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     大会の団結と全党の団結

 大会における政治問題についての異なった意見は、説明をつうじてすでに一致をみるにいたった。党中央の路線とごく少数の同志の指導する退却的な路線とのあいだにかつてあった相違も、すでに解決され〔10〕、わが党がすでに非常にかたく団結していることをしめしている。このような団結は当面の民族民主主義革命のもっとも重要な基礎である。なぜなら、共産党の団結があってはじめて、全階級と全民族の団結を実現することができ、全階級と全民族の団結があってはじめて、敵にうち勝ち、民族民主主義革命の任務を達成することができるからである。

     何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう

 われわれの正しい政治方針とかたい団結は、何百何干方の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させることが、その目的である。プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級の広範な大衆にたいして、われわれは宣伝、扇動および組織の活動をする必要がある。ブルジョア階級の抗日派とわれわれが同盟をむすぶことでも、やはりわれわれはいっそうの活動をする必要がある。党の方針を大衆のものにするためには、われわれの長期にわたって堅持する、どんな失敗にもくじけない、あらゆる苦難にたえる、辛抱づよい、めんどうをいとわない努力がなければならない。このような努力なしには、なにごともなしとげられない。抗日民族統一戦線の結成と強化、およびその任務の達成、中国における民主共和国の実現には、この大衆をかちとる努力をすこしでもゆるがせにすることはできない。このような努力によって、何百何千万の大衆をわれわれの指導のもとにかちとったならば、われわれの革命の任務は急速に達成できるのである。われわれの努力によって、日本帝国主義は確実にうちたおされ、民族の解放と社会の解放は完全に実現されるにちがいない。




〔1〕 西安事変ののち、日本帝国主義者は国民党当局にはたらきかけ、当時すでに実現しはじめていた中国国内の平和と、しだいに形成されつつあった抗日民族統一戦線を破壊させようとして、表面的には一時おだやかな速度をとった。一九三六年十二月と一九三七年三月、日本侵略者は、二度にわたって、かいらい内蒙古自治政府をそそのかして、南京の国民党政府を支持するという通告電をうたせた。そのうえ日本の外棺佐藤は、これまでの中国にたいする関係をあらため、中国の統一と復興に協力するなどといつわりのことばをならべて、蒋介石の篭絡にのりだした。他方、日本の財閥の児玉謙次らは、また中国が「近代国家の組織を完成する」ことに協力すると称して、「経済視察団」なるものを組織して中国にやってきた。いわゆる「佐藤外交」および日本帝国主義のこうしたうわべだけの現象にまどわされた一部の人たちのいう「日本の後退」とは、こうした一連の侵略的陰謀をさしている。
〔2〕 一九三六年十一月、国民党政府は、当時、上海で抗日救国運動を指導していた沈鈞儒ら七人の指導者を逮捕した。一九三七年四月、蘇州の国民党高等法院の検察官は、沈鈞儒らを「公訴」した。国民党当局は、すべての愛国運動のことを「民国をあやうくする」ものだという、これまでの反動的なきまり文句をとなえつづけ、沈鈞儒らにたいしても「民国をあやうくする」という「罪状」をかぶせた。
〔3〕 西安事変前、東北軍は、陝西省、甘粛省の境界地区に駐屯し、陝西省北部の赤軍と直接接触していたので、赤軍の影響をふかくうけ、それで西安事変をおこすにいたった。一九三七年三月、国民党反動派は、赤軍と東北車との関係をひきはなし、またその機会に乗じて、東北軍の内部を分裂させようとして、東北軍に東の河南省と安徽省への移動を強硬に命令した。
〔4〕 楊虎城は、西安事変をおこした西北地方の軍事指導者で、張学良とならんで名声をはせ、当時「張楊」とよばれていた。張学良は蒋介石を釈放したのち、蒋を南京までおくりとどけると、ただちに抑留された。一九三七年四月、楊虎城も国民党反動派から、辞職して外遊することを強制された。楊虎城は抗日戦争勃発後、抗日活動に参加しようとして帰国したが、これも蒋介石のために長期監禁され、一九四九年九月、人民解放軍か重慶にせまったとき、ついに強制収容所で殺害された。
〔5〕 潼関は、陝西、河南、山西の省境にある軍事的要地である。西安事変のとき、国民党の部隊は主として潼関以東に駐屯していた。当時、「左」翼と豪語していた一部の人(張国Zはそのひとりである)は「潼関からうって出よ」、つまり国民党部隊にむかって進攻せよ、と主張した。このような主張は、西安事変を平和的に解決しようとする党中央の方針と相反するものであった。
〔6〕 フランス帝国主義は、ロシア十月革命後、長いあいだソ連を敵視する政策をとってきた。十月革命後まもなく、フランス政府は、一九一八年から一九二〇年にかけてのソ連にたいする十四ヵ国の武力干渉に積極的に参加した。そしてこの干渉が失敗したのちも、依然としてソ連を孤立させる反動政策をとりつづけた。一九三五年五月になって、ソ連平和外交政策のフランス人民にたいする影響、ファシスト・ドイツのフランスにたいする脅威によって、フランスはようやく、ソ連と相互援助条約を結ぶにいたった。だが、フランスの反動政府は、のちになるとこの条約を忠実に実行しなかった。
〔7〕 マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の第四の部分、レーニンの『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の第十二と第十三の部分、『ソ連共産党(ボリシェピキ)歴史小教程』の第三章第三節を参照。
〔8〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三の部分、『十月革命とロシア共産主義者の戦術』の第二の部分、『レーニン主義の諸問題によせて』の第三の部分を参照。
〔9〕 一九三五年五月、赤軍大学卒業式におけるスターリンの演説にみられる。原文はつぎのとおりである。「世界にあるすべての貴重な資本のうちで、もっとも貴重で、もっとも決定的な意義をもつ資本は、人材であり、幹部である。われわれの現在の条件のもとでは、『幹部がすべてを決定する』ということを理解すべきである。」
〔10〕 一九三五年から一九三六年までのあいだの党中央の路線と張国Zの退却路線との相違をさしている。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔22〕を参照。毛沢東同志がここで「相違も、すでに解決され」たといっているのは、赤軍第四方面軍と中央赤軍が合流したことをさしている。その後の張国Zの党にたいする公然たる裏切り、反革命への転落は、もはや指導路線上の問題ではなくて、個人の裏切り行為でしかない。
訳注
@ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔8〕を参照。


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