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     七 結論

 ここで、われわれはつぎのようにまとめることができる。事物の矛盾の法則すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって思惟の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点からみると、矛盾は客観的事物および主観的思惟のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでをつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つ一つの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって同一性をもっており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに反対の側面に転化していくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、それらが共存しているときでもたがいに転化しあうときでも、闘争が存在しており、矛盾の闘争は絶えることがない。とくにたがいに転化しあうときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが矛盾の特殊性と相対性を研究するばあいには、矛盾および矛盾の側面の、主要なものと主要でないものとのちがいに注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究するばあいには、矛盾のさまざまな異なった闘争形態のちがいに注意しなければならない。そうしなければ、あやまりをおかすだろう。もし、われわれが研究をつうじて、うえにのべた諸要点をほんとうに理解したならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむいた、われわれの革命事業にとって不利な教条主義諸思想をうちやぶることができるし、また、経験をもっている同志たちに、その経験を原則性をもつように整理させて、経験主義のあやまりをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことが矛盾の法則を研究して得たわれわれの簡単な結論である。




〔1〕 レーニンの『哲学ノート』のなかの『ヘーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』の「哲学史第一巻」の「エレア学派」から引用。
〔2〕 レーニンの『弁証法の問題について』(一九一五年著)のなかの「統一物が二つにわかれること、そして、その矛盾したそれぞれの部分を認識することは、弁証法の本質である」というところにみられる。またレーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要も のなかの「弁証法は簡単に対立面の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるだろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」というところにみられる。
〔3〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔4〕 漢代における孔子学派の有名な代表的人物董仲舒(西紀前一七九〜前一〇四年)は、漢の武帝にたいして「道の大もとは天より出《い》で、天は不変であり、道もまた不変である」とのべた。「道」とは中国古代の哲学者の適用語で、その意味は「道路」または「道理」ということであり、「法則」と解してよい。
〔5〕 エンゲルスの『反デューリンク論』第一編第十二章「弁証法。量と質」にみられる。
〔6〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。
〔7〕 エンゲルスの『反デューリング論』第一編第十二章「弁証法。量と質」から引用。
〔8〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔9〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔10〕を参照。
〔11〕 『孫子』巻三「謀攻」編にみられる。
〔12〕 魏徴(西紀五八〇〜六四三年)は唐代初期の政治家であり歴史家であった。本文に引用されていることばは『資治通鑑《しじつがん》』巻一九二にみられる。
〔13〕『水滸伝』は、北宋末期の農民戦争を描いた小説で、宋江はその小説の主要人物である。祝家荘はその農民戦争の根拠地梁山伯の付近にあり、この荘の支配者は祝朝奉という大極悪地主であった。
〔14〕 レーニンの『ふたたび、労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンのあやまりについて』から引用。
〔15〕 レーニンの『なにをなすべきか?』第一章第四節にみられる。
〔16〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。
〔17〕 『山海経』は、中国の戦国時代(西紀前四〇三〜前二二一年)の著作である。夸父とは『山海経』にでてくる神人である。それによれば「夸父が太陽と駆けくらべをした。太陽がしずみ、のどがかわくあまり、黄河と渭水の水を飲んだ。黄河と渭水ではたりなかったので、北の大沢にいって飲もうとしたが、いきつかないうちに、途中でのどかかわききって死んでしまった。その杖のすてられたところが森林となった」(「海外北経」)という。
〔18〕 [上は”羽”、下は”にじゅうあし”]は中国古代の伝説にある英雄で、「太陽を射た」というのは、かれが弓の名人であったという有名な物語である。漢朝の人劉安(西紀前二世紀ごろの貴族)が編集した『淮南子』には、つぎのように書かれている。「堯《ぎょう》の時代に、十個の太陽が一時に出て、作物をこがし、草木を枯らしたので、民にはたべるものがなくなった。[”けものへん”+契][豸+兪]《けつゆ》、鑿歯《さくし》、九嬰《きゅうえい》、大風《たいふう》、封[豕+希]《ほうき》、脩蛇《しゅうだ》がことごとく民を害した。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]をつかわして……天上の十個の太陽を射させ、地上の[”けものへん”+契][豸+兪]を殺させた。……万民はみなよろこんだ。」東漢の人王逸(二世紀ごろの著作家)も屈原の詩「天間」の注釈のなかでつぎのようにいっている。「淮南がいうのに、堯の時代に、十個の太陽が一時に出て、草木はこがされ枯れてしまった。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]に命じて、仰いで十個の太陽を射させ、そのうちの九つを射とめ、……一つを残した。」
〔19〕 『西遊記』は一六世紀の中国の神話小説である。孫悟空はその中にでてくる主人公の神猿で、七十二変化の方術を身につけ、鳥、けもの、虫、魚、草、木、器物、人間など、どんなものにでも思うままにばけることができる。
〔20〕 『聊斎志異』は、一七世紀の清朝の人蒲松齢が民間の伝説をあつめて書いた小説集で、四百三十一縞の短編小説からなっており、大部分が、神や仙人やきつねや幽霊の物語である。
〔21〕 マルクスの『政治経済学批判序説』から引用。
〔22〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔23〕 このことばは、班固(一世紀ごろの中国の有名な歴史家)があらわした『前漢書』巻三十「芸文志」にはじめてみられ、その後非常に流行した。班固の原文はつぎのとおりである。「諸子十家のうち、見るべきものは九家のみである。これらはみな、王道がおとろえ、諸侯が武力であらそい、時の君主たちがそれぞれ異なる好みをもっていたときにおこった。こうして九家の術がむらがりおこり、おもいおもいの主張をもち、自分がよいとおもうものをかかげ、それをもって遊説し、諸侯にとりいった。かれらのいうところは異なってはいるが、たとえてみれば水と火のように、たがいに滅しあいながら、たがいに生じさせあい、仁は義と、敬は和と、みなたがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあった。」
〔24〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。
〔25〕 ブハーリンの著『過渡期の経済』へのレーニンの評注にみられる。
訳注
@ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕を参照。
A 袁世凱がつくった封建的軍閥集団。清朝末、袁世凱が北洋大臣に任命されてのち、かれが新しく編成し、訓練をほどこした陸軍を「北洋軍」とよんだ。辛亥革命(一九一一年)で清朝はたおれたが、革命の成果は表世凱にうばわれ、袁世凱が総統の地位にのしあがって、中央と地方の政権をにぎる軍事集団をつくった。北洋軍閥の支配がこのときからはじまった。袁世凱の死後、北洋軍閥は多くの派閥にわかれ、それぞれちがった帝国主義国に支持されて、たえまなく権力あらそいの混戦をくりびろげた。第一次国内革命戦争の時期に、北洋軍閥政府は人民革命勢力のためにうちたおされた。
B 本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔4〕を参照。
C 一九〇五年八月、孫中山の指導する興中会は、当時の革命的な小団体である華興会や光復会などと連合して、中国同盟会を結成した。これは当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級および清朝に反対する一部の顔役たちの連合戦線組織で、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政治綱領を提起した。しかし、帝国主義の侵略に反対して民族の独立を実現するというスローガンは、はっきりかかげられなかった。辛亥革命ののち、同盟会は改組されて国民党となった。


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