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A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

 

 

 

 

 ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

 世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

 そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 

 

 

 

 

 

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 角材を鉈でたたく。木を彫琢する。じぶんを削るたたき割る。木屑がおどる。木屑のようにおどれたらと思う。にんげんの屑はおどれないのか。マール・ハガードの音楽はあたたかいほとんど足をすくわれそうになる。かれの魂はさびれた町の工場の裏路地にいまも漂っている。そこに行けば会えるよ。ジョニー・キャッシュがサン・クエンティンの刑務所で演奏したとき、かれは囚人のなかにいたんだ。そこでジョニー・キャッシュの歌を聴いた。善人か、悪人かと問われれば、善人にも悪人にもなれない、中途半端なそれ以下の下衆だとこたえるだろう。この鉈が風を吸いこむことはあるだろうか。ジョン・ヘンリーはマシン(機械)との闘いに勝利した。やつの心臓は破裂した。忘れないさ。お金では買えないたくさんのものをあなたは持っている、とかつて彼女は言った。それ以外の人はだれもが当時、ぼくらのことを悪く言った。でも彼女が高名な作家か何かで、Web上でぼくのことをあらいざらい書いたらぼくは社会的に抹殺されるだろうな確実に。下衆には下衆の痛みがあるんだ。でもときどきじぶんが下衆であることを忘れて立派な善人か悪人になれたかのように振る舞い、酔っ払って、調子に乗って騒いでいる。みなさん、わたしはあなた方の組織は要らない。わたしはあなた方の靴を磨き、あなた方の山を動かした。なのにエデンの園は燃えている。楽屋裏に花束を抱えていってサインをねだるなんてのは苦手だな。肉も皮も削げ落ちてしらじらと屹立する白骨になりたいんだよ。さびしいがらんどうの反響で歌をうたうんだだれも聞いたことがないような屑の歌をね。にんげんの屑もいつかはおどれるはずだから。角材を鉈でたたく。じぶんを彫琢するたたき割る。木端微塵になって夜汽車にゆられゆられてどこへいこう。

2018.3.10

 

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  昨年末、自治会長のTさんが入院してもう何ヶ月か経ち、退院の見込みは立っていない。次の自治会長を選出しなければならないのだが、空き家ばかりが目立つ古い城下町のことだ。日本全国の例に漏れず高齢化がすすみ年寄りばかり、会長・副会長・会計の三役をできる家は限られている。加えて長年の複雑な経緯で、任期は2年、副会長が次の2年は会長にスライドといった会則はあるものの、だれもやりたがらない会長はTさんが十数年務めていて、副会長や会計もその場しのぎの「頼みますわ」で同じような顔ぶれが続き、「順番では次は1班から会長を出すはず」というTさんの奥さんに、もともと会則をつくった1班のOさんが「そんなの、会則どおりにやらないのが悪い」と噛みつき、もうぐちゃぐちゃですわ。それでとりあえず、新三役の選出及び会則の見直しをするために臨時総会を開いてみんなで相談しようと、副会長の近所のNさんに頼まれて回覧版の内容をわたしがA4サイズで作成したのが昨夜。「会則の見直しったって白紙から始めたら決まらないだろうから、ある程度たたき台をつくって、かつ主要メンバーで外堀を埋めておいた方がいいんじゃないか」とわたしのアドバイスで、つれあいの他三名がわが家に集まってフリーメイソンならぬ秘密会合をもち、仕事から帰ってきたら「うちが自治会長になっちゃったの」って、いったい何があったのですか。訊けばいろんなことがぐちゃぐちゃになっているし、総会でこまかい議題を出してもまとまらないだろうし、とりあえずやる気のあるメンバーで三役を牛耳って、2年の間に役員総会でいろんなことを決めてしまおう、という作戦らしい。「そうか、わかった。いよいよおれの時代がきたか」と、わたしはなかばやけくそになって、「ではまず、“若い娘をさしだせ”という会長指令を出す」と宣言すると、つれあいが「若いって、わたしたちくらいが若い世代だからね〜」 続いて娘「20歳の女の子4人分で80歳のおばあさん一人でどうだ」 「それはちょっとキビシイな〜」  会長指令は早くも座礁しかけている。 「会長って、たとえばどんなこと、するのさ?」 「そうだね・・ お葬式が出たら、回覧をまわして、葬儀委員長みたいなことをしなくちゃいけない」  「“2年間はだれも死なないこと”という会長指令第二弾を出す」  つれあい「それはむずかしいんじゃないかな〜」  「“死んでも2年間は死を秘匿すること”」  娘「武田信玄だね!」  そんなお馬鹿な会話でわが家の今宵は更けていく。

2018.3.16

 

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 休日。朝からつれあいのベッドの微調整をし、その合間に明日の夜のカレーと、今日の昼のお蕎麦をつくる。場所を三の丸会館に変更した回覧板5班分を印刷し、つれあいが昼までに各班長へ配ってまわった。午前中頑張って、午後は自由時間をつくろうと思っていたのだが、どうしても睡魔に勝てず昼食後、夕方までソファーでうつらうつらと。夕方、ジップの散歩に出る。FB友のアライさんに教えて頂いた、洞泉寺墓地にある「病没娼妓之碑」を確認に行く。カイチビルの裏手駐車場から入り、オークワ側の南端に供養碑は建っている。裏に「石橋屋」とあるのは店の名前だろうか。手を合わせ、しばし黙祷する。ここの墓地は他にもかなり古そうな無縁仏や石仏がたくさん、墓域のすみっこにかたまっている。もうひとつ、こんどは岡町の遊郭の娼妓供養碑があるという柳5丁目の西向寺に向かうが、商店街わきの小さなお寺でジップをつないでおく適当な場所がなかったので、今回はあきらめた。アライさんの送ってくれた写真では「岡町遊郭接待婦之精霊跡」なる供養碑が無縁仏にならんで建っているらしい。家に帰って、ちょっと体調がもどってきた娘と夕飯。天理の「麺屋 一徳」へラーメンを食べに行った。これまで何度かトライして、休みだったり、駐車場が空いてなかったりで機会を逃してきた一徳だが、今日は開店間際に行ったせいか空いていた。二人で塩ラーメン。小松菜とうすいハムのような味わい深いチャーシューと葱だけのシンプルな構成。わたしが頼んだ〆ご飯は、海苔とほそく裂いた鶏胸肉、そして柚子胡椒が添えてある。「いごっそうには負けるけど」と娘は笑っていたが、満更でもなさそう。奈良で、確実に片手には入るラーメンだな。帰宅してからこんどはあるいて、つれあいが9時まで勤務している図書館へ。郷土資料のコーナーを漁り、紡績工場や遊郭については市史をはじめ、ろくな資料もないことは分かった。どうせ、残すつもりもないのだろう。関西学院大学の社会学部のゼミの学生の「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」という卒論の写しを見つけて、一部をコピーしてきた。この中に、わが家からもほど近い誓得寺に、紡績工場で亡くなった女工さんの供養碑があることを見つけたのが大きな成果だ。地方出身の身寄りのない女工の葬儀一切をおこない供養したという住職の言葉も載っている。明日あたり、見に行ってくるかな。紡績工場と遊郭。それぞれの過酷な場所で若い命を散らせた少女たちの記憶は、いまでは殆ど忘れ去られようとしている。それを、救い出したい。

◆「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」 http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113/1294922850 

◆大日本紡績の誕生と摂津紡績 (PDF) https://www.unitika.co.jp/company/archive/history/pdf/nichibo01.pdf

◆あっさりシンプル。そして美味!『麺屋 一徳』@天理市 http://small-life.com/archives/11/03/1819.php 

2018.3.17

 

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 沢田教一という写真家をそれほど知っているわけでない。かれが青森の出身で寺山修二と同級生だったことも知らなかったし、アメリカ軍三沢基地内の写真屋で知り合った11歳年上の女性と結婚したことも知らなかった。掘っ立て小屋がたちならぶ恐山の全景の写真がある。イタコの前で身をふるわせ涙をながす女がいる。賽の河原の石のほとけを熱心におがむ老女がいる。こどもをおっぱし荷物をかかえ、艀(はしけ)のような板の上をわたる若い母親がいる。こういう視線と体温をもった人間が戦場へ行ったらどうなるのか。殺伐とした目、刺すような目、うつろな目、なぜかとはげしく問う目。これだけたくさんの尋常でない目にさらされ続けたら、ひとの精神はたいていは、持たない。それらの無数の目が見返した、いまはいない沢田教一という不在の存在を、まるでおのれがもうひとりの沢田教一であるかのように錯覚しながらひとつひとつの写真の前で受け止めているじぶんがいた。戦争が終わったあとの、廃墟のなかではあるが、取り戻しつつある子どもたちの笑顔はなんて愛らしいのだろう。見ているこちらまで思わず、笑みが伝播する。「戦場の写真を撮っても、最近は載せてくれるメディアが少なくなってきている。そんなふうに怒りを失いつつある世の中が逆に心配だ」 たしか、そんな石川文洋の言葉がどこかに添えられていた。展示されていたかれの愛用のカメラ(ライカM3)はとても小さかった。肉薄しなければ撮れない写真だと、そのとき気がついた。弾丸や爆風の熱が頬に痛いほど感じるほどの距離で。 (京都高島屋 25日まで)

◆「写真家 沢田教一展 −その視線の先に」京都高島屋で開催 https://digitalpr.jp/r/25672 

2018.3.19

 

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 自転車で見知らぬ町を走ればいまも、はなやかな表通りよりも影にひかれ、さびれた路地に迷い込み、被差別の地域にまぎれ、墓地で死んだものを追憶する。やはり、じぶんは多少変わった人間なのかも知れない。20代の頃は、漠然とした、拭いようのない違和感、だった。差異、ということばを見つけたのは20代のおわり頃だ。子どもが生まれた頃に「差別、あるいは差異化についての覚え書き」という拙い文章を書いたのが、肉だ。やがて沖浦和光氏の一連の著作により、賎視や被差別ということばがそこへ流れ込んできた。被差別部落、ハンセン病、障がい者、いじめ、少数民族、在日朝鮮人、乞食者(ほかいびと)、山水河原者、フリークス、あらゆる異形の者たち、敗れた者たち。別々の場所でほのかな親しみを感じていたものたちが、つらなり、聖者の行進をはじめた。すこしづつ、わかってきた。わたしがかれらを追い求めるのは、そこにニンゲンの顔がいちばんよく顕(あら)われるからだ。おぞましいほど残酷で、不可解で、つめたいニンゲンどもの顔が。そして虐げられたなかで、懸命に、したたかに生きる真の美しさが、かれらにあるからだ。そうした合切がようやく、見えてきたような気がする。わたし自身が内なる深みにずっと、そうしたものを抱えてきたということだ。言祝(ことほ)ぐ、ということ。それが、見えてきた。

2018.3.20

 

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 春分の日の休日。義父の85歳の誕生祝で、家族三人と犬一匹にて和歌山へ行く。わが家からは柿の葉寿司を買って行き、つれあいの妹さん宅でケーキと唐揚げなどを、それぞれ持ち寄って昼食とした。義父は85歳、義母は81歳。わが家の娘がまだ小さかったとき、「この子の成人式までは生きてられないだろうよ」と義母は言っていたが、じきにもう目の前だ、とわらった。

 食後はわたし一人で親類のT家へいそいそと出かけて行き、90歳のおじさんに朝鮮人飯場についての聞き取りを夕方まで。「あんたはいったい、なにを調べたいんだい」 「本でも書くのかね。変わった人だね」とおじさん、おばさんに笑われながら。わたしが見つけ出した資料のなかの古びた写真の顔や記された名前の幾人かをおじさんはよく知っていると云う。「こいつはわしの盆栽仲間だよ。もう何年か前に死んでしまったが」  戦時中、この小さな漁村の山の上の朝鮮人飯場に家族で住み、危険な砕石作業に従事していた人々がたしかにここで日々を送っていた頃、おじさんは小学生で、現場監督などでもっとくわしく直接に現場のかれらを知っていただろう村の人たちはみな彼岸へいってしまった。あと10年、いや5年早く訊いていれば、と思う。遅きに失した感は否めない。こうしてわたしたちは、みずからの歴史を失ってきたのだ。

 帰り道。8割方開通した京奈和道の、御所のあたらしいサービスエリアでポン柑を買った。新宮の八百屋の店先ではじめて食べたときのことを忘れない。帰宅して食後に食べようと思ったら、9個中の半分近くが白い黴が生えたり黒ずんで腐っていたりした。あんまりひどいのですぐに電話をした。支配人の名刺を持った年配の男性が御所から走ってきて丁寧に謝罪してくれ、返金の上、桜の葛餅の包みを置いていった。おそらく見られていたのだろう、店先で二人で「おいしそうだね〜」と言っていたおなじ葛餅だった。うれしい〜 とつれあいは破顔して、ついで「籐で編んだバッグも素敵だなあってわたし、言ってたんだけど」って、こらこら。

2018.3.21

 

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 「しんぶん赤旗」の共産党書記局長との対談で白井聡が、いわゆる“森友問題”の公文書改ざんについてこんなことをしゃべっていた。「今回の文書改ざんで思い浮かぶのは、敗戦時に軍と官僚が書類を大量焼却したことです。書類を焼いてしまうのはまずいことをやってきたと分かっているからです。文書がすぐに公開できなくても将来正しさが納得してもらえるはずだという自信がないからです。」

 もうじき読み終える「朝鮮人強制連行」(外村大・岩波新書)の中のこんなくだりはどうだ。

 日本政府はこれまで首相談話などを通じて植民地支配に対する反省の意を表してきた。だが、これまで労務動員政策の中で生じた朝鮮人に対する人権侵害に、国としての責任についての見解を公的に明らかにしてことはない。

 以上からは、労務動員の政策に関与した人びとや日本政府が、戦後、自分たちの責任(もちろん、個人にせよ組織にせよかかわりの度合いによって異なるが)誠実に向き合おうとしてこなかったことがわかる。彼らはそれが多大な暴力を伴うものであったことを認識しながらも、その責任については、自分たちではなく他者(甚だしくはより立場の弱い朝鮮人の下級官吏に)や、自分が関係していない組織にのみ関連づけて語ろうとしていた。しかも、公の場ではその事実を語らず、そして、被害者である朝鮮人の被動員者やその家族に対して謝罪の意を表そうとはしなかったのである。

 わたしには、こうしたことはすべてつながって見える。いまに始まったことでない。この国は70年前からずっと公文書を「焼却」し続け、なきものにし続けてきたのだ。そうした卑しい根性が骨の髄までしみついてしまっている。哀れな、恥ずかしい国だ。

2018.3.22

 

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 土日に仕事が入ったため、本日代休。ひさしぶりの平日は特に何をするでもなく、三度の食事を担当し(朝、野菜のオリーブオイル蒸し。昼、手製サラダチキンとトマト煮ミックス豆。夜、ホットプレートの定番豚もやし)、午前中はつれあいとコープへ買い物、午後は一人でぶらぶらとごく近所を徘徊した。まずは柳町5丁目の西向寺にて、かつて東岡町にあった遊郭の娼妓供養碑を確認した。本堂の右手の狭い通路を奥へ入ると、小山のように積み上げられた無線墓に並んでひときわ背が高くそびえている。表に「岡町遊郭接待婦之精霊塔」、裏は昭和27年8月の日付で「岡町特殊料理業組合」の名が刻まれている。先日見た洞泉寺の供養碑は「病没娼妓」であったが、こちらは「遊郭接待婦」である。一人ひとりの顔はなにひとつ見えてこないが、ひざまづいて、手を合わせた。折りしもFB友の鄭玹汀さんの紹介で取り寄せた曽根富美子『親なるもの断崖』(1992年)を読み始めたばかりだったので、何やらいたたまれなかった。続いて洞泉寺遊郭の旧川本邸へ寄ってみた。建物の南側を撮ろうと隣接する大信寺の境内へ入ったところ偶然、グアム島戦死の文字が目に飛び込んできた。25才、死者が「育次」で、墓の建立者が「育三」は、戦後に弟が建てたのだろうか。旧川本邸は「雛祭りイベント」が終わって、遊郭自体の展示が追加されていないかと思ったのだったが、当日は立ち入れなかった3階へ上がれるくらいしか変わりはなかった。その代わりに常駐していた、FB友のアライさんのお知り合いだというボランティア・ガイドのSさんが安堵町のガイドも兼ねている人でいろいろと話が弾み、昭和30年頃の遊郭の見取り図などを写真に撮らせてもらった。洞泉寺墓地の「病没娼妓之碑」裏にあった「石橋屋」の名前もある。遊郭も紡績工場も九州からの女性が多く、中には紡績工場から遊郭へ移ってきた女性もいたとか。市が「町屋物語館」としてオープンさせてから、かつて客として遊んだというお年寄りがやってくることもあるという。平日なので見学者はほかにだれもなく、内部はひっそりとしずまりかえっている。3階の三畳の狭い部屋の窓から下をのぞくと、隣接する浄慶寺の墓地が見えた。かつてこの苦界に生きた女性たちも、ここから立ち並ぶ墓石を眺めて何かを思ったことだろう。誰もいないのをいいことに、しばらくその三畳の愛欲苦界に寝そべって、目を見開いていた。旧川本邸を出て、最後に向かったのは紡績工場の工女の供養碑があると思われる誓得寺だ。門はすべて固く閉じていて、正面玄関のインターホンを何度か鳴らしてみたが応答がない。後日にまた来ることにした。何となく手持ち無沙汰で、すぐ隣の良玄禅寺の墓地にも何か紡績工場に関する手がかりがないかと覗いてみた。小春日和ののどかな平日の午後に、どうもおれは墓場ばかりだな、一人苦笑する。ここはだいぶ大掛かりな墓地整理をしたらしい。西面のおなじ境内にある弁財天の堂と道路との間のすき間に数メートルの高さの塀のような形で無数の無縁墓が積み上げられている。そのひとつひとつを目を凝らして見て行ったら最後、いちばん奥のどんつきの端っこに、扇形をした小さな石仏のような石に刻まれた「矮狗福塚」の文字が気になった。帰って調べると矮狗は「ちん」。かつてこの国では、小型犬を総称して「ちん」「ちんころ」なぞと呼んでいたらしい。FB友の民俗専門家、歌詠みでもある勺 禰子女史にメッセージで尋ねてみても「わんちゃんのお墓かなあ」とおっしゃる。年代は分からねど、石の見た目から江戸から明治あたりか。家族同様だった愛犬のために誰かが建てたのかと思えばほほえましい。

◆曽根富美子『親なるもの断崖』 https://matome.naver.jp/odai/2142964407932922301 

◆大阪DEEP案内「大和郡山市東岡町」 https://osakadeep.info/koriyama-shinchi/

◆町屋物語館(旧川本邸) https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/info/004886.html 

2018.3.23


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 娘が桂枝雀の落語を聞き出したのは、小学校の3,4年生あたりだったろうか。中学になって学校を不登校になった頃も、枝雀さんの落語は癒されるから、と毎晩のように iPod で聴きながら眠りについていた。その娘が最近は米朝さんにはまっているのだが、「代書屋」という演目の中に、済州島出身の男が大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を依頼する場面がある、とおしえてくれた。「ワダシ郷里(くに)に妹さん一人あるテす。その妹さんコント内地きてボーセキてチョコーさんするです」 この最後のところがなかなか聞き取れなかったのだが、父がこのところ遊郭や紡績工場の話ばかりしているものだから、ボーセキてチョコーさん、ああ、紡績で女工さんか、と閃いたそうなのだ。

 

◆越境する民の記録:上方落語「代書」に聞こえる済州島方言

上方落語に「代書」あるいは「代書屋」と呼ばれる演目がある。昭和10年代、 大阪市東成区今里の自宅で副業として今日の行政書士のルーツである代書人を営んでいた四代目桂米團治が、その実体験に基づいて創作した新作落語で、1939年4月初演された。そのなかに、済州島出身の男が駆け込んできて、大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を片言の日本語で依頼する場面がある。杉原達『越境する民』によれば、なんと最後には依頼主のセリフに済州島の方言が音写されているという。

◆記憶の彼方へ http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20100925/p3

2018.3.24

 

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 夕食後、娘とつれあいがポータブル・テレビをテーブルの上に乗せて、アスレチック・ゲームのような挑戦番組を見始める。二人で熱心に小さな画面を覗き込み、笑ったり、小さな悲鳴を上げたり、歓声をあげたりしている。ふだんであったらわたしは、部屋のすみのソファーに二人の姿が見える向きに寝そべって、新聞をひろげながら彼女たちの声を聴き、ときおり様子を眺めたりしているのが好きだ。それはだれにも邪魔されたくないかけがえのない時間だ。けれども今日は違った。わたしのなかで何かがうごめいている。食べ終えた食器を洗って、それからじぶんの書斎へ閉じこもった。PCの iTunes でひそやかなクリスチャン・ソング(Audrey Assad)を大音量でかけ、揺り椅子にもたれて、唯一スマホに入れているMLBのベースボール・ゲームを始める。目の前の重みに耐えるために、あえていちばんつまらないことで時間をやり過ごすのだ。そのうちにわたしの手は凍りついたようにとまる。スマホを置き、銃を投げて投降する殺人犯のように目を閉じる。わたしに欠けているのは「神」だろうか。ユングが夢に見たような「大聖堂を排泄物で破壊する」神か。わたしは無力で、ひとかけらの価値もなく、みじめに消えていくだけのシミのような存在に過ぎない。わたしの内なる存在は何をもとめているのだろう。願ったものはすべてあるはずなのに。今日は休日だった。娘と二人で昼を済ませてから、紡績工場の女工の供養碑があるという寺へあるいていってインターホンを押したがやはりだれも出てこない。困り果てて思い切って寺の向かいの旧家のインターホンを押してみた。初老の男性が出てきて、ここのお寺の住職は橿原の寺に嫁いでいまはここに住んでいないが、週に一二度は法事や何かでやってくる、水色の軽自動車が停まっていたら寺の門も開いているはずだ、とおしえてくれた。檀家といってもこのお寺さんは墓地がないんですねと訊けば、ここじゃない、墓はあのイオンへ行く途中の道のはたの田んぼの中にひろがっているところと言うので、思わず「ああ、あの石の鳥居がある墓地ですか」と声のトーンがあがった。それで自転車に乗ってさっそく見に行ったのだ。死んだ女工の手がかりの石けらでも残っていないかと。あたたかな小春日和だ。家族連れが一組、バラックのような四阿(あずまや)でお弁当を食べていた。わたしはうっすらと汗ばむような熱につつまれて黒ずみ、落剥し、倒壊した墓石をひとつひとつ見てまわった。何も残っていない。残っているはずもない身よりもなく死んだ女工の墓など。風呂に湯を落とし入る。浴槽につかりながら岸和田のキリスト教会にいた朝鮮人のひとびとの聞き取りを読む。「大阪南部の泉南地域には、かつて石綿紡織の零細工場が集中していて、その多くは在日韓国人・朝鮮人に支えられていた。また同和地区や僻地出身の人々、炭鉱離職者らも多く働いていた。そこには、差別と貧しさゆえに石綿から逃れられない構造があった」  車椅子に座り、酸素呼吸器をつけた李善萬さん(80歳)は、「石綿のほこりが体に悪いという予感があり」他の職場へ履歴書を持っていったがどこでも「朝鮮人はあかん」とはねつけられた、という。三人の子どもを食わせるために石綿の仕事を続けるしかなかった。李さん夫婦は朝鮮半島南部の出身で日本で結婚し、つてを頼って泉南に移り住んだのが1950年だ。通称「石綿村」と呼ばれたその地域は日本人より在日が多かったという。戦争が終わってからも、この国は他国の弱者たちに容赦なかった。まるで鬼のような国だと愕然とする。それでわたしの魂はまたあの昼間の、小春日和ののどかな田んぼの中の墓地へ飛んでいくのだ。いまでは墓か石くれかも分からない黒い団子のようなかけらの前でらあらあらあらあといまも哭いているのだ。

2018.3.26

 

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 さて、前自治会長入院による町内会の臨時総会が開かれたのはもう太古の昔、いまとなってはデボン紀の頃にすら思える。予想を超えた全世帯の3分の2以上の出席者が集まり、一部では籤引きになるという噂も流れていたようで当初はみな戦々恐々とした顔で着席をしたわけだが、念のため立候補者を訊いてもモチロン手を上げる者はなく、ではこちらで用意した三役でいいですか? と投げかければ、解き放たれた安堵の息と拍手による満場一致で、わが第三帝国の発動がすみやかに可決されたのであった。自己紹介の場で、これからいろいろなことを変えていきたい。見直す必要のあるものは思い切って見直して、次の役員の人たちがやりやすいようにして引き継ぎたいので、みなさんのご協力をお願いしますと、いったことをひととおり喋ってから、肝心の会長指令第一弾「若い娘を差し出せ」を発令しようと思ったのだが、ほぼ老人慰安会のような出席者の顔ぶれをあらためて見渡して思わず言葉を飲み込み、とりあえず「(任期の)二年の間に、お葬式はなるべく出さないようにお願いします」という会長指令第二弾でささやかな笑いをとり、臨時総会は無事閉会したのだった。

 というわけで、いまはいきなり明治維新前夜のようなきな臭さと慌しさの渦中にいる。つれあいに至ってはほぼ毎日のように前会長宅や役所を尋ねまわり、あちこち関係部署に電話をし、会計のAさんとはラインによる会話が常態化し、副会長のSさんと互いの犬を散歩させながら毎日のように活発な意見交換をしている。おかげでわが家の名犬ジップは自治会に関しては町内でも随一の情報通犬となった。あらためて町内をじっくり見回れば、班の数の5箇所にある木製の掲示板は相当ぼろぼろで、画鋲が刺さるかどうかも怪しいから告知物を養生テープで貼りつけているせいで余計汚らしい。班割りも空き家が多くなり、一人暮らしの高齢者も増えて、役員などを回していくのに単純な世帯数割ではすでにバランスが崩れている。3班に縮小し、掲示板も減らして防水仕様の新しいものと交換してはどうか。会長が10年以上も続いたためか回覧の印刷や役員会のお茶代など、こまかな雑費が自腹であったものが多い。これはきちんと明朗会計で計上したい。役員も回覧作成などのPC操作ができないことがネックになっているのであれば、できる者に手当てを出して代行してもらえばいいのではないか。地元の信用組合でつくっている口座も自治会長名義だったため、いちいち会計が印鑑を借りて駅前まで行っていたのも面倒。近くにある郵便局に移して、自治会名義の印鑑を作った方が便利ではないか。 あれこれあれこれ、どこぞからサナダムシの如く出てきてきりがない。

 いちばん驚いたのは、これまで大して目もくれなかった会計報告だ。町会費のじつに6割近くを地域の神社への寄付金が占めているというのは実際、どうなんだろうね。これに歳末募金や消防団出初式祝儀、日赤募金なども加えたら、その率は76%にも及ぶ。まあ、じっさいのところは収入に廃品回収や役所からの文書配布委託料などが少々加わるので、現実の割合はもう少し下がるのだけれど、それでも繰越金は3万円前後。お葬式やお見舞いなどが重なれば余裕はほとんどない。特にエリア的にわが町内も氏子となっている(らしい)某神社にあっては数年前から平成の大修理が継続され、昨年度はこの最後のしめくくりだということで町会費のじつに4年間分に相当する別口の「修理奉納」を計上している。一軒あたり2万円の勘定だが、全戸から集金するのは困難と思ったのだろう、前自治会長の判断で自治会の繰越金から支払われ、一部の住民からは「何の相談もなしに勝手に出した」という苦情も出たと聞く。加えて腹立たしいのはこの某神社の建物を前回の臨時総会で使わせてもらおうとつれあいが行ったところ、さいしょ一万円を請求され、高いと言ったら5千円になり、その後に訊きに行った少々離れた公民館は(自治会活動に限って)無料だったので、そちらを使うことになった。あとで聞けば、前会長のときは2千円で、それは前会長との特別な関係があったからという。これが町会費4年間相当の「修理奉納」をした氏子に対する対応だとしたら、神社の神さんというのはどれだけ非常識で横柄な存在なのだろうか。その神さんの社や祭りのために、隣町では年に一回の総会時に配られる弁当をことしは取りやめにしたとか、町内のお地蔵さんのお堂の修繕を先延ばしにしているとか聞くし、わが町内でもわが家が引っ越してきた当初はあった親睦会もなくなり、町内にある掲示板はぼろぼろのまま野ざらしになっている。何か、おかしくないか。

 昨日は夜勤明けで寝ていたところをコープの配達の兄ちゃんに起こされたもので、市役所に行って対応してくれた総務課のお姉ちゃんがなかなか美人だったからというわけではないが、掲示板や防犯カメラ、防犯灯、自主防災活動等々に関する補助金制度などの説明をたっぷり時間をかけて訊き、ついでに城下町の自治制度「箱本十三町」の町名案内板がなぜうちの町にだけ設置していないのかという質問に加わった企画制作課の兄ちゃんにところで・・ と紡績工場の工女の供養碑について知らないかと質問したりして、おそらく相当うさん臭い自治会長のイメージを植えつけてしまったに相違ない。帰って夕飯の席では娘もいっしょになって会計報告のおさらいだ。「とにかく○○神社だ。10年間で町内会費は四分の三に減っているのに、神社の奉納金は倍近くにも値上がりしている。まったくあこぎな新興宗教団体より性質が悪い。神社前に貼っている平成大修理完成のお礼には“氏子のみなさまの益々の発展を祈って”なぞと書いているが、“おまえらがいる限り氏子は発展できない!”と逆に言ってやりたい」  「地蔵盆もねえ、お地蔵さんに化粧でもして恵比寿様にして、魚町みたいな恵比寿神社にして笹を売った方がお金になるんじゃないか。何ならうちの隣の長屋を壊したまま空き地になっているところの井戸を直してだな、マボロシの刀鍛冶がつかっていた井戸とかにして売り出したらいいんじゃないか。隣に社務所を建てて、御朱印を1枚500円で売る。同時に井戸横から出土した名刀というのを展示して拝観料も取る。いまも千年の長寿を生きる刀鍛冶の母親というふれこみで近所の婆さんたちにも交代で出演してもらう。老婆たちによる名刀踊りをつくって、CDも販売する・・」  「傷口が広がらないうちに、そろそろやめとけ」と最後に娘。

2018.4.5

 

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 みわたすかぎりの平原のそのしたに、どんなふかいくらがりがひそんでいるか、ひとはたいてい気づかない。むかし、「ヴァリス」というフィリップKディックの小説でこんな言葉があった。 一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。 同意する者だけがそのくらがりに入っていけるのであり、狂いは、権力のくびきから落剥した刻印である。植物たちがひしめく、あかるい光の世界を脱落し、ふかいふかいくらがりへと下降していけば、そこにあるのは冷たい地層の感触。ざらついた、けれど妙にこころやすらぐ冥府であり、目を凝らせば、何やらちらちらと赤い舌をのぞかせる爬虫類がひそみ、古生物にも似た厚いかなしい皮膚に身を固めた魚類がたゆたい、モノクロの白い花弁が音もなくひらき、その奥に、巨大な、もの言わぬ、眼窩の落ちたなにものかが未来永劫を沈思している。この絵を描いていた日々のことを画家はこう記している、「1994年、娘が血液の難病を患った。それまでの人生の困難は乗り越えてきたが、どうにもできない無力感を味わった。地下に恵みがあるように、娘の心身の奥底にも不思議な生命力があるはずだと、ひたすら祈り、その思いを描き続けた」  ふかいくらがりに潜伏しているものは、おのれを射る矢でもあり、同時にことばが放擲したさいごの智慧でもある。西天満の雑居ビルの、まるでヨナが呑み込まれた大魚の臓腑のような不思議な空間で、そんなことを考えた。 中野和典「無意識の楽園」出版記念 個展
■ギャラリー菊 2018年 4月1日(日)〜4月7日(土)12:00〜18:30(初日は13:00より、最終日16:00まで)
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/02gal.pak/03gal-tikamiti/03rental-gal/15-kiku-hp/02-kiku.html#Anchor-exhibition 

2018.4.6


 

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 13歳のときにレノンの Working Class Hero に頭を叩かれてから、ずっとこの世は糞だと思って生きてきたが、50を過ぎていまさらだが、やっぱり糞は糞以外でないのだと再認識をした。糞と会話をしたいとも思わないし、糞と分かり合えるとも思わないし、糞にまみれたいとも思わないし、糞を舐めたいとも思わない。糞はやっぱり糞でしかない。テレビのニュースにまでなってしまった大和郡山の商店街の金魚電話ボックスをめぐるあれこれ。地元の人間が声をあげなければと、柄でもないのにネット上で署名キャンペーンを立ち上げたものの、肥溜めに群がる糞蝿の多さにうんざりした。集まった署名を提出する平日が休めないわたしの代行をしてくれたのがおなじ市内に住むKさん。前日の夜に帰宅をしてから七百人以上の署名を印刷して、近所で待ち合わせて合流しお渡ししたのだが、長年定時制高校の教師をしてきていまはときにポン菓子を売る紙芝居屋に扮するというKさんはじつにファンタスティックでクレージーなおっさんだったな。深夜の12時近くのファミレスでいきなり登場したパペット(手)人形の爺さんのおしゃべりに周りの客が一斉に振り向いたのはなかなか素敵な光景だったぜ、ベイビー。Kさんのお陰でおれはマスゴミ共の視線に晒されることもやつらのカメラに映されることもなく済んだ。Kさんに感謝だ。そんな翌日にKさんが持っていった(Kさんがみずから現地で集めた分を加えた合計917筆の)署名に対して市長がすでに用意していた「メッセージ」がこれまたいかれている(「学生グループが制作した作品を譲り受け、その維持・管理にご尽力いただいた方々に心から感謝申し上げるとともに、これまでの経緯を踏まえた苦渋の決断を 、私の立場としても理解いたします。」)。ふつうは署名を受け取って、「拝見します」とか、「中身を見て検討します」とか、「考えます」とかじゃねえの?  受け取る前にすでに一方の方だけを「私の立場としても理解いたします」の回答ありきは、いくらなんでも署名をした人たちに失礼だろ。そんな人間としての最低限の節度もマナーも品格もないやつが偉そうに「市長」とか「首相」とか大層な肩書きつけてふんぞり返っているのがこの国のどうしようもない糞の景色だ。商店街の店主や地域のお偉いさんも市民だろうが、署名をした方も市民だぜ。それともお前はてめえの品のない糞面を向ける市民と汚ねえ尻を向ける市民とを分けているのか。こんなやつがかつては高校で歴史を教えていたというんだから道理でこの国の歴史認識も腐り果てるわけだ。こういうのはみんなキットつながっているんだな、「大人の事情」とやらで。金魚電話ボックスの今回の撤去決定に至る経緯も判断理由も何一つ説明せず、マスゴミの取材にも何も応えず、「撤去を望まない」多くの人の署名を受け取ったその夜に理事会を開き翌日に示し合わせていたかのように金魚も水も抜いてカバーをかけた商店街も結局はおなじ穴のムジナだな。この国を覆っている腐れチンコの吐き気がする匂いの末端だ、こいつらも。「裁判となる可能性があります。つきましては従来よりコメントを差し控えるよう弁護士の指示を受けており」なんていまさら出してきたコメントなど、どこぞお間抜け官僚や政治家どもの国会答弁とほとんどいっしょじゃねえか。おんなじなんだよ。こういうやつらがアベ自民党に票を入れ、日の丸振って兵士を送り、あるいは戦場で異国の女や子どもたちを残酷に殺すのだ。それで帰国して臆面もなく「戦争は酷い」とか言っててめえの哀れなチンポは大事に隠し続けるわけだよ。市のイメージとしても大事なことなのに一人して声をあげない市議会も、商店街の若い世代を含む地元の連中も、みんなおなじ穴のムジナ。絶望は果てしなく深い。ついでに言えば、この署名キャンペーンのリンクを貼りつけ無数の糞蝿が舞い上がったFBの奈良を愛でるグループや同様の公開グループのコメント世界も批判はなし、お互いに褒め合いましょう愉しみましょうお上品に譲り合いましょうのニコニコお仲間新興宗教団のノリで、おれはやっぱりだめだな。気色悪くて反吐が出る。13歳のときから現在に至るまで、おれはただのロックンロール馬鹿なんだよ。金も、品も、教養もないが、単純なことだけは分かるんだ。おまえらの世界は糞にまみれている。そう、ディックが書いていたのとおんなじだ。「一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。」 いまここに書いたやつらは「同意しない者」たちだ。そしてこれを書いているオイラは「同意する者」狂った者だ。むかしからずっとそうだったよ。だからおれは同世代の連中がとっくに世間に出て立派に働いている頃に毎日、誰もいない山奥の道を気狂いのように単車で走り回ったり、真っ暗闇の渓流で夜がふけるまで焚き火の炎をひとり見つめていたんだ。近所の健康的な市民たちからは白い目で見られていたろうが、でもおれはおれを見失ったことはなかった。今日は娘は通信制高校の始業式だった。絶対に行く、行きたいと前の日から言っていたのに、結局、行けなかった。朝から夜まで何も食べずに一日、ベッドの中で泣いていた。おれにはこういうことこそほんとうに大事なことだ。世界の真の中心だ。糞にかまっている暇などないんだよ。おれは狂っているのかも知れないが、おれは宝を天に積んでいる敗者なのかも知れないが、おれはじぶんの間抜けな足が立っている地面をちゃんと感じている。マスゴミのように世界中にニュースを配信できることはできないが、おれは半径数メートル内にいつもいる大事な人だけは守ってみせる。愛すべきKさんが金魚電話ボックスの前で署名活動をしているとき、誰だか知らねえ一匹の糞蝿がおれが「逃げた」と言っていたそうだ。おれは腹の底から笑ったね。おれは13歳のときからずっとここにいるし、いまも相変わらず冴えない大仏のようにここにいる。おれは40年前からここにすわって、偉大なオーティスやサム・クックの音楽を聴いているだけの平凡な人間だよ。学者でも作家でもアーティストでも法学者でも活動家でもない。教えてくれ。おれはいったいどこから「逃げた」んだ? で、あんたはいったい誰で、おれの何を知っているって言うんだ? 糞と会話をしたいとも思わないし、糞と分かり合えるとも思わないし、糞にまみれたいとも思わないし、糞を舐めたいとも思わない。おれは、いち抜けた、だ。おまえらの汚ねえ尻など嗅ぎたくもない。

2018.4.13

 

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  いやあ、改めて驚いた。これまで会計のAさんからペーパーでもらっていた自治会の会計報告を、エクセルに入力して簡単な関数など入れてみたら、廃品回収やお地蔵さんの賽銭、市からもらえる「文章配布協力金」といった雑収入を除いた完全に純粋な町会費の収入に対して、神社の寄付や募金の類がじつに82%にのぼった(昨年度)。これはもう会社ならとっくに倒産、家庭なら給料のほとんどをギャンブルに使ってしまう父親のようなもので、とても正常の収支とはいえまい。昨年度会計で言えば、町会費だけでは当然赤字で、前述の雑収入を加えてかろうじて赤字すれすれにとどまっているという状態。82%のうち前に書いた薬園八幡神社の寄付だけで54%を占め、他は「大和大納言奉賛会」、「柳沢神社奉賛会」、「源九郎稲荷神社春祭」といったわりと小額の寄付が並ぶ。また22%は「消防団出初式祝儀」、「日赤募金」、「共同募金」、「歳末助け合い募金」などが占めている。というわけでわが町内会費は(おそらく)はるか古墳時代のむかしから寄付と募金のためだけに存在していたのであった!

 ということを頭に入れていよいよサイキック・バトル、道満か晴明か、源九郎か義経かと気合を入れて、「夜までに帰らなかったら警察へ」と家族に申し伝え、うららかな小春日和の城下町を愛車ジオスにまたがって、源九郎稲荷神社にいまします薬園八幡神社氏子総代会長、源九郎稲荷神社氏子総代会長、大神神社報本講社代表、洞泉寺町自治会長、市飲食店組合役員等々の肩書きを連ねるN氏の下へ馳せ参じたのであったが、気がつけば境内の緋毛氈の縁台に二人で腰をかけ、三笠と共に出された熱いお茶をすすりながら遊郭を含む洞泉寺町の歴史や自治会の運用、 また昭和33年の売春禁止法で遊郭が廃業して以来20年間途絶えていた源九郎小唄のお囃子をN氏が再興する話などをあれこれ聞いていたのだった。温厚で気さくな、氏神さんを大事にする昔気質の古老であった。加えて偶然だが、このN氏のお孫さんがうちの娘と小学校のときの同級生で、市内で飲食店をしていた息子さんが昨年癌で亡くなった話なども聞き、あのときはわしもつらかったとぽつりと漏らされる場面などもあった。娘もつれあいも、亡くなったお父さんも、美人で愛想の良いお母さんも知っているというと、うれしそうにうなずいた。

 そんなわけでかれこれ2時間近く話し込んでしまったか。肝心の神社の寄付に対してはわたしの会計説明に、「寄付というものは本来心づけなんだから、町内の事情に沿って、できる範囲でしてくれたらいい」と理解をして下さった。一昨年、平成の大修理最終弾と銘打ってわが町内から一世帯あたり3万円の金額(合計64万円)を町会計から出した別途寄付では、N氏の町内では「自治会長の裁量で、会計と相談し」20万円を町会費から出し、あとは個人の寄付に任せたという。神社側はおよその希望金額を言ってくるわけだが、必ずしもそれに満額回答する必要はない。わが町についてはこれまでずっと、残念ながら「言われるまま」町会費から出していた、ということになる。

 寄付というのは本来、任意のものであるはずだ。神社以外でも前述した22%を占める祝儀や募金の類も、本来なら「金額ありき」ではなく、10円でも百円でもいいわけなのだが、どうもいろいろと調べると自治会というものが体のいい「集金システム」として利用されている実態があるようだ。ほんとうは自治会や班長が集金袋を持って各戸をまわり趣旨説明、同意を得て何がしかの心づけを集めるというのが正しいのだろうが、面倒くさいので金額を決めて町会費から支出する。けれども「任意」であるのだから、総会で満場一致の同意を得なければ厳密にいえば違法だ。現に2008年、滋賀県甲賀市希望が丘自治会の住民が各種募金の自治会費上乗せを違法とする最高裁決定(大阪高裁判決2007年8月24日判決 ・募金などは、個人の自由意思に基づくもので、募金等を自治会費に上乗せして徴収するとした総会議決は無効であるとの判例) も出ている。また共同募金などは、母体となる社会福祉協議会の代表を市長が兼ねているところが多いことのからみもあるらしい。「なぜ、改まらないのかといえば、その要因は、募金の主催団体が自治会を集金組織としか考えていない傲慢さと怠慢にあるからだと思う」(◆「自治会と寄付金」問題がなかなか改善されないのはなぜか〜自治会が共同募金や社協会費を集める根拠がないのに? http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-3df2.html

  「消防団出初式祝儀」についても、見なし地方公務員の待遇を受けている消防団にはそもそも必要ない、という意見もある。消防団によっては服務規定に「祝儀の禁止」を明示しているところもある。かれらには年間の手当て、出勤ごとの手当てがきちんと支給されており、訊けば祝儀はかれらの懐へ直接に入って旅行などの代金に使われるのだもと言う。ところによっては「「祝儀の金額が少ない」と言われ更に「火事になっても消さないぞ」」と言われた等の話もあるようだが、町内の会計を疲弊させてまで出さなければいけない出費ではないだろう。神社への寄付にしろ、祝儀や募金にしろ、むかしからの習いだから、前年とおなじが無難だろう、の繰り返しが町会費の82%という異常なバランスを支えていた悪しき慣習であったことが伺える。

 というわけで、さっそくエクセルの別シートに「改善後の支出金額」を、収入に対するパーセンテージの関数結果を眺めながら修正していった「案」ができた。内訳は最大の薬園八幡神社寄付は1/3の減額、他の「大和大納言奉賛会」、「柳沢神社奉賛会」、「源九郎稲荷神社春祭」は小額なので据え置き、「消防団出初式祝儀」は廃止、「日赤募金」、「共同募金」、「歳末助け合い募金」などの募金は半減。これで計算上、1.純粋な町会費に対する寄付・募金全体の割合は82%から29%へ。2.純粋な町会費に対する薬園八幡神社寄付の割合は54%から17%へ。3.純粋な町会費に対する祝儀・募金の割合は22%から6%へ。4.純粋な町会費から全支出を差し引いた会計がマイナス30%からプラス17%へ変わり、5.雑収入を含めた全体の収入から全支出を差し引いた会計は8%から42%となる。多少の積立金は残すにしても、これで何とか年に一回くらいはみんなで食事をしたり、敬老の日にプレゼントしたり、できるのではないか。

 この他に現在、着々と進行形のもの。

1.ぼろぼろで画鋲すらまともに刺さなくなっている計3ヶ所の掲示板(木製)を撤去、町の中央の一ヶ所に集約して、市の補助金も活用して足つき、摺りガラス戸付き防水、マグネット使用の掲示板を新設する。設置予定場所であるガレージ壁面の所有者にはすでに了解をもらい、足がかかってくる溝の部分が市道であるため現在、市に許可を申請中。

2.町内の7ヶ所に設置されている消火器を点検したところ、すべて10年前のもので使用期限を超えていたことが判明。これも市の補助金を活用し、4ケ所に減らして新設する。つれあいがネットで安い業者を探して見積もりを取り、これから市へ補助金申請を行なう。

3.自治会長名義の印鑑で駅前の信用金庫につくっていた町会費の口座を、自治会名義の印鑑をあらたに地元の判子屋さん(つれあいの職場の同僚の家(^^)に注文・作成し、その印鑑で町から歩いてすぐの近所にある郵便局に移す。自治会名義の口座でも代表者の住所・名前での登録が必要らしく、これはたんなる形だけなのでわたしの名前にした。また町内会の創設日が記載された規約が必要と言われて、従来の会則に創設日を追記・「改竄」した。平日は休めないわたしに代わって副会長のSさんに委任状を持っていってもらい、週明けに提出予定。

4.豊臣秀長の時代から、ここ城下町では「箱本十三町」なる自治の仕組みがあり、また「魚町」「材木町」「雑穀町」等の町の名称に由来した歴史を有している。数年前にそれぞれの町内にイラレで作成したような城下町マップと共に町の由来を説明した観光客用の町名板が市によって設置されたのだが、以前からわが町内にはそれがないのが気になっていた。市の都市計画課で聞くと当時、設置(家の壁面などに接着剤などで取り付け)を許可してくれる家が見つからなかったのではないかとのこと。2軒ほどのお宅で設置してくれてもいいという話があるので、都市計画課と現場確認も含めて調整中。

5.表札の横や玄関のドアノブなどにぶら下げる「自治会長」「班長」等のプラスチック製のプレート。磨耗して文字が読みにくくなってきたりしているので、「もう要らないでしょ。みんな分かってるし。ぶら下げてるとみっともないし」ということで使用を廃止した。

6.5班で構成されていた町内の、とくに役回りのバランスが空家や高齢化などでいびつになってきているため、新たに1班A、1班B,2班、3班の3班制に組み替えた。会長、副会長、会計の三役は今後、この1〜3班を順番でめぐり、班長については回覧板や集金作業、地蔵盆等行事の担当などもあるのでA・Bを加えた4人制にした。(よって先日の第1回役員会で集まって頂いた5人の新任班長さんのうちの1名は、わずか半月だけの短期任務でお役御免となった)

7.かなりくたびれていた回覧板のバインダーを新品と交換した。つれあいが役所へ行ったら、あたらしいものを呉れた。

こまかいことはまだあるような気がするが、まあ、だいたいこんな感じかな。

2018.4.14

 

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 「修祠場」と記された黒塗りの素朴な説明版が、竹林の陽だまりにぽつねんと建っている。ひそやかな逢瀬の場所のようだ。古代の神々の集う秘所だ。こんなところを訪ねてみたい、と思った。そんな一枚の写真から旅は始まった。土曜の早朝、京都から米原行き。近江八幡で降りて、ローカルな近江鉄道にゆられて無人の太郎坊宮前駅でおりる。そこから石の鳥居をくぐって、参道はまっすぐに岩窟を抱いたすり鉢山へと続いている。明るい田畑に囲まれた人っ子一人いない静かな並木道だ。これは何かの謀略ではないか。どこまでも続く急な石段を鎖でつながれたチェインギャングのようにあえぎ、のぼる。汗が身体の中の毒素を吐き出す。大方ちんけな虫けらのような毒だ。阿賀神社(太郎坊宮)を抱いた赤神山は古くから修験の山であった。この山の魅力は天狗でなくても分かる。わたしなら世を捨てて山にあそぶだろう。約7千年前の盛大な火祭りの痕跡だ。山中の道をまちがえて気がついたら宮の背後の、地上よりも天に近い神体岩の背後にへばりついていた。空と岩しかない。あとは跳ぶしかない。跳ぶことによって失うもの、得るものについて考えた。しばらく大地と格闘し、命からがらふるえる足で地面におりたって、次に向かったのは聖徳太子創建の伝もある瓦屋寺だ。箕作山山中の、ジャングルに埋もれたアンコールワットのような忘却の寺だ。広い境内には苔が照り返し、寂れた路傍の仏が不在の影のように佇んでいた。開け放たれた地蔵堂の前にすわって、己が無住の寺の僧になったような錯覚を覚えた。日溜まりにごろりと仰臥した。石に変じた。風に成った。瓦屋寺からふたたび山中の道にもどり、あとはひたすら眺望の少ない、林の中のあかるい尾根道を黙々と縦走する。行き交う者はほとんどいない。わたしはいつしかじぶんが土の中のミミズや落ち葉の下に眠る幼虫のような心地になり、あるいは樹幹を駆け上る水のように思えたりする。葉脈から飛び出した目に飛び込んできた樹の間の光りに酩酊する。悪い予感のかけらもない。箕作山、小脇山、岩戸山と経巡り、十三仏をぬけて下っていくごつごつとした石段の両側には、いつしか四国霊場を模した石仏たちが迎えている。あちこちの岩や木に紅白の布をまきつけ、岩室の下には巨大な塩のかたまりが据えてある。ここは近江の恐山だ、死者の国だ、と坂道を下りながら思った。すると霊場入口の竹薮で出くわした近在の老夫婦が、あの石仏たちはもともと日清日露の戦死者を祀ったのが始まりだ、と教えてくれた。そして、あの竹林の奥へしばらく行けば7つの家の祖先を祀っている場所がある、と指をさした。その入口には「山の神」と書かれた石に男女二体のこけしのような木偶(でく)が寄り添っていた。箕作山にやはり竹林はあった。円墳のような紅粕山のぐるりを巻き、金柱宮跡を見に行った。梁塵秘抄に「新羅が建てたりし持仏堂の金柱」とある。このあたりに残る狛長者伝説の狛(こま)は朝鮮半島・高麗の国の人だという。湖東のこんなのどかな里にも渡来の匂いが濃い。冒頭に書いた「修祠場」はこの金柱宮の大祭のときに「各字から持ち寄った神器を一同に集めて神儀を行なった場所」である。そこは竹林の中の小路が三方から交差する広場で、落ち葉と中央に石ころがごろごろしている、それだけの空間だ。それだけの空間なのになぜか妙になつかしい。死んだ父や会ってもいない祖父がここにいたような気がする。くたびれた足をひきずって舟岡山から市辺の無人駅にたどりつくと30分に一本の電車が行ったばかりだったので、駅の向こうに見えた共同墓地へ移動して時間をつぶした。駅にもどりベンチでじきに来る電車を待っていると声をかけられた。近所に住む画家のFさんだった。もうじき農地の区画整理で消えてしまう田んぼの中の野神さんを見にいきませんか、とFさんは云うのだ。やってきた電車を捨てて、二人でFさんの仕事用の軽ワゴンに乗り込んだ。太郎坊宮の赤神山をのぞむ平地の真ん中にモチノキが数本、ひょろひょろと林立している。風が四方からあつまってきて、わたしはなぜか賢治の「風の又三郎」の源流にもなったといわれる八ヶ岳にある「風の三郎社」を想起していた。ああ、ここでこの場所でFさんと二人で立っていた日のことをわたしはきっといつまでも忘れないだろう。今里の野神さんはそんなどこにでもある場所だ。むかしはこんな気持ちのいい風の通い路がどこの集落にもあった。 八風街道を西へ抜ければ琵琶湖の手前で朝鮮人街道へ合流する。かつてその道を通った朝鮮通信使の行列に一頭の象が花を添えたそうだ。

2018.4.21

 
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  日曜。娘とかねてから話していた企画展「大自然への敬意  北米先住民の伝統文化」を天理参考館へ見に行った。ネイティブ・アメリカンの本はむかしから好きでいろいろと読んできたが、今回はかれらの手によってつくられた生活道具や工芸品の品々、1世紀の土器の破片にはじまり、壺や皿、編みかご、ポーチ、靴や胸当て、人形、そしてカヤックに至るまでのもろもろが学校の教室ほどのスペースに陳列されているのを、およそ二時間半をかけてつぶさに見て回った。わたしが特に惹かれたのは土器や皿に描かれたさまざまな文様だ。日本の縄文の時代の文様にいのちがあふれているように、北米先住民のときに幾何学的でユーモラスな文様にも当然ながらかれらの「目に見えない世界への架け橋」が記されている。ひとつひとつをじっと見つめていると、その「世界をひらく秘密の言葉」がこちらにも伝わってくるような気がしてくる。そんな文様を身にまとった皿や器やカップというのはどうだろう?  たとえば20世紀中ごろにダコタ族によってつくられた、青いトルコ石のようなビーズと朱色の羽飾りでつくられたメディスン・バッグは「持ち主に力を与え、災いから守ってくれると信じられるものを入れる」袋だ。そんなものがこの国に売っているか?  百円均一ショップの棚にでもころがっているか?  人がつくったものに用途を超えたもっと大事ななにかが託される。ものにはつくった人の魂がふきこまれ、生き物とおなじように呼吸もするし、ときにいのちとおなじものを宿すこともある。ぼくらのまわりは薄っぺらで、貧相な、ニセモノばかりだ。こころが映らない。歌が反響しない。ああ、だからぼくらの心はいつまでたっても悲しみやわざわいでがちゃがちゃと嫌な音を立てているんだよ。

2018.4.22

 

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  4月になって娘の通信高校の始業式があった。前の日からきっと行くと意気込んでいた娘は当日やっぱり行けなくて、その日は一日中、部屋のベッドの上で泣いて過ごした。でも数日後に国語の授業に二時間、出ることができた。じつに一年ぶりの登校だった。それからはなかなか行けてないが、まあ、いいさ。ぼちぼち、行けるときに行けたらいいよ、とだれともなく言っている。

 つれあいが奈良県の教育委員会のサイトで見つけた「電話教育相談 あすなろダイヤル」に電話をしたのは年が明けてからで、先月、田原本の教育研究所なる施設にある「奈良県教育委員会事務局 生徒指導支援室 教育相談係」の「来所教育相談」でつれあい一人が行って、いろいろと話をしてきた。そして今日は、娘と二人で行って、それぞれ別々の部屋で50分間、話をしてきた。中学1年生の不登校のときからずっと受診をしてきたカウンセラーのH先生の診察を今年になって娘はひさしぶりに受けたのだが、「なんかもう、違うな」と思ったらしい。それで別の診療機関を探すことにしたのだった。何より娘自身が、それを望んだ。

 わが家のリビングの二倍ほどの部屋は診察室というより子ども部屋といった感じで、パズルやお絵かきの道具などもあって、担当をした若い女性のカウンセラーは「緊張するようだったら、パズルをしながら話をしてもいいよ」といった調子だったそうだ。数ヶ月に一度、わずか15分ほどの診察だったH先生とは違い50分たっぷり、娘の話を上手に引き出して聞き、こんどは二週間後。嫌なことも思い出したりして疲れたけど、話してすっきりしたところもあるかも。帰宅してからずっと寝ていたという娘は寝ぼけ眼で、けれど案外と元気そうに話をしてくれた。

◆奈良県教育委員会事務局 生徒指導支援室 教育相談係 http://www.nps.ed.jp/nara-c/soudan/raisyosoudan.html

2018.4.25

 

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  軍事境界線を挟んだ板門店(パンムンジョム)に於ける、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)党委員長の二人の首脳会談の模様をテレビやネット・ニュースの動画などで見続けた。軍事境界線を、ついしばらく前まではあわや戦争に突入かといった緊張のさなかにあった両国のトップが手をつないで行きつ戻りつしたり、終始笑顔でことばを交わしたりする光景を見るのは、わたし的にはオリンピックの中継なんぞより正直、わくわくした。そしてその二人をモニターで見守るプレス・センターやソウル広場での韓国の人々のとてもうれしそうな表情が、こころに残った。みなが、今日は歴史的な日だ、と興奮を隠せずにいた。だれもがとても輝いた顔で。一方、日本のNHKなどのニュースの報道は「非核化に向けた具体的なプロセスが明確でない」 「拉致問題について触れられていない」 「次にひかえた米朝会談を慎重に見届けたい」といった懐疑的な論調が目立った。「有識者」だとされる大学教授や、「町の声」も全体的にそんなトーンであった。温度差を感じる。日本人であるわたしが、じぶんの国のテレビ・ニュースの論調にはなはだしい温度差を感じるのだ。まあ別段、いまに始まったことではないけれどね。思い起こせば一昨年の、偶然旅先で見つけた紀州鉱山での朝鮮人死亡者の隠蔽問題をきっかけに、三重県の木本事件、関東大震災での朝鮮人虐殺、そしてつれあいの実家近くの砕石場にかつてあった朝鮮人飯場のこと、気がつけば足元・奈良でもあった生駒トンネルや柳生飛行場での強制労働、岸和田をはじめとする紡績工場での女工たち、在日朝鮮人問題、さらに慰安婦や女郎にされた女性たちなど、わたしは朝鮮半島をめぐるダーク・ツアーの重たい巡礼のさなかであった。わたしの机のまわりは知らず、そんな過酷な人生を通り過ぎた朝鮮の人たちに関する書籍や資料であふれた。そのさなかに、今日の歴史的な場面に遭遇したのだ。ある意味、感無量であった。金正恩などまだまだ腹では何を考えているか分かったものじゃないぞと思いながら、かれの話すことば、声の抑揚、仕草、表情などに、そういった思惑を超えた“にんげんのぬくもり”を感じたのだ。この国の政治家たちから完全に消えうせて久しい“体温のあることば”だ。気に食わない人間を機関銃で粉々にした輩かも知れないが、歓迎ムードのかつての敵国のなかで「ひょっとして、平和も悪くないかもな」とふと思っている男がいて、それはある一面に於いて、偽りのない素の部分であるような気がしたのだった。何より国家を分断され、家族・親類を引き離されてきた人々がよろこびに沸いている。それは信じていい、いや、それこそ信じなければいけないもののような気がしたのだった。拉致問題も大事だろう。けれどおなじように、この国が朝鮮半島の無数の人々に対して行なってきた償いきれない歴史に対しても語られなければならない。「だれが、祖国を、二つに分けてしまったのか」 かつてこの国のフォーク・グループが歌った曲にすら、わたしたちはまだまともに対峙すらしていない。過酷な鉱山の強制労働で亡くなったいまでは名前すら分からない朝鮮人の墓は、いまだ「英国人兵士の墓」として祀られているのだ。それがわたしたちの国がわたしたち自身がしてきた「歴史の清算」だ。「軍事境界線はみんなが踏めばいつかなくなるだろう」と金正恩が語り、「わたしたちはもう決して後にはもどらない」と文在寅が決意し、それを見守る韓国の人々の顔が一様に輝いているのを見ながら、わたしは柄にもなく胸がいっぱいになり、同時にこころにあらたなくさびを打ち込まれたような鋭い痛みを感じていた。よろこびにあふれる朝鮮の人々の顔の数だけ、わたしたちは自身の胸に手をあててひざまずかなければいけないのではないか。そう思ったのだった。まわりを見てごらん。この日本という国はすっかり孤立してしまっているよわたしたちのこの国は。いつの間にかそうなってしまったんだよ。自業自得だな。世界中がよろこびの予感につつまれているのに、わたしたちの国だけは、どこか別の惑星の住人たちのようだ。そのよろこびの中に入っていけないんだよ。劇的な南北首脳会談のニュースが終われば、ついで登場する国内の報道は高級官僚のセクハラ事件や芸能人の未成年者に対する淫行事件といったものばかり。もう、どうでもいいようにすら思える。こんなしょぼくれた、小さな小さな国になっちまったんだよおれたちの国は。世界から相手にされないのも仕方がないさ。そのくせいきりたったペニスだけはいまだに行き場をなくして暴走しているのだ。アジアの無数の女性たちを犯し嬲り切り刻んだどうしようもないペニスだ。障子に穴を開けても収まらないのなら、いっそすっぱり切断してしまえばいい。男はみな宦官尼になって、150年をもういちどやり直すか。それともいっそ韓国に併合してもらって、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に首相を兼務してもらった方がいいかも知れない。かれらはみずからの大統領を弾劾し刑務所送りにして、あたらしい大統領に希望を託したのだ。この国がそれとおなじことをしたいのなら、150年をやり直すしかない。この国は150年前に置き去りにされたんだよこの国だけね。

2018.4.27

 

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  休日。今日はとくに何もしない日だった。やらなきゃいけないこと、やりたいことはたくさんあるのだけれど、何もしない日だった。犬や猫とリビングの床に寝そべって、いっしょに庭に来た雀や蝶を眺めたりしていた。それからうとうとしたり。

 午前中。例の紡績工場で亡くなった女工の供養碑がある(らしい)お寺――橿原に嫁いだ尼さんの住職が法事やなにかで帰っていないかと休みのたんびに見に来ているのだがさっぱり現れないので、えい! こうなったら忍び込んじまえ、と寺の裏に接しているむかしの城の外堀をつたって侵入したのだが、肝心の本堂前へ抜ける通路がすべて木戸や鉄柵で閉ざされていて断念。それでも鉄柵越しに見えた墓地のはたに、写真にあった供養碑によく似た感じの石碑がちらと見えたのがささやかな収穫だった。

 午後は夕方に3時間ほど、密林で買った夏用のサイクリング・ウェア上下にはじめて身を包んで愛車ジオスで出発。相変わらず特に目的地も定めず、何となく東へ向けてたらたらと走って、まず上三橋町の須佐之男神社。隣接する空き地にあった「黄金塚跡」の石柱が気になるな。それから帯解の狭い集落をぬけて、田んぼの中にお椀を伏せたようなミニ伏見稲荷の森常稲荷神社。こんなさりげない、日常風景の中の明るいハレの場が良い。車で何度か通っている道だが、一度も気がつかなかった。すっかり長閑な天理街道を崇道天皇陵など横目に走り、古市のふるい集落へそれて御前原石立命神社。名前からして良い。たたずまいがまた良い。

 その後すすんだ道沿いの墓地入口に、平城京跡保存の先達「北浦定政墓所」なる案内板を見つけ、自転車を停めた。やっぱり最後は墓地なんだよ、おれは。墓場はいいねえ。こころが落ち着く。みんな死んじまってもう、迷いも苦しみもないからか。入口の迎え仏と対座するように、ずらりと整列した十数基の軍人墓。一様に昭和30年の建立で、戦死はやっぱりどれも昭和19年から20年の間。昭和18年、19年、20年と一人づつ死んでいった三人の息子の名を刻んだひとつの墓石もあった。そこから先へ進むと、有名な同和地区だ。家のたたずまいもどこか投げやりな、殺伐とした空気がある。町が賎視された一種の体温を持っている。ほんとうだから来てごらん。人はけっして平等ではないんだ。しばらくあたりを走り回って、いつしか東九条から郡山へと戻ってきた。

 夕方6時前。帰宅してまたすぐ、ジップの散歩。洞泉寺町の旧遊郭の前の小さな石橋などをしゃがんでカメラに撮っていたら、向こうから深帽子をかぶりマスクをした女性が声をかけてきて、小学校のときのママ友であるY君のお母さんだった。Y君のお母さんは鬱病で、以前とはすっかり違う。しきりにじぶんの病状や精神科の医者と合わない薬の話を続け、いっしょにいた夫君が「ジップ君が退屈しているよ。そろそろ、行こう」と話を切って、わかれてきた。小学生のY君はピアノが上手で、ちょっと若い頃のグールドに似ていた。

2018.4.29

 

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  先の朝鮮半島の南北首脳会談に接してささやかながらわたしも、賛意というかアクションというか、謝罪というか弔いというか、報告もしくは巡礼といおうか、気持ち的にはそれらをごった混ぜにした何かを行為で示したくなった。奈良(生駒)=大阪(東大阪)間をつなげる生駒トンネルの工事がはじまったのは1911年(明治44年)、大日本帝国が韓国を併合した翌年である。1913年(大正2年)1月26日、トンネル内で大規模な落盤事故が発生して152名が生き埋めとなり、20名の犠牲者が出た。この工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も多数、従事していた。施工主は大阪軌道株式会社(現・近畿日本鉄道)、工事を請け負ったのは大林組、下請けに西尾組。トンネル西口の大阪側には朝鮮人飯場があって、トンネル内の事故で家族が亡くなった朝鮮人がアイゴー、アイゴーと泣く姿を日下の古老が語っている。つまり1914年(大正3年)の開通まで、どれだけの朝鮮人を含む労働者が亡くなったのか、正式な記録は残されていない。奈良に暮らすわたしは、残されたわずかな手がかりをたどってみることにした。資料は「旧生駒トンネルと朝鮮人労働者」(国際印刷出版研究所)を著した田中ェ治氏がネット上で書かれているポイントを、印刷したグーグルマップに手書きした地図が二枚(石切駅周辺、生駒駅周辺)。

 近鉄・石切駅はこれまで降りたことがない。降り立って実感したのは生駒山の中腹にへばりついた土地だということだ。駅西口前から道はいきなり急勾配で住宅地の間をころげおちる。ひらけた眺望の彼方に大阪中心部の高層ビルが蜃気楼のように林立している。明るい戸建て住宅の間を数百メートルもだらだらと上れば、旧生駒トンネルの閉鎖された大阪側(西口)が山の谷筋にひっそりと口をあけている。平屋の古びた炭鉱住宅のような家がそのはたに軒を連ねている。コンクリートのプラットホームがいまも残されているかつて存在した孔舎衛坂駅(くさえざかえき)の名は、神武天皇が生駒山の豪族・長髄彦と刃を交えた峠「孔舎衛坂」から由来する。そのような時代、ということだ。プラットホームを含む周辺の敷地ぐるりにはフェンスが張り巡らされ、「侵入者は警察に通報する」の近鉄に拠る警告文が物々しい。むかしはトンネル数十メートルあたりまで自由に入れたそうだが、ネット上では有名な心霊スポットと書かれてもいるため、心ない者のいたずらなどもあるのだろう。フェンスの外から背伸びをして写真を撮っていたら、近所の人らしい初老の男性が鍵のかかっていないフェンスの扉を開けて、プラットホームの向こう側にある神社へ参っている。戻ってきたところを「あの神社は、何を祀ってるんですか?」と声をかけると、「ミーサンだ」と言う。「ミーサン?」 「蛇の神様だよ」  ああ、蛇(み)−さんか。近鉄敷地内に残された氏神のために地元の人は立ち入りが黙認されているらしい。「ちょっとだけお参りさせてもらってもいいですかね?」 訊くと老人は「ああ、構わんよ」と応えて、そのまま立ち去った。背後の斜面の上に祀られた「白瀧大神」の石段をのぼるり、本殿のうしろへ回ると足元にトンネルの入口がまじかに見えた。当時、多くの作業者たちが頻繁にここを往来したのだろう。そして何人かはそのまま生きて戻らなかった。しばらく樹の間に佇んで、在りし日の人の息遣いに耳をすませた。

 旧生駒トンネル跡地から北西の方向へ、水路沿いの斜面の道を蛇行しながらくだっていく。江戸時代の領主であった曽我丹波守を祀った丹波神社や、素朴な氏神・日下神社などを覗き、「ほたるの里」と案内のあるさらに小さな緑の小路を曲がる。家の前の踏み石の下で子どもが三人ほど、小さなバケツを手に水遊びをしていた。こんな光景はひさしぶりに見たような気がするな。道沿いの地蔵尊あたりで道を誤ったらしく、日新高校のグランドから狭い路地をぬけて、たまたまたどりついたのが旧河澄家だ。日下村の庄屋を務めた旧家で、第15代当主・常之は国文学者 上田秋成 と親交があり、一月ほど滞在したことが秋成の随筆『山霧記』に書かれているとか。折りしも巨大な鯉幟が舞台の垂れ幕のように軒でゆらいでいる。ひんやりとした座敷に腰を下ろし、枯山水の石庭と樹齢500年ともいうカヤの大樹を眺めていると、ときおり心地よい風が通り抜けていく。普請に来ているらしい職人風情のおっちゃんが通りかかり、「そこは涼しくて気持ちいいでしょ。まあ、ゆっくりしてってください」と、訪問客はだれもいなくてほんとうに居心地がいいのだ。旧生駒トンネルの西口側工事関係者の傷病没者「招魂碑」がある称揚寺は、旧河澄家からものの1分ほどだ。水路沿いの小さな敷地の真宗大谷派のお寺で、かつての境内の西側にもうひとつ西本願寺に属する寺がつくられたという。地元の人は「ひがっさん」「にっさん」と呼んで区別している。ここの「招魂碑」が貴重なのは犠牲者24名の氏名が碑の裏面に刻まれていて、その中に朝鮮人らしい3名の名前も見られることだ。碑の前で手を合わせていると、わたしよりやや若そうな住職氏が寺で用意した解説文を手に話しかけてくれた。もうむかしの話なので詳しいことは知らないが、碑が設置されたのは古くからある寺だったからではないかということと、寺の過去帳には碑に刻まれた犠牲者は見当たらないので碑が設置されただけ、といったことを教えてくれた。

 さて、旧河澄家前の観光案内版で見つけて驚いたのは、往路で通り過ぎてきたあたりにある「孔舎衛健康道場跡」。これが太宰の「パンドラの函」の小説の舞台であったというから、マサカ石切で太宰に会うとは、と思わず声が漏れそうになった。すたすたと下ってきたもと来た道を、こんどはふうふう言いながらのぼっていく。のぼりきったあたりで別の道をすすむと、大きなため池のはたの公園のような斜面の棚地に案内板があった。旧生駒トンネルが開通し営業がはじまった翌年の1915年(大正4年)、鉄道の開通に合わせる形でここに「日下遊園地」が開設された。保養所を兼ねた温泉施設、料理旅館、少女歌劇団、ミニ動物園、そして貸しボートなどがあり、夏の避暑地としても賑わったという。ところが後にあやめ池遊園地、生駒山上遊園地ができると経営トラブルなども重なって衰退し、1937年(昭和12年)、その跡地にできたのが「吉田式健康法」を謳った結核療養施設「孔舎衛健康道場」であった。京都府綴喜郡青谷村(現・城陽市)在住の結核を病む青年・木村庄助が1941年(昭和16年)8月から道場に入院し、年末には病態が軽快して退院したが、その後再発して、最後は京都保養院入院中にカルモチンを服毒して22歳の生涯を閉じた。その(大の大宰ファンであった)木村青年が残した日記をもとに太宰が執筆したのが「パンドラの函」だったというわけだ。結核を病んで入所した主人公の「雲雀(ひばり」とかれをとりまく「竹さん」や「マア坊」といった看護婦たちとの恋愛感情など、「パンドラの函」は太宰の多くの作品の中でもひときわ明るく、屈託ない希望にあふれている。異論はあるだろうが、わたしは太宰の作品の中で「パンドラの函」をもっとも愛読した。それは昭和20年発表という、焼け野原ですべてのしがらみが消滅したところから発した不思議な明るさのような作品だ。太宰はこの「孔舎衛健康道場跡」を訪ねたことがあるのだろうか。草むらの陰のあちこちに残っている古い石積みだけが、当時の名残を伝えている。

 石切駅へもどり、各駅電車で生駒駅へ移動した。昼時になって空腹を覚えるが、持参した素焼きのアーモンドを数粒頬張りながらあるき続ける。駅の南口から宝山寺へ至る参道をのぼっていく。しばらくのぼって生駒大師堂の手前、森田スプリング製作所の横の、一見工場の敷地のような路地を奥へ入っていくとそこが宝徳寺である。宝徳寺についてはまず勺 禰子女史の一文を引く。

 宝徳寺には旧生駒トンネルにまつわる慰霊碑がある。現在の韓国、済州道から渡ってきた先代の住職が昭和26年に大阪市生野区で開山した同寺は、外国の宗教団体として一番早く宗教法人格を取得した後、昭和30年代半ばに谷田町(現在地・生駒市本町)に移転してきた。生駒を移転地に選んだ理由は手狭になったこと以外不明だが、旧生駒トンネルをつくる際の石切り場でもあったらしい現在地は、それまで地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でもあった。

 本堂を過ぎて右手奥へ70段ほどの階段を上りきると、視界が開けた広場の奥に、韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑と極楽地蔵尊が建立されている。かつて同胞がこの地でトンネル工事に携わり、過酷な労働条件の中で病死、あるいは事故死したことを知った先代の住職が各方面に働きかけ、1977(昭和52)年に落成した。

 慰霊碑に向かう階段の途中には、百名近い寄贈者の札が今も飾られており、姜住職は朝晩の祈祷を欠かさないのは勿論のこと、毎年社会見学にやってくる小学生たちに、旧生駒トンネルでの出来事を語り伝えている。

(ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山 「生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々」)

 宝徳寺はややくたびれていた。あるいは、日本というこの国にくたびれてしまったのだろうか。開けっ放しの本堂も含めて、寺全体に人の気配がなく、階段をのぼっていった慰霊碑のまわりは雑草がいたるところ伸び放題であった。「韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」と刻まれた碑の足元に、寄り添うように置かれた二片の石くれ。ひとつはかろうじて石仏のなごりをとどめているが、もうひとつはすりきれたのっぺらぼうの石ころだ。前述の田中氏のサイトによれば、それは「トンネル工事中に内部で亡くなった労働者の霊を慰めようと仲問の人たちが造った。二体の石仏は朝鮮人と日本人や、それ以後幽霊は出なくなったんだ」と住職が語ったものである。花束のひとつも用意してこなかったわたしは、水筒の冷たい水を喉が渇いているだろうとその二体の石仏に注いだ。宝徳寺は鮮やかな青に金文字の扁額がいかにも朝鮮系の独特の雰囲気を醸し出しているが、それだけではない。いまでは商店街や参道に近い住宅街に囲まれているが、ここはまるで大地の女陰(ほと)のような場所なのだ。かつては「旧生駒トンネルをつくる際の石切り場」であり、古くは「地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でもあった」と言うのは得心する。生駒山から伝い、流れ滴る水が、深い山中の渓流のように岩盤を濡らしている。

 人気のない宝徳寺を辞し、駅前までもどったわたしは線路の北側へまわって、最後の探し物をすることにした。「トンネル東口を左手に見ながら急坂を登りつめたところに地元の墓地がある。そこには、1913年1月26日午後に起こったトンネル大崩落の際犠牲になった人たちの墓石と慰霊碑「無縁法界霊」がある」 手がかりはこれだけである。生駒駅を大阪方面へ発した電車は、すぐに高架の橋とそれにつづくレンタカー会社の駐車場の下をくぐる形で地下へ入る。その高架の形状の駐車場が途切れるすき間からかろうじて、生駒トンネルの東口(奈良側)が覗ける。その通りに「トンネル東口を左手に見ながら」地下の線路に沿うようにあるいていった。しばらくすすむと広い道が急にせまくなり、急坂があり、山の斜面をくずした宅地用の造成地があり、しばらくその周辺をなかば諦めかけながらうろうろとしていたのだが、視線の先の山の上の樹の間にちらと墓石のようなものが見えた。それを目指してあえぎあえぎ登っていくと、小高い林の中に古い墓石が並んでいた。目的のものはすぐに見つかった。「無縁法界霊」と刻まれた自然石の碑。裏に刻まれた文字はかろうじて「大正七年生駒トンネル遭難者七周年追悼」云々と読み取れた。その慰霊碑の背後にいくつかの小さな墓石や石仏が寄り添うように並び、「石川縣工夫」 「兵庫県住民」 「富山県住民」といった文字と共に「大正二年一月」などの日付も見つけた。日本のあちこちから出稼ぎでトンネル作業に従事していて命を落とした人たちだろうか。墓地内の掲示に「西教寺」の名前があり、生駒駅北側にある西教寺の墓地だと知った。前掲の田中氏の記述によれば「生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれたことから当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が残されている」 わたしはここでも水筒の水を慰霊碑や墓石にかけて、手を合わせた。緑の濃い樹木の間から、生駒の町が一望に見渡せる。ここはほぼ、生駒トンネルの真上にあたる。わたしはかれらと共に水筒の冷たい水を飲んだ。そして堀田善衛の次の言葉について、ふたたび考えた。「過去は我々の眼前にあり、未来は背後に広がっている。だから、我々は、どこで落とし穴に落ちるかわからないまま、後ろ向きになって、未来へ進んでいくのだ」

 日韓併合から約百年、旧生駒トンネル崩落事故から約百年のわたしの小さな旅がおわった。これが先の南北首脳会談に接したわたしのささやかなアクション。百年前のかれらに、わたしは何を語れただろうか。



 このトンネルには有名な幽霊話がある。郷土史家・尹敬沫氏は『生駒トンネルでたくさんの同胞が殺された。その悔しさ、執念の幽霊が夜更けてトンネル内に出る。絶対にトンネルエ事に行ってはならぬ。それは工事で最も危険な最前線に追いやられ、結果は殺されていくのと同じ』(1992年1月26日、旧生駒トンネル事故80年シンポジウムでの尹敬洙氏の発言)と言う。この言葉はトンネル工事の過酷な労働を語り伝える同胞たちの思いを代弁したものであろう。
 旧生駒トンネルエ事が開始されたのは1911年6月のことである。当初は県境に立ちはだかる生駒山(642m)を避けた山越え案やケーブル案もあったが経費や時間はかかるものの、未来のために最終的にトンネル掘削の決断がなされた。現在このトンネルのある近鉄奈良線が、大阪・奈良間の大動脈として、その役割を果たすことになったのは万人の認めるところである。

 ところで、過去に類を見ないほどの難工事といわれた旧生駒トンネルエ事に朝鮮人労働者が働いていた事実は、作家の住井すゑさんが自ら生駒市で取材し長編小説『橋のない川』の第1巻で扱ったことでも知られている。 「韓国併合」からわずか10ヶ月後に開始された旧生駒トンネルエ事の現場に朝鮮人労働者が海峡を越えて働きにこざるを得なかった背景のひとつに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事があげられる。

 旧生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべきほかの土木請負会社と共に、日露戦争(1904-1905)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル〜釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル〜義州間の停車場や機関庫の工事などを請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績をあげていくのである。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、旧生駒トンネル工事に朝鮮人労働者が就労することになったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内の請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し、利益を上げていくのである。


 1913年1月26日午後、トンネル内部で大落盤事故が発生。労働者150人前後が閉じこめられ、20人(西教寺過去帳による)が犠牲になった。生埋めになった労働者救出のために救援隊が組織されたが、第2次救援隊の中に朝鮮人李申伊がいたことを1913年1月29日付の「大阪新報」が報じている。

 1913年8月19日付のr大阪朝日新聞」には、トンネル工事の労働者と村民とが池の魚をめぐって大喧嘩をした記事がある。死者1名、負傷者の中には22歳の朝鮮人もいた。続報で「生駒隧道の坑夫と村民との大争闘の際殺傷したる嫌疑者取調べのため、19日も同地に於いて125名(内朝鮮人10名)を引致…」。この記事から「坑夫125人中10人の朝鮮人」がいたことに注目したい(労働者の8%)。

 また、完成後の1917年12月9日付『中國新聞』には次のような興味深い記事がある。「往年大軌の生駒隧道の掘削工事に千人ばかりの鮮人が居たが、團結して辞めたかと思ふと又ゾロゾロ帰って来る。殆ど勤怠常なしで為に工事に大錯誤を生じたことがある…」
記事中にある「千人ばかりの鮮人」がいたことが事実ならば、地域史を書きかえねばならない。(「鮮人」=朝鮮人に対する蔑称)

○過去帳
生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれたことから当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が残されている。
張振王は法名「幼学」、釜山出身で「朝鮮飯場」であった「松山飯場」に所属したことが記されている。また大正2年9月2日死亡の黄澤斤の名も見えるが詳細は記されていない。
暗越え奈良街道沿いに、芭蕉の句碑が建つことで知られる勧成院(日蓮宗)がある。旧過去帳に63柱におよぶトンネルエ事の犠牲者氏名が記されている。
うち朝鮮人は3柱。氏名は稱揚寺の「招魂碑」と同じである。筆者の推測ではあるが、当時の住職が犠牲者の追悼のため、情報を集めて記した二次的なものではないか。(詳しくは拙著『旧生駒トンネルと朝鮮人労働者』1992.8)

○慰霊碑
トンネル東口を左手に見ながら急坂を登りつめたところに地元の墓地がある。そこには、1913年1月26日午後に起こったトンネル大崩落の際犠牲になった人たちの墓石と慰霊碑「無縁法界霊」がある。
「トンネル内部に女性は入れなかった」(日下町の90歳の女性の話)という差別意識があったにもかかわらず、「煉瓦工手伝い」の4人の女性が犠牲になった。彼女らの墓石もこの場所に建てられている。
大喧嘩があった「空浄池」(現在は幼稚園)を左に見ながら、トンネル西口から河内平野を見おろす急坂を1キロほど下ると、稱揚寺(浄土真宗・東大阪市日下町)がある。境内には大阪軌道株式會社と大林組が建立した「招魂碑」がそびえている。裏面には24名の傷病没者名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。死亡原因などの詳細は不明だが、生駒トンネル工事に関連する朝鮮人犠牲者の名をいつでも見ることができるのはこの「招魂碑」だけである。

生駒駅から門前町の風情が残る宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」の看板が目に入る。宝徳寺は戦後外国人に対して認められた宗教法人の第1号だという。住職の趨南錫(故人)は生駒トンネルで酷使された同胞の話を知り、トンネルエ事にゆかりのある地に寺を建てた。また1977年11月、地元の有志と近鉄の協力により、本堂より一段高い敷地に韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」を建立した。
この慰霊碑の前に小さな石仏がある。住職の説明は実に明快であった.
「トンネル工事中に内部で亡くなった労働者の霊を慰めようと仲問の人たちが造った。二体の石仏は朝鮮人と日本人や.それ以後幽霊は出なくなったんだ」。

「朝鮮人がようけ(大勢)トンネルの入口に来てな。朝鮮から来たいっきやよって(問もなくなので)、頭の毛にまげ結うてまんね。日本に来てから頭の毛を切りまんね」.
「朝鮮人は集団で。朝鮮飯場が2カ所ありました。あそこは朝鮮飯場やいうて。朝鮮人は村へは入られへん。捷別がありましたしな」。
「トロッコが弾んで、朝鮮人が亡くなりましたんや。家族がアイゴー、アイゴーと泣いてました」
以上の証言は、1991年ごろに筆者が日下町(トンネル西口)に住む古老から聞いた話である。旧生駒トンネル工事は1911年から1914年のことであり、まもなく90年が経過しようとしている。当然、当時の証言を得ることのできる人はほとんど生存していない。

 旧生駒トンネル工事は、規模の大きさや大崩落事故があったからという理曲で知られているのではない。「韓国併合」直後に、土地調査事業をはじめとする日本の植民地政策によって、ふるさとを離れて、日本に出稼ぎにこざるを得なかった人たちの想いが凝縮しているからである。また旧生駒トンネル工事が語る歴史は、単に奈良と大阪の地方史ではない。これ以後に続く「強制連行・強制労働」の起点であり序章である。
旧生駒トンネルは、黒い闇を抱きながら、静かにその姿を誇っている。

(奈良県での朝鮮人強制連行遺跡・生駒トンネル)



◆奈良県での朝鮮人強制連行遺跡 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/3836/ikoma/ikoma.htm

◆「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、 孔舎衙健康道場だった!」 http://yukochappy.seesaa.net/article/133164001.html

◆大正時代の日下遊園地(東大阪市) http://binmin.tea-nifty.com/blog/2011/09/post-c5ce.html

◆生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人 http://chipoo.blog84.fc2.com/blog-entry-763.html

2018.5.1

 

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 ケストナーの「エーミールと探偵たち」を読んだのは、じつは20代になってからだ。たしかロック・ミュージックのライターがエッセイか何かで書いていたのを見て、読みたくなったんだと思う。その後「飛ぶ教室」も読んだし、あの頃は三木卓のやわらかな少年期の感受性、たとえば「はるかな町」なども愛読していた。わたしの岩波少年文庫の「エーミールと探偵たち」は娘に引き継がれ、このごろ、小学生の頃に愛読した本をさかんに読み返している娘の、このエーミールの映画があるらしい、見てみたいという声に押されてDVDは高かったので、ヤフオクでレンタル落ちのVHSを140円プラス送料250円で落札し、おとといの夜に家族三人で見た。原作は1920年代のドイツ、映画は2001年につくられたので、スケボーや携帯電話やクレジットカードが出てきたり、登場人物の関係が少々入れ替わっていたりとあるけれど、ベルリンへ向かう汽車の中でエーミールの大事なお金を盗んだ男を、子どもたちが一丸となって追いつめ、捕まえる爽快さは変わらない。ちなみに娘がいちばん好きな場面は最後に男が捕まってみなが喜びに沸きかえっているとき、ポニーのおばあさんがディーンスタークという電話番をしていたちょっと地味な男の子を、「みんなが泥棒を追いかけまわしていたときに、我慢して最後までじっと電話番をしていたこの子を、わたしはいちばんに褒めてあげたい」とたたえるシーンだそうだ。

 連休後半の昨日は朝から、届いた町内のあたらしい消火器と箱を付け替えて、それからようやっとテレビのHDDへ移した数十本ものVHSビデオのデータをブルーレイに書き換えるという作業をほぼ完了してHDD内のデータをすべて消去し、夜はひさしぶりに娘と二人で餃子をつくった。今日はこれからつれあいと買い物、午後にはこれも届いたばかりのあたらしい町内の掲示板を副会長のSさんと二人で取り付けし、夕方から母や妹宅を招いて庭でバーベキューです。

2018.5.4

 

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 FB友の福山さんが一冊の絵本を贈ってくださった。ふるさとの村から強制連行され「慰安婦」にさせられたシム・ダリョンさんの体験を、韓国の絵本作家クォン・ユンドクさんが作品にしたもの。2010年に韓国で出版されてから日本で刊行するまでに8年の歳月ともろもろの困難を伴ったことが、現在のこの国の在り方をよく示している。202名の有志による資金援助に福山さん自身も参加し、東京・赤羽の小さな出版社から鬼子のように産み出された。

絵は当初、告発調の激しいトーンのものだったそうだが、刊行できないかも知れないという現実との葛藤のはざまで、表面的なものは徐々にそぎ落とされ、やわらかな、なみだのような水分をふくんだ得もいわれぬ花々の絵に昇華していった。どんな声高な叫びよりも胸につきささるささやきだ。気がつけば絵の中をさまようている鬼子のようなわたしたちがいる。

この絵本は内容から「大人が読む絵本」と判断されて、多くの図書館の児童書コーナーから漏れ、また民間の書店でもわずかなところでしか置かれていないという。ぜひ、たくさんの人に図書館にリクエストしてもらい、書店に注文してもらって、多くの人に読んでいただきたい。よろしくお願いします。

◆「ころから」出版 http://korocolor.com/book/hanabaaba.html

◆【特集】慰安婦テーマの絵本出版へ(共同通信) https://this.kiji.is/334163436613551201

◆「平和シリーズ」最後の1冊 慰安婦絵本を8年経て日本語訳(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/…/…/201804/CK2018042802000114.html

◆Amazon https://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E3%81%B0%E3…/…/4907239297

2018.5.5

 

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 午後、自転車で平城京跡の北側あたりをまわってきた。水辺の佐紀神社、釣殿神社。そして山上八幡神社から垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵、佐紀高塚古墳(孝謙・称徳天皇陵)、成務天皇陵と、このあたりは大きな古墳だらけ、さしずめ「王家の谷」とでもいった様相だ(もうすこし北へすすめば五社神古墳(神功皇后陵)もある)。これらは佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)と呼ばれ、4世紀後半から5世紀前半につくられた巨大前方後円墳群だそうだ。平城京跡から古い集落内をゆるやかにのぼっていけば、こどかな丘陵地の桃源郷とでもいった風情だ。平城京跡では毎年恒例の天平祭とやらのイベントで大音量の音楽が流れていたから避けてきた。ここはしずかで心地よい。そんな住宅地のはざまにひょいと見つけた瓢箪山古墳は、なぜか宮内庁の陵墓指定からはずれているため墳丘に自由にのぼれる。そんな古墳もあるのが面白い。そこから歌姫街道にかけてのエリアは古びた二戸一、三戸一の改良住宅や団地が多く並び、独特の雰囲気を醸し出している。陵戸との関係もあるのだろうなと思う。そういえば奈良山陵簡易郵便局近くの道沿いの墓地に40〜50基もの軍人墓が密集して建っていたから、つい自転車をとめてやっぱり見てしまった。奈良第38連隊で転戦し大宮島(グアム)にて戦死した陸軍衛生軍曹(25才)の墓を見つけた。グアム戦死者はこれで県内4人目かな。昭和21年7月にソビエト連邦内の収容所に於いて「消息を絶つ」と書かれた陸軍上等兵や、やはり敗戦後の昭和21年8月に「北鮮にて戦死」と書かれた31歳の陸軍軍曹の墓などもあった。かれらにとってはまだ戦後ではなかったのだ。ついで東側。ヒシャゲ古墳(磐之媛命陵)、コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)、ウワナベ古墳などを眺め、航空自衛隊奈良基地のフェンスを横目に大きな池の端からふたたび平城京跡へもどってきたら、はや夕刻だ。そのまま人気が捌け出した平城京跡内を通って尼ヶ辻へ抜けて、西ノ京から三松禅寺近くの園芸店へ立ち寄った。わたしよりやや年下のNさんは一級建築士の資格を持っていていたのだけれど当事失業中で、わたしの会社が入札で受託した地域の見守りパトロールの仕事(雇用促進事業)に応募してきたのだった。その縁でまだガーデンハウスもできていなかったわが家の庭に、ジューンベリーを植えてもらったのが、娘が小学校4年生くらいだったからもう7〜8年も前のことだ。坂道の途中にある店の奥に声をかけると、Nさんのお母さんが出てきて、じきに奥からNさん本人が出てきた。あのとき、まだ見習い中だったNさんに教えながら秘伝配合の肥料を施してくれたNさんのお父さんは肺がんで闘病中で、いまはNさんが跡を継いでやっているそうだ。「こんどは庭の真ん中あたりにね、娘のリクエストで百日紅(サルスベリ)の樹を植えて欲しいんですよ。花の色はジューンベリーが白だから、百日紅は薄いピンクがいいそうです」  そんなわけでひとしきりひさしぶりの再会を愉しんで、百日紅を一本、頼んで帰ってきた。夜はつれあいの仕事が遅いので、娘をラーメン屋に誘った。彩華ラーメンに挑戦してみるというので、数年ぶりの彩華かと楽しみに天理の本店へ行ったら広い駐車場は長蛇の列で1時間半待ち。田原本店へ行くがやはり待ち列が見えて、国道24号線をしょんぼりもどってきたところ、以前から入りたいと思っていた豚菜館の駐車場が運よく一台だけ空いていたところへ滑り込んだ。そうそうこの味、あの小松の志いぼの「系列」だ。むかしからある、家族経営的な地域の人に愛されてきた味。チェーン店にはなれない味。わたしたち二人が食べ始めて10分後くらいに、「チャーシューの肉が切れて本日は終了」となった。

◆佐紀盾列古墳群の概要 http://beauty.geocities.jp/belltechnique/gaiyou/sub3.html

◆大好物のシンプル醤油ラーメン『豚菜館』 http://small-life.com/archives/07/10/3100.php

2018.5.5

 

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  もはや建前も、建前の恥すらもない。政(まつりごと)もない。すでに政治なぞ瓦解し、暴動が起きてもおかしくない無法地帯となっているのに、みんな何も変わっていないかのごとくふるまっている。すでにないものを、いまだあるかのごとくふるまっている。それがこの国の、妙に明るくゆがんだ廃墟のかたち。


 もはや腹を立てるだけ虚しい、それほどの惨状です。一国の首相の配偶者の振る舞いに振り回されている政治の現状も、取り繕うのに必死の内閣も、ひたすら追従するだけの与党や官僚も、そして次元の低さを冷笑するだけの有権者も、全てが最低・最悪。けれども、これが民主主義国家を標榜する日本の、賭け値なしの実像なのです。

 かつて「お天道様が見ている」と言われたような絶対的な規範は、もう存在しない。いまやうそと分かっていても、フェイクニュースであっても、「いいね」ボタンが多ければOKという社会が出現しているのです。そして、その「いいね」も日々変わっていく。真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかも知れません。

高村薫「不祥事にしらを切る官邸・官僚」 2018年5月12日河北新報

2018.5.13

 

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 雨上がりの代休。朝、コーヒーを淹れてから何をしてたろう。自転車で役所へ行って「文書配布委託料」と、先日つれあいが誰かから受け取った自治連合会付けの「活動費」のことを総務課で訊いた。「文書配布委託料」は市の広報誌や回覧物、ポスター掲示などに対するいわば「協力お礼金」のようなもの。「活動費」は市内の自治会をいくつかに束ねた地区(十数か所の自治会の集まり)の活動に対する「補助金のようなもの」で、本来は各自治体が集まって何かをするようなものに使うのだろうけれど、何もしていないところは地区会長の裁量で金額だけを振り分けているということらしい。これらはみな市から自治会長へ渡されるもので、町会費として会計へ計上しているところもあれば、黙って自治会長のポッケに入っているところもあるらしい。窓口の人の話では、そんなふうに長いことやっていた会長が変わった際に10年20年分のこうした「文書配布委託料」などを返還しろと紛糾した自治会もあったらしい。うちの町では前会長さんは「文書配布委託料」は町会費に計上して、「活動費」だけは受け取り、けれどそこからちょっとした雑費を出していたようだからほぼプラスマイナス、ゼロだったと思う。神社への寄付負担が減って町会費が健全化してきたので、この「文書配布委託料」と「活動費」については、三役(会長・副会長・会計)と4人の班長に割合を決めて還元しようかという話も出ている。今後のことを考えたらじっさいにいろいろと手間もかかるし、あまり人がやりたくない役に対して心ばかりの手当てを設定しておくのも悪くないかも知れない。

 役所からもどってから、起きてきて朝食を食べている娘と話をしたり、しばらく新聞を読んだりしてから、自転車で買い物へ。ホームセンターで掲示板の補強用のボルトを買い、イオンのカルディでコーヒー豆二種類を買い、もどってきたら、なんと件の紡績工場の供養碑がある誓得寺の門が開いている!  急いで家へ戻ってコーヒー豆などを入れてから、ふたたび誓得寺へ。門は開いているのだが、一応玄関の方へまわって呼び鈴を押すと60代くらいの男性が出てきて、その人が橿原の寺の住職で、この誓得寺の住職(尼さん)が嫁いだ夫君であった。事情を説明して、本堂の横手に建っていた慰霊碑を見せていただいた。碑は高さ1メートルほど、正面に「大日本紡績 郡山工場 亡工手之碑」と刻まれ、裏には「明治四十年七月建  昭和二年八月改碑」とある。 「工手」は一般的には土木や電気・機械等の工事に携わる者をいうらしいが、紡績工場で働く女性たちも「工手」「女工手」などと呼ばれていた。明治40年から昭和2年は、ちょうど紡績工場の操業もピークであった頃だろうか。住職(細君)がいま向かいの家の法要へ行っていてじきにもどってくると言うので、夫君と雑談をしながら待っていると20分ほどで帰ってこられた。先代の住職、つまり現在の住職の父親(89歳)が一人でこの寺を守ってきたのだが、一年ほど前に転んで怪我をしてから娘の嫁ぎ先の寺に身を寄せて、いまは訪問介護サービスやリハビリを受けているという。慰霊碑が建てられた頃はさらにその父親の代だろうか。夫君の寺と宗派が異なるので、娘さんが後を継ぐ形にしているが、寺はふだんは無住で檀家で法要や葬式などがあるときにしか来ない。娘さんは幼い頃に見た、すでに操業をやめた紡績工場の赤煉瓦の塀だけ覚えているという。かつては本堂の前のスペースがすべて墓域で古い墓が並び、慰霊碑も当初はその中にもっとちゃんとした基礎の上に立っていたが、檀家の減少などと共にそれらの墓も整理したときにいまの場所に移した。亡くなった工女たちの墓は分からないが、古い過去帳にはそれらしい女性たちの名前が残っていて、住職の記憶では東北の出身者が多かったという。たしか先代が本堂の中にそれら亡くなった女工たちの名簿をつくって弔いをしていたから、残っているはずだと仰る。今日はそろそろ橿原へ戻らなければならないというので、来週の日曜の昼過ぎにもう一度伺って、それらの過去帳や名簿などを(支障のない程度に)見せていただくことになった。「紡績工場の資料はとても少ないんです。ましてやそこで亡くなって身寄りのないまま葬られた工女の記録は、おそらくここだけです。もう5年10年したらだれももう思い出さなくなるかも知れない。だれかが残してあげなければ」とわたしは熱弁したのだった。ここ一ヶ月以上、休みのたんびに門が開いていないかと必ず一日に一度は見回っていた報いが訪れた。そんなわけで今日は大収穫の一日。

2018.5.14

 
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 あの太郎坊宮の青々とした天上の峰をめぐったちいさな山旅はいまもわたしの胸に一抹の風をそよがせている。その日の午後、下山して帰りの

2018.5.19

 
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 東近江を訪ねた翌日の日曜。早めの昼食を済ませて、先週に約束していた12時半頃に誓得寺へ行くと、門は開いていたが、呼び鈴を押しても、玄関先に声をかけても反応がない。出かけているのだろうかと思って、しばらく本堂の階段にこしかけて、慰霊碑の前の陽だまりをぼんやり眺めていた。五月の光が遍照金剛といったふうに満ちていて、かつては墓域だったという花壇に咲いた花の色がまるで死んだ女工の息のようにも感じられる。開いた山門のむこうをときおり近在の年寄りが手押し車を引いて通り過ぎていくのが見え、その書割のような場面が逆にあの世の風景のようにも見える。あちらがあの世であれば、こちらはなんだろう。そんなことを考えていたら、どうやらはじめから家の中にいたらしい普段着の住職が本堂の前にひょいとあらわれた。

 過去帳をそのまま見せるのはためらわれたのだろう。便箋に丁寧な字で、判別している出身地と人数だけを書いた紙を住職は用意していた。明治43年2月から昭和12年1月にかけて、全員で96名(内女性59名、男性37名)。これは寺の過去帳から紡績工場に関する過去帳だけを別個に書き出してまとめたもので、寺の本堂の裏手にある小部屋に祀ってあったものだという。わたしは、不満足であった。せめて本物の表書きだけでも見せていただけないかと頼み込んだ。本堂の奥から持ってきてくれたそれは黒い光沢の板で綴じられた立派なもので、表には「過去帳 大日本紡績工場」とあり、こんな感じなんですよとめくって見せてくれた中身は、上から法名(戒名)、亡くなった日、そして名前(俗名)の枠があって、なかにはその名前の枠の中に小さく出身地や年齢、生年月日などが記された者もあるがそれは少ない方で、中には法名や亡くなった日すらなく、ただ名前だけが書いてある者もある。出身地は長崎や鹿児島、宮崎など九州が多い。ついで石川県や島根県の日本海側。奈良県が一人。そして朝鮮人と思われる名前が2名。出身地が書いてあるのは、おそらく遺骨の引取りがあった者だろうと思われる。誰々長女や、誰々私生子といった記述も見られる。逆に出生地も書いていない者は引き取り手がなかったということか。

 年齢が分かる範囲ではやはり20歳前後の若い女性が多く、最年少は16歳。育ち盛りの少女がこれほど亡くなっていること自体、工場での過酷な環境がしのばれる。かつて関西学院大学社会学部(島村ゼミ)の卒業論文でこの郡山紡績工場をとりあげ、フィールドワークをもとに「女の街 大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」を記した住田文氏は、戦後にこの紡績工場に勤めていた工場側の総務課と思われる部署で働いていた男性と、やはり戦後に女工として働いていた女性からの聞き取りを行なった上で「郡山紡績工場では女工哀史はなく、女工たちは自分の時間やお金を自由に使い、有意義な青春時代を送っていた」と結んでいるが、安易な結論と思わざるを得ない。ちなみに大正9年1月23日に「釈尼妙順」の法名で供養された18歳の少女は現在の韓国の慶尚南道普州から働きにきていた。藤永壮「植民地期・在日朝鮮人紡績女王の労働と生活 −大阪在住の済州島出身者を中心に-」によれば、「紡績工として働くことを目的に、朝鮮人女性が日本への渡航をはじめるのは、韓国「併合」から問もない 1910年(明治43年)代前半のことである。 1913年12月のある新開記事は、大阪の紡績会社では日本人だけでは女工が不足するため、最近では朝鮮人女工を使用するようになっており、皮切りとなった摂津紡績の54名、三重紡績の40名のほか「五六人位宛は彼方此方にも見るやうになったと伝えている」という。亡くなった少女の過去帳には姉の名前も添えられているので、姉妹で異国の地に働きに来たのかも知れない。彼女はいまでは故郷の墓に帰って眠っているのだろうか。

 誓得寺の成立ちは古く、当初のおそらく念仏道場のような始まりから数えれば400年近い歴史があるという。現在の佐保川沿いの田んぼの中にある墓地に隣接して建っていた寺を、いつの時代か現在の地へ移築したらしい。その旧寺地はかつて平城京の都があった時代に羅城門が建っていたといわれる場所にほぼ近い。前述の住田論文は、おそらく住職の父親だと思われる先代からの聞き取りを伝えている。「ここでは、大日本紡績工場で亡くなられた女工さんを葬っている。特に、地方から出てきた女工は身よりもなく、葬儀等を全て行っていた。当事うちのお寺は大日本紡績の檀家のような役割をしていたからね(誓得寺主人)」   「亡工手之碑」がはじめに建てられたのが明治40年で、昭和2年に「改碑」されている。まさにこの「過去帳 大日本紡績工場」に記された死者たちに重なる。先代が父親からこの寺を受け継いだのは昭和30年代だったそうで、その先代がこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んだのであれば、ちょうど昭和34年に織布工場を閉鎖し、さらに昭和39年に操業を全面停止した紡績工場の終焉とも重なる。住職が子どもの頃に、父親が紡績工場に関する法要を行った記憶があるというから、最後にこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んで、その後も本堂の裏の小部屋に祀り、供養を続けてきたのだと思われる。

 工場で亡くなり、檀家代わりの誓得寺が葬儀一切を執り行い、身寄りのある者は遺骨を引き取られていった。では身寄りのない者、遺族などと連絡がつかない者の遺骨はどうなったのか。住職の話では、法名(戒名)が記されている者はおそらく誓得寺で弔い、墓石をつくることもなく、遺骨は無縁供養の場所(供養塔などの納骨スペース)に収められたのだろう、と言う。前述した佐保川沿いの誓得寺の墓地(来世墓)の井戸の横に、先代が整理をした無縁墓が積み上げられた小山があるが、その頂上に無線供養の塔があり、納骨の空間があるという。またこの来世墓は石の鳥居が立っている不思議な墓地だが、かつては墓守がいて、中央の道が交差し広くなっているところに石の台座が置いてあるのが、かつての堂のあった場所だとも聞いた。このあたりはWebで見つけた次のような話とも合致する。「たまたまお墓参りの人から聞いたところでは、昭和の初めまで墓守がいて、墓地のお堂に住み込み、いつも白い服を着ていたという」  この墓守であったら、墓もつくられずに葬られた工女たちの話も知っていたかも知れない。

 ところで誓得寺の慰霊碑の背後、寺の壁にひっつきそうなすみに建っている「島村先生」と書かれた墓石がある。側面に「昭和七年三月 遺弟建之」と刻まれ、後ろは壁との距離が近くて見えにくいのだが「大正十五年」とあるのがこの「島村先生」の亡くなった日だと思われる。じつはこれは生徒たちが建てた学校(郡山高校)の先生の墓で、遺骨は納められていない、いわゆる詣り墓で、住職が子どもの頃にはまだ当の生徒たちがお参りに来ていたのを覚えているという。建立時に25歳だったとしても、昭和が終わる1989年にはすでに90歳になる。もうだれも生き残っている生徒はいないだろう。ほんとうなら無縁墓になるのだが、先代の配慮で境内のすみに残している。寺の正門から本堂に至る数メートルの空間はかつて古い墓石で埋まっていた。住職のうろ覚えの記憶では、正門から入ってすぐ左手の角にその「島村先生」の墓が階段を上る立派な台座に乗っかり、また右手の本堂に近い角にこちら側を向いて「亡工手之碑」がこれも立派な台座に乗って立っていた。

 この「過去帳 大日本紡績工場」も将来、また次の本山から派遣された住職に引き継がれるときにあるいは処分されるかも知れないと聞いて、わたしはじつに勿体ない。紡績工場について残っているのは現在、跡地に建てられた団地のはたにひっそりと置かれている「大日本紡績工場跡」の碑と、ここの慰霊碑だけしかない。しかもここで働いて、歳若くして亡くなった女工さんの記録がリアルに記されたこの過去帳はぜひ残すべきだ、残してやりたい。どうでしょう。わたしが市の教育委員会あたりにかけあって、正式にデジタル資料か何かで残すように話をします。その説明のための資料として、わたしからは公開はしませんので、いったん写真に撮らせてもらえませんか。必死の思いで熱弁をかさねて、ついに住職の了解をもらって「過去帳 大日本紡績工場」をすべて撮影してきたのだった。 「もちろん、教育委員会には近いうちに話しに行くよ」と家に帰って得意そうに語る父の顔を、娘はオレオレ詐欺の犯人でも見るような疑いの眼でじっと見つめるのであった。


◆郡山紡績 https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_094.html

◆女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと― (島村ゼミ卒業論文要旨集)
http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113

◆平城京羅城門と来世墓の鳥居 http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm028.html

◆植民地期・在日朝鮮人紡績女王の労働と生活(PDF) http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/jeju_spinner-jp.pdf

2018.5.21

 
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 数日前から例の過去帳を少しづつ、エクセルに入力してデーターベース化している。年齢が書いていない者も生年月日と命日で年齢が出るようにもした。そうして判明した13歳の少女もいた。法名(戒名)、俗名、死亡日、ときに年齢、生年月日、そして出身地などを、PCの手書きパッドで漢字を探したり、グーグル検索で村の名前や場所などを確認していく。そんなことを数日やり続けていたら、ある日、夢で彼女たちの故郷を訪ねあるいているじぶんがいた。どうにもいけない。最近は週末に出かけてばかりいたので、今日は家でのんびりしようかと思っていたのに、気がついたら自転車で県立図書館へ走って紡績工場の資料を漁っていた。昭和18年に皇后が奈良県を視察したときの分厚い資料の綴りはじっくり見たら興味深いかも知れない。大日本紡績の50年史でははじめて見る工場の門の写真があった。奈良歴史研究会なる冊子の21頁に及ぶ「郡山紡績の設立と経営動向」(北井直樹)は冊子自体が30ページしかなかったので、規定どおり半分の15頁のコピーを見せて、残りはリュックに隠した。「職工事情」と題した全三巻からは明治34年に郡山紡績から逃げ出して保護された2名の女工や、5人の大阪の男たちに誘拐され強姦された紡績工女の警察資料などを写した。誓得寺の境内のすみの墓石「島村先生」の写真も「郡山高校百年史」の中に見つけた。優秀な数学の教師だったが仏教にも造詣が深く、 大阪の寺院などに招かれて仏教や哲学に関する講演をたびたび持ったそうだ。紡績工場ではないが、「古都の弔旗」と題された奈良R.Rセンター(戦後の数年だけ奈良三条通りに設置された米軍向けの慰安施設で、多くの日本人女性が「占領軍向け慰安婦」として「提供」された)の「調査報告書」なる一冊も貴重な収穫だった。これは状態が良くなかったので、はじめて遠隔コピー機で複写した。はじめてと言えばマイクロフィルムもはじめて閲覧したが、じぶんが操作方法を知らないものだから手短な説明でさっさと立ち去りたい感ありありの女性司書スタッフが腹立たしかったので、逆に何度も呼びつけて説明を求めた。最後は勝手にじぶんでフィルムを取り外して返却したが、ネガ・ポジ逆転のマイクロ文書を早送りで延々眺めていると車酔いすることがよく分かった。ふらつきながらジップにウンチをさせにゃならんと自転車を漕いで急いで帰った。そんな慌しい日曜日。

2018.5.27

 
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【憲法より優位の安保条約=江上能義・早稲田大名誉教授】
 
戦後の沖縄にとって初めての憲法記念日は、1965年5月3日だった。米国統治下にありながら、自らの手で獲得するとして立法院の決議で法定祝祭日に指定されたのである。72年に本土復帰し、沖縄の人々は「これで沖縄も憲法に守られる」と思った。だが現実は違った。復帰して46年にもなるのに、沖縄はいま「憲法番外地」と揶揄(やゆ)されている。
 
 日本国憲法は前文で「平和のうちに生存する権利」をうたっている。だが復帰後も米軍基地が集中する沖縄では、米軍機による事故や墜落の恐怖と隣り合わせの日常生活が続き、平和的生存権の侵害を受けている。保護者らが署名運動をして米軍機の学校や保育園の上空飛行禁止を求めても、国は日米地位協定を理由に米軍への要請すら後ろ向きだ(毎日新聞5月3日朝刊)。
 
 憲法と条約とでは通常、憲法が優位に立つが、わが国の現実においては、日米安保条約や日米地位協定が日本国憲法より優位に立っている。そのために、沖縄では米軍が最優先されて、県民が憲法に定められている平和的生存権や基本的人権の順守を求めても、いつも政府や裁判所から門前払いをされるのである。「日米不平等の源流」と指摘される日米地位協定の締結から半世紀以上になるのに、一向にその差別的内容が改定されない。この地位協定の改定になぜ日米両政府が着手しないのか、メディアはその理由や背景についてもっと追及してほしい。併せて日本国憲法を超越した米軍による日本支配の総本山である日米合同委員会の実態を解明してほしい。
 
 安倍政権は国民の意思よりも、自衛隊の世界展開など米国の意向に即して憲法改正を急いでいるように見える。日米安保条約はその前文に、両国が「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し」と記している。政府は憲法改正に着手する前に、国の根幹に関わるこの日米安保条約と日本国憲法との関係を、沖縄を含めた主権者である国民に対し、納得できるよう説明する責任と義務がある。
 
(毎日新聞2018年5月31日 朝刊)
 

 奇しくも今朝、出勤するホームで読んだ白井聡「国体論 菊と星条旗」(集英社新書)が「砂川事件判決のおぞましさ」と題された一節であった。

 1957年7月8日,当時の東京都北多摩郡砂川町において,アメリカ軍の立川基地を拡張するための測量に反対するデモ隊の一部が立入禁止の境界柵を破壊して基地内に侵入し,7名が「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反として起訴された。これは安保条約の合憲性が法廷で争われた初めてのケースであった。


 1959年3月 30日東京地方裁判所は被告人を無罪とし,日本に指揮権のない軍隊であっても,わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容することは,日本国憲法第9条2項前段の禁止する陸海空軍,その他の戦力に該当すると述べ,日米安全保障条約違憲の判決を下した (下級刑集1巻3号 776) 。つまり「日米安全保障条約は憲法違反である」とする結論である。

 ところがこの判決に日本政府は驚愕して上告、アメリカはこの判決の無効化に圧力をかけ結局、最高裁は「憲法九条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理する戦力のことであり、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、米軍の駐留は憲法や憲法前文の趣旨に反しない」 そして「日米安全保障条約のように高度な政治性を持つ条約については、きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかを司法が判断することはできない」として、前述の一審判決を完全否定し、破棄した。

 白井は書いている。「・・そして、この判決内容の意味も重い。日米安全保障条約に関わる法的紛争については、司法は憲法判断を回避するべきだという判例をつくってしまったからである。これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである」

 自国の憲法より他国との条約の方が上位にあるお目出度い国は滅多にないだろう。詭弁・歪曲・倒錯はなにもアベやアソウに始まったわけでない。もともとこの国はそうであったのにそうでないふりだけをしつづけてきて、ここにきてすべてがあらわになったというだけのことだ。

 東京宝塚劇場が敗戦後、米軍に接収されて兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) と改称されてから今日までずっと、この国はアメリカ合衆国51番目の州(51st state of the United States of America)であり続けている。 ハレルヤ!

2018.5.31

 
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 嶽本さま

 愉しい、密度の濃い時間でした。池田先生が指定された郡山のフジエダ・コーヒーが朝10時にしてすでに待ち客がいるほどの賑わいで、仕方なくわたしの愛車のジオスをフジエダ・コーヒーに置いたまま、わたしたちは先生の車でイオンモールのコメダ・コーヒーへ移動しました。それからの二時間はあっという間でした。先生も途中から興が乗ってきたのか、歴史認識についてのご自身の考えやそれが研究者の間でも少数派であることを滔々と述べられ、わたしはわたしでその間隙をぬってじぶんの言いたいことをいつ言ってやろうかと手ぐすねをひいているという、そんな時間の絶え間ない連続でした。肝心の誓得寺の「大日本紡績工場 過去帳」については、それらを取り巻く資料についてもひとつひとつ丁寧に目を通されて、「あなたはとてもよく調べてらっしゃる」とほめていただきましたが、「問題は、この過去帳にどのような価値を見出すのか。そしてあなたが調べたことを含めて、どのような形で世の中に出すのか。それにかかっているでしょう」と仰られました。また「本気で調べようと思ったら、それこそライフ・ワークの仕事になるでしょう」とも言われました。先に嶽本さんが聞かれたように、江戸期以降の過去帳については現状、新しすぎて子孫が辿れるなどの怖れがあるため、大学等の研究機関で預かることは難しい、ということでした。「祀る」という宗教的な要素を内包した過去帳の扱いとして、寺が無住になったり廃寺になったりした場合で考えられるのは、ひとつは檀家も散り散りになってしまったのであれば過去帳を供養をして処分をすることはある。もうひとつは本山か近隣のおなじ宗派の寺が預かるという道。「わたしの感覚では、この「大日本紡績工場 過去帳」は宗教的な過去帳というよりも、元の過去帳から抜粋して写しまとめた資料的なものと思うが、どちらにしろ現段階では、たとえ現在の住職が寄贈したいと言ったとしても大学が受け入れることは困難だろう。(誓得寺の属する)真宗興正派の本山に資料館(室)のようなものがあればそこに保管されるのもいいだろうが、宗派を越えて保管することはやはり難しい」 いま思い浮かぶ真宗興正派の知り合いはいないが、帰ってもういちど探してみましょう、と言ってくれました。「わたしのような研究者は資料を事実として扱うのでどうしても制約がある。調べたことで、そのまま公開できないものもたくさんある。嶽本さんのような人がいいのは、調べた事実をベースにして、自由に創作できることだ。あなたが個人として、たとえばこの過去帳にある九州からの、おそらく口減らしのために貧しい山村から働きに出された少女の故郷を訪ねて調べることは、一定の配慮があれば何も問題はない。けれども問題はさいしょに言ったように、それをどのような形でまとめて世の中に出すのか、ということです。たとえばあなたが言われるように、この朝鮮半島から働きに来た少女に焦点をあてるのもひとつの方法です。それによってこの「大日本紡績工場 過去帳」の価値がどこにあるか、が見えてくる」 だいたい、そのようなお話でした。もうひとつ、わたしが訊きたかった西ノ京の救癩施設・西山光明院については、驚いたことに池田先生の方が疾うに先回りをしていました。当時、薬師寺の副住職だった松久保秀胤氏から先生は、壮年期に西山光明院を管理する龍蔵寺の住職をしていた初代の管主・橋本凝胤氏が大正5年に亡くなった最後の癩患者である西山ナカの背中を風呂場で洗い流した話などを訊いたそうです。西山ナカの死後、西山光明院の建物一切は警察と保健省立会いの下に焼却されたといいます。池田先生は奈良の山村その他の地域で癩患者の家族に聞き取り調査をしたそうですが、「振り返ったときには、もう家に火をつけられていた」という話も聞いたそうです。火は穢れを払うためのもの。当時はそれが当たり前の感覚だったそうです。焼かれなくても家が真っ白になるほど消毒をされて結局、それ以上住むことができずに残された家族も離散していった。「おなじ救癩施設でも、奈良市の北山十八間戸は有名なのに、西ノ京の西山光明院はほとんど知られていませんよね」 そう問うと先生は、それは北山十八間戸が明治のはじめにすでに患者もなく建物だけが空家で残されていたのに対して、西山光明院には現実に患者がいたからです、と答えた。現実に患者がいたから西山光明院は警察と保健省立会いの下に焼却された。ああ、なるほど、とわたしは得心をしました。そして「一言でいうと西山光明院はリアルだったから燃やされたわけですね」と答えました。西山光明院について、わたしが大きな課題として残していた、長島愛生園書記の宮川量が記した「薬師寺に保管された」「(光明院の)本堂付仏像什器の一部」の行方について、池田先生も前述の松久保秀胤氏に依頼して薬師寺内をかなり探してもらったそうですが結局、見つからなかったそうです。あるいは什器は処分され、仏像などはどこかの末寺に移されたのか、とにかくいまとなってはもう何も分からない、ということでした。わたしは遠いむかしからの尋ね人が、とっくに亡くなっていて、その墓の前にいまじぶんが佇んでいるような、そんな感慨にとらわれたものです。まだまだたくさんのことを話しましたが、とても書ききれません。別れ際に「資料を送ってあげましょう」と言われ、わたしは昨夜PCで急ごしらえに作成した手製の名刺を先生に渡しました。また柳本の海軍飛行場に於ける朝鮮人強制連行のことなども詳しい人間がいるので紹介しましょう、と約束してくれました。とにかく「名誉教授」とはいえ横柄さのかけらもない物腰の柔らかな、そしてなかなかこちらに話をさせてくれない熱い紳士でした。なにより、とても多くのことを知ってらっしゃいます。わたしの知りたいことばかりを。これからもご助言を頂けたらありがたいですが、先生ご自身は昨年、半年をかけて大学の研究室を整理して、蔵書の多くは自宅に持ち帰ると奥様に叱られるので学生に譲ったり、学内のバザーにだしてしまったそうなので、わたしが先生の家の蔵にこもって整理をすることはどうやらなさそうです。夕方、わたしはまたもジップをさそって佐保川沿いの共同墓地へ行きました。「またやってきたよ、イサちゃん」なぞと墓石に声をかけて、まるであたらしい恋人ができたようです。そうして118年前に死んだ工女の無縁墓に掌を置いて、池田先生から言われたことをあれこれと思い返していました。

2018.6.3

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  腐ったこの国のニュースはこれらを報じない。これが世界の中心であり、報じられないことがこの世界の在り様だ。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」という辺見庸の言葉を改めて想起する。「思考が戦闘化してもいい」とは腐った世界に対してもっと暴力的になって構わないということだ。すべてぶち壊せということだ。怒りで身体中がふるえる。この怒りをどうしたらいい? 何だかんだと言いながら日常をぬくぬくと生きている己を含めたすべてを激しく憎悪する。

 
◆イスラエルのスナイパー、救急隊員を射殺する
 
6月1日、金曜、ガザ地区のハーン・ユーニス市のちかくでおこなわれた「偉大なる帰還行進」プロテストにおいて、救急隊員としてボランティアをしていた21歳のナース、ラザン・アルナジャーがイスラエル軍のスナイパーに標的にされ、胸を撃ち抜かれて殺害された。
 
非暴力の抗議運動において、123人のパレスチナ人が殺害されている。負傷者はすでに7000人以上。この数は各病院の治療能力をはるかに超えているために、負傷者は感染症を併発し、手足を失ってきた。
 
同日、国連の安全保障委員会では、クウェートが提出したパレスチナ人の安全を守りイスラエルを非難する決議案が審議にかけられたが、合衆国の拒否権によって棄却された。
 
直後に、合衆国が提出したイスラエルを守りハマスを非難する決議案が審議された。しかし、常任理事国のなかでこの決議案に賛同する国はひとつもなかった。
 
ラザンはこれまでの救急活動において催涙弾によって二度気絶し、負傷した人に駆けよろうとして転倒し、手首を骨折したことがあった。

 

◆「唯一の武器は白衣」 パレスチナ人看護師、狙撃され死亡
https://www.cnn.co.jp/amp/article/35120230.html

◆イスラエルのスナイパー、救急隊員を射殺する
https://www.facebook.com/japaneseinmiddleeast/videos/2048096195438638/

◆ラザンの白衣
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10215078237923070&set=a.10203686050365501.1073741857.1044595660&type=3&theater

◆The 21 year old medic killed on the Gaza border
https://www.facebook.com/…/vb.6622931938/10155967368476939/

◆The martyr Razan El-Najjar , she killed by the Israeli occupation forces yesterday in Gaza Strip Palestine
https://www.facebook.com/mohamm5/videos/1257524004383359/

2018.6.5

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 まだ娘が幼かった頃、アメリカが「テロとの闘い」を掲げてアフガンの無辜の人々を殺戮していた頃、失業中だったわたしはいかに世界がひどいかということを毎日のように語った。「あなたがアフガニスタンへ行きたかったら行ってきたらいいよ。わたしは紫乃と二人で待っているよ」とつれあいはまじめな顔で言った。いまから思えば、非現実的な与太話だと人は笑うだろう。「この白衣と神がわたしを守ってくれるからだいじょうぶ」 そう両親に言って苦しむ人々を助けに行った少女は、イスラエルのスナイパー(射撃手)の冷酷な餌食になった。白衣は無残にも彼女自身の赤い血に染まった。胸を撃たれて運ばれた診察台の上であごを突き出し、はあはあと最後の息をする彼女の動画を見た。このどうにも取り返しのつかない悲劇が拡散し、オーデンが記したような「そこかしこで/光のアイロニックな粒が/どこであろうと、正しき者たちがそのメッセージを取り交わ」し、世界中で人々が声をあげ、立ち上がり、止めることのできない巨大なうねりとなって地上を埋め尽くし、やがて無意味な争いが終わる。少女の墓には緑があふれ、世界中から人々が花を持ってやってくる。そしてみなが祈る。もう二度とこんな愚考は繰り返さない、あなたのような人は出さない、だからどうか安らかに眠って欲しい、と。そんなことはこの世界では起こらない。ぜったいに起こらない。ぜったいに。SNSは力のない人々の間にしか拡散しない。力のある人々は株価の変動を見ている。そしてレノンがかつて歌った「宗教やセックスやテレビ漬け」にされたその他大勢の“あわれな小作人ども(fucking peasants)”は通勤電車のつり革にぶらさがって Amazon の買い物リストを漁っている。あるいはスマホから流れてくる色とりどりの泡を両手で懸命にタップしている。だから世界は何も変わらない。わたしたちは忘れる。悲憤の声をあげたところで、やがては日常の定期券や買い物リストや録画したテレビ番組や仕事のうち合わせやあたらしい靴などにかき消されていく。「あなたがアフガニスタンへ行きたかったら行ってきたらいいよ。わたしは紫乃と二人で待っているよ」 そういうことは起きない。たとえわたしが妻子を残してパレスチナへ行ったとしても、餌食が一匹増えるだけだ。わたしの間抜けな頭蓋骨をやつらは最新式のブルドーザーで踏み潰しておしまい。この乖離。絶望的な乖離に、わたしたちの日常は耐えられる。21歳の看護師ラザン・アルナジャーはニュースの中の記事ですらない。文字の小さな小さなドットのひとつにもはや過ぎない。そのドットを土足で踏みにじりながら、わたしたちのまあまあ小マシな日常が成立している。わたしたちはそれに耐えられる。人気店のチーズケーキを頬張って笑うことができる。一方、ラザン・アルナジャーの世界は真っ暗だ。音のない暗闇。もはや粒子さえそよとも動かない、宇宙の熱的死のような完全な世界だ。さよならも届かない。ラザン・アルナジャー、まだまだあなたのような人が死んでいくだろう。世界にはあなたのような人が無数に生み出されるから、来年にはもうきっとたいていの人はあなたの名前すら口に出すこともないだろう。さようなら、さようなら。夜勤明けのおれは冷蔵庫の中のチーズケーキを頬張りながら笑って忘れるよ。

2018.6.6

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 はりついた顔。死はさいごのパフォーマンスではないか。新幹線代往復3万円を費やすだけの価値は充分にある。そんなふうに言うのは不謹慎か。ぼくらは死者の一世一代のパフォーマンスを見に行く。そしてだれにも終わりはきて、いつかは灰になるのだ、と知る。わたしたちはみな「この世界を通りすぎるだけの寄留者」なのだ、と。Yは幼稚園から高校の途中までいっしょだった。高校の途中というのは、わたしが高一のときに家が東京から茨城へ引っ越して、転校したからだ。その茨城北部の海岸沿いの家へ高校のときAと二人で遊びに来たと、Aは言うのだが記憶がない。電車好きな二人が常磐線の車両を愉しんだらしいのだが。そしてそれが、わたしがYに会ったおそらく最後だ。母親同士が“親友”だったのでわたしはその後、母からYの話(かれの家族の話)をときおり聞いた。Yと二歳下の弟が学校を出て働き出してから、「ずっと我慢をしてきた」Yの母は夫と離婚し、息子二人といっしょに綾瀬の公営団地へ移り住んだ。父親はその後、病気で亡くなった。Yの母は、母親たちのなかでいちばんの別嬪さんだった。わたしに大量の北杜夫の蔵書を呉れたのもYの母親だ(それはいま、わたしの娘が大事に読んでいる)。千葉の八柱にある都営霊園がいっしょだったので夫の墓参がてら、事故で死んだわたしの父の墓参を毎年二回、欠かさずに立ち寄って掃除をしてくれた。その彼女ももう何年もむかし、癌で亡くなった。それからは兄弟二人きりだ。今回のYの訃報は、母親つながりでYの弟からわたしの母へ知らされた。始発で郡山を出て、亀有に着いたのが9時過ぎ。告別式の会場は駅の南口からむかしながらの商店街を抜けた先、かつてヨーカドーがあった付近の葬祭ホールだった。式場でAと合流した。すでに40年以来で互いに顔の識別すら困難な弟が、兄の病状の経緯をまとめた紙を呉れた。2016年夏にめまいと手のしびれで受診し、右脳に悪性の腫瘍が発見された。すぐに頭開手術を受けるが、「腫瘍部が運動機能をつかさどる部分と干渉、腫瘍はほとんど切除できず」。その後、放射線治療や投薬、リハビリ等で転院をくりかえし、いったんは本人の希望で一人暮らしの自宅(千葉県松戸市)へもどり外来通院に切り替えるが、手のしびれ、「認知症患者のような異常行動」によって再入院。2017年7月に要支援1の認定、8月に介護付き有料老人ホームへ入居。11月に賃貸契約の自宅を解約して弟の家に住民票を移し、12月に有給休暇取得、休職の規定期間満了によって勤務先を自主退職。2018年5月21日、白血球数値低下による「状態不良」により緊急入院。23日、「比較的良い状態での最後の見舞い」。31日、「最後の会話。※寝ているが起こす。父親の命日前日の墓参の帰りであり、写真を見せると感謝の言葉。寒気がするとのこと」。6月5日、状態が悪化し医師から、「腫瘍の浸潤によるものか脳幹にむくみがみられる」説明があり、人工呼吸などの延命措置はとらない旨を希望、「翌朝まではもたない見込みであると示唆される」。そして6月6日、午前4時臨終。弟はこれらの経緯を親類縁者にも一切つたえず、最後まで兄弟二人だけの生活とした。最後にかれは記している。「ご多忙中にもかかわらずご列席してくださいまして、誠にありがとうございます。事前に罹患したことの連絡もせず、突然の報告となりましたことにつきまして、まず初めに深くお詫び申しあげます。臨終の際には、自分の目からは顕著な苦しみを感じているようには見えませんでした。病気の特性として、内臓系の癌にあるような痛みはなく、この点では不幸中の幸いであると考えております。入院先・通院先や生活の場としたホームにおきましても、スタッフの皆様へ面倒をおかけすることもなく、心中は不安だらけであったと察しますが、最後まで今まで通りの兄らしかったと思い、闘病生活を通じて、よく頑張ったと言ってやりたい心境です」  前の晩、つれあいが喪服一式を用意してポケットに数珠もいれてくれていたが、朝になって「喪服など着るものか」と思った。ふだんのグレーのスーツで、黒ネクタイも持たず、ただYにさよならを言いにいきたかった。弟が書いた闘病の経緯を、わたしは亀有をはなれる直前にひとり、親子連れで賑わう亀有公園のベンチに座って読んだ。わたしの知らない濃密な時間。最後の時間。もとい、高校以降の30年近いYの生き様もわたしはほとんど知らない。それでもYはYだ。小学校の全校集会で、優等生のAは東海道本線の駅名をすべて言ってのけてみなを驚嘆させた。続いてお立ち台にのぼったYは「電車の走り出す音をやります。ガッタン、ガッタン、ガッタン・・」と言い出してみなをちょっとだけ笑わせた。つまり、Yはそういうやつだった。中学になって陸上部に入ったけど、誰かに誘われて断れなかったんだと思う。グランドで「おい、Y。何々を買って来い」と使われているYを何度か見た。それでもやめずに練習に励んでいたのもかれらしい。中学になって、ぼくはビートルズやディランの音楽を聴き始めていたから、Yとは別のグループだった。でもみんな、Yのことを愛していた。愛されるキャラクターだったのだ。高校になって、なぜかもう一人のクラスメイトと三人で横須賀に戦艦三笠を見に行ったことがあったっけな。わたしがよく学校をさぼって、不忍池で太宰などを読んでいた頃だ。告別式の途中で入ってきて焼香だけ済ませてすぐに出て行った男がいた。「アサダ・ユウジだよ」とAがわたしに囁いた。「アサダ・ユウジって、あの陸上部の?」 「そう」 「ただの禿げ頭のくたびれたオッサンじゃないか!」  「みんなそうなるんだよ!」  小さな式場はぜんぶで20人ほど。ほとんどは福島から来たらしいYの両親の親戚関係で、友人はわたしとAだけだ。シンプルでじつにいい。祭壇に飾られたYの遺影も、やはりくたびれたオッサンだ。わたしの記憶の中のYとは異なる。ただ The Band のリチャード・マニュエルのようにニヤリと曲がった口元はむかしのYだった。病院で着るパジャマのような服を着て、右手が前に伸びているようにも見えるので、もしかしたら入院中に自撮りしたスマホ画像かも知れない。悪性の腫瘍であることは告知していなかったそうだが、薄々は分かっていただろう。どんな気持ちで撮ったのだろうかと、カメラを見つめるYの顔を見ているとつらくなってくる。出棺の前に、花を入れた。さよならを言いながら額に指を当てたが、硬く、冷たかった。もうここにはYはいないのだろう。ここにあるのはただの抜け殻だ。それでもこの抜け殻は、わたしの知っている小中学生の頃のY、わたしの知らないその後のYの人生を蓄積している。たくさんの時間を溜め込んでいるはずなのに、やけにちいさく縮んで見える。花屋が色花を切っている間、待っていた控えのスペースの窓際にはYが撮ったらしい電車や客船の写真、箱入の「旧国鉄色」などと書かれたゲージモデルがいくつか置いてあって、ずっと好きだったんだなあと言いながらAと二人で眺めていた。それから出棺を見送って、亀有駅の方へもどり、老舗の蕎麦屋でAと昼食を済ませてから、ケーキを買ってAの家へ寄った。3歳の腕白小僧と遊んでいたらけっこう疲れてしまい、ひさしぶりの東京だけれど、どこにも寄らずにそのまま東京駅から夕方の新幹線に乗って帰途についた。なんせ、今朝は4時起きだ。そうして夜9時頃に帰って、元紡績工場跡地の母親の団地に寄って香典返しなどを渡し、家に帰って遅い夕飯を食べていたら東京発大阪行きの新幹線車内で刃物を持った男の無差別殺人のニュースだ。滅多刺しにされて亡くなったのは30代の大阪の会社員とも聞くが、わずかな偶然でわたしであったとしてもおかしくはなかった。だれにも終わりが来て、みないつかは灰になる。考えてみたら、これまで死に顔を見てきたのはじぶんの親の代以上の年寄りばかりだったよ。同級生の死は、Yがはじめてだ。だれもがみな、いつか灰になることをかれが思い出させてくれた。それがYがぼくに見せてくれた最後のパフォーマンスだ。はりついた顔は二度と剥がれない。いまごろはもう灰になってしまったYよ、この世界ではさようなら、だ。

2018.6.10

 

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 週末が仕事が入ったため、今日は代休。かねてから娘とねらっていた市内国道沿いのボーリング場駐車場に設営されているサーカスに行ってきた。新聞屋でもらった自由席券は500円。ところがじっさいに座っていたのは正面最前列のBOX席でプラス1500円の指定席で計2千円。しかし、この2千円は充分に価値があった。平日とあって500円の自由席は8割方埋まっているが、他のSS席、S席、BOX席はそれぞれ数名づつ、ぜんぶで百名弱くらいだろうか。でもこれから行くみなさん。ぜったいBOX席だよ、けちけちすんな。臨場感がぜんぜん違うから。

 演目は吊るしたロープにぶら下がる曲芸、倒立、ピエロ、火を吹く男、空中ブランコ、大車輪、バイクショーなどなど、古典的なものばかりで新味はないが、やはり体を張った芸は新味などなくても手に汗握り、ひきこまれる。ニンゲンはやっぱり脳味噌だけじゃなくて、身体がいっしょなんだよな。向こうも命張ってるんだ。こっちも命張ったつもりで見るんだ。シルク・ド・ソレイユがいくら進化しても、こうした古典的なショーがすたれることはないだろう。ショーマンたちはロシア、メキシコ、ブラジルなどの混成部隊。一時間半の演目、たっぷり愉しませてもらった。

 サーカス、最高!

2018.6.14

 
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 とつぜんの地震である。もとい、突然でない災害などない。親しかった人の死のしらせも、たいていは思いがけずにやってくる。通勤電車の車両内で四時間近く閉じ込められ、降りたことのない駅のホームに放り出され、見知らぬ町から見覚えのある町へとひたすらさまよいあるき、また乗ったことのない路線の電車に乗って、この世の果てのような暗闇を覗きながら、夜遅くにやっと自宅まで帰りついた。たのしかった。わたしは非日常が好きだ。サーカスもそうだし、祭りもそうだし、台風一過の荒れ狂った空模様がふしぎな静謐さでうつくしくクリアに停止しているさまも好きだ。とくに非日常が思いもかけず、唐突に、ときには暴力的に日常を食い破り、侵入してくる瞬間がわくわくして興奮する。それはわたしが「日常」というものを憎んでいるからかも知れないが、とにかく誤解を怖れずに正直に告白すれば、あのジャンボジェット機がツインタワーに突っ込んだ9.11のときも、そして阪神淡路大震災で高速道路が横倒しになっているのをテレビの画面で見たときも、胸がふるえた。やっとのことで運行している地下鉄の南端にかじりついて天王寺へ出てきたら、混乱する改札の前で若いアベックが、どうする? とりあえず梅田まで行こうか、どうせヒマだし、と語り合っていた。若きかれら彼女らを嗤うことなかれ。われわれも所詮はこのかれら彼女らとおなじように既知の「日常」にしがみつき、目の前の「非日常」を見ない。戦争もきっとおなじように始まったんだろう、と思う。若いアベックが、どうする? とりあえず梅田まで行こうか、どうせヒマだし、と語り合っていた最中に、かれらとおなじ田舎っぺの兵隊たちは朝鮮で中国でシベリアで老人を突き刺し、女を犯し、子どもを焼き殺していた。わたしたちは「日常」にしがみつき、目の前の「非日常」を見ないし信じない。「日常」はそれほどふてぶてしく、冷酷で、強固だ。そうして「日常」に背中を押され、震源に近い会社にあるいてでもはってでも自転車に乗ってでもたどり着いて、もっとでかい余震に飲み込まれて見事さよならするのだよ。危険を察知して常ならぬ形相でソファーの下で唸り続ける犬猫の方が生物としてはずっとマシだ。死もまたとつぜんやってくる「非日常」で、見慣れた「日常」を食い破る。あの瞬間、手触り、書割の空をナイフで切り裂いたようなつめたい感覚も、わたしは好きだ。ほら、おれたちの「日常」なんてこんなにうすっぺらなものだったぜと笑い飛ばすような、あののっぴきならぬ厳粛さがたのしい。思いがけない「非日常」が「日常」を食い破るとき、おれはまともな人間のままで生き延びたいと思っているよ。

2018.6.20

 
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 草さえそよともなびかない。日はまるで熱い霧のようにふりつもる。石も土もじっとこらえている。青々としげった草だけが陽炎のように一瞬ゆらいで、人には見えない瘴気がたちあがる。どこまでもどこまでもはてしなくつづく、この奇怪な磐座のような大小不揃いの墓石の散在のなかをさまよいあるいているうちに、わたしはじぶんが何者であるかをわすれる。熱の放射によろめき、時の堆積にたえかねて、おもわず足元の黒ずんだほとけを蹴とばしそうになってすわりこむ。草いきれのむこうにだれかの熱い吐息がある。堺の街中にある智禅寺を訪ねたのは十時頃だった。熊野、と書いて「ゆや」と読む町だ。かつて河口慧海とも親しく交わり仏教にも造詣が深かったという郡山の数学教師・島村清吉は大正15年、この寺に葬られた。もし子孫がいるのなら、郡山のある寺にもかれを偲ぶ生徒たちが建てた墓がいま無縁仏になりかけていますよ、と伝えたかったのだが、境内の数少ない墓地には「島村」の名は見つからなかった。母屋の呼び鈴を押した。高齢の住職は不在だったが、娘さんらしい女性が親切に話を聞いてくれ、当時の過去帳まで見てくれたが名前はない。昭和20年の空襲で堺の中心部だったこのあたりはほとんど焼けたそうだ。それから区画整理や道路の拡張などで無縁仏80体ほどを、南の鉢ヶ峰墓地にうつしたという。あるいはそこに眠っているかも知れない。ああ、すでに「島村先生」はその古里ですら無縁仏となっていた。わずか百年の間に。かれが生きていた明治の時代にはじまったこの国の紡績産業の現場では、かれが死ぬる頃にはすでに多くの朝鮮やこの国の被差別民、そして遠方の貧しい山村から働きに来たうら若き女工たちがぼたぼたと腐った果実のように落ちて草葉の陰に臥したのだ。持参した「島村清吉」に関する資料と連絡先を置いて、何か分かったらお願いしますとつたえて、南海本線の堺駅まであるいていった。ザビエル公園の裏手のUR団地の角に「明治3年、日本で二番目に建てられた」という堺紡績所跡の案内板を見つけて、それから南海本線で岸和田のひとつ先、蛸地蔵で降りた。そこから20〜30分、海の方へあるいていけばかつての寺田紡績工場の当時の赤煉瓦がそのまま、現在はユニチカ(旧大日本紡績株式会社)の子会社である合成樹脂加工会社の工場として使われている。いまはなき郡山紡績工場のたたずまいを思い描くために、その赤煉瓦を見にきたのだ。ぐるりと工場の周囲を一周してから、そのまま近くをとおる紀州街道に沿って春木をめざした。かつての商家が立ち並ぶ趣きのある旧道は岸和田城のはたを通り、やがて、かつて朝鮮人集落の町だったという一角をぬけて、そうしてたどりついたのが下野町にある岸和田市管理の共同墓地だ。入口わきに紀州日高出身の徳本上人筆による名号塔がそびえているのを横目にすぎて、それからかれこれ一時間、広大な草葉の陰を徘徊した。一万基は優にあるだろう大小さまざまな墓石の中から、そしてついに見つけ出した。青味をおびた小ぶりな自然石に「咸月」と刻まれた、紡績工場で亡くなった朝鮮人女工のものといわれる無線仏を。「咸」は朝鮮半島の咸鏡道を指すのではないかとも言うが、朝鮮人の「姓」のひとつでもあるらしい。「月」は朝鮮半島でよく女性にあてられるそうだ。墓石を見つけてから、そういえば向こうの墓地のはしっこにきれいな野花が咲いていたと取りにいって、雨水がたまっていた花立に挿して、水筒のハーブ茶を墓石にかけた。それからしばらく、放心したようにそこにすわっていた。おまえはどうしてこんな見も知らぬ異国の女工の墓なんぞを探しにきたのか。そう誰かに問われても、わたしにもよく分からない。ただ、来たくて仕方がなかった。そして百年前、多くの彼女たちが歩いただろう土地の上をじっさいにあるいてみたかった。なにも考えずに、汗をぬぐい、足をひきずり、わが身に写実したかった。「海を見に行こうか」 ふと思いついて、そう墓にむかって言っていた。そうだ、海が見たい。金賛汀氏の「朝鮮人女工のうた」には、過酷な環境の中で月に二回の休みの日に、「二銭か三銭ぐらいのお金で」「野菜の揚物などを二つ三つ買って」、それを持って浜辺に行ったという思い出話が出てくる。彼女たちが見た海を見たい。そう思って「岸和田渡船」の看板のある海岸沿いまで歩いていったけれど、当時の景色とはきっとすっかり変わってしまったのだろう。埋立地の工場や倉庫群に囲まれたその先に、きらりと白い海面が光った。それは何だかとても遠く感じた。遠い、遠い海だった。湾岸沿いの味気のない広いバイパスからふたたび春木の住宅街の路地にもどって、最後に春木中学校にたどりついたのはもう3時をすぎていた。半日、昼飯を食うのも忘れてあるきまわっていた。ここはかつて岸和田紡績の春木工場の跡地で、当時、紡績工場を囲っていた赤煉瓦の塀がいまも一部、学校の塀としてそのまま残されている。現在の校舎のあたりがかつて工女たちの寄宿舎があった場所だという。その赤煉瓦塀をぐるりと見てから、近くの八幡山公園の木陰で小休止する。公園に隣接する弥栄(やえい)神社に寄った。「玄界灘を渡った女性信徒たちの物語 岸和田紡績・朝鮮人女工・春木樽井教会」によるとこの弥栄神社のわきに1941年まで伝染病の隔離病舎、避病院があり、専用の焼き場と高い煙突があったという。労働環境の劣悪な紡績工場ではコレラやチフスなどの伝染病が多発した。最盛期で春木工場に働いていた朝鮮人女工の数は200名ともいう。多くの女工たちが故郷へ帰ることもなく亡くなり、焼かれ、身寄りのない無縁仏として共同墓地へ葬られた。そのうちのひとつがあの「咸月」と刻まれた無縁墓だろう。それ以外の多くの女工たちは、忘れ去られ、路傍の石くれとなった。

2018.7.2

 
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 はるさんとの付き合いはもう何年になるのだろう。娘が小さかった頃からだから、もう十年はとっくに超えている。はるさんの絵を一枚だけ買ったのは、あれはそんな頃、わが家がいまよりもっと貧しかった時代だ。不思議なもので、ひとは豊かで余裕があるから絵を買うわけじゃないんだな。明日のパンさえ買えないようなときでも、いや、そういうときだからこそなおさら人の心は絵や音楽や詩を欲求する。たぶんあのとき、画家は大出血のサービスで値引きをしてくれて、さらに分割払いを受けてくれた。いまその絵は、わが家のリビングにあって、一億円の値がつくのを待っている。いまもその絵を見るとあの頃、じぶんがなにをこの世界に対して望んでいたか、なにを守りたかったのか、思い出せる。じぶんが変わってしまっても忘れてしまっても、絵はそれをずっと保持しているのだ。そういうことはコンピュータでは、できない。はるさんの絵を、梅田の阪急へ見に行った。昼休みの時間にこっそりと。このごろの画家の絵について、わが家の娘は「ちょっと、変わってきたよね」とのたまう。「前は茶色い感じで、こう、四角い枠の中にぎちぎちって押し込められた感じだったのが、なんか明るくなって、ふわふわっとしてきたんだよね。わたしはいまの方が好き」  きっとそれは青の「ディキシー」や「旅人」、「夢の続き」などをさしているのだろう。あるいは朱と黄金の「羊飼い」や「牛飼い」や「親子」などかも知れない。わたしも娘の意見とほぼおんなじだ。前者の青の作品はどこか突き抜けた軽やかさがあって、飄々としている。後者の朱と黄金は日常の何気ない風景の中に画家が見つけた至宝だ。尊厳といとおしさに溢れている。そのふたつの色の作品に囲まれて、祝い人やたためる翼を持った茶色のまれびとたちは、以前よりいっそ闊達にわが道をたたずんでいる。そんな風景が、居心地がよかった。絵も音楽も詩も、魂のパンだ。

2018.7.3

 
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 立つ。わたしはなぜ立つのだろう。トンネル工事の朝鮮人労働者が鳶口を頭に突き刺されたまま打ち棄てられた海沿いの町の暗闇に立つ。グアムのチャモロの村人たちが日本軍に殺され埋められた青空の下の尾根道に立つ。「極楽には戦争はない」とより良い世の中を願ったばかりに国家によって屠られた僧侶の墓の前に立つ。異国の危険な砕石現場で汗を流していた朝鮮人家族の生活があった山中の飯場跡に立つ。そしてかつてハンセン病者が暮らし祈りうめいていた救癩施設跡をもとめてあるき、名も知れぬ紡績工女の無縁仏をさがして炎天下の墓地をさまよいあるく。

 いつかの金曜。 はからずも大雨の影響で、仕事を終えた帰途、いつものJRではなく近鉄のホームに降り立った。ちょうど数日前に、16歳の少女がみずからの死をスマホで生中継した場所だ。スマホの画面にむかって最後のメッセージを残したあと、スマホをホームに据えて、やってきた特急列車の前に身を投げたのだった。他の降車客たちが通りすぎるのを待って一人、夜のホームに立ちつくした。 それほど年齢も離れていない娘は彼女の行為を、復讐だ、と言った。残された者たち、残されるこの世界に対するさいごの復讐なのだ、と。「わたしなら、そうするね」。  何が見えただろう。飛び散った肉片すらも残されていない。まるで何事もなかったかのような世界のたたずまい。突出した者の痕跡を、世界はまるで消しゴムのように消し去ろうと目論む。

 またある日の昼には、国家によって縊られたオウム信徒の最後の地である拘置所の前に立っていた。梅雨が明けたばかりの頭上の抜けるような夏空をジャンボジェット機が巨大な古代生物のように滑空していった。かれらの教団が世間を騒がせていた頃、わたしはかれに似ているとよく言われたものだ。250ccの単車とほとんど身ひとつで関西へながれついた頃、ふらりと訪ねてきたわたしを明日香村の藍染織館の主人ははじめ、オウムの残党だと思っていたらしい。じっさい、そんなようなものだった。彼我の差異は薄い細胞の一膜にも等しい。塀の向こうの名も知れぬ建物を見上げ、かれもおんなじこの大阪の空を見上げたか。縊られる寸前、どんな思いが走馬灯のように駆け巡ったか。嗚咽のひとつも漏れたか。獣のような絶叫を残したか。わが身に思い重ねた。

 暴力を外へ向ける者も、内に向ける者も、世界を否定するという意味ではおなじではないか。そのなだれのような崩壊は、いつものっぴきならぬ始原の場所から発生する。かつて作家の宮内勝典はオウムの事件を評して「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」と記した。わたしにはもう、それだけで充分だ。「この国には金と快楽以外に何があるんだ?」と叫んだというかれらは、たしかに道を踏み誤った。だが「一歩」を踏み出すことすらしない者たちが、果たしてかれらを嗤い、断罪できるだろうか。世界に対してノーと叫んだかれらは、麻原という巨大なカオスに呑み込まれた。何を言われたっていいんだよ。どうせ一度しかない人生だ。おれはこの世界に何の違和感も感じないで飄々と生きている多数の人畜無害の「善人」たちよりも、トコロテンのように押し出されたとりかえしのつかないおまえたちのこころの闇を愛するよ。

 イエスが殺されたのも、信長が一向宗徒たちを皆殺しにしたのも、かつてこの国でキリシタンが根絶やしにされたのも、権力の側が宗教の持つ反社会的・反現世的な力を怖れたからだ。ほんとうの宗教というものは、じつはそうした「狂気」を内包している。日常世界を呑み込み、元の混沌に帰せしめる津波のような波動だ。そうした内ポケットに隠し持ったナイフのような「狂気」をとっくに放棄してしまったこの国の既成の宗教などは、わたしに言わせれば所詮は腑抜けの集団にすぎない。だから「受け皿」にならなかったんだよ。この国のいわゆる宗教家たちはそのことについて一抹の危機感でも感じたか。何も思っていないだろうな。だからあんたらは駄目なんだよ。もう死んでるんだ。そのことひとつをとっても、麻原という男に負けた、ということだ。

 先の毎日新聞夕刊でマルクス・ガブリエルなるドイの哲学者が、この国のスマホを抗うつ剤に喩えていたのが面白かった。「地下鉄でもどこでも指先を動かすのは、内省から逃げている。精神が自分を食い尽くそうとするのを必死に防いでいる」(「広がる「21世紀型ファシズム」2018年7月6日) 特急電車に身を投げた少女は、まさにその「抗うつ剤」の画面にみずからの自死を中継させたのだ。それが彼女の、この世界に対する命を賭した最後の復讐で、でもそれすらも世界は「抗うつ剤」の画面の中に消費してしまう。乾いたホームには花束の一輪もなかった。オウムの事件もおなじだ。この国には生きる意味も真のよろこびも見出せない。そう思い悩み行き場をなくした若者たちは鬼子となって母(社会)を食らう。かれらを鬼子にしたのは、おれたちだよ。受け皿を用意してやれなかったおれたちなんだ。そうしてこの国はなぜ、かれらがそのような場所に追いつめられてしまったのかをろくに考えもせず、ただ殺人に対する刑の執行という表層だけの手続きを済ませて、完全にかれらを抹殺してしまう。みずから分泌したものを切り落とす。かれらはこの世界によって「二度、殺される」。

 立つ。なんどでも立つ。記憶を掘り起こすように、閉ざされた扉を無理やりこじ開けるかのように。かつて「かれら」がたしかに呼吸し、希求し、空を見上げ、汗をぬぐって詠嘆したその場所で、いまは深い草いきれであってもその向こうに見えない気配を感じ、生温かい吐息を感じるために立つ。難しいことは考えない。頭は裏切るから駄目だ。容赦ない日の光や、唇が乾いて割れるような寒さや、じっとりと血のように生臭い汗を感じ、この肉体に沁み込ませるためにわたしは立つのだろう。なにもかんがえない。ことばは臓腑から、骨から、やがてじわじわと滲み出してくる。世界は鬼子をけっして認めない。否定し、抹殺し、漂白する。洗濯剤のCMのような明るい風景からそして、鬼子は幾度でも再生産されるだろう。わたしたちはまたいつか、みずからが産み落とした鬼子たちによって殺されるのだ。

2018.7.11

 

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 大和郡山の現在の城下町は豊臣秀長(秀吉の弟)の時代に整備され、ほぼ現在の形を整えたそうで、「奈良町」「本町」「今井町」「柳町」「堺町」「茶町」「豆腐町」「材木町」「雑穀町」「綿町」「紺屋町」「魚塩町」「藺町」などの中心となるエリアを箱本十三町と称して町人たちによる自治の制度があったという。わが家もこの十三町に入っている。さて、このなかに「奈良町」があるのだが、あれ? と思われた方はそこそこの奈良通か。そう。ここはもともと現在の奈良市の奈良町から移住してきた人たちが住んだから「奈良町」という。同じように「今井町」も橿原の今井町から移住してきた人たちのエリアである。

 この「奈良町」を奈良市のそれと勘違いして、ほぼ毎週のように国外からの観光客の人たちがうろうろしている。今日も夕方、ジップの散歩でJRの駅からかつての紡績工場へ至る道あたりを歩いていたら、アジア系の若い男性2名に道を訊かれたのだが、いつものパターンでスマホのグーグルマップを手にして「ならまちはどこですか?」  ああ、きみたちもまたか! 問題は奈良市の「ならまち」はエリアの総称であって、わが大和郡山の「奈良町」は正式な町名であることに拠る。ちなみにグーグル検索で「naramachi」と英語表記で入れて検索してみて欲しい。

すべての1位 ◆Nara Travel: Naramachi - Japan guide
https://www.japan-guide.com/e/e4108.html

すべての2位 ◆ならまち、そぞろ歩き | 奈良市観光協会サイト
https://narashikanko.or.jp/feature/naramachi/

画像検索の場合
https://www.google.co.jp/search

 すべて奈良市の「ならまち」がヒットするわけだが、いちばん上のMAP部分に出てくる地図は大和郡山市の「奈良町」である。
https://www.google.co.jp/search

 国外の観光客はこの地図を頼りに、ここ大和郡山のさびれた空家の並ぶ「奈良町」へ迷い込んでくるのだった。

 今日の二人組みは訊くと、日本語が達者な一人は西宮に暮らす日本の大学生に通っている中国人で、もう一人は日本語がまったく喋れないようだから日本へ遊びにきたのだろうか。ひとしきり「ならまち」と「奈良町」の違いを説明して、今日はどこを見てきたのかと問えば、「東大寺や奈良公園を見てから、(JRで)ここへ来た」と言う。「そのまま、南へ歩いていったらよかったのに!」 それでもこの狭い路地は何百年もむかしからおなじ町割りだと聞くと、「ここはここで良い雰囲気だ」とほめてくれるので、せっかくだからと、「何にもないけど、この次の筋にむかしの造り酒屋の旧家がそのまま残っているし、あっちの大通りに出たら昔の火消しの物見櫓を復元したものがある。それからこの筋をずっと南へ行ったらつきあたりの神社で今日はお祭りをしていて、かき氷とか焼餅とかお店も出ているから寄って行ったらどうか」とすすめたら、とても喜んでくれて、「間違って来たけれど、ここはここで面白そうだ」と言いながら、なんども丁寧にお礼を言って物見櫓の方へ歩いていった。ジップの散歩の最中でなければ、車で「ならまち」まで案内してもよかったなあ、と思ったり。

 それにしてもこのグーグルマップは何とかならないものか。 

2018.7.16

 

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 今日は自転車で県立図書館。自転車で走りたくて堪らないのだけど、図書館の往復だけで溶けてしまいそうだ。

 本日のメインは明治初期の郡山藩士に関する公文書。「 明治二十年 貧民施与願綴」は貧困にあえぐかつての藩士たちに支援して欲しいと訴える柳澤元藩主の嘆願書。紡績工場の設立が明治26年で、元藩主も資金援助をしているので、やはり当初は相当数の旧藩士の子女が工女として雇用されたのは間違いない。無縁墓の「宮本イサ」もそのひとりだったかも知れない。ついで「 明治四年 士族卒禄高人名其他」はその藩士たちの名簿。墨書なんで癖もあったりでかなり見づらいが、「宮本」らしい名字はいくつかあった。けれども家族の名前までは書いていないので、そのうちの誰かが「イサ」の身内の者であったかどうかは推測の域を出ない。かなり分厚い綴りを一枚づつ丹念に見ていった。

 もうひとつは幼年期に大和郡山に暮らしていたという詩人の小野十三郎。

「そのことは、小野にとっての第二の故郷ともいうべき大和の自然が「すべて、そこから伝わってくるおそろしい倦怠感で、わたしの意気を沮喪させる以外のなにものでもなかった」と回想されている点からも、よくうかがえる。たとえば「郡山城趾の夜桜のながめも、梅雨時に一日ふりしきる雨に煙っている金魚池の風景も、わたしにはなにかしら暗いやりきれない記憶としてしか残っていない」。「郡山からのぞくと、頂がややコニーデ状をなしている富士山の亡霊みたいな山」にいたっては「ためいきが出るほど退屈したことをおぼえている」。反対に、小野が大和の自然のなかで「自由になり、開放的な気分になった」と感じるのは、その穏やかで風光明媚な自然によってではなく、あくまでも「国鉄の大和郡山駅のすぐ近くにある大日本紡績の工場」構内に咲く「真黒な菊」と出会った瞬間だけである。「その時間には異常に明るい光があたっている」。」

 この自伝的エッセイが収められた「奇妙な本棚 詩についての自伝的考察 」もひとつの目的だったのだが、なんと書庫の機械のトラブルで閉架の本が出せず、いつ復旧するか分からないというから途中で帰ってきた。かれは明治の終わり頃の紡績工場を間近に見ているので、何か書き残しているかも知れない。郡山城跡にかれの「ぼうせきの煙突」の詩碑がある。

たそがれの國原に

ただ一本の煙突がそびえてゐる。

大和郡山の紡績工場の煙突である。

ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが

私は忘れることあ出來ない。

明治も終りの夏の夜である。

七十六年の週期をもつハリー彗星の渦が

涼しくあの紡績の裾齒状屋根の

紺青の空に光つてゐたのを。


 最後は「平城京羅城門跡発掘調査報告」 ここに「宮元イサ」の無縁仏のある野垣内の共同墓地である「らいせい墓地」について短い記述がある。「ここ、佐保川にかかる橋は「来世橋」とよばれている。また、第三次発掘地である金魚池の南西には市道をへだてて、「らいせい墓」とよぶ墓地がある。この墓地の一角には、かつては小さな草堂があり、周囲に土塀がめぐっていたといわれるが、現在はない。墓石は年紀のあるものでは元禄年間のものが一番古い」  「らいせい」は羅城門の「らじょう」が時を経て訛っていったもの、というのが定説らしい。

 まだつくり出したばかりだが、エクセルで簡単な年表を作成した。こうして表にしてみると、宮本イサが亡くなった明治33年は郡山紡績の経営が悪化し、世界的な状況下で在庫がだぶついたために操業時間短縮に踏み切った、まさに社長交代の前年だし、誓得寺にさいしょの「亡工手之碑」が建てられた明治40年はついに摂津紡績に吸収合併されたその年であることが分かって、いろいろと面白い。

◆小野十三郎と「抵抗の科学」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4111/onob.htm

◆近鉄電車と生駒山。新緑の大和郡山で川崎彰彦と小野十三郎をおもう。
http://d.hatena.ne.jp/foujita/20120619/p1

2018.7.16

 

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 薬園神社、自治会長お務めデビュー。

当日、18時集合だったので自宅からぶらぶらと歩いていって5分前には着いた。境内でFB友だちで同じ市内に住むのAraiさんから声をかけられた。郷土史のことでいろいろと意見交換をしていたが、じつは直接お会いするのははじめて。市内で観光ボランティアもされているAraiさんは本日、氏子総代のNさんと共にやはり今日がお祭りの八幡神社から移動してきたのだという。いっしょに境内奥の集会場へ入って町名を伝え、教えられて半被や団扇の入った町名が書かれた袋を取ると、網にかかった獲物に近づく蜘蛛のように宮司さんがやってきて捕獲されてしまいました。学校の先生を退職して宮司を継いだばかりというからわたしよりは年上だろう。小柄で人当たりがよさそうな、のび太くんがそのまま白髪交じりになったような感じのひと。「今回の寄付金額があまりに変わったもので」と言うので、先日寄付を持参した際にいらしたお婆さん(宮司氏の母親と思う)には説明させてもらったのですがと前置きをして、町内の収入の8割が寄付で内6割をこの薬園神社が占めていたこと、その一方で町内の掲示板は古くなってぼろぼろのまま放置され、消火器は10年前のまま、かつてはあった町内の親睦行事なども予算がなくて出来ない状況であること、これはあまりに酷いので総会及び役員会でみなの総意の下、適正な割合(3割内)に是正する事にしたこと等々を説明した。宮司氏は聞くだけは聞いてくれて「いろいろ事情はあって大変でしょう」と言いながらも、「わたしたちも決して利益を出しているわけじゃない、ぎりぎりなんです。お祭りもお金がかかるもので、このままではお祭りができなくなってしまう。何とかまた考えて頂きたい」と仰る。あとはおなじ繰り返し。町内会が破綻しても神社のお祭りが大事ということらしい。わたしの中ではもう論争をする気は失せているので、まあまあ、がんばります、みたいなテキトー煙幕で幕引きを計ったのであった。(払っちまえばこっちのもんだ) 気がついたらAraiさんは遠慮したのだろう、いなくなっていた。やがて各自治会長も揃って、氏子総代のNさん、ついで宮司氏が挨拶に立ち、この40年間で最高の気温らしいのでみなさ注意してもらって、などと話して食事の席になった。ビール瓶も並んでいるが、大抵の人はみずからお茶を注いでいる。食事は升目に区切られたやや小洒落た仕出し弁当でそこそこ美味しい。うちの町内でも頼もうかと思って会社名をスマホで撮影したりする。はじめての人はこの末席に集まってきたようで、みなあまり会話はない。たまたま隣に自治連合の役をしていて先日相談に行った隣町のMさんが座っていたので「この間はどうも」と挨拶をして、「この半被といっしょに入っているのは、これは鉢巻ですかね?」と訊いたところ、Mさんは表情を変えず「それは半被を締める紐だよ」と返答。それで会話も終わってしまった。テーブルの上座の方は古参の狸たちで、お酒も入り、それなりに会話も弾んでいる。宮司さんはその間をビール瓶を持って回り、狸の一人の肩を揉んだりして、営業活動に忙しそうだ。そこへ市内の一見ヤンキー兄ちゃん風看板でよく見かける自民党系の市議会議員が腰を落とし手をすりすりやってきたものだから、ああこれ以上はちょっと堪え難い、外へ出てAraiさんと話をしてこようかと境内を探したけれど、もう帰ってしまったようだった。すでに参道の両側には色とりどりの出店が並び、盛況だ。本殿から集会場の前にかけて、すでに輪投げを待つ親子連れが列をなしている。町内会経由で神社から配られた券と引き換えに輪が数本もらえる。ブルーシートを敷いた地面にビール瓶が立ち並び、そのビール瓶に「スナック菓子」「パン」「昆布飴」「うどん」「日用品」などと書かれているのが景品だ。目玉は「スイカ」(一玉)と「お米」(5キロ)。目玉以外の景品はみな地元の企業からの寄付の自社製品である。わたしは景品を渡す係になった。それぞれの景品名が書かれた紙を持ってやってきた親子に、紙と引き換えに景品を渡す。(他に輪投げ自体の係、現金を金券に換える係、駐輪係などがあるが、町によって従来から割り振られている) 「スナック菓子」と「パン」(菓子パン)はやっぱり人気だ。幾種類かの中から選ぶのだが、なかなか選べないで迷っている子どもや親もいて、見ていて面白い。すべてのパンをひとつづつ手に持って重さを量っている中学生の子もいた。いちばん重量があるのを食べたいらしい。新参もののわたしは、立ち位置的に自然といちばん奥の「日用品」担当となった。「日用品」は人気がない。置かれているのは水色のプラスティックのコップ、企業ロゴの入った手ぬぐい、プラスティックの鉢、ピンク・水色・白のプラスティックの洗面桶、そしてプラスティックの積み重ね式書類ケース、である。毎年おなじもののようで、「また、これか」という溜息も何度か聞いた。確かに魅力があるとは言い難い。きょうび百均でももう少しマシなものを売っている。いわば「どれも大して欲しくないものから選ばなければいけない」究極の選択である。「お母さんは手ぬぐいがいちばん使えていいんだけどなー」 「こんな会社名の入った手ぬぐい、いや」 そうして女の子は積み重ね式書類ケースを手に取る。「それはひとつじゃ、意味がないよ」 「これがいいの!」 わたしはもう苦笑するしかない。それでも何とかこの欲望指数ゼロ度に近い景品たちを少しでも良く見せようと、例えば洗面桶を選びやすいように色別にきれいに分けて、なおかついちばん上の桶を斜めに起して置いて見栄えをよくしたりとか、いじましい努力を続けていたのであった。やがて本日分のスナック菓子とパンがな底をつき、どうやら輪投げが終了したようだ。パンの券と実数がどうも合わなかったようで後半、パンがもうないのにパンの券を持ってきた人に「すみません〜 パンがもうなくなっちゃったんんで、他のもので」とお願いする。はじめパンが底をついたとき「どうしますか?」と近くの古狸に訊いたところ、その隣町の狸は「どうするんだろうなあ〜」と歌でも歌うように闇の中へ消えて行ったのだった。あれが自治会長かね。どうしようもない狸だ。そんな状況になっても、わが愛する日用品は相変わらず人気がない。殆どの人は仕方なくうどんや昆布飴を持っていってくれるのだが一人だけ、パンの券を5枚持ってやってきた小さな男の子を連れたお母さんがどうしても納得してくれず、最後はのび太くんの宮司氏が自宅の方からおそらく明日の分で用意していたパンを持ってきて渡し、子どもの頭を撫でながら「これに懲りず、また明日も来てね〜」と懸命のクレーム処理を続けていた。最後までむすっと不機嫌そうな顔を続けていたその女性をよくよく見れば、わが家の隣家のOさんの娘さんだった。わたしたちの仕事が終わったのを見て、屋台のおばちゃんがカキ氷をもってきてくれた。風をほとんど通さない半被がクソ暑いので、その冷たいカキ氷のおいしかったこと。紙コップを捨てに行って、何の指示もないので山のように詰まれた日用品をぼんやりと眺めていたら、先ほどの歌うたいの古狸がすっかり私服に着替えて、涼しげに帰っていくのが見えた。少し離れた場所で煙草を吸っている別の狸に「まだ居たほうがいいんですかね?」と訊くと、「ん? もう、帰ってもいいんじゃないか。分からんけど」 さっさと集会場へもどり、だれかと雑談をしていた氏子総代のNさんに「明日は副会長が代わりに来るんでこの半被、汗だらけなんで持って帰って洗濯しても構いませんか」と尋ね、それからどこかの町の自治会長らしいおっちゃんが案内してくれた拝殿のところで景品の「うどん」と「昆布飴」をもらってやれやれ帰宅したのだった。

 なお寄付金については後日談があって、翌月曜の祝日に交替で行ってくれた副会長のSさん(わたしより年長だが、わたしよりガタイのいい元車屋の地元のおっちゃんだ)が集会所に入ったところ、またしても例ののび太宮司氏がやってきて、おなじ話をし出したという。それに対してわが副会長は「なら、はっきり言わせてもらいますけどな。うちが町内の総会で場所を借りたいと言ったとき、さいしょは一万円と言われて、それは高いと言ったら次に5千円になって、なにが氏子かと思いましたわ。神社もいろいろあって大変でしょうが、うちとこも年寄りにいろいろやってやりたいし。まあ、お金があまってあまって仕方なくなったら、考えさせてもらいますわ」と言ってやったそうな。(ここで話を聞いていた娘が「よっしゃ!」と手を打った) そして輪投げが始まってからも「日用品」景品係のSさんのところへ宮司氏はたびたびやってきて、「場所代についてはわたしも継いだばかりで紙に書いてあるとおりに言ってしまって」「今後はお金はもらわないことにしましたので。代わりに気持ちだけ頂くということで」云々としゃべり続けていたそうな。

 薬園神社、只今緊急事態宣言発令中(たぶん)。

2018.7.18

 

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 明治33年に死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」の無縁墓がある「来世(らいせい)墓」の真ん中に、かつて小さな堂があって墓守が一人住んでいた。むかしは土葬だったから葬式が出るとその墓守が穴を掘って埋めた。その墓守は死んでからどこへ葬られたかったって? そういう身寄りのない人間はみんな、火葬場の無縁さんの供養碑に祀られただろうな。そんな話を互いの犬を連れて散歩をしながら副会長のSさんから土曜に訊いて、さっそくその火葬場を見に行ってきた。郡山城址の北側、いまもさびれた金魚池ののこる谷筋に古くから稼動している火葬場があって、その入口付近に無縁供羪塔が青空にさみしくつきささっている。自転車をさらに南へ下らせて、ついで訪ねたのはかつて新木町にあった屠畜場跡だ。むかしの写真集の説明と1970年代の空中写真からめぼしをつけた場所は、いまは田んぼと池にはさまったフェンスで囲まれた何もない更地だ。平成22年にある建設会社が「と畜場跡残土回収」で入札をしている記録があるから、それほど遠いむかしのことでもない。もともとはここにあった屠畜場が県の中央卸売市場に近い場所に「食肉センター」として移転したのは昭和の終わり頃だろうか。場所は変わってもそこで働く人の多くはいまも郡山で有名なNという同和地区の人々であることは変わらない。その屠畜場のあった土地が、かつて古代の神武東征神話に於いて土蜘蛛として殺された新城戸畔(にいきとべ)を祀る新城神社及び新木山古墳に重なるのはたんなる偶然か。それからのどかな田圃の道を南へ下ってJRの線路をわたって、これもやはりKという同和地区の北のはずれにぽつねんと切りとられたような小さな森が残っているのが「牛の宮」だ。年季奉公先で死んだ少年が牛になって残りの三年を務め終えてその牛も死んだという伝説は何を意味するのか。その牛の亡骸を葬ったのがこの「牛の宮」だというのだが、屠畜場からそう離れてもいないことも考えれば、かつての賎視された人々が斃れた牛馬を処理した聖なる草場でありその記憶であるのかも知れない。日曜の昼のちいさなちいさなツアー。距離は短いけれど暑さでとろけそうなおれの脳味噌は百年も千年もすっとんでいくぜ。教科書にはけっして出てこないようなにんげんの生き様に触れたいんだよ。

2018.7.22

 

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 「前(さき)を訪(とぶら)う」ということばを、FB友の山内さんが送ってくれた「遠松忌法要講演録」(明治の大逆事件で死刑判決を受け、秋田の監獄で縊死した新宮の僧侶・高木顕明を想うつどい) のなかで知った。親鸞が「教行信証」のなかでひいている「安楽集」に出てくることばだそうで、「何となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と」  またおなじFB友の塩崎さんがコメントで記していた。過去を告発するものはもうだめだ、現在の自らを磔にするものでないとだめだ、と。気がつけばいつの間にやら53度目の夏が来て、ブルーハーツが歌った沁み入るような青空の下で、いまのわたしはそんなことばに躓きそうになる。いや躓きそうになりながらも、そんなことばをみずからに招(お)ぎ寄せようとしている。みずからを磔刑に処するために、前(さき)を訪(とぶら)う。のこされたわずかな時間を、そのために生きていこう。三輪車と共に被爆し庭先に埋められた幼子の記事を読みながら、癌細胞によって意識が混濁するまで抗い続けた沖縄県知事の死去のニュースに接しながら、そしていまは無縁仏として眠る紡績工場の女工の墓を思いながら。 

2018.8.9

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 小学生のときにいっしょに住んでいた祖父が死んだ。明け方、まだ暗いうちからなにやら家の中がばたばたとあわただしい。おぼろな気配のなかでそう思っていたら、朝にはもう祖父は動かない人になっていた。バスに乗って、はじめて火葬場というところへ行った。高い煙突からうっすらとした半透明の煙が天へ立ち昇り、祖父はしろい骨のかけらになった。その火葬場を自転車でさがして、後日に訪ねたのだ。コンクリートの壁の向こうの煙突から煙が立ち昇るのを、そうして長いこと眺めていた。小学3年生くらいのじぶん。

 夜中の墓地はさすがに行く気にならないが、昼間の墓地はなぜかむかしから親しい。とくに夏だ。強い日差しを浴びて、むっとするような草いきれに、なにかやわらかな存在が偏在していて、がらんどうのわたしに寄り添うような心地がする。欲望にまみれた、生臭い息の生者どもの世界よりも、わたしにはいっそ心地よい。かれらはもうきっとこの世には未練はないのだ。永い永い年月がおだやかに少しづつ、花弁が閉じるようにあらゆるものを諦めさせたのだ。その代わりといってはなんだけれど、かれらにはすこしだけ伝えたいことがある。がらんどうのわたしに、放心したように墓石にもたれて腰をおろしたわたしに、そのしずかな半透明の思念のようなものがはいってくる。がらんどうのわたしのなかで、ことばが反響する。

 「存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出される」ことが石牟礼道子のいう「荘厳」であるなら、百年も前に死んだ見知らぬ紡績工場の女工や殺された朝鮮人や大逆の刻印を穿たれて縊られた者たちの、いまでは粉塵のように宙を舞っているにすぎないかすかな足跡をたどりながら、わたしが浴びている光はまさにそれだ。

 

 代表作『苦海浄土 わが水俣病』には「杢(もく)」という名の少年が登場する。彼は水俣病を患い、言葉を発することができない。しかし、耳はよく聞こえる。当然、良いことばかりが聞こえるのではない。差別の声も聞こえてくる。杢少年の心に、声にならない微細なおもいが蓄積する。だから、彼の祖父は杢少年のことを「ひと一倍、魂の深か子」と語った。

 若松は言う。「『苦海浄土』には杢少年と同様、語らざる者たちのおもい、言葉になろうとしないうめきの声が響きわたっている」

 石牟礼にとって、書くことは沈黙という声なき声を聴くことだった。彼女の執筆作業は、「語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すこと」に他ならなかった。だから、彼女は言葉の「器」になろうとした。言葉にならないものに出会うことで、彼女は作家となった。

 石牟礼は、若松と最後に会った別れ際に「どうしたら自分の心を空(から)にできるか考えています」と言ったという。何かを表現することは、自分の思いを吐露することでも、自分の考えを主張することでもない。大切なのは思いや考えを鎮めること。そして、無音の「声」を聴くこと。そうすることで、人は言葉の通路になる。言葉は過去や彼方からやってくる。

 『苦海浄土』について、石牟礼は次のように書いている。「(水俣病)患者さんの思いが私の中に入ってきて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった。自然に筆が動き、それはおのずから物語になっていった」

 だから、彼女は『苦海浄土』が第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定した時、これを辞退した。真の作者は自分ではない。自分は言葉の器であるに過ぎない。そんな実感があったのではないかと、若松は推察する。

 若松は、石牟礼がしばしば使う「荘厳(しょうごん)」という言葉に注目する。「荘厳」とは仏教用語で、仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを意味し、また智慧(ちえ)や徳によって仏の身を包むことを言う。しかし、石牟礼がいう意味は、仏教用語に限定されない。「それは存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出される」ことを意味する。

 私たちのいのちは儚(はかな)く、悲しい。しかし、その悲しみは世界を「荘厳」する。私たちの苦しみに満ちた世界に光が差し込み、聖なるものに包まれる。

 「荘厳」に包まれた者の悲しみは、語り得ない。この言葉にならないものを言葉によって表現することこそが、石牟礼にとっての文学だった。だから、『苦海浄土』は「詩」として存在した。そこにあったのは「自らの心情を語ることができないまま逝かねばならなかった者たちの声をどうにか受け止めようとする営み」だった。

 石牟礼は、常に死者と共にあることを大切にした。私たちの世界は、生者だけで成り立っているのではない。死者を含むメンバーによって構成されている。私たちの日常は、死者たちが紡ぎあげてきた経験知や暗黙知によって支えられている。死者たちが保持し、歴史の振いにかけられた叡知(えいち)によって、世界は存立している。

 しかし、私たちは傍らにいる不可視の死者を忘れがちである。声なき声を存在しないものとして扱い、生者によって世界を独占しようとする。だから、私たちは沈黙に堪えられない。常に雄弁によって時間を埋めようとする。

 石牟礼は、いつも沈黙の中で死者たちと対話していた。沈黙は空白の時間ではない。そこには「ある意味のうごめきが存在」している。沈黙こそが、彼女の語りだった。

(今週の本棚   中島岳志・評 『常世の花 石牟礼道子』=若松英輔・著 毎日新聞2018年8月12日 東京朝刊)

2018.8.14

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