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     九 頑迷派に反ばくする

 すると、ブルジョア頑迷派がとびだしてきていう。よろしい、きみたち共産党は社会主義の社会制度をあとの段階におしやったし、きみたちはまた、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」〔10〕とも宣言したのだから、共産主義をしばらくひっこめたらよかろう、と。このような議論は、いわゆる「一つの主義」という題目のもとで、身の程しらずのさわぎ方にまで変わってきている。こうしたさわぎ方は、その本質において頑迷分子たちのブルジョア専制主義である。だが、すこし遠慮して、それを常識のまったくないものだといってもよい。
 共産主義はプロレタリア階級の全思想体系であると同時に、また新しい社会制度でもある。このような思想体系と社会制度は、他のいかなる思想体系、他のいかなる社会制度ともちがうもので、人類の歴史はじまっていらい、もっとも完全な、もっとも進歩した、もっとも革命的な、もっとも合理的なものである。封建主義の思想体系と社会制度は、すでに歴史博物館にはいっている。資本主義の思想体系と社会制度も、一部ではすでに博物館にはいっているが(ソ連では)、他の部分でも、すでに「日は西山にせまり、気息奄《えん》々、生命も危うく、朝《あした》に夕《ゆうべ》をはかりがたし」であって、まもなく博物館入りするであろう。ただ、共産主義の思想体系と社会制度だけがいままさに天地をくつがえす勢い、万雷のとどろく力で、全世界にひろがり、そのうるわしい青春をたもっている。中国が科学的共産主義をもつようになってから、人びとの視野がひらけ、中国革命もその面目を一新した。中国の民主主義革命は、共産主義にみちびかれなければ、けっして成功するものではないし、革命のつぎの段階についてはなおさらいうまでもない。これはブルジョア頑迷派があのようにさわぎたて、共産主義を「ひっこめろ」と要求している理由でもある。実際には、これは「ひっこめ」てはならないもので、ひっこめれば中国は滅亡する。現在の世界は共産主義を救いの星としている。現在の中国もまさにそうである。
 周知のように、共産党は、社会制度についての主張で、現在の綱領と将来の綱領、あるいは最低綱領と最高綱領という二つの部分をもっている。現在では新民主主義、将来では社会主義、これは有機的構成の三つの部分であって、共産主義の全思想体系によってみちびかれるのである。共産党の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじだからといって、共産主義を「ひっこめろ」とわめきたてるのは、まったくでたらめもはなはだしいではないか。共産党員にとっては、三民主義の政治原則に自分たちの最低綱領と基本的におなじ点があるからこそ、「三民主義を抗日統一戦線の政治的基礎とする」と認めることができ、また「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」と認めることができるのである。さもなければ、そのような可能性はない。これが民主主義革命の段階での共産主義と三民主義の統一戦線であり、孫中山が「共産主義は三民主義のよき友である」といった〔11〕のも、まさしくこのような統一戦線をさしているのである。共産主義を否定することは、実際には統一戦線を否定することである。頑迷派も、まさにその一党主義を実行して統一戦線を否定しようとするからこそ、共産主義を否定するでたらめな論法をもちだしたのである。
 「一つの主義」もすじがとおらない。階級が存在する条件のもとでは、階級の数だけ主義があり、それどころか一つの階級のなかの各集団にさえ、それぞれの主義がある。いま、封建階級には封建主義があり、ブルジョア階級には資本主義があり、仏教徒には仏教主義があり、キリスト教徒にはキリスト主義があり、農民には多神教主義がある。近年は、ケマル主義だとか、ファシズムだとか、唯生主義〔12〕だとか、「労働に応じて分配する主義」〔13〕だとかをとなえるものがいるのに、どうしてプロレタリア階級に共産主義があってはいけないのか。このように数えきれないほどの主義があるのに、どうして共産主義とみれば大声で「ひっこめろ」とさけぶのか。卒直にいって、「ひっこめる」ことはできない。やはり競争しようではないか。競争して共産主義をうち負かすものがあれば、われわれ共産党員も、みずから不運とあきらめよう。もしそうでないならば、あの「一つの主義」という反民権主義的な作風こそ、さっさと「ひっこめ」てもらいたい。
 誤解をさけ、また頑迷派の目をみひらかせるために、三民主義と共産主義のちがう点とおなじ点について、はっきり指摘する必要がある。
 三民主義と共産主義のこの二つの主義を比較してみると、おなじ部分もあるが、またちがう部分もある。
 第一、おなじ部分。中国のブルジョア民主主義革命の段階における二つの主義の基本的政治綱領がそれである。一九二四年に、孫中山があちたに解釈をくだした三民主義のなかの革命的な民族主義、民権主義、民生主義という三つの政治原則は、中国の民主主義革命の段階における共産主義の政治綱領と基本的におなじである。こうしたおなじ点があるため、また三民主義を実行にうつしたことによって、二つの主義、二つの党の統一戦線がうまれたのである。この面を無視するのはあやまりである。
 第二、ちがう部分はつぎの点である。(一)民主主義革命の段階における一部の綱領の相違。民主主義革命における共産主義の全政治綱領のなかには、人民の権力の徹底的実現、八時間労働制および徹底した土地革命綱領があるが、三民主義にはこれらの部分がない。もし三民主義がこれらの部分を補足せず、しかもそれを実行しようとしないならば、それは民主主義の政治綱領にたいして、基本的におなじであるだけで、まったくおなじだとはいえない。(二)社会主義革命の段階があるかないかのちがい。共産主義には、民主主義革命の段階のほかに、もう一つ、社会主義革命の段階がある。したがって、最低綱領のほかにもう一つ、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度を実現する綱領がある。三民主義には民主主義革命の段階があるだけで、社会主義革命の段階はない。したがって、それは最低綱領があるだけで、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度をうちたてる綱領はない。(三)世界観のちがい。共産主義の世界観は弁証法的唯物論と史的唯物論であるが、三民主義の世界観はいわゆる民生史観で、実質的には、二元論または観念論であって、両者はあい反している。(四)革命の徹底性のちがい。共産主義者は理論と実践が一致している。すなわち革命の徹底性をもっている。三民主義者は、革命と真理にもっとも忠実な一部の人をのぞいては、理論と実践が一致していず、いうこととすることが相互に矛盾じている。すなわち革命の徹底性をもっていない。以上のべた点は、いずれも両者のちがう部分である。こうしたちがいから、共産主義者と三民主義者のあいだには差異がでてくるのである。このような差異を無視し、ただ統一の面だけをみて、矛盾の面をみないならば、疑いもなく非常なあやまりである。
 これらの点がわかれば、ブルジョア頑迷派が共産主義を「ひっこめろ」と要求することがどんな意味をもつかがわかる。それはブルジョア専制主義か、さもなければ、常識のまったくないものである。


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