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     五 矛盾の諸側面の同一性と闘争性

 矛盾の普遍性と特殊性の問題を理解したならば、われわれはさらにすすんで、矛盾の諸側面の同一性と闘争性の問題を研究しなければならない。
 同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依頼(あるいは依存)、相互連結、あるいは相互協力などといったこれらの異なったことばは、すべておなじ意味であって、つぎの二つのことをいっている。第一は、事物の発展過程における一つ一つの矛盾のもつ二つの側面は、それぞれ自己と対立する側面を自己の存在の前提としており、双方が一つの統一体のなかに共存しているということ、第二は、矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化していくということである。これらが同一性といわれるものである。
 レーニンはいっている。 「弁証法とは、対立面がどのようにして同一であることができ、どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらは、どんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか──なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか、ということについての学説である。」〔16〕
 レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。
 あらゆる過程のなかで、矛盾しているそれぞれの側面は、もともと、たがいに、排斥しあい、闘争しあい、対立しあっている。世界のあらゆる事物の過程および人びとの思想には、すべてこのように矛盾性をおびた側面がふくまれており、それには一つの例外もない。単純な過程には一つの矛盾しかないが、複雑な過程には、一つ以上の矛盾がある。それぞれの矛盾のあいだも、またたがいに矛盾をなしている。このようにして、客観世界のあらゆる事物や人びとの思想が組み立てられ、またそれらに運動をおこさせている。
 こういえば、きわめて不同一、きわめて不統一でしかないのに、どうしてまた同一あるいは統一というのか。
 矛盾しているそれぞれの側面は、もともと孤立しては存在できないものである。もし、矛盾の一つの側面に、それと対をなす矛盾の側面がなかったら、それ自身も存在の条件をうしなってしまう。あらゆる矛盾している事物、あるいは人びとの心のなかで矛盾している概念の、いずれか一つの側面だけが独立して存在することができるかどうかを考えてみるがよい。生がなければ死はあらわれず、死がなければ生もあらわれない。上がなければ下というものはなく、下がなければ上というものもない。災いがなければ幸いというものはなく、幸いがなければ災いというものもない。順調がなければ困難というものはなく、困難がなければ順調というものもない。地主がなければ小作人はなく、小作人がなければ地主もない。ブルジョア階級がなければプロレタリア階級はなく、プロレタリア階級がなければブルジョア階級もない。帝国主義の民族抑圧がなければ植民地や半植民地はなく、植民地や半植民地がなければ帝国主義の民族抑圧もない。すべての対立的要素はみなこうであって、一定の条件によって、一方ではたがいに対立しあいながら、他方ではまたたがいに、連結しあい、貫通しあい、浸透しあい、依頼しあっている。このような性質が同一性とよばれるものである。すべての矛盾している側面は、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾とよばれる。しかし、また同一性をそなえているので、たがいに連結しあっている。レーニンが弁証法とは「対立面がどのようにして同一であることができるか」を研究するものだといっているのは、つまりこのような状況についていったのである。どうしてそれができるか。たがいに存在の条件となっているからである。これが同一性の第一の意義である。
 しかしながら、矛盾する双方がたがいに存在の条件となり、双方のあいだに同一性があり、したがって一つの統一体のなかに共存することができるといっただけで、十分だろうか。まだ十分ではない。問題は矛盾する双方がたがいに依存しあうことで終わるのではなく、いっそう重要なことは、矛盾している事物がたがいに転化しあうことにある。つまり、事物の内部の矛盾する両側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化していき、自己と対立する側面のおかれていた地位に転化していくのである。これが矛盾の同一性の第二の意義である。
 どうしてここにも同一性があるのか。見たまえ。被支配者であったプロレタリア階級は革命をつうじて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョア階級は被支配者に転化していくというように、相手がたがもとしめていた地位に転化していく。ソ連はすでにそうしたし、全世界もそうするにちがいない。もしそのあいだに、一定の条件のもとでの連係と同一性がなかったら、どうしてこのような変化がおこりえようか。
 中国近代史の一定の段階で、かつてある種の積極的役割をはたした国民党は、その固有の階級性と帝国主義からの誘惑(これらが条件である)によって、一九二七年以後、反革命に転化したが、中国と日本との矛盾がするどくなったことと、共産党の統一戦線政策(これらが条件である)によって、また抗日にやむなく賛成している。矛盾するものは一方から他方に変わっていき、そのあいだには一定の同一性がふくまれている。
 われわれの実行した土地革命は、土地を持っていた地主階級が土地を失った階級に転化し、土地を失っていた農民が、逆に、土地を手に入れて小所有者に転化する過程であったし、これからもそのような過程をふむだろう。持つことと持たないこと、また、得ることと失うことは、一定の条件によって、たがいに連結しあい、両者は同一性をもっている。農民の私有制は、社会主義という条件のもとでは、さらに社会主義的農業の公有制に転化する。ソ連はすでにそうしたし、全世界も将来はそうするにちがいない。私有財産と公有財産のあいだには、こちらからむこうに通ずる橋があり、哲学ではこれを同一性あるいは相互転化、相互浸透といっている。
 プロレタリア独裁あるいは人民の独裁を強化することは、まさに、こういう独裁を解消し、どんな国家制度も消滅させた、より高い段階にたっするための条件を準備することである。共産党を結成し、それを発展させることは、まさに、共産党およびすべての政党制度を消滅させる条件を準備することである。共産党の指導する革命軍を創設して革命戦争をすすめることは、まさに、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することである。これら多くのたがいに反しあうものは、同時にたがいに成りたたせあっているのである。
 周知のように、戦争と平和はたがいに転化しあうものである。たとえば、第一次世界大戦は戦後の平和に転化し、中国の内戦もいまはやんで、国内の平和があらわれているように、戦争は平和に転化する。また、たとえば、一九二七年の国共合作は戦争に転化したし、現在の世界平和の局面も第二次世界大戦へ転化する可能性があるように、平和は戦争に転化する。どうしてそうなのか。階級社会では、戦争と平和というこの矛盾している事物が、一定の条件のもとで同一性をそなえているからである。
 矛盾しているすべてのものは、たがいに連係しあっており、一定の条件のもとで一つの統一体のなかに共存していること、また一定の条件のもとではたがいに転化しあうこと、これが矛盾の同一性のもつ意義のすべてである。レーニンが「どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらはどんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか」といっているのは、つまりこういう意味である。
 「なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか。」それは客観的事物が、もともとそうなっているからである。客観的事物のなかの矛盾している諸側面の統一あるいは同一性というものは、もともと死んだものでも、凝固したものでもなくて、生きた、条件的な、可動的な、一時的な、相対的なものであり、すべての矛盾は、一定の条件によって、自己と反対の側面に転化するものである。このような状況が、人間の思想に反映してマルクス主義の唯物弁証法的世界観となった。現在の、また歴史上の反動的な支配階級およびかれらに奉仕する形而上学だけが、対立した事物を、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見ずに、死んだ、凝固したものとして見、しかも、このようなあやまった見方をいたるところで宣伝し、人民大衆をまどわしている。これはかれらの支配をつづけるという目的を達成するためである。共産党員の任務は、反動派や形而上学のあやまった思想を暴露し、事物本来の弁証法を宣伝し、事物の転化をうながし、革命の目的をたっすることにある。
 一定の条件のもとでの矛盾の同一性とは、つまり、われわれのいう矛盾が、現実的な矛盾、具体的な矛盾であり、しかも、矛盾の相互転化も現実的、異体的であるということである。神話のなかの多くの変化、たとえば『山海経《せんがいきょう》』のなかの「夸父《かほ》が太陽を追いかけた」話〔17〕、『淮南子《えなんじ》』のなかの[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]《げい》が九つの太陽を射た」話〔18〕、『西遊記』のなかの孫悟空の七十二変化《へんげ》〔19〕、また、『聊斎志異《りょうさいしい》』〔20〕のなかにでてくる多くの幽霊やきつねが人にばける話など、こういう神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、無数の複雑な現実的矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の幼稚な、想像の、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾があらわした具体的変化ではない。マルクスはいっている。「すべての神話は、想像のなかで、かつ想像をつうじて、自然力を征服し支配し形象化する。したがって、それらは、自然力が実際に支配されていくにつれて消失する。」〔21〕このような神話のなかの(さらに童話のなかの)千変万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像しているので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、もっともよい神話は「永遠の魅力」(マルクス)さえもっているが、神話は、具体的矛盾をかたちづくる一定の条件にもとづいて構成されたものではないから、科学的に現実を反映したものではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想的な同一性にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、それがマルクス主義の弁証法である。
 なぜ、鶏の卵はひよこに転化できるのに、石ころはひよこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性をもっているのに、戦争と石ころは同一性をもっていないのか。なぜ人間は人間を生めるだけで、ほかのものを生むことができないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性の存在は、一定の必要な条件のもとでなければならないからである。一定の必要な条件がなければ、どんな同一性も存在しない。
 なぜ、ロシアでは一九一七年二月のブルジョア民主主義革命が同年一〇月のプロレタリア社会主義革命に直接つながっていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直接つながることがなく、一八七一年のパリ・コミューンは失敗に終わったのか。なぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧制度が社会主義に直接つながったのか。なぜ、中国の革命は、西洋諸国のとおった歴史的なふるい道をとおる必要がなく、ブルジョア独裁の時期をへる必要がなく、資本主義の前途をさけることができ、社会主義に直接つながることができるのか。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的な条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、事物発展の過程には、一定の矛盾がうまれ、しかも、この、あるいはこれらの矛盾は、たがいに依存しあうし、またたがいに転化しあうのであって、それがないとしたら、すべては不可能である。
 同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなにか。同一性と闘争性との関係はどんなものだろうか。
 レーニンはいっている。「対立面の統一(一致、同一、同等作用)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」〔22〕
 レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。
 すべての過程には始めと終わりがある。すべての過程は自己の対立物に転化する。すべての過程の常住性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。
 どんな事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部にふくまれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によって引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点にたっし、統一物の分解を引きおこして、質的な変化が発生したので、著しく変化している様相を呈するのである。われわれの日常生活に見られる統一、団結、連合、調和、均勢、対峙《たいじ》、膠着《こうちゃく》、静止、恒常,平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などといった状態がやぶれて反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化をしている状態のなかで、一つの過程から他の過程に移行する変化のなかで呈する様相である。事物は第一の状態から第二の状態にたえず転化するものであり、矛盾の闘争は、この二つの状態のなかに存在するとともに、第二の状態をへて矛盾の解決にたっするものである。したがって、対立面の統一は条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面がたがいに排除しあう闘争は絶対的であるというのである。
 われわれはさきに、たがいに反しあう二つのもののあいだには同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに転化しあうことができるといったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができるし、またたがいに転化しあうことができるが、この一定の条件がなければ、矛盾となることができず、共存することができず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。われわれはまた、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでをつらぬいていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させており、矛盾の闘争の存在しないところはないといっている。したがって、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的である。
 条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。
 われわれ中国人がつねにいう「たがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあう」〔23〕とは、たがいに反しあうものが同一性をもっているという意味である。このことばは、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反しあう」とは、矛盾する二つの側面がたがいに排斥しあい、あるいはたがいに闘争しあうことをいう。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側面が、一定の条件のもとで、たがいに連結しあって同一牲を獲得することをいう。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。
 同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個性のなかには通性が存在している。レーニンのことばをかりていえば、「相対的なもののなかに絶対的なものがある」〔24〕のである。


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