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      六 軍事問題の研究に注意すること

 両軍の敵対するすべての問題は戦争によって解決されるものであり、中国の存亡は戦争の勝敗にかかっている。したがって、軍事理論の研究、戦略と戦術の研究、軍隊の政治工作の研究は、一刻もゆるがせにしてはならない。戦術の研究は不十分ではあるが、この十年来、軍事活動にたずさわっている同志たちはすでに多くの成績をあげ、中国の条件に即して多くの新しいものを提起している。欠点はまだ総括していないことにある。戦略問題と戦争理論の問題の研究活動は、いまだに、ごくわずかな人びとにかぎられている。政治工作についての研究は第一級の成績をあげており、その経験が豊富なこと、新しい創造が多いうえにすぐれているということでは、全世界でソ連をのぞけばわれわれだといえるが、その欠点は総合性と体系性の不十分さにある。全党と全国の必要を満たすため、軍事知識の大衆化はさしせまった任務となっている。これらのすべてに今後注意すべきであるが、戦争と戦略の理論がすべての根幹である。軍事理論の研究から興味をひきおこして、軍事問題の研究に全覚の注意を喚起することは、必要であるとわたしはおもう。




〔1〕 レーニンの『戦争とロシア社会民主党』『ロシア社会民主労働党在外支部会議』『帝国主義戦争における自国政府の敗北について』『ロシアの敗北と革命的危機』などの著作を参照。レーニンのこれらの著作は、当時の帝国主義戦争について、一九一四年から一九一五年にかけて書いたものである。あわせて『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第六章第三節の「戦争、平和および革命問題におけるボリシェビキの理論と戦術」を参照。
〔2〕 一九二四年、孫中山は、共産党および革命的労働者・農民と連合し、当時イギリス帝国主義と結託して広州で反革命活動をすすめていた買弁・豪紳の武装組織――「商団」をうちやぶった。一九二五年の初め、国共合作の革命軍は広州から東征し、農民の援助をえて、軍閥陳炯明の軍隊をうちやぶった。つづいて広州にもどり、そこで根をはっていた雲南、広西軍閥を消滅した。同年の秋、国共合作の革命軍は二回目の東征をおこない、陳炯明の軍隊を最後的に消滅した。これらの戦役で、共産党員と共産主義青年団員は勇敢に戦闘の最前線にたった。これらの戦役は、当時の広東省に統一の情勢をつくりだし、北伐戦争の基礎をうちたてた。
〔3〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。
〔4〕 一八九四年、孫中山はホノルルで「興中会」という革命的小団体を結成した。一八九五年、清朝政府が中日戦争で失敗した後、孫中山は広東省内で、以前の民間秘密結社「会党」に依拠して、一八九五年の広州の戦いと一九〇〇年の恵州の戦いの二回にわたる清朝に反対する武装蜂起をおこした。
〔5〕 一九〇五年、興中会は清朝に反対する他の二つの団体――華興会および光復会と連合して、同盟会(これは、当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級と、清朝に反対する一部の有力者との連合戦線の組織であった)を結成し、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政綱をかかげた。同盟会の時期に、孫中山は「会見」および新軍と連合して、清朝に反対する武装蜂起を何度もおこした。そのうちの比較的大きなものには、一九〇六年の萍郷、瀏陽、醴陵の戦い、一九〇七年の潮州における黄岡の戦い、欽州の戦い、鎮南関(いまの友宜関――訳者)の戦い、一九〇八年の雲南省の河口の戦い、一九一一年の広州の戦いおよび武昌蜂起がある。
〔6〕 一九一二年、同盟会は改組されて国民党となり、当時の北洋軍閥袁世凱の支配と妥協をおこなった。一九一三年、袁世凱は軍隊を南下させ、辛亥革命から形成されてきた江西、安徽、広東諸省の勢力を圧迫しようとした。孫中山は武力抵抗をおこなったが、まもなく失敗した。一九一四年、孫中山は妥協で失策したことから、当時の国民党とのちがいをしめすため、日本の東京で別に中華革命党を結成した。これは、実際上、一部の小ブルジョア階級と一部のブルジョア階級の政治的代表者の反袁同盟であった。孫中山はこの同盟に依拠して、一九一四年、上海で小規模な蜂起をおこしたことがあった。一九一五年、袁世凱が皇帝と称すると、蔡鍔らの反袁勢力は雲南省で袁世凱討伐の戦争をおこしたが、当時孫中山も武力による袁世凱打倒の積極的な鼓吹者であり活動家であった。
〔7〕 一九一七年、孫中山はその影響下にある海軍をひきいて、上海から広州にいき、広東省を根拠地とし、当時、北洋軍閥段祺瑞に反対していた西南軍閥と連合して、段祺瑞反対の軍政府を組織した。
〔8〕 一九二一年、孫中山は桂林市で北伐の準備をおこなったが、部下の陳炯明が北洋軍閥と結託して寝がえったため、成果を得なかった。
〔9〕 一九二四年、孫中山は中国共産党とソ連の援助を得て国民党を改組したのち、広州付近の黄埔で車官学校を創立した。それが、黄埔軍官学校である。一九二七年、蒋介石が革命を裏切るまでは、ここは国共合作の学校であった。共産党員である周恩来、葉剣英、憚代英、蕭楚女その他多くの同志が前後してこの学校でいろいろな責任ある活動をうけもった。多くの学生も共産党員や共産主義青年団員であった。かれらは、この学校で革命的中堅を形成した。
〔10〕 譚延[”もんがまえ”+”山”の下に”豆”]は湖南省の出身で、清朝の翰林であった。もとは立憲君主制を主張していたが、のちに投機的に一九一一年の革命(辛亥革命)に参加した。その後、かれは国民党の陣営にはいったが、これは湖南地方の地主勢力と北洋軍閥の矛盾を反映したものであった。
〔11〕 進歩党は、民国初年、梁啓超らの一派が袁世凱に依存して組織した政党である。
〔12〕 段祺瑞は袁世凱のふるくからの部下で、北洋軍閥内の安徽系の頭目であった。袁世凱の死後、かれは何度も北京政府の政権をにぎった。
〔13〕 政学系とは、一九二八年、一部の進歩党員と一部の国民党員によって組織された極右の政派で、官職をあさるために南北の軍閥のあいだで投機的な活動をおこなっていた。一九二六年から一九二七年にかけての北伐戦争の時期には、政学系の一部のもの、たとえば親日派黄郛、張群、楊永泰のやからは蒋介石と結託しはじめ、その反動的な政治経験を利用して、蒋介石の反革命政権の樹立をたすけた。
〔14〕 「青年党」とは、いわゆる「国家主義派」の「中国青年党」のことである。本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔1〕にみられる。
〔15〕 ここでは主として、北伐戦争の時期、共産党員葉挺将軍を首長とする独立連隊をさす。本選集第一巻の『井岡山の闘争』注〔14〕を参照。
〔16〕 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』を参照。
〔17〕 韓復はもと山東省に駐屯していた国民党軍閥である。劉峙は蒋介石直系の軍閥で、もと河南省にいたか、抗日戦争勃発後、河北省保定の線の防御にあたった。この両軍閥は日本侵略軍が進攻してきたとき、どちらも戦わずに逃走した。
訳注
@ 五・四運動とは、一九一九年五月四日におこった帝国主義、封建主義に反対する革命運動のことである。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国であるイギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義国は、パリで贓品の分配会議をひらき、中国の山東省におけるドイツのさまざまな特権を日本かひきつぐことを決定した。五月四日、北京の学生が真っ先に、集会をひらきデモ行進をおこなって、これに断固反対することを表明した。北洋軍閥政府はそれに弾圧を加え、学生三十余人を逮捕した。そこで北京の学生はストライキをおこして抗議し、各地の学生もぞくぞくとそれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府はまたも北京で、よりおおがかりな逮捕をはじめ、二日間のうちに、約一千人の学生を逮捕した。この六月三日の事件は、全国人民のより大きな怒りをひきおこした。六月五日から、上海およびその他の多くの地方の労働者はあいついでストをはじめ、商人もあいついで閉店ストをはじめた。これまで、主として知識層の参加していた愛国運動は、その時からプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の参加する全国的な愛国運動へと急速に発展していった。五・四運動以前におこされていた封建主義に反対し、科学と民主を提唱する新文化運動も、愛国運動の発展につれて、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする大規模な革命文化運動へと発展していった。
A 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔7〕を参照。
B 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔30〕を参照。
C 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔32〕を参照。
D 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔8〕を参照。
E 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔7〕を参照。


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