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   階級的投降主義と民族的投降主義との関係

 (二九)抗日民族革命戦争では」階級的投降主義は、事実上民族的投降主義の予備軍であり、右派陣営をたすけて戦争を失敗させるもっとも悪質な偏向である。中華民族と勤労大衆の解放をたたかいとるには、また民族的投降主義との闘争を断固として強力におしすすめるには、共産党の内部とプロレタリア階級の内部にある階級的投降の偏向とたたかい、この闘争を各分野の活動のなかでくりひろげなければならない。




〔1〕 一九三七年八月二十五日、中国共産党中央委員会政治局が陝西省北部でひらいた洛川会議において採択した「当面の情勢と党の任務についての決定」をさす。全文はつぎのとおり。「(一)蘆溝橋における戦争挑発と北平、天津の占領は、日本侵略者が中国中心部に大挙進攻する手始めにすぎない。日本侵略者は、すでに全国の戦時動員をはじめた。かれらが口にする「不拡大」の宣伝は、その進攻をおおいかくす煙幕でしかない。(二)南京政府は日本侵略者の進攻と人民の憤激におされて、抗戦の決意をかためはじめた。全体的な国防の配置と各地における実際の抗戦もすでにはじまっている。中国と日本との大戦はさけられない。七月七日の蘆溝橋の抗戦は中国の全国的な抗戦の出発点となった。(三)中国の政治情勢は、このときから新しい段階、つまり抗戦を実行する段階にはいった。抗戦の準備段階はすでにすぎた。この段階でのもっとも中心的な任務は、あらゆる力を動員して抗戦の勝利をかちとることである。これまでの段階では、民主主義をかちとる任務は、国民党がそれをのぞまず、民衆の動員がたりなかったので達成されなかったが、これは今後、抗戦の勝利をかちとる過程で達成しなければならないものである。(四)この新しい段階では、われわれと国民党およびその他の抗日諸派との区別および論争は、いかに抗戦の勝利をかちとるかの問題であって、もはや抗戦すべきかどうかの問題ではない。(五)こんにち、抗戦の勝利をかちとる中心の鍵は、すでに口火のきられた抗戦を全面的な全民族の抗戦に発展させることである。このような全面的な全民族の抗戦でなければ、抗戦は最後の勝利をおさめることはできない。こんにち、わが党の提起している抗日救国の十大綱領こそ、抗戦の最後の勝利をかちとる具体的な道である。(六)こんにちの抗戦には、きわめて大きな危険性がふくまれている。それは主として、国民党がまだ全国人民を抗戦に立ちあがちせることをのぞんでいないためである。逆に、かれらは、抗戦を政府だけの仕事と考え、人民の参戦運動をことごとに恐れ、制限し、政府や軍隊が民衆とむすびつくのをさまたげ、人民に抗日救国の民主主義的権利をあたえず、政府を全民族的な国防政府にするための徹底的な政治機構の改革をおこなおうとしない。このような抗戦では、局部的な勝利をかちとることはできても、けっして最後的な勝利をかちとることはできない。逆に、このような抗戦には重大な失敗をまねく恐れがある。(七)当面の抗戦にはまだ重大な弱点があるので、今後の抗戦の過程では、挫折、返却、内部分化、裏切り、一時的局部的な妥協など、多くの不利な状況かうまれる可能性がある。したがって、この抗戦は、苦難にみちた持久戦になることを見てとるべきである。だが、われわれは、すでに口火のきられた抗戦が、かならずわが党と全国人民の努力によって、あらゆる障害をつきやぶってひきつづき前進、発展することを確信する。われわれは、あらゆる困難を克服し、わが党が抗戦の勝利をかちとるために提起した十大綱領の実現をめざして断固たたかうべきである。この綱領にそむくすべてのあやまった方針に断固反対すると同時に、悲観的、失望的な民族敗北主義にも反対する。(八)共産党員およびその指導下にある民衆と武装力はもっとも積極的に闘争の最前線に立ち、みずから全国抗戦の中核となり、全力をあげて抗日の大衆運動を発展させるべきである。大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化するのに、わずかな時間もちょっとした機会ものがしてはならない。何百回千万の大衆をほんとうに民族統一戦線に組織できさえすれば、抗日戦争の勝利は疑いない。」
〔2〕 抗日戦争の初期、国民党と蒋介石は、人民の力におされて改革についてのさまざまな約束をしたが、その後、それを一つ一つ破棄していった。当時、全国の人民が希望していた国民党の改革の「可能性」は、実現されなかった。それは、のちに毛沢東同志が『連合政府について』のなかでつぎのように説明しているとおりであった。「当時、全国人民、われわれ共産党員、その他の民主政党は、みな国民党政府にきわめて大きな期待をよせていた。つまり、国民党政府がこの民族の危機と人心奮起の時機にあたって、民主改革を断行し、孫中山先生の革命的三民主義を実行にうつすことを期待していたのである。だが、この期待ははずれてしまった。」
〔3〕 廬山訓練班とは、蒋介石がその反動支配の骨幹を養成するため江西省の廬山でひらいた、国民党の党・政府関係の高級・中級幹部の訓練班をいう。
〔4〕 当時、章乃器は「よびかけを少なくし、献策を多くする」ことを主張した。事実、国民党が人民を抑圧している状況のもとでは、たんに国民党に「献策する」だけでは役にたたない。国民党と闘争するよう、直接民衆に「よびかけ」なければならない。そうしないかぎり、抗日を堅持することも、国民党の反動に抵抗することもできない。だから、章乃器のこの主張はまちがっていた。のちには、かれはしだいにその誤りを知るようになった。
〔5〕 一九三七年九月二十五日にだされた「共産党が政府に参加する問題についての中国共産党中央の決定草案」をさす。全文はつぎのとおり。「(一)こんにちの抗戦の情勢からすれば、有利に抗日民族革命戦争を指導し、日本帝国主義にうち勝つには全民族的な抗日民族統一戦線政府がさしせまって必要である。共産党はこのような政府に参加する用意があり、つまり直接に公然と政府の行政責任をおい、そのなかで積極的な役割をはたす用意がある。しかし、こんにち、まだこのような政府はない。こんにちあるのは、やはり国民党一党独裁の政府だけである。(二)国民党一党独裁の政府を全民族的な統一戦線の政府に変えたとき、つまりこんにちの国民党政府が、(イ)わが党の提起した抗日救国十大綱領の基本内容をうけいれ、この内容にもとづいて施政綱領を公表したとき、(ロ)実際の行動のうえでこの綱領を実現する誠意と努力をしめしはじめ、この面で相当の成績をあげたとき、(ハ)共産党の組織の合法的存在をゆるし、共産党に大衆を動員し、大衆を組織し、大衆を教育するという自由を保障したとき、そのときはじめて、中国共産党はこれに参加する。(三)党中央が中央政府に参加することを決定するまでは、共産党員は、一般に、地方政府に参加してはならず、政府行政機関に付属する、中央および地方のすべての行政会議および委員会に参加してはならない。なぜなら、そうしたものに参加することは、いたずらに共産党員としての姿をあいまいにし、国民党の独裁支配を長びかせ、統一的な民主政府の樹立をうながすのに有害無益だからである。(四)しかし、特殊な地区の地方政府、たとえば戦区の地方政府で、従来の支配者が、いままでどおり支配をおこなうことができず、基本的に共産党の主張を実行しようとしており、共産党もすでに公然たる活動の自由をえているばあい、しかも、当面の緊迫した情勢から、共産党の参加が人民と政府のいずれからも必要とされるにいたったばあいには、共産党はこれに参加してもよい。日本侵略者が占領している地域では、共産党は、なおさら公然と抗日統一戦線政権の組織者になるべきである。(五)共産党が公然と政府に参加する以前でも、全国国民大会のような、民主憲法や救国の方針を討議する代議機関に参加することは、原則的にゆるされる。したがって、共産党は、できるかぎり自己の党員を国民大会に当選させ、その演壇を利用して、共産党の主張を宣伝すべきであり、そうすることによって、人民を動員し、人民を共産党のまわりに組織し、統一的な民主政府の樹立を促進するのである。(六)共産党の中央および地方の組織は、国民党の中央および地方の党部とともに、一定の共同綱領にもとづき、完全な平等の原則にしたがって、各種連合委員会(たとえば国民革命同盟会、大衆運動委員会、戦地動員委員会など)のような統一戦線の組織をつくってもよい。共産党は、国民党とのこのような共同行動をつうじて、国共両党の協力を実現すべきである。(七)赤軍が国民革命軍と改称され、赤色政権機関が特別地区政府にあらためられたのちには、その代表者は、すでに獲得した合法的な地位によって、抗日救国に有利なすべての軍事的な機関や大衆的な機関に参加してもよい。(八)もとの赤軍およびすべての遊撃隊のなかでは、共産党が絶対的な独立した指導権を保持することは、完全に必要である。共産党員はこの問題でいかなる原則上の動揺もゆるされない。」
〔6〕 当時、党内の一部の同志が主張した、革命根拠地内の人民代表会議の政権制度をブルジョア国家の議会制度に変えようとする意見をさす。
〔7〕 一九三四年十月、中央赤軍が北上したのち、南方の江西、福建、広東、湖南、湖北、河南、淅江、安徽の八省の十四の地区にのこっていた赤軍遊撃隊は、極度に困難な状況のもとで遊撃戦争を堅持していた。抗日戦争が勃発すると、かれらは、中国共産党中央の指示にもとづいて、内戦を停止し一つの軍団に編成して(これがのちに長江南北で抗日を堅持した新四軍である)抗日のため前線へ出動するということについて、国民党と交渉した。ところが、蒋介石は、交渉を利用してこれらの遊撃隊を消滅しようとたくらんだ。福建・広東省境地区は当時の十四の遊撃区の一つであり、何鳴はこの地区の遊撃隊の責任者の一人であった。何鳴は、蒋介石の陰謀にたいして警戒を怠ったため、そのひきいていた一千余名の遊撃隊員が集結したのちに、国民党に包囲され、武装解除された。
〔8〕 『解放週刊』は中国共産党中央の機関誌であった。一九三七年、延安で創刊されたが、一九四一年、『解放日報』が発行されたので、停刊になった。
〔9〕 当時の『申報』などの新聞によって代表された一部の民族ブルジョア階級をさす。
〔10〕 復興社とCC団は、蒋介石と陳立夫をかしちとする、国民党内の二つのファシスト組織であり、大地主、大ブルジョア階級の寡頭支配の利益を代表していた。しかし、そのなかにいた小ブルジョア分子の多くは、強制されるか、だまされるかしてはいったものであった。ここでいう復興社の一部のものとは、おもに、当時の国民党軍隊の一部の中級・下級将校をさす。CC団の一部のものとは、おもに、その当時実権をにぎっていなかったものをさす。


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