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     第六節 兵力集中の問題

 兵力を集中することは、みたところ、たやすいようであるが、実行はかなりむずかしい。多数で少数に勝つのがもっともよい方法であることは、だれでも知っているが、多くの人にはそれができず、反対に、いつも兵力を分散させている。その原因は、指導者が戦略的頭脳に欠けていて、複雑な環境にまどわされるために、環境に左右され、自主的能力をうしない、まにあわせ主義をとることにある。
 どんなこみいった、きびしい、みじめな環境にあっても、軍事指導者にとって、まず第一に必要なことは、自分の力を自主独立的に組織し使用することである。敵から受動的地位に追いこまれるのはよくあることだが、重要なのは主動的地位をすみやかにとりもどすことである。もしこのような地位をとりもどせなければ、そのつぎにくるものは失敗である。
 主動的地位というのは、空想的なものではなく、具体的なものであり、物質的なものである。ここでもっとも重要なことは、最大の、しかも活気にみちた軍隊を保存し集結することである。
 防御戦は、もともと受動的地位におちいりやすく、とても進攻戦のように十分に主動権を発揮することはできない。ところが、防御戦は受動的な形式のなかに主動的な内容をもつことができるのであり、形式上の受動的段階から、形式のうえでも内容のうえでも主動的段階に転じることができるのである。完全に計画的な戦略的退却は、形式のうえでは、よぎなくとった行動であっても、内容のうえでは、軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つものであり、敵をふかく誘いいれて反攻を準備するものである。ただ退却しようとしないで、あわてて応戦する(たとえば硝石の戦闘)だけでは、表面的には、主動性をかちとろうとつとめているようであっても、実際には受動的である。戦略的反攻は、その内容が主動的であるばかりでなく、形式のうえでも、退却時の受動的な姿勢をすてている。敵軍にとって、反攻とはわが軍が敵に主動権の放棄を強制し、同時に敵を受動的地位に立たせるよう努力することである。
 このような目的を完全にたっするためには、兵力の集中、運動戦、速決戦、殲滅戦はいずれも必要な条件である。その第一の、また主要なものが兵力の集中である。
 兵力の集中が必要なのは、敵味方の形勢を変えるためである。第一には、進退の形勢を変えるためである。まえには、敵が進みわれわれが退いていたが、いまは、われわれが進み敵を退かせるという目的をたっしようとはかるのである。兵力を集中し、一戦して勝てば、この目的はこの戦闘でたっせられ、また全戦役にも影響をあたえる。
 第二には、攻守の形勢を変えるためである。退却終点にまで退却するのは、防御戦では基本的にいって消極的な段階、すなわち「守る」段階に属する。反攻は積極的な段階、すなわち「攻める」段階に属する。戦略的防御の全過程では、防御の性質からはなれてはいないが、反攻は退却にくらべて、形式だけでなく、内容のうえでも、変化をきたしたものである。反攻は戦略的防御と戦略的進攻とのあいだにある過渡的なものであり、戦略的進攻前夜の性質をおびており、兵力の集中は、この目的をたっするためである。
 第三には、内線と外線との形勢を変えるためである。戦略的に内線作戦におかれている軍隊、とくに「包囲討伐」されている環境にある赤軍は、多くの不利をこうむっている。しかし、われわれは、戦役あるいは戦闘で、それを変えることができるし、またぜひとも変えなければならない。わが軍にたいする敵軍の一つの大「包囲討伐」を、敵軍にたいするわが軍の数多くの各個別の小包囲討伐に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の分進合撃を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の分進合撃に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の優勢を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の優勢に変える。戦略上で強者の地位にある敵軍を、戦役あるいは戦闘上では弱者の地位に立たせる。同時に、戦略上で弱者の地位にあるわが軍を、戦役あるいは戦闘上での強者の地位に変えていく。これがすなわち、内線作戦のなかでの外線作戦、「包囲討伐」のなかでの包囲討伐、封鎖のなかでの封鎖、防御のなかでの進攻、劣勢のなかでの優勢、弱者のなかでの強者、不利のなかでの有利、受動のなかでの主動というものである。戦略的防御のなかで勝利をたたかいとることは、基本的には、兵力の集中という一手にかかっている。
 中国赤軍の戦史のなかで、この問題はつねに重要な論争問題となっていた。一九三〇年十月四日、吉安の戦いでは、兵力の完全な集中を待たずに、開進と攻撃がおこなわれたが、敵(ケ英《トンイン》師団)が自分から逃げてしまったからよかったものの、われわれの攻撃そのものは効果をあげていなかった。
 一九三二年からは、根拠地の東西南北から四方に出撃することを要求した、いわゆる「全線出撃」というスローガンがあった。これは戦略的防御のときでもまちがいであるばかりか、戦略的進攻のときでさえもまちがいである。敵味方の対比の形勢全体に根本的な変化がないばあい、戦略にも、戦術にも、防御と進攻、牽制と突撃の両面があって、いわゆる「全線出撃」ということは実際にはごくまれである。全線出撃のスローガンは、軍事的冒険主義にともなってあらわれた軍事的平均主義である。
 軍事的平均主義者は、一九三三年になると、いわゆる「二つのゲンコツでうつ」といういい方をして、赤軍の主力を二つにわけ、二つの戦略方向で、同時に勝利をえようとはかった。その時の結果は、ゲンコツの一つはつかいようのない所におき、他の一つにはへとへとになるまでうちまくらせ、しかもその時にかちとれたはずの最大の勝利もかちとれなかった。わたしの意見では、強大な敵軍が存在する条件のもとでは、味方にどれだけの軍隊があろうと、一時期におけるその主要な使用方向は、ただ一つであるべきで、二つであってはならない。わたしは、作戦方向が二つあるいは二つ以上あることには反対しないが、しかし、同一の時期における主要な方向は、ただ一つでなければならない。中国赤軍は、弱小者の姿をもって国内戦争の戦場にあらわれ、たびたび強敵をくじいて、世界をおどろかすような戦果をあげたが、これは兵力の集中的使用によるところが非常に大きい。どの大勝利をとってみても、みなこの点を証明することができる。「一をもって十にあたり、十をもって百にあたる」というのは、戦略的ないい方であり、戦争全体、敵味方の対比全体についていったのであって、この意味では、われわれはたしかにそのとおりである。それは戦役および戦術についていったものではなく、この意味では、われわれはけっしてそうであってはならない。反攻においても、進攻においても、われわれはつねに大きな兵力を集結して、敵の一部をうっている。一九三一年一月、江西省寧都県東韶地区で譚道源師団をうった戦いでも、一九三一年八月、江西省興国県高興[土+于]地区で第十九路軍をうった戦いでも、一九三二年七月、広東省南雄《ナンシゥン》県水口[土+于]《ショイコウユイ》地区で陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の部隊をうった戦いでも、一九三四年三月、江西省黎川県団村《トヮンツン》地区で陳誠をうった戦いでも、すべて兵力を集中しなかったために損をした。水口[土+于]や団村のような戦いは、もともと一般的には勝ちいくさとみなされ、しかも大勝利とさえみなされているが(前者では陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の二十コ連隊を撃破し、後者では陳誠の十二コ連隊を撃破した)、しかし、われわれは従来から、このような勝ちいくさは歓迎しないもので、ある意味では、まったく負けいくさであったとさえいえる。なぜなら、戦利品がないか、あっても消耗したものよりすくなくて、われわれからみると意義があまりないからである。われわれの戦略は「一をもって十にあたる」のであるが、われわれの戦術は「十をもって一にあたる」のであり、これは、われわれが敵に勝つための根本法則の一つである。
 軍事的平均主義は、一九三四年の五回目の反「包囲討伐」のときになると、その極点にまで発展した。「兵を六路にわけ」、「全線にわたって抵抗」すれば、敵を制圧できると考えたのが、敵から制圧される結果となった。その原因は、土地を失うのをおそれたことにあった。主力を一つの方向に集中して、他の方向には牽制兵力をのこすと、もちろん土地を失うことはさけられない。しかし、それは一時的、局部的損失であって、その代価としては突撃方向で勝利をうることである。突撃方向で勝利すれば、牽制方向での損失はとりかえすことができる。敵の一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」では、いずれもわれわれは土地を失い、とくに敵の三回目の「包囲討伐」では、江西省の赤軍の根拠地のほとんど全部を失ったが、結果は、われわれの土地を全部とりもどしたばかりでなく、さらに拡大したのである。
 根拠地の人民の力がみえないところから、赤軍が根拠地を遠くはなれるのをおそれるというあやまった心理がよくうまれる。一九三二年、江西省の赤軍が遠く福建省の[シ+章]州にうってでたときにも、一九三三年の四回目の反「包囲討伐」戦役が勝利したのち、赤軍が福建省への進攻に転じたときにも、このような心理がうまれた。前者は、根拠地全部が占領されるのをおそれ、後者は、根拠地の一部が占領されるのをおそれて、兵力の集中に反対し、兵力をわけて守備することを主張したが、結果は、いずれもまちがっていたことが証明された。敵からみれば、根拠地はかれらにとって、はいるのにおそろしいところであり、他方、白色区にうって出た赤軍は、かれらの主要な危険物である。敵軍の注意力はいつも主力の赤軍の所在地にむけられ、主力の赤軍を放置して、もっぱら根拠地にむかうことはごくまれである。赤軍が防御をおこなうときも、敵の注意力はやはり赤軍に集中される。根拠地を縮小させようとする計画は、敵の全計画の一部分であるが、もし赤軍が主力を集中して、敵の一路の部隊を消滅するならば、敵軍の統帥部は、かれらの注意力と兵力をいっそう多く赤軍にむけなければならなくなる。したがって、根拠地を縮小させようとする敵の計画も、うちやぶることができるのである。
 「堡塁主義をとっている五回目の『包囲討伐』の時期には、われわれはただ兵をわけて防御し、短距離強襲をかけるほかなく、集中して戦うことはできない」、こういういい方もまたまちがっている。ひと進みに三里、五里、ひと推しに八里、十里とやってくる敵の堡塁主義の戦法は、まったく赤軍自身が一歩一歩さがっては抵抗していくというやり方によってもたらされたものである。もしわが軍が内線で一歩一歩さがっては抵抗していくという戦法をすてて、さらに、必要なまた可能なときには敵の内線にうってでたならば、局面は必然的にちがったものになる。兵力集中の法則こそ、堡塁主義にうち勝つ手段である。
 われわれの主張する兵力の集中には、人民の遊撃戦争を放棄するということはふくまれていない。李立三路線は、「一ちょうの銃も赤軍へ集中せよ」といって、小さな遊撃戦争を放棄することを主張したが、それがまちがいであることは、とうに証明された。革命戦争全体の観点からすると、人民の遊撃戦争は、主力の赤軍とたがいに両腕の関係をなしており、主力の赤軍だけで、人民の遊撃戦争がないならば、それは片腕将軍のようなものである。根拠地の人民という条件は、具体的にいうと、とくに作戦についていうと、武装した人民がいることである。敵がおそれをなしているのも、主としてこの点にある。
 赤軍の支隊を副次的な作戦方向におくこともまた必要であって、すべてを集中しなければならないというのではない。われわれの主張する兵力の集中は、戦場での作戦に絶対的あるいは相対的優勢を保障するという原則のうえにうちたてられている。強い敵に、あるいはきわめて重要な戦場での作戦にたいしては、絶対的優勢な兵力をもってのぞまなければならない。たとえば、一九三〇年十二月三十日の一回目の反「包囲討伐」の最初の戦いで、四万人を集中して張輝[王+贊]師団の九千人をうったのがそれである。弱い敵に、あるいは重要でない戦場での作戦にたいしては、相対的に優勢な兵力をもってのぞめば十分である。たとえば、一九三一年五月二十九日の二回目の反「包囲討伐」の最後の一戦で、建寧にむかって劉和鼎師団の七千人をうったときには、赤軍は一万人あまりしか使わなかった。
 毎回優勢な兵力が必要だということでもない。ある状況のもとでは、相対的に劣勢な、あるいは絶対的に劣勢な兵力をもって戦場にのぞんでもよい。相対的に劣勢なばあいとして、たとえばある地域に大きくない赤軍の部隊が一つしかなくても(兵力をもっていながら集中しないのではない)、人民、地形あるいは天候などの条件が、ある優勢な敵の進攻をうちやぶるのに、われわれにとって大いにたすけとなりうるときには、遊撃隊あるいは小支隊で、敵の正面および一翼を牽制し、赤軍が全力を集中して、突如、敵の他の一翼の一部分を襲撃することも、もちろん必要なことであり、しかも勝利することのできるものである。われわれが、敵の一翼の一部分を襲撃するばあい、兵力の対比ではやはり優勢をもって劣勢にあたり、多数をもって少数に勝つという原則が適用される。絶対的に劣勢なばあいとして、たとえば遊撃隊が白軍の大部隊を襲撃するときには、その一小部分を襲撃するだけであり、同様に上述の原則が適用される。
 大軍を一つの戦場に集中して戦うと、地形、道路、給養、駐屯地などの制約をうけるといういいかたも、事情のちがいによってみなければならない。赤軍は白軍にくらべて、もっと大きな困難にたえることができるので、これらの制約は、赤軍と白軍とでは、その程度にちがいがある。
 われわれは少数をもって多数にうち勝つ――われわれは、全中国の支配者にむかってこのようにいう。われわれはまた多数をもって少数にうち勝つ――われわれは、戦場で戦っているそれぞれの局部の敵にむかってこのようにいう。このことは、もうなにも秘密ではなく、敵はたいていわれわれの気性をよく知っている。しかし、敵はわれわれを勝利させなくすることも、自分の損失をさげることもできない。なぜなら、われわれがいつ、どこでそうするのか、かれらにはわからないからである。その点、われわれは秘密をたもっている。赤軍の作戦は一般には奇襲である。


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