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ロナウジーニョはかく語りき

 

第3部 

 

以下は、Champion’s League Weekly に平成17年4月1日に掲載された

ロナウジーニョのインタビューを私、マルクが和訳したものです。 

 リーガ・エスパニョーラ04−05シーズン優勝記念コンテンツ   

 

 

※ 「  」内がロナウジーニョの談話です。

 

 フットボールとは、無慈悲なものである。ロナウジーニョのような才能に恵まれた男にとっても、それは例外ではない。彼はチャンピオンズリーグについて、こう切り出した。


「スタンフォード・ブリッジで起こったことには腹を立てている。バルサの方がチェルシーよりも優れたチームであることを証明しただけに、とても厳しい敗戦になってしまった」
  

 2legで素晴らしいゴールを決めたところで、敗北という結果を免れることは出来なかったのだ。
  

「サッカーはあくまでチームスポーツ。一人ぼっちじゃない。敗北を受け入れるのは難しかったけど、僕たちは元気を取り戻して次の試合に臨まなきゃいけない。僕たちの第一目標は、リーガでの優勝なんだ」
 

 そして不愉快な思い出を振り払うかのように、にこやかに語った。
  

「サッカーは僕にとって楽しみ、喜び、そして僕の人生そのものなんだ。1日のうちで最も幸せな瞬間はボールを使ってトレーニングしている時だね。サッカー選手よりも最高な職業は世界のどこを探してもないよ。子どもの頃からの憧れだったんだ。
 僕が初めてプレゼントされたのはサッカーボールと小さなサッカーシューズ。だから幼い頃からプレーするようになったんだ。ボールと共に寝起きしたもんだよ。友人たちとプレーしていて、彼らが疲れてしまったら、飼っていた犬に相手してもらったよ。犬は疲れ知らずだったからね(笑)」
 

 もっとも、彼は学校のサッカーチームではスターではなかったようだ。
 

「信じてもらえないだろうけど、チームに入るためには、こちらから頼み込まなきゃいけなかった。僕の母校にはとても有能な少年が多くてね、僕なんかは霞んでいたんだよ。彼らは僕とはプレーしたがらなかったね」
 

 しかし、ある試合で彼は20ゴールも決めて周囲の見方を一変させた。
 

「あの時のことはまだ憶えているよ。不思議な体験だったよ」
 

  1990年代後半、ヨーロッパのジャーナリストたちはロナウジーニョの故郷であるポルト・アレグレに殺到した。ロナウジーニョの出身地を取材するためである。彼らはロナウジーニョに40才を過ぎた叔父がいると知った。聞けば、ロナウジーニョよりサッカーが上手かったらしい。「一体、どこにいるのか?」とジャーナリストたちは色めき立った。「ルアだ」と聞きつけ、誰もが「ルア・サッカークラブ」を探し求めた。しかし、それはストリートの名前だったのだ!
 ロナウジーニョの素晴らしいテクニックはストリートで培われたが、彼の性格は幼年期が土台になっている。
 

「僕は幼い頃からずっと勝つことを望んできた。ジャンケンでさえ、負けるのは絶対に嫌だった」
 

 彼には憧れのヒーローが多くいたが、最高のアイドルは1994年のW杯がキッカケでロマーリオとなった。


「僕が13才の時、彼をテレビで見たんだけど、彼を見て僕は言ったんだ。『人生を賭けて彼のようになりたい!世界チャンピオンになりたい!』ってね」

      Romario

 


 ロナウジーニョはまだ25才であり、アイドルであった男と肩を並べるのにそう時間は掛からなかった。そして今や、ブラジル代表とFCバルセロナの象徴的存在である。皮肉にもロナウジーニョを初めてセレソンに召集したのは現レアル・マドリード監督のルシェンブルゴであった。
 1997年のU-17世界選手権を経て、1999年のベネズエラ戦でのセンセーショナルなゴールにより、彼のテクニックが本格的に認知されるようになった。その試合において、彼は相手DFをドリブルで抜き去り、ボールを浮かしてもう1人のDFをかわし、ゴールを奪ってみせた。彼は続いてコパ・アメリカでの優勝に貢献し、ルシェンブルゴにとっては今もなお好印象な選手である。

  

「ルシェンブルゴ監督は本当に素晴らしいよ。監督なら誰もが自己の哲学をチームに植え付け、個性あるシステムを追求するけど、とりわけルシェンブルゴは素晴らしいね。力強いプレッシング、スピーディーな攻撃をレアル・マドリードで徹底させているよね」


 ロナウジーニョの地元のクラブであるグレミオは、なかなか彼を手放そうとはしなかった。彼は2001年にパリ・サンジェルマン(以下、パリSG)に向けて旅立ったが、ほぼ半年に渡ってプレー出来なかった。フランスリーグへの移籍には230万ポンドもの補償が必要で、イザコザになったからである。パリSGでは彼の存在は突出しており、バルサが彼を獲得したことで、ようやく落ち着いたのである。
 ブラジルが優れたスター選手を次々に輩出するのが必然ならば、ロナウジーニョも含め、そうしたスター選手がヨーロッパを目指すのも必然であると彼は考えている。


「フットボールは僕の国では文化なんだ。フットボールへの激しい情熱が消えてしまうことは絶対にないよ。才能が僕らの血に組み込まれているんだ。だから僕らはいつも偉大な選手を輩出できる。でも、誰もが大きな夢を抱いているし、誰もが偉大な選手と一緒にプレーする日がいつか来ることを願っている。そのためには、ヨーロッパに来る必要がある。それは栄光への架け橋のようなものだね」


 彼は世界のベストプレーヤーに選ばれたが、それでもなお、彼は自身の試合に満足していない。


「ヘディングでの得点が少ないのが気になっているんだ。僕の弱点だろうね。一生懸命、練習しているから少しずつ上手くはなっているけど・・・」


 彼はヨハン・クライフやディエゴ・マラドーナに称賛され、他のサッカー選手たちが認め、注目しているいわば「サッカー王」ではあるが、それでは彼が注目しているお気に入りの選手は誰なのだろう?


「エトーとデコは素晴らしくて、ワクワクさせてくれる選手だね。ジダンとロナウドにも注目しているよ。彼らは本当に偉大で、ファンタスティックな技術の持ち主だと思うよ」

        

 


 ロナウジーニョが挙げたスター選手の陣容は、クラシコの起源であるFCバルセロナとレアル・マドリードとのダービーに刺激を与える。


「世界中の誰もが見ることの出来るベストゲームだよ。選手は誰もがクラシコでプレーしたがっているよ。嬉しいことに、僕が出場したクラシコは全て勝っているんだ」


 彼は2004年度のFIFA年間最優秀選手に選ばれたが、人種差別撲滅キャンペーンとカンプノウで行われた津波チャリティーマッチで主導的役割を果たしたことで、彼の名声はさらに上がった。ヒューマニズム運動との関わりは、彼自身の子供時代への本能的な返答である。


「ブラジルでは、選手の大半がスラム街の出身。貧困がいかに辛いかを身をもって知っているから、選手たちは他者を援助することへの意識が高いんだ。僕は若いサッカー選手の模範になろうと努力している。将来、彼らにも同じことをして欲しいからね」


 ロナウジーニョはティエリ・アンリや他のサッカー選手と共に、人種差別撲滅のキャンペーン(管理人注:ナイキが全面協力する「STAND UP SPEAK UP」)に加わった。ロナウジーニョがサポートしているのは、彼のチームメートでカメルーン人のエトーである。エトーはスペインリーグのピッチで人種差別的な罵声を浴びせられたため、逆に「(黒人を侮辱するための)猿のジェスチャー」を観衆にやり返すことで抵抗した。


「そうした観衆の行いは不愉快だ。我々は差別を失くす努力をしなきゃいけない。サッカー選手たちも無関係ではいられないよ。公式団体と共に、我々は何かをするべきだ。人々が差別について、もっと考えてくれることを期待しているよ」

    「STAND UP SPEAK UP」のキャンペーン広告

  

 

 ロナウジーニョはセレブのような格好をしない一方で、「有名になりたい」と、いつも願っていることをあっさりと認めた。


「誰もが知っていて、自伝本にサインするような今日の自分になることをずっと夢見てきたんだ。もし、有名にならなかったら、欲求不満に陥っていただろうね。どこに行っても、人々が僕を知ってくれている状態でずっといたいよ。『あいつはサッカーの上手い男だ』って言われるのが嬉しいからね」


 彼はボディガードなしで旅行し、服装もカジュアルで、長い髪をポニーテールにするかバンダナで整えている。率直に言うなら、彼のルックスが話題になっているが、彼はそれを楽しんでいるようでもある。


「見てよ、僕はブサイクだけどチャーミングでしょ?僕は愉快な奴だし、気軽にサンドイッチも買える・・・。だから全てを合計すると、僕はビューティフルな奴だね(爆笑)」

       まだまだ続くよ! 

 

  

  

 

 

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