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     第九節 殲滅戦

 「消耗で張りあう」という主張は、中国の赤軍にとってはいまの事情にあっていない。「宝くらべ」を竜王が竜王とやるのでなくて、こじきが竜王とやったら、それこそこっけいである。ほとんどすべてのものを敵側から奪うことによってまかなっている赤軍にとっては、その基本的な方針は殲滅戦である。敵の実兵力を殲滅しないかぎり、「包囲討伐」をうちやぶることも、革命の根拠地を発展させることもできない。敵を殺傷するのは、敵を殲滅する手段としてとられるものであり、そうでなければ意義がない。敵を殺傷することで、味方も消耗するが、また敵を殲滅することで、味方が補充されるのであって、そうすればわが軍の消耗がつぐなえるばかりでなく、わが軍の力は増大される。撃破戦は、強大な敵にたいして勝敗を基本的に決するものではない。ところが、殲滅戦は、どんな敵にたいしても、ただちに重大な影響をもたらす。人のばあいでも、十本の指を傷つけるよりは一本の指を切りおとした方がよく、敵にたいしても、十コ師団を撃破するよりはその一コ師団を殲滅した方がよい。
 一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」にたいするわれわれの方針は、いずれも殲滅戦であった。毎回殲滅した敵は、敵全体にとっては一部分にすぎなかったが、しかし「包囲討伐」はうちやぶった。五回目の反「包囲討伐」のときは、反対の方針がとられ、じっさいには、敵の目的達成をたすけることとなった。
 殲滅戦と、優勢な兵力を集中して包囲・迂回戦術をとることとは、同一の意義をもっている。後者がなければ前者はない。人民の支持、すぐれた陣地、たたきやすい敵、敵の意表にでるなどの条件は、いずれも殲滅の目的を達成するのに欠くことのできないものである。
 撃破に意義があるといい、ひいては敵を逃走させることにも意義があるというのは、全戦闘あるいは全戦役で、わが軍の主力が、目標とした敵にたいして殲滅的な戦いをおこなうばあいにだけいえるのであって、そうでなければ、なんの意義もない。これは、失うことが得ることにたいして意義をもつ、もう一つのばあいである。
 われわれは軍需工業を建設するが、それへの依頼心を助長してはならない。われわれの基本方針は、帝国主義と国内の敵の軍需工業に依存することである。ロンドンと漢陽《ハンヤン》の兵器工場の製品にたいして、われわれは権利をもっており、しかも敵の輸送隊によってそれがはこばれてくる。このことは冗談ではなく、真理である。




〔1〕 中国の文字の「実際」という概念には、二つの意味がふくまれている。一つは実際の状況をさし、他の一つは人びとの行動(つまり一般にいわれる実際)をさす。毛沢東同志がその著作のなかでこの概念をつかうとき、しばしば両方の意味をかねている。
〔2〕 孫武子とは孫武のことで、西紀前五世紀の中国の著名な軍事学者であり、『孫子』十三縞をあらわした。本文に引用したことばは、『孫子』三巻の「謀攻」編にみられる。
〔3〕 一九二一年七月、中国共産党が成立してから、一九三六年に毛沢東同志がこの著作をあらわした時までが、ちょうど十五年である。
〔4〕 陳独秀は、もと北京大学の教授であったが、雑誌『新青年』を編集したことから有名になった。陳独秀は中国共産党の創立者のひとりであった。かれか五・四運動時代に有名であったことと、創立当初の党が幼稚であったことから、かれは党の総書記になった。一九二四年から一九二七年までの革命における最後の一時期には、陳独秀に代表される党内の右翼思想によって、投降主義の路線が形成された。当時の「投降主義者は、農民大衆、都市小ブルジョア階級および中層ブルジョア階級にたいする指導権をすすんで放棄し、とくに武装力にたいする指導権を放棄したため、そのときの革命を失敗に終わらせてしまった」(毛沢東『当面の情勢とわれわれの任務』)。一九二七年、革命が失敗したのち、陳独秀およびその他の少数の投降主義者は、革命の前途に悲観して解党主義者となり、トロツキー主義の反動的立場をとるとともに、トロツキストと結託して反党小グループをつくった。そのため、一九二九年十一月、党から追われた。陳独秀は一九四二年に死んだ。陳独秀の右翼日和見主義については、本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』『湖南省農民運動の視察報告』の二つの論文の解題と第二巻の『「共産党人」発刊のことば』を参照。
〔5〕 李立三の「左」翼日和見主義とは、一九三〇年六月以後の約四ヵ月のあいだ、当時の中国共産党中央の主要な指導者李立三によって代表された「左」翼日和見主義路線のことであり、ふつう「李立三路線」といわれている。李立三路線の特徴は、党の第六回全国代表大会の方針にそむいて、革命が大衆的な力の準備を必要とし、革命の発展が不均等であることを否定したことである。李立三路線は、毛沢東同志の、長期にわたって主要な注意力を農村根拠地の創設にそそぎ、農村をもって都市を包囲し、根拠地をもって全国的革命の高まりをおしすすめるという思想を、いわゆる「極度にあやまった」「農民意識の地方的観念であり、保守的観念である」として、全国各地でただちに蜂起する準備をしなければならないと主張した。李立三はこのようなあやまった路線のもとで、全国各中心都市の武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画をたてた。同時に、李立三路線は世界革命の不均等性も認めず、中国革命の全面的勃発が必然的に世界革命の全面的勃発をひきおこし、しかも中国革命は世界革命の全面的勃発のなかにあってのみ成功しうるものだとした。李立三路線はまた、中国のブルジョア民主主義革命の長期性を認めず、一省あるいは数省でさきに勝利をうることが、社会主義へ転換するはじまりであるとして、これにもとづき、当時の事情にあわない若干の「左」翼的冒険政策をきめた。毛沢東同志はこのあやまった路線に反対し、全党の広範な幹部と党員もこの路線の是正を要求した。李立三自身も、一九三〇年九月、党の第六期中央委員会第三回総会で、当時指摘されたあやまりを認め、ついで中央の指導的地位からはなれた。李立三が長い期間のなかで自己のあやまった観点をあらためたので、党の第七回全国代表大会は、またかれを中央委員に選出した。
〔6〕 一九三〇年九月にひらかれた党の第六期中央委員会第三回総会とその後の一時期の党中央は、李立三路線をうちきるために積極的な作用をもつ多くの措置をとった。ところが、第六期中央委員会第三回総会以後、革命闘争の実際の経験をもたない党内の一部の同志は、陳紹禹(王明)、秦邦憲(博古)を先頭として、中央の措置に反抗した。かれらは当時発表した『二つの路線』、または『中国共産党のいっそうのボリシェビキ化のためにたたかおう』と名づけられたパンフレットのなかで、李立三路線の「右」翼的なものにたいする「批判」をその活動のもとでにして、当時の党内の主要な危険が「左」翼日和見主義ではなく、いわゆる「右翼日和見主義」であるととくに強調した。かれらは、新しい形態のもとで李立三路線やその他の「左」翼的思想、「左」翼的政策を継続させ、復活させ、あるいは発展させる新しい政治綱領をうちだして、毛沢東同志の正しい路線に対立した。毛沢東同志のこの著作『中国革命戦争の戦略問題』は、主としてこの新しい「左」翼日和見主義路線が軍事の面でおかしたあやまりを批判するために書かれたものである。この新しい「左」翼的なあやまった路線は、一九三一年一月にひらかれた党の第六期中央委員会第四回総会から、一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義でひらいた政治局会議で、あやまった路線の指導を終わらせ、毛沢東同志を先頭とする党中央の新しい指導がはじめられたときまで、党内を支配していた。この「左」翼的なあやまった路線が党内を支配していた時期はとくに長く(四年)、党と革命にあたえた損失はとくに重大であった。そのわるい結果として、中国共産党、中国赤軍および赤軍の根拠地は、その九〇パーセント前後を失い、革命根拠地の数干万の人民は国民党にふみにじられ、中国革命の進展をおくらせた。この「左」翼的路線のあやまりをおかした同志たちも、その大多数は、長期の体験をつうじて、自分のあやまりを認識し、是正して、党と人民にとって有益な多くの仕事をした。これらの同志は、他の広範な同志たちといっしょに、おなじ政治的認識を基礎として、毛沢東同志の指導のもとに、たがいに団結した。
〔7〕 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔21〕および注〔22〕を参照。
〔8〕 盧山軍官訓練団とは、蒋介石が反共の軍事幹部を訓練するためにつくった組織のことで、一九三三年七月、江四省九江県の盧山に設けられた。この訓練団では、蒋介石軍の将校が順番にあつめられ、ドイツ、イタリア、アメリカの軍事教官によって、ファッショ的な軍事訓練と政治訓練がほどこされた。
〔9〕 ここでいう五回目の「包囲討伐」でとられた新しい軍事原則とは、主として、トーチカをつくっては前進し、一歩ごとに陣地をかためるという蒋介石匪賊一味の「堡塁政策」のことである。
〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。この論文のなかで、レーニンはハンガリー共産党員べラ・クンを批判して、「かれは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂である具体的状況にたいする具体的分析を放棄した」と指摘している。
〔11〕 党の湖南・江西省境地区第一回代表大会とは、一九二八年五月二十日、湖南・江西辺区の共産党組織が寧岡県の茅坪でひらいた第一回代表大会のことである。
〔12〕 本巻の『党内のあやまった思想の是正について』の注〔2〕および〔3〕を参照。
〔13〕 「匪賊主義」とは、規律がなく、組織性がなく、明確な政治的目標のない略奪行為のことである。
〔14〕 赤軍が江西省から出発して陝西省北部に到達するまでの二万五千華里の長征をさす。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔20〕にみられる。
〔15〕 ロシアで、一九〇五年十二月の蜂起が失敗したのち、革命が高揚からしたいに退潮に転じていった時期をいう。『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第三章第五、第六節を参照。
〔16〕 ブレスト条約は、一九一八年三月、ソビエト・ロシアがドイツと締結した講和条約である。当時の状況では、敵の力があきらかに革命勢力をしのいでいたので、成立早々まだ自分の軍隊をもっていなかったソビエト共和国か、ドイツ対国主義の打撃をこうむらないようにするためにおこなった一時的な退却である。この講和条約の締結によって、ソビエト共和国はプロレタリア階級の政権を強固にし、経済を調整し、赤軍を建設するための時間をかせぐことができ、プロレタリア階級は農民にたいする指導を保持し、力を結集して、一九一八年から一九二〇年にかけての白衛軍およびイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドの諸国の武力千渉を撃破することができるようになった。
〔17〕 一九二七年十月三十日、広東省海豊、陸豊県の農民は、中国共産党の指導のもとで三回目の蜂起をおこない、海豊、陸豊県およびその付近の地区を占領し、赤軍を組織し、労農民主政権をうちたてた。その後、敵をみくびるというあやまりをおかしたため失敗した。
〔18〕 一九三六年の秋、赤軍第四方面軍は、第二方面軍と合流したのち、西康省東北部から出発して、北上のための移動をおこなった。張国Zは、このときにもやはり反党の立場を固持し、一貫してとりつづけてきた退却主義と解党主義を固持した。同年十月、赤軍第二万両軍と第四方面軍が甘粛省についたのち、張国Zは第四方面軍の前衛部隊二万余人にたいし、西路軍を編成し、黄河をわたって西の青海省へ進むことを命令した。一九三六年十二月、西路軍は、戦いで打撃をうけて基本的に失敗し、一九三七年三月には完全に失敗してしまった。
〔19〕 マルクスのクーゲルマンあてのパリ・コミューンについての書簡にみられる。
〔20〕 『水滸伝』は農民戦争を描いた中国の有名な小説で、十四世紀の元未明初の施耐庵の作と伝えられている。林冲、柴進はいずれもこの小説にでてくる英雄的な人物である。洪師範は柴家の武芸指南者である。
〔21〕 魯と斉は、中国春秋時代(西紀前七二二年〜前四八一年)の二つの封建国家である。斉は大国で、いまの山東省中部にあり、魯はわりに小さく、いまの山東省南部にあった。魯の荘公は、西紀前六九三年から六六二年にかけての魯の君主であった。
〔22〕 左丘明は、中国の周代の有名な編年史『左伝』の著者である。本文に引用した部分は『左伝』「荘公十年」にみられる。
〔23〕 「肉食の者」とは役人をさす。「またなんぞ間せん」というのは「どうしてその仲間にくわわる必要があろうか」という意味。「犠牲玉帛、敢えて加えざるなり、かならず信を以てせり」という句の「犠牲玉帛」とは神をまつるときの供え物のことで、「加え」とは、誇大に報告するという意味。書の荘公が事実どおりに供え物を報告したといったのは、神にたいし信義をまもったということを表明したものである。「忠の属なり。以て一戦すべし」の忠とは、本分をつくすということである。曹[歳+リ]のことばは、一国の君主が訴訟や疑獄にたいして情理にかなった処置をとれば、人民の支持をうることができるので、戦ってよろしい、という意味である。「公まさにこれに鼓うたんとす」とか「斉人三たびうつ」というこの「鼓」は、陣太鼓をうって兵士の突撃を指揮することをいう。「軾に登りてこれを望み」という「軾」は車に乗るものがつかまる前部の手すりのことで、車の上ではいちばん高いので、これにのぼって遠方を見るのである。
〔24〕 昔の成皐の城は、いまの河南省成皐県の西北部にあり、古代の軍事的要地であった。西紀前二〇三年、漢王劉邦と楚王項羽がこの一帯で戦った。当時項羽は[”塋”の”土”を”水”に変える]陽、成皐をあいついで攻略し、劉邦軍はちりぢりになるまで撃破された。しかし、のちに劉邦は楚軍が氾水をなかばわたる時機をまちかまえて、ついに楚軍を大いにやぶり、成皐を奪回した。
〔25〕 昔の昆陽の城は、いまの河南省葉県にある。西紀二三年、劉秀(東漢光武帝)がここで王莽の軍隊をうちやぶった。この戦いでは、双方の兵力の差がはなはだしく、劉秀の軍隊はわずか八、九千人しかなかったのに、王莽の軍隊は四十余万であった。しかし、劉秀は王莽の将軍王尋、王邑が敵をみくびって、ゆるんでいた弱点を利用して、精兵三千人をひきいて、王莽の軍隊の中堅を突破し、勢いに乗じて進撃し、敵軍を大いにやぶった。
〔26〕 官渡はいまの河南省中牟県の東北部にある。西紀二〇〇年、曹操の軍隊と袁紹の軍隊がこの一帯で戦った。当時袁紹は十万の兵をもっていたが、曹操は兵もすくなく糧秣もつきはてていた。しかし曹操は、袁軍が敵をみくびって防備をしていないのに乗じて、軽装備の軍隊で奇襲をおこない袁軍の輜重《しちょう》に火をはなった。袁軍があわてふためくところを曹軍か出撃し、その主力を殲滅した。
〔27〕 呉とは孫権の側をいい、魏とは曹操の側をいう。赤壁はいまの湖北省嘉魚県の東北の長江南岸にある。西紀二〇八年、曹操は五十余万の兵をひきい八十万と称して孫権を攻撃した。孫権は曹操の敵である劉備と連合し、兵三万をくりだし、曹軍に伝染病があることと水戦に不慣れなことを利用して、火攻めで曹軍の軍船を焼きはらい、これを大いにやぶった。
〔28〕 彝陵はいまの湖北省宜昌県の東にある。西紀二二二年、呉の将軍陸遜はここで蜀漢の劉備を大いにやぶった。この戦いの初期には、劉備軍は連戦連勝して、彝陵まですすみ、呉の国境内に五、六百華里もはいった。陸遜は七、八ヵ月ものあいだたてこもって戦わず、劉備軍の「兵が疲れ、士気がくじけ、うつ手がなくなる」まで侍って、追い風を利用して火をはなち、大いに蜀軍をやぶった。
〔29〕 西紀三八三年、東晋の将軍謝玄は、秦の君主苻堅を安徽省の[シ+肥]水で大いにやぶった。当時、苻堅は歩兵六十余万、騎兵二十七万、親衛隊三万余騎をもっていたのにたいし、東晋は水陸軍あわせてわずか八万しかなかった。両軍が[シ+肥]水をへだてて対峙していたとき、晋軍の将領は、敵軍がおごり高ぶっているのを利用して、秦軍にたいし、晋軍が[シ+肥]水をわたって決戦できるよう、[シ+肥]水北岸に戦場をあけてほしいと申しいれた。秦軍はその予期したとおり承諾したが、軍隊かびとたび後退しだすととどまらなくなったので、晋軍はその機に乗じて[シ+肥]水をわたって攻撃し、大いに秦軍をやぶった。
〔30〕 一九二七年八月一日、中国共産党は、蒋介石、汪精衛の反革命に反対し、一九二四年から一九二七年にかけての革命事業をつづけるため、江西省の省都南昌で有名な蜂起を指導した。この蜂起に参加した武装部隊は三万余人で、指導者には周恩来、朱徳、賀竜、葉挺らの同志がいた。八月五日、蜂起軍は予定の計画にしたがって南昌を撤退したが、広東省の潮州、汕頭一帯まで進んだときに挫折をこうむった。蜂起軍の一部は、のちに朱徳、陳毅、林彪らの同志にひきいられて、転戦をしながら、井岡山に到達し、毛沢東同志の指導する労農革命軍第一軍第一師団と合流した。
〔31〕 本巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』の注〔8〕を参照。
〔32〕 一九二七年九月、湖南・江西省境地区の修水、萍郷、平江、瀏陽などの県の人民武装組織は、毛沢東同志の指導のもとに、有名な秋収蜂起をおこし、労農革命軍第一軍第一師団をつくった。毛沢東同志はこの軍隊をひきいて井岡山につき、そこで湖南・江西辺区の革命根拠地をうちたてた。
〔33〕 AB団とは当時赤色地域にひそんでいた国民党の反革命特務組織のことである。ABとは英語のAnti-Bolshevik(反ボリシェビキ)の略語である。
〔34〕 江西省中部の[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江と東部の撫水の二つの川のあいだの地区をいう。
〔35〕 レーニンの『即時に単独講和し、領土割譲条約を締結する問題についてのテーゼ』、『奇妙なことと法外なこと』、『重大な教訓と重大な責任』、『戦争と平和にかんする報告』などの著作および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第七章第七節を参照。
〔36〕 ここでいっているチベット族、回族とは、西康省一帯に住むチベット族と、甘粛省、青海省、新疆に住む回族をさす。
〔37〕 八股文とは十五世紀から十九世紀にかけての中国の封建王朝の官吏登用試験に規定された一種の特殊な文体である。八股文とは破題、承題、起講、入題、短股、中股、後股、束股の部分からなりたっており、「破題」は二句で、まず題目の要義を穿《うが》つ。「承題」はふつう三句か四句で、破題の意義をうけ、それを説明する。「起講」は全体を概説し、ここから論議がはじまる。「入題」は起講ののちに本願に入るところである。起股、中股、後股および束股のこの四段落が、はじめて正式の論議を展開するところで、中股は全文の中心となる。この四段落は、さらにそれぞれたがいに対比した字句をつかう二つの股からなりたち、全部で八股となるので、八股文とよばれ、あるいは八比ともよばれる。毛沢東同志がここでいっているのは、八股文を書くにあたって、一つの部分から他の部分にうつる展開過程のことをさしており、それを革命の発展の各段階にたとえたのである。だが、ふつうのばあい、毛沢東同志は八股文なるものを教条主義にたいするたとえや風刺につかっている。
訳注
@ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注Cを参照。
A ここでいう「部隊」は、だいたい連隊以下のものをさし、「兵団」は、だいたい師団以上のものをさす。
B 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注Dを参照。
C 本巻の『経済活動に心をそそげ』の注〔1〕を参照。
D この会議は一九三五年一月、貴州省の遵義でひらかれた。この会議は、全力を集中して、当時決定的な意義をもっていた軍事上、組織上のあやまりの是正に全力を集中し、党中央における日和見主義路線の支配に終止符をうち、毛沢東同志を代表とする党中央の新しい指導を確立した。これは中国共産党内でもっとも歴史的意義をもつ転換である。
E 「大後方制度に反対する」とは、五回目の反「包囲討伐」のとき、革命根拠地を「大後方」とみなし、一つの国家とみなして、「敵を国門の外でふせぎ」「一歩一歩さがっては抵抗していく」ことと「短距離強襲」などをやろうとする「左」翼日和見主義者のあやまった作戦原則に反対することである。「小後方制度を認める」とは、革命根拠地では、革命戦争を支援するのに分散した小規模な後方を利用すべきことを認めることである。
F 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔10〕を参照。


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