな、と言った。よその人の話や体験記なんかを読むと、どんないい子でも年頃になるとそんなふうに親に食ってかかることがある。お父さんはいつかじぶんたちも言われるときがあるだろうと覚悟をしていたけど、おまえはいちども言ったことがない。すると彼女は、わたしがお父さんとお母さんの間に生まれてきたのはそもそも偶然で、別のお父さんやお母さんから生まれてきたかも知れない。だからじぶんの障害が両親のせいだと思う発想もなかったし、逆にお金も手間もいろいろかかるし、お父さんやお母さんたちがよく育ててくれたと思っているくらいだ、と答えた。お母さんはな、むかし、おまえの病気が分かった頃、神さまはちゃんと育ててくれる親のところへ子どもを選んで送る。だから病気を持ったおまえをじぶんたちのところへ送ってくれたんだ、と言ったことがあったな。これはそのあとで、わたしが言った。

 思わず自然と、そんな話になって、いつもこんな話はあんまりしないのだけれど、何だか二人ともスナオな心持ちで、でもおまえもこういうハンディを持って、いろいろと嫌だなあと思ったり、辛かったり悲しかったりしたこともたくさんあるだろう? とわたしはなおも問うた。小学生のときにね、面白いことがいっかいあったよ。プールの授業のときに手術の痕が見えるじゃない? そのとき○○ちゃんていうクラスの子が、紫乃ちゃん、なんでそんな変わった足をしているの? って訊いてきた。先生はそのとき「そんなこと、言っちゃいけません」って叱っていたけど、わたしは言われてうれしかったな。陰でこそこそ言ったり遠くから隠れて見たりしているより、そういうふうにまっすぐ言ってくれて、わたしはとてもうれしかった。 ・・・そうだな。小学校のときはそれなりに馴染んでいたと思うけど、中学で(受験をして私立の進学校へ入学して)誰もじぶんのことを知らないところへ変わったというのは、いまから思えば、すごくよくないことだった。特にあの女子ばかりの閉鎖された空間で、裏表がものすごいあるから、ちょっとした違いで区別される。わたしの場合もやっぱり、ふつうの子といろいろ違うからまず入口でそれがあるんだよね。先生たちにはぜったいに分からない、微妙な空気のようなものがあって、たとえば校庭の端と端で遠くはなれて喋っている感じ。さいしょから、そんなだった。いちばん辛かったのは、高校生になって、学校を(現在の定時制に)変わったときかな。

 ほかにもいろんな話をした。いろんな話ができるようになったんだろうな、お互いに。娘が戦国武将のなかでいちばん好きな大谷吉継についても、かれがハンセン氏病を患っていたという話もあるのだろうと思う。じぶんが辛い目にあったとき、悲しい思いをしたときに、吉継もそうだったろうと思って逆にうれしくなる。そんな言い方をした。いまでもやっぱり杖をついて歩いたりしているのを見られるのは嫌か? と訊けば、う〜ん、なんだろう。じぶんが障害を持っているのは、そうして生まれてきたんだからそれはそれで仕方がないっていうか、でもわたし、障害がなかったら、きっと運動するのが大好きだったろうなって思う。小学校のとき、将来は小説家になりたいって思ったのも、小説家だったら歩けなくても仕事ができるからね、そう思ったわけだし。そうして、親はすぐに話をまとめたがる。でも病気があったから、おまえも人とは違っていろんなことを考えたんじゃないかな。お父さんの友だちの(生まれつき筋ジストロフィーの病気をもつ)悦ちゃんもさ、悦ちゃんのお母さんはずっとあとになるまでなかなかじぶんの娘の病気を認めたくなかったから悦ちゃんはお母さんとの関係でもとても苦労したと思う。でもだから彼女はあれだけ強い人間になった。もしも悦ちゃんが病気がなくて健常者として生まれてきたら、もしかしたら悦ちゃんはふつうのつまらない女の子になっていたかも知れないよね。お父さんだってある意味そうだよ。良い高校へ行って、良い大学へ行って、有名な会社に就職してなんていうコースとはおよそ正反対の20代、30代だった。家に閉じこもっていたときもあったし、仕事もないときもあったし、近所の人から白い目で見られたり、でもそのときのことはいまとっても役に立っているとお父さんは思っている。そしてもう一度やり直せたとしても、お父さんはやっぱりおなじことをするだろうな。じぶんのいままでの人生は、お父さんは大成功だったと思う。お母さんみたいにきれいな人と結婚もできたしね。ほんと、そうだよー、とここで娘。そこはほんとうに、神さまがきっと書類を間違えたんだと、どうしてそんな間違いをしちゃたのかと、わたしはほんとうに思うね。

 まだまだいろんな話をした。いろんな話をしたけれど、とても全部は書ききれない。ユウコさん(わたしの母)がこんなことも教えてくれたよ。わたしが赤ん坊のときに、和歌山のおばあちゃん(義母)が近所の人にわたしの障害を教えなかったって。そう、そんなこともあった。わたしはそのとき義母に、いやつれあいに怒ったのだった。障害があるから隠そうとする、それは赤ん坊が、この子が可哀想じゃないか。何も隠す必要なんかない、堂々としていたらいいじゃないか。そういういろんなことがあって、義母も、わたしの母も、つれあいもわたしも、そして当の娘自身も、いまはすべてがいいのだった。そうして扇風機だけをつけた暑い真夏のリビングでいまこうして、いまでこそこんなふうに喋れるけれどといった風で笑いながら思い起こしながら話しているわたしたち父娘も頗るいいのだった。親の影響って、ほんとに大きいなって思う。いまわたしの服の好みって、ほとんどお母さんとおんなじなの。でもその中にときどき変なのが混ざってる。ネイティブ・インディアンの羽根の模様みたいのとか。それはお母さんの好みじゃない(^^) おまえはそんなことを言って笑って、それからわたしたちは娘が影響を受けたというユーモアについて、北杜夫のマンボウ・シリーズや枝雀の落語や「進めパイレーツ」の漫画などについて話し、じぶんを笑うことができるユーモアは強さの指標だなぞということを父が力説している。おまえはほんとうにいい子に育ったって、お父さんは思っているよ。心のやさしい、正義感の強い・・・ でも育てるというのは、もう終りだ。与えるのは終り。これからは“良き友だち”になるんだと思うな。この音楽、ちょっといいよってお前が持ってきたのをお父さんが、おお、いいな、って聴いたりとかね。そういうのが、いいね。

 差異とは何であろうか。ひとがひとを区別し、忌避し、放逐しようとするこころの仕組み。思えばわたしは、娘が生まれる前から、つれあいと出会うずっと前から、そうした問いを身にまとってあてどなく歩きまわっていたような気がする。そしてこの先も、つまづきながら、迷いながら、ときに唾を吐きながら、やっぱり歩いていくのだろう。でもきっと、一人ではない。

2017.7.22

 
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 奈良国立博物館へ、1000年忌特別展「源信 地獄・極楽への扉」を見に行く。暑い夏の隈取る光から隔絶した仄暗い展示室はさながら夕暮れのふたかみのふもと世界のようであった。昼と夜のあわいのようなくるった灯ともし頃にひとはよく夢まぼろしを見る。肉体からたましいがあくがれ出でて遊離した中将姫であれば、金色の髪の豊かに垂れかゝる片肌のうわごとに「なも、阿弥陀ほとけ。あなたふと、阿弥陀ほとけ」と思わず洩れたことばがそれである。阿弥陀であれ地獄の餓鬼であれ、ひとはもうひとつの世に飢えるのだ。たとえばほら「西方極楽世界十六観想画讃」などはユングの「赤の書」の一頁であったとしても驚かない。無意識の深みより立ち上がるげっぷを可視化して二次元に貼り付けたらこんなものができる。それよりもわたしは滋賀・荘厳寺の異形の空也立像に思わずやあとつれそって仲良く立小便をした。それからひさしぶりに再会した「一遍聖絵 巻七」もそうだ。ほらあの画面のはしっこ土塀の陰にたたずんだ白頭巾の男は「もののけ姫」にも出てきたな。京都鴨川の橋の下にもそらなにかがいるぞと娘の耳元にささやいていたら隣の初老の男性がこれは牛馬の処理をするところですわとつけくわえてくれた。ああそうですかこの場面がなるほどそうかとわたしはふかくうなずいて至極ご満悦である。地獄はこの世にあってわたしの臓腑をいまもぎりぎりと喰い散らかしている。浅川マキをフォークで突き刺した青鬼もそのひとりに間違いない。さあ悪魔でかけようぜとロバート・ジョンソンも言ったじゃないか。わたしはそんな奇怪な臓腑のおくにちいさな阿弥陀をひとつかくしもっている。

2017.7.28


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 奈良の東大寺から京都方面へむかう玄関口である奈良坂に北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんこ)と呼ばれる癩病患者の収容施設が残っているのは有名だ。コスモスで有名な般若寺、そして今年その役目を終えて閉鎖された少年刑務所を含むこの北山一帯にはかつて、興福寺や春日大社等の権力の支配のもとで町の警護や葬送、死穢の処理(死刑執行から死牛馬の解体まで)などを担わされていたいわゆる「非人」とよばれて賤視された人々がいた。つまり奈良坂は境界であった。穢れを隔て、価値を隔て、人間を隔てる境界である。「清目」とはかれら自身もふくめて、清らかな都から境界の外へ、穢れを隔離し排除する役割のことをいう。癩病者もかつてその対象であった。市中で病者が発生すると、かれらはその家に行って身柄の引渡しを要求した。病者は親兄弟から引き離れ、かれらの管理下のもとで乞食(こつじき)を行い、あがりを上納した。病者が死ぬと衣服・諸道具類をふくめ「骨・灰」に至るまでかれらのものとなった。これを乞場という。草場が死牛馬の権利であれば、乞場は癩病者の権利である。

 青空の下、唐招提寺や薬師寺などの荘厳華麗な伽藍が建ち並ぶのどかな西ノ京の西郊に、北山十八間戸とおなじような癩病患者の収容施設があったということを知ったのは、たまたまWeb検索をしていてヒットしたふたつの論文(PDF)からだ。宮川量氏による「救癩史蹟 西山光明院に就いて」(1935(昭和10)年 レプラ第6巻第2号)と、吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」(2006(平成18)年 Regional4)である。岡山県の長島愛生園などのハンセン病患者の収容施設にたずさわりながら日本の救らい史についての研究を残した宮川は1930年代に西山光明院の跡地を訪れている。すでに施設はなく、かつての本堂が物置代わりに使われていた。同和問題関係資料センターの当時所長であった吉田の論考はこの宮川論文をもとにその後の研究史料などを補填したものである。

 近鉄「西ノ京駅」の線路をわたった西側、かつて添下郡六条村とよばれた地域の丘陵地に夙(シュク)村があったことはいくつかの古史料によって記されている。夙とは葬送や行刑の執行などを身にまとった賤視の別名であり、前述のように癩者もそこに収斂される。西山光明院の来歴について、吉田論文がその伝承をくだいて紹介しているのでここに引いておく。
光明皇后が「御当寺ノ御本尊」 、つまり薬師寺の本尊に帰依し、諸国の「貧窮ノ難病人」を救うため行基に命じて薬師寺に施薬院・悲田院などの救所を建立したが、今の西山と北村はもともとその場所にあったためである、その後「諸国ノ難病人」が「御本尊ヘ病気平癒ノ祈誓」のためそこに集まり住み、施薬院・悲田院から「薬料・食物」の下行を受けて暮らしてきたが、「乱世」 、つまり戦国期になって下行米がなくなったので 「西山ノ病人共及渇命」 ようになったことから、「諸方勧進巡行致シ、其勧進銭ヲ以テ渡世ノ資糧ト仕候旨御利解」を頂くことになった、というものである。

 これはあくまで伝承であり、光明院に暮らす癩者の間に伝えられてきた由緒である。みずからの口で膿を吸った癩患者が光り輝く如来に姿を変えたという話は光明皇后にまつわる伝説の最たるものだが、ともあれ西山光明院が薬師寺の悲田院として出発したことはわずかながら推測される。「現に光明院は薬師寺の末寺龍蔵院のに加えられ、そその経営のために一町余の田が附けてあって、年々11石からの米が宛てられている他、大正の初年まで世話人をも寺によって附けていた」と宮川はその「沿革」に記している。別の史料によれば明治維新の際には3人の患者が暮らしていたとされる光明院だが、大正5年に最後の患者:西山なかが死亡したことによりその役割を閉じた。

彼女は西山光明院最後の居住癩者である。

彼女は大和高市郡一流の富豪の愛娘と生れ、非常な美人であった由、大阪へ縁入をしてゐて発病し、西山に入つたが、可成の動産不動産を持つてゐたので、西山居住の病者の弗箱 となつた様で、ただに病者間に金 を貸してゐたのみならず、地方の農家に対しても貸金があつた。京山の名義で龍藏院に土地を寄附したことが文書に残つてゐるが、これも京山でなく彼女の資産であつたらしい。「なか」は西山京山の内縁の妻となり、京山は光明院を切り廻してゐたことが伺はれる。

 なかの死後、光明院は取り壊されたらしい。昭和初年頃に光明院跡を調査のために訪ねた宮川はそのあたりのことを次のように書き残している。

現在僅かに一宇の坊舎(本堂1.5間×2間)を残すのみである。其の前に1本の柿の木が茂り、其の藪蔭に井戸が埋もれてゐる。この地域内には別図に示す様な浴室を囲み、3棟の病舎、1棟の納屋があつたもので、本堂と各棟には細い渡廊下を以つて連絡されて居た。其の内2棟は早く壊され、西側に残つた病舎も、最後の病者「西山なか」が大正5年に死亡した後は破壊焼却され、現存するのは本堂のみである。この本堂も民家の薪置場となり、朽つるにまかせた有様である。最近之を薬師寺に移転せしめんとの話も出てゐるが、願はくばかかる由緒ある建物は猥りに移転改築等しないで保存されたいものである。本堂付仏像什器の一部は薬師寺に保管せられ、一部のものは病棟焼却の際焼却せられた。

 さらに宮川は別の箇所で、この西山なか及び西山光明院の終焉と、薬師寺の管長であった橋本凝胤(はしもと ぎょういん)との深いかかわりについても記している。

何しろ薬師寺は今迄に13回も*融に災せられた爲殆ど史料が傅はつてゐない。 幸に西山なか死亡の後棄却をまぬがれた文箱が藥師寺に保存せられてゐたので、それを捜して得た古文書類及び、少年時代から光明院を知り、壮年時代には龍藏院住職として光明院に關係し、最後の患者西山なか死亡の時には立會つて遺言書まで作製してやられたといふ實見者橋本管長の話によつて大體の輪郭を掴み得た。

 では、この西山光明院はいったいどこにあったのか。この問いから、わたしの三日間のお盆休みのちいさな旅がはじまった。


【 8月17日 】 

 6月に展示替えがあったと知って、久しぶりに奈良県同和問題関係史料センターへ行く。ついでに西山光明院のことも教えてもらおうという算段である。ところが所長さんが昼まで現地調査へ行っていて、詳しい話のできる者がいないとのこと。4月に配属されたばかりという係長氏と展示の変わったところを教えてもらい、いっしょに話をしているうちにその係長氏のお祖父さんがグアムで戦死していたと聞いて驚いた。平群の地の方で、生駒の山すそに「グァムにて戦死」と刻まれたお爺さんの軍人墓があったのだが、お祖母さんが墓参りするのが大変になってきたのでたたんで、家の近くに新しい先祖代々の墓を建てたばかりと言う。毎月、月命日に護国神社から案内がきて「神となって祀られている」お祖父さんに会いに行くととの由。係長氏は異動でここへ来て、前は高校の教員をしていたという。グアムにはまだ行ったことがないが、いつか行ってみたいと思っていると言うので、いろいろグアム話で盛り上がる。

 いったん家へ帰って食事の支度をし、娘と二人で昼食を済ませてから、ふたたび自転車で史料センターへ向かう。奥本所長。3Fの研究室へ招いてくれ、名刺を頂き、冷えたお茶も頂き、一時間近く話をさせて頂いた。「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」を記した吉田栄次郎氏は前任の所長さんである。奥本所長さんは20年以上むかしに、この吉田氏に連れられて西山光明院跡を訪ねたことがあるという。ただし、すでに周辺は宅地再開発が始まっていて、「この辺にあった」と案内された場所もその住宅地の間のとくに目印もないようなところで、「いまあなたといっしょに現地へ行ったとしても、もうどこだか分からない」、その程度の記憶しかないという。そしてわたしが昨夜、別にNPO なら人権情報センターで発行している「人権なら」のフィールドワークの記事に見つけた、いまは無縁仏になっている西山なかの墓石の写真をプリントして呉れ、龍蔵院という薬師寺の墓地を管理している末寺の境内にそれがあることを教えてくれた。いろいろな話を聞かせて頂いたが、北山十八間戸で有名な光明皇后の伝説は明治の時代の天皇制賛美の宣伝として使われた面が大きい。北山十八間戸が残されたのもそのためだったと思われるという話や、北山十八間戸のような癩病者の収容施設はじつは現代でいう何千万円を払って入る介護施設のようなもので、財産のある者でなければ入れなかった。二畳ほどの狭い刑務所のような部屋も、雨露が凌げる個室というのはそれだけで当時は贅沢な環境だた。しかも北山十八間戸は奈良盆地を見下ろす高台にあって、風通しもよかったろう。低湿地のじめじめした場所とは違う。そんな、これまでの既成概念を裏返してくれるような話がさらっと出てくるところが、専門家のすごいところだ。

 「じゃあ、これから現地を見てきます。何か新しい発見があったらお伝えします」と高らかに宣言して、自転車でそのまま大安寺旧境内を抜けて、奈良盆地北部をほぼ真横に東から西へ。西ノ京へは案外とあっという間の距離だ。西ノ京駅を越え、池越しの薬師寺三重塔の写真で有名な撮影スポット大池を目指し、その北側にある野々宮天神社へ着いた。天神社、天満宮がこのあたりに多いのはここから北の阪奈道路沿いにある菅原神社がそもそも、「菅原の地を本貫(本拠地)とする土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀った」であることからとも言われる。大池からちょうど丘陵地へとのぼっていく斜面のとば口にあって、社殿の裏へ回ればこんもりと茂った古墳のような雑木林を背後に抱いている。丘陵地の住宅街を北へのぼって、龍蔵院に着く。丘をのぼって、また下ってきたあたりだ。ここから東へ2〜300mも下れば、「墨の資料館」「がんこ一徹長屋」などを経て、すぐ西ノ京駅だ。境内に入って、本堂に向かって右側に無線仏の墓石を積み上げた小山がふたつあり、西山なかの墓石はその小さい方の南面にあった。梵字が頭に一字、そして「中山ナ」までははっきり見え、最後の「カ」の字は手前の墓石ではんぶんほど隠れてしまっている。もちろん左右と後ろは何が書かれているか見ることはできない。そこから北西に向かって広々とした墓域が伸びている。区画整備されたばかりのようで、墓石もみなあたらしい。ちなみに、ここからほんの100mほど北にあるのが、以前わたしが大宮島(グアム)で戦死した軍人墓をやっと見つけた六条山の共同墓地である。お盆明けでお墓参りに来る人もわずかだ。休憩所の吾妻屋で硝子の風鈴が連打している。汗をぬぐうわたしの前方に西山ナカの墓石を抱いた無線墓の小山がひっそりと、夏の光にさらされている。光明院ははたしてどこにあったのか? 80年前の宮川レポートを確認しよう。

「位置」 大軌畝傍線を西の京にて下車せば、東方の木の茂みの中に有名な薬師寺の塔の九輪が光つて見える。眼を転じて西を見れば、一望の平原が連る。駅からの約2町余りの所に1臺の高地、木の茂みがある。これ即ち孝謙天皇の往在所、瑠璃宮と稱せられる地域である。西山光明院は其の東北隅の藪蔭にあつて、東西約7間、南北約18間。古文書には宅地4畝8歩とあるが即ち之である。その地に附属の畑及田ありしことは所有地明細書に分明なり。その南に神社野々宮がある。

 龍蔵院を出て、院の南に面したところに昔なつかしい砂利の道が先へ伸びていたので、自転車でそこを進んでみた。道は光明会館と名づけられた龍蔵院の施設の裏手を回ってから北へゆるやかにカーブする。右手にさきほどの広々とした墓域、左手は深い緑色の池で、その対岸はうっそうとした竹薮だった。道はさらに左へカーブして、池の北側で終わっていた。墓地のゴミが集められ、壊した墓石のかけらがその竹薮につづく暗がりのはたに積まれていた。西山光明院はこのあたりではなかったか、とふと思った。宮川が残した敷地図では野々宮神社を上にして、左手(たぶん東側)に「池」の文字がある。それにも合致する。だが確証は何もない。瑠璃宮はどうだろう? あまり聞いたことがない名前だが、スマホで検索をすると住宅街の中にあるという「瑠璃宮跡」の石碑と解説版の写真が載っていた。これを探すのがけっこう骨が折れた。斜面の住宅街を行ったりきたりでなかなか見つからない。家と家との間のほんのわずかなスーペースにやっと見つけたのは、ちょうど先ほど佇んでいた竹薮の南側に位置する住宅街の道沿いで、丘陵地の高台にあたるあたりだ。ただし解説を読むと、「昭和30年代の宅地開発によってこのあたりも造成されてしまったため、町の有志による希望でこの場所に石碑を建てて残すことにした」とあるから、宮川が写真に収めた平らな雑木林のような「瑠璃宮跡」は別の場所であった可能性もある。もうすこし南側であったら「其の東北隅の藪蔭」も当てはまるかも知れない。そろそろ日も傾いてきた。


【 8月18日 】 

 今日は県立図書情報館で資料固めだ。西山光明院の名前が載った古地図を探したい。今日も朝から愛車GIOSで走る。九条公園前から佐保川の土手道を走れば、ほぼノン・ストップで到着。2階のカウンターへ行って、趣旨を説明する。古地図はなかなか見つからない。奈良市の奈良町や、わが家のような郡山の城下町であれば詳細な町割り図がけっこう各年代で残っている。わが家も江戸時代から敷地が変わっておらず、町割り図を所蔵している柳澤文庫にお願いしてデジタル画像として頂いたが、当時住んでいた人の名前が記してあって面白い。けれど西ノ京は平城京の時代であっても都の西のいちばんはずれの、当時はさらにひなびた田舎だったろう。村の名前が載っている絵地図はあるが、それ以上の詳細図は作成の必要がなかったのかも知れない。宮川論文にはじつは西山なかと夫であった京山の住所地として「添下郡大字六條字西波654番の甲」というのが載っている。西山なかが死亡した際のものと思われる建物明細書である。「法務局に行けば住所はたどれますよ」と昼休憩で交替した若い女性の司書さんが提案する。「でもそれは数字としての住所であって、それが現在のどこに当たるというのはわからないんですよね」 「まあ、そうですね」  昭和20年代の寺院台帳というのも出してくれた。「貴重書・古文書閲覧場所」という特別のテーブルの上で、大きな和紙を敷いた上で広げる。龍蔵院はあるが、光明院についての特別な記載はない。そして光明院単独の台帳というものもない。わたしはわたしで手元の宮川及び吉田論文をなめ回し、彼女は彼女でパソコンを打って検索を続ける。「この吉田さんの論文に「また、享保二十年(一七三五)四月に作成された六条村の「柳村氏神社替地之図」には、薬師寺西方の丘陵上に「字夙之谷」 「夙村持氏神山」が描かれ、その西北方には「六条村之内夙村」と記した一画がある。」とあるんですけど、この「柳村氏神社替地之図」ってのはないんですかね」 「ちょっと見せてくれますか」 彼女は文末の注に「同和問題関係史料センター架蔵デジタル画像」とあるのを見つけてくれた。「史料センターにあるのかも知れませんね。ちょっと訊いてみます」 昼もだいぶ過ぎてしまったので、いったん辞することにした。

 駅前のスーパーに立ち寄り買い物をして、帰って冷やし中華をつくって娘と二人で食べた。食べ終えてから史料センターに電話をしてみた。昨日の係長さんがうれしそうに出て、すぐに奥本所長さんに代わってくれた。まず、昨日の現地調査の話をした。瑠璃宮との位置関係もだいたい合うし、龍蔵院の西側の池の反対側の竹薮が西山光明院のあった場所ではないかと考えていると伝えると、「だいたいあなたの言うその場所で合っているんだろうとわたしも思います。ただ何にしろむかしの話で、正直に言うと、連れられたそのときはわたしはじつはあんまり興味がなかったんですなあ。だから、ああ、そうか、程度で見ていたんだと思います」  ついで「柳村氏神社替地之図」について訊いてみた。するとデジタル画像があるかどうかは探して見なければすぐには分からないが、その「史料センター架蔵デジタル画像」という書き方からすると、資料によってはナイーブな問題もあるので収録した本人が当事者から「これは公開しないでくれ」という約束で見せてもらったものもある。けれど論文で書くときには出典を明示しなければならないので、これは学問としてはほんとうはフェアではないのだけれどやむを得ない状況で、「史料センター架蔵デジタル画像」という書き方にして済ませる場合がある。だからこの「柳村氏神社替地之図」については吉田がどんな話をしているのか、確認をする必要がある。その上で、お見せできる場合もあるし、見るのはいいが複写はできないと言うかも知れないし、閲覧自体が許可できない場合もあるということをご理解頂きたい、と仰るのであった。それから所長さんは図書情報館でのわたしのやりとりを聞いて「「大和国条里復原図」という1980年に出版された地図がありますよ。県内のむかしの小字がすべて載っていて、その境界も線が引かれている。奈良女子大のHPにはそれをデーターベースにしたものもあります」と教えてくれた。電話の最後にわたしは所長さんに「もうこうなったら龍蔵院さんに直接訊いてこようかと思っている」と伝えた。「なにか支障はありますか?」 「ないですよ。全然、訊いてくれて構わないと思います」

 ふたたび愛車GISOにまたがって県立図書情報館へ。20分後にはボックス・セットの巨大な「大和国条里復原図」を前にしていた。県内を百以上ものエリアに分けて、それぞれがA3二枚よりやや大きいサイズの地図になって折りたたまれている。六条村のあたりをカラー・コピーした。龍蔵院のあたりは「西山」だ。その南から大池までの丘陵地は「柳」。そして丘陵地の東面、近鉄電車へ下る斜面の集落が「西波」となっている。龍蔵院の西側の池の対岸説はゆらいできた。

 24号線をまたいで、ふたたび西ノ京へ走る。目指すは龍蔵院。すでに夕方の5時近くだったろうか。参拝者用駐車場のフェンスにGIOSを地球ロックして境内へ。西山なかの無縁仏の前で手を合わせて過ぎる。本堂はほとんど人気がなかったので、その横の住宅にまわって玄関のインターホンを押した。「はい、なんでしょう?」 「あの、ちょっと伺いたいことがありまして」 「はい、なんでしょう?」 「あの、西山光明院について調べているんですが、どなたかご存知の方はいらっしゃいますでしょうか」 「・・・・」  ちょっと間が空いて、玄関が開いて同年代くらいの女性の方が出てこられた。住職さんの娘さんらしい。趣旨を説明すると、わたしたち(父親を含む)も戦後になってここへ移って来たので、それ以前のことはまったくわからないんです、とのこと。「人がまったく変わってしまったんで、断絶しているんです」という言われ方をされる。15分ほどの立ち話だったろうか。光明院の場所や、残された資材についても何もほんとうに分からないが、「あくまでうちうちの話として、お父さんなんかと“あそこじゃないか”と話しているところはありますけど」と言うので、口をつぐみかけたところを何とかねばって、地図を取り出したりして話を続けていたら、やっと、「うちの前の道を南に下りて十字路があるでしょ。その角の草地」だと地図を示して教えてくれた。住宅地の中で一箇所だけ草むらになっているから、すぐに分かりますよ」 

 自転車を押して十字路まで歩いていった。四辻を過ぎてハイツのような建物の裏にひときわ高く藪が茂っている場所がすぐに見えた。しばらく通り過ぎて、南側から回り込む細い路地を下りて行くと解体業者の資材置き場のような敷地に面して地図には載っていない小さな鳥居と祠があって、その奥が先ほど見えていた小さな古墳ほどの雑木林だった。そこから斜面は西ノ京方向へゆるくくだっていて、資材置き場の向こう(東側)と雑木林の向こうには畑がひろがっていた。ああ、ここだここだ、とわたしは思わず声に出した。80年前に訪ねたような心持ちになった。ここで西山なかは半生を過ごし、畑を耕し、ここにかつてあった八畳間で息をひきとった。ああ、ここだここだ、ここに間違いない。「大和国条里復原図」によればここは「西波」のエリアだった。畑の中には金魚池のような四角いため池がある。あれがかつての池の名残であれば、宮川の敷地図とも符合する。畑の向こう側に見えている道をたどってみた。ひどく狭い道で人ですら対向できない。だから余計、この道は古いものだろうと思った。それでもちょこちょこと老若男女が通行している。これを下っていって右手に折れれば野々宮天神社だ。ひとつだけ、あの地図にも載っていないお宮が気になる。あとで調べてみたい。


【 8月19日 】 

 朝一の歯医者は寝坊をして時間がぎりぎりだったので、車で行った。郡山城の北側のアップダウンがちと厳しいのだ。10時半頃に帰って、それから愛車GIOSに乗り換えて出かけた。西波天神社は大池のすぐはたにある。龍蔵院からまっすぐ南に下ってくれば大池の手前でぶつかるのがこの神社だ。その南北に伸びたエリアがかつての「西波」の小字である。おなじ西波であるから光明院の名残でもないかと訪ねてみたくなったのである。神社の手前に並ぶように観音堂があって、奈良市指定文化財とされた木造十一面観音立像が安置されているらしい。残念ながら鍵がかかっていて見れなかった。堂のはたに寂れた無縁仏や五輪等がたくさん並んでいた。宅地開発でかつての西波の地域から運ばれてきたのだろうか。あるいは光明院の敷地から移されたものも混じっているやも知れない。その野仏のすぐ横を西波天神社の参道が通っている。昼間なのに灯篭の電気が点いている。拝殿に閂がかかり、紐が縛ってあって先は見れない。雰囲気のある、いい感じの神社であった。

 薬師寺へ移動した。予め調べておいた本坊西側の参拝者用駐輪場に自転車を止める。薬師寺はいつも三重塔は眺めているけれど、拝観料を払って境内へ入るのはじつははじめてかも知れない。受付でお金を払ってから、じつはこういうことを調べているのだけど、どなたか詳しい方はいらっしゃいませんか、と訊いてみると、「ああ、それならキタガワ参与がいいですわ、いちばん古い人ですから」と内線を取って連絡を入れてくれた。「この先の僧坊にいるのでどうぞ奥へ」と言われて、お礼を言って僧坊へ入ると、土産物売り場のようなカウンターの中で当の参与さんは観光客の老夫婦相手に滔々とガイドをしていて一向に途切れそうにないのであった。待つことおよそ20分。やっと老夫婦が立ち去って、こちらを向いてくれた。西山光明院について調べているんですがと訊いたところ、まず開口一番に、ああ、それは龍蔵院に訊いてもらうのがいちばんですわ。いや、龍蔵院さんは昨日、もう行って訊いてきたんですけどね、代が変わって昔のことは何も分からないと言われました。それで光明院の来歴と薬師寺との関係、西山なかが死んでから一部の仏像などを薬師寺が保管したと記されていること、そして先代の橋本管長が光明院とかかわりが深く、西山なかの死去の際には遺言を書くなどの世話をしてあげたことなどを説明すると、すべてはじめて聞いたという顔をしている。そしてすぐに「いやあ、もう何十年か前に来てくれたら、覚えている人もいたかも知れんが、いまはもうだれもしっている人はおらんでしょう。龍蔵院が知らないというんであれば、それ以上は私どもも」なぞと言うので、わたしもちょっと向きになって、でも知っている人はいなくてもですね、こんな大きいなお寺さんなんだから、資材帳だとか、何らかの記録が残っていないんですか」と食い下がれば、「それは、もうちょっと上の方の人たちに訊かなければ」と言うので、「上の人ってだれですか? どこに行ったらその人たちはいらっしゃるんですか?」 結局、キタガワ参与さんが言われるには、あなたのその質問はおそらくすぐには答えられないだろうし、いまたとえ本坊へ行って訊いたとしても大抵の坊さんたちはわたしと同じように「始めて聞いた」という感想をいうだけでしょう。だからいちばんいいのは、文書でもっていまあなたがわたしに話してくれたことを書いて、薬師寺宛に送ってくれるのが答えが返ってくる可能性が高いと思う、ということであった。わかりました、そうしてみます、と答えて、お礼を言って境内へ入っていった。それから観光客にまじって30分間お笑い法話ショーも聞き、金堂や東院堂、西塔、講堂、あたらし再建した食堂などを見てまわったのだけれど、わたしが追い求めている西山なかが暮らした光明院と、目の前の華麗壮大できらびやかな薬師寺との間がひらきが大きすぎて、国宝とかいう製銅の仏像などを見ても、いまいち身が入らないのだった。そうして昨日とは違って、何となく物悲しいような、もやもやとした気持ちを抱えて帰宅したのだった。まあ、予想はしていたけれどね。貴重な収入源である結婚式やお得意さんの修学旅行生や伽藍の再建も大事なんだろうけどさ、1300年前の建築を再建のために調べたり、いま流行の刀剣を公開することにはやたら力を注いでいるのに、わずか数十年前の癩病施設についてだれも知らない・知ろうともしないなんていうのはどうなんだろうね。「わたしはね、思うんですよ。かれらが必死に生きた証しをね、ほんの少しだけでも誰かが残してやらなければ、と思ってこうして調べているんです」 伝わったかどうか分からないけれど、キタガワ参与さんにわたしは最後にそう、思いを込めて言ったのだった。「そりゃあ、大事なことだ。いまからすぐに調べましょう」と言ってくれるヘンな坊主の一人くらい、どこかにいないものか。

 

▼宮川量「救癩史蹟 西山光明院に就いて」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/hansen1930/6/3/6_3_355/_pdf

▼吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」 http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r41.pdf

▼奈良県同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm

▼人権なら 西ノ京をフィールドワーク file:///C:/Users/francisco/Downloads/201612161009189841%20(3).pdf

▼水本正人「非人にとっての救いと宗教」 http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf

▼人間の尊厳を回復する闘いから学ぶ―ハンセン病政策 100 年の節目の年に、過去から学び未来につなぐ― http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/310308/files/2012032800181/2012032800181_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_1609.pdf

2017.8.19


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 梅田で声優学校へ行く娘とわかれて、阪急電車へ乗る。大阪の人混みは久しい。すでに山に囲まれた松本の町が懐かしい。夙川駅でFBフレンドの花田さんと合流。大逆事件に連座して縊れて死んだ高木顕明の芝居を共に新宮で観て以来だ。見ず知らずだった和歌山と奈良の人間がミステリー・スポットの如き新宮や神戸で逢瀬する。おもしろい。花田さんは昨年、はるさんの個展会場をさがしてこのあたりを車で走り回り、結局、見つからずに帰ってしまったそうだ。ほんとうは画廊ではなく美味しいスイーツの店でも探していたに違いない。絵はときに、水菓子のようなものか。画家はいつものように細長い聖堂のような四角宇宙の空間にいた。ヘンリー・ダーガーのように、クリント・イーストウッドのように。絵は壮大な生物化学歴史年表の上にちらばった記憶のようなものだ。古墳であったり、コロイド溶液であったり、壁塗であったり、三葉虫であったりする。中世のこの国の職能民に於いて散所法師である壁塗の一統はかつて陰陽師の家筋でもあった。「土を掘る」「土を泥練する」という工程はすべての自然物に宿る霊性と係わりが深かったから。三葉虫が跋扈していたおよそ5億2000万年前のカンブリア紀にして生物は「眼の誕生」を獲得した。絵はそのとき、そのカンブリア紀のひそやかな海底の砂のひと刷けだったかも知れない。折りしも松本滞在中に監獄のようなホテルの部屋のテレビで北斎にまつわる番組をいくつか見た。お栄役の宮崎あおいがいなせだった。それで、絵を描く姿勢の話になったのだ。そしておどろいたのは画家も江戸の絵師たちのように床に置いた絵に背をまるめて、ときにまたがって、ときにのっかって製作するという事実だった。絵はこのとき「異性」である。あるいは腕を固定するよりもさながら広角打法の安打製造機のバットのように、大きなふり幅と瞬間のうごきをキープできる方が描きやすい。絵はこのとき「啓示」である。気がつけば娘の年齢とおなじくらいの年月をこうして画家の絵を見つづけてきたことになるけれど、年を経るにしたがってすこしづつ、絵は俗になり、きらびやかな顔料を落剥させて、土にかえっていくような気がする。聖者をおいもとめたツァラトゥストラが町にくだり、水差しやサボテンや煙草入れなどにひそんでいる。それでもカンブリア紀の生まれたての生物のように獲得したばかりの眼をぎょろぎょろと動かして「はじめて見るもの」をさがしている。絵はその軌跡であり、奇蹟であり、あるいはまた鬼籍でもある。「土を掘る」「土を泥練する」ものたちはなべてこの世とあの世のあわいに立ち尽くす者だから。絵は、死んで土くれになるまで終わりがない。

( 西宮・ギャラリーSHIMAで榎並和春個展「旅の途中5」を見た )

2017.10.6


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 帰宅してからなぜかどう仕様もないほどの睡魔に襲われ、書斎の床に寝そべるように眠ってしまった。鶴橋駅から数分、鶴橋本通商店街が南へ果てる「つるはし交流広場 ぱだん」(主催:多民族共生人権センター)で関東大震災に於ける朝鮮人虐殺のドキュメンタリー・フィルムを見たのだ。1983年の「隠された爪痕」(58分)、1986年の「払い下げられた朝鮮人〜関東大震災と習志野収容所」(53分)。そして若い頃にこれらの貴重な作品を撮影したいまは茨城県に住む呉充功監督が30年後の続編として現在製作している「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)のパイロット版(18分)。「隠された爪痕」はのっけから、なつかしい荒川の河川敷が現れる。中川が綾瀬川と併走する荒川と合流する手前、京成押上線が四つ木駅をすぎて橋をわたっていくあたりだ。パワー・ショベルが穴を掘り、古老たちの記憶をたよりに虐殺された朝鮮人の遺骨をさがしている。骨はみつからなかった。けれど兄を殺された大井町でホルモン店を営む83歳のアボジは土手の上で日本人証言者のAさんの手をにぎり「くやしかったよ、ほんとうに」と思わず落涙する。「払い下げられた朝鮮人」は軍隊によっていったん習志野の旧捕虜収容所に「保護」された朝鮮人の人々が「軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末」しようと近隣の自警団へ「払い下げ」られ、殺害された経緯が古老たちによって語られる。「・・・どういうふうになって死んだ方がいいかって訊くと“目隠しして鉄砲で撃ってくれ”と  (中略)  ・・穴も6尺の三角の穴掘ってドンと撃ってポタッて穴ん中落っこちた」 虐殺は“ナギの原”なる集落の草地で行われた。宅地開発が進み住宅が建ち並ぶ現在も、そこだけはいまも草地のまま残り、近くの曹洞宗の寺(千葉県八千代市高津・観音寺)の住職が法要をつづける卒塔婆が立つ。フィルムは韓国の篤志家たちによる鐘堂が境内の片隅に、海をわたってきた部材や大工・瓦職人・塗り師などによって建てられていく様を映す。屋根には韓国のあちこちから持ち寄った土が盛られた。この二つのフィルムを継ぐ「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)は、理由なく殺された人々の遺族を海をわたって探す旅の記録だ。遺族といってもすでに孫の世代。それでもわずかな資料を頼りに尋ねれば、「日本人に殺されたということは聞いていたが、どこでどんな最後を迎えたのかは知らなかった」と、遺骨もないから代わりに故人の服を入れたという土饅頭に手を添えて悔し泣きする孫の姿がある。こうして、語られるのはまだましだ。慰霊碑が建てられるのはまだましだ。“ナギの原”の卒塔婆の文字もかつては「異国人」であった。それが「朝鮮人犠牲者」に代わった。「朝鮮人犠牲者」に代わったのだけれど、誰が、誰によって、どのように殺されたのか、は何も記されない。熊野市にある紀州鉱山で強制労働をさせられ惨殺された朝鮮人労働者もそうだ。かれらの亡骸がおそらく眠っている場所はいま「英国人兵士の墓」の化粧をほどこされ、自治体はいまも口を閉ざす。グアムもそうだ。日本軍が惨殺した地元チャモロの人々の記憶の地には日本語の表記は何もないし、ガイド本も一切触れていない。この国には無数のいまだ語られぬ“ナギの原”が存在している。知っていて、語られない。みなが声をひそめ、口をつぐみ、奇妙な薄笑いの向うにながしてしまう。それがふつうの人々の「善意の顔をした悪意」だ。かの津山三十人殺しで都井睦雄を幽鬼と化したものの正体だ。戦場で無残な死を死んでいった兵士たちは靖国なぞという国家的電通の広告媒体にされ、かたや虫けらのように理由もなく惨殺された「異国人」はわたしたちの足元のそちこちにいまも深い恨と悲しみを抱いたまま捨てられ埋もれている。この国は、ほんとうに最低だ。

 

『隠された爪跡 関東大震災朝鮮人虐殺記録映画』 解説

1923年9月1日マグニチュード7.9の大地震が、関東地方をおそった。
死者10万人にもおよぶ関東大震災である。
この時、6500名以上の朝鮮人が軍隊、警察、そして日本の民衆の手によって殺されている
ことはあまり知られていない。
そのうえ、今なお遺骨が埋められている事実があった。
1982年9月、東京の荒川河川敷で地元の古老の証言をもとに、遺骨の発掘作業が始まった。
映画学校に通う朝鮮と日本の若者たちがカメラを持って駆けつけた。
真実が隠されてきた60年の歴史を、この映画は追う。
当時、押上に住んでいた曹仁承(チョ・インスン)さんはじめ、多くの証言が真実を語る。
この映画は隠されてきた歴史の爪跡を明らかにする貴重な記録映画である。
呉充功(オウ・チュウゴン)監督/58分/1983年

 

『払い下げられた朝鮮人 関東大震災と習志野収容所』 解説

関東大震災の時、事実無根の流言蜚語が朝鮮人に集中し、
官民による朝鮮人虐殺は、約6,500人以上の犠牲者を生んだ。
政府は「保護、収容」の名目で、各地で警察と軍隊を動員して、朝鮮人を強制的に集めた。
陸軍習志野収容所には、約3200人の朝鮮人が送り込まれていった。
しかし。軍は数名の朝鮮人を密かに連れ出しては殺害していた。
そして、隣接の村々にも朝鮮人を払い下げ、その受け取りを命じる。
受け取った村民たちは流言を信じて、虐殺に加担してしまった。
いまだ、虐殺された人数と行方は一部不明のままである。
映画は元自警団関係者、警察官、運良く助かった留学生の証言などを克明に映像化し、現
在でも残る流言蜚語の根の深さを問いかける
(呉充功(オウ・チュウゴン)監督/53分/1986年)

 

映画を観て  (今村昌平  映画監督)

 何と云っても、このドキュメンタリーの主役『アボジおじさん』が魅力的なのだ。
大井町のホルモン焼店主だそうだが、八十三歳とは思えぬ元気者だし、直情型で、心が素直に画面にとび出るタイプなのである。

大正十一年、大震災の前年に、『日本へ行けば白い飯が食える』と聞かされた22歳のアボジさんは、朝鮮の貧しい村から東京へやって来る。その一年後大震災がおき、朝鮮人虐殺にモロに捲き込まれ、兄を殺され、自らも傷害を受ける。

このドキュメンタリーは、アボジおじさんの拙い日本語による語りを軸に、数々の証言や、客観的な証拠を集め、この残虐行為は何故起きたのか? それは偶発的なものであったのか? 若しかしたら、実は仕組まれたものではなかったのか? そしてこの事件に拘ろうと拘るまいと、今、我々日本人にとってそれはどんな意味を持っているのか? を、ひたひたと問いつめてくる。

勿論アボジさんにとってこのショックは凄まじく、その後二十年間も、夜うなされたり暴れたりしたという。
終りに近く、殺された朝鮮人の死体を集めて焼いたり埋めたりした荒川べりに、日本人証言者の一人である老人Aさんとアボジさんが並んで立つ。Aさんは、意図的にかくされ、風化してゆく虐殺の事実を、子々孫々にまで語り伝えたいと云う。
アボジさんはAさんの手をとって泣く。『くやしかったよ……本当に』
決して論理的でない庶民の言葉で語られたこの記録の中で、最も感動的な部分であり、最も鋭く、我々を衝いて来るカットなのである。

私は、私の主宰する学院から、このような力強い映像を創るドキュメンタリストが出たことを心から誇らしく思う。
 

▼八千代市の戦争遺跡
http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/490232f0c042e058851506dd03a6aabc

▼9月、東京の路上で
【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】
http://tokyo1923-2013.blogspot.jp/2013/09/75.html

【1923年9月の四ッ木橋付近】
http://tokyo1923-2013.blogspot.jp/2013/09/19239.html 

▼ 田中正敬「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」pdf
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/669/669-02.pdf

▼一般社団法人 ほうせんか 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
http://moon.ap.teacup.com/housenka/

▼「旧四ツ木橋付近 関東大震災 朝鮮人虐殺事件地図」jpg
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/map.html

▼政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49733

▼[インタビュー]関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める 3作目の映画を作る呉充功監督
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/22023.html

▼朝鮮人虐殺、今こそ伝える 「大震災犠牲者の遺言、残す」 在日韓国人2世、30年ぶり記録映画
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13129745.html?rm=150

▼関東大震災と朝鮮人 悲劇はなぜ起きたのか 動画
https://www.youtube.com/watch?v=WOScKgu_P8o

▼【IWJ追跡検証レポート】『九月、東京の路上で』〜関東大震災・ジェノサイドの跡地を加藤直樹氏と歩く〜
第一部

https://www.youtube.com/watch?v=mAlf2Gw_Esg

第二部
https://www.youtube.com/watch?v=Iy6yn_oZYWY

▼関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
https://www.shinsai-toukai.com/

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは何か ―果たされていない国家・民衆責任―
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81/

▼NPO法人 多民族共生人権教育センター
http://www.taminzoku.com/

2017.10.8


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 奈良豆比古(ならつひこ)神社の翁舞は念願、であった。ずっと見たかったのだけれど、いつもたいてい仕事とかぶっているか、気がつけば終わっていたりして見る機会を逃していた。神社は以前にいちどだけ、訪ねたことがある。本殿裏のまるで古代井氷鹿一族の奥宮のような冥いすり鉢上の窪地に樹高30メートルもの枝葉をひろげた巨大な楠の木を見上げて身震いをした。愛車のクロス・バイクで夕暮れの郡山を発して、北山十八間戸、少年刑務所、般若寺などを通り過ぎて一時間前に着いた頃には日はとっぷりと暮れている。やがて薪に火がくべられ、まばらだった人の姿もかなりふくれあがってきた。おりしも帰り道にお邪魔した寮さんのならまちの事務所で、オーストラリアのアボリジニたちの八百万精霊ダンスやアイヌの歌のアニメーションを見せて頂いてから、八ヶ岳のふもとで発見された縄文土偶(仮面の女神)や諏訪地方の御柱信仰のルーツについて深夜まで語り合ったが、この国の芸能の始原のかたちともいわれる翁舞を目の当たりにしてわたしが感じたことは、じつはそうしたものに近い。ときにコミカルな、ときに深遠な所作をまとった舞をわたしは実際、宇宙的、と感じたのであった。エイリアン(alien)を仮に異郷者とでも訳したらいいか。それは縄文期にこの国のそちこちの高所で巨大な御柱を大地につき刺し、おおいなる存在と交信をこころみたその心性と重なる。翁舞とはなにか。

施基皇子の子で光仁天皇の兄弟にあたる春日王が「癩」に罹患して奈良北山の地に身を隠した。父を慕う春日王の二人の皇子、 浄人王と安貴王が同道し、浄人王は祖父の施基皇子から伝えられた、神功皇后に由来する大弓作りの技術を生かして弓を作り、安貴王は草木花を育て、ともに奈良市中に売って生計を立てて父王を養った。春日王の死後これを知った桓武天皇は二人の孝心を愛で、弟の安貴王は都に召し出して官位を与え、兄の浄人王はこの地に留め、弓削の姓を与えて春日王を祀る春日社(明治初年以降は奈良豆比古神社)の神官をつとめさせた。

 はじめに奈良豆比古神社にまつわる上のような伝承がある。かつて代表的な非人集落であった奈良坂についてはこれまでも折々に触れてきた。この奈良豆比古神社を「サカの神=奈良坂に坐す神」と解いたのは柳田國男であるが、かれは「サカ(坂・境)・サク(避・裂・避)・サケ(同左)・サキ(崎・尖・岬)・ソコ(底・塞)などはいずれも同根の語で、“隔絶”を意味」し、それは「民俗学でいう“境界”と同意」であるという。一方、非人集落を示す夙(シュク)について「シュク(宿)の元の音はおそらくスクで都邑の境または端れを意味し、具体には村はずれ・河辺・坂・峠などを指し、そこは人の住むには適しない辺境で、神や精霊といった霊的なもの(宿神・夙神)が往来し居付く聖なる場所とされていた」 「また、そのような辺境には、一般社会から阻害・排斥された人々(不治の病、特に癩病を罹病した人・旅の芸能者・一般放浪者など)が集まり集落をつくり生活していたが、集落を宿(シュク、後に夙の字を充てた)、住民を宿人・夙人(シュクウド)と呼んだ」と記している。春日王の伝承は、そのような人々がみずからの出自を貴種流離譚に仮託した矜持の物語であった。翁舞はかれらの内より生まれた。
 神にして人語を発する者あるは、海のあなたより時を定めて来り臨む常世神トコヨガミにはじまる(「まれびとととこよと」参照)。此神は元々人間と緻密な感情関係にあるものと考へてゐた為に、邑落生活を「さきはへ」に来る好意を持つと信ぜられてゐたのであつた。事実に於いて、常世神の来訪は、ある程度の文化を持ち、国家意識が行き亘つて後までも行はれてゐたのである。神々が神言を発する能力を持つてゐると考へる様になつたのは、当然である。

其為に時としては却かへつて逆に、古い世にこそ、庶物の精霊が神言をなしたものとすら考へる様になつた。「磐イハね」「木キねだち」「草のかき葉」も神言を表する能力があつたとする考へが是である。我が古代の言語伝承に従へば、之をことゝふ或はことゝひすると称へてゐた。併しながら「ことゝふ」なる語の原義に近いものは、唯発言する事ではなかつた。「言ひかける」と言ふ原義から出て、対話或は問答を交へると言ふ義も持つてゐたらしい。「しゞま」を守るべき庶物の精霊が「ことゝふ」時は、常に此等の上にあるべき神の力が及ばぬ様になつてゐる事を示してゐる。即すなはち神の留守と言つた時である。其時に当り、庶物皆大いなる神の如くふるまふ状態を表すのである。だから、巌石・樹木・草木の神語を発するのは第二次の考へ方で、此等皆緘黙するものとしたのが、古い信仰だつたのである。

(折口信夫・「しゞま」から「ことゝひ」へ)

 わたしはひそかに翁舞とはこのような始原の場所から生まれ出でたのではないか、と考えてみる。奈良坂などの非人集落シュクの重要な役割である「清目」から、観阿弥・世阿弥の本名「清次・元清」に着目したのは水本正人である(「宿神思想と被差別部落」)。結崎(現在の奈良県磯城郡川西町)を拠点とした観世座は春日大社や多武峰の神事に猿楽を奉納していた。「猿楽は、生きものである国家の嘆きを清めたのである。しかし、世阿弥の時代になると、猿楽は民衆の中に浸透しており、鎮護国家のための猿楽ではなく、民衆一人ひとりの嘆きを清めるための猿楽になっている」 ついで水本は金春禅竹が記した『明宿集』、「翁を宿神と申し奉る事」の条の「日月星宿ノ儀ヲ以テ宿神ト号シタテマツル」を引き、宿神とは星宿神すなわち北極星であり、易にいう天地未分化の混沌たる状態の太極であり、陰と陽が派生する混沌とした根源であると記す。水本はさらに云う。

一つの面の中に、すべての感情が入っている。それが能面なのである。したがって、能面は、それをつけて演じる者の演じ方によって、怒りの面にも、喜びの面にも、悲しみの面にもなる。私は、ある写真と出会うことによって、能面のすごさに気づいた。1992年にフランスの旅客機の墜落事故があり、多くに人が亡くなった。その事故で、九死に一生を得た人の写真が新聞に載っていた。その人の表情が、まさに能面なのである。地獄を見た悲しみ、助かった喜び、こんな目に会った誰にもぶつけることができない怒り、などの感情が、その顔にあった。まさに極限状態の顔だ。能面の作者は、この極限状態の顔を知っている。そして、その顔を再表現する技量があった。すごいことではないか。

千秋萬歳はもともとは笑いを誘う芸である。ただし、「人間が笑う」というのではなく、「神が笑う」のである。千秋萬歳の核心は、人間が神来迎のまねをすることにある。そもそも人間は神を知らない。その人間が神のまねをする。神から見れば、滑稽このうえもないことだろう。しかし、神そのものを知ることはできなくても、神と人間の関係に触れることはできるのではないだろうか。人間は、神と人間の関係を人間と猿の関係で推し量ったのである。人間は、神を笑わすことによって、神の心を開けたい。そして、人間の願いを神に伝えたいのである。千秋萬歳は、神を笑わすことによって、「稲穂の稔り」を神に伝えたのである。

(水本正人・宿神思想と被差別部落)

 奈良坂北山宿の濃い闇にうかびあがった舞台の上で、しずしずとかしこみ、おごそかに舞い、またユーモラスに跳ねる翁面は、わたしのような不信心な者にあってもなにかおおきな宇宙的存在の前で交信をこころみている異郷者のように見えた。宇宙的な合一を夢見ている原初の祈りのかたちとでもいおうか。それはとてもスリルに満ちた経験だった。かつて癩者の世話をし、死んだ牛馬の皮をそぎ、罪人の首を撥ね、葬送の一切に従事し、人間以下と賎視され差別され続けた人々のかたわれが根源たる翁の面をつけ、神を笑わせるために舞ったのだ。すばらしいではないか。

 

▼奈良町北郊夙村の由緒の物語 pdf
http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r51.pdf

▼奈良豆比古神社(奈良市・奈良坂町・奥垣内) エナガ先生の講義メモ
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/47322300.html

▼奈良豆比古神社 難波能面クラブ
http://www.y-tohara.com/nara-naraduhiko.html

▼折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ
http://uedanobutaka.info/official/2013/08/21/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E3%80%80%E7%A5%9E%E4%BA%8B%E8%88%9E%E8%B8%8F%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%83%BD%EF%BC%8F%E3%80%8C%E3%81%97%E3%82%9E%E3%81%BE/

2017.10.9


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 松本出張中、つれあい・娘・母の女連にて企画・編集されし信州家族旅行の私的備忘録。10月10日、早朝6時半出発、昼頃、清里高原の清泉寮到着。ホットドッグや牛乳、ソフトクリームなどで昼食。だだっ広い如何にものリゾーチ的高原の正面奥に富士の蒼い山稜。紫乃は体調すぐれず。ショップなど眺めるが、風景がいちばん。その後、予約していた小淵沢のカナディアンキャンプ乗馬クラブへ移動。近くの「道の駅 こぶちざわ」内にある延命の湯へ母を置いていくが、 「毎月第2火曜日」の休館日だったと電話がきてまた連れ戻す。ビーチ体験乗馬 90分(30分の馬場レッスンと60分のビーチライディング)、¥12,000のコース。中一の引きこもりになったときに甲府の厩舎に泊り込んで馬と寝起きして以来の乗馬か。幼いとき「もののけ姫」の、山犬に乗って走るサンが好きだった。クリスマスに黒曜石のナイフを所望した。不自由な足の代わりか。やらせてやりたいが馬はさすがに高い。乗っている間に元気になってきた。外回りを散歩している間に講師の若い女の子とすっかり仲良くなったらしい。終わってからも長いこと立ち話をしている。八ヶ岳高原ラインをもどるようにして初日の宿泊先はネオオリエンタルリゾート八ヶ岳高原コテージ。雑木林の中に点在するコテージ一軒を貸切。個人の別荘も混じっているらしい。大浴場や食事は本館で、電話をすると車でコテージ間を運んでくれる。プチ・ブルジョア気分か。テラスに小さな露天風呂まであるのは驚いた。夜のしじまでときおり落葉広葉樹の実が爆ぜ、地面やコテージの屋根に落ちる音がする。母は二階の和室で寝て、娘は両親のベッドと隣接するリビングのソファーで寝たいと言うので、大きなソファー二つを向き合わせにくっつけてベッドにして布団を敷いた。吹き抜けの山小屋風の天井を眺めるのがいいらしい。12日の翌朝はみんなそれぞれテラスで朝風呂を楽しみゆっくりする。そして富士見町の“雲海の見えるゴンドラ”(富士見パノラマリゾート)へ。これはつれあいの肝いり。標高1995メートルの入笠山の足元、1700メートルあたりまで昇る。全長2.5キロ、730メートルの高低差。往復で1650円。冬はゲレンデだが、夏場はマウンテン・バイクのダウンヒルコースになるらしい。自転車を積んだゴンドラが続々あがってきて、真下の斜面を駆け下っていく。山頂駅から小一時間もあるけば入笠山の山頂へ行けるが、もっと近い湿原や花畑すら、いまの娘の足では難しい。それでも雲海テラスでルバーブのソフト・クリームを舐めながら風に吹かれて大パノラマを満喫するのも悪くない。すり鉢の底のようにひろがった富士見・茅野あたりの平地から、八ヶ岳・乗鞍へかけての山稜がくっきりと見える。地球の皺が実感できる。さて、そこから先は何も決めてこなかった。父はほんとうは縄文遺跡の資料館など行きたかったのだが、どこぞでもらったパンフにあった八ヶ岳自然文化圏のプラネタリウムを娘が見たいと言い出した。名探偵コナンの星影の魔術師、オーロラから見た恐竜たち、FROM EARTH TO THE UNIVERSE まで三タイトルを14時から17時まで連続で見れる。急がねばならない。ところが到着した八ヶ岳自然文化圏はなんと休館日で閉門していた。娘はがっかり。たまたま通りかかった関係者らしい女性につれあいが訊いたら、休みは「火曜日・祝日の翌平日・年末年始」だが、9日の月曜が祝日だったため、「祝日の翌平日」が「火曜日」と重なって今日の水曜日にスライドした、という説明だが、そんなのありかオイ。次に娘が提案したのが蓼科アミューズメント水族館。父は「信州で水族館かよ」と思ったが、口に出したのは「お父さんは、どこでもいいよ」  昼飯を食べ損ねていたので、途中で見えた「たてしな自由農園」なる物産展でつれあいや娘はパン、わたしは地元の飲むヨーグルトとほうづきで。この食用のほうづき、はじめて食べたがマスカット風味で美味。ところが2010年に倒産して運営会社が代わったこのやや寂れて手づくり感満載のそれにしてはちょっと1470円の料金は高いと思えるしかも淡水魚専門というマイナーな蓼科アミューズメント水族館が意外や意外に面白くわたしの母以外はたっぷり楽しんでしまった。ドクター・フィッシュに手の古い角質を食べてもらってすべすべになったのを皮切りに、何よりわたしが個人的にいちばん興味深かったのは、シーラカンスとおなじく1億年前からの姿をとどめているピラルクなる古代魚であった。折りしも松本滞在時に古生代の生物たちの変遷をたどっていたものだから余計に感慨深く、水槽の中をもの言わず漂うかれとしずかな対話を交わしていたのだった。娘もひとつづつ、解説をじつに丁寧に見ながらじっくり回っている。この子は生き物に触れることがうれしいのだ、と思う。そして帰り道、夕闇までの紅葉した山並みの見事なこと。車中からその黄金色に輝く景色になんどかみなが歓声をあげた。果てしない山稜、印象派のキャンバスのごとき山の色、しずかな白樺の雑木林、のどかな丘陵地の田舎の風景。どれもすばらしい。車で走っていることがこれほどうっとりするような旅行もあまりない。二日目の宿泊は蓼科の女神湖畔にあるホテルアンビエント蓼科。さしづめレイク・ビュー・フロントの部屋からの夕日をつれあいは愉しみにしてようだが、到着が若干遅かった。部屋も広く、露天風呂もあり、風呂上がりには浴衣で湖畔へ降り立って満天の星空を堪能したが、ただ残念だったのは窓のサッシががたついていたり、リビングの椅子が一部シミだらけだったり、有料で貸し出しているボード・ゲームの管理がいい加減でパーツやカードがけけていたことなどで、これはチェックアウト時に改善をお願いしてきた。最終日の三日目の朝は女神湖をぐるりと回ってから出発。さあ、今日は「お父さんの日」だ。松本市美術館の「細川宗英展」だ。白樺湖を抜け、下諏訪、岡谷から長野自動車道へ乗って松本入りする。さんざあるきまわっていた道を車で通り抜けることが何となく素っ気なく詰まらない。美術館到着は昼前頃だったろうか。あの諏訪美術館の衝撃の臨時休館から、やっと見ることができる。この企画展について、細川宗英作品については、できれば後日にあらためて記したい。とにかくすべてがパーフェクト・フィットなのだ。ここではとりあえず、チラシの紹介文をあげておこう。

消滅しゆく運命との“たたかい”

人間の遺産をつくる芸術家の責任を、築くものと崩れ去って行くものの間で、私はもう一度考えたい。日本的なものへの回帰と、小さなものでもよいのだ確かなるものを。(細川宗英)

 「彫刻とは何か」を己に問い続け、人間の存在を追求した細川宗英(1930〜94年)の特別展を開催します。
 細川宗英(むねひで)は松本市に生まれ、諏訪市で育ちました。東京藝術大学美術学部彫刻科専攻科在学中から新制作協会展に出品し、その才能は早くから注目されます。日本的なものへ回帰するイメージから生まれた「装飾古墳」シリーズ、人間の内面を赤裸々にえぐり出す「男と女」「王と王妃」のシリーズ、鎌倉室町の頂相ちんぞう彫刻から想を得た「道元」、平安末期から鎌倉初期の絵巻『地獄草紙』『餓鬼草紙』による物語絵画を彫刻化したシリーズなどを発表。風化しゆく人やモノの姿をとおし、時間や歴史を超越して存在するもの、内に向かって削ぎ落としていくような造形を探求しました。
 本展は、細川の初期から晩年までの作品(彫刻、デッサンなど)約90点をとおし、創作の変遷を辿ります。生きた証を残しおこうとする人間の執念、永遠なものへの祈り…。細川が彫刻に込めたむき出しの美は、生あるものが消滅しゆく運命との“たたかい”でもあるのです。
(彫刻家・細川宗英展 人間存在の美 チラシより)

 そして予想外にうれしかったのは、娘が気に入ってくれて、誰よりも(わたしよりも)長い時間をかけて作品のひとつひとつを熱心に見ていたことだ。母などは「わたしには難しすぎて何だか分からない」と早々に会場を出て廊下のベンチに座っていた。「あんまりみんなを待たせたら悪いから、スケッチはお父さんが買う図録をあとで見せてもらうつもりで、途中から彫刻だけ一生懸命見てきた」とあとで娘はわたしにおしえてくれた。この作家の作品はもともと、わたしの松本滞在を知った彫刻家の安藤栄作氏がSNSにて10月7日からの展覧会を教えてくれたのが最初だった。わたしは10月2日に帰宅を予定していたのですれ違いだったわけだけれど、その後たまたま時間が取れて何気なしに入った美術館で(企画展のはざまの常設展示だけのときだった)草間弥生といくつかの浮世絵作品を見てそれなりに満足だったわたしに仕事の電話が入り、廊下に出て突き当たりのベンチに腰かけてしばらくしゃべっていたわたしが、電話を切ってふと隣にブロンズの像が立っているのにそのときはじめて気がついて、「道元」と題されたその不思議な立像に衝撃を受けたのがほんとうに偶然の出会いだったわけだが、それが安藤氏が教えてくれた細川宗英の松本市美術館の所蔵作品の一つなのだった。必然の出会いというものは、やっぱりあるのだとわたしは思う。この作家の感覚、造形、思惟、方向、そのすべてがわたしにはまるで身長も体重も同じ双子のじぶんの服を着たかのようにぴったりと嵌る。ところで2時間近くを集中してすでに憔悴しかけていた娘をせっかくだからおまえとおなじ引きこもりのアーティストの作品をちょっとだけ齧っていこうと常設展の草間弥生コーナーへ車椅子を押していったところ、冒頭のレッド・ドッツで娘はもう過剰反応してしまい、途端に吐き気を催すほどになってしまった。集合体恐怖症(トライポフォビア(英: trypophobia, 英: repetitive pattern phobia)というものだと、みずからおしえてくれた。そんなこんなで当初予定していた美術館裏の蕎麦屋「やまがた」の昼の営業時間が終わってしまい、おまけに雨がぽつぽつと降り出してきたために車椅子を仕舞い、駐車場のあるわたしがこよなく愛した500円のざる蕎麦屋・小木曽製粉でお昼を済ませることにした。天気がよければ中町通りや縄手通りあたりへ行って、もうすこし風情のある店に案内したかったのだけれど。あたらしくできたイオンモール内のお土産店へ寄り、城の北側道路から松本城を眺めて、ああサラバ、松本よ。そのあとは高速道路をひたすら走り続けて名古屋・彦根・京都を経由、途中多賀のSAで夕食を食べ、家にたどり着いたのは22時半ころであった。八ヶ岳高原あたりの黄金色の山肌がいまも目に焼きついている。
 

▼清泉寮 https://www.seisenryo.jp/

▼カナディアンキャンプ乗馬クラブ http://www.canacan.jp/facility/index_y.html

▼ネオオリエンタルリゾート八ヶ岳高原コテージ http://yatsugatake.izumigo.co.jp/

▼富士見パノラマリゾート http://www.fujimipanorama.com/summer/

▼八ヶ岳自然文化圏 http://www.yatsugatake-ncp.com/

▼たてしな自由農園 http://www.tateshinafree.co.jp/ 

▼蓼科アミューズメント水族館 https://www.tateshina-aquarium.jp/

▼ホテルアンビエント蓼科 https://tateshina.izumigo.co.jp/

▼彫刻家・細川宗英展 人間存在の美 http://matsumoto-artmuse.jp/exhibition/special/8566/

2017.10.13

 
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 今日は殆どを県立図書館で過ごした。

 午前中はつれあいと二人で行って、わたしは予てよりの六条村の救癩施設・西山光明院の手がかりを追って、推定地にひっそりと建っている名も分からぬ小さな社に焦点を当てて資料を漁ったが、奈良市史の神社一覧にもそれらしい記述は見えず、また昭和33年のまだ人家も少ない頃のゼンリン住宅地図にも社地の記号はなかった。(昭和33年、41年、そして最近のゼンリン地図をコピーして帰った)

 昼を済ませて、午後からも一人で出かけた。昭和の初期にじっさいに西山光明院跡地(まだ建物の一部が残っていた)を調査した宮川量の遺稿集「飛騨に生まれて」に何か書かれていないかと思ったのだが、Web上でも見れる「救らい史蹟西山光明院」のほか「鎌倉時代におけるらい救済者忍性律師の研究」等の論考も収録されていたが、西山光明院についての目新しい記述は見当たらなかった。それにしてもこの宮川量は現在では忘れ去られてしまった人物なのか、ネット古書も流通しているものはほぼ皆無に近い。

 不明神社の線がいったん行き詰ったので、せっかく来たのだからと薬師寺関連の書籍等をしばらく漁ってみた。薬師寺が定期的に出している会報のような冊子が昭和40年くらいから揃っていたので、目次をなぞるように見ていった。そのなかで昭和42年から管主を務めた高田好胤が毎年のように太平洋戦争の戦場を慰霊の旅と称して冒頭に登場するが、これがすごいね。英霊の御霊だとか、靖国を否定するのは言語道断だが靖国神社の方こそ英霊の御霊を迎えに来いとか、戦場で玉砕した将兵や遺族を誉めそやしたり、だいたい坊主がなぜ「英霊」などという言葉を平気で使うのかおれはまったく理解できないのだが、あらためて調べてみれば生前は話術が巧みでユーモアにも富んだ「究極の語りのエンタテイナー」と評されていたようだけれどこのおっさん、日本会議の前身である「日本を守る国民会議」の代表委員も務めていたとか。この時点で薬師寺は、もう見切った。

 ついでに言わせてもらえば、これまでカウンターばかりでゆっくり書棚を見ていなかった県立図書館だが、3階の一角のかなりのエリアを占める「戦争体験文庫」のコーナー、これもすごいね。十数列の裏表の書架及びその並びの壁面一面は戦史、従軍記、ゼロ戦や戦艦の軍事本、英霊を称える書、それに軍人老後会の各種会報がずらりと並び、いやいや県立図書館よ、これほんとうにいいの、こんなんで? と思わず誰かつかまえて言いたくなるくらいの有様。要するにほんとうの意味での悲惨さや加害者としての立場を指摘する書物が千分の一くらいしか置いていない。戦争を知らない世代に当時の生活を知ってもらうためにうんたらかんたら書いていたけれど、あれをあのまま並べておくのはどうかと思うよ。そういうわけで奈良県立図書館はすでに日本会議状態だ。われわれは一歩づつ着実に理想世界へ近づいている。

 まあ、そんなこんなで愉しい一日だったが、メモしてきた入手したい本をいくつか。

▼宮川量「飛騨に生まれて 宮川量遺稿集」(名和千嘉 1977)

▼田中寛治ほか共著「旧生駒トンネルと朝鮮人労働者」(国際印刷出版研究所出版部 1993)

▼田中寛治「朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック 奈良編」(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会 2004)

▼川瀬俊治「奈良・在日朝鮮人史」(奈良・ 在日朝鮮教育を考える会 1985)

2017.10.17


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 人権は譲渡できない、奪うことのできないものと宣言され、そのためその妥当性は他のいかなる法もしくは権利にもその根拠を求めることができず、むしろ原理的に他の一切の法や権利の基礎となるべき権利であるとされたのであるから、人権を確立するには何の権威も必要ないと思われた。人間それ自体が人権の源泉であり本来の目的だった。他の一切の法律は人権から導き出され人権に基づくとされたからには、人権を守るための特別な法律が作られるとすれば、それは逆説的な事態である。
ハンナ・アーレント「全体主義の起源」

 松本の丸善で買って中断していたNHKテキストのハンア・アーレントをいまごろまた読み始めているわたしだが、この部分はちょっと目からウロコ。戦乱などによって発生した大量の難民=無国籍者という「新しい人間集団」の登場によって、「フランス革命以降、ヨーロッパの知識人や民主主義者は、誰でも人間であれば、そのこと自体が人権の源泉になると信じてき」たことが幻想であったと明確になった。「人権を実質的に保障しているのは国家であり、その国家が「国民」という枠で規定されている以上、どうしても対象外となる人が出てしまう」というわけだ。「法による支配を追及してきた国民国家の限界が、国家の「外」に現れたのが無国籍者の問題であり、それが国家の「内」に現れて、統治形態を変質させていくのが全体主義化だということもできる」  わたしは20代の頃からディランの60年代の曲の一節 But to live outside the law, you must be honest (法の外で生きるには、誠実でなければならない) を座右の銘としてきたが、こちらが誠実であっても、現実に於いてはわたしの人権を保障しているのは国家であり、状況が変わればだれもが無国籍者になりうる、ということだ。「同一性」ということにアーレントはこだわるが、であればそもそも国民国家をそれたらしめている「同一性」をこそ、わたしたちは疑い、再定義もしくは解体していく必要があるのではないだろうか。

 アーレントが「全体主義の起源」の第一・二巻で提示したキーワードを整理すると、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義―――ということになります。いずれのキーワードも、太平洋戦争へと突き進んだ戦前の日本、戦後七十年を経て再び右傾化の兆しが見える現代の日本にぴたりと符合するのではないでしょうか。
NHKテキスト 100分de名著 仲正昌樹「ハンナ・アーレント 全体主義の起源」


2017.10.18


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 衆院選、開票。NHKの8時のニュースがカウントダウンをして、まるで高校生の発表会のように満面の笑みをうかべたアナウンサーたちが「自民党の圧倒的勝利」を謳った瞬間、なにか、見知らぬ者に家の中に土足で入られたようなひどく厭な気分がした。それでじぶんの部屋にはいって、揺り椅子でしばらくコンポに入れっぱなしにしていたバッハの無伴奏ヴァイオリンを目を瞑って死んだように聴いていた、長いあいだ。

 この明治42年が此の世の終わりでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、その瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。
(嶽本あゆ美「太平洋食堂」大石誠之助の台詞)

 この平成29年が此の世の終わりでない限り。

2017.10.22

 
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 新宮市民会館の南隣は丹鶴城の石垣、北には廃校となった丹鶴小学校。会館前の途をまっすぐ北へ三百メートル行けば、太平洋食堂と大石誠之助の医院跡がある。そしてその先には三本杉遊郭の跡と速玉大社。そこを西へ折れて進めば、高木顕明の住持した浄泉寺、その途中には明治に開業していた料理屋や旅館、薬局、色街もある。新宮の北西をぐるり取り囲む岸壁は、鍋肌のように垂直で、頂きの縁から、ふとだしぬけに神倉神社の御神体ゴトビキ岩が天狗の鼻のようなものを突き出している。熊野川が注ぐ先は熊野灘、浜の向こうは太平洋、そして対岸はアメリカ大陸西海岸。全ての情景がぴったりとあった。新宮市民会館の舞台上、「太平洋食堂」はまさにここを目指して始まったのだ。黒々とした楽屋通路、誰もいないトイレの壁、窓ガラスの向こうから、湧きだして止まらないようなものを感じた。目に見えるというよりも、自分の内側にある何かと、そういうものが呼応して蠢きだすのに耐えられず、声を出した。「おーい」。そしてそこに一人で居るのが怖くなり、宿へ逃げるように帰った。

 そういう瞬間はある、と思う。おおきな、直立した、冥(くら)い時空の断層がスライドして闇の帳(とばり)の端がひょいとめくれ、そこからなにか生温かい吐息のようなもの、つめたい結晶のように尖った囁きが、一瞬、こちらの頬をかすめて思わず背筋が凍りつく。わたしたちが歴史の実時間に立ち会う(コミットする)瞬間だ。満ち潮を遡上する川の匂い、頭上を飛び交うカモメの群れ、草いきれ、魚を担いだ引き売りの声などがそのときたちあがる。はからずも、わたしは迷い込んだ異郷者である。演劇とはそういうものかも知れない。大逆事件なる天下の茶番劇に連座してすべてを失い、「おーい、頼んだぞ」と叫んで骨も凍る独房で縊れた僧侶・高木顕明の一粒種を描いた「彼の僧の娘」を2016年の夏に新宮で観た。新宮は根の国である。あたかもラピュタの天空城を埋め尽くすほどの無数の根茎が地面に突き刺さり、古代神話から被差別部落に至るまでいまもふるえている。わたしたちはふだん、地上の枝葉や花や実ばかりに気をとられているが、ときに地下ふかくの根茎のふるえに共鳴してしまうことがあるのだ。あの日、大人の玩具も色褪せるほどのバイブレーションで昇天したわたしはそれから、何やら足の裏に無数の毛根をひきずりながらあるくようになった。名古屋で大杉栄と共に殺害された甥の橘宗一の墓碑を探し、大阪で大逆事件サミットや管野須賀子を顕彰する会などを覗き、遠く信州では明科の爆裂弾実験地をあるいた。同時に河内のキリシタン遺跡、北陸の一向一揆、あるいは堺の砂についえたキリシタンによる救癩施設や大正まで存続していた地元・奈良の忘れられた被差別部落にあった救癩施設の旧跡を探索もした。楽園のグアムでは日本軍による地元住民の虐殺事件現場を訪ね、そのグアムで玉砕した日本兵士の記憶を探して近所の共同墓地や軍人墓地、護国神社などをあるきまわった。紀伊半島の鉱山労働者であった朝鮮人の虐殺事件を知り、関東大震災のときの事件のフィルムを大阪・生野の集会場へ見に行った。出張先のホテルの浴槽のなかでは堀田善衛の「時間」(南京虐殺)や「夜の森」(シベリア出兵)を読みついだ。つまりこれらはすべて冥(くら)い地下の根茎で密接につながっていて、そのほとんどはいまも薄闇のなかでしか語られない。すべてはあの2016年夏の新宮で始まったのだ。だから「彼の僧の娘」の作者である嶽本あゆ美さんは天下の極悪人ということになる。さらに新宮公演をきっかけにFB友になってくれた彼女はその後、わたしに「彼の僧の娘」や「太平洋食堂」の脚本を譲ってくれたり、大逆事件に関するさまざまな催しに誘ってくれたりしている。立派な共謀罪で、わたしたちはじきに縛り首になるやも知れない。その嶽本さんが本を出した。冥土の土産に読まねばなるまい。本は管野須賀子が獄中で書いた手紙のように針穴で書かれているかと思ったがちゃんと印刷された文字で明瞭に記されている。しかもスコブル面白い。前半の第一部「職業としての演劇人」は著者が「魔の山」(マン)と呼ぶ世間から隔絶した音大の学生生活から始まり、その後入社する「劇団四季」での研修、舞台裏、そして子育てをしながらの奮闘が繰り出される。いわば肥やしの時代である。だが華々しい大資本のミュージカル・ショーに飽き足らず「夢から目を醒ませ」という幻聴を聞いて、嶽本さんは在籍13年目にして「劇団四季」を退社する。「なぜか浅利社長が90年代によく話していた築地小劇場の歴史やソ連演劇界のメイエルホリドの粛清やら岡田嘉子のソ連亡命を思い出しながら。「さよなら! さよなら! さよなら!」。 そして国境を越えたのです。」  第二部「大逆事件と演劇、そして社会」。ひょんなきっかけから中上健次の小説「千年の愉楽」の舞台化に携わった嶽本さんは、新宮でやっぱり足の裏に毛根を引きずるようになり、共に大逆事件に連座した大石誠之助(「太平洋食堂」)、高木顕明(「彼の僧の娘」)らを題材とした作品を生み出していく。それにしても演劇というのは面倒で厄介なものだ。「20人以上のカウンターの客からの同時多発の注文を一人で捌き、好みを熟知し、代金も取りはぐれなかった」かつて通った大阪のうどん屋のおばちゃんを引き合いに出して著者は、演劇をつくるのは劇作家の能力とこのうどん屋のおばちゃんのような才能の二つが必要だ、と世界の真ん中で叫ぶ。わたしの勝手な見立てではそれは2対8くらいの割合ではないかと思える。「公演制作は軍隊の兵站と似ている。資金調達、人材の確保、輸送や機材の手配などの物流管理、交通宿泊のブッキング、食事、広報宣伝活動、販売チケットの管理、全てに専門性が必要でとにかく面倒で細かい。何をどう手配して、どう運ぶか? コストをどう抑えるのか? 現場管理はまるで補給部隊のようだ。同時に交通手段の代替や、災害や事故が起きた場合の保険などのリスク管理も事前にしなくてはならない。」  だが、それだけでない。百年前の国家権力によるあきらかなでっち上げにもかかわらず、いまだ司法が再審請求を却下し続けている事件の芝居を縊られた者の古里で行うことの困難さは21世紀の現代にあっても継続している。被差別部落、土地の有力者たちとのかねあい、メディア、教育委員会、行政、台詞で使われる「新平民」というコトバの問題、子どもたちへの事前学習会の開催、面倒ごとは御免と逃げ腰になる学校の管理職・・・  粘り強く対話をくりかえし、多くの支援者に助けられ、ときに疲労困憊し、ときには返す刀で斬り捨てる。演劇が人々を招(お)ぎよせ、ぶつけ合い、ころがしていくのだ。ころがっていった巨大な毛玉のようなものが、そうしてまた別の毛玉を生み、また多くの人々をからげとって走り続ける。大逆事件はいまも生きている。

「太平洋食堂」はフィクションを多く含むドラマだ。歴史家でない私のような劇作家にできることは、彼らの短い生涯の「陽の部分」を切り取り、特別な存在でない「普通の人」として再生することだ。苛酷な時代状況の中に置かれて葛藤し、社会や自己矛盾とも戦いながら生き切った「生」の部分こそが、意味のある「人間のドラマ」なのだ。それが成功すれば、観客は時代を追体験することが可能となり、異なるものへの理解や共感を体感するだろう。それが演劇や映画など表現芸術が出来る最大の「武器」なのだ。

 現代、SNSに蔓延するコトバの多くは恰もうつろな空間でひびくループする悪しきミニマル・ミュージックのようなものだ。それはおそらくどこへも届かないし、何も実りをもたらさないだろう。だが演劇は違うようだ。ひとつの舞台を実現するまでの間に、現実の塵あくたに触れ、たくさんの人々を動かし、変え、勇気づけ、夢をかなえるのだ。なによりそこにはSNSにはない「肉体」がある。演劇は「生もの」であり、人間のちっぽけな頭ではなくその「生もの」が感じ、考えるのだ。それはひとつの希望かも知れない。わたしたちはもっともっと足裏に毛根を生やしてあるいていけるのだ。夜ふけの新宮市民会館で見えない何ものかに呼応して思わず声に出した嶽本さんの「おーい」は、百年前に秋田の監獄で高木顕明がふりしぼった「おーい、頼むぞ」にたしかに重なっている。それをわたしは2016年夏の新宮で目撃したのだった。満ち潮を遡上する川の匂い、頭上を飛び交うカモメの群れ、草いきれ、魚を担いだ引き売りの声のなかにわたしは立っていた。そこから、はじまる。
 私の制作の方法は特殊かもしれないが、他人から聞くことで、自分の知らない時代や、失われた土地の声を再現することは可能だ。声の集合体は、社会をつくる。演劇はそれをまた、逆側から読み解くことで、他者と自身の「偏差」を知ることができる。自分の立ち位置から、世界の地図が新たに見え始める。

 社会を読み解く力、思考する訓練、何者にも支配されない自由な思考のために、演劇が必要なのだ。演劇とは、思考する方法であり、それによって権力や経済にも支配されずに、魂の自由を得ることができるだろう。かつて創造主を作りだした時のように。

 それこそが、全ての変革の始まりなのだ。

(妹尾伸子・嶽本あゆ美・堀切和雅「演劇に何ができるのか?」(アルファベータブックス 2017)

※引用はすべて 第二章「支配を脱するための演劇」(嶽本あゆ美) から

2017.10.24


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 台風通過で最後まで迷ったが、エイままよ、上映会が中止なら博物館の「国宝展」に切り替えればいいし、帰りの電車が止まったらそれはそれで愉しもうと腹をくくって京都へ向かった。丹波橋で京阪に乗り換えて出町柳へ。ひと駅だけの叡山鉄道は面倒だったので雨の路地を適当に抜けた。六斎念仏の総本寺という寺(光福寺(干菜寺))を発見。時間があったので、元田中の駅を越えたあたりに見つけた「天狗食堂」で親子丼のお昼を食べた。近在の人に愛されている店のようで、昼時もあってほぼ満席。相席をすすめたおっちゃんはビールと肉カレー丼と中華ソバ。おいおい喰いすぎじゃないか大丈夫かと人の糖質を心配した。線路のすぐそばの「民団(在日本大韓民国民団)左京支部会館」。ここで前田憲二監督の「神々の履歴書」を見せていただいた。二階の会議室のようなスペースにパイプ椅子を並べて30人ほどか。140分、2時間半近い上映。日下武史さんの淡々としたナレーションで朝鮮半島と日本の全国の神社や遺跡が特に殺人事件が起こるわけでもなくやっぱり淡々と紹介されていくので、昨夜はちょっと寝不足もあって二三度こっくりしかけて後ろのおばちゃんに笑われた。殺人事件は起こらないわけだけれど全編がしずかな時限爆弾のようなものだ。日本の神々は古ければ古いほど朝鮮半島からの渡来だというのが前田監督の結論であって、ためにネット上では場所によっては「売国奴」「非国民」のひどい扱いだが、その衝撃度は明科の谷あいで宮下太吉が放り投げたちゃちな爆裂弾よりも強力だ。何せ映画のラスト、巨大な仁徳天皇陵が空撮されながら「日本の天皇は、百済系なのか、新羅系なのか、それとも高句麗系なのか?」というナレーションが流れて映画は終わるのだ。あまりにさりげないのでうっかり聞き逃しかけてからふと気づき、その意味するところの内容に驚愕する。内容を語ればあまりに多岐にわたるので詳しくは前田監督の著作などを読んで欲しいが、あらためてわたし自身ももういちど、かつて訪ねた社地を「あたらしい眼」で見直したいという欲求に駆られた。たとえば飛鳥、土師の里、そして熊野など。渡来のごった煮ともいえる生駒山麓もおもしろい。土地があればあるくし、海があればわたるし、人は自然につながり、まじりあう。かつて日本海は断絶ではなく一種の大きなコミューンだったわけで、ちょっと海の向こうの親類にひさしぶりに会いに行ってくるわ、ということだってあっただろう。線を引くからおかしくなる。純粋を言うから省きたくなる。おれたちはみんな mixed up confusion だよ、もともと。上映が終わり、休憩をはさんだ懇親会で「どなたか感想を」と司会の女性が言ってもだれも手をあげず、「ネットを見て奈良からきました」と一番乗りだったわたしにお鉢がまわってきた。それでつい調子に乗って「百年のこの国の歴史について」、わたしが最近思っていること、調べていること、訪ねた場所のことなどを20分近く喋ったのだった。いわく東学農民事件、関東大震災、大逆事件、新宮、紀州鉱山、グアム、そして堀田善衛や沖浦和光などなど。会場の場所柄「日本人」はわたし一人だったと思う。ほとんどわたしよりやや上の世代以上の「日本で暮らす朝鮮人」の方々だったが、とても熱心にどこの馬の骨か分からぬこの若造の話を聞いてくれて、それが伝わってきたのでわたしもついつい調子に乗って、あとで控えていたゲストの「先生」の持ち時間を相当食ってしまったのだった。申し訳ない。懇親会が終わると幾人かの人が来られて連絡先を訊ねてきた。知り合いの古い倉庫から関東大震災のときのむごたらしい写真が出てきたからメールであなたに送ってあげるという人もいたし、司会の女性は「またこんな催しがあったらお誘いしたいので」ということだった。みんなから「先生」と呼ばれていた初老の小柄な男性は「この人に電話してわたしの名前を言いなさい。あなたが調べているという紀州鉱山についても詳しい人だから、いろいろ教えてくれるだろう」と久保井規夫(桃山学院大学元非常勤講師)さんという方の電話番号を教えてくれた。そんなやり取りをしている内に参加者の人はみんな帰ってしまって、残っているのはその「先生」と5名のスタッフの方だけだった。そのまま「ビールでも飲んでいって」と誘われ、階下の事務所の打ち上げに図々しくも混ぜて頂いた。わたしはそこで「こういう作品は、本来はじぶんのような日本人がもっと見るべきで、そしてみなさんのような在日の方々と意見交換ができたらもっといいと思う」というようなことを言った。頂いた名刺に「朴炳閏」とある「先生」は歴史にくわしく、数千年前の古代文明からここ百年間の日韓の関係まで、まるで見たきたかのようにすらすらと喋って尽きない。帰って Web で調べたら、「日本<HAN>民族問題研究所」なる在野の団体の所長さんらしい。酔っ払って風呂場で死んだわたしの敬愛していた伯父に雰囲気が似ていて、ビートたけしを小さくしたような面影である。あやしい雰囲気もあるが(^^) 気取りがない。この朴先生が何と奈良の田原本在住で、いっしょにバスで京都駅までもどり、近鉄特急で東北アジアの鳥居龍蔵の発見にルーツを持つ紅山文化や桓檀古記についてのお話を伺いながら帰ってきたのであった。

 

◆光福寺(干菜寺) http://blog.goo.ne.jp/korede193/e/c7bb280b3f3aef845bd892771e75f74d 

◆天狗食堂 https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260302/26006868/

◆「神々の履歴書」(1988年)が語る天皇の「渡来説」 http://hiro-san.seesaa.net/article/250626143.html

2017.10.30

 

 

 今日は潮がうつくしいが、だれも釣りをしてる者もおらん。あんた、どこから来た? そうか。いまはこんなんだが、むかしはここも舟がぎょうさん泊まっててな。正月なんかは大漁旗がそりゃあ、鮮やかだったよ。そう、見たことがあるかね。わしもずっとタンカー船に乗っていたが、休みの日はじぶんの釣り船で魚を捕りにいった。燃料はタンカー船から分けてもらうからタダだ。タンカー船の稼ぎより良いときもあったなあ。そうさな。淡路島や明石の方までいくんだ。あのへんの潮は栄養価が高いから魚が旨い。むかしは大阪湾はもっと汚れていたからだれも食わんかったが、海もきれいになってみんな食べるようになった。逆に潮岬の黒潮は栄養がぬるい。舟でどれくらいかかるかって? 明石まで一時間半くらいかな。エンジンだから、近いもんだ。わしもずっと海で働いてきたよ。わかいときは紀ノ川の河口で採れる砂利を舟で大阪や神戸へ運んだ。生コンになるわけだ。あの頃はまだ木造船だった。九州の石炭を積んだこともあったな。発電所へ持っていくんだよ。3年ほど、東京へ働きにいったこともあったなあ。東京湾へ入っていくあの入り口の左側あたり、自衛隊の基地があるあたりは何て言うんだ? 横須賀、だったかな。あのあたりの海の底を掘る仕事だ。岩盤が浅いんで、5メートルくらいの長い鉄の棒の、先が三つにわかれているようなやつを船から落として地面につきさす。そうして崩した岩をカッターレスでさらう。え。東京じゃ、どこに住んでたかったって? 船ん中んだよ。でっかい船だからな。寝るところはいくらでもある。ときどき陸(おか)へ飲みにいったりもしたけど、ほとんど船ん中だったな。砂利の運搬船がすたれてきて、タンカー船に乗るようになったんだ。あとは65歳の定年で引退するまでずっとタンカー船だ。いまはもう82歳だよ。タンカー船を降りてからも魚は捕りにいっていたけど、脊髄をやられてから手が思うように動かなくなって、魚を引き上げられなくなった(笑) それで舟も数年前に処分した。へえ、あんたの嫁さんの実家もタンカー船かい。うん、ヨコタは知ってるよ。わしんんとこはナカオだ。瀬戸内に潮待ちの良い港があってな。船がなかなか進まないときは潮の流れが変わるまで、そこで待つんだ。そんなときは、おんなじ地の船があればその横につける。いや、旗なんかじゃなくて、船の形を見ればすぐ分かる。ヨコタの船ともそうやって何度かいっしょになったことがあったよ。食事は大きな船だったら賄いの人が乗っていて三食つくってくれる。3〜4人の小さな船だと、いちばん年下のものがつくる。甲板から釣り糸を垂らして釣るから、魚は不自由しなかったな。冷蔵庫にいつもたっぷり入ってた。小さな舟が陸からやってきていろいろ売りにくるんだ。「野菜だけくれ」って言うと「何でだ?」と言うから、冷蔵庫の中を見せてやったら「うちよりたくさんある」って驚いていたよ(笑) だから買うのは野菜、米、味噌かな。おちょろ舟も来た。他の船は若いもんがばらばら乗ってたから、わがらの船にあげていいことするわけだ。わしらは親子で乗ってたから、あげるわけにもいかないしなあ。朝になるとビーッと笛が鳴って、「さあ、ひきあげるぞ」って合図だな。迎えの舟が来てかえっていく。瀬戸内から北海道を回って、いちばん遠いところは新潟あたりまでかな。あっちの冬は寒かった。デッキの手すりに波があたると、つららになって固まるんだ。それくらい寒かったな。ちょっと腰がつらいから、あすこのベンチにすわらせてもらおうか。どれどれ。そう、うちは代々ここ、オオサキだよ。父親は戦争から帰ってきてから一時、八百屋をしていた。でもいまじゃ米屋も閉め、魚屋も閉め、雑貨屋も閉め、もうオオサキには店はなんにもない。空き家も多いが、売れるわけでもないし、そのままほったらかしにされている。瓦の何枚かでも落ちると、そこから雨が入るからもうダメだね。ちょっと前は更地にして駐車場にすれば多少のお金も入ったけれど、いまじゃ止める車もない(笑) そのうち人間より猫のほうが多くなるんじゃないかね。わしらもずっと船ばかりだったから、車の免許も持っていない。だから買い物も不便だ。あすこの丸善のタンクも、もうすっかり油も抜いてしまったらしい。撤退するという噂だが、いまは別の会社になっているけどね。どうなることか。あのトンネルのある小山の向こうに戦争中は朝鮮人たちが暮らしていた。石山ってみんな呼んでたけど、青石が採れて、それをあちこちに運んでいた。コンプレッサーをつかって岩を砕いていく仕事だから重労働だ。そこで朝鮮人たちが働いていた。そうさな、20家族くらいはいたんじゃないかな。わしはその時分、小学生だったかな。弁当を持って父親と行ったことがある。あの谷筋の低くなったところにむかしは道があったんだ。学校の同級生にも朝鮮人の子どもがいたな。あの頃はみんな、わがとこで鶏を飼っていた。朝鮮人はその雄同士を闘わせたりして遊んでたな。お互いに仲良くやっていたよ。戦争の終わり頃に、あの石油タンクがアメリカに爆弾を落とされてたくさんの人が死んだ。空襲だな。わしも母親と山を越えて反対側の海辺へ必死になって逃げたけどな。照明弾っていうんか、夜中なのにずっと昼間のように明るいんだ。目の前の海の中にシュンッといって落ちた爆弾もあった。翌朝、爆弾で死んだ人の遺体を青石の採掘場で働いていた朝鮮人と、それから旧制中学の生徒が片付けにいったらしい。戦争が終わって、朝鮮人たちはいつのまにかいなくなってしまった。どこへいったのか分からない。集落の跡かね。もう何にも残ってないんじゃないかな。さあ、何時になったい? そろそろ帰るとしようか。わしの家はあの先、廃業した米屋の路地を入って、つきあたりを右に折れたところだよ。

(連休初日。つれあいと二人で和歌山の義父母の家へ、古くなった煙感知器を交換したり、不用品を二階へ上げたり、もろもろ日常の手伝いに行った。昼飯の前に散歩へ出た港で、海を見ていた老人と一時間ほど話をした。)

2017.11.4

 

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 「娘が先生に診てもらうようになって5年が経ちますけど、なにかよくなったんでしょうか?」 「お父さん、あなたには娘さんが見えていない」 体調不良で連日ベッドにふせっている娘が哀れで意を決し、会社を早退して訊ねたカウンセラーの病院で。しかし、こうなってはもはやお互い、売り言葉に買い言葉だ。「おまえにそんなことをいわれたくないな」 「あなたとこれ以上話しても時間の無駄だ」 次の診察が控えているから一時間半待てと言われ、激昂したまま待合で「こんなクソ医者になにができるんだ。口先だけじゃねえか」と怒鳴り続け、つれあいに連れ出され、雨の中移動した車の中でくさり続けた。こうなったらおれはどうにも自制がきかない。けれどもそのまま帰ってこなかったのは、娘がこのクソ医者のところは気に入ってこれまでほとんど休んだことがないという一点だった。その一点で、踏みとどまった。一時間半後、つれあいと二人で診察室へ戻った。「頭を冷やしてきました」 「いや、こちらもどうも」  医者は説明した。娘さんは病理的に何も悪いところはない。だから治療することは何もない。感受性も豊かで、頭もいいし、ちょっと空想に逃げているところもあるけれど、でも立派に育っていると思う。ただ彼女はハンディを抱えている。その彼女がこの今のような冷たい世間で生きていくのがどれだけ大変なことか、それは健常者であるわたしの想像をはるかに越えている。どれだけわたしがそんな彼女に寄り添うことができるのか分からないけれど、でもせめてここに来たときだけは「そうか、がんばっているな」と声をかけてやりたい。だからある意味で医者じゃなくてもいい、むかしはよくいたような話を聞いてくれる近所のおっちゃん。そういうものです、と。「何も悪いところはないから、治療することも何もない」 その医者の言葉が、胃にすとんと落ちた。わたしは医者が魔術師だと思っていたのかも知れない。きっと心の底で、魔法の呪文で娘を治してくれると期待していたのかもしれないと気がついた。「何も悪いところはないから、治療することも何もない」 もっとはやくに、はじめからそういうふうに説明してくれたら、おれはあんな暴言を吐いたりしなかったよ。雨の中、車を運転して帰途についた。だいぶ遅くなってしまった。お腹をすかして待っているだろうな。

2017.11.9

 

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 むかしの資料整理をしていて出てきた手紙。近所に住む老牧師はもともと父の知り合いだった。父が事故で死んで、わたしがその縁を継いだ。キリスト者ではあったが、仏教にも造詣が深く、9.11の事件の前にはイスラム教にも教えられることがたくさんある、もっと勉強をしなければ、と言っていた。晩年には「キリスト教は老いを知らない宗教だ。仏教の方が老いを知っている」などと手紙に書いてきた。そのように他の宗教や見識についても寛容だったから、わたしもユングの本などを貸したりして、交流はつづいた。あの東日本大震災のあと、たまたま仕事で仙台に行く用事があり、まだ爪あとも痛々しい海岸沿いの町を一日かけてあるいた翌日に実家へ立ち寄った際に夜半、訪ねて話をしたのが最後になった。わたしが行くと、いつもこの手紙の娘さんがお茶をいれてくれた。

 わたしが死んだとき、娘はどんな手紙を書くのだろう、と思う。

 やっぱり「弱く悲しい父は、娘にとって重すぎます」かな。

前略、失礼いたします。
この度は、過分なるお花料をいただきまして、心よりお礼申しあげます。
お母様にお知らせしました通り、父は多発性骨髄腫という「難病ドラマ」にでも出てきそうな病名の末期ガンの為、八十六才にて天に召されました。
全ての治療、延命を断念し、ただ見守るだけの日々は辛いものがありましたが、一日でも早く苦しみから解放されることのみ願っておりましたので、悲しみ少なく父の死を受け入れることができました。
余命九ヶ月と言われながら、七ヶ月も残して逝ってしまい、気短かな父らしいと思います。
「桜の花の咲く頃に死にたい」となどと、西行のようなことを言っておりましたから、思いが叶い、喜んでいることでしょう。
四月四日は、父がこの世のあらゆる苦しみから自由になれた(解放記念日)と呼ぶことにします。
俗世間を生きることも、家族関係を構築することも、実に下手な人でしたが、一求道者として、誠実に生きてこられたことは、幸せであったと思います。
今日まで年寄りとおつき合いいただき、ありがとうございました。
どうぞ、おじょうさんの為に、いかなる時も強い精神のお父さんであって下さい。
弱く悲しい父は、娘にとって重すぎます。
ご健闘をお祈りいたします。
ご家族を守るためにも、くれぐれもご自愛下さいますように、ご家族の皆様のご平安を共にお祈りいたします。

2017.11.13

 

 

 

 

 

 

 

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