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     団結と勝利

 中国共産党内部の団結は、全国人民を団結させて抗日の勝利をたたかいとり、新中国を建設するもっとも基本的な条件である。十七ヵ年にわたってきたえられてきた中国共産党は、どのように自己の団結をかためるかについてすでに多くの方法を学びとり、ずっと老練になっている。こうして、われわれは、全国人民のなかに、強固な中核をつくりあげ、抗日の勝利をたたかいとり、新中国を建設することができる。同志諸君、われわれが団結できさえすれば、この目的はかならず達成できるのである。




〔1〕 一九三四年一月、スターリンはソ連共産党(ボリシェビキ)第十七回大会における報告のなかでつぎのようにのべている。「正しい政治路線があたえられたのちには、政治路線そのものの運命――その遂行、あるいは失敗――をふくめて、すべてが組織活動によって決定されるのである。」スターリンは、そこでは「人材の正しい選択」の問題にふれている。一九三五年五月「クレムリン宮における赤軍大学卒業式においておこなった演説で、スターリンは「幹部がすべてを決定する」というスローガンをかかけ、そしてこれに説明をくわえた。また、一九三九年三月のソ連共産党(ボリシェビキ)第十八回大会におけるスターリンの報告をも参照されたい。スターリンはこの報告のなかでつぎのようにのべている。「実践によってためされた正しい政治路線が作成されたのちは、党の幹部が、党ならびに国家の指導の、決定的な力となる。」
〔2〕 一九二七年八月の党の第五期中央委員会政治局緊急会議から、一九三四年一月の党の第六期中央委員会第五回総会までの時期をさす。
〔3〕 巴西会議とは、一九三五年八月、巴西でひらかれた中国共産党中央政治局会議のことである。巴西は、四川省西北部と甘粛省東南部との境にある一地方で、四川省松潘県の県都の西北部にくらいする。当時、張国Zは、赤軍の一部をひきいて党中央から分裂し、党中央の命令にしたがわず、しかも党中央に危害をあたえようとたくらんだ。党中央はこの会議で危険区域をはなれることを決定するとともに、命令にしたがう赤軍をひきいて陝西省北部にむかって前進した。張国Zは、かれにだまされた赤軍をひきいて、天全県、蘆山県、大金川、小金川および阿[”つちへん”+”雨”の下に”革+月”]地区に南下し、党にたいして反旗をひるがえし、別個に「中央」をもうけた。
〔4〕 延安会議とは、一九三七年四月、延安でひらかれた中国共産党中央政治局拡大会議のことである。このときまでには、張国Zにひきいられる赤軍のうちの広範な幹部と戦士は、すでに張国Zの欺瞞を知り、北方の陝西・甘粛辺区にむかって進軍していたが、そのうちの一部隊は、また中途で、あやまった指導のために、西方の甘州、涼州、粛州地区にむかって進軍し、その大半が敵に消滅されてしまった。残りの一小部隊は新疆にたっし、その後、やはり陝西・甘粛辺区にかえってきた。他の一部隊はずっとはやく陝西・甘粛辺区に到着し、中央赤軍に合流していた。張国Z自身も陝西省北部に到着し、この延安会議に参加した。この会議は、張国Zの日和見主義と党への裏切り行為について系統的な総括をおこなった。張国Zは表面的にはしたがうと表明したが、実際には党にたいする最後の裏切りを準備していた。
〔5〕 本選集第三巻の『党八股に反対しよう』のなかの洋八股についての説明を参照。
訳注
@ 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔22〕を参照。
A 本題集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔4〕を参照。
B 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔5〕を参照。
C 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』訳注Dを参照。
D 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』訳注Dを参照。


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